2025年11月27日木曜日

映画:宝島(2025)

映画「国宝」を見た翌日、「宝島」を見た。「宝島」は直木賞作家の真藤順丈による小説が原作だ。私はこの本を出版と同時に読み、その内容に深く感動して自身のブログにも書いたほどだ(https://diaryofjerry.blogspot.com/2019/10/2018.html)。その作品が映画化されてすでに公開されているとは、最近まで知らなかった。両作品とも3時間に及ぶ大作だが、「宝島」には「国宝」の2倍以上の製作費がかけられたらしい。それにもかかわらず、「国宝」の評判に比べると「宝島」の評判は圧倒的に低い。

なぜそうなったのかを考える上で、注意すべきことがある。タイトルに「宝」の文字が入っているものの、両者の映画はまったく異なる性質を持っている。「国宝」は歌舞伎役者の人生や関係者との対立・親睦を描いており、映像作品としての美しさも手伝って極上のエンターテインメントに仕上がっている。一方、「宝島」は米国占領時代の沖縄の現実を描いた社会ドラマであり、その内容は非常にシリアスである。

「宝島」が描き出す、まるで発展途上国のような当時の沖縄の現実は、これまであまり取り上げられてこなかったように思う。あまりに激しく、悲しい現実だからだ。しかし、小説「宝島」はこの問題に真摯に向き合い、東京出身の作家であるにもかかわらず方言を巧みに使い、見事な長編小説に仕上げている。登場する5人の主人公、オンちゃん、グスク、レイ、ヤマコ、ウタをはじめとするすべての登場人物が、当時の沖縄の人々の立場や考え方の違いを象徴的に体現している。しかし、彼らが共通して抱き続けるのは、沖縄の厳しい現実をなんとかしたいという根源的かつ人間的な欲求であり、それがこの物語の主題である。

アメリカ兵にひき殺されても、小学校に戦闘機が墜落しても、占領下の沖縄には自治権がなかった。戦前の沖縄は日本の一部であるにもかかわらず、太平洋戦争の戦場となり、住民の4人に1人が亡くなった。しかも、そのあとの長い占領時代が続いた。さらに、それが終わって本土復帰した今でも、多くの基地が存在し続けているのは周知の通りだ。したがって、この映画は少し前の沖縄を舞台にしているとはいえ、今日的な問題としての性質をそのまま受け継いでおり、それがこの映画を見ることの意義である。「国宝」にはそのような社会的視点はない。本質的にテーマにしていることが違うのだ。

長い原作を映画化するに際して、『宝島』もずいぶん苦労したのではないだろうか。当時使われていた沖縄の方言が多用されていることも難解さに拍車をかけているが、これは公開からしばらく経って、字幕を付けることにより解消された。この字幕がなければわかりにくいだろう。しかし、字幕があってもこの小説を読んだことがある場合と比べると、やはりストーリーの複雑さは否めない。

共通の目的があった初期の「戦果アギヤー」からしばらく経って、3人の進む道は少しずつ分かれていく。彼らを含め、その周りにいるコザの人たちや米軍関係者、日本政府関係者など、それぞれの立場が微妙に異なることは今日の沖縄の複雑な政治状況にそのままつながっている。だからこそ、その違いをもう少し強調すべきだったように思う。

行方不明になったオンちゃんを追う3人は、それぞれ異なる道へ進むが、孤児として花売りをしていた少年ウタによって結びつけられ、共通の目的であるオンちゃんの消息を長年にわたって探ろうとし続ける。その間にコザ暴動や毒ガス武器配備の隠蔽事件などが次々とおこるが、その多くは事実に基づいている。映像が作り出すどこか中南米の植民地のような基地の街でデモが起こり、車がひっくり返されて火がつけられ、「アメリカ出ていけ!」とデモが叫ぶ。メジャーな映画でこのような作品が、あっただろうか?

