2017年1月24日火曜日

読書ノート:「オレたちバブル入行組」(池井戸潤、2002年)

出身地大阪を舞台にした作品を読むのが好きであると言った以上、この池井戸潤の代表作「オレたちバブル入行組」もまたそのひとつであると言わねばならない。この作品はテレビドラマにもなって高い視聴率も獲得した「半沢直樹シリーズ」の最初にあたる作品で、もちろんすべてフィクションである。だがなかなか面白い。それは丁度私もまたこの世代(いわゆるバブル世代)に属するからであろうか(ちなみに私の大学卒業時の就職活動は、この小説に描かれたとおりである。しなしながら大学院へ進学した理科系の私は、就職時点ですでにバブルははじけており、その恩恵にはほとんど浴していない)。

私はそのテレビドラマシリーズを見ていない。仕事と子育て(私は半分以上、これを分担している)に追われて連続ドラマなど見るチャンスはなかったのだ。だが不思議な時にそのきっかけは訪れた。2015年秋、香港へ向かう全日空機の中で、このドラマを見ることできたのである。ところが香港までの飛行時間は4時間ほど。途中機内食が出たりすることもあって、実際に見たのは最初の部分のみであった。いつかはすべてを見てみたいと思いつつ、1年以上が経過した。

そもそもは小説なのでそれを読めばいい。ということでやっと取れた長期休暇に、この作品を持参して読んだ。 特に後半はビデオも見ていないので、なかなか読みごたえがあった。暮れていくサムイ島の太陽が、ヤシの木に隠れ始めるまで私はその海に面したプールサイドで、波の音とたわむれながら忘我のひとときを味わった。

さて私は大阪市に生まれた。西区北堀江は、その中心部。そごうや大丸といった老舗の百貨店が立ち並ぶ心斎橋から、カジュアル衣料で有名なアメリカ村を通って西に向かうあたりである。この付近にはむかしから中小の鉄鋼問屋が集まっているという、小説の舞台設定がまず私の気を引く。

私が生まれた頃、私の祖父母はこの付近(小説にも登場する新町である。東京中央銀行西大阪支店の担当区域ということになっている)で小さなクリーニング店を営んでおり、そういう関係で出入りしていた銀行員とも仲が良かったようだ。だがそれはバブルの前、小説が盛んに書く古き良き銀行の時代である。

私がその後移り住んだのは千里ニュータウンで、ここもまたテレビドラマでは、半沢一家の住む銀行の社宅として登場する(ただし小説では千里とは書かれていない)。私の通っていた中学校は超マンモス校で、3つの小学校から生徒が集まってきていたが、その一つの校区が東京からの転勤族が多かった。もともと転勤世帯の多い千里ニュータウンでは、数年おきに転勤を繰り返す同級生もいて、そういう家庭はたいがいが金融関係の仕事を持つサラリーマンであった。思い出すのはA君で、秀才の彼はどんな金持ちの家かと訪ねていったら、そこは富士銀行(今のみずほ銀行)の社宅で、いわゆる団地と同じ間取りの小さな家に家族5人が暮らしていた。

千里のある豊中市が私の故郷なのだが、その豊中市の中学校で同窓の関係にあるのが、浅野支店長(東京からの転勤組)と西日本スチールの東田社長ということになっているから、この物語がたとえ作り話であっても私には妙にリアリティーを感じる。

さてそのストーリーだが、これは粉飾決算をめぐる債権回収の話である。ただテーマにしているのは銀行員とその家族の宿命のようなもので、いかに多くの犠牲を払いながらも日本のサラリーマン生活が形成されているかをこれでもかとばかりに暴いて見せるその力強い文章が魅力的である。銀行ではなくても日本の会社はどこも、これと共通したものがある。少なくともバブル以前からある会社はどこも似たようなものではないか。だからこれは日本社会の縮図を逆手に取り、そのはざまで痛快に反逆を試みる半沢のヒーロー復讐劇である。

