2012年7月31日火曜日

ハイドン:交響曲第78番ハ短調(ロイ・グッマン指揮ザ・ハノーヴァー・バンド)

我が国では「運命」の名で知られるベートーヴェンの第5交響曲が「ハ短調」であることによって、それ以降に作曲された「ハ短調」の作品は、苦悩や陰のイメージでとらえられがちである。だがこのハイドンの交響曲第78番も「ハ短調」である。そしてこの曲は何と優雅な「ハ短調」だろうか。

第1楽章の冒頭は、この作品の瞬間的な印象を決定づける。「何かいつもとは変わった響き」というのがハイドンが表現したかったことのひとつではないかと思う。丁度、ヒット曲のアルバムに少しは曲調の異なった曲が混じっているように。それで76番、77番と続く一連の曲がひとつのセットであることがよくわかる。ハイドンの短調による交響曲は多くない。「ハ短調」では52番以来ということになる(以降では95番)。

第2楽章はしっとりと美しく、ロマンチックですらある。この楽章の調性は変ホ長調であり、もはや短調ではない(ハ短調と変ホ長調は平行調の関係にある。つまりいずれもフラットが3つ)。静かな音楽が突然大きな音で自信たっぷりに変換する部分などは、ちょっとそれまでにない感じである。長いが苦にならない。

第3楽章は短いメヌエットだが、ここはハ長調。ちょっとおもしろいのは音楽が時に休止するような気がすることである。パリ交響曲以降の作品で試みられる様々なユーモアの始まりが感じられる。それは最終楽章にも言える。 木管楽器が可愛いソロを吹きながら、流れるような数分が続く。規模は小さいが充実した音楽である。やはりハ長調で終わる。

短調が長調主体の音楽に程よいスパイスを効かせ、一種の流行を形成していた古典派の時代が過ぎ去り、ロマン派の時代になると短調はそれ自体が、人間の感情や観念を表現するテーマとなって行く。その始まりはベートーヴェンの「ハ短調」だとすると、これはそこに至る最初の一歩ではないか、などと妄想しながらこの曲を聞いた。むろんこれは素人の勝手な思いつきでしかないが。

2012年7月30日月曜日

ハイドン:交響曲第77番変ロ長調(ロイ・グッマン指揮ザ・ハノーヴァー・バンド)

交響曲第76番から第78番の3曲は同じ時に出版されているので、1つの作品群とみなすことができる。そして第77番はその前の第76番とは対照的な曲である。第76番のはちきれるような快活さに比べると、第77番はしっとりと落ち着いた趣きに感じられた。

ロイ・グッドマンの演奏は、しかしながら決して重くなったり引きずったりはしない。それどころか非常に楽天的で健康的である。それはここでもうしろでチェンバロがポロンポロンと鳴っているからであろう。この表現がこの曲につきまとうものかどうかはよくわからない。なぜなら別の演奏で聞くと、また違った感じがする。表現の幅が広まり、曲の様々な側面が現れていくのもまた、聴き比べの面白さではある。だがこのような目立たない曲では、どれくらいそういうことができるか。

第2楽章などはさらにしっとりとして、通奏低音がバロックのような雰囲気を出す。だがアダム・フィッシャーの演奏で聞くと、それはまた随分違う。第3楽章についても同じで、速度が倍くらいに遅い。好みでは、私はグッドマンの快速演奏をとる。都会的で楽しい。だがグッドマンの演奏は繰り返しも多く、演奏時間は長いようだ。

第4楽章は冒頭が平凡に思えるが、展開されていくと快速のまま突入するフーガもあり、木管の重なりは何かモーツァルトのようでもある。創作の確かな筆致が、生きた息使いを感じさせる。ハイドンは乗りに乗って作曲を進めていたのではないかと想像してしまう。

2012年7月29日日曜日

ハイドン:交響曲第76番変ホ長調(ロイ・グッマン指揮ザ・ハノーヴァー・バンド)

この第76番の交響曲は爽快な曲だ。聞くほどに味わいも深い。70番代に入ってハイドンは安定した様式を確立し、その充実ぶりは年を重ねるごとに大きくなっていく感じがするが、それは作曲者自身の自信の現れだろう。そう思わせるのも、この曲の作曲の経緯によるのだ。

第76番からの3曲は(あまり知られてはいないが)「イギリス交響曲」とも呼ばれ、ハイドンがイギリスを訪問する際に持参する予定だったようだ。これは後の「ザロモン・セット」などよりも前のことである。

第76番は特にリズムの処理が面白く、何やら列車が走る様を思い起こさせた。そう言えば当時のイギリスは産業革命の真っ盛りで、蒸気機関が発明されたのもこの頃である。機械のような連続した速いリズムが、そういう感じを表しているとしたら少し考え過ぎだろうか。

古楽奏法の広まりがもたらした効果のひとつは、それまで埋もれていた古典派の作品に新しい光をあてたことである。ハイドンのこの作品を、初めて今回はロイ・グッドマンが指揮するハノーヴァー・バンドによって聞いている。この演奏の特徴は、いつも通奏低音のチェンバロが鳴り響いていることだろう。これまでの演奏になかった効果なので、それは実に楽しく、耳に心地よい。あまりこのような演奏ばかり聞いていると、少し耳障りな感じがしなくもないが、私にとって76番にして初めて聞くグッドマンの演奏は、なかなか新鮮で嬉しい経験だった。

第2楽章の落ち着いた感じも後半になって盛り上がり、この曲がもはや試作品というようなものではなく、むしろ自信作の趣きを有している。各楽章の長さや速さのバランスもいい。そういうわけでなかなか聞き応えのある曲なのだが、でも後半の「パリ交響曲」や「ロンドン交響曲」のようなユーモアや洒落はまだなく、真面目である。そういったことがこの時期の交響曲の存在感を薄めてしまっているのは、残念であるが仕方がないことなのかも知れない。

2012年7月28日土曜日

ハイドン:交響曲第75番ニ長調(鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカ)

意味ありげな序奏で始まる第1楽章は、続く第1主題で印象的な3連打の音符がそれまでにない雰囲気である。勢いがあって、バランスのあるいい曲のようにも思えるが、より後年の曲に比べるとどうしても分が悪い。

第2楽章は静かにダンスを踊るような曲で、しみじみと味わいがあるのだが、第3楽章に続くと同じような感じが長くなり、第4楽章も重なりあう感じと落ち着いた風格が好印象であるものの、これというものがあとに残らない。このブログを書くにあたって、ちょっと苦労した。

だが演奏については少し書いておきたい。この曲を私は鈴木秀美が指揮をするオーケストラ・リベラ・クラシカによるもので聞いた。録音は2005年である。

古楽的な手法によって主に古典派の作品を演奏するこの団体は、当然ながらほとんどが日本人のオーケストラである。ところがその溌剌として明るい演奏は、ヨーロッパの伝統こそ感じさせないものの技術的には引けを取ることなどなく、むしろ新鮮で新しいスタイルを持っているようにさえ思う。それは本場の演奏にはない魅力を持ち、さらにはその上を行くのではないかと思われるようなものを感じさせる。日本人の演奏家にこれほど多くの素晴らしい古楽器奏法奏者がいるのかとさえ思う。よく練習された精鋭の音楽家が、日本にもハイドンの埋もれた作品を最高の水準で演奏することができるのだと、主張している。

