2022年11月27日日曜日

NDR北ドイツ放送フィルハーモニー交響楽団演奏会(2022年11月23日みなとみらいホール、アンドリュー・マンゼ指揮)

午前6時4分。空が白み始めた東京駅をやまびこ51号盛岡行は静かに出発した。2022年11月25日。私はまたもや東北新幹線の旅人となって北へと向かう。行き先は釜石。東日本大震災の被災地を巡る旅もこれが4回目となる。約1年ぶりとなる今回は、釜石から宮古までを行く。もう11年もたっているのだから、これは被災地旅行というよりも、まだ見ぬ三陸方面への観光旅行である。

第1回目は災害の復興が始まったばかりの2014年頃で、気仙沼の漁港にはプレハブの屋台村が開設され、そこから程遠くないところには大津波を受けて倒れかけたビルや家屋が、まだそのまま残されていた。しかし、今年の1月にはその廃墟も屋台村もすっかり近代的なターミナルやショッピングセンターへと変貌を遂げ、新しくておしゃれなレストランや土産物屋が立ち並んでいた。

上野駅を出るとようやく外が明るくなった。荒川を渡ると遠くに富士山が見えた。満員の始発列車は宇都宮を過ぎても多くのビジネスマンを乗せている。コロナの影響で長く閑散としていた新幹線も、もはや過去のものとなりつつあることを実感する。新花巻駅でローカル線に乗り換え、釜石に着いたのはまだ11時前のことだった。かつて一昼夜かかった東北も、いまでは数時間で行ける。新幹線が開通して以来のことで、これはもう40年が経過したことになる。

釜石へと向かう間中、私の耳はベートーヴェンの交響曲第7番が鳴り響いていた。2日前、新装を終えた横浜みなとみらいホールで聞いた、北ドイツ放送フィルハーモニー交響楽団の演奏があまりに素晴らしかったからである。指揮はイギリス人のアンドリュー・マンゼ。古楽器演奏の指揮者として有名で、ヴァイオリニストでもある。彼が、フォルクスワーゲンの本社がある工業都市ハノーファーのオーケストラである北ドイツ放送フィルの首席指揮者であることを私は知らなかったのだが、ここは大フィルの大植英次が振っていたオーケストラである。

プログラムはまず、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲で幕を開けた。第1音の和音が鳴り響いたとき、ああこれは紛れもなくドイツのベートーヴェンの音だと思った。何とも言えない木製のぬくもりを感じさせる音。古楽器的にビブラートを抑えているから、つやがあって、力強くもあるがしなやか。まずは音色の洗礼を受けた後、推進力をもって進む音楽は、これから始まるコンサートへの期待を最大限に膨らませるものだった。客の入りが少々少ないのが残念なほどだが、おそらくはコロナでプロモーションが遅れたこととも関係があるかも知れない。私もこの演奏会を新聞広告で知った。しかも発売日は、その広告のあった6月から2か月後の8月末だった。

2曲目のプログラムは、ドイツの重鎮、ゲルハルト・オピッツをソリストに迎えてのピアノ協奏曲「皇帝」である。親日家でもあるオピッツは、どこか日本に滞在しているのだろうか、私は昨年にも代役として演奏されたブラームスのピアノ協奏曲第2番も聞いている。コリン・デイヴィスやギュンター・ヴァントといった今は亡き巨匠とのレコーディングもあるピアニストは、しかしながらここで推進力を維持すべく、どちらかというとモダンであっさりと仕上げていく。もたつかない演奏は、ドイツの伝統的な重みのあるものを期待していると裏切られる。だが、オーケストラとの相性を考慮すると、これは当然のこであると思われた。第2楽章の流れるようなメロディーは、どこかメンデルスゾーンを聞いているような感じでさえあった。

