2019年1月21日月曜日

NHK交響楽団2019横浜定期演奏会(2019年1月19日、横浜みなとみらいホール)

美味しいご馳走を食べた後は、しばらく食事をしたくないくらいに満ち足りた気分になる。そんなコンサートだった。

NHK交響楽団の定期公演は、それぞれ二日間、同じプログラムの3つのシリーズ(A,B,C)から成っているが、そのうちの一つがサントリーホールである。 サントリーホールは本拠地NHKホールに比べると座席数が少ないから、サントリー定期(B定期)は毎回ほぼ定期会員で満席である。たとえ座席が残っていても、隅っこの席がわずかに売り出されるだけだ。

私が最も注目するロシア生まれの指揮者、トゥガン・ソヒエフはここ数年、毎年定期公演に呼ばれているが、今回の公演プログラムを見て、私は残念な気持ちでならなかった。こんなに素敵なプログラムなのに、B定期はチケットが取れず、定期会員でない自分は行きたくても行けないと確信したからだ。ソヒエフの十八番であるリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」、その曲の前にフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」とブリテンのシンプル・シンフォニー。これほどこの指揮者の魅力を引き出したプログラムはないと思った。

だが良く調べてみると、NHK交響楽団には年1回の横浜公演が冬に開催されており、今回はその同じプログラムがみなとみらいホールで開催される。これは3年前に同じホールで聞いた、やはりソヒエフの「白鳥の湖」と同じパターンである。何と嬉しいことだろうか。私はチケットの売り出し日(確か夏だった)にオンラインで早速購入。もちろんS席、1階席のど真ん中を押さえた。半年も先の公演のチケットを買うのは、私としては極めて稀なことである。でも早々に売り切れることは目に見えている。売り切れなくても、いい席は瞬く間に無くなってしまうと思った。

意外なことに、この危惧は完全に外れた。当日券も大量に残り、1階席の前方でも空席が目立つ。そればかりか、あのサントリー・ホールでさえ直前までチケットが残っていたのだ!何ということか、これほど魅力的なプログラムなのに!ソヒエフはそんなに人気がなかったのか?私は同行した妻と共にあっけにとられ、もし今日のコンサートが期待外れだったらどうしようと心配した。だれしも空席の目立つ会場で演奏したくはないだろう、などと要らぬ不安まで頭をよぎる。

実際には熱心に足を運ぶ聴衆には、手を抜くことなどプロの演奏家にあるわけがない。いや横浜の聴衆は、そのことを気にしたのか、いつもの醒めたNHKホールの聴衆とは違い、楽団員が登場するだけで拍手をするという行為に打って出た。まろさんことコンサートマスターの篠崎氏は、本日重要なソロを演奏することもあってか、丁重に観客に向かって挨拶をした。東京から半時間とかからない横浜でも、観客の雰囲気は随分違うものだ。

そういうわけで公演前のくだらない不安は、まったくの杞憂に終わった。最初の曲、フォーレの冒頭が丁寧に演奏され始めたとき、その少し押さえられた音量の、静かでそれでいて艶のある音色に、一気に引き込まれたからだ。音響の理想的なホール、これ以上望めない位置を差し引いても、聞きなれたN響からこんなにふくよかで、生き生きとした呼吸が聞こえるこてきた経験はない。それは魔法のように、会場を満たす。

ほのかに陰を帯びたフランス音楽は、管楽器が弦楽器に溶け合い、ムード音楽のようである。指揮棒を持たないソヒエフはオーソドックスながら、細部にまで実に念入りに表情をつける。各楽器の弾き始めるタイミングと強さが手の動きに完璧に呼応するのは、もはやN響と指揮者の相性が最高の地点に達しているからだ。うっとりと聞き惚れているうちに有名な「シシリエンヌ」を迎える。ハープの音をバックにフルートが物憂い旋律を奏でる時、そのたっぷりと歌われるメロディーが、時間が止まったように南欧の情景を描き出すことを大いに好ましく思った。今日のコンサートは、これは素晴らしいもにになると確信したのである。

