2018年3月31日土曜日

スプリング・ガラ・コンサート(2018年3月28日、東京文化会館)

ロッシーニ没後150周年を記念して、今年の「東京・春・音楽祭」では、ロッシーニのアリアを始めとしたガラ・コンサートが開かれた。だが実際の公演の後半半分は、ヴェルディやプッチーニのアリアが中心で、しかもここの部分こそ聴きどころが満載、どの歌手も乗りに乗った素晴らしい歌声に、会場に詰め掛けた聴衆は心行くまで魅了され、久しぶりに歌を聞く楽しさを満喫した2時間余りだった。

ソプラノを歌ったアイリーン・ペレスはメキシコ系のアメリカ人で、まだあまり知られていないが、美しくも力のある実力派。まず最初のアリア、「セヴィリャの理髪師」からロジーナのアリア「今の歌声は」を歌う。安全運転の歌いだしで、指揮もどこかぎこちないのだが、最初にしては不足はない。まあこんなところかと思った。だが、休憩を挟んだ後半のヴェルディ「椿姫」より第3幕のヴィオレッタのアリア「さようなら、過ぎ去った日よ」で見せた圧巻の歌声は、私を一気に舞台に釘付けにした。続くアルフレードとの二重唱「パリを離れて、いとしい人よ」では、もう何といったらいいのだろうか、ヴェルディの持つドラマチックな音楽の素晴らしさが堪能できる。オーケストラも前半の最後で「ギユーム・テル」序曲を演奏したあたりから安定し、後半を通じて最後のアンコールまで、それはなかなかの見事なもの。歌声と楽器が見事に調和する様は、オーケストラが舞台にいることもあってなかなか聞きごたえがある。

今回、歌手は4人登場したが、おそらくテノールを歌ったサイミール・ビルグこそ、今日もっとも素晴らしかったと思う。それは前半の「ギヨーム・テル」でのアルノルドのアリア「わが父の庵よ」を歌い始めたときから明白だった。艶があって軽やかな歌声はロッシーニにピッタリだが、後半のドラマチックな各アリアで見せる芯のある歌声は、整ったリリカルな美しさもあって聞きごたえ十分である。後半では歌劇「仮面舞踏会」でのリッカルドのアリア「永久に君を失わば」ですでに圧巻だったが、最後のチレアの名曲「アルルの女」での「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」で頂点に達した。会場がどよめき、一斉にブラボーが響く。

バリトンのジュリオ・マストロターロは、最初の「セヴィリャの理髪師」からフィガロの有名なアリア「おいらは町の何でも屋」を歌った時には、オーケストラのボリュームにかき消されるところが多く、先行きが気になった。しかしオーケストラも含め、まだ時には、十分に声が出ていなかったのだろう。後半になると持ち直し「ファルスタッフ」でのフォードのアリア「これは夢か?まことか?」では本領が発揮された。「ファルスタッフ」はヴェルディ最後の喜劇作品だが、音楽はより深く緻密となり、実力が試される。オーケストラと歌がピタリと決まると、会場から間髪を入れずブラボーが飛び交う。

バスのマシュー・クランはアメリカ人。長身で貫禄のある存在感は、出番こそ少なかったものの、低い声もまたオペラの魅力であることを十分に伝えていたように思う。前半の「セヴィリャの理髪」におけるバジーリオのアリア「陰口はそよ風のように」はやや硬かったが、「マクベス」でのバンクォーのアリア「何という暗闇が」を歌う時には、ドラマチックな歌声で会場を魅了した。

オーケストラはこの音楽祭のために編成されたもので、「東京春祭特別オーケストラ」という名前。各楽団からの奏者が集まっているという触れ込みだが、全体に女性が多く、ヴァイオリンなどは最前列を除いてほぼ女性である。そしてやや迫力が不足しているのではと思われたが、後半は次第に音楽的な表現が実を結び、アンサンブルの良さでこの欠点をうまくカヴァーしていたように思う。「ギヨーム・テル」序曲でのチェロは1階席中央で聞いていると、初夏のそよ風のように暖かく、フルートのソロは桜の花が散るようであった。指揮はイタリア人のレナート・バルサドンナ。後半特に音楽がピタリと歌に寄り添い、音の弱すぎない強さと、歌とソロ楽器の音程を抜群に保ちながら一体感を作り出す手腕はなかなかだと思った。