選曲がどのように決まられるのかはよく知らないし、私も実演を聞いたことがないのだが、このCDでは演奏会をそのまま録音したような組み合わせにより、ヴァンハルの交響曲ホ短調、ハイドンの交響曲第75番、それにモーツァルトの「プラハ」交響曲がカップリングされている。わざわざ有名でない作品を取り上げるハイドンの一連のシリーズは、私のような収集家の脇をくすぐる凝った選曲である。そしてその演奏の素晴らしさは、録音の良さも手伝って、目立たないが他には代え難い価値を放ち続けている。

もしかするとこの演奏で聞くことによって、ハイドンの75番という交響曲は新たな息吹を吹き込まれたのかも知れない。

2012年7月27日金曜日

ハイドン:交響曲第74番変ホ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

ハイドンが古典派交響曲の作風を確立して、いよいよ名曲が続くようになる一歩手前で、その後の数多くの作品に比べるとどうしても一歩目立たないために、ちょっと損をしているような作品である。A=フィッシャーによる全集からの演奏は、充実していて大変素晴らしい。

序奏のない第1楽章の冒頭はとても印象的。どこがどうということはないが、充実した響きである。高速で駆け抜けるこの演奏は、ビブラートを押さえた古楽器の音色がとても新鮮だ。

さらにこの曲でもっとも素晴らしいのは第2楽章かも知れない。低音はチェロの響きだそうだが、最初はコントラバスかと思った。この音楽を聞いていると、穏やかな春のような気持ちになる。第3楽章のメヌエットは基本的な3部形式でトリオを伴う。今回はファゴットとヴァイオリンである。第4楽章はリズム処理が面白いが、優雅な部分もある。どこか中途半端でもあり、そのあたりがこの曲の魅力を少ないものにしているのかも知れない。

2012年7月26日木曜日

ハイドン:交響曲第73番ニ長調「狩り」(オルフェウス管弦楽団)

第1楽章の冒頭の序奏を聞くと、それまでとは違った印象を受ける。木管の和音に弦楽器が乗って、何か意味ありげな行進である。ハイドンの交響曲をここまで聴いてきた印象では、ここでまたひとつハイドンの作風が飛躍したな、という印象を受ける。

久しぶりに趣向を変えてオルフェウス管弦楽団による演奏で聞いている。メリハリの聞いた刻みとともに弦楽器の重なる音がピチカートでない!アダム=フィッシャーの演奏ではここがピチカートなので、演奏の違いも大きい。本当はどちらが正しい?のだろうか。よくわからない。

第1主題が始まる。ソナタ形式の古典派の音楽が、安定感を持って始まることが何とも嬉しい。揺るぎない形式がここでは確立され、自身たっぷりな様子である。時おりホルンが聞こえてきて素晴らしいアクセントとなっている。モーツァルトはこのような古典形式をさらに優雅に表現し、ベートーヴェンではもはやこのような音楽は見られない。

第2楽章は何か「驚愕」のメロディーを思わせる。もしかするとその原形ではないの、とさえ思ってしまう。第3楽章は3拍子だが、アクセントの置き方がどこか風変わりである。単なるメヌエットではない感じで、そう言えばベートーヴェンは交響曲第1番で「メヌエット」と言いながらスケルツォを書いたことを思い出す。

第4楽章は歌劇「報いられた誠」の序曲だそうである。ここでいきなりティンパニとトランペットが入ってくいる。別の曲であるにもかかわらず第4楽章の雰囲気に相応しい。70番代で唯一標題付きのこの作品は、大変立派な作品である。

2012年7月25日水曜日

ハイドン:交響曲第72番ニ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

もともと少人数だった当時の音楽隊にホルンが4本も入っていることは異例であったと思われる。だがこのような曲がハイドンの交響曲には3つある。第13番ニ長調、第31番ニ長調「ホルン信号」、それにこの第72番ニ長調である。すべてニ長調なのはホルンが引きやすいからなのかも知れないが、よくわからない。

この3つの交響曲はだいたい同じ時期に作曲されたと考えるのが普通だろう。さらには作風の観点からも類似点が多く、この72番は他の2曲と同様、1960年代前半の作曲と今では考えられているようだ。これまで70番代の交響曲はすべて1770年台後半の曲だったから、10年以上も遡ることになり、順を追って聞いてきた聞き手を混乱させる。が、このようなイレギュラーは、これまでにはしばしばあったが、いよいよこの72番が最後である。

第1楽章のティンパニの強打で始まる冒頭は、なぜかプロコフィエフの「古典交響曲」を思い起こさせた。威勢のいい第1楽章は全体の中でもっとも素晴らしい。これに対して第2楽章は、フルートとソロ・ヴァイオリンの掛け合いが続く静かな曲である。

第3楽章は続く第4楽章よりも派手でホルンも活躍するが、第4楽章はそれまでの曲よりも俄然長く、延々とアンダンテが続く。ここは変奏曲ということになっているが、丸でダンスを踊っているようだ。コントラバスなどが活躍して、特徴的ではある。コーダの部分では再び威勢がよくなって、わずか30秒そこそこで終わる。アダム・フィッシャーの演奏は、きびきびして良い出来栄えである。もしかしたらこの曲は、この演奏がナンバー・ワンではないかと思われたが、他の演奏を丸で聞いていないので、それ以上のことは何も言えない。

2012年7月24日火曜日

ハイドン:交響曲第71番変ロ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

一般にこの時期のハイドンの作品は、オペラを多作していた時期にあたり、そのためかいわゆる「聞いて楽しい曲」を多作した。そこでは音楽的な様々な試みがむしろ影を潜め、大衆迎合の時代とも言われる。今風に言えば「受け狙い」ということだろう。だが、この曲は何と言っていいか、とても特異な感じのする曲で、音楽的にも様々な試みがなされているようだ。

専門的なことはよくわからないので聞いた印象から言えば、ハイドンの初期の作品からはかなり充実したものが感じられるが、より後期の作品ほどではない。また誰か他の作曲家の作品、たとえばモーツァルトやベートーヴェンのようかと言われると、幾分そうかもしれないがやはり違う。当たり前といえばその通りだが、これはやはりこの時期のハイドンの作品だろう。

短いが無駄のない序奏で始まる第1楽章は、メロディーが独特で聞いていて飽きない。主題の提示、反復、展開といったソナタ形式の教科書のようなきっちりとした構成である。続く第2楽章は比較的長いロマンチックとも言えるような曲だが、第3楽章のメヌエットもその延長のような感じである。聞いていて楽しいかと問われると難しいが、ここのトリオはなかなか印象的である。

これに対して第4楽章はなかなか充実しており、全体の白眉とも言える。流れるような弦楽器に時おり顔を出すオーボエが楽しい。全体にバランスが良く、長すぎず短すぎず、明確なメロディーラインで、すっきりと終わるのも好ましい。演奏は再び、アダム・フィッシャー指揮のオーストリア=ハンガリー・ハイドン管弦楽団の全集から聞いている。大分慣れてきた快進撃の演奏でツボのようなものを押さえている。悪くない。