前半の頂点は、弦楽器のみで演奏されるブリテンの「シンプル・シンフォニー」第3楽章にあったのではないだろうか。この曲は「感傷的なサラバンド」という副題がついている。弦楽器は少しビブラートを押さえたように厚みを減らし、そのことが私たちを大陸から隔てられたブリテン島へと誘う。イギリス音楽の特徴を、ソヒエフとN響は伝えてやまない。どこか日本のメロディーとも通じ合うような懐かしい旋律に耳を傾けていると、なぜか心からこみ上げてくるものがあった。それこそ音楽の魔術とでもいうものだった。愛おしく懐かしいようなフレーズが2回聞かれる。この響きは、日本のオーケストラの音楽だ。

ここにブリテンが自ら指揮した演奏のCDがあるが、それでもこんなに表情豊かではない。音楽的にはむしろN響との演奏の方が、より美しいと思う。第2楽章のピチカートでの、団員の楽しそうな表情は、このコンビが人間的な面でも共感しあえる関係にあることを雄弁に示していた。私はブリテンの音楽をひところ良く聞いていたが、その時にブリテンが若干21歳の時に作曲した作品が、これほどにまで表情豊かであることに気付かなかった。大満足のうちに、前半のプログラムが終了した。朝から快晴の横浜の、三日月形をしたホテルなどを眺めながら、コーヒーを飲む。

今日のコンサートの特徴を挙げるとすれば、ひとつはフランス、イギリス、ロシアと続くヨーロッパの国々の音楽風景をどう表現し分けるか、と言う点。もうひとつは、単独または複数の楽器が重なって音を出すときに聞こえる、様々な音の表情の変化を楽しむ、という点である。「シェエラザード」ほどこれにうってつけの曲はないだろう。しかも、あの「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」を下地としているこの曲は、同時にオリエントの雰囲気を持ち合わせ、物語の進行に合わせて表現される様々な情景描写を、心ゆくまで味わわせてくれる名曲である。

レスピーギが師事したというリムスキー=コルサコフは、サンクトペテルブルク音楽院の教授であった。そして指揮者のソヒエフは北オセチア生まれながら、ここの音楽院で学んでいる。師弟の関係にあるソヒエフが、リムスキー=コルサコフの曲を得意とするのは、当然と言えば当然だと言える。けれども、いかに前評判が高くとも、実際に聞いてみるまではやはりわからないものである。

ここに2枚の「シェエラザード」のCDがある。ひとつは亡命後にコンセルトヘボウ管弦楽団を振ってセンセーショナルな西側デビューを果たしたキリル・コンドラシンの定評ある名演、もうひとつは現在のロシア音楽の第一人者ワレリー・ゲルギレフが、キーロフ歌劇場のオーケストラを指揮した演奏。両者は大いに異なる演奏だが、ゲルギレフのものは現代的ですこぶる速く、それでいて歌うところは歌っている。恐ろしく技巧的で、野心的でもある。それに比べるとコンドラシンの演奏は、奇を衒わず正攻法で、つまらないくらいにオーソドックスである。実際私は長年、評判よりもつまらない演奏だと思っていた。

だがソヒエフの演奏はコンドラシンに近い。何も細工をしていないように思えるのだが、一音一音に魂が込められ、フレーズの息は長い。これではオーケストラが壊れてしまうのではないかと心配なほど。それはソロ・ヴァイオリンのまろさんにも言える。両者は時折、顔と顔を接近させてコンタクトを取りながら、機知に富みつつロマンチックな旋律を歌いあげてゆく。ソヒエフが右手の指を折ると、奥からハープがヴァイオリンに重なる。

上手いソロはヴァイオリンだけでない。特にクラリネットとファゴット。そしてチェロ。中音域の良さがN響の特徴のひとつだが、それはこの曲で如何なく発揮されたと言って良い。 左右の分離、各楽器の生々しさ、あるときはピチカートで、あるときは打楽器を伴って、音のパノラマは、散りばめられた星々のようにキラキラと輝き、音のキャンバスを埋めてゆく。色彩感に溢れた音のパレットの中から、千変万化する表情を手慣れた技術で描いてゆくその様は、聞いている方がうっとりさせられる。余裕の表現はまた、けれんみたっぷりの緊張感とも、才気溢れる若者の野心とも、無縁である。職人的であると言うべきか。