しかも、この映画は沖縄の人によって書かれたわけではなく、沖縄の俳優によって演じられているわけでもない。それにもかかわらず、真正面から沖縄の問題を取り扱っていることに震えるような感動を覚える。多大な費用がかけられ、気鋭の監督が指揮し、第一人者の俳優が演じるというのは、恐ろしいほどに見事だし嬉しい。

しかし、小説を読み終わったときに感じるのは、沖縄の海に吹くすがすがしい風だ。その心地よい、どこか寂しい気持ちを内に秘めた中に、三線が鳴り響き、エイサーが踊られる。海が青ければ青いほど、沖縄の悲しみは深く、大きい。この沖縄の情景を、最後にもう少し表現してほしかった。

だが、そういったことはあと一歩で満点になるテストに難癖をつけるような話だ。もっと多くの人が見てほしいと思う映画であるからこそ、あとわずかな改善がなされるといいなと思う。あるいは、この映画を機に、今まで正面から語られてこなかった現代の沖縄史を、もっと多くの人が取り上げていくことになればと思う。それほどの重量感を持つストーリーは迫真に満ち、真摯な感情表現に魂を揺さぶられるが、見終わると不思議と気持ちが浄化されたような気分になる。そんな魔法のような話を「国宝」を上回る時間、まったく飽きずに一気に見ることができる。

2025年11月26日水曜日

映画:国宝(2025年)

今年公開された映画の中で最大のヒット作である「国宝」は、吉田修一による同名の小説を原作としている。私は原作を読んでいないが、映画で見た本作は、大変見ごたえのあるものだった。その理由は、二人の主役を演じた俳優(吉沢亮、横浜流星)の名演技に加え、ツボを押さえた大胆な脚本の見事さと、アップを多用した集中力あるカメラワークにあったと思う。結果的に、小説では味わえない映画作品としての成功を収めているのだろうと感じる。

長崎で始まるストーリーは、すぐに関西が中心となって続き、最後に少し東京へも移る。俳優はみな関西人ではないが、セリフのほとんどが関西弁であることは、大阪出身の者として何か嬉しい。歌舞伎はそもそも上方で発展したから、ということもある。登場する演目に「曽根崎心中」や「二人道成寺」のような、関西を舞台とするものも多く登場する。

私は歌舞伎を見たことはないが、実は幼い頃に大阪ミナミの新歌舞伎座で、祖母に連れられて見たことになっている。まだ4、5歳の頃だった。幼い私は開演前のわずかな時間、花道の上で遊んでいたらしい。やがて係員が来て、「そろそろ降りて下さい」と言われた。私はそのことを良く覚えていて、もしかするとそれが最も幼い頃の記憶ではないかと思う。

その歌舞伎の女形を目指す若い二人の若者が、本作品の主人公である。あまりに多くのことが語られているので、その詳しいあらすじをここに書くことは控えよう。私が書きたいのは、その3時間にも及ぶ作品をみた簡単な感想だ。これまで映画のことなど書いて来なかったし、造詣が深いわけでもない。年に数本見ればいい映画鑑賞経験の中で、しなしながら本作品については少し書き留めておきたい衝動に駆られている。その理由は、おそらく作品が持つ解釈の多面性にあると思う。どこをどう切り取って話すにしても、それなりに深みのあるものになっていく作品は、さほど多くはない。

オペラと同様、長い小説を映画化するにあたって、映像として残す部分のみを最小限とし、一方で、歌舞伎の演目と主人公の心理描写をシンクロさせつつ、綺麗で鮮やかなカメラワークを多用した。その結果、多様な解釈の余地を残しつつ完成度の高い作品に仕上げることに成功した。もしかすると、二人の主人公の心理的な側面、交錯する友情や対立を、もう少し丁寧に描くことができたかも知れない。しかしそれでは、3時間の尺に収めることなどできなっただろう。かといって連続ドラマ化すると、集中力が失われぼけた作品になる。そのギリギリのせめぎ合いの結果、小説なら細かく描かれているであろう部分は、見る者に委ねられることになった。映像作品としての完成度に重点を置くことで、結果的に小説にはない魅力を得たような気がする。

二人は同い年、しかも少年時代の俳優を含め顔つきがそっくりである。二人が長い準備期間において獲得した歌舞伎独特の所作や円舞の技術は、見事というほかない。カメラはそれらを追い、しばしばアップで写す。歌舞伎好きの人が作ったのだろう。このような伝統芸能を主題としながら3時間もの間、息をつかせないほどに観客の目を惹きつけていく手法には、ただ驚くばかりである。

テーマは血筋が才能か、といったことだが、60歳近くになる者にとって、まあそれはどうでもよいことのように思えてくるのが正直なところ。まだ若い彼らは、向上心も劣等感も強く、そのことが嫉妬を生み、情熱を喚起する。私はそのような若者の持つエネルギーやどうしようもないやるせなさを思いつつ、そうか、この映画は多くが男性の論理に貫かれている、今では少ない作品であることに気付いた。つくづく男の人生は過酷だな、などと思った。女性の視点で見ると、また異なった見方があるのだろうけど。