2012年7月23日月曜日

ハイドン:交響曲第70番ニ長調(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)

1779年の作曲。ハイドンは47歳、モーツァルト23歳である。目立たないが、味わいのある曲で、聞けば聞くほど好きになる。私はいつもこのブログを書くために最低2回は聞くことにしているが、この曲は4回以上も聞いた。すこし変わったイメージの第1楽章は一度聞くだけで印象的だが、第2楽章のメロディーも何かベートーヴェン風で、前の69番とどこか似ている。

もっとも特徴的だと思ったのは、第4楽章である。ここで序奏に続いてフーガが始まるのは、あのモーツァルトの「ジュピター」を思い出させる。ただ「ジュピター」は1788年の作品だからこの作品の9年後ということになる。もっともフーガ自体はバッハ時代に多くあるので、古い感じであるとも言える。交響曲に使われているというところが面白い。

サイモン・ラトルがバーミンガム時代に録音した2枚のハイドンは、曲の組合せが面白い。このCDは60番、70番、そして90番という切れにいい番号の作品が並んでいる。その意図は不明だ。いつも聞いてきたホグウッドの演奏と違い、モダン楽器による演奏で響きがシンフォニックである。そのためか聞いた印象ではハイドンの交響曲がここでまた少し進歩した感じだ。このように演奏によって聞いた印象は結構違う。

2012年7月22日日曜日

ハイドン:交響曲第69番ハ長調「ラウドン」(クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団)

第68番は長い第3楽章がその特徴であったが、第69番では緩徐楽章が第2楽章に戻っている。その第2楽章が、また長い。20分程度のうちの半分が第2楽章である。だがその第2楽章は前作とは随分違い、静かな音から急に大きな音になるなど、どこかベートーヴェンを思わせるようなところがある。作曲されたとされるのは1776年頃だから、ベートーヴェンはまだボンにいて少年の頃である。

けれどもこの曲の楽しさは第1楽章につきる。そして華々しくも威厳のあるようなメロディーは、この曲のタイトルであるオーストリアの将軍の名に相応しい。ハ長調というのがぴったりの作品である。同じハ長調である第48番「マリア・テレジア」がやはり同じオーストリア賛美型のメロディーで、この第1楽章は見事にそっくりである。第3楽章は長く感じるが、舞踏会のような印象。最終楽章はプレストで速い。

ハイドンは古典派の代名詞のような存在だが、この古典派とは「ウィーン古典派」のことで、なるほどこういうスタイルが古典派か、などと考えてしまった。ドイツとイタリアが融合し、しかもどこか気品が漂う。

2012年7月21日土曜日

ハイドン:交響曲第68番変ロ長調(クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団)

第1楽章は実にすがすがし曲で秋の涼しい朝に最適である。第1主題が終わって第2主題?に入る時にファゴットと思わしき楽器がブーンとうなり続ける。2度までもそれは続く。ハイドンのユーモアがこの頃から顕著になっていくのだろうか。とにかくこの曲を聞きながら最寄りの駅までの数分間の徒歩が何とも心地よい。

第2楽章はあまり特徴がないので、この曲はこれで終わりなのかと少し心配になる。耳元のイヤホンが鳴り終わる頃に電車が到着。いつもの通勤電車に乗った。ここで第3楽章が始まった。弦楽器で刻みながら、ゆったりと流れる音楽は気品がただよう。ハイドンのもっとも美しい音楽に入るのではないかとさえ思う至福の時間が流れる。窓からは明るい朝の日差しが入ってくる。2駅を通り、そろそろ終わりだろうか、と思ったが嬉しいことに終わらない。4分以上が経過、さらに繰り返しが始まる。いい音楽が続くことが嬉しい。電車はもう何駅も停車している。そろそろ終わりかな、そう思って手元のiPodを確認するが、おお、なんとまだ3分の1が残っているではないか!またもや反復?延々と弦楽器の刻みが続く。ダンスがなかなか終わらない。電車はもう5駅も通ったのに。ちょっと長すぎるんじゃないの?まあいいか。飽きてきた、とは思いたくない。でも変化に乏しい。ちょっと指揮が間違っているんじゃないの??

品川を出た時に始まった第3楽章がようよく終ったのは渋谷を出た時だった。ようやく終楽章が始まる。待ちかねたように速いリズムで快走する。電車に乗った気分に合っているような感じがするのはホルンとファゴットの響きが何か警笛音に似ているからだろうか。結局降りるべき新宿駅に到着したとき音楽が終わった。

2回目に聞くときには長大な第3楽章を覚悟して聞いた。そしてますますその音楽が好きになった。けれども第3楽章だけが何ともいびつである。それにどういう意図があるのかは、ハイドンに聞いてみないとわからない。誰か知っていたら教えて下さい。

2012年7月20日金曜日

ハイドン:交響曲第67番ヘ長調(クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団)

交響曲第67番はいろいろな実験が試みられた作品で、専門家からは高い評価を得ているようだ。だが私は専門家ではないので、聞いた感想から記す。なお聞いたのは引き続きホグウッドの演奏。

この作品はなぜかとても聞く気にならない作品である。それまでの作品とは違う印象があるのは事実だ。例えば第1楽章の冒頭も、メロディーが流れるような感じで、いわばイタリア風とも言うべきか。音と音の差を音程と言うが、続く音との音程差が少ない。度数という言葉があるが、これが小さいということだろう。そのような音楽は、古典派の中でも後期、つまり初期ロマン派の雰囲気を醸し出す。だから私はこの作品が、ハイドンの作品の中でも何か区切りのような作品のようにも思えてくる。

だがその音楽が何度も聞きたくなるような曲かと言われると、少なくとも私に関する限りそうではない。その後の多くの作品を知っているからか、平凡で面白く無いのである。だが、そう言ってしまうとハイドンに申し訳ないような気がする。

第2楽章がとても長く感じる。そして第3楽章もこれという特徴が感じられない。第4楽章に至っては、せっかく始まった音楽が途中で停滞し、流れが阻害される。そういうわけで、私はこの曲について何を書こうかしばし中断を余儀なくされた。そのような曲がり角の作品がハイドンにはいくつかある。それもこれもハイドンが交響曲の世界で続けた飽くなき追求心の間で、結果的には成功とは呼べないまでも、実験的な作品を次々生み出していった過程に生じる、過渡的な(しかしかなり大胆な試みを持った)成果だからだろう。

さて、ここで専門家の力を借りよう。この曲における特徴は以下の様なものである。

・第1楽章の主題がアルペッジョであること。Arpeggioとは和音の構成音を順番に弾いていくことで、私の「流れるような」印象はこのことか。またピチカートが多用されている。
・第2楽章の最後に指定されたコル・レーニョ(col legno)奏法。これはバイオリンの弦を弓の背中で弾く。
・第3楽章はスコルダトゥーラ(scordatura、変則調弦)が利用されている。本来の調とは異なる調に調弦し、そのまま引くと違う音になる。
・第4楽章は中間部にAdagio e cantabileが置かれ、第2の緩徐楽章ともいうべき部分がある。