ため息さえも出ないようなたっぷりとした時間に身を浸し、消えゆくようにヴァイオリンが主題を弾き終えたとき、聴衆の誰一人として拍手をするものはいなかった。目を閉じて味わう静寂さえもが、音楽の延長であるように感じられた。またとない時間の持続。やがて沸き起こる拍手とブラボー。何度も呼び戻される指揮者と楽団の嬉しそうな表情。それらのすべてが、このコンサートのすべてを物語っていた。

翌日大阪で、同じコンサートがあるとわかったとき、私は関西の実家に電話をかけ、両親にこのコンサートのチケットを誕生日プレゼントとして贈った。信じられないことにチケットはまだ有り余っており、両親は私たちと同じように1階の中央でこの演奏を楽しんだようだ。N響のもっとも上手い時の演奏を両親に贈った私たちはまた、大変満ち足りた気持ちであった。そして今後、今日聞いた3つの作品を聞くときは、ずっとこの日の演奏を思い出すであろう。

CDで聞くほうがいいと思う演奏が多い中で、今日ほど実演の音楽が心に迫る演奏に出会うことはない。だからこそ、この特別な体験を持つ事ができたことに、心から喜びたい気持ちを噛みしめながら家路についた。

2019年1月17日木曜日

東京交響楽団第36回モーツァルト・マチネ(2019年1月14日、ミューザ川崎シンフォニーホール)

初めて聞く小菅優という女性ピアニストは、その歩き方と同じように力強い演奏だと思った。それでなるほどベートーヴェンを得意としているようだが、このたび聞くのはモーツァルトのピアノ協奏曲を2曲、いずれもハ長調の曲である。オーケストラは東京交響楽団。指揮はピアニストが兼ねる。つまり「弾き振り」である。だから通常指揮者が立つ位置にピアノが置かれ、大屋根は取り外されている。

ここ最近は、近年になく多くのコンサートに出かけているが、年明けにも相応しいプログラムがあることに気づかされた。名曲主体に割に華麗なプログラムが多い。そして今回のモーツァルト・マチネも、規模こそ小さいが、曲はいずれも「ハ長調」である。前半がピアノ協奏曲第8番K246、後半がピアノ協奏曲第21番K467である。前者は依頼された伯爵夫人の名前から「リュッツォウ」と呼ばれ、後者は使用された映画音楽の主人公の名を取って「エルヴィラ・マディガン」と呼ばれることがある。

どちらも女性の名前をニックネームとしている、ということだが、そんなことはこの公演のプログラム構成において、一切考慮されているわけではない。なぜなら、その記載が、配布されたプログラム冊子にないからだ。これらの名称は勿論モーツァルト自身がつけたわけではなく、曲の性質とも関係がない。 だが、いずれの作品も明るくて飾り気がなく、前向きで聡明な曲である。この性質こそハ長調ではないかと思う。

舞台に登場した小菅は、ピアノに腰掛けると手で指揮を始める。オーケストラは若手主体で楽器も高い音がするような気がする。適度に残響を伴うホールの効果もあって、2階席脇で聞いていてもしっかりと新鮮な響きが聞こえてくる。反射板が取り払われているので、若干ピアノの音がデッドだが、それは仕方がない。第8番は規模が小さいが、丁寧な指揮と見事なピアノの弾き分けが視覚的にも面白く、興味はつきないものだった。コントラバスを舞台に向かって左奥に配置するのは、流行りだろうか。

第21番のコンチェルトになって、トランペットやティンパニが加わり、いっそう華やかさが増したオーケストラに向かい、少しもテンポを緩めることなく音楽を進めて行く。ピアノと各独奏者の響き合いがとても見事で、木管の奏者は特にピアノと溶け合うことに心から喜びを感じている様子がよくわかる。よくどこを弾いているかわからなくならないもんだ。伴奏が終わってピアノ独奏に入る部分や、随所に登場する独奏部分(カデンツァ)との交錯。一度限りの音楽にあって、このようなライブならではの緊張感と、それを進めて行くプロの演奏家の素晴らしさは、音楽を聞く喜びを再認識させてくれた。