全般に欠点はなく、総じていい出来栄えだったところが嬉しい。チケットも直前まで売れ残り、どういうコンサートか気にしていたが、会場には若い女性が多く、9割は埋まっていたと思う。次第に完成度を増してゆく歌声に会場は沸き、特に後半ではイタリアの風が通り抜けて行った。私はプッチーニやチレアの音楽や歌が、これほどに精緻で、美しいものだったかと再発見したことは特に書いておきたい。

歌劇「ジャンニ・スキッキ」の超有名アリア「私のお父さん」は短いが、ペレスの歌声は澄み渡り、会場の隅々までこだました。その美しい歌声は、しばし時間を忘れさせ、会場にいることさえわからなくなるほどである。マスカーニの歌劇「友人フリッツ」からは「さくらんぼの二重唱」。彼女は満面の笑みを浮かべ、テノールのピルグも会場を小走りに出たり入ったり、会心の出来栄えだったのだろう、実に楽しそうである。

酔いしれるうちにプログラムは終盤になった。歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕でのアドリアーナのアリア「私は創造の神の卑しい僕」は最高によかった。私は美しいトスカーナの田園やヴェニスの海を思い浮かべた。そしてまたイタリアをゆっくり旅したいと思った。時間をかけて、北から南へと、西から東へと。もしかしたらそれは最後の夢かも知れない。

鳴り止まない拍手に応え、アンコールが続く。まず1曲目はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」から第4幕「馬車にだって」。冒頭でロドルフォ(テノール)とマルチェッロ(バリトン)の二人が歌う。この組み合わせは本日初めて。そして2番目はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕から「奥様お手をどうぞ」。ここではドン・ジョヴァンニとツェルリーナが歌う。この組み合わせも初めてで面白い。

そして最後のアンコールは何と4人で歌う「椿姫」の「乾杯の歌」であった。割れんばかりの拍手に何度も応えるカーテンコールは10分以上続き、歌手と指揮者が何度も手をつないで前に出たり後に下がったり。満足の一夜は盛況のうちに幕を閉じ、花見客で深夜までごった返す上野公園を、私はゆっくりと歩いて行った。春の風がライトアップされた桜の木の間を吹く抜けてゆく時、私は紅潮した頬を鎮めながら、青く深い南ヨーロッパの海を思い浮かべていた。


【曲目】
1.ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
2.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「おいらは町の何でも屋」
3.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「今の歌声は」
4.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「陰口はそよ風のように」
5.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」第4幕より「我が父の庵よ」
6.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」序曲
7.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕への前奏曲
8.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「さようなら、過ぎ去った日よ」
9.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「パリを離れて、いとしい人よ」
10.ヴェルディ:歌劇「マクベス」第2幕より「何という暗い闇が」
11.ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」第3幕より「永久に君を失えば」
12.ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」第2幕より「これは夢か? まことか?」
13.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
14.プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より「私のいとしいお父さん」
15.マスカーニ:歌劇「友人フリッツ」第2幕より「さくらんぼの二重唱」
16.チレア:歌劇「アルルの女」第2幕より「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」
17.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕より「私は創造の神の卑しい僕」

<アンコール>
18.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」第4幕より「馬車にだって」
19.モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕より「奥様お手をどうぞ」
20.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕より「乾杯の歌」

2018年3月19日月曜日

トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団演奏会(2018年3月15日、サントリーホール)

2年前に聞いたトゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団の「白鳥の湖」が忘れられない。この時の演奏の記憶は今でも時々蘇り、ワルツが頭の中でいつも鳴っている。この時放映されたテレビ番組は、そのまま録画してブルーレイ・ディスクに採ってある。そして先日そのディスクを再生してみたのだが・・・わずか2年前だというのに、圧縮をかけ過ぎたせいか映像は乱れ、音が飛び、開始して10分も経たないうちに停止してしまったから、残念でならない。

