2012年10月20日土曜日

NHK交響楽団第1737回定期演奏会(2012年10月20日 NHKホール)

ワーグナーの4部作の楽劇「ニーベルングの指環」を管弦楽曲にアレンジした「言葉のない指環」(マゼール編)は、ベルリン・フィルによって委譲され、1987年に初演されたようだ。マゼールの指揮するCDがTerarcから出ていて、私も一度聞いたことがあったのだが、それほどいい作品だとも思わず、中古屋に売ったしまったようで手元にない。そもそも上演すれば15時間にも
及ぶ曲を短くすること自体がナンセンスで、そうであればこれは別の作品としてとらえなければならないのではないか、などと思った記憶がある。

「指環」の音楽はセルやショルティ、それにベームやカラヤンの演奏で抜粋を何度か聞いているし、全曲を通してビデオで見た経験も過去に2度はある。そして滔々と流れるワーグナーの音楽に身を浸していると、ストーリーが何世代にも亘る劇であることも加わって、時間感覚というのがわからなくなる。この世の始まりを思わせる「ラインの黄金」の出だしから、この世の終わりを意味する「ワルハラ城の炎上」までを、たった4日で上演することにも無理があるのに、さらにそれを縮めようとするとストーリーなどあまり意味をなさなくなってしまうのではないかと思っていた。

マゼールはこの編曲を行うにあたって、作曲家としては十分すぎるほどに謙虚だったようだ。ワーグナーの音楽をそのままつなぎ、ごく僅かな例外を除けば一切の音符を加えていないのだ。ではマゼールのオリジナリティは何なのだろうか。そういうことを考えながら聞いていた。

音楽は70分間切れ目なく演奏される。途中の休憩時間も休止もない。にもかかわらずNHKホールに詰めかけたほぼ満員の聴衆は、ほとんど物音も立てずに聞き入った。N響の定期でこのような満員状態は稀である。しかも演奏が終わるやいなや大きなブラボーが飛び交った。私としては音楽が消えて今しばらくは余韻に浸っていたかったのだが・・・。今日聞いていたファンは、みなワーグナーの音楽を熟知しているはずであり、熱狂的な歓声を送るような聞き手は、分別を理解しているとすれば、そのような堰を切った拍手はこの音楽には不向きであるとわかっているはずだ。だがそうではなかったところを見ると、もしかすると意図された演出なのではないか、などと疑ってみたくなる。

それはさておき、音楽は「ラインの黄金」の出だしで始まり、「神々の黄昏」の最後で終わる。ここが全曲盤の抜粋とは異なるところだ。このために一度でも実演を見た人は、その光景を思い出しながら聞くことができる。そのことがなかなかいい。「ワルキューレの騎行」や「森のささやき」、「ジークフリートのラインへの旅」「葬送行進曲」などはそのまま演奏されるから、知っているメロディーが次々と出てくる。その間の「つなぎ」が不自然ではないのは、マゼールの編曲が素晴らしいからだろう。

だが、全曲を見たり聴いたりして少しは知っていると、音楽がもうこんなところまで来たのかと少し戸惑うのも事実である。例えは悪いが、プロ野球ニュースで試合経過を見ているような感じだ。

後半はN響のまれに見る名演で、ワーグナーの音楽が3回席の奥まで轟き、フォルティッシッシモになっても美しさを維持するオーケストラと、ツボを抑えてアーティスティックに魅せる指揮のお陰で、充実した演奏だった。そしてマゼールがこの曲を、一切の休止を挟むことなくつなげた意図がわかるような気がした。通常、各劇の各幕で経験する長大なモノローグに付き合わされた観客は、睡魔や退屈感、それに座り続けることの苦痛に耐え偲びながら、さして変化のない舞台を見続けなければならない。だがその「儀式」のあとにやってくるのは、それがなければ到底得られないほどの、心の奥底からの感動である。これがワーグナーの「毒薬」だとすれば、マゼールはその「毒薬」の何%かを70分の管弦楽曲の中にも投与すべきと考えたのではないか。あれがなければワーグナーでない、と。

部分的にはどうしてあの音楽が出てこないのだろう、やっと出てきたと思ったらもう終わってしまうのか、と思うところが(特に前半部分)に多かった。少し端折ってでも、全体をつないでしまうこと、そしてオーケストラや聴衆が連続演奏に耐えうる興行的しきい値としての70分に全曲を詰め込んだ上で、音楽の自然な連続性を失うことなく、かつそれなりに感動的な構成・・・という離れ業は、やはりこのような天才系音楽家にしかできなかった、と思うことにした。

