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2016年9月8日木曜日

ドニゼッティ:歌劇「連隊の娘」(The MET Live in HD 2007-2008)

ペルー生まれのテノール歌手、ファン・ディエゴ・フローレスは、かつてパヴァロッティがそうであったように、ドニゼッティの歌劇「連隊の娘」のトニオ役で輝かしいハイCを轟かせ、一躍脚光を浴びた。各地のオペラ・ハウスから声がかかり、デッカから遂にDVDが発売された。2005年、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場での収録である。私もどういうわけか、他にドニゼッティなどほとんど聞いてこなかったにも関わらずこのビデオを購入し、得体も知れぬオペラを見た。

ドニゼッティと言えば「ランメルモールのルチア」や「愛の妙薬」 などでよく知られているイタリアの作曲家だが、この「連隊の娘」は"La fille du regiment"すなわちフランス語のオペラである。ドニゼッティはイタリアで名声を博した後フランスに移住した。「連隊の娘」はフランスに対しての風刺をきかせながらも、オペラ・コミークとしての形式、すなわち台詞入りで書かれている。

初めてビデオを見て思ったことは、ベルカント時代の作品にありがちな実に荒唐無稽なストーリーだということである。孤児としてフランスの軍隊で育てられたマリーに対し恋心を抱くスイスの若者トニオ。彼はマリーと結婚するために、敵であるフランス軍の兵士となる決意をする。だが間もなくマリーを身内の子だと言うベルケンフィールド公爵夫人が現れ、マリーは貴族のお城へ、トニオは兵士として赴く羽目となる。

今回METライヴのアンコール上演で2008年の公演のリバイバル上映が行われた。私は十年も続くこの企画の作品を70タイトルも見てきたが、この「連隊の娘」は見逃しており、今回初めて見ることになった。しかもそれまでに見た経験では、上述のビデオだけだから、ほとんど初めてのようなものである。ベルカント時代のブッファとなれば楽しくないはずがなく、まさに捧腹絶倒のオペラであったが、ここでトニオを歌ったのは、やはりフローレスだった。

だが私が見た印象ではビデオに比べ随分落ち着いてこなれており、そして歌が実にしっかりと身についているということだ。何か所もの難所、すなわち超高音連発のオペラを、軽々と歌っているように見えるのだ。加えて相手役で標題役のナタリー・デセイの見事な役者ぶりが、それに輪をかけて素晴らしい。いや私はアップの画面で見る彼女の演技にこそ、見とれてしまったほどだ。ヘンデルのクレオパトラ(「ジュリオ・チェーザレ」)でも明らかなように、彼女の多様な動きを加えた演技力はちょっとしたミュージカルの役者レベルである。しかもその彼女が踊りに合わせて声を発すると、その声は見事なまでに大ホールにこだまする。高い音も難なく歌ってしまう。

つまりフローレスのトニオとデセイのマリーは、歌唱力の点でもかつてのパヴァロッティ、サザランド級、すなわち世界最高峰であることに加えて、ヴィジュアルな点でも現代屈指のカップルということになる。そして驚くべきことに、そのストーリーが無理なく進み、しかも少しの皮肉やユーモアを存分に味わわせるレベルの演出(ローレン・ペリー)、特に今回新たに書き改められた台詞が実に素晴らしいと思えた。

歌、演技、そして演出の3拍子がそろった屈指の「連隊の娘」は、マルコ・アルミリアートの引き締まった指揮も手伝って、歴史的な成功だったのではないか。だから10年近くも経つというのにリバイバル上映が行われ、しかもそこそこの入りである。私は台風が近づく鬱陶しい東京の昼下がりに、久しぶりにオペラの楽しさを味わった。

ベルゲンフィールド公爵夫人(フェリシティ・パルマー、彼女はまたなかなか味わいのある演技で観客を魅了した)の居間では、今日も退屈な貴族の生活が営まれている。マリーはそのような生活に嫌気がさし、軍曹のシェルピス(バスのアレッサンドロ・コルベリ)が訪ねてくると、軍隊生活が思い出されて仕方がない(ラタプランの歌)。そこに大尉となったトニオが現れ再び結婚を誓うのだが、公爵夫人はそれを許さない。ところがマリーは実は公爵夫人の子だった!最後には結婚を認めて幸福のうちに幕となる。

総合的な完成度において最高ランクの本公演は、セリフの面白さ(それはまるで松竹新喜劇のようだ)も手伝って客席を笑いの渦に巻き込む。そうでないときにはデセイが動きのある演技(アイロンをたたみながら歌う冒頭から、第2幕の歌のレッスンシーンなどそれは全開状態)、そしてハイCが連続するアリア(第1幕の「友よ今日は楽しい日」)と見どころが尽きない。

