2014年3月17日月曜日

ハイドン:交響曲第83番ト短調「雌鳥」(ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンセントゥス・ムジクス)

モーツァルトの交響曲第25番(1773年)や第40番(1788年)と同様、この作品(1785年)はト短調で書かれている。確かに冒頭は、激しく悲劇的である。けれどもハイドンは、直ぐに明るさを取り戻し、第2主題では雌鶏の鳴き声によく似たメロディーが印象的な、何ともユーモラスな作品となっている。

けれども驚くべきは第2楽章である。ここでは音楽がいつまでたっても次の主題を奏でないまま、延々とリズムだけが進行する部分が3箇所ある。最初が一番長く、その拍数は(数えてみると)22拍にも達する。演奏によっては音楽が止まりそうになるし、LPの時代なら、レコード盤に傷がついて知らぬ間に繰り返しているのではないかと思うところだ。だが、ごく小さくなったところでフォルテとなり、聴衆を驚かす。「驚愕」ほどではないが、この楽しさはちょっとしたものだ。音楽は何の気もなく、ひたすら優雅にステップを踏んでいる。

これらに比べると後半の楽章は地味である。第4楽章では、丸でベートーヴェンの音樂のように音樂が重なり疾走感がある。軽いノリのタイトルがついた作品だが、緊張に始まり明るくリズミカルに終わる。

さて、CDはニクラウス・アーノンクールによるものを選んでみた。この瞠目すべき演奏は、冒頭から大いに刺激的だ。まず主題が速めに出たかと思うと、フレーズの間に一瞬の「間」がある。アーノンクールらしい一瞬である。この「息継ぎ」が随所に出てくると、最初感じた違和感も次第にやみつきになっていく。第2楽章も聞き慣れた演奏とはひと味違って新鮮だ。音樂にメリハリがあって、リズム処理が面白い。音樂が消え行くところなど、すこぶる印象的なのは、もともと音楽的なテクニックが優れているからだろうと思う。

第2楽章の後半や終楽章で、弦楽器が強くアクセントを刻むところがある。他の演奏では目立たなかった部分にも工夫が施されていて、古楽奏法が目指した音樂の再構築の醍醐味が味わえる。ドイツ・ハルモニア・ムンディの録音も大変良い。

2014年3月10日月曜日

アルベニス(バルエコ編):スペイン組曲作品47(G:マヌエル・バルエコ)

毎日面白くないニュースが続いている。テレビを見るのが鬱陶しくて仕方がない。しかも3月も10日というのにこの寒さである。日本列島がすっぽりと冬型の気圧配置に覆われたまま、1ヶ月以上も過ぎている。外の光も日に日に増しているというのに。

そんな寒い日に明るく静かな外を眺めながら、引きこもりの生活を送っていると、アルベニスの「スペイン組曲」を聞いてみたくなった。もっとも私が持っているCDはピアノ用の原曲をギターのために編曲をしたもので、パラグアイのギタリスト、マヌエル・バルエコによる1990年の演奏である。


「スペイン組曲」は8つの部分から成っているが、バルエコは演奏順を少し変えている。

1)第6曲「アラゴン」
2)第7曲「キューバ」
3)第4曲「カディス」
4)第5曲「アストゥーリアス」
5)第8曲「カスティーリャ」
6)第1曲「グラナダ」
7)第2曲「カタルーニャ」
8)第3曲「セヴィーリャ」

ここで最も有名なのは「アストゥーリアス」だろうが、それ以外の曲もいい。これらはその通り、スペイン各地の雰囲気を題材としている。もちろん「キューバ」は当時スペイン領だった。なおアルベニスはカタルーニャ地方の出身である。バルセロナを中心とするカタルーニャ地方は、言語も文化もスペインとは異なるが、ここではスペインの一部として扱われている。