ただひとつだけ、どうも音楽にこなれていない面があるとすれば、それは思うに、この組み合わせによる演奏が、普段から定常的に行われいるものではないことからくる一種の緊張感の結果なのかも知れないと思う。弾き振りということもあるかも知れない。つまり音楽は見事なのだけれども、聞きなれたフレーズのちょっとした間合いに、揺れる心の動きを反映させるだけの余裕がないのである。モーツァルト、特にK467のような作品は、聞く側にその思いが強い。例えば第1楽章の展開部など、ちょっと一瞬静かになって、心の奥底にそこはかとなく現れる微妙な影を感じたい。だから、ここはもっと表情がついていればなあ、と残念に思うところがしばしばあった。

弾き振りのチャレンジングなライブ感と、それに見事にこたえるオーケストラからは、今や我が国でも見事なモーツァルトの演奏が可能であることを十分に示していた。だからこそ、そこに今一歩の充実感を求めたいと思う。とはいえ、第2楽章のアンダンテの美しさを生で聞くことのできる幸せを感じるには充分であったし、第3楽章の、決して乱れることのないタッチと掛け合いの素晴らしさは、興奮さえ覚えるものだった。演奏をさらさらと前に進め、感情を入れずにきれいに聞こえる演奏は、90年代に流行ったものだった。そういうスタイルは、もしかしたら少し古くなってきているのかも知れない。いまではフレーズに強弱をつけつつも、精密な緊張感は維持するようなスタイルに変わってきている。つまり「音楽性」が再認識されつつあると思うのだ。

3連休最終日の快晴の休日。お昼前のひとときに音楽を聞く幸せをかみしめながら、私は鎌倉へと向かった。

2019年1月15日火曜日

YAMAHAのネットワークプレイヤー NP-S303

CDプレイヤーの買い替えと同時に、私はネットワーク・プレイヤーについても検討を余儀なくされた。7年以上使用してきたPioneerのN-30は、とうとうあまり真価を発揮しないままその役割を終えることになる。入手当初からiPad等を使用した制御に問題があり、それはここにきてとうとう致命的な症状を呈し始めていた。しかもこの機種は、Wifiに対応していないという問題点があった。

音質を重視するオーディオ環境において、技術進歩の激しいネットワーク部分を切り離している点は理解できる。けれどもそのPioneerだって後続の機種はWifiに対応している。なぜWifiでなければいかねいか、という点は、少し説明を要する。有線接続するためには、我が家のステレオの配置状況から、無線ルーターを子供の頭の近くに配置しなければならず、それは避けたいからだ。N-30を無線化するには、イーサネット・アダプターを購入する必要があった。

いっそN-30を実家に譲り、インターネットラジオ専用機とでもして使用してもらい、新しくネットワーク・プレイヤーを購入することにした。もっとも実家においてもWifi環境は必要で、このため結局私はイーサネットアダプターを購入して、一度N-30に接続し、動作確認をすることまでした。

Pioneerのコントロールアプリの操作性は、よく言われているように極めて悪く、そのため私は満足にネットワーク環境での音楽を楽しんでいない。それでもこれまで我慢してきたのは、子供がまだ小さく、家も狭いので、それだけのゆとりがなかったからだ。しかし子供が中学生になり、もうその必要はなくなった。丁度その時に、我が家のオーディオ機器は一気に故障を始めた、と言っていい。

ネットワーク・オーディオは大きく分けて2つの形態があるとされる。ひとつはPCからDAC経由でアンプに接続する形態。もう一つはNASからネットワーク・プレイヤーに接続し、PCなしで音源を再生するというものである。私は後者を目指したが、NASも故障したので、結局中途半端な状態でこの危機を迎えた。NASは寿命が短い上に、結構な値段がする。このためCDプレイヤーの方が断然コストパフォーマンスが高いのだが、それはこの際、問題にできない。問題はネットワーク・プレイヤーを買いなおすだけの価値があるのか、ということだった。