もう一度、この時の演奏を聞いてみたい。そう思っていたらソヒエフは、10年もシェフを務めるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を率いて来日公演を行い、何とそのプログラムはこの時とほとんど同じで、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲で始まり、後半はチャイコフスキーの「白鳥の湖」となっているではないか!プログラム真ん中の協奏曲は今回、エマニュエル・パユとの競演でハチャトリアンのフルート協奏曲(ランパル編)となっているが、「白鳥の湖」はソヒエフ独自のオリジナル編集という点も前回と同じである。

ソヒエフは「白鳥の湖」に自信を持っており、この曲を多くの人に聞かせたいと思っている。私はそう感じているが、どういうわけかサントリーホールでのツアー最初の公演は、当日まで多くの席が売れ残っており、私はこの日、丁度いい具合に仕事がなく、3月末で期限の切れる年次有給休暇を取ることに何ら問題はない。もうこれは行くしかないわけである。しかもこのオーケストラを聞くのは、今回が初めてである。

一般にフランスのオーケストラは、来日公演においてロクに練習もせず、ほとんどぶっつけ本番の期待外れな演奏をすることで有名である。成田空港からサントリーホールに直行し、ラヴェルやらビゼーやらを演奏する。私も一度ひどい目に会っている。だから今回、どんな演奏になるか、唯一の不確定要素はそこである。けれども時代は変わり、演奏家はみな国際的なキャリアを持っているし、オーケストラの響きは世界共通のものになってきている。それは同時にローカル色を失うことでもあるのだが、いずれにせよフランス人が怠惰であるというのは一昔前のことで、今ではそんな時代じゃない、とそう思ってチケットを買った。

その考えはまさしく杞憂に終わり、トゥールーズのオーケストラも実に新鮮でのびのびと、しかもよくこなれた演奏をする。そしてそっけないくらいに力を抜いて指揮をするソヒエフの棒(ではなく両手)から出てくる音楽は、聴きどころを押さえ、オーケストラの自立性を発揮させつつも、時に見事に表情を変化させる職人的な音楽であった。これはN響との一連の演奏でも明らかで、一種の天才的なものさえ私は感じるのだが、そこで思い出されるのは(実演を聞いていないので偉そうなことは言えないが)あのカラヤンの指揮である。

ビデオで見るとカラヤンは、決して器用な指揮をしてるようには思えない。だが一挙手ごとにオーケストラが反応すると、どうしてこの指揮からこんな豊穣な音楽が流るのかと思うほどに雄弁に、そして一瞬のうちに変化するのが不思議である。カラヤンの音楽とは趣が異なるが、それと同じような経験である。初めてテレビで見たときから、一瞬にして私はソヒエフのファンとなり、かれこれ数年が経つ。

前回N響で聞いた時は1階席後方のA席で、それはそれで音響が良かったはずだが、みなとみらいホールというフランチャイズ性に乏しい会場であったことからか、どうも私の印象はいささか不自然なものでもあった。そしてオーケストラがもう少し見える場所で聞きたいと思った。それがたまたま、B席という安い席であることもあって、オーケストラを真横から見る機会を得た。ソヒエフの指揮と各楽器のやりとりが手を取るようにわかる、テレビで良く見るお馴染みの角度は、今回の私にとって理想的な位置である。

この位置では、右から弦楽器、左から管楽器と打楽器が聞こえてくる。手前は高く、奥は低い。ソヒエフは前半は指揮棒を持っていたが、「白鳥の湖」では両手を駆使し、時にオーケストラの奏でる音楽に体を揺らせながら、聞き手を唖然とさせるような表情を音につけて、バレエの各曲をこなしてゆく。その堂々とした、手慣れた至芸に酔いしれる聴衆は私だけではなかった。前にいたカップルなどはずっと体が揺れに揺れている。

演奏が終わって徐々に大きくなる拍手に、終始満足げだったソヒエフは、メンバーを何度も楽器ごとに立たせ、満面の笑みを浮かべた。この表情はN響にはない。ロビーへ出て会場を後にするとき、後を歩いていた若い女性が「やっぱりチャイコフスキーはいいわね」としみじみ語ったのが忘れられない。ソヒエフの「白鳥の湖」の演奏には、おそらくオーケストラというものを聞くときに体験できる最上のものがあったと思う。

