2024年8月27日火曜日

過去のコンサートの記録から(プロローグ)

私はこれまで、計392回のクラシック音楽演奏会に出かけている。これは、仕事や家庭を持つ一人の音楽ファンとしては多い方だと思うが、経済的、時間的なゆとりのある方や、音楽関係者と比べるとけた違いに少ないだろう。人生最初のコンサートが1981年のことだったから、42年間に年平均9.3回という計算になる。このブログを書き始めたのが2012年のことで、それ以降の演奏会については詳細な感想を記してきた。またオペラについては、それ以前に見た公演を思い出しながら記述をした。残る1981年から2012年の間の約30年間のコンサートについては、良く覚えているものもあれば、記憶にないものもある。しかし私は、それこそ最初から誰の演奏で何という曲を聞いたか、最小限の記録をしてきたので、ある程度振り返ることができる。いつかやろうと思っていたことを、ここで一気に記しておきたい。

だがその前に、自分のお金で出かけた最初のコンサート(1981年12月)までの音楽体験について、思い出しながら少し書いておこうと思う。

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特に音楽家の家系でもない私の家に、祖父母が所有いていたVictor製の古いステレオ装置があった。独立した2台のスピーカーとターンテーブル、アンプ、チューナーが一体型になった、割に大きなものだった。ここで聞けるのは、SP、EP、それにLPのアナログ・レコードだった。SPレコードには江利チエミの歌謡歌や軍歌、さらには柳屋小さんの落語などがあったように記憶している。78回転という高速で回るレコードは重く、しかもわずか数分で片面が終わり、盤面を裏返す必要があった。

音声は当然ノイズを伴ったモノラルで、当時の水準からしても古色蒼然としており、これをじっくり聞く気はしなかった。むしろ私はドーナツ盤のレコードを買ってもらって、「帰って来たウルトラマン」や「NHKみんなのうた」のような音楽を聞いていた。まだ幼稚園の頃だったと思う。小学生になって私の通う地元の小学校には各教室に、簡易なポータブル式のレコードプレーヤーがあった。休み時間になると奪い合うようにしてこれに群がり、当時流行していた「黒猫のタンゴ」などを聞いたのを覚えている。

これらはいずれもクラシック音楽ではない。最初のクラシックの経験は、その小学校1年生の時、猛暑の体育館で聞いた地元のオーケストラの演奏だった。初めて聞く生の音楽に、私はとても興奮した。この時聞いたモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が、記憶に残る最初の西洋音楽体験だった。

クラシックのLPレコードは、我が家にも数枚あった。けれども、それらを再生する装置がなかった。ある時それらのレコードを、満足いくステレオ装置で聞いてみたい、と父は考えた。確か私が9歳の頃、最新のVictor製コンポが我が家に届いたのだ。出入りしていた日立のショップにたのんで組んでもらったようだった。だが私は、それに勝手に触れることを禁じられた。盤が汚れたり、針が痛むことを恐れたのだろう。仕方がないので親に頼んで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のレコードをかけてもらった。するとそれまで聞いたことのない生々しい音楽が流れ出てくるではないか!これが最初の録音メディアによる音楽体験で、演奏はゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルのドーナツ盤だったということがわかっている。

剛直にしてしなやかな音楽は、私を一気にクラシック好きにした。そこでもう少し長い曲を聞いてみたいと思った。クラシック音楽は一般に長く、1時間にも及ぶ曲を物音立てず静かに聞くものだ、という観念があって、それでも飽きない音楽とはいったいどういうものだろう、と思った。私は一枚のLPをリクエストした。それはベートーヴェンの「英雄交響曲」で、ジャケットには田舎を散歩するベートーヴェンの険しい表情が描かれていたように思う。演奏はブルーノ・ワルター指揮コロンビア管弦楽団。そしてこれを最後まで聞き通したのだった。小学校3年生の時だった。この演奏(というか曲)は私を一気にクラシック好きにした。今でもCDで買いなおすなどして手元に持っている。ただ録音のせいか、再生装置のせいか、平べったい印象の演奏で、何か感動したというよりは50分にも及ぶ曲(しかも「エロイカ」)を最後まで聞いたという優越感に浸っていたように思う。