ネットワーク・プレイヤーを使用する大きな目的は、ハイレゾ音源、すなわちCDを上回る規格の音源を再生することにある。だがこの趣向は一向に流行の兆しが見えない。それどころか、そもそも音源をメディアとして購入し、手元に置いて置くことが時代遅れになりつつあるのだ。

実はそのことを知ったのは、ネットワーク・プレイヤーを買いなおしてからである。新しいネットワーク・プレイヤーに搭載された聞き放題の音楽配信サービス対応機能が、このことを私に気付かせたのは皮肉なことだった。今ではインターネット・ラジオとSportifyが私の音楽生活の基盤となりつつある。このことはあとで詳述する。

そういうわけで、一向に流行る兆しのないネットワーク・プレイヤーの中でも、安定した評価と手ごろな価格を持つYAMAHAのNP-S303を購入することになった。色はシルバー。もちろんWifi対応である。パネルには必要最小限の液晶のみが表示され、かさばることもなく、コントロール・アプリも使いやすい。

NP-S303にはSportifyとDeezerという2種類の音楽配信サイトに対応しており、DeezerというのはCDと同じ品質の配信として注目されている。しかしながら、曲の合間の空白部分をなくす、いわゆるギャップレス再生ができず、クラシックファンとしては致命的である(2018年末現在)。一方、Sportifyは十分な量の音楽と豊富なプレイリストを備え、しかも安い。広告を聞くことにすれば何と無料というオプションもあるのだが、高音質設定ができず、しかもシャッフル再生しかできない。これもクラシックの聞き手には問題がある。従ってSportifyはPremium会員となる必要がある。幸い昨年末まで、3か月100円というプロモーション・キャンペーンを展開していたため、迷わずこの特典を利用することにした。

さて、NP-S303にはradikoをそのまま再生することもでき(音質は非常に悪い)、さらにはUSBメモリやAirPlay、Bluetoothにも対応している。専門的な観点では、DSDの再生ができないといった点はあるが、私の場合これは問題ではない。むしろコントロールアプリによって好きなインターネットラジオ局を登録しておき、スイッチ一つでバイエルン放送協会やWQXR、あるいはClassicFMなどの世界のクラシック専門FM局に接続できることが何よりうれしい。

NASも一応買いなおして、リッピングしたCD音源をPCなしで再生することにしたいし(そうすれば外出先からでもスマホで自分の音楽ライブラリにアクセスできる)、楽しみは広がるのだが、現時点ではまだそこまで試してはいない。

NP-S303購入はこのように私のオーディオ生活を再建し、一気に豊かなものにした。問題は音楽を聞くだけの時間的な余裕が、(少しできたとはいえ)まだまだ少ないことだ。だがそれは、仕方がないことだ。

ところで実家に送付したN-30は、とうとう致命的な故障をしてしまった。取説によれば、これには修理が必要で、その費用も数万円に上ると予想されている。衝撃が加わったからなのか、どうかはよくわからない。私はなんとなく、最初から壊れる傾向にあったと考えている。インターネット・アダプターまで購入したにもかかわらず、その投資に見合うだけの効果が得られないうちに、計画が頓挫してしまった。私にできたことはiPadのステレオミニ・プラグ端子からそのままアンプに接続し、TuneinRadioなどのアプリをそのまま鳴らすことだけだった(これでは豊かな音量は得られず、音質も悪い)。

お正月元旦の日本橋を私はミナミのビック・カメラを目指して歩き回り、そこでChromecastを購入することになる。Chromecastにはオーディオ版も発売されており、それを使えばネットワーク・プレイヤーなどなくても音楽配信サービスやインターネット・ラジオが聞けるようになることが判明する。これもまた皮肉なことに、N-30の故障がもたらした新たな展開であった。Chromecastについては、またあとで書くことにしようと思う。

2019年1月14日月曜日

PioneerのCDプレイヤー PD-30AE

長年使ってきたPhilipsのCDプレイヤーCD950の調子が悪い。音は問題なく再生されるのだが、CDを乗せるトレーが上手く動かない。手で操作する必要がある。手で操作すれば一応はなるのだが、そうまでしてCDを再生する気がしない。そこで予備機としてDENON製10万円程のマルチディスクプレイヤーでCDを聞いてきた(今やこの値段では、SACDを再生する機種は手に入らないが、SACD自体が流行らないメディアになっている)。しかもこれも、最近はトラックの選択がうまくいかない、といったような不具合が出て来た。