この公演の面白さのひとつは、それぞれの歌手が話す会話(フランス語)だと思う。デセイは母国語なので流暢であることを利用して、表現力に幅を加える。一方ベルゲンフィールド公爵夫人役のパルマーはイギリス人で、彼女はそのことを逆手にとって、むしろたどたどしく話すことで貴族の身分におかしみを加えることに成功している。時に発せられる決め台詞が英語だったりするあたりは、アメリカの聴衆を意識したサービスでもある。

METライブの71公演目を見終わって、ドニゼッティに関する限り、主要作品を一度はすべて見たことになった。チューダー朝三部作(「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」「ロベルト・デヴェリュー」)、それに喜劇の3作品(「愛の妙薬」「ドン・パスクアーレ」「連隊の娘」)、さらに「ランメルモールのルチア」である。そのどれもが圧巻の素晴らしさだった。私のMETライブとの出会いは、ドニゼッティとの出会いでもあった。

2016年5月28日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ロベルト・デヴェリュー」(The MET Live in HD 2015-2016)

METライブシリーズも今年で10周年だそうだが、このシリーズの最大の良さは、それまでに触れたことのない作品に気軽に触れられることである。その中でもシリーズ最大と言ってもいいほど私にとって意味深かったのは、ドニゼッティの「チューダー朝女王三部作」と言われる作品を、圧倒的な感銘を持って味わうことができたことである。すなわち「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」そして今回見た「ロベルト・デヴェリュー」である。

おさらいをしておこう。比較的有名な「アンナ・ボレーナ」でもMET初演となったライブ映像を見たのは2011年だった。この時ヘンリー八世の王妃アンナを演じたのはアンナ・ネトレプコ。私はこの作品でドニゼッティの魅力を思い知ったと言ってよい。「連隊の娘」のように阿呆らしい荒唐無稽さはなく、「愛の妙薬」のようなほのぼぼとした明るさとも無縁である。

次の「マリア・ストゥアルア」はスコットランドが舞台の作品である。メアリー・ストゥアートを演じたのは、アメリカ人のソプラノ歌手ジョイス・ディドナートであった。2013年の公演はまたもや初演。女性同士の対決は手に汗握る迫力で、私はまたもや圧倒されたと言ってよい。これらの感想は、それぞれブログに書いた。「歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない」などと書いており、興奮したことを思い出す。3つとも演出はデイヴィッド・マクヴィカー。舞台装置は斬新というわけではなく、かといって保守的でもない。全体に暗いのはイギリスを舞台とした悲劇だから。ただ歌手の演技を引き出すことにかけては彼は天才的ではないか。指揮はメトのベルカント・オペラの第一人者、マウリッツィオ・ベニーニ。

今回の作品「ロベルト・デヴェリュー」の主役であるエリザベッタを演じたのは、シカゴ出身のソプラノ歌手、ソンドラ・ラドヴァノフスキーであった(このオペラの表題役はロベルトだが、彼女の存在感をなくしてこのオペラは語れない)。彼女は齢69歳にもなるエリザベス一世の役を、蒼白の顔面、こわばった表情、そして足元がふらつくという演技を続けながら、90%以上が怒っている状態の難役を見事に歌った。その様は「すごい」の一言につきる。ベルカントの歌声は高音と低音をいったりきたり。こんなに歌っていると声をつぶすのではないかと心配になる。

史実に基づくあらすじは至って簡単である。エリザベッタは自分を裏切った恋人(ロベルト)を死刑にしてしまうというものだ。 高齢であることもあり最後の心のよりどころであるロベルトを失うことに、彼女の心は揺れ動く。だが私はこのストーリーが早くも第1幕で展開されるとは知らなかった。

一体他に何を歌うのかしらん、などと思っていたが、ストーリーはベルカント時代の様式のように、ひとつひとつの心情が次から次へと美しい歌となって続く。これは見た人にしかわからない興奮だろう。ともすれば退屈極まりない作品も、音楽、特に歌手が素晴らしいと実に見ごたえのあるものとなる。今回もそのいい例だと思う。

