2026年10月13日火曜日

チャイコフスキー:3大バレエ組曲(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チャイコフスキーの3大バレエ音楽について、個人的なベスト盤とともに感想を書き終えた。3作品のうち最初に作曲された「白鳥の湖」は、1877年の初演時には必ずしも成功を収めることができず、チャイコフスキーにとっても不本意な結果となった。しかし、1890年に初演された「眠れる森の美女」は聴衆に好評を博し、作曲者のバレエ音楽としての評価を高めた。続く「くるみ割り人形」は1892年に初演されたが、当初の舞台作品としての評価は必ずしも芳しくなかった。それが今日のような人気を獲得したのは、後世、とりわけ欧米でクリスマスの定番演目として定着したことによるところが大きい。

これら3つのバレエ音楽から、組曲や抜粋という形で曲を選んで演奏したディスクのなかから、定評のあるものを取り上げておこうと思う。ただ、オペラでもそうなのだが、一度でも全曲盤に親しんでしまうと、抜粋盤はいかにもつまらないものに思えてくる。好きな曲が取り上げられていなかったり、曲順が違っていたりする。何よりも、ストーリーの自然な展開を無視して、次々とメロディーがつなぎ合わされるため、味わいに乏しく感じられるのだ。しかし、全曲を通して聴くには時間もかかるし、何より、全曲を聴く機会はあまりない。抜粋盤であれば、演奏に接する機会も多く、ディスクの数も豊富である。これは紛れもない事実なのだ。

ここで取り上げる、ロシアの著名なチェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが指揮したディスクも、そうした抜粋盤の一つである。この演奏はほれぼれするほど素晴らしいが、ロストロポーヴィチによる全曲盤は存在しない。したがって、彼の指揮によるチャイコフスキーのバレエ音楽を聴きたい場合は、この抜粋盤を聴くしかないのである。これはカラヤンについても同じである。

指揮者としてのロストロポーヴィチがどの程度のものかについては、議論の余地があるのだが、彼はロシア人としての矜持にあふれ、その音楽への愛情はことのほか深いものが感じられる。ロマンチックで、ややテンポが揺れ動く一方、野太い旋律を豪快に奏でるところは、チェロを弾くときと同様である。その愛国的な情熱に、ベルリン・フィルは誠意をもって応えている。これらの音楽から一貫して聞こえてくるのは、チャイコフスキーの音楽を愛してやまないロストロポーヴィチの、祖国に対する深い愛着である。

ついでに、チャイコフスキーのバレエ音楽を得意とし、3作品それぞれについて全曲盤や抜粋盤を残している有名指揮者をまとめておこうと思う(ステレオ録音のみ)。いずれも素晴らしい演奏なので、時間があるときに聴いてみたいと思っている。なお、このリストは私的なメモとして作成したため、漏れがあることをお断りしておく。

  • 3大バレエ音楽がすべてステレオ全曲盤としてリリースされている主な指揮者
    • エルネスト・アンセルメ(スイス・ロマンド管弦楽団)
    • アンドレ・プレヴィン(ロンドン交響楽団)
    • アンタル・ドラティ(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ロンドン交響楽団)
    • ワレリー・ゲルギエフ(マリインスキー歌劇場管弦楽団)
    • リチャード・ボニング(ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団)
    • レナード・スラットキン(セントルイス交響楽団)
    • ネーメ・ヤルヴィ(ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団)
  • すべて組曲(または抜粋)として録音・リリースされている主な指揮者
    • ヘルベルト・フォン・カラヤン(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)
    • ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)
    • ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(読売日本交響楽団)
  • 「白鳥の湖」、「くるみ割り人形」のみ全曲盤が存在する主な指揮者
    • 小澤征爾(ボストン交響楽団)
    • シャルル・デュトワ(モントリオール交響楽団)
  • 「白鳥の湖」のみ全曲盤がリリースされている指揮者
    • ウォルフガング・サヴァリッシュ(フィラデルフィア管弦楽団)
  • 「眠れる森の美女」のみ全曲盤がリリースされている指揮者
    • ミハイル・プレトニョフ(ロシア・ナショナル管弦楽団)


【収録曲】
バレエ音楽「白鳥の湖」より
1.情景(第2幕)
2.ワルツ(第1幕)
3.4羽の白鳥の踊り(第2幕)
4.パ・ダクシオン(第2幕)
5.ハンガリーの踊り(チャルダーシュ)(第3幕)
6.終曲(第4幕)