私はその光溢れるスペインを二度しか訪れたことがない。しかもそれぞれ数日しか滞在していないから、「行っただけ」というのが正しいかも知れない。そもそも少し前までスペインは、旅行しにくいところだった。内戦や軍事独裁政権が長く続いたからか、旅行者を寄せ付けない。日本からも遠い。結局イベリア半島に興味のある学者か、スペイン語学習者くらいだっただろう。それでも私が最初にスペインへ行った1980年代の中頃には、すでに西側諸国の観光国になっていた。物価は安いが列車はよく遅れる国、というのがガイドブックでの決まり文句だった。

学生だった私はまずバルセロナに到着し、その夜の急行でセヴィリャに向かう予定だった。ところがこの列車が何時間も遅れ、乗継に失敗したのだった。砂漠の中の小さな駅で途方に暮れていると、これも遅れて到着したマドリッド行き特急列車が到着し、私はそれに飛び乗った。砂漠の中をくねくねとひた走るタルゴ列車は空調が効いていて涼しかった。けれどもそのせいで、数々のオペラの舞台となったセヴィリヤにも、アルハンブラ宮殿のあるグラナダへも行くことができなかった。その代わりに中世の城塞都市の雰囲気を残す灼熱のトレドに行くことはできたし、その途中にアランフェス協奏曲の町、アランフェスを通ることもできた。

2度目は90年代に入ってからで、オリンピックを間近に控えたバルセロナからバスでピレネー山脈を越えフランスへ向かった。街は活気に溢れ、景気が良くなっている様子が感じられた。けれどもバスが通過する周囲の村々は、丸で時間が止まったかのように建物は朽ち、中央の広場に古い教会がそびえていた。その印象は、カラフルな国旗とは反対の、モノクロ映画のような光景だった。

砂漠に囲まれた乾燥した土地は、ヨーロッパであってヨーロッパらしくなく、なめらかな言葉を話す人々の心は、むしろ複雑で深い情念を内に秘めたかのようだった。「スペイン組曲」を聞きながら、昔の旅行の断片と、行くことのできなかった多くの地方を想像した。東京で見る冬の青空が、スペインにも繋がっているように思えた。


2014年3月7日金曜日

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」(1990年8月18日、ヴェローナ野外劇場)

私のオペラ体験第3弾は、ローマでの「トスカ」、ニューヨークでの「オテロ」に続き、ヴェローナでの「アイーダ」であった。こう書くと、自分でも何と恵まれた体験かと思うが、当時は日本でオペラを見ることなど、余程のことがない限り不可能であった。大阪に住んでいた私は、地元のオペラ・カンパニーというものを知らなかった。それで外国に行くと、物見遊山で歌劇場などを見て回ったのだ。

私のオペラへの旅は、このようにまずイタリアへの旅立ちだった。これは偶然だが、今でもドイツものよりはイタリアものが好きなのは、この体験に基づくのかも知れない。さらに夏の風物詩とも言える音楽祭は、私を気軽にオペラ鑑賞に導いた。カジュアルな服装で、観光客気分でヴェローナに出かけたのは1990年、23歳の時だった。

当時私は夏休みを利用して、スイスのローザンヌにある工科大学に交換プログラムによって滞在する機会を得ていた。私の専門分野であるプログラミングの課題をこなすかわりに、滞在費を大学が支給してくれた。と言っても留学生への奨学金レベルであり、大学の寄宿舎の寮費を払うと、手元にはほとんど残らなかった。

私は毎週末を、ヨーロッパ各地への1泊旅行にあてた。1ヶ月ほどがたち、スイス国内の有名な観光地を巡った後は、いよいよ大好きなイタリアへの旅行を計画した。私のイタリア行きに、どういうわけかイスラエル人とカナダ人の友人が同行することになったが、カナダ人は乗るべき列車に乗ってこない。私たちはミラノ中央駅で彼を待ったが、携帯電話などない時代である。私たちはついに会うことができなかった。あとで聞いたところ、彼は列車を間違え、ヴェローナではなくボローニャに着いていたのである!