エリザベッタの恋人で、彼女を裏切って親友ノッティンガム公爵の妻サラを愛してしまうのがロベルトである。この役はアメリカのテノール歌手マシュー・ポレンザーニによって歌われた。彼の歌声は甘くて柔らかく、素朴な風貌が例えば「椿姫」のアルフレードなど好適であろうと思わせる。彼の出番は数多いが、最高に素晴らしかったのは第3幕の長いアリアである。絞首刑になる直前、何をどう歌ったかは忘れたが(こういうところがベルカント・オペラである。歌に聞きほれているうちにストーリーなどどこかへ行ってしまうのだ!)、その歌声は頂点に達し、メトのすべての観客を心底魅了した。私はエリザベッタを歌ったラドヴァノフスキーよりも総合的な安定度において上回っていたと思う。

エリザベッタの恋敵で、ロベルトが恋に落ちるサラは、友人ノッティンガム公爵の妻である。サラはまたエリザベッタがただひとり心を許すことのできるだけの信頼を寄せている人物であるところが話を複雑にしている。だがそのことは最初ノッティンガム公爵は知らず、親友を死刑から救い出そうとする。恩赦を懇願されるエリザベッタもまた、サラこそが恋敵であったことを知るのは幕切れになってからである。ここでサラの役はメゾソプラノで、何と贅沢なことにエリーナ・ガランチャが歌い、その夫、ノッティンガム公爵は、これまた大バリトン歌手のマウリシュ・クヴィエチェンである。このようなところがメトらしく、何と4人が4人とも素晴らしい。主役二人はアメリカ人で固め、脇役を東欧の実力派が担うのだ。

ここでの登場人物は、すべて大切なものを失う。エリザベッタは最後の生きる望みを、ロベルトは自らの命を、ノッティンガム公爵は妻と親友を、サラは恋人と夫を、といった具合である。救いようもないストーリーは後の世代の作曲家ならもっと違う作風にしたであろう。イギリスを舞台にしているとはいえ、このオペラはイタリア・オペラらしく感情の動きが活発であり、それに合わせた音楽もドラマティックである。そしてそれはヴェルディの初期作品を彷彿とさせる。ヴェルディがここから学び発展させたドラマとの融合は、ドニゼッティのオペラ・セリアにその出発点を見出すことが出来る。

この時期の音楽は、たとえ各役柄の間に感情的、あるいは立場の違いがあっても、音楽は見事に調和している。まだ不協和音というものが目立つことはない。つまり殺人をほのめかすような罵り合いも、和音となって重唱となる。ドラマはまだ神の維持する世界の中に納まっている。だからエリザベッタは最終幕でロベルトを愛していることを告白し、彼を赦そうとさえする。高齢の自らの立場を嘆きつつも。この少し創作めいた、やや滑稽な心情の告白は、興業としてのオペラを意識させる。だからこそヴィッカーはこの上演を劇中劇という形でやや客観視しているように思える。

そのあまりに悲惨なストーリーがたとえ事実だとしても、これは演技と歌を楽しむ作品である。その限りにおいて、今回もMET初演となった「女王三部作」の最後、 「ロベルト・デヴェリュー」は、それが完全な形で上演されることによって、それまでに(おそらく)知られていたであろう魅力の何十倍もの可能性を示す結果となった。この素晴らしい経験が、METライブという気軽なもので味わうことの嬉しさを感じずにはいられない。今年のシリーズ中、いやこれまでのMETライブの中でも傑出した上演であったと信じて疑わない。3つの作品を再度見てみたいと思う。それはリバイバル上映で可能だろう。だが舞台でこのレベルの感動を味わうことは・・・経済的、空間的あるいは時間的制約に、字幕といった言語的障壁を考えると一生ないだろうと思う。

2013年2月10日日曜日

ドニゼッティ:歌劇「マリア・ストゥアルダ」(The MET Live in HD 2012-2013)

ドニゼッティの「女王三部作」といわれるうちのひとつ「マリア・ストゥアルダ」は、輝かしいMETの歴史においても何と初演であるという。これは昨年の「アンナ・ボレーナ」もそうで、METはドニゼッティに少し冷たかったのか、それとも観客が好まないからなのいか、よくわからない。ちなみにもう一つは「ロベルト・デヴェリュウ」というもので、これは来シーズンの演目となるようである。

滅多に上演されず、従ってあらすじも知られていないオペラだが、全3幕の登場人物は少なく、場面もそう複雑ではない。だが、いきなりこのオペラをみるのではなく、やはり歴史的背景を知っておいたほうが良い。そしてその話は、「メアリー・ストゥアート」としてよく知られ、数多くの文学作品や映画になっているものである。ドニゼッティはシラーの原作を独自にアレンジして、このイギリスを舞台とした暗い物語を、オペラ・セリアに仕立てあげた。