演奏が終わって秋晴れの中を渋谷まで下ると、改装したばかりのタワーレコードに行き当たった。演奏会を終えた人も大挙して押し寄せたのであろう、レジには長蛇の列であった。マゼールの指揮するベルリン・フィルの、この曲のライブ・ビデオが格安で売られていて、記念に買おうかとも思ったが、今日の演奏がテレビで放映されるだろうと思うと、それを録画すれば良いかと思って踏みとどまることにした。

2012年10月19日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第6回目(1983年8月)

気違いじみた中国地方と越美線の旅から帰宅した翌々日、私は飛騨高山までの鈍行旅行に出掛けた。8月8日のことである。新大阪から大垣を経由して岐阜で乗り換えるまでは(もっと正確に言えば美濃太田までは)、3日前の行程と同じである。だがこの時は家族旅行で、しかも私と弟だけが各駅停車で高山まで行くという、ちょっと変わった行程だった。

高山本線は何度か乗っていたし、この時も高山までの乗車で、私にとって初めて乗る区間というわけではなかった。しかも高山で一泊したあとは、父の運転する乗用車で乗鞍岳を越え、信州松本まで行くというドライブ旅行であった。

ドライブ旅行は私を鉄道の旅から開放し、鉄道では行けないような地域、すなわち乗鞍岳の山頂方面や上高地の近く、さらには信州の霧ヶ峰高原などが存在することを新めて認識させた。だが当時高校生の私にとって、鉄道旅行がもっとも身近であった。安くしかも長距離に旅行ができるのである。車は勿論運転できないし、出来る資格があっても車がない。あったとしても運転は労力を要するし危険も伴う。かといって安くもない。

当時、車の旅行はちょっとした贅沢だった。それにくらべれば、特別急行列車に乗らなければ、鉄道なら安く旅行することができた。今では死語となったワイドやミニの周遊券も豊富にあった。一方バスに乗らなければ行けないところは、バス代が高く付くために敬遠することとなる。思うに今でも我が国で鉄道ファンが多いのは、当時から鉄道の旅行が比較的安全で安価なためと思われる。鉄道は、いわばマーケティングに成功していた。それにくらべると、自動車の旅は想像を超えていた。そのようなお金があれば、私はむしろ海外旅行に行きたいと思っていた。

高山本線が下呂を過ぎる頃から、列車は川沿いの渓谷を進んでいく。ディーゼル車が上りの区間をゆっくりと走っていた。夏の日がその日もきつく、時おり渡る鉄橋から川面を見下ろすと、深い緑色の滝壺が見えた。

2012年10月18日木曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第5回目(1983年8月)②

翌日の朝は松江の旧市街を散策し、そのあと出雲大社を詣でた。出雲大社へ参詣するための支線が大社線という短い路線であった。終点の大社駅は駅舎が木造の大変立派なもので、そのものずばり出雲大社を模したものとされていた。私たちはその見事な駅舎の前で写真をとったりしたのを良く覚えている。

ところがその大社線は1990年に廃線となっているではないか。実はそのことを私は本日この文章を書くまで知らなかった。1990年というと20年以上も前のことで、大変恥ずかしいことでもある。このことは国鉄がJRになって数多くのローカル線が廃止されるに伴い、急速に私の興味を鉄道から奪っていったことを物語っている。この旅行も、私が友人にそそのかされて興味を持ち、全国を鉄道でめぐったわずか数年間の出来事の中のひとつである。

縁結びの神様で知られる出雲大社をあとにして私たちは出雲市駅へ戻り、ここから夜行の鈍行列車で京都へ帰ることにしていた。山陰本線を夜通し走る客車列車の夜行は、もちろん硬くて狭いシートで、空調もない。夏の暑い夜だったので、走ると風が入ってくるが、同時に虫も去来する。トンネルでは排気がこもって車内は曇ったようになる。そこでブラインドだけは閉めて、真っ暗な中を走っていった。餘部の鉄橋を渡ったあたりまでは記憶していたが、そのあとは全く記憶が無い。目が覚めると梅小路の機関区が見え、京都駅山陰線ホーム(たしか0番線だったか)に到着した。

夜の闇の中を、カタコトと走る客車列車の走行音は、今でも懐かしい。当時、流行り始めた携帯式の音楽プレーヤーでこの音を録音したことがある。客車列車の車内アナウンスに使われるチャイムは、ディーゼル列車や電車のそれとは違い、いい響きだった。扇風機が曇った車内の空気をむなしそうにかき混ぜ、薄暗い蛍光灯が木製の座席を照らしていた。山陰本線はこのような郷愁を誘う列車の宝庫だった。だが今ではどうなっているのだろうか。テレビドラマ「夢千代日記」に出てくるような裏日本の、行き場のないような哀しみも、坦々と走る列車の走行音によってさらに増幅された。そう言えば餘部鉄橋から列車が転落し、多くの死者を出した事故もこのあと何年か後に起こった。