バレエ音楽「眠りの森の美女」より
7.序奏とリラの精(プロローグ)
8.アダージョ
9.長ぐつをはいた猫と白い猫(第3幕)
10.パノラマ(第2幕)
11.ワルツ(第1幕)

バレエ組曲「くるみ割り人形」作品71a
12.小序曲
13.行進曲
14.こんぺい糖の踊り
15.ロシアの踊り(トレパーク)
16.アラビアの踊り
17.中国の踊り
18.あし笛の踊り
19.花のワルツ

2026年10月12日月曜日

チャイコフスキー:バレエ音楽「眠れる森の美女」作品66(ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団)

チャイコフスキーのバレエ音楽「眠れる森の美女」は、「白鳥の湖」ほど抒情的ではなく、「くるみ割り人形」ほど人気があるわけではないが、それでも十分にメロディーの宝庫で飽きることはない。この3つの作品が古典的なバレエ音楽の最高峰であることは疑う余地がないだろう。この3作品をクラシック音楽の「三大バレエ作品」と言ってもいいくらいである。

そのチャイコフスキーのバレエ音楽は、実にこの3作品のみなのだが、その音楽があまりに素晴らしいので、ダンスを伴わない管弦楽作品としても十分に楽しむことができる。実際、管弦楽のみを収録したディスクも多い。「眠れる森の美女」ももちろんそうである。だが私は、他の作品ほどにはこの曲を聴いてこなかった。いや、白状すると、全曲を通して聴いたのは今回が初めてだった。

物語は単純明快で、ディズニーの映画にもなっているので、知らない人はいないくらい有名である。チャイコフスキーはシャルル・ペローによる昔話を原作としてこの音楽を書き、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演されたのは1890年のことである。プロローグと3幕から成り、上演(演奏)時間は2時間半を超える。

突出して有名なのは、第1幕第6曲の「ガーランド・ワルツ」と呼ばれる村人の踊りの音楽だが、それ以外にも聴けば聴くほど味わい深い。その中でもしばしば登場するのが「リラの精の到着」(第1幕第9曲c)である。さらに、「ローズ・アダージョ」と呼ばれる、うっとりするほど美しいメロディー(第1幕第8a曲)は、チャイコフスキーの音楽の最高峰のひとつであろう。

見事な音楽は前半(プロローグと第1幕)に偏っているわけではない。しかし、他の作品がそうであるように、第1幕まで聴いてくると楽しくなって、そのあとも聴き続けてしまう。第2幕の冒頭でホルンのアンサンブルが鳴り響くと、まだこの音楽が延々と続くのだ、と思い、わくわくする。チェロやヴァイオリンの独奏が活躍する場面は、甘くも切ない抒情にあふれ、聴く者の胸を熱くする。そこに舞踊がなくても、である。これはもう魔法としか言いようがない。

その「眠れる森の美女」の音楽から私を遠ざけてきた原因は、いい演奏に出会わなかったからである。定評のあるアンドレ・プレヴィンによる「三大バレエ」音楽のボックス・セットは、この作品に限らず、私をまるで興奮させてくれない。その原因は何か。私は長年、それが録音、とりわけマスタリングによるものではないかと思ってきた。収録時間の長さを優先した結果、マスタリングで音質が犠牲になったのではないか、と疑っていたのである。それが本当かどうかは、実際のところわからないのだが、あるとき意を決してSpotifyで全曲を聴いてみた。しかし、印象は変わらなかった。

私はチャイコフスキー好きの古い友人に聴いてみることにした。中学生のころからチャイコフスキーばかり聴いていたので、私よりもはるかによく知っているからである。彼は即座に、アンタル・ドラティによる演奏がいいのでは、と回答してくれた。だが、私はなぜそんな古い演奏を好むのか、理解できなかった。これは私の考慮不足で、ドラティによる「眠れる森の美女」の演奏は2種類あるのだった。私は古いMercuryのモノラル盤のこととばかり思っていたから、ドラティが後年になってコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した録音が存在することを知らなかったのである。

ドラティのコンセルトヘボウ盤は1980年代に入ってからのもので、だとすると録音はデジタル初期にあたり、音質も悪くはないと思われた。そして実際、そのとおりだった。彼はほかにワレリー・ゲルギエフによる演奏もいい、と付け加えたが、私は「くるみ割り人形」でゲルギエフを取り上げているから、ここでは触れないことにした。「ほかにもフェドセーエフなど、ロシア人の演奏がいくつかある」などと言ってくれたが、私はアンドリュー・モレグリアという指揮者がスロヴァキアのオーケストラを指揮してナクソスに録音したものを、ドライブしながら聴き続けた。これは録音の新しさも手伝って、プレヴィンによるものよりもはるかに印象的だった。