背景に関する記述をMet Live Viewingのホームページ(松竹)より、出典を明示した上で一部転載しようと思う。

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「現在のイギリスは、16世紀には、南部の新教(現在のプロテスタント)を信仰するイングランドと、北部の旧教(カトリック)を信仰するスコットランドという二つの王国が、宗教や領土をめぐって対立していました。そんななか、スコットランドで、ジェームス5世と旧教国フランスから迎えられた王妃マリー・ド・ギースの間に生まれたのが、メアリー・スチュアートです。生後6日で父親が逝去し、スコットランド女王となったメアリーは、その後、幼くして未来のフランス王妃となるために、フランスに渡り何不自由ない幸せな青春時代を過ごしていました。

一方、イングランドでは、メアリーの大叔父にあたる専制君主ヘンリー8世が、すきあらばスコットランドの侵攻を企んでいました。このヘンリー8世は、オペラ《アンナ・ボレーナ》(英語:アン・ブーリン)にも登場したとおり、世継ぎの王子が生まれないことを理由に王妃と無理やり離婚し、旧教と決別してまで、愛人のアン・ブーリンと再婚。その二人の間に生まれたのが、エリザベスです。(《アンナ・ボレーナ》でも赤毛の少女が登場していましたね。)しかし世継ぎを産めなかったアン・ブーリンも、濡れ衣を着せられヘンリー8世に処刑されてしまいます。そのため、エリザベスは庶子として不遇な少女時代を過ごすことになります。

メアリーはフランス王妃となりますが、王がすぐに死去し、19歳で混乱の祖国・スコットランドに帰国することになります。一方、イングランドでは、ヘンリー8世の逝去後、姉弟たちが死亡するなか、エリザベスが王位継承者として即位。しかし、彼女がヘンリー8世の庶子であったことを指摘し、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリー・スチュアートこそが正統な王位継承者だという派閥が出てきます。エリザベス1世が議会に嫡子と認められても、王位継承を主張するメアリーに対し、エリザベスは大きな敵対心を抱くようになります。

スコットランドに帰国後、メアリーは再婚するも不幸せな結婚となり、夫の殺害疑惑や別の男性との不倫疑惑・再婚など様々なスキャンダルのあと、祖国を追われる身となります。メアリーはイングランドのエリザベス1世に助けを求め、エリザベスもメアリーを受け入れますが、宗教対立など多くの火種をはらむメアリーを軟禁状態におきます。自分の権力と自由を取り戻そうとするメアリーは、エリザベス1世の暗殺事件計画の陰謀にも巻き込まれ、謀反の罪で、死刑宣告を受けます。」
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上演後の感想は「素晴らしい」の一言につきる。ベルカントの世界がこれほど見事に再現された最大の理由は、表題役マリア・ストゥアルダを歌ったメゾソプラノのジョイス・ディドナートに尽きる。彼女は登場したその時点から、最後の幕切れまで完璧であった。歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない。オペラの醍醐味がこれほどにまで伝わるのは、何を置いても彼女の歌に尽きる。

彼女の宿敵、エリザベッタは南アフリカ出身のソプラノ歌手エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーで、彼女は役になりきるため頭髪を丸刈りにしたという力の入れよう。その甲斐もあって第1幕のシーン全般と、続くマリア・ストゥアルダとの壮絶な女同士の対決のシーンは息を飲むほどの素晴らしさであった。彼女はマリアに比べて年齢が少し上であるという史実と、前半と後半での10年の時差があるということを表現することに、演出のデイヴィッド・マクヴィカーはこだわったとインタビューで答えている。それに見事に衣装の変化を合わせたところは、(インタビューの通り)このオペラの見どころだったといえるだろう。

男性陣の3人は、いずれも脇役に徹していたように思われる。ロベルトを歌ったポレンザーニは、他の作品で魅せるテノール歌手の出番ほどには目立たないように工夫していたのではないかと思われた。そのことがかえって、主役の二人を際立たせる結果となった。それはタルボ役のマシュー・ローズもまたしかりである。HDシリーズですっかりお馴染みのデヴォラ・ボイトによるインタビューは今回も興奮に満ちて楽しく、ゲルブ総裁自らのインタビューも交えて映画での見どころも満載であった。

指揮のベニーニは、このようなオペラを振ると素晴らしい。メリハリがあって力の入った切れ味は、レヴァインを彷彿とさせた。このオペラのまたひとつの成功の理由は、ベニーニの指揮である。