6月に公開されたにもかかわらず、11月末になっても多くの観客を集めて上映されている。私が見たのは日曜日だったので、広い映画館はほぼ満員。迫真の演技に見とれながら、細かいところであの人はその後どうなったのか、なぜここはこのようなことになるのか、など多くの疑問が生じた。その答えを見つけるのは、見る人にかかっている。何度も細かく見れば、ヒントがあるのかも知れない。しかしそうしなくても、そして歌舞伎のことなど何の基礎知識がなくても、十分に楽しめる作品である。

2025年11月24日月曜日

NHK交響楽団第2050回定期公演(2025年11月21日サントリーホール、ラファエル・パヤーレ指揮)

もともとN響のB定期は、やや玄人好みの選曲だと思っていた。従来からN響では、同じ指揮者が約1か月間滞在して、3つのプログラム計6回の公演を指揮する。公式には記されているわけではないが、Aプロは指揮者の十八番、Cプロはポピュラー作品が中心に組まれているものと思われる。しかしN響もいまや世界的指揮者を多く招聘することによって、長い期間マエストロを、極東の島国に拘束しておくことは困難になったように思われる。今シーズンで言えば、移動に伴う疲労が心配な超高齢のヘルベルト・ブロムシュテット、首席指揮者のファビオ・ルイージ、それにウクライナ戦争であらゆるポストを辞任したロシア人、トゥガン・ソヒエフを除けば、毎回指揮者が入れ替わる。11月はAとCが名誉音楽監督のシャルル・デュトワで、Bのみベネズエラ人のラファエル・パヤーレとなっていた。

デュトワのC定期は世紀の名演だったと聞いている。ここで演奏されたラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)には、私もできれば行きたった。しかしあの広いNHKホールで、演奏を堪能しようと思えば1階席の中央に座る必要があり、それには座席の確保が困難な上、席自体がやや狭く視界も良くない(端の席はほぼ絶望的)。しかも夜の渋谷の雑踏、もしくは休日の代々木公園のお祭り騒ぎの中を会場に向かうのは、私にとってもはや苦行である。そういうわけで、最近NHKホールに出向くのは避けている。

そのデュトワがB定期も振るかと思いきや、そうではなかった。年間会員としてはちょっと残念だったが、こればかりは仕方がない。そういうわけで今月は、パヤーレの登場である。パヤーレを私はかつて一度聞いている(2017年)。ところが今回配布されたプログラム・ノートによれば、彼のN響への初登場は2020年2月と記されている。これはどういうことかと思ったら、定期公演の話であった。私が出かけたのは「N響『夏』」と呼ばれるコンサートで、ここはいわば若手指揮者による名曲プログラム。実はほとんど印象は残っていないが、聞いたという事実は覚えていたので、まだましな方である。

そのパヤーレも、今やモントリオール交響楽団のシェフに抜擢されたようだ。ベネズエラ生まれと聞けばドュダメルを思い出すが、独自の音楽教育プログラム「エル・システマ」のホルン奏者出身とのことである。しかし今回のプログラムは、新大陸の音楽ではなくドイツ音楽、それもシューマン、モーツァルト、それにリヒャルト・シュトラウス。言わば王道の選曲と言うべきか。だから曲は名曲ばかりでも、これは指揮者にとっての意欲的プログラムであると思われた。B定期としてのこだわりは、そういうところだろうか。

さて、シューマンの「マンフレッド」序曲は、かつてフルトヴェングラーのCDで聞いたくらいで、ほとんど知らない。シューマン独特の、あのくすんだ音色がN響から聞こえてくる。指揮はこの曲だけ完全な暗譜で、指揮台は置かれていなかった。特に心に残るようなわけでもない平凡な演奏が終わって、舞台左奥に置かれていたピアノを、どうやって舞台中央に運ぶのか、私はこれまで何度もサントリーホールに通っているが、ちゃんと見るのはこれが初めてである。