京都で一部の友人とは別れ、私たちは「青春18きっぷ」のその日の有効分を使い果たすべく、さらに東海道本線を上った。ほとんど朦朧とした眠気の中を、大垣、岐阜と乗り継いで美濃太田駅に到着した。ここから越美南線の終点、北濃駅までの数時間は長良川沿いに走る。結構車窓風景のいい路線のはずだったが、混雑もあり、私は再び睡魔に襲われ、気がつくと美濃白鳥という駅に到着。終点まではわずかだった。

越美南線は越美北線とつながっていない。終点の北濃駅からは国鉄バスに乗って峠を越え、越美北線の九頭竜湖駅まで行く事になる。出発を待つ間、田舎の終着駅のまわりを散策したが、この日も大変暑かったことを覚えている。やがてバスが出発したが、このバスは猛烈な速さで坂を上り、ヘアピンの連続を振り落とされそうになりながら、見晴らしのいいダムの展望台に着いた。バスの運転手はここで少し休憩するという。この休憩時間をかせぐべく、猛スピードで運行したらしかった。もっとも途中に停留所はなく、乗客も私たちだけだったから、私はいきなはからいに感謝した。


九頭竜湖駅はまた、かなりローカルな駅だった。夏の強い日差しが照りつける中を、やがて一台の列車が到着してわずかな客を降ろし、そして私たちは再びローカル線の乗客となった。最初の少しの区間を除けば、平凡な福井の田園地帯を北上する。再び睡魔に襲われ、やがて福井駅に到着した。


福井から米原経由で向かった京都は今朝通った区間である。その区間を走る快速列車は、何とも都会的な感じで私を田舎のモードから都市のモードへと切り替えさせた。もっとも米原までの北陸本線の区間は、乗客も少なく私は冷房の聞いた車内で、心地よく睡眠をとった。福井駅で買ったアイスクリームが、とても美味しかった。

2012年10月17日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第5回目(1983年8月)①


紀勢本線を中心とした紀伊半島一周日帰り阿呆列車の旅は、その数日後に始まる山陽・山陰本線と越美線をめぐる夏の鉄道旅行の、いわば前哨戦であった。友人のN君はさらに私を、数字の8の字のように回るおかしな旅行に誘ったのだ。私はもちろん同行した。

朝大阪駅を出て姫路、岡山、福山を通り広島で1泊。大阪から今度は西へと向かうのである。山陽本線の旅は、東海道を上京する旅とはまた味わいが違う。頑張れば九州まで行く事も可能だが、それはまた次回とし、広島からは松江を目指して中国山地を横断する。芸備線と木次線を乗り換えなしで走る急行「ちどり」を使い、私たちは松江に行く。そこで2泊目。

ここまでの旅行はグループ旅行だった。私たちは各駅で途中下車をして後楽園、福山城、広島原爆ドームなどを見学することも旅の目的だった。出発したのが記録によれば8月2日となっているので、広島原爆の日の数日前にあたる。そしてその日もまた大変に暑かった。私は大阪生まれだったから、夏の暑いのには馴れていると思っていた。しかし瀬戸内特有の無風状態の暑さは筆舌に尽くしがたい。まだ朝だというのに岡山の後楽園で私はそれまで経験したことのないむし暑さに、卒倒しそうなほどだったことを覚えている。

山陽本線の普通列車はもちろんオレンジと深緑の電車で、複線電化区間らしく都会的に走るが、それが面白く無い。しかも都市が連続するので乗客は減らず、さらに車窓風景も単調だった。尾道のあたりで海(といっても運河のように狭い、川のような海だ)を見た記憶はある。だが対岸に見える造船所は私を憂鬱な気分にさせた。

急行「ちどり」などという列車がいつまで運行されていたのかは知らないし、私は記録を読み返すまで、その列車の名前などはとっくに忘れていた。三次に近づく時、盆地の中に静かに佇む街並みの光景を少し覚えている程度だし、木次線の有名なスイッチバックの時の興奮も、いまでは思い出せない。急行の車内は普通列車のような作りではあるものの若干ゆとりがあって乗り心地は少し上だったことと、わずか3両編成だったにもかかわらず車内販売があったことを記憶している程度だ。