というわけで、様々な実験がなされていることがわかるのである。


2012年7月19日木曜日

ハイドン:交響曲第66番変ロ長調(クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団)

作曲年の1778年は、第65番から10年程度離れている。そしてこの年はモーツァルトで言えば交響曲第31番「パリ」といったあたりである(ケッヘル番号300番前後)。第66番の曲を聞いてまず思うのは、古典派の交響曲としての充実ぶりである。典型的な古典派のイメージであり、長調の明るさとおおらかさ、そして躍動感を持ち合わせている。

音楽は時に立ち止まり、次のフレーズが印象的に出てくるのは、あの「ジュピター」を思い出させる。わかりやすい展開部もしばし物思いにふけるような陰影を持っていて、続く大作曲家の時代の先駆けを感じさせる。弦と管の重なり方も、素人が聞いてもおなじみの雰囲気で、心が落ち着く。

第2楽章はすでに結構ロマンチックである。10分も続くアダージョは規模も大きいが、充実していて聴きこむような美しいところもあるし、急激に音が飛び出すところもある。これまで聞いてきたハイドンの交響曲の中では、一頭飛び抜けた感じがする。オペラを多く作曲したこの頃のハイドンは、イタリア風のメロディーを交響曲に取り入れて、それまでにない深みと美しさを獲得したのではないだろうか。ただ陽気なだけでなく、旋律のひときわ印象的な歌わせ方はカンタービレの世界である。

それにしては平凡な第3楽章も、続く第4楽章も、ホグウッドの演奏で聞くと大変素晴らしい。ホグウッドのハイドンは90年台に相次いだ一連の古楽器演奏によるもののひとつであり、古典的演奏の最も美しい形だろうと思う。それまでほとんど見向きもされなかった初期から中期の交響曲が、この時代に一気に新しいスポットライトに照らされていまなお輝いている。いくつかある同種の演奏の中でも、特に私のお気に入りである。

2012年7月18日水曜日

ハイドン:交響曲第65番イ長調(フランス・ブリュッヘン指揮エイジ・オブ・エンライトゥメント管弦楽団)

第65番は作曲年がさらに遡って1769年とも推定される。それはエズテルハージ時代の中でも「疾風怒濤」期の交響曲というわけだが、確かにそのような雰囲気であり、そして何とも可愛らしい曲である。何の変哲もない曲に聞こえるが、かといってつまらない曲というわけでもなく、私はこの曲を聞きながら少し眠ってしまった。耳にとても心地がよかったようだ。演奏が優れたものだからそう思ったに違いない。

その演奏・・・フランス・ブリュッヘンの指揮するジ・エイジ・オブ・エンライトメント・オーケストラで、この時期の交響曲を聞いてきたが、これが最後になる。この5枚組の愛すべきCDはほとんどが1990年台の後半に録音された。収録曲の中で一番番号が若いのが、第26番「ラメンタツィオーネ」であり、1768年とされている。それだとこの65番とあまりかわらない。最新のハイドンの研究によりもっとも最初と思われるのは、34番の1763年頃ということである。これは実に最初の短調の交響曲である。

このCDの収録順は、録音時間の都合もあり作曲年代順とはかなり異なる。40番代と50番代のほとんどに、26番とこの65番を加えたものがほぼStrum und Grangの交響曲ということになる、と覚えておくのがいいかもしれない。

この時期の交響曲を聞いてきた率直な感想は、何かとても疲れた、ということである。それぞれの曲が決して楽しみのために書かれたわけではなく、様々な試みが聞き手に反応を迫る。実験台にされているようで、ひとつひとつが挑まれた勝負のように重みがある。ハイドンはつぶさに、それが聞き手にどのような印象を与えるかを記録していたような気もしてくるのだ。

トンネルを抜けて交響曲のスタイルが確立し、時代の変化や楽器の進歩も加わって、後半の交響曲は俄然深みを増してくる。だがその先駆けとなる「パリ交響曲」まではまだ十数曲残っている。「オペラ創作」時代とか大衆迎合の時代などと呼ばれる比較的平穏な時期は、有名な曲こそないものの、ひとつひとつが幸福感に満ち、耳に心地よい。ハイドンの名声を確固たるものにした壮年期とも言うべき曲の数々ということが言えるだろうか。


次の第66番は1786年の作品とされており、1732年生まれのハイドンはこの時46歳である。

2012年7月17日火曜日

ハイドン:交響曲第64番イ長調「時の移ろい」(アダム・フィッシャー指揮オーケストラ=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

いわゆる「オペラ多作時代」は1776年から始まるとされている。第61番から第63番まではこのカテゴリーに入っていて、音楽は明朗快活だった。ところが第64番は1773年以前に戻る。長調で書かれているにもかかわらず、何か意味有りげな雰囲気で始まる。長い第2楽章に至っては、弱音器をつけた弦楽器が何分もの長さにわたって続く。

タイトルが「時の移ろい」となっているが、これはハイドンが付けたものではないらしい。ただ全体を通してどちらかというと内省的な気分にさせられる曲である。これはやはり61番から63番までのような曲調とは明らかに違う。はやりなのか、それともハイドンの作風の変化なのか、よくわからない。

第3楽章のメヌエットも、ダンス音楽という雰囲気ではなく、終楽章もただ速いだけの音楽ではない。かといってこの曲が残す印象は、それほどインパクトがあるわけでもない。フィッシャーの全集から聴いているが、演奏自体は普通である。iPodに持ち出して電車内で聞くと、まわりの雑音にかき消されて、どのような音楽だったかよくわからない。第2楽章の全体と、各楽章の弱音部分が聞き取れず、なにか中途半端な印象を持たざるを得なかったというのが正直なところである。

2012年7月16日月曜日

ハイドン:交響曲第63番ハ長調「ラ・ロクスラーヌ」(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)

標題付きのこの交響曲は大変親しみやすいので、何度も聞きたくなる。第1楽章の印象的な主題は、快活で明確なソナタ形式を保持しており、長さも丁度良い。このような曲を聞くとハイドンを聞く喜びを感じるが、実はこの曲は歌劇「月の世界」序曲と同じである。しかもその序曲はまた別の劇音楽からの転用とされ、この交響曲の他の楽章はその劇音楽の場面からつぎはぎ(パスティッチョ)に付けられた曲ということである。

手元のイタリア語辞典で「pasticcio」をひくと「(オーブンを用いる)パスタ料理」(ラザーニャなど)とかかれ、「いいかげんな仕事」とも書かれている。なるほどイタリア語は素晴らしい。今夜も我が家はパスタだったが、実にこれは手抜きの証拠であり、しかもソースはインスタントである。「転用」あるいは「つぎはぎ」などと訳される音楽用語には、このような意味があるのだろう。

だがハイドンは歌劇場の火事により楽譜が多く喪失してしまった。やむにやまれず他の作品を転用して作曲に勤しんだのかもしれない。その元となった劇に登場する名前をとったのが第2楽章の「ロクスラーヌ」ということだそうだが、この楽章は私に第100番の交響曲「軍隊」の第2楽章を思い起こさせた。何となく曲調が似ているように感じたのは私だけだろうか。

