ブラームスを敬愛してやまなかったシェーンベルクが、この若きブラームスの傑作の編曲をオットー・クレンペラーに勧められたのは、彼がアメリカ西海岸へ移住した頃のことである。このときすでに60歳を過ぎていた。シェーンベルクは編曲の理由について、「私はこの作品が好きだが滅多に演奏されず、しかも優れたピアニストが演奏するとそのパートが強調されすぎてバランスが崩れてしまう。全てのパートが均等に聴こえるようにしたかったのだ」と語っている。さらに「ブラームスの書法を忠実に守り、もし彼が今オーケストレーションを施したとしても、同じ結果になったはずだ」と付け加えた。楽曲の構造自体はそのままで、音符を変えるような操作は一切行っていないという。だが、実際の響きを耳にすると、この言葉はにわかに信じがたい。
では、実際どのようにしてブラームスの音楽が変貌を遂げていくのか。それこそが、この曲を聴く最大の大醍醐味だ。原曲を知らなくても、ブラームスの音楽に親しんだ人なら「えっ、ブラームスの曲でこんな楽器使う?」と驚く瞬間が必ず訪れる。だが、これは本当にシェーンベルクが狙った効果なのだろうか。何度も聴き込むうちに、私は「これこそがまさに彼の意図だったのだ」と確信するようになった。
なぜなら、「ブラームスからの逸脱」は早くも第1楽章の終盤で姿を現すからだ。もっとも、主題があまりにもブラームスらしくロマンチックなため、一見すると気づきにくい。続く第2楽章の流れるようなメロディも、聴き始めはまさにブラームス的でこの上ない。しかし、中間部を過ぎたあたりで、ブラームスらしからぬ打楽器たちがひょっこりと顔を出す。
しかし、ブラームスらしさの枠にとどまっているのは第3楽章の冒頭までだ。出だしこそ牧歌的でブラームスそのものなのだが、途中から行進曲風の展開になると、多彩な打楽器群が登場して独特のムードを醸し出す。聴いていてとにかく楽しいのだが、「あれ、自分はいま誰の何という曲を聴いていたんだっけ?」と一瞬我に返ってしまう。もっとも、それもしばらくすると、まるで壮大な交響曲のような響きへと引き戻されるのだが。
シェーンベルクは、自身が切り開いた十二音技法のような現代的テクニックをここで駆使しているわけではない。にもかかわらず、ブラームスの時代からほんの少し先の未来にある音楽の予兆を見事に捉えている。原曲の魅力を損なうことなく、もしブラームス自身が編曲していたら決して生まれなかったであろう音楽へと仕立て上げているのだ。そもそもブラームスの原曲にそれだけの深さがあり、すでに新しい時代の芽を蓄えていたことを、シェーンベルクが誰よりも熟知していたからにほかならないからではないだろうか。
終楽章は、元々ジプシー風のロンド(ハンガリー風)である。原曲のままでも目まぐるしいリズムの変化が絶妙で実に楽しいのだが、シェーンベルクの見事な管弦楽法によって、まるでピアノ連弾用の『ハンガリー舞曲』が絢爛豪華なオーケストラ曲へと生まれ変わった。全編がまさにチャルダーシュの熱気に満ちあふれており、ここでもブラームスの他の作品ではお目にかかれないような楽器が登場して、ちょっとした興奮をもたらすこと請け合いである。何の楽器が飛び出すかは、実際に聴いてのお楽しみとしておこう。
シェーンベルクによって新しい時代の光を浴びたブラームスは、不思議で格別な魅力を放つようになった。近年でこそ演奏される機会が増え、それに伴って原曲の魅力も再発見されているが、録音の数となるとまだまだ少ないのが現状だ。名盤として名高いドホナーニ指揮ウィーン・フィル盤も捨てがたいが、個人的には、実演を聴く機会に恵まれたミヒャエル・ザンデルリンクによる新しい録音を名演として推したい。
ザンデルリンクと言えば、シュターツカペレ・ドレスデンと歴史的名盤であるブラームス交響曲全集を残した名指揮者、父クルト・ザンデルリンクの姿が思い浮かぶ。息子であるミヒャエルは、当初特に音楽家になることを期待されていたわけではなかったようだが、気がついてみれば3人の兄弟全員が指揮者として活躍しているのだから、血筋というのは面白いものだ。