舞台は階段状になった半円形の台が設えてあり、指揮者を中心に後方の奏者ほど高い位置に並んでいる。この階段を乗り越えるため、何と舞台の一部の段差が電動装置によって切り取れたように沈み、そこの部分だけがフラットになったのだった。その作業のため、第1及び第2ヴァイオリンのセクションは一時退場を余儀なくされた。このような舞台の準備作業を、私は興味深く見ながら、次のプログラム、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を待った。

再び舞台の階段が正常位置に戻り、ヴァイオリン奏者の椅子が並べられると、団員たちの一部が再登場。ピアノのC音を合図にチューニングが開始された。程なくしてソリストを務めるエマニュエル・アックスと指揮者が登場した。

アックスと言えば、私は子供のころから録音で知られているアメリカ人のピアニストで、ヨーヨー・マと競演した録音などで良く知られているが、実演で聞くのは実はこれが初めてである。そしてモーツァルトのピアノ協奏曲第25番もまた、実演で初めて聞く曲である。この曲はハ長調で書かれており、モーツァルトのハ長調と言えば、「リンツ」や「ジュピター」などが思い浮かぶ。いずれも壮大でストレートな華やかさを持った曲で、誤解を恐れずに言えば、奏者を選ぶというか、なかなか難しい曲に思われる。

だからかどうかはわからないが、この25番のピアノ協奏曲は、いい曲と思うのだが演奏されることは少ない方だ。パヤーレはその最初音を、ふわっとしてスッキリとした音色で始めたのは印象的だった。アックスのピアノがまた、モーツァルトに相応しく、雑味なく響く。全体に好感の持てる演奏ではあったのだが、それ以上でもそれ以下でもない。もしかするとパヤーレの音作りは、やや雑なところがあって、細やかな音の表情や音色の変化に乏しく、N響はうまく取り繕ってはいるがちょっと平凡な演奏に終始したように感じた。しかしアックスのピアノは何とも素敵で、その真骨頂はアンコール曲(ショパンのノクターン第15番)で示されたと言って良いだろう。

休憩を挟んでオーケストラが倍増され、舞台上にずらりと並んだ姿は壮観だった。リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」と言えば、毎年数多くの公演がなされる名曲中の名曲だが、たしかにこの曲ほどオーケストラの醍醐味を味わわせてくれる曲もない。にもかかわらず、私はかつて2回しか聞いていないのは意外であり、しかもそのうちの1回は、すでに忘却の彼方にあった。今回検索してみると、2020年1月にN響で聞いている。しかもこの時の会場もサントリーホール、指揮はファビオ・ルイージ、ゲスト・コンサートマスターはライナー・キュッヘルとなっている。

私が聞いた位置が悪かったのか、それとも体調が悪かったのか、あるいはこの曲についてまだあまり多くを知らなかったのか、そのあたりはよくわからないが、その前に初めて「英雄の生涯」を聞いた時の読売日本交響楽団による演奏会(2015年3月のサントリーホール、指揮はジェラール・コルステン)はよく覚えているので、ルイージの演奏はどこか物足りなかったのかも知れない。

さてその「英雄の生涯」のパヤーレだが、これは前半のプログラムにおけるやや精彩を欠いた演奏に比べると、少なくとも私の個人的な印象としては悪くなかった。というよりも、結構よかったんじゃないかと思っている。もしかするとパヤーレの音は、どこかフランス風のオーケストラのように平べったく、しかしながら色彩感は豊かであった。この結果、何とも言えないようなムードを醸し出していた。全体として見た場合に、ずっとうっとりとして自然に身を任せておけばいいような気分が私を被い、それは最後まで続いた。

なぜかとても心地が良く、聞いているだけで気持ちが満たされるような感覚は、オーケストラの技量によって作り出されたのか、指揮者の意図するところだったかのかはよくわからない。しかしこの丸で韓国ドラマを見る時のような、魔法のようにしっとりとした演奏は、まぎれもなくオーケストラを聞くことの喜びを感じさせてくれた。饒舌なヴァイオリン・ソロを弾いたコンサートマスターは、長原幸太だった。そしてファゴットもホルンも小太鼓も、十分に巧く、そつがない。そのことが演奏に余裕を与え、指揮者が大きな身振りでドライブする姿が上滑りすることもなかった。