Philipsは20年以上前、DENONも10年くらい前に、やはり同じような症状で一度修理に出している。その時はまだ部品も残っていて(保証期間、部品保存期間はすでに終了していたが)、何とか戻って来た。後者はSACDの再生にも問題があったが、これも何とか復活した。この2つのプレイヤーが、時を同じくして調子が悪くなったのだから困ったものだった。

だが私にとって最も重大だった問題は、そのようなCDやSACSをめっきり聞かなくなったことだ。最近ではもっぱらCDの音をリッピングしてWalkmanで持ち歩いているし、TouTubeがあれば多くの音源に触れることもできる。インターネットラジオやSportifyがあれば、一日中クラシック音楽を聞いていることもできる(このことは後で書く)。 そういうわけで、最近はCDを処分し始めている。HDDに音楽を保存して、それが終わったものから中古で売るのである。ところがHDD(NAS)の調子まで悪くなってしまった。これはバックアップがあるから、製品を買い替えれば済むのだが、HDD経由でネットオーディオを楽しむためには、ネットワークプレイヤーが要る。私はPoineerのA-30を持っているが、これも最近は調子が悪い。何といっても持っているiPadやスマホでのアプリの動作が、壊滅的に悪い。

今や私のオーディオ環境は、絶滅の危機にさらされている。プリメインアンプと30年近く鳴っているONKYOのスピーカー(は一度ツイーターを交換したが)を除けば、私は満足に我が家で大きな音を出すこともできない。にもかかわらず書棚には1000枚は下らないCDが眠っているし、NASに保存した音源は1TBを越えている。そこで一気にこれらの機器を交換することにした。

まず何としてもCDプレイヤーである。今時、音楽をCDプレイヤーで再生する時代ではない。かといって1000枚余りのCDを捨て去るわけにもいかない。一枚一枚思い出があるので、それらについてこのブログで語り、音源をNASに保存するまでは、CDプレイヤーで再生することも必要だ。けれども最近は、CDプレイヤーの売れ行きが悪化の一途をたどっているようで、そもそも製造しているメーカーも少なく、しかも機種は驚くほど少ない。

私はまたネットワークプレイヤーも調子が悪いので、いろいろカタログをみていくうちに、CDプレイヤーとネットワークプレイヤーが一体となった機種があることを発見し、ほとんどそれを購入する気持ちでいた。YAMAHAやTEACなどから、それらは発売されてる。ところが、何とこれらはもうほとんどモデルチェンジがなく、数年前に発売されたきりで、TEACに至っては在庫があまりないのではないかと思われた。家電量販店のおじさんに聞くと、これらの機種はそれぞれに価格を抑えているため、どちらの機構もマニアには不十分だ、などとあり来たりの話をする。

結局、ネットワークプレイヤーも今では流行らなくなっているらしい。これはハイレゾ音源がまだ普及の途上にあることを意味しているのだろうか。いっそアンプも含めた一体型(ネットワークレシーバーというらしい)を買って、手持ちのアンプにつなごうかと考えたが、これが信号を外部へ出力できないという問題に直面する。 とどのつまりは、一体型は早々に諦めることとなったのだが、CDプレイヤー単体を買い替える必要は、本当になるのだろうかという疑念は、なかなか晴れなかった。

そんななかで、Pioneerは何度も経営危機を迎えながらも、未だにCDプレイヤーを発売していることがわかったのは、上記の家電量販店でのことだ。おじさんの説明はあてにならないので、価格ドットコムばどでいろいろ調べたら、これは実売価格2万円を切るような製品であっても、結構な満足度であることが判明した。他のメーカーといってもYAMAHAくらいしか思いつかない(私はDENON、マランツがどうも気に入らない)。2万円といえば、HDDを買い替えることに要する費用程度にすぎず、来日オーケストラのS席よりも、確実に安い。これで10年はCDをならせるのだから、オーディオ製品と言うのは安いものだ。