チャイコフスキーの陰影に富んだ音色、華やかでメランコリックなメロディーが、大規模な管弦楽で鳴るときの極めて美しい瞬間の連続。冒頭から各地のリズムが響くそれぞれの踊りのシーンを経て終曲に至るまで、まるでアンコール曲を立て続きに聞くような満足を味わうことができた。もっとも本当のアンコールは「カルメン」の前奏曲で、これはフランス音楽で締めくくるための演出である。今回はプログラムがロシア物で占められたが、会場には主催したエアバスの関係者や外国人も多く、来日オーケストラならではのゴージャスな雰囲気が、春になったサントリーホールを一層華やいだものにしていた。

ベルリン・フィルの首席として今や世界一のフルーティスト、エマニュエル・パユは、フランス語圏のスイス人である。ハチャトリアンにフルート協奏曲などという曲があったか知らなかったが、実はこの曲はヴァイオリン協奏曲のフルート編曲版であった。30分以上もある長い曲で、終始フルートが猛烈に難しいソロを弾き続けており、目を見張ると言うか耳を疑うと言うか、その緊張もこれほど長いとおかしくなりそうである。第1楽章の主題再現部が聞こえてくると、まだ途中なのにこんなに長い曲を弾いていて大丈夫かと思うほどだった。

第2楽章はゆっくりとしたメロディーで、フルートというのはどこか日本的なムードがする。横笛と尺八を足して二で割ったような音色に、幽玄なムードを感じてしまう。このような長く、珍しい曲を、緊張を感じさせずに引き切る奏者と、礼儀正しく聞く聴衆。今日の客は実に品がいい。

そして第3楽章になると、ロシアというかアルメニアというか、ユーラシア大陸の各民族が入り混じったリズムが、聞くものを圧倒する。当然オーケストラの中にもフルート奏者がいて、クラリネットも含めて木管楽器とまさに競演するシーンが数多くある。もともとはヴァイオリン協奏曲なので、これは編曲による効果ということだろう。だがこれが実に面白く、パユは時折オーケストラの方を向いて、彼らとコンタクトを取るような仕草をするあたりは余裕を感じてしまう。

絶大なアンコールに応えドビュッシーの曲を演奏した時、演奏が終わっても10秒近く誰一人拍手も咳もしない静寂の時間が流れた。花粉症の時期、2000人もの人々が物音ひとつ立てない時間は、それだけで奇蹟である。このことも含めての音楽、演奏会というものを楽しむことが出来たのは、実演ならではのことである。やはり音楽は実演で聞くのがいい、と今回も思った。

それでも「白鳥の湖」の演奏を収めたCDかビデオが発売されたら、ぜひ買い求めてもう一度その演奏を楽しみたいと思った。しかし会場に設けられたCD発売ブースの店員に聞く限り、ソヒエフの「白鳥の湖」はまだリリースされていないようだ。ボリショイ劇場の音楽監督でもあるソヒエフだから、今後期待できるとは思う。でもこの曲はバレエ付きで見るのではなく、純音楽として楽しむこともできるほどに高水準な音楽である、とソヒエフ自身が語っている。

ソヒエフの指揮はN響でもおなじみで、もしかしたらトゥールーズのオーケストラよりも上手いかも知れない。けれども十年ものあいだ良好な関係を保っているオーケストラとの方が、慣れ親しんだ阿吽の呼吸は健在で、指揮者の意図が十二分に伝わっていると思われる。だから今回の演奏も力み過ぎず、余計な緊張感もないだけに、実にリラックスした状態で楽しめたいい演奏会だった。

2018年3月18日日曜日

ピアソラ:バンドネオン協奏曲、「ブエノスアイレスの四季」他(Bandoneon:ローター・ヘンゼル、ヨハネス・ゴリツキ指揮ノイス・ドイツ・チェンバー・アカデミー他)

ピアソラはバンドネオンの奏者でもあった。バンドネオンはタンゴに欠かせないアコーディオンで、鍵盤ではなくボタンで音階を表現するが、蛇腹をクネクネと伸ばしたり縮めたりしながら、その時に出入りする空気によって音を鳴らす点では同じである。