ロッシーニのようなコミカルな場面も、カラフルなバレエも、そしてヴェルディのようなドラマチックな展開もないという地味なオペラも、このような素晴らしい歌唱と指揮が重なると見応え十分となる。これこそメトならではのものだと思う。であると思えば思うほど、この作品がこれまで一度も上演されて来なかったことが不思議に思えてならない。

2012年11月10日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「愛の妙薬」(The MET Live in HD 2012-2013)


ロッシーニの出来損ないで、ヴェルディほどのドラマ性もなく中途半端、「愛の妙薬」では「人知れぬ涙」だけが突出して聞きどころのオペラ。これが私がかつて抱いていたドニゼッティに対する見方であった。しかしこれまでに聞いた「ランメルモールのルチア」で悲劇的なオペラ作曲家としての側面に接し、オペラ・ブッファでは「連隊の娘」の何とも庶民的でほのぼのとした喜劇に腹を抱え、そして野心作「アンナ・ボレーナ」に至っては主演のネトレプコの大名唱もあって、まるでヴェルディ初期の趣(というよりもヴェルディが参考にしたであろうイタリア・オペラのドラマ性への傾向)に触れると、私のドニゼッティ感は修正を余儀なくされた。というよりこれは大きなショックでさえあった、というべきだろう。

そのドニゼッティの代表的なオペラ「愛の妙薬」がとうとうThe MET in HDシリーズに登場することとなった。しかも2012-2013シーズンの幕開けを飾り、初演出というから力が入っている。私も一度、この美しい歌に満ち満ちた作品をきっちりと見てみたいと思っていたので、今シーズンの始まりに次第に浮き足立ち、その日は朝から緊張状態であった。前日からこじらせた風邪で少し体調も悪く、咳が出るとあってははたして万全のコンディションで挑めるだろうか、などと過剰な心配もしながら、開演1時間半も前に東劇に到着しチケットを買い求めた。今作品は1日2回の上演であるにもかかわらず結構な客の入りで、年々この企画の人気が広まっているように感じる。

演出のバートレット・シャーは、デヴォラ・ボイトによる刺激的なインタビューでも答えているように、この作品を喜劇的な側面よりは恋愛ドラマとしての側面をむしろ強調することにより、作品が持つ現実性を浮き彫りにしようとした。勇気がなくて愛の告白をすることができない純情青年と、それを知りつつも男を挑発してしまう強がりの女性。どこにでもあるような青春ドラマは、19世紀のイタリアの小さな村を舞台に展開する(原作ではバスク地方)。

ここに登場する人物はみな愛すべき性格を持っている。素朴な村の住民は純情で他愛ない。一見してそうとわかるいかさま行商人のドゥルカマーラが、何にでも効く薬があると言って売りつけようとしても、その効果を信じて疑わないところに、それは現われている。しっかりもので知的なアディーナでさえ、「トリスタン」の物語に出てくる媚薬を存在を信じたくて仕方がないのである。主人公モネリーネは、そのようなアディーナが気になって仕方がない。どんな出来事も惚れた女性の仕草に照らして悩む恋の病の表情は、確かに喜劇の題材にはぴったりだが、誰にも経験のある現実の滑稽さでもあるのだ。

そういうわけでこの歌劇は、バレエもなければコロラトゥーラを多用する歌のための劇でないにもかかわらず人気があり、ほのぼのとした味わいを持っている。喜劇として笑い飛ばしてだけ楽しむには勿体無いということだろう。主演のアンナ・ネトレプコは、しっかりものの女性としての貫禄と、素朴な村の娘としての側面(それは彼女のロシア人としての性格にも依るのかも知れないが)を併せ持ち、しかも美しいのでこの役にはぴったりである。だが彼女はもっと難しい役をもこなす歌手なので、ここではまず難なく歌っているということだろうか。

一方のテノール、マシュー・ポレンザーニは表情が固く、この役にはやや知的過ぎる。喜劇性を重んじるなら、もっと脳天気な歌い方のハイCテノール(というえばかつてのパヴァロッティ、いまではフローレスか)を思い浮かべるのだが、喜劇性を抑えた演出では彼の演じ方もまたありなのだ。そればかりか歌はたしかに良く、「人知れぬ涙」では満場のブラボーをさらっていたし、その後から幕切れまでの間は、ベストの出来栄えであったというべきだろう。

兵士ペルコーレを演じたマリウシュ・クヴィエチェンは可もなく不可もなくということだが、最後に特筆すべきは行商人ドゥカマーレを歌ったアンブロージョ・マエストリの、堂々として役柄にピタリとはまったその演技と歌であった。彼の登場がなかったら、このオペラはもっとつまらないものになっていただろう。第1幕第2場の登場のシーンや、第2幕の全体にわたって要所要所で登場するいかさま行商人こそが、この作品の成功を良い方向にも悪い方向にも増幅する役割を果たす。そして今回の彼の登場は、もっとも良い方向へと物語を色づけることに成功した。