第3楽章にはオーボエのソロが活躍する。私はかつて三鷹で茂木大輔のコンサートを聞いたことがあるが、彼はこの作品を取り上げたのもこの第3楽章のオーボエの良さを知らせたかったのだと思う。第4楽章は速い曲で、勢い良く曲が終わる。

アダム・フィッシャーの全集においてこの第63番の演奏については、かなり成功している部類だと言える。ドラティと比べてみたが、メリハリが効いている上に古楽奏法の影響も感じられ、そのことが新鮮な味わいを増強している。


2012年7月15日日曜日

ハイドン:交響曲第62番ニ長調(アンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカ)

交響曲第62番は第61番と同じニ長調の作品である。同じような感じの威勢のいい曲で、どこかで聞いたことがあるなあ、などと思っていたら、これは第53番の第2稿からの転用で、たしかによく似ている。ここでどうしてもハイドンの時代には何のためらいもなく行なわれていた曲の転用(パクリ)について触れないわけにはいかない。

ほとんど毎週のように新曲を発表しなければならなかった当時の作曲家は、ある作品に使用した曲をアレンジするか、もしくはそのまま別の曲に転用することは頻繁に行なわれていた。歌劇の序曲が交響曲になることもしばしばだが、これは序曲がシンフォニアと呼ばれていた時代もあったので、当然と言えば当然である。バッハの作品にも数多くある。そしてハイドンのこの時期は、まさしくオペラ多作時代であって、次の63番などは使い回しの代表例のような曲である。

62番の交響曲は親しみやすさがこの曲の魅力であろう。第2楽章が3拍子で舞曲のような曲も何か陰影の富む感じがして、モーツァルトやベートーヴェン、あるいはシューマンに繋がっていく感じ。第3楽章も3拍子でこれはメヌエットだが、トリオもあってやはりどこかで聞いた感じがするのだが、錯覚だろうか。終楽章はアレグロでそれまでの曲とのバランスがいいのですっと耳に馴染む。

61番と同様に、聞いていて楽しい曲だが、どうしてもこの曲でないと、という感じはない。従って数多くあるハイドンの交響曲の中で、特に取り上げるべき作品かと問われれば残念ながらそうではない。ここがハイドンの難しいところで、数が多いだけに有名な、あるいは重要な曲に埋没してしまうが、埋没した作品が客観的に見て劣っているわけでは決してないと思う。だが人生には限りがあって、忙しい現代人の生活の中でわざわざハイドンの第62番目の交響曲を聞く時間は、そう多くはない。で私はこの曲を、世界最初にハイドンの交響曲全集をリリースしたドラティ指揮のフィルハーモニア・フンガリカの演奏で聞いてみた。溌剌としたいい演奏だと思う。

2012年7月14日土曜日

ハイドン:交響曲第61番ニ長調(クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団)


第61番はなかなかしっかりとした曲である。最初の2つの楽章が長く、特に第2楽章は10分を超える。各楽章の曲調がはっきりしており、いわゆる古典派の典型的な雰囲気を持っている。第2楽章の美しさは大変印象的なもので、丸でモーツァルトのような雰囲気である。弦楽器の乗ってフルートの独奏があるからだろうか。

第3楽章のメヌエットも、トリオの部分が聞かせる。速い最終楽章が、わすか3分余りであっと言う間に終わるのもいい。1776年の作品とされているが、モーツァルトの交響曲で言うとまだ31番「パリ」も作曲されていない、という時代である。モーツァルトはハイドンのこれらの作品にヒントを得て、「プラハ」や39番を書いたのだろうかなどと想像してみたくなった。

手元にあるMP3ファイルはクリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる演奏である。この組み合わせによるハイドンの交響曲集は、一連の古楽器奏法の中では演奏の骨格がしっかりとしており素晴らしい。オペラ時代の作品のいくつかはこの組み合わせで来ていこうと思う。

2012年7月12日木曜日

ハイドン:交響曲第60番ハ長調「うかつ者」(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)


ハイドンの交響曲を聞き続けてきて、いわゆる疾風怒濤期と呼ばれる、少し荒っぽい作風の多い時期を過ぎると、明るく陽気なハイドンの姿が現れる。その後の、例えばパリ交響曲やロンドン・セットなどと比べると、やや簡単に過ぎるきらいもあるが、この時期のハイドンの作風は、乗りに乗った勢いのようなものが感じられる。

そのような時期への入口にある象徴的作品として、この60番の交響曲を挙げることもできよう。「うかつ者」と題されたこの曲は、同名の舞台作品のために書かれたもので、何と6楽章もある!それは戯曲の中で用いられた作品を抜粋して編成されたからだが、ではその音楽はと言うと、これがまた面白い。

簡単な序曲に始まり快速の第1楽章となるが、ここで後年の作品にもよく見られる、音楽が消えていくような感じが時々訪れる。そして急に大音量!何もなかったかのように進む音楽。ハイドンのユーモアがここに来て開花した感じである。時折響くトランペットの音が耳に心地よい。
 第4楽章のプレストは真剣に早いので威勢良く終わる。これで曲が終わったと誰もが思う。ところがしみじみと美しい響きが始まるのも、やはり後年によくあるユーモラスな仕掛けと同じだとも思ったが、少しうがちすぎだろうか。

参照が自由なWikipediaにこの曲の機知に富んだ仕掛けがうまく説明されているので、ここで抜粋しておこうと思う。

「抒情的で静かな音楽の途中で、ふざけた、茶化すような曲想が乱入してきたり(第2楽章および第5楽章)、和声法の反則が冒されたり(第4楽章)、バルカン半島やハンガリーの民俗音楽の粗野な一面が誇張されたり(第3楽章および第4楽章)と、堅苦しくない性格が何かと打ち出されている。これらは、原作となったドタバタ劇の主人公の、うっかりした性格に関連していることは言うまでもない。あまつさえ終楽章では、演奏中にヴァイオリン奏者の調弦が間違っていることに気付いて調弦をやり直すという場面も挿入されている。(G弦=ト音をヘ音にして開始、途中でト音に直して演奏を再開する。サイモン・ラトルがバーミンガム市交響楽団と共演したディスクでは、指揮者のラトルが口笛を吹いてヴァイオリンの調弦ミスを指摘し、やり直しを合図するという演出がなされている。)」

さてそのサイモン・ラトルによる演奏である。私はリリースされたときから持っているが、ラトルはこのCDを含めて2枚をリリースしただけでベルリンへ移り、そこで珍しいパリとロンドンの間の交響曲集2枚組をリリースしただけである。他の有名曲はもとより、若いころの作品を取り上げる気配もないので、気まぐれな指揮者である。

その第6楽章の冒頭のシーンだが、3つの和音が響いた後、音楽が始まってすぐに変な不協和音が出てしまう。何かおかしい、ということで弦楽器が調弦を始めるのだ。こういうことである。バイオリンの4本ある線のうち、最も高いのがE線で、その次がA線、順にD線、G線であることはバイオリンを習うと初日に教わる。調弦ではこの隣り合う2つ(EとA、AとD、DとG)を同時に鳴らす。するとそれぞれ5度の響きとなるが、この曲では最後のDとG(ト音)が何とDとF(ヘ音)になってしまう(6度)ということである。