バンドネオン協奏曲は「アコンガグア」というニックネームが付けられているそうだが、アコンガグアというのはアンデス山脈にそびえる南米最高峰である。そして私はまた、四半世紀前の1993年、アルゼンチンを旅した時の、ふもとの都市メンドーサからチリへと国境を超えるバスから見たアンデスの風景を思い出さずにはいられない。

メンドーサはブエノスアイレスから夜行列車で1日かかる距離にあり、平野が尽きて山地になる手前の、温和で美しい町であった。そこはぶどうの産地、すなわちワインで知られた都市で、3月というと南半球では秋になるが、私はまだ半袖、半ズボンのいでたちで、ワイナリー巡りを楽しんだり、あの豪快なステーキに舌鼓を打ったりして過ごしたのを覚えている。その時にたまたま通りがかったパスカル・デ・トーソというワイナリーに飛び込んで、日本から来たので見せて欲しい、などと片言のスペイン語で話したら、有難いことにとても親切に見学させてもらい、最後にお土産までもらったのだが、何とそのワインを輸入して飲ませてくれる店に最近出会い、フルボディの少し古風なワインを飲みながら、アルゼンチンの思い出に浸ったところである。

ピアソラはアルゼンチンに生まれたがニューヨークで育ち、パリで音楽教育を受けた。その国際性を活かしつつタンゴのリズムを発展させ、稀有な音楽を生み出した。現在クラシックで聞くピアソラの曲は、地域を越えて魅力的である。このバンドネオン協奏曲も、出だしから最後まで飽きることはない。

第1楽章のリズムや打楽器の慟哭にも圧倒されながら、実は主題が変わると静かな音楽に変わる。それはまだ第1楽章である。第2楽章が実に素晴らしく、私はこの音楽がタンゴの持つロマンチックな世界をうまく表しているように思う。最初は何か壊れたマイクを修理しているような間抜けな雰囲気だが、それからうらぶれた都会風のメロディーが出てきて、そうこれはタンゴだったのかと思う。第3楽章は再び速いが、ここでも中間部があって、リズムに体を合わせて酔いながら一気に最後まで聞かせる。

ピアノを含む小編成の管弦楽曲「ブエノスアイレスの四季」は、英語やドイツ語では単に「四季」と記載されていたが、オリジナルのタイトルに「ポルテーニョ(ニャ)」と形容詞が付けられており、実はこれは「港の」、すなわちブエノスアイレスを意味するそうだ。だからこれはまさにブエノスアイレスの春、夏、秋、冬ということになる。作曲は「夏」からだったようだが、私の持っているアラン・モーイア指揮トゥールーズ国立室内管弦楽団の演奏では「春」から始まる(南半球だから9月頃だろうか)。

4つの楽章いずれもピアソラならではの歯切れのいいリズムと、メランコリックなメロディーに新鮮な感動を覚えるが、面白いのは最終楽章のコーダの部分が、とても落ち着いた、気持ちが安らぐ情景を醸し出している点だ。「春」から演奏された場合、これが最終の曲である。私はブエノスアイレスの「冬」を知らないが、南米でもっともヨーロッパ風の街は、小雨に似れた石畳の上を時代遅れのコートを着た紳士が歩き、夜ともなれば巨大なステーキを出すレストランやバーからは、時折大きな声の話し声が聞こえてくる。

最後に「オブリヴィオン」について。オーボエをソロとする3分余りのこの曲は、実に美しい曲で、このCDの中では一番のお気に入りである。数多くリリースされ、ファンの多いピアソラのディスクの中で、なぜ私がこのディスクを所有しているのかは謎である。ピアソラ自身が1992年まで生きていた作曲家だから、彼自身の演奏というのも数多くリリースされているし、クレーメルやクロノス・クァルテットのような演奏家のものも有名で、一度は聞いておきたいとも思っている。

なお、私がはじめてピアソラの曲に触れたのは、1986年にリリースされた名アルバム「Tango Zero Hour」によってであった。このCDを初めて聞いた時は衝撃的で、今でもその時の記憶を鮮烈に覚えている。このような体験は、私にとってストラヴィンスキーの「春の祭典」以来であった。


【収録曲】
1. バンドネオン協奏曲
2. オブリヴィオン
3. 弦楽合奏のための「2つのタンゴ」
4. ブエノスアイレスの四季

2018年3月11日日曜日

ピアソラ:「ロス・タンゲーロス(Los tangueros)」(P:エマニュエル・アックス、パブロ・ジーグレル)