私は理科系の学部出身であるが、当時高給の金融機関へ就職する学生が相次いだ。何人かが都市銀行へ入行していったが、そのほとんどはもう転職している。出来がわるかったとは思えない。ただ出身大学や先輩後輩の強いコネがないととても続けられるものではなかっただろうと思う。この小説を読んでいたら、もしかしたらみな諦めたとも思う。幸い自分はそういう道を選ばなかった。そういう意味でもこの小説の興味は尽きない。

半沢直樹は一発逆転出生する。続く物語がある。「オレたち花のバブル組」である。シリーズはさらに「ロスジェネの逆襲」、「銀翼のイカロス」と続く。舞台は大阪を離れるようだが、私としてこうなったらすべて読むしかない、と腹をくくった次第である。


2017年1月23日月曜日

読書ノート:「聖の青春」(大崎善生、2000年)

日経新聞土曜日夕刊に連載されている「名作のある風景」を、私は特に読んだことのある作品が取り上げられた時以外はあまり読まないのだが、その時は違った。生まれ故郷大阪の良く親しんだ土地が紹介されていたからだ。大阪市大淀区。いやその時のタイトルは環状線福島駅付近となっていたかも知れない。

この記事で私は将棋棋士、村山聖のことを知った。わずか29歳で夭逝したこの天才棋士について書かれた書物が「聖の青春」である。そういえば私が米国から帰国して結婚後、何気なく見たNHKの将棋トーナメントで、羽生名人と対局している、眼鏡をかけ、やや落ち着かない様子で正座するやや小太りの若い棋士がいることを発見した。感想戦で負けた彼はぼそぼそと何か言いながら、体をゆすっていたことを覚えている。「いまはこんな若い棋士もいるのか」と、小学校時代は将棋クラブに所属していた私は思った。

ついでながら私の小学校時代、名人は大山康晴がついに敗れて当時最年少の26歳の中原誠となった。彼の講演を心斎橋のそごうに聞きに行った。コンピュータと対戦するという百貨店の企画で、もちろん名人の勝ちであった(当時のコンピュータなんてかわいいものである)。小学校の教頭先生が将棋のファンで、この人によれば天才的な将棋を指すのは加藤一二三だという。加藤九段(当時)は最も若くしてプロ棋士になったことは今でも有名で、その後1982年にとうとう名人になった(その加藤をわずか14才のプロ棋士藤井聡太がそのデビュー戦で破ったのは昨年12月のことである)。

中学に入り、当時の校長先生がいつもほめていたのは谷川浩司名人(当時)で、世の中には若くしてプロの世界に入り、もう大人として立派に活躍している人がいるのだ、とかなんとか言っていたような気がする。私はもう将棋への情熱を失っていたが、大学生になって同級生となった広島出身の友人が、広島にはとてつもなく強いやつがいる、と話していたのを思い出す。彼も中国地方ではかなりのレベルの将棋指しであったから、もしかしたらこの相手は村山聖だったのではないか、どうか。そのとこをこの作品を読んで思い出した。「羽生よりも強いのか?」と私は彼に聞いたと思う。彼は「そうだ」と答えた。

大阪市大淀区は私の高校の校区であった。大阪市の北部のうち何区かには、そういうわけで友人が何人かいた。千里の私と同じ小学生でいつも一緒に将棋を指していたT君も、その後転校して大淀中学の出身となった。小さな会社を営む傍ら喫茶店も出している彼の家を訪ねたことがある。阪急梅田駅から、今ではショッピングモールとなり有名ホテルも立ち並ぶ貨物駅の下を何百メートルものトンネルを潜り抜けていく。T君の同級生で、私の高校時代をともに同じクラブで過ごしたN君もまた大淀中学の出身であった。彼は文化住宅の2階に姉と住んでいて、その生活はとても豊かとはいいがたいようだった。それを知るのも上記のトンネルを抜けて訪ねていったことが一度あるからだ。

さて村山聖九段は私の3年年下にあたり、弟と同学年である。だから彼が単身上阪し、森信雄の門下で生活をし始めた時、大淀中学校に転校しているようだが接点はない。今ではスカイビルやグランフロントなどの高層建築が立つちょっとしたスポットだが、当時は朝日放送のビルとその裏にあるホテルくらいしか目立ったものはない、中小町工場の立ち並ぶ下町であった。ザ・シンフォニーホールというのが出来て、私も何度か福島駅や地下トンネル経由で足を運んだくらいである。

