私はこの四半期、6月までの東響の演奏会に「4回券」という仕組みで会員となった。これは好きな4回のコンサートを自由に組み合わせて、割引のチケットを購入することができるというものだ。東響の今年の演奏会は、私が注目するものが前半に集中している。このため、この仕組みは大変ありがたい。そしてその最初のコンサートがサントリーホールで開かれた。久しぶりの東響である。
その指揮は、何とパブロ・エラス=カサド。前回の来日で指揮したN響定期を私は聴き逃しているから、これは思いがけないことだった。その演奏の素晴らしさはラジオでも明らかだった。たしかファリャの「三角帽子」だったと思う。そして、彼は今やウィーンにもベルリンにも登場する売れっ子指揮者となっている。私は昨年末、久しぶりにバイロイト音楽祭のライブ収録をNHK-FMで聴いたが、その中で「パルジファル」を指揮したのがエラス=カサドだった。彼は毎年のようにバイロイトに出演しているらしい。
その彼が、よく東響の指揮台に立ってくれたと思う。そしてプログラムがいい。前半はシューベルトの「未完成交響曲」、後半がブルックナーの交響曲第6番である。いずれも渋い選曲。そして指揮者の力量がストレートに出る曲ではないかと思う。サントリーホールの1階席は久しぶり。A席なので後方の端である。だがそんなことは、まあどうでもいい。新橋で昼食を済ませ、銀座線に乗って溜池へ。会場前の広場には骨董市のような催しが開かれていて、気候もいいからだろう、大勢の人が集まっている。その合間を縫うようにしてエントランスに向かう。
大作曲家が未完に終わった曲を、弟子や後世の作曲家が補筆する例は多い。モーツァルトの「レクイエム」はもっとも有名だが、他にもマーラーの交響曲第10番、ブルックナーの交響曲第9番、あるいはプッチーニの歌劇「トゥーランドット」なども完成版としてよく演奏される。しかしシューベルトの、今では第7番と呼ばれる交響曲は、そのようなことにならない。理由は簡単で、この曲を補筆してしまうと「未完成」ではなくなるからだ。シューベルトの「未完成」は「未完成」であることに意味がある。だが、本当はこの曲をシューベルトの意思を継いで作曲することなど、誰もできないからではないかと思う。
「未完成交響曲」のユニークさは、当時としても画期的だったのだろう。ベートーヴェンが「暗い」と言って敬遠したロ短調(プログラム・ノート)という調性もさることながら、それまでシューベルトが作曲したどの交響曲よりも長く、そして深いのだ。
「未完成交響曲」はベートーヴェンの「運命交響曲」と並んでクラシック音楽の定番のカップリングであり、大変よく演奏されたのだが、私が初めて「未完成交響曲」を聴いたとき、これは何とも静かな曲だと思った。音楽はゆったりとして速くなることがない。最初は少しためらったが、その魅力に惹かれるのに時間はかからなかった。にもかかわらず、実演で「未完成交響曲」を聴くことは少ない。私もこれが確か4回目に過ぎない。けれども「未完成交響曲」は、第1楽章も第2楽章も大変ダイナミックであり、時に深く沈むかと思えば、懐かしいメロディーが心の底をえぐり、大音量の切実な波が押し寄せてくる。変化に富んだ曲は、迫力もあって聴き所満載である。
その「未完成交響曲」の最初の静かな出だしは、どこか落ち着かないムードの曲なのだが、エラス=カサドはそれからわずか数分後には演奏家を完璧に掌握し、聴衆の心を鷲掴みにした。音のバランス、ハーモニーの職人的妙味は、あのN響の常連であるソヒエフでも感じる天才的な音楽感覚ではないかと思う。我が国にも山田和樹がいるが、この3人はヨーロッパでも引く手あまたのスター指揮者へと昇っている。
シューベルトで心の底から感動した私を含む聴衆は、音楽が終わっても拍手をすることが数十秒ほどできなかった。長い静寂に会場が浸った。そして暖かい拍手。前半でエラス=カサドは東響の会員を驚かせたに違いない。となれば、自然に後半のブルックナーへの期待が高まる。いつもと違って顔を紅潮したような人が多かったような気がしたのは気のせいかもしれないが、私はその気持ちを落ち着かせるべくドリンクのカウンターに並んだ。
ブルックナーの交響曲第6番は地味な曲だが、私が最初に感動したブルックナーの交響曲で、思い入れが強い。しかし、この曲は作曲家の存命中にはほとんど演奏される機会がなく、したがってあのブルックナーの交響曲につきものの「版」の問題は存在しないに等しい。皮肉なことにこの曲は「大きな反響を呼ぶことも、厳しい批判を集めることも」なく、「改訂を決意するような機会すらなかった」(プログラム・ノート)のである。しかし、ブルックナーの死後2年がたって、ようやく全曲通しての初演がなされた。その時の指揮は、何とグスタフ・マーラー(ウィーン・フィル)だったようだ。
エラス=カサドがブルックナーを得意としているのかどうかわからないが、第4番をすでに録音している。それを聴いたことはないのだが、今回の演奏も終始力強く自信に満ちており、と同時にブルックナーに必要な独特の間合いは、この曲も完全に掌握しているからこそ達成されたものと言ってよい。よくブルックナーは自然に任せて表現することが重要、などと言われるが、それとは対極の、いわゆる「統制型・攻撃型」のブルックナーとしては、これは最高峰の出来栄えであった。
それを可能ならしめたのは、何といってもこの日の東響のアンサンブルの素晴らしさで、まるで神がかったように一糸乱れぬ姿は、1時間にも及ぶ演奏時間中、途切れることがなかった。この手腕はオーケストラの各プレイヤーによることは明白だが、指揮者がそうさせていたと思う。魔法のように、その指揮はオーケストラを乗せていった。特に第2楽章の美しさといったら!
演奏が終わって、長い静寂のあと大歓声が沸き起こったことは言うまでもない。カーテンコールを繰り返すたびにそのボリュームは大きくなった。コロナ禍以降、オーケストラが退席してもしつこく拍手が続き、再び指揮者が舞台に現れる「一般参賀」の光景は最近では珍しくないが、どことなくわざとらしい感じがしてきている。だがこの日は違った。明らかに再登場を求めるスタンディング・オベーションに加わった聴衆は、全体の半数近くいたのではないだろうか。それほど感激し、満足度が高かったということである。そういうわけで、コンサートに通うのが楽しくなった。次回はいよいよ第4代音楽監督に就任するロレンツォ・ヴィオッティのお披露目演奏会である。