タンゴに話が及んだついでにピアソラの作品を収録した手持ちのCDを聞いてみた。私のコレクションには、わずかに2枚ピアソラのCDがあるが、現代作曲家のCDとしては多い方である。そのうちのひとつが、クラシックの名手エマニュエル・アックスと、ピアソラ五重奏団のメンバーでもあったパブロ・シーグレルが組んだピアノ・デュオの一枚である。意外な組み合わせが話題を呼んだ一枚でもある。

今となってはなぜこのCDを持っているのか、思い出せない。リリースは1996年だから、丁度ニューヨークに住んでいた頃に、行きつけのアッパー・イーストのタワーレコードでたまたま見つけ、その都会的で何ともニューヨークにぴったりの音楽に、直ちに購入を決めたのではないか(ということにしておく)。このジュリアード音楽院近くのレコード店は、クラシック音楽の売り場が大変充実していたが、タワーレコード自体がアメリカより姿を消して久しい。

ピアソラの作品は、私がそう感じたように、都会的で現代的。そしてニューヨークを感じるのは偶然ではない。なぜなら彼は幼少時代と無名の音楽家時代をニューヨークで暮らしているからだ。ジャズの要素も取り入れられているのは、当然と言えば当然で、彼はアルゼンチン・タンゴを発展させたというよりはタンゴの亜流として出発した。アルゼンチンのような保守的な国で、ピアソラが認められるようになったのは、ずっと後になってからのことである。

タンゴはもともと踊るための音楽で、タンゴのステップはラテン・ダンスの主要な一角を占める(このCDのジャケットには踊る男女の姿が映ってはいる)。コンチネンタル・タンゴのように耳に心地よいイージー・リスニングでもない。だからこれは真剣に聞くための音楽、そして時にリスナーを選ぶという点で、やはり現代音楽に属するクラシック音楽なのだろう。ピアソラ自身、そういう作品を作り続けた。ここに収録されているのは、それらのうちから有名な曲を、シーグレル自身がこの録音用に編曲したものだ。

とは言え、強いリズムとセンチメンタルなメロディーは、まさにタンゴの世界である。場末のバーに集うどうしようもなくうらぶれた人々が、ある時は祖国を思いながら、ある時は情熱にかられて歌い、踊る。第2次世界大戦中はヨーロッパを凌ぐ豊かな国でもあったアルゼンチンが、戦後は貧困と圧制に苦しみ、まるで数十年前に置き去りにされてきたような国、それがアルゼンチンのイメージであり、その音楽もまた古臭く、発展が止まっていた。だが、ピアソラのユニークな国際性が、この古い因習を打破し、アルゼンチンタンゴの歴史を進めることに成功した。

ブエノスアイレスの空港に降り立ち、市内へと向かうバスが、人っけのない廃墟のような街に入り込み、ガラスが割れたままとなっているビルの前に停まった。人々は古いファッションに身を包み、深く刻まれたしわの奥から、あてもなくこちらを見ている。ラジオから発せられる早口のスペイン語やラテン音楽が、どこからともなく聞こえて来た。1990年になっても、ブエノスアイレスの街は60年代頃の、いやもしかすると第2次世界大戦前のそれであった。私は日本から3日がかりで乗り継いだフライトの疲れを引きずりながら、古い時代にタイムスリップしたような感覚を覚えた。そして窓もない安ホテルのベッドで泥のように眠りにつき、それは48時間以上も続いたと思う。学生生活最後の旅行は南米と決めていた。その憧れの地での行程は、このようにして始まったのだった。

ブエノスアイレスには1週間くらい滞在したと思う。その間にラ・プラタ川を渡りウルグアイにも出かけた。黄土色の広大な河口に架けられた国境の長い橋を渡る。そしてその流域こそがタンゴの発祥地であった。どこまでも続く平原と、その牧草地に立っている動かない牛たち。その時の光景を瞼に思い浮かべながら、これらの曲を聞いていた。2018年の春。私はほとんど初めてのように、このCDを聞いた。