大阪駅を出た神戸方面行の列車が淀川を渡るまでの間、右手に展開するのが大淀区である。もっともここは今では北区の一部になり「大淀」という地名は消えた。その一角のオンボロアパートに暮らし始めた村山聖は、万年床を取りかこむ漫画や食べ残しのラーメンなどが散乱する狭い部屋に閉じこもって、壮絶な闘病をしながら将棋に打ち込んでいた。

大崎善生が書いた村山に関する文章は、その発病から大阪に出てくるまでの生い立ちから始まる。この病気を抱えているが故の困難と、それがもたらす類まれな集中力が、いかにかれの将棋を支えて来たかはこの文章から痛いほど伝わってくる。私が日経の夕刊記事で読んだ「名作の風景」は、まさにその舞台となった大阪の文化アパートの記事であった。

この作品を読もうと思って長年メモしておきながら、なかなか踏み切れなかったのは私自身が大きな病気を抱えているからにほかならない。けれども昨年(2016年)とうとうこの作品が映画化されることになった。私は映画と小説と、どちらを先にすべきか迷ったが、この作品はいずれにしてもノンフィクションであり、事実をどう表現するかに過ぎない以上、どちらが先でも構わないのではとの結論に達し、封切り翌日の日比谷へ一人で出かけたのである。

映画ではその下町アパートのシーンからで、映画は将棋界とそこに集う人々を中心に描いている。とても良くできた作品で役者もとてもうまいと思う。だからこれはこれで素晴らしいが、一方で病気のことや生い立ち、あるいは悲惨な闘病生活については小説にしか描かれていない。村山という人物に迫っているのは、むしろ文章の方である。このように描く視点が異なるため、それぞれ見ごたえ(読みごたえ)がある。

中学を卒業していきなり棋士の世界に入り、その狭き門であるプロを目指すという構図が、今でも厳然と存在する。私はそのことに改めて感慨深いものを感じたが、またそこに短い一生を駆け抜けたひとりの天才棋士がいたことを知るとき、私が感じるのはひとつひとつの体験が持つ密度の濃さである。彼は非常な闘病をしながらも単身上京し、そして棋士たちに囲まれて名人を目指す。映画はむしろこちらが主体である。羽生を演じた役者の、その本人とも見紛うような演技に心を打たれるが、その羽生と村山が対局後の宴会を抜け出して、雪の降る東北の居酒屋で語り合うシーンが秀逸である(もっともこれは映画での創作のようで、小説では時と場が異なりかつ断片的である)。

幼い頃に発病した病気と関連があるのかどうかはわからないが、彼はもう治ることはないと思われた最後の日々を、実家のある広島の病院で家族と過ごす。このシーンは小説にはないが、私にはとても印象に残るものだった。だがそのことを詳しくは書きたくないので後日譚をひとつ。

私は歴史的な事件が起こるとその新聞記事を取っておく趣味があるのだが、先日その整理をしていたら、何の事件で保存したかわたらない新聞が出てきた。日経なので裏面には文化欄。そこに大崎善生氏の文章が載っていた。私は「聖の青春」の映画を見たばかりだたので、そうか、かつてこの作品を紹介した文章があったのでそれを取っておいたのだな、と思っていたら息子が、これは僕の誕生日のだよ、という。これは取っておいた息子の誕生日の朝刊だったのである。

ついでだからその文章を読んでみたところ、これは「聖の青春」の話ではなく大崎氏自身に子供ができる話であった。だが単純な話ではない。彼の妻(はまたプロ棋士である)に届けられていた幼い子供の手紙と死。そして自分の妻に起こる切迫流産との闘い。私はこの文章が偶然にも息子の誕生日に掲載されていたことを、恥ずかしいことに10年後になって初めて知った。生と死はいつもとなりあわせである。ただ病気でない時はそれを忘れている。

2017年1月20日金曜日

読書ノート:「瀬戸内少年野球団」(阿久悠、1983)