イスラエル人は変わった奴で、ミラノの駅前のマクドナルドで昼食を食べたあとは、別れてどこかへ行ってしまった。私が見る予定のオペラなどに興味はなかったのだろう。仕方がないから私はひとりでヴェニス行き急行列車に乗り、猛暑のヴェローナに着いた時にはシエスタの時刻。駅前は閑散としており、ここがあの「ロミオとジュリエット」の町かと戸惑った。

駅からうだるような暑さの中を中心部に向かうと、巨大な円形劇場が威容な姿を現した。ローマ時代の遺跡としては最大級の野外劇場が、有名なアレーナ・ディ・ヴェローナであった。さっそく本日の演目を尋ねたところ、何と「アイーダ」であった。ヴェローナ野外オペラで最も人気のある「アイーダ」は、偶然とはいえ私を大いに興奮させた。しかし切符がないのである!当然、売り切れ、ということだった。仕方がないから諦めてチケット・オフィスを出ようとしたところ、何人かの男が話しかけてきた。ダフ屋である。聞くと今夜のチケットがあるではないか。私は迷うことなくその一枚を、交渉して手に入れた。

開演は夜の9時で、終演は夜半を過ぎ1時頃。さすがイタリアである。お昼は長いから、観光も十分できる。その前に滞在するホテルを決めなければならない。ところが今度は、困ったことにホテルがどこも満室なのである。思えば夏の観光地に何の下調べもなく行くのは、インターネットのない時代とは言え、少し準備不足だと言うしかない。途方にくれていると、あるホテルのフロントの女性は私に、「特別な部屋があるわ」と言ったのだ!「部屋を見せてくれ」と言うと、彼女は私をprivatoと書かれた部屋の鍵を渡してくれた。そこは従業員用の狭い個室だった。だがシーツのあるベッドが置いてあり、シャワーもついている。私は直ちにそこに決めた。イタリア旅行はなんとかなるものだ、と思った。言葉がわからなくても。

「ジュリエットの家」などを散策して夕暮れ時なると、こんなにいたのかと思うほど大勢の観客が、列をなしている。まるで夏の甲子園球場のような感じである。私はそのスタジアムにチケットを持って入ると、それは見事な空間が目の前に出現した。私の席は中段の、舞台に向ってかなり右側であった。石の椅子に腰掛けて開演を待っている間中も汗が噴き出る。けれども夕暮れともなると心地よい風も吹いてくる。やがて隣の人から順に蝋燭が配られ、お互いに火をつけあうと、何万人もの観衆が火の光の中に灯った。オープニングはこのようなことをするのか。今ならビデオで見るシーンも、全て初めての私は感動し、音楽も始まらないのに何枚もの写真を撮った。

この日、誰が何を歌ったかなど何もわからなかった。けれども終演後に買ったプログラムから、次の様な歌手陣であったことが判明する。アイーダ:マリア・ノート、ラダメス:フランコ・ボニゾッリ、アムネリス:ダイアン・カリー、ランフィス:イーヴォ・ヴィンコ、指揮:アントン・グァダーニョ。
大スペクタクルの演出は、円形劇場の最上段から舞台までを広く使い、動物も出演する壮大なものだった。第2幕の凱旋のシーンは息を飲む見事さ。だが第3幕以降の舞台もなかなかのものだった。私はむしろ後半の舞台が思った以上にいいものだ、ということをこの舞台で発見した。深く音楽が浸透していき、夜が徐々に更けていく。音響も思ったほど悪くはない。最後の二重舞台のシーンが終わると、満場の拍手とブラボーが渦巻き、そこにヴェルディの肖像画が登場した。

上演が終わると、待っていたかのようにレストランが一斉にオープンし、夜食の時間となる。私も何かを飲んでいると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。振り向くと何と、スイスの大学の同じ研究室の助手がガール・フレンドといるではないか。ボリビア人の彼は彼女とラザニアなどを食べてる。こんなところで会うなんて、なんという奇遇だろう。私は興奮しながら夜のヴェローナをホテルに戻り、昼間の疲れもあってあっという間に眠りに落ちた。

