2019年10月15日火曜日

読書ノート:「宝島」(真藤順丈、2018)

生まれ故郷の大阪、あるいは関西を舞台にした小説のいくつかに限って、このブログにその感想などを書き記してきたが、この「宝島」についてはどうしても触れておきたいという思いが、読後半年以上たっても冷めやらず、次第に記憶が薄くなってしまう前に、思いついたことなどを書いておこうと思った。初めて読んだ沖縄の小説。しかも戦後の占領地時代を舞台にしたもの。正直に言おう。基地問題や戦争の爪痕を考えるという意味で、これほど気乗りしないものはなかった。沖縄の問題は、本土に住む日本人にとっても、他人ごとではない重みを持っている。だが、そのことに正面から向き合い、正しく理解しようとすればするほど、その難しさ、どうしようもない重さを思わざるを得ない。つまり早い話が、避けて通りたくなる。

基地問題、あるいは沖縄問題を扱ったルポやノンフィクションは少なくない。だが、それらは、すでに沖縄問題に関心を抱いている人にはアピールしても、そうではない普通の人々には、なかなか伝わらない側面を持っているように思う。沖縄に関係の深い人、あるいは沖縄の人によってこれらが語られることは重要ではあるが、一方で沖縄に全くと言っていい程縁のなかった作家がいて、彼が沖縄の方言を駆使しながら見事な小説を書いたのだ。

作者は真藤順丈。東京生まれ東京育ちの彼が、どうして沖縄を舞台にした小説を書き、その鮮やかなタッチで感動的な作品を生み出すことになったかは、実のところよくわからない。この直木賞を受賞した作品が持つ意味は、しなしながら非常に大きい。沖縄に縁のない小説家が書いた沖縄の物語は、勿論小説である。そのことが沖縄問題を考えるうえで、大層身近に感じられるのである。ストーリーはフィクションだが、そこに登場する人々は実在だった人物もいるし、それに本作品はSFではない。従って、戦後の沖縄はこんなふうだったのだと説得させるものがある。その残酷なまでの事実を、作者は若者の群像の中に生き生きと描き出す。その文章の迫力。

私はこの小説を家の近くの書店で購入しようとしたときの店員の顔が忘れられない。「あなたもこの小説を読むのですね!」という共感に満ちた表情が見て取れた。分厚い小説も読み進むと次第にその力に体が馴染んでいく。さながらスポーツのような感覚である。

登場人物はコザの「戦果アギヤー」のリーダー「オンちゃん」と弟の「レイ」、親友の「グスク」、そして恋人の「ヤマコ」。「戦果アギヤー」とは米軍基地に忍びこんで、物資を略奪することを生業とする人たちで、占領下にあった沖縄ではこういう人たちが、地元のヒーローだったようだ。舞台はその「戦果アギヤー」たちが、夜の嘉手納基地に忍び込むところから始まる。

私はここで物語の内容を書きたいとは思わない。これから読む人に対し、いわゆる「ネタばれ」をしてしまうことは避けたいという理由もあるが、他にも多くの書評などが出ているだろうから、敢えてそれを繰り返す必要はないと思う。私はいつも聞いていたラジオ番組の書評のコーナーで、アシスタントの女性アナウンサーがこの小説を読み始め、まだ三分の一ほどだけど興味深くなってちょっと何か引き込まれていくのです、というようなことを語っていたことが、この小説を知るきっかけとなった。直木賞の受賞作は芥川賞と同時に発表されたので、芥川賞の発表会見中に直木賞の受賞が伝わり、「宝島」に決まったことに会見中の選考委員が敢えて触れ、「これはいい作品です」とコメントしたのをテレビで見たのを思い出した。

だが、読書の直接の引き金になったのは、意外なことだった。知り合いの子供が通う学校の図書だよりに、作者がその学校の出身だと紹介されていたことだ。早速私はこの500ページ余りに及ぶ単行本を買うために、書店へ赴いた。平積みされていたその一冊を持って帰り、毎日数十ページづつを読むことにしていたが、とうとう後半は一気に読み通すことになった。読後の感動は、何と表現したらよいのかわからない。ただ胸にジンジンと迫るものがあって、それが数日の間続いた。

沖縄の問題を扱いながら、その内容をこんな風に描いて見せることが、できるのか、と思った。そのさわやかな気持ちは、あの沖縄に吹く風のように暖かかった。抜けるような青空が、かえって戦地となった残酷な歴史を、静かによみがえらせるように、小説というものは、登場人物を通して、その複雑な問題を多面的に示すことになる。

沖縄市、というのがコザのことだが、ここの嘉手納基地の前の通りに行った時の雰囲気は私も忘れることができない。狭い路地を入る混むと、生活の匂いが立ち込める。その周りに広がる歓楽街が、終戦直後から続く植民地の雰囲気を残している。世界中の米軍基地の街、日本にも占領時代には国中に「基地の街」は存在し、今もっていくつかの土地はそのままである。だが沖縄の問題は、とりわけ複雑である。それは、琉球という独自の政治と文化を育んで来た歴史にも直結し、米国にも日本にも、どちらにも見捨てられるのではないかという思い、あるいはそのどちらでもないという誇り、そういった相反する感情の二面性。この錯綜した心理状況を語るうえで、小説ほど適したものはない。それを東京の作家がやった。そのことにこの小説の特別な意味があるだろう。

沖縄がたどった過酷な運命は、決して単純に説明できるものではない。だからこそ、個々の人間の、異なる人生によって様々な視点が存在し得る。同じ街で育った幼馴染が、「グスク」が警官に、「ヤマコ」が教師に、そして「レイ」はテロリストへと違う道を歩みながらも、同志として行方不明の「オンちゃん」を探し求めることに、それは端的に表れている。そして今でも米国軍人と日本人の間に生まれた人生の存在に気づかされる時には、実際に「ヤマコ」や「グスク」や、それに「ウタ」が、今でもそこに暮らしているような感覚にとらわれる。

読書を終えてから半年以上が過ぎた。今思い出して書けるのは、このくらいだ。読書直後だったら、もう少しいろいろなことが書けたようにも思う。記憶が風化していくのは残念でならない。だが、この小説を読み終わった時の、あの何とも言えないような気持ち・・・清々しくも泣きたくなるような・・・だけは、私が旅した3月の、快晴の風景と共に、まだ心のどこかに残っている。

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