調弦がおかしかったということでFをGに上げて調弦が終わり、何と音楽をやり直し。今度はちゃんと鳴って1分半足らずの音楽が無事終わる。上記の説明にあるように、ラトルが本当に口笛を吹くか、はじめてちゃんと聞いてみた。

だが普通に聞いてもわからなかったので今度はiPodで聞いてみたところ、ラトルは指揮棒で譜面台をたたき何やら口で合図しているように聞こえる。口笛ではないものと思われる。ライナー・ノートも読んでみたが、特にそういう記述は見当たらなかった。

2012年7月11日水曜日

ハイドン:交響曲第59番イ長調「火事」(ニクラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス)


第59番の交響曲も1768年頃の作品とされる。この年には26番「ラメンタツィオーネ」が作曲されていた頃だから、随分と時代が遡ったことになる。53番から57番が1770年代の後半の作品だったので、むしろ58番と59番がイレギュラーであり、続く60番は1774年と元に戻る。このあと見当違いの番号は残り65番(1769年)のみである。1760年代の後半から続いた「疾風怒濤期」がとうとう終わるということだが、随分多くの作品を聞いてきた割には、この期間は10年にも満たないということがわかる。

第59番は「火事」という刺激的なタイトルが掲げられている。詳細は不明だが、エステルハージ宮殿も何度か火事に見舞われ、またハイドン自身、火事を題材としたオペラ序曲を作曲していたため、そのためではないかなどと言われている(ただし真偽は定かでない)。

この曲はやはり「疾風怒涛」である。何せ劇的な効果こそがこの作品の特徴なのだから。とはいっても最も長い第2楽章を聞けば、美しいメロディーにうっとりする。刺激的なのはそれ以外の楽章で、とりわけホルンがやたら目立つ。この曲はアーノンクールの指揮で聞いてみた。第31番「ホルン信号」以来の登場である。

アーノンクールの演奏は、他の曲でもそうだが、一連のオリジナル楽器派の中では、少し生真面目で面白みに欠ける。刺激的でありながら、ウィーンの雰囲気を出そうとしているようなところがあり、この分野を広めたことには感心するが、かならずしも私の好みではない。ただこの曲はブリュッヘンと聞き比べてみて、しっかりとした骨格とゆるぎない曲想が感じられる。ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの名演も特筆に値する。快速の第4楽章の心地よさといったら、まるでハイドン版「観光列車」という感じである。

2012年7月10日火曜日

ハイドン:交響曲第58番ヘ長調(フランス・ブリュッヘン指揮エイジ・オブ・エンライトゥメント管弦楽団)


iTunesにCDをコピーしてiPodのPlaylistに追加し同期。このようにしてイヤホンで音楽を聞いている。ここでいつも気にするのが再生の順番である。何トラックにも、場合のよっては何枚ものCDに亘って音楽が記録されるクラシックの音楽は、通しで番号が付けられていることにはなっているが、各トラックの曲目の表記はトラックごと、あるいはCDごとに異なっていることが多く、しかも記述も日本語だったり英語だったり、原語だったり・・・。

ついでながら、iTunesの「アーティスト」の欄はだいたい演奏者が入ることになっている。これはポピュラー音楽に倣ったものだと思うが、クラシックの場合、「作曲家」すなわち「芸術家」はアーティストじゃないの?ということになってしまうので、この管理がややこしい。つまり作曲家の欄がないのである!作曲家がわからなければ誰のピアノ協奏曲第1番なのかわからない。そこで、この記述は曲名の最初に入れることになっているようだけど統一されていない・・・。

さて、このようにして第58番の交響曲(これはもうハイドンしかない)を聞いてみようと再生ボタンを押したところ、聞こえてくるのはゆっくりとした3拍子。あれ、これは第3楽章?いや第2楽章?あわてて曲名表示を確かめる。

このようにこの曲は静かな調子で始まる。序章もない。で、第2楽章になると派手な音楽になるかと思いきや、ここも通常のアンダンテ。しかも弦楽器のみの構成でもっと地味。第3楽章でメヌエットとなり再び3拍子。ここでアクセントが意外なところにあったりして、まあ面白いな、などと思うものの、それも何とも地味な感じ。

ついに不発の音楽か、と思いきや第4楽章で元気がさく裂するのだ。ここのリズムは面白い。アクセントが変わったところについていて、聞く者を思わず集中させる。そう言えばこういう感じの構成は、もっと若いころの作品にもあったような気がする。それもそのはず、この作品はそれまでの1774年の作品とは異なり、時計を逆に7年も遡った1767年の作品だったのである。これは疾風怒濤期の作品に分類される。だから手元にある演奏はブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラ。

2012年7月9日月曜日

ハイドン:交響曲第57番ニ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)


専門家ではない立場では、かえって言いやすいことがあると思う。この交響曲について勝手なことを言うとすれば、この曲はベートーヴェンよりもモーツァルトに近いハイドンである。第1楽章を聞いてそう感じた。

その理由がどこにあるのかはよくわからないが、一つだけ強いて言えば、音程が隔たって上昇したりするあたりである。モーツァルトは音が急上昇、急降下するが、それが独特だと思っているからである。序奏がしっかりとついているのも久しぶり。

第2楽章は静かなメロディーだ。ピチカートの強弱に聞く方も注意を向ける。同じことは第3楽章のメヌエット中間部に挟まれたトリオ部分もそうだ。ハイドンは(他の作品でもそうだが)、聴衆の耳を集中させるための工夫を繰り返し施している。快活な両端楽章に挟まれた2つの楽章の聞きどころを緊張感を作り出すことで保持しているように思える。

とすれば両端の楽章はこれらに対する緩和の中で迎える。もちろん演奏がおろそかにされているわけではない。むしろ気持ちが外に向かうという意味である。この曲の第4楽章も少し特徴的だ。早い小刻みなリズムは小鳥がさえずるような感じで、そこに合わせて奏でられるメロディーが一種独特な感じをもたらしている。

2012年7月8日日曜日

ハイドン:交響曲第56番ハ長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)


もともと交響曲は、オペラの序曲から進化した(と学校で習った)。だからかどうかは知らないが、オペラを多作するこの時期のハイドンの交響曲が、若干オペラ化しているというのは不思議でない。というよりは、オペラの要素が交響曲に取り入れられて充実し、華やかで規模の大きな作品が目立つようになってきた。

第53番「帝国」より前と後は、やはり何かが違う。そして作曲年代でみると1774年ということになる(もっとも第53番だけは1778年頃)。この時期からハイドンは、オペラの作曲に力を入れることになる。それはそのような要望に基づくものだが、私は上に述べたように、このことがハイドンの交響曲により大きな広がりをもたらした。

だがそのような中にあってこの第56番は、ハ長調という調性をとりながらも今一つぱっとしない印象だ。もちろんそれは前後の他の作品に比較してということなのだが。印象を言えば、第1楽章など大変堂々としていて、ハイドンのこの時期の自信を感じるが、まあこれぐらいは簡単に書けますよ、という余裕を感じる。聞く側の耳が肥えているからなのかも知れないのだが。

これに比べると第2楽章はやや深い味わいに満ちている。この味わいは、やはりロマンチックである。弦楽器の刻むリズムに乗って木管楽器(ファゴットやオーボエ)が物憂げなソロを奏でるあたりなど、全体を通して何かベートーヴェンの前ぶれを感じさせる。そして第4楽章の雰囲気はやはり何かオペラの序曲めいているように聞こえるのは私だけか?