指揮はベニーニで、確かな手応え。見応え充分なこのMetの新演出が、かつてバトルやパバロッティを配して上演された80年台の記録的名演に迫るものとなったか、どうか・・・。

2012年2月12日日曜日

ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」 The MET Live in HD 2011-2012)


ニューヨークにおけるメトのライブ中継は土曜日の夜で、ラジオ好きには好評の番組である。日本ではオペラ中継こそないものの、日曜午後の「オペラ・アワー」(NHK-FM)は、競馬中継がほとんどだった昔のラジオ番組にあって、私にはなくてはならない番組だった。何せオペラ全曲録音が聞けるのだから。

そこでいつだったかドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」を聞いたことがあるのを思い出す。そういうものだからこのオペラは結構有名なものだと思っていた。ところが全71作品中の35番目の作品であるこのオペラは、なかなか上演する機会がないらしい。そういえば序曲も知らなければ、ストーリーも、そしてただひとつの音楽も有名なものは、ない。

だが、その理由は簡単だった。主役を歌うソプラノが、ただならぬ実力を必要とするのである。全編にわたって出演し続け、歌いに歌い、最後には狂乱のシーンもあって息絶える。最高音や重唱も数知れず、しかも他の配役だって相当の実力が要求される。歌また歌の連続は、第1幕の90分が終わる頃には相当体力的にもきついが、同じかそれ以上の集中力を必要とする後半の第2幕がまたもや90分、しかも喜劇ではなく悲劇、当然ストーリーは暗い。

このようなオペラだから、ドニゼッティの出世作だからといってそう簡単に上演できるわけではない。数十年に一度というチャンスが前回訪れたのは、マリア・カラスの時だろう。だがそれから何十年もの間、この作品は知る人ぞ知る作品だったのではないか。アンナ・ネトレプコが、実にカラス以来の実力を示し、そしてついにその地位に上りつめたと言っていい。これは一にも二にも彼女のオペラとなった。

想像以上に驚いたのはこれがメトにおける初演だったことだ。これほど有名な劇場で、これまで一度も、どの歌手によっても歌われていない。だからネトレプコのこの出演は、いわばメト史上の事件である。そして彼女は期待以上の実力を発揮した。幕間のインタビューも断って、よほど集中力を必要としたのだろう。3月にはウィーンで同じ役を演じているのだが、やはりそれでも彼女は緊張を強いられた。

滅多にお目にかかることのないイギリスを舞台としたこの作品のストーリーは、難しくはないがなかなかしっかりとしている。それ故に、「連隊の娘」や「ルチア」しか聞いたことのない聞き手は、これがドニゼッティかと思いを新たにするだろう。ヘンリー8世を演じたのはアブドラザコフで、なかなかの好演。王妃アンナの初恋の相手ペルシはコステロという歌手で、これもいい。そしてアンナに横恋慕する若いズボン役のスメトンはなかなかの美女だが、この役には惚れ惚れする。そういう訳で、すべての歌手が最高位だった。

アンナを敬いながらも王に好かれてしまい身動きの取れないセイモーは、当初ガランチャの予定だったようだが(ウィーンではそうだったが)、ここではロシア人のグバノヴァに代わり(何でもオメデタのようだ)、彼女はネトレプコの地位を脅かすほどには上手くない。そこがこの配役の味噌だろう。控えめで実直な彼女の歌が、やはり胸を打つ。しっかりとした序曲からスマートな指揮をしたアルミリアートは、歌手の歌を引き立てるいつもの素晴らしさ。そういえば序曲のある作品を見たのは何かとても久しぶりのような気がする。

セクハラもパワハラも何でもありの時代背景は、現代人の日頃のストレスが馬鹿馬鹿しく思われるような気さえしてくる。それほど舞台の内容は悲劇的で歌詞も哀れだが、音楽がベルカントの明るさとロマン性を持っていて、劇的だが重くなり過ぎない。

このオペラを見て私はドニゼッティの存在を再認識したと同時に、その作品がロッシーニとヴェルディの中間に位置することを極めて明確に理解する結果となった。この作品は初期のヴェルディの雰囲気をたたえ、重唱の巧みさ、合唱の挿入のされ方、そしてレチタティーヴォにおける管弦楽の処理など、まさに若きヴェルディを彷彿とさせた。いやヴェルディがドニゼッティから多くのことを学んだのだろう。