休憩を挟んでいよいよ交響曲第7番である。来日メンバーはそう多くなく、典型的な二管編成であり、従って音量はさほど大きくはない。これがビブラートを抑えて演奏されるのだから室内オーケストラを少々大きくした感じではあるが、各楽器の奏者も大変上手く、引き締まったリズムが大柄な指揮者の細かい指示にも機敏に対応していく。決して堅苦しい演奏ではない。たとえば、第1楽章のカデンツァを含めて大活躍する木管楽器は、これぞ本場ドイツのプレイヤーと思えるような、自由闊達に歌い、そして流れに溶け込む。その即興的とも言えるような妙味は、おそらく同じ演奏は2回とないだろう。こういう職人的演奏が生で聞けるから嬉しい。録音だともっとあらたまった演奏になると思う。嬉しいことに主題は繰り返され、2回目ともなるとプレイヤーにも自信が感じられて、その推進力と新鮮さがさらに増大する。

第2楽章の素晴らしさは例えようもなく、指揮者の細かい音量の指示に、実に細かく対応している。この第2楽章はあまりに見事だったので、思い出すだけでもうれしさがこみ上げてくるが、できればもう一度聞いてみたい(アンコールしてほしかったとさえ思う)。第3楽章のスケルツォも申し分なく、きっちりと楽章間で休憩を挟むと、満を持したように流れ出るアレグロ。圧巻のフィナーレは、もう何も言うことはないだろう。客席は高齢者が目立つものの、拍手はしっかり熱狂的で、コロナ流行下でなかったら熱烈なブラボーが出たことだろうと思われる。

一連の最終公演となったこの横浜でも、アンコールに演奏されたのは何とスウェーデンの作曲家アルヴェーンのバレエ音楽「山の王」から「羊飼いの娘の踊り」という曲。オール・ベートーヴェン・プログラムの最後に北欧の音楽を演奏するというのも粋な話だが、確かにオーケストラのより明るく透明な響きが前面に出て、ちょっと固めのドイツ音楽とのさりげない対比を示して見せた、ということだろうか。

26回目の結婚記念日だったこの日の演奏会は、あいにく冷たい雨の降る一日となった。賑やかなみなとみらい地区のカフェで時間をつぶしたあとは、関内にあるフレンチ・レストランに移動して妻と二人だけで祝杯を挙げた。今年も残すところ1か月余りとなった。今年最後のコンサートは、東北3県を巡る今回の旅を終えた12月7日、サントリーホールで開かれるシュターツカペレ・ベルリンのコンサートである。8年ぶりとなる釜石は今回も快晴の陽気で、どこまでも青く深い静かな太平洋を望むことができた。今夜は宮古まで行って龍泉洞近くに泊まる。三陸海岸は、津波のことを忘れるくらいにとても風光明媚なところである、と今回も思った。

2022年11月21日月曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(2022年11月20日サントリーホール、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団)

クラシック音楽のコンサートにおける日本の聴衆は、礼儀正しく大人しい。特にコロナ禍に見舞われてからは、正しくマスクを装着し、ブラボーを叫ぶ人はいない。しかし、今回のコンサートは違った。我慢しきれず、自粛が呼びかけられたブラボーを発する人が少なくなかっただけでなく、終演と同時に立ち上がる人が多数。会場が興奮に満ち溢れ、会心の出来と思われた指揮者、オーケストラ、それに歌手たちが満面の笑みを湛える。東京交響楽団が音楽監督ジョナサン・ノットとともに上演したリヒャルト・シュトラウスの歌劇「サロメ」(演奏会形式)の類稀な大成功は、伝説的な名演として長く語り継がれるであろう。

その様子をここに書き記すことは、大変な労力である。全編に亘って交感神経が張り詰め、近代のドイツ文化が到達したある種の頂点は、丁度サッカーのドイツチームが超攻撃的な攻めを見せるように、私たちを圧倒する。だがそれだけではない。シュトラウスの音楽は精緻で、セリフのすべての物にそのモチーフが付けられている。丁寧にそのひとつひとつを押さえながらも、全体としては一つの流れを終始維持し、緊張が途切れることはない。全一幕の約100分は、そうだとわかっていてもあっというまに経過し、舞台に出入りする歌手の一挙手一頭側に目を凝らしながら、時折字幕を追う。