2012年7月7日土曜日

ハイドン:交響曲第55番変ホ長調「校長先生」(鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカ)


1774年の作品であるこの曲は、どういわけか「校長先生」などというタイトルがつけられているが、その理由は定かでないし、音楽が「校長先生風」というわけでもない。そもそも校長先生というのは、私の経験でいえば、飛び抜けた存在で、それがかえって風変りな印象を与えていたのだが、でも原語のドイツ語によれば、単に学校の先生という意味でもあり、いけずで乱暴か、といえばそうではないし、教養があって威厳があるか、と言われるとそうでもない。

このような標題は聞き手にいらぬ想像を掻き立てることとなるので、あんまりこだわらない方がいいと思う。そしてそういう雑念を極力取り払って聞いてみると、この第55番はなかなかいい曲である。順に見ていこう。

冒頭の4つの強い和音から、私は一気にハイドンの楽しみに順化した。ここで聞くハイドンは、ヨーロッパ中で人気者になりつつあった田舎の作曲家が、飛ぶ鳥を落とすがごとき勢いで作曲にまい進している姿を思わせる。それまでの試行錯誤の段階の作品とも、あるいは後年、人気が確固たるものとなった時点の有名作品とも違う、もっと素朴な楽しさに満ちている。

冒頭のリズムが繰り返されるたび、これが再現部か、あるいは反復か、などと考えていたが、もうそんなものはどうでもよくなっていき、気がついてみるとハイドン音楽に見事に取り込まれているのである。わずか10分足らずの、しかし見事な第1楽章だと思う。

それに対して、続く第2楽章以降は、何かとても静かな印象である。特に第2楽章では、小刻みなリズムがなんとなくコケティッシュなダンス音楽にも思えてくる。第3楽章のトリオ部分は、過去の作品でもしばしば登場したものだったが、ここでは何か懐かしく感じられると同時に大変ユーモラスである。

第4楽章の、少し中途半端な感じは、この楽章が変奏曲になっているからで、このような曲はベートーヴェンだと「英雄」で、あるいはモーツァルトだとヴァイオリン協奏曲で、その後の作曲家でもしばしば見受けられる手法である。あえて大団円ではない、すっと終わるのが、またいい。

鈴木秀美と彼のオーケストラは、ここでも最高ランクの名演である。古楽奏法がこれほど美しく溶け合い、耳に心地よい響きとなること、それを日本の団体がさりげなく実現していることに感嘆する。録音もいいので、何枚かそろえておくのは十分に価値がある。

2012年7月6日金曜日

ハイドン:交響曲第54番ト長調(アダム・フィッシャー指揮オーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラ)


この交響曲は目立たないが、なかなか印象の強い曲である。冒頭からティンパニとトランペットが入り、力強い序奏が始まる。主題に入っても効果的な菅楽器と打楽器の組み合わせに、ベートーヴェンの曲を聞いているような感じになる。

第2楽章の、何かとてもロマンチックな感じを醸し出すメロディーもそうだ。もうそこにはバロックの雰囲気はなく、古典派でも後期の、もしかするとロマン派を思わせるような、結構長く続く緩徐楽章で、その充実ぶりはこれまでの作品にはなかったような気がする。一段落したらヴァイオリンが独奏を奏でたり、弦楽四重奏のようにメランコリックになる部分などは、もうハイドン以降の作曲家の作風を思わせる。もちろん、そのあとはまた合奏にもどり、しばしの余韻を残して終わる。

第3楽章は再びティンパニ付きのメヌエットになる。歯切れよく全員で打ち鳴らすメロディーと、少数の弦楽器で同じ旋律を繰り返す部分が交互にあらわれるあたりは、やはり充実した響きを持つ。

プレストのフィナーレは快速にして明るい音楽だ。全部で30分にもなろうとするこの交響曲の最後を飾るにふさわしいが、それにしても音楽の充実度が、この53番、54番あたりから急上昇しているような気がするのは気のせいなのか。やはり一息ついたら転調して展開部を進めたり、フーガ風のクレッシェンドなどを散りばめるあたりは、もう古典派の王道である。

私はたまたま順番に聞いてきたこの54番だったが、こういう素晴らしい作品がこのようなところにあることを知って少し嬉しくなった。もっと演奏されていいような気がするが、手元にあったCDは全集のアダム・フィッシャーのものだけであった。

ハイドンはこのあたりで自信を深めたに違いない。あるいは、ティンパニとトランペットを後から追加して、自分の確立した作風に仕上げなおしたと見るべきなのか。

2012年7月5日木曜日

ハイドン:交響曲第53番ニ長調「帝国」より第4楽章(異稿)


「帝国」と名付けられた第53番の交響曲には、3つの版が存在する。そのうちもっとも顕著なのが第4楽章の違いである。そして火事で焼失するなどして現状では以下の2つのバージョンのどちらかが演奏されるケースが多い。

   Version A: カプリッチョ 火事で焼失後あとから作成された
   Version B: プレスト 序曲(Hob.Ia-7)から転用したが火事で焼失

さて、私は学者ではないのでその細かい違いやどちらが正しか、という話題には立ち入らない。手元にあるCDがどちらの演奏を行っているか、一生懸命調べたので書いておこうと思う。

  オルフェウス管弦楽団盤 A
  アダム・フィッシャー盤 B

そしてこの鈴木秀美と日本人のプレーヤーによる特筆すべき名演奏では、何と両方が収録されている。もっとも、Bが別トラックになっており、普通に聞くとAということになる。

聞き比べた感じでは、鈴木の演奏ではAのティンパニが目立ち過ぎで、Bの方に好感をもった(ライヴ収録なので演奏が熱くなっているからだろう。オルフェウス管弦楽団はその点、丁度いい感じで落ち着いた名演)。だが、音楽的に合っているのはAだという指摘が多い。コーダはAの方が大規模である。ちなみにアーノンクール盤ではA、ドラティ盤ではBだそうだ。ホグウッドは鈴木と同様、Aで演奏しBを別トラックで収録している。

さらにBの原曲は、1877年に作曲された序曲ニ長調からの転用で、これを演奏したCDまで持っていることが判明した。マリス・ヤンソンスがバイエルン放送交響楽団を指揮したライブ盤で2008年の収録。この演奏はモダン楽器による演奏で、コンサートの最初に置かれたもの。演奏はやはりきびきびとした古楽器によるものの方が私の感性には合っていると感じた。