夫婦関係の冷めた王が王妃に下した死刑と、王妃に仕えていた侍女との結婚が同時に行われるのが最後のシーンだ。アンナ・ボレーナは発狂して倒れる。重いストーリーも歌劇の中で演じられることを忘れさせない。それだから歌と音楽に一定のゆとりを保持しつつ酔うことができる。圧巻、という表現がぴったりの瞬間が何度も訪れた。熱烈なブラボーがメトの大空間を飛び回り、もちろん最後は全員総立ちである。

 「アンナ・ボレーナ」という作品をちゃんと見たというだけで自慢ができるような気がする、などと書けばちょっと有頂天になりすぎだろうか。なぜなら最初は、仕事の疲れでまったく見る気がしなかったし、実際少し眠ってしまった。だが、目を覚ましてからの2時間は圧倒されっぱなしで、「必ず満足します」というゲルブ総裁の挨拶に違いはなかった。彼の采配が功を奏した。ネトレプコは、疑いなく今一番のディーヴァである。

(2011/11 東劇)

2012年2月7日火曜日

ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」(The MET Live in HD 2010-2011)

現在最高のプリマ・ドンナはネトレプコかデセイか?ドニゼッティのオペラ・セリア、すなわち悲劇的な結末を迎える作品の中でもとりわけ人気の高いこのオペラは、その最大の見どころがいわゆる「狂乱の場」と呼ばれる第3幕のシーンである。ここを歌うのはルチア役のソプラノで、その長さは15分にも及ぶことは、いまさら言うまでもない。ネトレプコは2年前のシーズンでメトで同じ演出により歌っているから、これは時を隔てた2人の競演ということになる。

私もマリア・カラスのCDで何度も聞いてきたのだが、では他に何か有名なCDはと聞かれてもすぐには答えられないし、もとより全体をきっちりと見たこともない。有名なオペラなのに、それに触れずに老けてゆくのは何とつまらないことかと思う。そこであらゆる弊害を乗り越えて、何としても一度は見ておきたい。実演はなかなかかなわないから、ここはMet Live in HDなのである!

 東日本大震災後の公演で、案内役のルネ・フレミングはそのことにも触れている。いつものようにMaestro to the pit, please!」で始まる舞台は18世紀のスコットランド。ルチアは兄エンリーコの意向を無視してエドガルドと恋仲となる。兄は政略結婚を企画、ルチアはエンリーコとの結婚式で泣く泣く署名をしてしまうが、エドガルドがそれを知って激怒。ルチアは徐々に精神不安定となり、結婚当日にエンリーコを殺し自らも発狂して死んでしまう。それを聞いたエドガルドは自決する、というシリアスなもの。

だが歌は初期のヴェルディの作品を思わせるような朗々としたカンツォーネの連続で、重唱も多く合唱も効果的。とにかく聴衆は「狂乱の場」を待ち望んでいるので、それまでの幕はむしろ主役級の男性二人の見せ場となる。ひとりはルチアの兄エドガルドで、彼は「世間に忠実過ぎた」とバリトンのデジエは語っている。このデジエはなかなか好演しているが、それと合わせて司祭のライモンドを歌う韓国人クワンチュル・ユンがまた見事である。男の二重唱など毛嫌いする人もいるが、第1級の歌手が歌うと凄い。

デセイのルチアはどうだったか。私は上記のような体験しかないので評価が主観的になるのだが、歌は俄然素晴らしいと思う。だが、狂乱の場の演技は今一つ迫力が足りないと感じた。悪く言えばうまくまとめすぎている。取り乱している役を、彼女は計算通りに演じている。

第1幕でもやや声が出にくいところがあり、彼女のベストコンディションではなかったのだろう。幕が進むにつれて歌声は良くなったが、どことなく演技に色気がないのは、調子が悪かったからか、あるいは精神を病んでいく女性を演じるからか、あるいはあまりに緊張を強いられるからか。そう、その可能性が高い。物凄いストレスは、幕前にインタビューをするのが可哀そうなくらいだ。だがそういうそぶりを見せないところはやはり大したものだ。

そのデセイのCDを私はすでに持っている。ベッリーニの歌劇「夢遊病の女」である。彼女はここでアミーナを歌っている。私はこの時以来の彼女のファンだったので、一体どういう演技をする歌手か、今回見てみたいと思っていた。私が抱いていたイメージとは少し違ったが、それでも狂乱の場の後半のシーンは息もつかせない演技で聴衆の喝さいを誘った。来シーズンのヴィオレッタ(椿姫)が大いに楽しみである。

