机に置かれた紙片には、その日に再生される曲目と演奏者が記載されていて、フルトヴェングラーやケンプのベートーヴェンが目に付いた。そうそう、やはりこういうところはドイツ音楽、それも古い演奏が似合うねえ、と奇妙な納得をしていると、誰かがリクエストしたのだろう、いきなりチャイコフスキーの弦楽セレナーデの冒頭が流れてきた。まるで剛速球を食らったバッターのように、のけぞるような姿勢を取りたくなった。そのくらいこの演奏の迫力はすさまじかった。畳一畳ほどもありそうな巨大な音響装置から出力される音波のエネルギーは、まるでこの建物を揺らすかのようだった。
第1楽章の堰を切って流れ出すアンサンブルは、プロ中のプロとも言うべき集団が異常な集中力を保って進む。クレッシェンドもレガートも一糸乱れることはない。速めのテンポで一気に進む音をステレオ録音が隅々まで明確に捉えている。一体これは誰の演奏だろう、と思っていたら低くか細いアナウンスが聞こえてきた。
”チャイコフスキーの弦楽セレナーデ、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏でした”
背筋がぞくぞくするという経験を、久しぶりに味わったような気がした。私は大阪から上京して、前日の夜は渋谷近くの三畳一間の陽の当たらない部屋に下宿している小学校時代からの友人の部屋に泊まり込んだ。寝不足のせいで朦朧としていた私を、彼は「ライオン」に誘った。私がクラシック音楽好きであることを知っていたからだろう。その「ライオン」で私はオーマンディのチャイコフスキーに出会い、その足でタワーレコードに向かった。この演奏を収めたディスクを買うためである。
オーマンディによるチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」のディスクは、交響曲第5番とカップリングされていた。これは大いに魅力的な組み合わせである。私は躊躇せずこのディスクを買い求め、今でも手元にある。久しぶりに聞いてみたが、印象はその時とまったく変わらない。そしてこれ以上の印象を残す演奏に、私はまだ出会っていない。
チャイコフスキーの弦楽セレナーデは、チャイコフスキーの書いた作品の中でもとりわけ完成度が高く、第3楽章などは最高の音楽の部類に入るのではないかとさえ思うときがある。小澤征爾はサイトウ・キネン・オーケストラとしばしばこの曲を演奏しているが、それは弦楽合奏を鍛えるために、この曲を斉藤秀雄が盛んに演奏させたということだった。演奏者の思いが詰まったこの演奏は、類稀なアンサンブルを聞くことができるが少し素人っぽい(そこが魅力でもある)。一方、オーマンディの演奏は職人的技巧を感じる。演奏者だけでなく、指揮者、すなわちオーマンディがいかに優れた音楽性を持つかをも示していると思う。
チャイコフスキーの弦楽セレナーデはよく、ドヴォルジャークの同じ作品とカップリングされた。ドヴォルジャークの方は感傷的で親しみやすく、私もかつてはよく聞いていたが、音楽的な充実度では、やはりチャイコフスキーに軍配が上がるだろうと思う。もっともこの演奏は、当時のLPレコード一枚に収めるためか、一部の繰り返しなどが省略されている。古いオペラの録音がそうであるように、仕方なく端折った演奏になっているのだ。まあ当時はディスクで音楽を聞くこと自体が高尚な体験であり、そもそも録音して演奏を残すことのできる芸術家は希少だった。そういう古き時代の名残なのだから、これは甘んじて受け入れるしかあるまい。どうしても省略なしで、録音のいい演奏で聞きたいときは、上記で述べたオザワ盤を聞くのが良かろう。この演奏には心がこもり、聞くものの胸を熱くする。