とうとうPioneerのCDプレイヤーPD-30AEをネットで注文し、到着するのに1週間もかからなかった。年末に冷蔵庫が壊れ、買い替えたときのポイントがそのまま使えた。そしてこの機会に、スピーカーケーブルとオーディオケーブルを、価格ドットコムの口コミに書かれていた情報をそのまま信用して、BELDEN 8470 16GAというものと、モガミ2534というRCAケーブルに交換することにした。これらはAmazonで数日後に届く。

クリスマス休暇初日の休日に作業開始。朝からオーディオラックを移動させ、背面の配線を一度すべて取り除き、たまった埃を払いながら、年末の大掃除をする楽しい時間!テレビやルーターなども含めて、1日がかりで配線しなおした時にはもう夕暮れ時であった。取り外した機器は4つ(壊れたCDプレイヤー2つとネットワークプレイヤー、NAS)、それに配線の類。これらの新しものに交換し、手持ちのCDをかけてみる。

するとどうだろう。PD-30AEの音は十分な鳴りっぷりを見せ、空間に安定した音楽が漂うではないか。やはり据え置き型だけあって、静音設計がきっちりと施されており、変なノイズが一切ない。それによって音楽以外が極めて静かである。必要な音だけがちゃんとなっているような感じ。それはCDをブルーレイディスクプレイヤーに接続して聞いてみるとよくわかった。少しぼやけた音になっているからだ。

ついでにスピーカーケーブルを以前のものに戻してみたが、これもしっくりこない。RCAケーブルも戻してみたが、やはり輪郭がぼやける。そういうわけで、この3つの交換作業は、大満足のうちに終了した。こうなったらいろいろなCDを聞いてみたくなる。壊れたPhilipsのCD950だけは捨ててしまうのが惜しいので、友人に相談してみたら、なんと彼は修理を試みてくれると言ってくれた。それだけでも十分嬉しいのでそのまま差し上げてもいいという気持であった。

シューベルトの「冬の旅」などは、これまでどんな演奏で聞いてもしっくりこなかった。なんでこの曲が有名なのかも、実際はよくわからなかった。だが今回初めて、新しいプレイヤーで鳴らして十分に感動的な音楽であることを、この歳になって初めて実感した。シュトラウスのワルツをカラヤンの録音で聞くと、しっとりと上質の音楽が鳴り響く。高級なシャンパンのようである。クラシックだけでない。ホコリまみれのわずかなポピュラー音楽のCDも、まるでそこにバンドやボーカルがいるようである。

このCDプレイヤーにはCDの複合化にはオーバースペックなDAC(192kHz/24bit)が搭載されている。その理由はよくわからない。しかもデジタル入力の端子がない。せっかくいいDACを搭載しているのだから、DAC単体としての使い方ができないのは納得ができない。そのことがこの機種に対する不満(というよりは理解不能な部分)である。だがそれ以外は、大いに満足すべき製品であると言える。

(Pioneerにはこれより低位機種のPD-10AEというのもあって、同じDACを搭載している。両者は実売価格であまり差がない。一方、全体の作りはPD-30AEの方がいい。よって私は後者を購入することにした。過去の技術となりつつあるCD再生に対し、これ以上の価格を投じる必要はないだろう)

2019年1月12日土曜日

NHK交響楽団第第1903回定期公演(2019年1月11日、NHKホール)

新しい年の最初のN響定期に思い立って出かけた。金曜日の夜のコンサートにも関わらず、当日券は沢山余っていた。指揮は私としては初めて聞くフランス人のステファヌ・ドゥネーヴ。プログラムは色彩豊かな大編成もので、まずルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」第2番、続いてサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番イ短調(独奏はゴーティエ・カプソン)、後半はポピュラープログラムで、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」とレスピーギの交響詩「ローマの松」。お正月に相応しい絢爛豪華なプログラムである。

いつものように3階席の自由席で通路側の席を確保すると、再び1階へ降りてワインを飲む。NHKホールのドリンクはビールでも確か400円くらいだが、ワインは1杯800円もする。けれどもこれはなかなかおいしい。年が明けて最初の週にもかかわらず、私は仕事のことで頭がいっぱいで、心に余裕はなく、とても音楽など楽しむ気にはなれない。そのすさんだ気持ちを、なるべく早くクラシック音楽に向けるには、ちょっとしたアルコールが必要だった。