私が音楽を聞いて喜ぶのを見て、母は私を初めての演奏会に連れて行ってくれた。それは彼女もかつて歌ったことのあるアマチュア・コーラスが合唱を務めるベートーヴェンの「第九」で、外山雄三が指揮する大阪フィル。この時初めてコンサート・ホールというところに行って、長時間静かに座っているという経験をしたことになる。何やらわからないまま終わったが、最後に大きな拍手に包まれた演奏だったことを覚えている。年末と言えば「第九」、「第九」といえば年末で、大阪でも数多くの「第九」演奏会が催されていた。中之島にあるフェスティバルホールからの帰り、北新地から曽根崎まで歩き、美味しい中華料理を食べた。たしか小学校5年生くらいだった。

この頃になると自由にステレオ装置を触ることができたから、私は家にあった数十枚のレコードから、モーツァルトやベートーヴェンの交響曲を中心に、様々な曲を聞いていった。モーツァルトはジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団による質実剛健そのものの演奏、ベートーヴェンは第3番(ラファエル・クーベリック指揮ベルリン・フィル)、第4番(オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管)、第5番(アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC響)、それに第9番(ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管)、ベルリオーズの「幻想交響曲」(シャルル・ミュンシュ指揮ボストン響)といったものである。

中学生の私はラジオを聞くことを趣味にしていたから、クラシック音楽の多くはFM放送で楽しむことが多かった。今とは違い、それこそ一日中クラシック音楽の番組を放送しており、民放にもクラシック音楽の番組があった。カール・ベームの「ジュピター交響曲」を土曜の朝の民放FMで聞いて興奮してしまい、学校に行っても音楽が耳から離れることはなかった。

中学2年生になったとき、1年間の米国滞在を終えて帰国した父親のスーツケースの中から、当時発売されたばかりのレナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルによるベートーヴェン全集の10枚組LPがどかんと入っていた。すべてライブ録音されたこの全集こそ、私を決定的にクラシック好きにした。当時、友人が毎日のように我が家へ遊びに来ていたから、彼らにも片っ端から聞かせてはカセットにダビングして手渡した。演奏による音楽表現の違いを味わうようになったのも、このころからである。そして当時の友人を誘い、小遣いをはたいてとうとう実際の演奏会に足を運ぶことにした。と言ってもそれほど選択肢があるわけでもなく、郊外に住む私の家から会場まで一時間以上かかるから、演奏会が終わるとまっすぐに帰って来る必要があった。

私はどういう演奏会がいいか考え、そして無難な選択をした。当時我が家に来ていた新聞広告を見て、年末恒例の「第九」の演奏会の学生券を購入することにしたのである。演奏は朝比奈隆指揮大阪フィル。地元のショッピングセンター地下に新しくできたプレイガイドで、そのチケットの一番安い席を買い求めた。たしか3000円だった。当時の大阪フェスティバルホールの2階席最後列は、ティンパニーの音が視覚よりずれて聞こえるような遠い席であるのもかかわらず大勢の人がおしかけ、私の隣に陣取っていた数人の学生と思しき太った男が、コーダが終わると一斉に「ブラボー」と叫んだ。これは少し不自然な感じがした。演奏会はワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から第1幕への前奏曲に始まり、アンコールには残った合唱のみで「蛍の光」が歌われた。高校入試を間近に控え、暮も押し迫った12月30日のことだった(注)。

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(注)この演奏会、1981年だと思っている。しかし、Webで検索しても当時の演奏会に関する情報は今のところ得られていない。私にできる唯一の方法は、大阪フィルへメールを出して、当時の第九の演奏会情報を検索してもらうことである。だが、もはやそれはどうでもいい気がしている。私は1980年代の前半の中学生時代に、朝比奈の指揮する年末の第九の演奏家に行ったことは確かであり、それは私が初めて自前でチェット購入した演奏会だった。

過去のコンサートの記録から:オッコ・カム指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団(1982年2月8日、大阪フェスティバルホール)

記憶が正しければ、1981年末に朝比奈隆指揮大阪フィルの「第九」を聞いたその翌年、すなわち1982年は高校入試の年だった。大阪府の高校入試は私立・公立とも3月に行われていたから、2月とも言えばもう直前の追い込みの時期である。ところがどういうわけか私は、この頃に生まれて初めてとなる...