客席全体がこの演奏を良いと感じたかどうかは、正直なところわからない。N響の定期となるとほぼ会員で埋まっているから、皆相当耳の肥えた人たちである。そしてこの演奏にはブラボーはなかった。感動しているのは私だけかとおもった。ところが、消えかけていた拍手がわずか数人に減ったにもかかわらず、それを熱心に続けている人がいる。そしてその拍手は、あろうことか次第に大きくなってゆき、オーケストラが退場してしばらくしても絶えることはなかった。よく見ると、私の隣の席のいつもの夫婦も、珍しく退場せずにずっと拍手している。

「一般参賀」などと揶揄されるコロナ禍後の指揮者に対するちょっと大げさな反応には、少し辟易している。この若手指揮者に対し、東京のリスナーは良い印象を持って帰ることを土産に、今後の成長を見守りたいという老婆心に導かれている要素がないとも言えないかも知れない。しかし、私はまた自分がそうであったように、この演奏には(すくなくとも後半の「英雄の生涯」に限れば)、実にいいものだったと素直に思った人が、一定数いたということだ。それを証明するかのように、長い時間の後、再び舞台に指揮者が登場した時には、多くのブラボーが叫ばれたのだ。

そもそも我が国には、クリスマスを祝う伝統はない。にもかかわらず、いやだからこそというべきか、東京では早くもクリスマス・ムードになっていた。サントリーホール前の噴水にもクリスマスツリーがお目見えし、階上には赤と緑の垂れ幕が下がっている。一層華やいで見えるこの頃、いつのまにか11月も後半になって師走の足音が聞こえてきている。長く夏が続いた今年は、もう少し秋を楽しみたかった、という本音を言い出すまもなく、来る年の準備に追われるのだろうか。そいうえば、在京オーケストラの来シーズンのプログラムが出そろった。会場前で配布される大量のチラシの束を繰りながら、早くもカレンダーに注目のコンサート情報を書き込んでいる。

2025年11月19日水曜日

ハーゲン四重奏団演奏会(2025年11月13日トッパンホール)

地下鉄有楽町線の江戸川橋駅を出て首都高速5号線の高架をくぐり、神田川沿いにしばらく歩くとTOPPANホールがある。ソロ・リサイタルや室内楽向けの小さなホールだが、今年25周年を迎え、毎年数多くのコンサートが開かれているから、そこそこ定評のあるホールと言ってもいい。同じ規模のホールは都内各地にあって、銀座の王子ホールのように単独のホールもあれば、東京文化会館小ホールやサントリー・ホールのローズ・ホールのように、大ホールに併設されたところもある。私は、主に室内楽が専門のTOPPANホールに行くのは、実は初めてである。

少し不便な場所にありながら、世界的な演奏団体がここを使用することは多い。そして世界屈指の四重奏団であるハーゲン四重奏団も、ここの常連である。いやそれどころか、解散を決めた彼らは、TOPPANホールを最後の公演地とすることを決めたそうだ。そのファイナル・プロジェクトの第1弾が催されることとなった。

私は滅多に室内楽の演奏会には行かないが、こうなると話は別である。一応クラシック音楽を趣味とする人間として、ハーゲン四重奏団の演奏会に行くのも悪くない、と思った。そもそも熱心な聞き手からすると、何とも不謹慎な話である。言わばウィーン・フィルの演奏会にだけ出かける俄かクラシック・ファンと同じである。そしてウィーン・フィルのチケットが取りづらいのと同様に、ハーゲン四重奏団のチケットも発売即完売。私が辛うじて手にできたのは、3日ある演奏会の最終日。クラリネットにイェルク・ヴィトマンを迎えたクラリネット五重奏曲のみの演奏会で、その前半には彼自身が作曲した作品が日本初演される。

このような玄人好みの演奏会に、私は仕事を早々に切り上げてしばし睡眠をとり、満を持して出かけた。何せ静寂さが際立つホールで、うとうととしようものなら大変である。そしてまさしくその通りの聴衆で、これほど品のいい客層の演奏会に出くわしたことはない。身なりがよく気品が漂っている。かといって、熱狂的な感覚むき出しの人々とも違う。さらには、このヴィトマンが作曲したクラリネット五重奏曲は、何とレントが40分も続くというではないか!まさにこれはTOPPANホールの聴衆向けの音楽で、沈黙と音楽との境界線を行くような作品だそうである。