木次線に入ってけわしい分水嶺を超えると、山陽から山陰に切り替わったことがよくわかる。風景が違うのだ。田畑の広さや家の作り、今では裏日本などという言い方がすたれてしまったが、なるほど日本海側に入るとどことなく暗い感じがした。私は大阪生まれだが、実家の故郷は島根県である。それでこの地域に関心が強かった。神話にも登場する出雲の山奥が、何かスピリチュアルな感じを宿しているように感じられた。

急行列車は下り勾配の続く単線をゆっくりと、しかし快調に飛ばした。松本清張の小説「砂の器」に登場する亀嵩駅も通過したはずである。この小説に出てくるこの地方は、冬には雪の降るような寒村で、しかも東北弁の訛りに似た方言を話すらしい。そう言えば私の祖父母もかつて、何やらぼそぼそと話しをする傾向があった。少なくとも饒舌で陽気な人柄ではない。そのような独特の風土の中を私は進んでいたし、私の性格の一部のルーツをその中に見出そうとしていた。いまでもよくこのときの風景を思い出す。それ以来島根県には足を踏み入れていないので、これが今もって唯一の記憶だからであろう。


松江駅に到着してしばらくするともう夕暮れだった、夕日に染まる宍道湖を眺めることができる宿に入り、夕食までの間をしばしたたずんだ。夏の夕暮れはそこでも暑かったが、夕凪の広島のように西日のどうしようもなく強烈な夕方とは違い、風が吹き、何かとても爽快だった。

2012年10月16日火曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第4回目(1983年7月)

「青春18きっぷ」は春と夏に発売されていた。次の鉄道旅行はその年の夏、すなわち1983年の7月に実行されたのは当然のことであった。高校2年生であり、受験勉強にはまだ少し早く、夏休みは長かった。

前回の飯田線旅行を誘った友人のN君が、今度は紀勢本線を乗りつくそうと言って誘ってきた。このコースは大阪から日帰りで行ける鈍行列車の旅としては、誰もが思いつくコースである。海沿いの風光明媚なルートであるものの、とにかく長距離である。だが私は二つ返事で行くと答え、夏休みが始まったのを待っていそいそと出かけていった。

天王寺駅は大阪の南の玄関口である。天王寺を管轄する天王寺鉄道管理局は、大阪駅北側にあった大阪鉄道管理局とは別で、天王寺以南と奈良方面については、北摂在住の私にとっては、何とも不思議な地方である。天王寺の駅は環状線などが停まるホームとは別に、いわゆる櫛形のホームがあって(この構造は上野駅に似ている)、ここが和歌山方面への起点であった。すなわち、特急「くろしお」などの列車はみな、ここから出発していた。私が乗った早朝の阪和線和歌山行き電車も、このホームから出発した。

特急「くろしお」は私が生まれて初めて乗った特急列車で、祖父母に連れられて夏の白浜へ出かけた時に乗った記憶がある。小学校の2年生だったと思う。しかしそれ以降は特に和歌山以南へは出かけていない。そして釣り客や海水浴客でごった返す真夏の紀伊路を行くのは、何とも胸踊る気分であった。私は丸でプロバンス地方へ行くバカンス客のような浮かれた気持ちで、天王寺駅を出発した。

和歌山から新宮までは電化区間であり、この区間を軌道車に引かれた客車列車が私たちの次に乗る列車であった。古い客車列車は、いつものようにすべてのドアは空いたままであり、当然クーラーもなく窓は開け放たれ、最後尾でも線路が丸見えの列車である。その10年後に私はマレーシアを旅行し、クアラルンプールから南へ行く長距離列車に乗ったが、この時の列車の3等車が当時の客車列車にそっくりだった。

磐越西線でそうしたように、私たちはドアから身を乗り出してカメラを構えたりしながら、新宮までの区間を楽しんだ。困ったことは、トンネルが多いことであった。トンネルに入ると、列車からぶら下がった状態の私には迫力が満点である。ところがトンネル内は鉄の粉や機関車の吐く煙(ということはディーゼルだったか?)などが蔓延する。そこに気温30度を超える暑さのせいで汗びっしょりになるため、臭くて真っ黒になってゆくのだった。

新宮駅へ到着する手前で大海原を見ながら快走する区間があるが、このときの感激はいまでも忘れられない。持っていたラジオからは偶然にもシューマンの交響曲第3番「春」の冒頭が流れていて、その音楽とともに良く覚えている(演奏はジュリーニ指揮のロサンジェルス管弦楽団だった)。