春の陽射しをうけつつもまだ寒いある日の昼下がり。私は埼玉県の北部を歩きながら、静かに演奏に耳を傾けた。アックスとシーグレルのピアノは技巧的で申し分がないくらいに上手いが、それが徐々に熱を帯びてゆくようだった。規則的とも不規則ともつかないリズムが、消えては現れ、現れては消える。乗り心地の悪いアルゼンチンのバスにも次第に体が慣れてくるように、リズムが体に合わさってきたたと思って暫くたったとき、ある時はパタンと、あるときは消え入るように音楽が終わる。しばしの静寂。

曲は聞けば聞くほどに味わい深く、うち何曲かは聞いたことのあるメロディーである。中でも、亡き父に捧げられた 「アディオス・ノニーノ」は心を打つ曲である。続く「リベルタンゴ」もお気に入りだ。ヨーヨー・マや葉加瀬太郎も演奏しているこの曲もまた、様々なアレンジがあるのだが、一度聞けば忘れられない曲である。聞いていくうちに、何か高級なサロンにいるような気がしてくる。


【収録曲】
1.Revirado
2.Fuga y misterio
3.Milonga del Angel
4.Decarissimo
5.Soledad
6.La muerte del angel
7.Adios Nonino
8.Libertango
9.Verano Porteqo
10.Michelangelo '70
11.Buenos Aires Hora cero
12.Tangata


2018年3月4日日曜日

「TANGO GOES SYMPHONY」(ペーテル・ブレイナー指揮ラズモフスキー交響楽団)

珍しいことに東京にはまだCDを売る店があって、新宿にもタワーレコードが健在である。クラシックの売り場はどんどん縮小されてはいるが、ここへ行けば新譜だけでなく、結構な量のCDの中からいくつかを買うことが出来る。私はもう1年に数枚しかCDを買わなくなって久しいが、その日はたまたま時間ができたので、仕事の帰りに立ち寄ってみた。

もっともお目当ては「ぶらあぼ」という月刊誌(無料)で、月単位で全国のコンサート情報が掲載されている。これをパラパラとめくりながら、これから行くコンサート情報を眺めるのが好きである。タワーレコードにはその「ぶらあぼ」が置かれていて、自由に持って帰ることができる。

目的を達成した後でまだ少し時間があったので、何気なく売り場を徘徊していたところ、どういうわけかこれだけはレーベルごと別なって売られているNAXOSのコーナーの片隅に「TANGO GOES SYMPHONY」と題されたCDが目に留まった。これはタンゴの有名曲の数々をオーケストラ曲風にアレンジした企画もの、編曲ものであることはすぐに判明した。

最近私は公私に亘って一区切りがつき、まだ肌寒いものの陽射しが増してくる初春の季節を、気持ちよく過ごしている。まだ花粉症にもなっていないようなので、毎夜の散歩も楽しみである。そんなお供に少し軽い、気取らない曲も聞きたいと思っていた。「タンゴ」と聞いてピンと心が震えた。そのCDは新品なので1200円以上もする。NAXOSは「CDの文庫本」であると言われた時代は過ぎ去り、今では大手レーベルの再発ものよりも高くなって「お買い得感」はあまりない。それでも毎月いくつかのCDをリリースし、その多くがあまり知られていない作曲家や作品であるという路線は変わらない。

手に取った瞬間「買おう」と衝動的な気持ちになるのを覚えながら、このような感覚は久しぶりだと思った。ネットで気軽に音楽が聴ける時代、何か新しいものに出会った時のはやる気持ち(それは出会ってから実施に体験するまでの、期待と興奮に満ちた、短くも長い時間のことである)が得られることは少ない。ただ問題はその演奏である。ラズモフスキー交響楽団という聞いたことがない団体。CDの帯にはそれでも日本語で「もうお馴染みのペーテル・ブレイナーの編曲・演奏シリーズ」などと書かれている。そうか、知らぬ間にお馴染みになっていたのか!もっともこのCDの録音は2001年だから17年も前。私はこの頃なら、ときおりCDを買っていた記憶があるが、このような演奏家は知らなかった。