歌謡曲の流行作家だった阿久悠の自伝的小説「瀬戸内少年野球団」は、出版されて40年近くが経過し、映画化もされた作品だが、そのような古いものをいまさらながら読もうと思ったきっかけはいくつかある。まず初めにこの作品が、淡路島を舞台にしていることだ。

兵庫県に実感のある私にとって、淡路島は幼少の頃からなじみであった。まだフェリーが深日(大阪府南部)から出ていた頃、私はボーイスカウトの夏のキャンプで洲本へ出かけた。あまりに暑い夏の日々は、海水浴で泳いだ西海岸の青い空の風景を始めとする数々の印象を10歳の私に残した。丁度主人公、足柄竜太 と同じ頃である(1970年代で丁度この小説が書かれたころと一致する)。

2つ目の理由は、上記に加え、祖母が明石の出身で、何か事あるごとに淡路の話をしてくれたことである。話される会話は関西弁だが、その口調は祖母の明石の方言とよく似ている。明石海峡に大橋がかけられて今は神戸との間で簡単に行き来ができるようになったが、その前から岩屋という明石の対岸の街へ、祖母はよくでかけていた。一体どのようなところかと思っていたが、一昨年(2014年) ここを8歳の息子を連れて初めて出かけた。

3つ目の理由はその息子が少年野球を始めたことだ。別に促したわけでもないのに彼は野球に興味を持ち、自分でクラブチームを決め、そして楽しそうに練習に参加している。もっとも平成生まれの彼にとって、野球を始めるにあたってはグローブもバットも、それにユニフォームも最初から与えられ、その前には何度も本物の野球の試合、すなわちジャイアンツやタイガース、それに甲子園の高校野球も体験済みであったことは言うまでもない。

理由の4つ目は、そういう10歳前後の少年の目を通して語られる終戦直後という時代に興味があることだ。日本の近代史上大転換となるこの時期、すなわち第二次世界大戦の敗戦を何歳で迎えたかは、戦後の歴史を語るうえで決定的に重要な問題である。阿久悠、および足柄竜太は8歳であった。これが5年早いと戦時中の教育が全身に染みつき、戦後の民主主義を主に理念の観点で理解しようとする。「解説」を書いている映画監督篠田正浩がまさにそうで、彼はこの小説の映画化もした監督だが、この小説を単純に純粋な少年の心の記憶として理解せず深読みをしてしまう。足柄竜太はいつも不安だったと。

一方、私の両親は昭和17年、及び19年の生まれで、終戦の時の記憶はほとんどない。この世代は受けた教育も最初から民主教育で、すなわち共学であり、教科書に墨を塗ることもなく、そしてそのあとに続く不毛な団塊の世代よりは少し前の、おそらく戦後日本のもっとも恵まれた世代ではないかと思っている。だがあえて言えば、この世代には足柄竜太が経験した戦前の暗さと戦後の明るさ(貧しいが)の対比を身をもって体験してはいない。物心が付いた時には既にB29の飛んでいない空があった。

私は関西弁で会話がなされる小説が好きで、この「瀬戸内少年野球団」もまたそのような小説だが、それに加えて上記の理由から、この作品はまさに今の私にとって「読むべき作品」であった。

阿久悠は文庫本のための「あとがき」に、この終戦直後の数年間を小学生高学年として過ごしたことにこだわっていると書いている。そしてそれが淡路という、比較的都会に近いもののその文化的伝播は途絶えがちな田舎にあって、取り巻く登場人物がみな、内的感情に忠実な関西弁で語られる時、瀬戸内のさえぎられない青空と深い海が象徴するような眩い光の中に、どうしようもなく切ないノスタルジーを感じるのではないか。新しい世界へと分け入ってゆく少年の心がまだ純真無垢で、貧しくとも不安のない数年は、まさに終戦の新しい時代の幕開けとも相まって、心の中に類まれな詞的表現力の源となる能力を育んだのではないか。

だからこの小説のテーマは、民主教育のもとでの野球への実践でもなければ、終戦を迎えた少年の不安(篠田の言うような)でもない。終戦時点で小学生だった自分の世代にしか書けないものがある、と阿久自身が考えたからだろう。その文章は流れるように美しく、時に詩的である。差しはさまれる俳句や流行歌の歌詞が、淡路の季節の表現と重なって独特のハーモニーを醸し出す。