新宮で小1時間の待ち時間を利用して足早に駅前を歩き、弁当を買って次の列車に乗り込んだ。ここからは意外にも山間ルートとなる。険しい山をいくつも超えていくのでぐっとローカル線の趣である。駅間距離は長く、利用客も少ない。電化もされておらず、ディーゼルの短い車両での運行である。それでも人は少ない。

この山の続く区間は、日本一の降雨量を誇る尾鷲などを通り、三重県の深い山々を抜けて松坂に達し、さらに関西本線との分岐となる亀山まで行く全行程5時間弱の旅であった。ディーゼル車なので空いたまま走るドアにぶら下がる楽しみはないが、1車両に私たちしか乗客のいない時間も結構あって、車掌さんと話をしたこともある。ディーゼル車はうなり声をあげて上り坂を登るが、分水嶺を過ぎて下りに入るとカタコトと響くレールの音のみが伝わってきて何とも心地よい。限りなく続く田園風景の夕暮れを、飽きることなく眺めていた。


手元に2011年の時刻表があったので、このような長距離列車がまだ走っているのだろうかと思って調べたら、まだ残っていた。新宮発の列車は3時間に1本程度の運行である。単線なので途中の駅で特急「南紀」とすれ違うたびに結構長く停車したりする。窓の向こうに特急の客がカーテンの隙間に見える。窓が開かないのでクーラーのきいた車内である。だが当時の私は、自分のほうが楽しい旅行をしているような気がして、何か妙な優越感に浸ったものだった。

2012年10月15日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第3回目(1983年3月)

5日に及ぶ鉄道旅行を初めて敢行した私は、とうとう「阿房列車」の旅の仲間入りをしてしまった。大阪に帰るとその2日後には、早くも次回の旅行へと向かったのは、今から考えると驚く。これは記録にそう書いてあったので判明したことである。ということは初回の旅行の記憶が鮮明で、2回目の旅行の記憶はほとんどない、ということを意味している。

2日後の外出は以前より計画されていた。その日は朝から、安土、彦根、それに長浜の各地を周り、城(址)をめぐる計画だったことだ。これは高校のサークル仲間と計画していた。その一人の鉄道ファンがいて、彼が私にそのあと大垣発の夜行列車に乗るのを誘ったのである。丁度いい時間に長浜で別れるので、そのあと米原へ出て夕食を取り、岐阜方面へ向かう。

夜行列車の出発まではまだ少し時間があったので、彼は東海道本線の支線である美濃赤坂行きの列車で終点までのわずか2駅を往復するという意味のないことを思い立ち、私もそういうふざけたことは好きな方だから、いそいそと同行した。夜の田舎の駅に降り立ち、何を見るでもなく来た路線を折り返す。彼はそれが楽しいと思っているのだろうか。私は不思議だった。なぜならちっとも楽しそうでないのだから!

彼は鉄道が時刻通りに動くことに喜びを見出す人だった。そのため遅れが生じたり、乗り遅れたりすることに嫌悪を示していた。彼とはその後何度か同じような旅行をしたが、そのように列車が動くこと以外に興味を語ったことはなかった。だが、その他のことに異常に喜ばれても困る。何も言わなければ、彼は私のとって好ましい同行人であった。お互い興味の対象に干渉することなく、ただ列車に乗り続けることになった。

誠に不思議な感覚のまま、夜行列車の友となった彼とは、まず東海道本線で東京駅に行き、それから中央線で長野県の辰野まで下る。その後、飯田線に乗って豊橋まで行き、最後には名古屋から閑散本線で帰阪するという、2日間としてはかなりの強行軍であった。

大垣発の東京行き普通夜行列車は、名古屋駅を深夜に出て、豊橋か浜松あたりからは停車駅が減る。その後、夜中の静岡駅で10分程度の停車時間があり、それがこの列車の最大の停車であったようだ。私がこのことを思い出したのは、この間に静岡駅のスタンプを集めていたからだ。10分程度の時間に、私は夜中の駅を走ってスタンプを押しに行ったのだろう。今考えると変なことをしていると思うが、同行者がいると荷物の心配をしないでいいので助かった。それに何時間も窮屈な社内にいると、体を動かしたくなるのだった。

早朝4時40分に東京駅に着くと、始発の中央線快速列車に飛び乗ることができる。高尾でさらに下り列車の乗り換え、甲府を過ぎ、3日前にも通った諏訪湖を眺めながら辰野駅にはお昼頃に到着したのだと思う。ここでさらに飯田線に乗り換える。豊橋までは5時間程度の旅だが、これには二度とやらないような強行な鉄道旅であった。