タンゴとはもともと南米アルゼンチンの音楽である。アルゼンチンというのは私の子供のことからの憧れの地で、昔見た写真集の中にブエノスアイレスのビル街を撮ったものがあって、その写真は今でも時々夢に出てくるくらい鮮明に覚えているのだが、そのわが麗しの国、アルゼンチンを旅行したのは今からもう30年近く前になる。その時の話はいずれここにも旅行記として書かねばならないのだが、今日聞くのは本家のアルゼンチン・タンゴではなく、そのスタイルがヨーロッパに渡って発展したコンチネンタル・タンゴの方である。

ただコンチネンタル・タンゴにもいくつもの流れがあって、もっとも有名なのはドイツ系のものだと思っているが、今回のCDは何とスロヴァキアのオーケストラが演奏している。そして、新たなブレイナーのよる編曲はまた独自のもので、時にタンゴという枠を離れ、ジャズの雰囲気も醸し出しながら、フルートが活躍するというものだった!

解説書を読むと、ラズモフスキー交響楽団というのは、ブラチスラヴァのいくつかのオーケストラの奏者で構成される団体である(あのベートーヴェンの弦楽四重奏でも有名なラズモフスキー伯爵にちなんでいるのかも知れないが…)。ブレイナーはここで編曲、指揮、それにピアノを担当している。独奏楽器が活躍するのが特徴で、もっとも活躍するフルート(シェフィカ・クトゥルエル)のほかに、当然アコーディオン、トランペット、ドラムスなどが、静かな夜の大人の雰囲気を表現している。お洒落なライト・クラシックである。だがいわゆるイージー・リスニングとは異なり、アレンジの妙を聞いているだけで楽しめるだけでなく、奏者の技巧も確かであることで心も気持ちよくなってくる。夜の散歩に持ち出し、リズムに合わせて歩いていると、次第に暖かくなっていく風が頬を撫で、街の明かりが運河の水面に反射して揺れ動く都会の倉庫街の雰囲気に実に合う。そういえばタンゴ発祥の地とされるカミニートもそんなところだった。

リズムが途中で途切れたり変化するので、これで踊ることはできないだろう。オーセンティックなタンゴの演奏を期待してはいけないし、活躍しすぎるフルートの音が好きか、という問題も残る。もっとも後者は慣れると気にならないばかりか、卓越したフルートの音色が馴染んでくる。そして編曲の妙味だろう、たとえば有名な「ジェラシー」などはどこか東洋的な、つまりは日本的な雰囲気を作り出している。

古典的な名曲からピアソラの作品まで、満遍なく網羅しながら、原曲を思い出す程度にはメロディーが残り、そのアレンジによってある時はジャズ、ある時はバロック!(バッハの「トッカータとフーガ」なども聞こえる)というように姿を変える。だが一定のスタイルの幅を超えることはない。ここがポップス・オーケストラの聞かせどころと心得ている。また独奏楽器を含め奏者の腕前が確かなので、録音でごまかされる感もない。

というわけでこのCDは今では私のお気に入りとなっている。ユニークなタンゴであはあるが、このような企画されたCDを聞くことは困難な時代になってしまった。このCDをトラック単位で楽しむことは、ネットの時代でも可能ではある。けれどもCD全体を聞きながら次第に体が馴染んでいく時間を楽しんだりして、トータルで感じる味わいの素晴らしさをどこかに忘れてしまっていると感じるのは私だけだろうか。


【収録曲】
1.エル・チョクロ(アンヘル・ビジョルド)
2.ラ・クンパルシータ(ヘラルド・ロドリゲス)
3.ミス・メンダシティ(ペーテル・ブレイナー)
4.ノスタルヒコ(フリアン・プラサ)
5.アディオス・ノニーノ(アストル・ピアソラ)
6.ミロンガと私(ティト・リベロ)
7.涙と微笑み(パスクァル・デグリージョ)
8.ソー・イン・ラヴ(コール・ポーター)
9.オブリビオン(アストル・ピアソラ)
10.ジェラシー・タンゴ(ヤコブ・ゲーゼ)
11.来るべきもの(アストル・ピアソラ)
12.オルランド・ゴニに捧ぐ(アルフレド・ゴビ)
13.場末の誇り(フランシスコ・カナロ)
14.メランコリコ(フリアン・プラサ)

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...