私は高度成長期の真っただ中に生まれた世代であり、上記のノスタルジーをどこまで理解できているのかはわからないが、それでもなお自身の少年時代の一夏を過ごした淡路の自然の風景と、自身の息子の野球への思いを重ねるとき、まるで自分が10歳の頃に戻ったかのような気分にさせられる。美少女波多野武女への淡い恋心は、この小説を小説たらしめる指摘すべきテーマだが、後半の、それも最後の方になって展開する登場人物の新しい展開のその後は、まるで避けるかのように小説には取り上げられない。それは「終戦直後」の奇跡的な時期が終わったことの象徴でもあり、取り上げるべきテーマではないということだろう。だから読者は想像するしかない。

私はこの小説を常夏のバリ島で風に吹かれながら読み、そしてサムイ島の海岸で文章にしている。子供の頃の夏の記憶を思い出しながら、そこに美しい小説が書けるだけの感性を体得することのできた人は、やはり幸せだったのだろうと思う。

2017年1月11日水曜日

ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート2008(ジョルジュ・プレートル指揮)

台北でお正月を迎えた際、地元のテレビでウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの中継をホテルで見た。今年の指揮者はベネズエラ人のグスターボ・ドュダメルで、最も若い指揮者としての登場(35歳)である。その指揮ぶりは常に健康的な陽気を伴い、若々しくて楽し気なものであった。このような時ウィーン・フィルの楽団も終始楽しそうである。初めて聞く曲がほとんどであるにも関わらず、飽きることはなかった。

ヨーロッパにいかに経済不況や難民が押し寄せようと、ウィーンからのこの中継は、いつもと同じ趣向で安心して聞くことが出来る。苦境の中にある人生を忘れさせてくれるひとときである。ドュダメルの指揮は成功だったなあ、などと思いながら帰国してみると、2008年にあの輝かしいニューイヤーコンサートを務めたジョルジュ・プレートルが亡くなったことを知った(1月4日死去、享年92歳)。マリア・カラスとも共演した老齢の指揮者だったが、やはり何か悲しい。思えばニューイヤーコンサートの指揮台に立つと発表されたとき、これは面白いことになるぞ、と期待に胸を膨らませた。そしてその演奏は近年の中では大成功だったのではないか。その思い出に2008年のコンサートを収録したCDを聞いてみた。

この演奏の特徴は、ウィーン・フィルの自主性に大いに委ねながらも、プレートル自身がここは、と思うフレーズをゆっくりと、溜を取りながら指揮をすることである。ティーレマンもそういうときがあるが、プレートルのそれはスケベ心丸出しである。すると無視するわけに行かなくなったオーケストラは、やはりテンポを落とさざるを得ない。やがてもうこれ以上遅くすると音楽が壊れる、という瀬戸際になって、今度はオーケストラに主導権が移る。この瞬間を作為的に見えないように、いかにも自然にそうしている。おそらくオーケストラのメンバーはこの指揮者の心を読みつつ、対応しているのであろう。その見事な阿吽の呼吸が、聞いているものにまで伝わる。

例えば2番目の曲「オーストリアの村つばめ」でも早々にそのシーンが現れる。ところが、そうでない部分、そしてワルツ以外の曲での指揮ぶりは単純である。いやここでも虚栄心が勝ってテンポがすこしずつ速くなったりする。そういうわけで、この演奏の魅力は大ハッスルする老人指揮者に、見事に寄り添うながらも控えめな立場に徹するオーケストラの素晴らしさである。ただこの関係も行き過ぎると疲れるもので、2010年のコンサートでは「もういい加減にすれば」といった感じになってしまったようだ。