時刻表で見ると飯田線はその駅の多さで線路をくねくねとまげて記載してある。さらに驚くべきことに、その駅すべてに停車する1日何本かの直通列車は、各駅での停車時間がほとんどない。しかも駅の間隔は2分程度である。これが可能なのは、電気で動く電車だからだ。そして少し走っては停まり、また少し走っては停まる。まるで通勤電車のような感覚で5時間以上を乗る必要があった。

加えてその日は天気がわるく、渓谷を眺めているうちに雨が降り出し、満員の車内は蒸し暑くなった。前日からほとんど寝ていない私は、どのように過ごしていたのか今となっては思い出せないが、これといって楽しかった記憶もないので、相当疲れていたのだろうと思う。


豊橋駅で名古屋方面へ乗り換え、早く走る列車に感動したものの、さらにそこから亀山方面へと走るローカルな列車に揺られ(これは空いていた)、さらにそこから奈良までは、ディーゼル区間の淋しい旅行となった。こういう時同行人がいると嬉しいものである。彼とは学校のことや友人のことなどをいろいろと話し、夜の新今宮駅で別れた。高校2年を迎える前の、比較的自由な休み時間を、私は何とも不思議なことに費やした。旅行自体は阿呆列車そのものだったが、こういう経過を経なければその後も続く旅行好きになっていたかは疑わしい。家を離れて自由に行動していることだけが、私を旅行に駆り立てていたようにも思える。

2012年10月14日日曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第2回目(1983年3月)(4)

松代温泉を早朝に立ち、朝もやの中を篠ノ井駅を目指す。ここで食べた天ぷらそばがその日の朝食で、それは実に美味しかったが、覚えているのは断片的な出来事だけである。

島崎藤村が「小諸なる古城のほとり」と詠んだ美しい街小諸は、千曲川に沿って開け、遠くに浅間山を見ることができる。ここで途中下車をして、しばし観光をしたいと思っていたのだが、乗り換え時間の関係で下車することを諦めざるを得なかった。仕方がないから絵葉書(写真)を買った。

たった1分の待ち合わせで小海線に乗り換えないと、その日のうちに大阪へ戻ることはできない。小海線は我が国の鉄道の中で最高地点を通過する路線で、今回の計画のハイライトである。それで何とか乗りたいと思った。長野県でも南の地域にはもう雪がなく、春休みを高原で過ごす客などが八ヶ岳山麓に押し寄せていた。野辺山駅を過ぎると写真を撮る若者などが見え、高原の景色の中を小淵沢へ向け進んでいった。途中、国鉄最高地点の標識(標高1345メートル)をばっちりカメラに収め、急な勾配を下っていくあたりは景色も最高で、あっという間に小淵沢へ到着した。

フォッサマグナが通る深い谷を見下ろしながら中央線を下り、諏訪湖を通って松本に出た。松本は何度も訪れたことのある美しい町だが、やはり今回は観光をパス。名古屋を目指して一路進む。「寝覚の床」を垣間見るあたりまでは風光明媚な路線だったが、徐々に都会の雰囲気になって私の旅も終わる予感がしてきた。夕暮れの名古屋からは新幹線で1時間の距離だが、東海道本線を下ると3時間以上かかる。大垣、米原、京都。4日間鈍行列車に乗り詰めだったが、私は心地よい疲れとともに新大阪駅へ帰着した。

私はまだ使い残した「青春18きっぷ」の残りの2日分をどう使うかを考えていた。そしてまたもや東海道本線を上京するのはそれからわずか2日後の3月22日のことだったと記録には残っている。


2012年10月13日土曜日

ブリテン:「ピアノ(左手)と管弦楽のためのディヴァージョンズ」作品21(P:レオン・フライシャー、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

ピアニストのレオン・フライシャーは私がクラシック音楽を聴き始めた頃にはすでに、右手が不自由だったようで、伝説的な存在だったと記憶している。1960年代の録音にはとてもいいものがあり、オーマンディの指揮するレコードなどで有名だった。ピアニストの右手が使えないということは、左手で弾くしかないということだが、左手のためのレパートリーがいくつかあり、そのひとつがブリテンの「ピアノ(左手)と管弦楽のためのディヴァージョンズ」である。

1992年にSONY Classicalによって録音されたレオン・フライシャーによる左手のための協奏曲集は、今聞いてもとても録音もよく、私にとってのお気に入りのCDである。けれども有名なラヴェルの「左手のための協奏曲」をたまに聞くだけで、このブリテンの曲はほとんど聞いたことがなかった。それから20年が経過し、今になってやっとブリテンの一連の曲を聞いてみる時が来た。伴奏は小澤征爾指揮のボストン交響楽団で、SONYへの録音は珍しいが、これはフライシャーの昔の録音がCBSより出ていたことを考えると何とも嬉しいものだ。