翌日はお昼にヴェローナを発ち、ミラノへ戻る途中、クレモナに立ち寄った。ストラディヴァリウスの活躍した街である。そしてヴェルディが生まれたパルマは、ここからほど近い場所である。そう思うと、何かとても感慨深い気分であった。

2014年3月6日木曜日

J.シュトラウス:ワルツ・ポルカ集(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

カラヤンは数多くのシュトラウス・ワルツ集を残しているが、1975年にEMIへ録音されたベルリン・フィルとの一枚もその一つである。他にもドイツ・グラモフォンへ録音した3枚組や、輝かしいウィーン・フィルのニューイヤーコンサート(1987年)もあり、どれも素晴らしいが、私はこの録音がある時期気に入っていて何回も聞いていた。すべて有名な曲で、しかもカラヤンで聞きたくなる曲ばかりである。ここに「ウィーンの森の物語」と「天体の音楽」を加えれば、まああとはいい、という気もする。

「こうもり」は名盤の全集(2種類ある)もあるが、「ジプシー男爵」の序曲は私の知る限りこの演奏くらいである。この曲がこのCDでは最も気に入っている。何と形容したらいいのか、カラヤンで聞くしっとりと味わいのある名曲は、至福のひとときである。

私が住んでいたある街の、近所の小学校の前を通る時、いつも流れていたのが「アンネン・ポルカ」で、この曲を聞くたびにそのそばを通りがかる朝の通学時間を思い出す。その小学校は私もかつて通ったところだ。フランス風ポルカの代表例のような作品を、カラヤンは真面目に演奏している。

「美しく青きドナウ」での見事な演奏も、ウィーン・フィルによるものとはまた違う魅力があるが、「皇帝円舞曲」のスケールの大きな演奏も大好きだ。シュトラウスの音楽など、物凄くたくさんあるので、別にどれを聞いてもいいのだが、久しぶりにこのCDを取り出して聞いているうちに、とても幸せな気分になった。


【収録曲】

・J.シュトラウス:喜歌劇「こうもり」序曲
・J.シュトラウス:アンネン・ポルカ
・J.シュトラウス:美しく青きドナウ
・J.シュトラウス:喜歌劇「ジプシー男爵』序曲
・J.シュトラウス:トリッチ・トラッチ・ポルカ
・J.シュトラウス:皇帝円舞曲

2014年3月2日日曜日

ドヴォルジャーク:歌劇「ルサルカ」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

もう3月だというのに冷たい小雨の降る日曜日の夜の銀座を、久しぶりに東劇を目指して歩いた。MET Liveなどという企画がなければ、私は一生この作品には触れなかったかも知れない。今シーズン第5作品目となったのは、国民楽派の作曲家ドヴォルジャーク(ドヴォルザーク)の歌劇「ルサルカ」である。ドヴォルジャークのオペラはおろか、チェコ語で歌われるオペラを見るのはこれが初めてであった。

珍しい作品だというのに客席は結構な入りである。時間をわずかに過ぎて入ったにもかかわらず、懐中電灯を持って席を案内され、見るともうヤニック・ネゼ=セガンが叙情的な前奏曲を演奏しはじめている。いつもなら協賛会社のCMが流れている時間だと思っていたのに、客席はもう物音ひとつしない静かさで、いつもながら東劇の客席の静かなのには驚かされる。

まず舞台に姿を表したのは3人の女性である。そしてその妖精たちの父親であるヴォドニク(バス・バリトンのジョン・レリエ)は、3人の若き乙女に囲まれて、恐ろしい容貌との対比が印象的である。このような出だしは、どこかで見たことがある。モーツァルトの「魔笛」における3人の侍女とパパゲーノ、ワーグナーの「ラインの黄金」における3人のラインの乙女とアルベリヒ。ドヴォルジャークはこれらの作品を意識していたと想像する。