もう一つの成功理由は選曲だ。初めて迎えるフランス人指揮者のためにフランスにちなんだ曲を集めたようだが、シュトラウスの作品にこうもフランスにちなんだ曲があったのか、と驚くくらいである。そこには「カンカン」もあり(オルフェウス・カドリーユ)、ラ・マルセイエーズの節も聞こえる(ワルツ「パリの女」)。それ以外にも冒頭の「ナポレオン行進曲」からワルツ「パリ」に「ヴェルサイユ・ギャロップと、よくもこんなに並べたな、と思うようなプログラム。ウィーンと並ぶ音楽の都パリは、やはりハプスブルク家と婚姻関係まで結ぶ貴族文化の中心地なのだから、まあ当たり前と言えば当たり前なのだが・・・。

選曲の今一つの特徴は、さらにフランスにとどまらず、世界中の音楽とリズムが流れる曲を並べたことだ。「インディゴと40人の盗賊」、ロシア行進曲、中国人のギャロップ、「インドの舞姫」といった曲である。これらはあまり知られていないが、こういう時に一気に取り上げたという感じ。ただ面白いのはどの曲も、どういうわけかフランス風の軽やかなメロディーとなって、聞くものの耳に溶け込んでいく感じである。あの「皇帝円舞曲」の序奏やコーダにいたっては、何かホフマンのバッカナールを聞いているような感覚に囚われた。

CDで聞く音楽も良いが、ビデオで見る指揮姿も忘れられない。もともとプレートルという指揮者はそんな器用な指揮をするわけではなく、経歴の割にはさほど名演奏が残っているわけではない。メジャー・レーベルではオペラ指揮者として有名で、私もカラスの歌う「カルメン」や、ゼッフィレッリの演出したオペラ映画「道化師」で知っていただけである。それでも年齢を重ね、ユーモアのセンスをむき出しにしてウィーンの指揮台に登場した巨匠は、その一世一代の晴れ舞台を大いに楽しんでいる。できればこれはビデオで楽しみたい。でも我が家に薄型のテレビとブルーレイ・レコーダーが設置されたのは2008年の春で、元旦の放送には間に合わなかったと記憶している。


【収録曲】
1. ヨハン・シュトラウス2世:ナポレオン行進曲 作品156*
2. ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「オーストリアの村つばめ」 作品164
3. ヨーゼフ・シュトラウス:ラクセンブルク・ポルカ 作品60
4. ヨハン・シュトラウス1世:ワルツ「パリ」 作品101
5. ヨハン・シュトラウス1世:ヴェルサイユ・ギャロップ 作品107
6. ヨハン・シュトラウス2世:オルフェウス・カドリーユ 作品236
7. ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世:ギャロップ「新聞広告」 作品4
8. ヨハン・シュトラウス2世:喜歌劇「インディゴと40人の盗賊」序曲
9. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「人生を楽しめ」 作品340
10. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「ブルエッテ」 作品271
11. ヨハン・シュトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」作品214
12. ヨーゼフ・ランナー:ワルツ「宮廷舞踏会」 作品161
13. ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ「とんぼ」 作品204
14. ヨハン・シュトラウス2世:ロシア行進曲 作品426
15. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「パリの女」 作品238*
16. ヨハン・シュトラウス1世:中国人のギャロップ 作品20
17. ヨハン・シュトラウス2世:「皇帝円舞曲」 作品437
18. ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ「インドの舞姫」 作品351
19. ヨーゼフ・シュトラウス:「スポーツ・ポルカ」 作品170
20. ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
21. ヨハン・シュトラウス1世:ラデツキー行進曲 作品228 

2017年1月1日日曜日

謹賀新年


新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願い致します。

平成29(2017)年 元旦

今年のウィーン・フィル、ニューイヤーコンサートは
35歳のベネズエラ人指揮者、グスターボ・デュダメルの登場が
注目されました。全体に陽気で楽しい演奏会だったと思います。
曲は珍しい曲が並びましたが、「スケーターズ・ワルツ」を
初めて取り上げたのは画期的だと思います。

この曲はウィンナ・ワルツではなく、従ってそのままの3拍子ですが、
ウィーン訛りの、2拍目にアクセントのある演奏になるかと思いきや
(ややその傾向に流れそうになる瞬間もありましたが)
そうではなく通常の3拍子として演奏されました。
そのあたりが何とも興味深い演奏でした。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...