曲はまず、オーケストラが遠くの方から近づくようにクレッシェンドしていくさまから始まる。小澤のリズムが迫力を得てせまってくると、わずか1分でこの曲に取り込まれてしまう。何とも見事な開始である。この「主題」につづいて全部で11曲の変奏が順に演奏される。どれも特徴があって聞き応えがあり、飽きさせない。


  第1変奏 レチタティーヴォ
  第2変奏 ロマンス
  第3変奏 行進曲
  第4変奏 アラベスク
  第5変奏 聖歌
  第6変奏 夜想曲
  第7変奏 バディネリ
  第8変奏 ブルレスク
  第9変奏 トッカータ
  第10変奏 アダージョ
  第11変奏 タランテラ

第1変奏ではピアノとしての開始音楽といった感じで、タララララと見事なソロの部分でオーケストラは休止。ピアノとオーケストラが交わるのは第2変奏「ロマンス」からだが、オーケストラの静かな伴奏に乗って、何か海を行く船のように心地良い。

第3変奏「マーチ」になると一気に盛り上がる。第4変奏の「アラベスク」あたりで内省的な感じの曲に変わっていく。アラベスクとはイスラムの模様のことだ。だがブリテンの音楽は何か知性が上回っていて、感情に溺れるようなところがないのがイギリス風。静かな第5変奏「聖歌」は、それでもロマンチックではある。

第6変奏「ノクチュルヌ(夜想曲)」では、バイオリンやフルートのソロがピアノにからみ合って、夜の雰囲気を出している。なかなかいい曲。第7変奏は「バディネリ」。軽快で速い2拍子の舞曲。ピチカートが効いている。第8変奏「ブルレスケ」。音楽辞典で索くと「ユーモアと辛辣さを兼ね備えた、剽軽でおどけた性格の楽曲」となっている。

第9変奏「トッカータ」の前半20世紀のリズムが満開。カデンツァになだれ込み、第10変奏「アダージョ」へと続く。この第10変奏「アダージョ」は比較的長い。幻想的。それは最終章であるフィナーレを盛り上げるためのようにも感じられる。

第11変奏「タランテラ」は凄い。テンポの速い円舞曲で3拍子だが、ここでの小澤の指揮は恐ろしいくらいに集中力がある。興奮の中をクライマックスを築き、一気に曲が終わる。小澤とボストン交響楽団の良さが現れた名演だが、もちろんフライシャーのピアノが見事に合っている。

フライシャーは2000年代に入って見事に右手が復活し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との競演も予定されているようだ。


2012年10月12日金曜日

Pioneerのイヤホン SE-CL721

携帯音楽プレーヤーに好きな音楽をコピーして持ち歩きながら、電車の中や歩く時に聴いている。そのためイヤホンは壊れるかなくなるのが早く、一種の消耗品と割り切って格安のものを使うか、それとも高級品にするか、どちらかにしていた。iPod Classic用に買ったのはSONY MDR-EX90SLで、高いためこちらは家に置いてありもっぱら携帯用ではない。携帯用は最も安い1000円クラスのものを妥協して使うため、これまではSONY MDR-E10LPが定番だった。

SONYのイヤホンを選ぶのは、同じ価格帯では他のメーカーより音質が良かったのに加え、ジャックがL字型に折れているためで、ここがまっすぐだと壊れやすいという経験に基づいている。ところが3年以上も同じものを使っていると、音質に飽きが来て、最近私はほかのものも使ってみたいと思うようになっていた。そこに妻がイヤホンを壊し、何かいいのはないかというので、私の使っていたSONYを譲り、私は別のイヤホンを買うことにしたのである。

久しぶりに電器量販店の売り場を覗くと驚いた。実に多くの製品が売られており、とてもカラフル。数年前に比べても充実ぶりは目を見張る。それだけよく売れている証拠だろうと思う。そう言えばスマート・フォンの普及で最近はイヤホンを付けた人をよく見かける。しかも同じ価格帯では、数年前に比べると音質が向上しているように思われた。単に違う音が新鮮だっただけかも知れないが。

その中で、L字型のプラグと絡まりにくいコード、さらには左右のラインが色分けされてわかりやすいという3つの妥協できない条件をクリアするメーカーとしてPioneerが浮上した。安いものから視聴してみる。すると1500円クラスでなかなかいい音がするのである。ところがこのクラスはコードが少し安っぽい上に、左右で色が同じであり、LとRが見分けにくい。音質はナチュラルでお気に入りだったが、もう少し高いものでも良いと思い、いくつかをためすうち、SE-CL721というのに行き着いた。