表題役はリトアニア人のソプラノ、アスミク・グリゴリアンである。彼女は細身の美貌でありながら、強靭な声を終始絶やさず、まさにサロメの当たり役と言える。登場したときは、確かに上手いと思う程度だったが、その声量と歌唱は次第に完成度を増し、さらにはそれを超えてどこまでも圧倒的に聴衆を引き付けた。「7つヴェールの踊り」に至るまでのヘロデとの丁々発止のやり取りは、聞いていても興奮する。踊りのシーンはオーケストラのみの演奏だったが、そこから終演までの歌唱は、鳥肌が立つほどだった。真っ赤な布をヨカナーンの頭部に見立て、その布をスカーフのように身にまとう演出は、猟奇的な生々しさを緩和する一方で、真の愛情に飢えた少女の心情を際立たせるに十分だった。

グリゴリアンの圧倒的な歌唱を支えたのは、他の3人の主役級歌手が、それに劣らず素晴らしかったからだ。すなわち、ヨカナーンを歌ったバスバリトンのトマス・トマソン、サロメの母ヘロディアスを歌ったメゾソプラノのターニャ・アリアーネ・パウムガルトナー、そして巨漢ヘロデ王を歌ったテノールのミカエル・ヴェイニウスである。ヨカナーンは井戸の中から歌うシーンでは、P席上段のオルガンの横にいて神々しく歌い、舞台に上がった時には人間味のある演技である。彼は頑なにサロメの欲求を退ける。

一方、ヘロデとヘロディアスの会話は、この二人の歌手が素晴らしいだけに圧倒的で、激しい夫婦喧嘩もシュトラウスの音楽で聴くと迫力満点。サロメの意地っ張りな態度は、母親譲りということだろうか。真の愛情を知らない親子は、ナラボートを自殺に追いやり、預言者ヨカナーンを処刑し、自らも死刑になる。近親相関と異常性欲が凄まじいエネルギーの中で交錯するオスカー・ワイルドの台本も、その前衛性が物議を醸し、長らく出版が禁じられた。だがシュトラウスは、さらに「エレクトラ」で前衛的手法を押し進めていく。

今回はコンサート形式による演奏だったが、このような演奏は予算の低減につながるため、昨今の流行りではある。オーケストラが舞台上にいるため、音楽の構造がよくわかり、よく聞こえる。半面、歌手の歌声がかき消されることも多いが、今回の上演ではその心配は吹き飛んだ。1階席前方で聞いていたこともあるのだろう。すべての声は直接耳に届く。歌手はむしろ演技を最小限に抑えることで、歌により集中することもできるという効果も生まれる。最近は舞台演出でもごく最低限のものしか置かないような、バジェット的演出が多いため、結局は想像力がいる。そう考えると、コンサート形式でのオペラも悪くはない。とにかく安いのがいい。ただ、「サロメ」は視覚的要素の強い作品だから、一度は舞台で見たいとも思った。

ブックレットによれば今回の上演には演出監修がいて、それは何とトーマス・アレン。彼はモーツァルトのドン・ジョヴァンニを歌っていたバリトン歌手で、私もよくビデオで見たが、何と彼は来日をしており、カーテンコールに登場した。カーテンコールの最中、指揮者ノットは終始興奮した笑顔で、今回のコンサートに大いに満足した様子である。何度も呼びもどされ、それはオーケストラが舞台から去ってもなお続いた。客席が総立ちのまま、何枚もの写真をスマートフォンに収めるのに忙しい。長いオベイジョンが終わって会場を出ると、雨が降っていた。気が付くともう11月も後半である。今年も残すところ、あと1ヶ月余り。コロナウィルスの非日常生活も、3年になろうとしている。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...