彼女たちの姉妹で主人公のルサルカ(ソプラノのルネ・フレミング)は、少し遅れて木の上(水の妖精だというのに!)に現れ、有名なアリア「月に寄せる歌」を歌い喝采を浴びる。彼女はこの曲でMETのオーディションに受かり、以来METでの当たり役としてこの役を歌い続けているという。だが音楽が切れるのはこの時だけで、幕間を除けば音楽は続いている。つまりワーグナーの後の作品ということである。作曲は1900年だから、そういえばフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」(1890年頃)に近い。同じメルヘン・オペラという共通点もある。

けれどもチェコ語というのは、(インタビューでも紹介されているが)むしろイタリア語に近いらしい(歌手たちが答えている)。「母音が前に出る感じ」であり、しかも子音が連続している。それは王子を歌ったポーランド人のピョートル・ペチャワによれば、「前歯のない子供が話すポーランド語」だそうである。音楽もワーグナーの影響も感じられるが、むしろヴェルディのようなドラマチックな部分が多いと、私は思った。もちろん民謡風の舞踊音楽が散りばめられ、素朴で美しい旋律は、ドヴォルジャークならではである。

人間の王子に恋した水の妖精ルサルカは、魔女のイェジババ(メゾ・ソプラノのドローラ・ザジック)に頼んで人間に変えてもらう。だがそれと引き換えに彼女は、声を失うのだ。王子も一目惚れをして、ルサルカと結ばれるのだが、彼女はもはや声が出ない。ここが第2幕の面白いところで、主役のルサルカが歌わないのである。王子はいよいよ愛想をつかし、それにつけこんだ外国の王女(ソプラノのエミリー・マギー)が王子と愛の二重唱を歌うのだが、そこにいるルサルカは何もすることができないのだ。

彼女は父親である水の精に助けを求める。ここにまたもやオペラの隠れた主題、父と娘が姿を現す。ジョン・レリエは幕間のインタビューで、スーザン・グラハムにこう告げている。水の精が、どこかで人間そのものを信じていないように思えるのは、全ての父親が娘に抱く感情に似ている、と。ここのインタビューはとても面白い。

第3幕で父親に連れて来られた森の中で、再びイェジババに会う。魔女は彼女の訴えに、王子を殺せば自分も生きられる、だが接吻をすれば王子は死ぬと告げられるのだ。再び現れる3人の水の妖精の美しい3重唱は、悲劇の前のきれいな曲である。全体に残酷な話だが、メルヘン調であることが深刻さを緩和している。やがてルサルカを探して現れた王子は、もはや外国の王女を愛してはおらず、ルサルカに近づく。彼は彼で若く、そして真剣なのである。そして接吻すれば命を失うというルサルカの忠告にもかかわらず、彼女に接吻し息絶える。

ルサルカは愛の犠牲となった王子の存在に触れ、人間の尊さを理解する。ここの最後のフレーズこのオペラの最大の力点が置かれている。神に感謝するルサルカは、はじめて人間の美しさを賞賛し神を讃えるのである。自ら望まなければ知ることのなかった人間社会の醜さと美しさを、妖精の目に託して伝えるスラヴ神話に、「愛か権力か」といったワーグナーの思想、さらにはヴェルディに通じるような運命的葛藤をも内在する心理描写を持たせ、そこにドヴォルジャークは一貫して幻想的で劇的な音楽を付けている。

不思議な作品だと思った。魔女に扮したザジックが出て不気味な歌を歌うと「トロヴァトーレ」を思い出すし、自ら招く愛する人の死という運命は「オテロ」や「カルメン」を、さらには愛のための犠牲に気付くという部分には「トゥーランドット」の主題にも重なった。だがそれを民族的雰囲気の持つ音楽で彩った作品は、他にない雰囲気を持っている。脇役を含め、完璧なキャストで挑むMETの舞台は、このように作品の持つ様々な側面を示し深い味わいを残す。台本に忠実なオットー・シェンクによる演出は安心して見ていられるし、それに何を言ってもネゼ=セガンの集中力を絶やさない指揮に、退屈だと思うことはなかった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...