このイヤホンは低音の重厚感が売りで、確かに他のイヤホンとの違いは明確である。しかしナチュラルな音のする左右見分けやすいイヤホンはさらに1000円高い3500円クラスとなる。それならいっそ、この重低音を楽しもうではないかと、衝動買いしてしまった。

家に帰ってそれまでに聞いてきた曲をいくつか聞いてみると、その新鮮さは大変嬉しく、さらに左右の分離がとても良い。隅々の音までクリアに聞こえてくれるので、低音だけが強調されてしまったという不自然さが感じられない。つまり高音も悪くない。そして音のキレが高級機なみではないか。数年前なら8000円クラスの音のように思われた。形状が良いだけの、素人向け安物イヤホンは、Pioneerには見当たらない(他のメーカーは試していないのでわからない)。

そういうわけで今ではすっかりこの新しいイヤホンのとりこである。私は古典派の音楽よりは近現代の音楽の素晴らしさに威力を発揮することがわかって、これまでにない音楽の楽しみを享受できそうである。マーラーやブルックナーの、美しいフォルッティシモも、このイヤホンで鳴らしてみたい。そしていくつかのオペラも!

なお、手元のiPodで比べてみると、音楽ファイルの形式により音質の差が感じられる。WAV形式よりもむしろMP3の音源(ただし192kbpsのような比較的高音質のもの)との相性が良いように感じられたのは気のせいだろうか。あるいはWAVのファイルは、それこそナチュラルでかえって個性が際立たないからかも知れない。ジャズもいいが、クラシックも悪くないイヤホンだと思った。

2012年10月11日木曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第2回目(1983年3月)(3)

早朝の磐梯熱海駅を出発して、磐越西線を新潟方面へ向かった。今日の予定は新津から長岡を経由して越後川口まで行き、そこから飯山線に乗り換えて長野へ至る。松代温泉の国民宿舎を予約してある。いよいよ雪深いローカル線の旅である。

交通公社の時刻表には列車番号というのが記載されていて、ここには列車の種類がわかるようになっている。すなわち電車なのか、ディーゼル車なのか、といった区分が事前に把握可能である。だが私は客車おんちで普通の鉄道ファンなら誰でも知っているようなことを知らなかった。だからここが単なる数字、アルファベットの付かない数字というのが客車列車、つまり動力源を持たない車両であることを知らなかった。

会津若松で乗り換えた新津行きの列車は、その客車列車であった。先頭は勿論ディーゼル起動車だったと思う。だがそこに繋がった十両近くの列車は、ただの旅客車であった。そのことは走行する時の音でわかる。電気モーターの音はしないし、ディーゼル車の音でもない。石油臭い匂いもなく、静かで駅に止まると非常に静かである。3月の下旬とはいえ山間の村はまだ残雪が多く、しかもその日は少し吹雪いていた。そして私たちが乗る列車は、特に後へ行けば行くほど客はなく、最後尾は私たちだけだった。明治時代の列車のように硬いクロスシートは木でできており、それだけでもまるで「銀河鉄道の夜」に出てきそうな車両だが、さらには最後尾の接続部分とすべてのドアが空いたまま走るということであった。

それから何年か前、私は中学生の頃に大阪から宝塚までの区間を、福知山線の列車で行ったことがあった。その列車は朝5時台に大阪を発車する出雲市行きの鈍行列車で、今では考えられないような長距離を走る客車列車だったが、これもドアが空いたままである。私は友人たちとそこにぶら下がり、手を伸ばして列車から飛び出すような感じで乗ったことを覚えている。今では考えられないようなことが当時はできた。

それと同じ列車であった。私は嬉しくなり、片手で列車につかまりながら、吹雪く阿賀野川に落ちんばかりの姿勢を保ちながら、列車の最後部から前方を写真に収めた。この数時間は何と楽しかったことかと思う。そのような危険なことをしていても、車掌を含め誰も何も言わなかった。新津までに数時間は、寒かったが私にローカル線の旅の楽しさを教えてくれた。

越後川口から長野までの飯山線は、日本有数の豪雪地帯を走る列車で、その日もまだ数メートルはあろうかという雪の中を走り抜けた。この区間はディーゼル列車による運行だったが、野沢温泉などのスキー場などを経由して夕刻の長野駅に着いた。日本列島の裏側に出ると、3月でもこんなに雪が深いというのは驚きだったが、その後、日本海側でも3月まで雪が残ることは最近では珍しくなったようだ。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...