エドガルドを歌ったカレーハは、ホフマン物語でも標題役を歌ったマルタ出身の若いテノールだが、大変素晴らしい。狂乱の場が終わってから始まる彼の独演は、ルチアの陰に隠れてやや歩が悪いが、なかなか大したものである。だから彼にもアルフレード(椿姫)を期待したいのだが、いかがだろうか。

なお、Met Live Viewingでは他の作品も紹介される。次の演目であるロッシーニの「オリー伯爵」に出演するフローレスまで出演する。贅沢な話だ。指揮はサマーズ、演出は女性のジマーマン。どちらも無難な出来栄え。

(2011/09 東劇)

2012年2月4日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ドン・パスクワーレ」(The MET Live in HD 2010-2011)

昨日の夕方に「ルチア」を見たばかりだと言うのに、今日の朝の上映が「ドン・パスクワーレ」である。同じドニゼッティの作品だし、続けて見るのもつらくなってきたので、今日はパスしようと思っていた。けれども家族は「行ってきたら」と言ってくれる。そういう時は滅多にない。いくら有名なオペラ作品でも熱中して見る機会となると、一生に一度あるかないかである。

というわけで連日のベルカント・オペラと相成ったのだが、これが期待に反して素晴らしい。この1週間で立て続けに見た6つの作品の中で、これはもっとも楽しめた作品であった。あらすじも、そしてひとつの歌も知らないのに、である。

 同じドニゼッティとは言っても「ルチア」がオペラ・セリアなのに対し、「ドン・パスクワーレ」はオペラ・ブッファである。悲劇的なストーリーで歌われる内容は悲惨で残酷な「ルチア」は、やはりどこか違和感がある。悲劇性を強めれば強めるほど舞台は暗くなるが(場所がスコットランドであることにもよる。しかも幽霊が出る)、奏でられる音楽は変わらない。デセイが「喜劇の方が難しいが、悲劇の方が自由に歌える」と言っていたのを思い出した。だがデセイは狂乱のシーンを計算した通りに演じるのだ。計算された取り乱しシーンは、そうとわかればわかるほどやはり違和感がある。

それに比べて「ドン・パスクワーレ」の喜劇的ストーリーは素晴らしく綿密に計算されて、ドニゼッティの音楽の魅力がストレートに伝わってきた。早口で重唱となるシーンもいくつかあるが、カヴァレッタの続くロッシーニとは異なりもう少しドラマ性がある。見事なのはクラシックな演出のオットー・シェンクである。まだこの人の演出が使われているのかと思ったが、その舞台のわかりやすく必要十分な配置と展開は、歌手も演じやすいのではないかと思われる。

ジェームズ・レヴァインの意外にも初めてというこの作品への取り組みが、この公演の成功の多くを占めていたようだ。ぴたりとルチアに寄り添い、時にはテンポを抑えた「ルチア」でのサマーズと異なり、レヴァインは作品の性格をグイグイと引き出す力強さが健在だった。歌手が指揮者を信頼しきっているからこそ、このような音楽が可能なのだろう。その見事な歌手陣は、リノーラを歌ったネトレプコ、エルネストを歌ったポレンザーニ、医者でマラテスタを歌ったクヴィエチェンなどで、いずれもトップクラスの出来栄え。ネトレプコは最初イタリア語の発音に少し違和感があるかと思いきや、偽装結婚により悪女と化し、徐々に迫力を増すシーンはさすがに凄いと思った。彼女は悲劇を演じることが多いが、喜劇の方が似合うような気もする。

 だが主役はもちろんドン・パスクワーレで、それはバスバリトンのプレンクという歌手によって歌われたが、彼の演技を含めた素晴らしさは上記の歌手に勝るとも劣らない。第3幕でマラテスタとの早口な二重唱に至っては、場の展開の合間に後半部分をアンコールするというオマケまでついて会場は沸きに沸く。あっという間の3時間が短く感じられ、ええ、もう終わってしまうの、という気持である。

こうなったら来週はロッシーニ「オリー伯爵」も見ておかねばならないではないか。台風による豪雨が去って、少し気温が下がったように思われた築地の町に出たがまだ午後2時である。なぜ今まで見に来なかったのかと悔みかけたが、よく考えれば昨年まではいろいろあって、それどころではなかったのだろうと思いなおした。だからこそ今年は、アンコール上演を含めてできるだけ多くの作品を見ておこうと決意を新たにした。

(2011/09 東劇)

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