2012年7月4日水曜日

ハイドン:交響曲第53番ニ長調「帝国」(オルフェウス管弦楽団)


ハイドンの交響曲を順に聞き続けてきて、いよいよ疾風怒濤期を抜け出しつつある。疾風怒濤というのはSturm und Drangの和訳で、18世紀後半のドイツにおける文学運動を指す。その精神は、「理性に対する感情の優越」というもので、なるほど形式的な古典派からロマン派へと向かう丁度その境目で、衝動に駆りたてられもがく様が丁度このころのハイドンの作風によく表れているのかも知れない。

そのハイドンの交響曲は、後にパリ交響曲を経てロンドン交響曲へと発展するのは承知の通りだが、疾風怒濤期とパリ交響曲に挟まれた比較的充実した創作期においては、ハイドンの作品はむしろオペラに向けられていたようだ。オペラや劇のための作品がこのころに多く作曲されている。では、その境目はどこか。

私はずっと交響曲作品を順に聞き続けてきたが、この第53番「帝国」を聞くと、もはやここではハイドンの音楽が確立され、堂々として自信に満ちた風格を漂わせていることに気づかざるを得ない。序章を経て華やかな第1楽章に始まり、緩徐楽章、メヌエットを経て3部形式の終楽章に至る、という交響曲の典型的な形式が、ここではもはや何の疑いもなく見られるのだ。

だが、少し調べて見るとこの作品は、実際には前番の52番が1771年の作品であるのに対して、1778年となっている。その間に7年も間隔があるが、もちろんその間にも交響曲は作曲され、それらには次の54番から58番が続き、さらには1766年の59番までもが実にこの53番の前の作品ということになるのである。つまり、いつも言われるようにホーボーケン番号と作曲順は一致しないのだ。

というわけでハイドンの中期の円熟期を迎えるには、60番「うかつ者」まで待たねばならない。53番は、まあこの順番に聞くなら、いわば予告編とでも言うような感じである。

演奏は、今回MP3ファイルとして所有することになったのが、オルフェウス管弦楽団によるものだった。この団体は指揮者を持たないために、演奏がきわめて自発的、そして完璧である。だが、そのせいなのかわからないが、何か息苦しいものを感じる。言ってみれば、コンピュータに演奏させているような感じである。けれどもそれがユニークであるとも言える。「帝国」という名前に相応しく堂々とした作品である。

安心しながらハイドンの良さを味わうことができるが、後半にはもっといい作品が目白押しであることを考えるとこの作品の個性が引き立たない。終楽章には3つの版があるようだが、それはこの作品がとても人気の高い作品だったことを示している。

2012年7月3日火曜日

ハイドン:交響曲第52番ハ短調(フランス・ブリュッヘン指揮ジ・エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団)


連続する音の高低の差は「度」という単位で表すが、例えばハ音と次の二音の間は2度、ホ音との間は3度などと言うことは音楽の時間に習った。この曲を聞いてまず感じるのは、その高低の差、連続する音の隔たりが意識的に大きいということである。

例えば第1楽章の第1主題では、高低を徐々に繰り返していく間にその差は広がり、12度にまで達する。第3楽章でも静かなパッセージながら8度とか、そういった音の上がり下がりが続く。全体に暗いイメージは、確信的な創意の結果であって、意図されたものに違いない。そういう曲をこのブリュッヘンで聞いて見ているが、あまり楽しいとか面白い印象が持てない。何度聞いても同じ結果で、それは演奏の故なのか、それとも曲が持つ本来の性質の故なのか、よくわからない。

専門的な解説書によれば、この曲はベートーヴェンのあの第5交響曲のさきがけとなった名曲だというのである。聞いた感じとのギャップ、それに苦しめられ、音楽を知らない一リスナーが一体何を書き得るのかと迷い始めたために、更新が随分遅れてしまった。疾風怒濤期の作品は、そういう一ひねりも二ひねりもしたものが続くだけに、なかなか苦しい。特に短調の曲は、そうである。

そううわけで、この52番の交響曲を再び聞くことはおそらくないであろう。けれども、どうして今になって聞こうと思ったか。偶然かも知れないが、先日の春の嵐の日のような曲だったから、と思うことにしてみた。もう桜が咲いているというのに、何ともすぐれない毎日なのである。


2012年7月2日月曜日

ハイドン:交響曲第51番変ロ長調(フランス・ブリュッヘン指揮ジ・エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団)


そもそも音楽の知識の乏しい著者が、ハイドンの音楽について語るのは非常に難しい。この51番目にあたる交響曲にしても同様で、この曲で試みられている音楽的実験に触れることなく何かを記述することは至難の技である。感性で音楽は聴けば良い、という向きがあるかもしれない。が、そのような聞き方で何かを語るには、もっとロマン派の曲の方が断然ふさわしい。あるいはモーツァルトか。

結局、古典派の交響曲については音楽的知識が必須となってしまうのだが、ではそういう聞き方しかできないか、と言われれば案外そうでもないように思う。素人が聞いていても、それなりに楽しめるのだ。だからこそ音楽であるとも言える。ハイドンにしても玄人向けに書いたわけではないのだから。

この作品は強烈な強弱の印象を残す第1楽章が、古楽器風の演奏にふさわしい。疾風怒濤期の演奏にありがちな、何か落ち着かない感じは第2楽章にも引き継がれる。が、雰囲気は大分異なって、ここではホルンの超高音と、それを癒すかのようなオーボエの繰り返しとなる。第3楽章と第4楽章は、少し気分も良くなるが、やはり普通に愉快に聞こえる音楽から、その中で試みられたハイドンの音楽的探求を知ることは、実際不可能に近い。

2012年7月1日日曜日

ハイドン:交響曲第50番ハ長調(トマス・ファイ指揮ハイデルベルク交響楽団)


ブリュッヘンによる演奏が続いたので、久しぶりに気分を変えてファイによる最近の録音で聞いてみる。するとどうだろう、これまでに聞いたことのなかった音がバンバンと聞こえてくる。強烈なアクセントと時折フワーとした金管楽器の変な音色。通奏低音まで響いている。

このような聴き比べがクラシック音楽の醍醐味の一つだが、ではこのハイドンの50番の交響曲でそれをやる人が一体どのくらいいるかはよく知らない。ニックネームも付いていないこの曲が、一体どういう曲なのか、知る人はおそらく非常に少ない。

手元の資料によれば、この曲こそマリア・テレジアのエステルハーザ訪問時に演奏された曲だそうだ。ハ長調による正攻法の音楽は、ハイドンが数々の実験を試みた頃にあって、実に堂々とした風格を備えている点は48番と同じである。

第1楽章の冒頭に長すぎない序奏があって、何か懐かしい雰囲気(もっと前の作品に見られた)と、革新的な雰囲気(モーツァルトやベートーヴェンの交響曲を思わせるような)が交錯している。だが主題が提示されると落ち着いて音楽の流れに身を任せることができる。第2楽章でもそれは同じ。気品に満ちている。第3楽章のトリオを経て急速な第4楽章に突入し、いろいろ音楽上の革新的な工夫もあるらしいが、まあ聞いていて心地よい音楽であることには違わない。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...