プログラム・ノートによると、楽譜上で"TOPPAN Staccato"と敢えて記載されている部分がいくつかあって、ここを最弱音で弾くことが求められているそうである。それを他のホールでどう演奏するのか、よくわからないが、この曲はこのホールの音色に触発されて作曲された。そして私が初めて感じたTOPPANホールの音響は、これまでのどの小ホールにも増して素晴らしいものであったことは確かである。舞台に立つ演奏家も、ホールの持つ響きの良さと、静かな聴衆との間いに生じるインティメントに感応し、このような音楽の作曲、演奏に及んだのだろう。

ハーゲン四重奏団は、ザルツブルクのモーツァルテウムの奏者で結成された四重奏団であり、その構成は4人の兄弟である(現在、第2ヴァイオリンは交代)。1981年には活動を開始しているというから経歴はかなり長いが、ウィーンの伝統を受け継ぐ四重奏団かどうかはわからないが、アマデウス四重奏団、アルバン=ベルク四重奏団のあとを受け継いだオーストリアのグループとして、ドイツ・グラモフォンなどに多くの録音がある。私もベートーヴェンの何曲かを持っている。そのベートーヴェンを本当は聞きたかった(第2夜)が、これは仕方ないだろう。

四重奏団に混じってクラリネットのヴィトマンが登場する。丁度私の位置(前から4列目の左端)からは、そのクラリネットだけが、第1ヴァイオリンの影になって見えない。音楽の始まりは、まさに静寂からの境界ギリギリの音の「生まれ」で、その瞬間から何かが始まりそうな予感が果てしなく続く。レントといっても音の強弱はあり、現代音楽でもあるからそれまでに聞いたことのないような音色に、新鮮なものが詰まっている。弦楽器の様々な奏法は、長い歴史のなかで育まれ、多様にして多彩かつ良く知られているが、クラリネットとなると私などはあまり馴染みがない。それで、この40分余りの間中、私は興味津々であった。

クラリネットという楽器の表現力の広さに感心したのだが、中でもまるで尺八のような音で、幽玄なムードがただよう部分など。どこか能舞台を見ているような錯覚に捕らわれた。かと思うと、やはりそこは西洋音楽の伝統に回帰するような部分もある。クラリネット五重奏曲と言えば、何と言ってもモーツァルトとブラームスが2大巨峰で、この2つの曲に太刀打ちできるものはないと言ってもいいくらいである。当然、作曲者はそのことを意識するわけで、これらの曲のモチーフが使われているようだ。

熱心な聴衆は音楽が終わると、盛んに拍手をしてブラボーさえ飛び交った。作曲家を目指す学生や、現代音楽に興味のある聞き手が揃っていたのだろう。にしても、このような音楽に生で触れることは、もうないだろうと思った。やはり音楽は一期一会の芸術であり、そのことがいい、と年を取ると感じるようになった。

20分の休憩時間は、階上のカフェで過ごす。そして後半のプログラムは、ザ・クラリネット五重奏曲とも言うべきモーツァルトである。何度も聞いて耳にタコができているような曲だが、勿論私にとっては初めてのライブ。有名なメロディーが始まった。その演奏は終始安心して聞いていられる、完璧の、まさに夢のような時間だった。この曲に触発されたブラームスは、それ以上に素晴らしいクラリネット五重奏曲を残している。この2つの曲をカップリングしたディスクは多い。

ハーゲン四重奏団に委託され2009年には作曲されたヴィトマンの作品が、今日の白眉だったかも知れない。その意味では、モーツァルトの有名な曲は、まるでアンコールのように気さくな気分で、奏者がどう考えていたかはわからないが、終演後にアンコールはなかった。モーツァルトの方が、有名曲だけあって聴衆の拍手は大きかったが、前半にあったようなブラボーは聞くことがなかった。

このフィナーレ・シリーズは今後も続くようで、今回はパート1と記されている。私はそんなこと知らなかったので、ちょっと何か拍子抜けである。だがTOPPANホールの音響の素晴らしさと、ハーゲン四重奏団の生の演奏、それに新しいクラリネット五重奏曲の日本初演に、満足な一夜であった。

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」(The MET Live in HD Series 2025–2026)

荒唐無稽なストーリーを持つ歌劇《夢遊病の女》を理解するには、想像力が必要だ。主役のアミーナ(ソプラノのネイディーン・シエラ)は美しい女性だが、孤児として水車小屋で育てられた。舞台はスイスの田舎の集落で、そこは閉鎖的な社会である。彼女は自身の出自へのコンプレックスと、閉ざされた環境...