開演前のワインは、このような気分転換にはうってつけなのだが、プログラムの前半に睡魔が襲うことになるのは目に見えている。これは想定通りである。ルーセルの「バッカスとアリアーヌ」は、従って結構大編成であるにもかかわらず、記憶にほとんどない。一方、カプソンを迎えてのサン=サーンスは、チェロという比較的小さな音の楽器がソロを務めるにもかかわらず、3階席まできっちりと聞こえる演奏で、オーケストラとの呼吸もピッタリの名演だった。いろいろな独奏のチェリストを聞いてきたが、カプソンは一等秀でているような感じを受ける。テクニックということもあるが、音が前面に出てくる。そのことがチェロの魅力を高めているような気がする。アンコールに演奏された「白鳥」では、何とドゥネーヴが舞台左奥のピアノを自ら弾いて、美しい至福の時が流れた。

ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」は、時代が少し遡る。冒頭でイングリッシュ・ホルンが見事なソロを披露する。多くの打楽器もピタリと決まる。フランス音楽の特徴は、たとえばドイツやロシアの作曲家の作品にないような楽器の組合せが聞こえることだ。ドゥネーヴは非常に大きな体で、いつもよりオーケストラの音も大きく感じられるが、決して力任せの指揮をするわけではなく、むしろ緻密だと思った。そして歌う。それはピアニッシモの美しさに現れている。

そのことが見事に実感されたのは、やはり「ローマの松」だろう。千変万化するリズムと、数々のソロの重なり。いっときの予断も許さず見とれているうちに、様々な楽器が登場する。極めつけは舞台後方に備えられたSP蓄音機であった。打楽器奏者がこの蓄音機を鳴らすと、かすかなスノーノイズを伴った小鳥のさえずりが聞こえて来た。それに合わせて奏でられる木管楽器の美しさといったら!インフルエンザが猛威を振る東京で、少しせき込む人もいたが、レスピーギが自ら指定したと言う蓄音機が、これほどにまで饒舌に「ジャニコロの松」を表現するのは聞いたことがない。

蓄音機の音響効果に酔っていたら、今度は次第に楽器奏者が増えて行く。舞台の両サイド上方にあるバルコニーには、普段はテレビカメラが設置され、今日もプログラムの前半にはカメラマンがいたが、今はオルガン奏者と、それに何名かの金管楽器の譜面台が置かれている。両サイドからの管楽器とオルガン、それにチェレスタだのピアノだの、そして大規模な打楽器。すべてが一斉にクレッシェンドしていく「アッピア街道の松」は圧巻であった。ドゥネーヴという指揮者の美しさはまた、フォルティッシモにおいても堅調であった。決して音は濁らず、破たんもしない。それでいて迫力満点の音のパノラマは、大盛況うちに幕を迎えた。ドゥネーヴという若い指揮者は、なかなかいいと思った。

2019年は平成最後の年となる。国内外ではいろいろな問題が山積する中で、クラシック音楽の世界などというものは、あまり大きな変化というものを感じない。だからこそ、今日も古い音楽に耳を傾けるという地味で保守的な楽しみが、一層価値のあるものに感じられる。そういうことを改めて感じる年明けである。


2019年1月1日火曜日

謹賀新年

年頭にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。

2019年の今年は、オッフェンバックとスッペの生誕200年、ベルリオーズの没後150周年に当たります。けれどもクリスティアン・ティーレマン指揮による恒例のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは、これらの作曲家が取り上げられることはありませんでした。演奏は、ほんの一部をテレビで見ただけで、まだ注意深くは見ていませんが、初登場なのになんとなく既視感のあるコンサートでした。バレエを含む映像部分が多かったような気もします。毎年、変わらないコンサートですが、見る側の新年を迎える気持ちによって、その印象が随分変わるような気がします。

来年2020年は、アンドリス・ネルソンズが初登場するとアナウンスされています。

平成31年元旦

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...