しかし、私はもうひとつ、ミハイル・プレトニョフがロシア・ナショナル管弦楽団を指揮した録音に出会った。そして、そこから受ける印象は決定的なものだった。プレトニョフはひとつひとつの音楽を丁寧に紡いでいく。派手さはないが、それが好ましいとさえ思う。というのも、じっくり聴いていると、この曲は結構大きな音も鳴り響く、長大で壮大な曲で、時にそれが過剰であると感じられてくるからである。早い話、騒々しいのだ。ところが私は何度もプレトニョフの落ち着いた演奏を聴き続け、ようやく全体を見渡すことができるようになった。そうなると、プレヴィンの演奏ももう少し客観的に捉えることができるようになった。プレヴィンによる演奏は情熱的である。ところがアナログ録音の悪い側面が出た結果、音の厚みが乏しく、演奏が単調に思えてくるところがあるような気がしたのである。

そういう経過を経て、私の大好きな曲に「眠れる森の美女」が加わった。

2026年9月19日土曜日

「行進曲」―世界に冠たる日本のマーチ―(武藤英明指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)

通常「行進曲(マーチ)」と言えば、オペラやバレエの中で繰り広げられる特定のテーマに沿ったものを除けば、軍隊や警察のような組織が統制を取って行進するための実用的なものである。一般に吹奏楽団と呼ばれる音楽隊は、このような曲を演奏しながら行進するので、弦楽器や大きな打楽器は含まれない。指揮者もいないか、もしくは先頭を歩いて拍子を取る程度なので、基本的には単純な2拍子である。

そのような行進曲は、大きくヨーロッパ型とアメリカ型に分かれる、とかつてラジオで山本直純氏が語っていた。山本氏によれば、ドイツを中心としたヨーロッパ型の行進曲は幾分足取りが遅く、それに対してアメリカ型のマーチは、速くて威勢がいいということだった。そしてそこに、明治時代になって軍事力の近代化を急ぐ日本の行進曲も登場した。

我が国の行進曲は、ごく簡単に言えば戦前の作品と戦後の作品に分かれる。戦前は軍歌風で、中間部に歌詞を伴って歌うメロディー部分が含まれている。「愛国行進曲」などがその例だろうか。一方、戦後はスポーツ中継などのテーマとして、このような政治的意図を感じさせない曲が中心になった。とはいえ、1980年代頃までは、国体や高校野球に限らず、運動会でも一糸乱れず行進することがもてはやされていた。これは世界的な傾向だったと思うが、今ではオリンピックでもそういう行進の仕方はしない。

スポーツ大会の「民主化」に伴って、実用的な行進曲の需要は消えたのかもしれない。しかし、我が国の古典的行進曲をフル・オーケストラ用に編曲して演奏する決定的な一枚が登場していたことに、私は最近気づいた。そのアルバムには「世界に冠たる日本のマーチ」などと威勢よい副題がついていてやや気持ち悪いのだが、演奏は実に堂々とした、歯切れの良いものである。それを何とロンドン・フィルが演奏している。

指揮は武藤英明で、桐朋学園を卒業し、主にチェコで活躍している指揮者だが、日本のオーケストラへの登壇も多いようだ。ただ、私はまだ実演に接したことはない。レーベルは我が国のEXTON(オクタヴィア・レコード)で、ここは数多くの日本人による演奏を精力的にリリースしているが、当盤もその一枚である。収録された曲を見ると、戦前・戦後をバランスよく交えたものだが、少し短い。私としては、戦前のものなら「愛国行進曲」、戦後のものであれば「若い力」や「大空」あたりが欲しかったところである。何せフル・オーケストラによる行進曲集は貴重なので、もう少し欲張って欲しかったというのが正直な感想。

最後になぜか「鉄腕アトム」が入っているのはご愛嬌というものだろう。だとすれば、「アンパンマン・マーチ」でも「トトロ」でも良かった気がする


【収録曲】(すべて武藤英明の編曲による)
  1. 古関裕而:オリンピック・マーチ
  2. 團伊玖磨:祝典行進曲
  3. 古関裕而:栄冠は君に輝く
  4. レイモンド服部:行進曲「コバルトの空」
  5. 吉本光蔵:君が代行進曲
  6. 瀬戸口藤吉:軍艦行進曲
  7. 奥村一:行進曲「太陽の下に」
  8. 川崎優:行進曲「希望」
  9. 大沼哲:立派な青年
  10. 古関裕而:スポーツショー行進曲
  11. 黛敏郎:スポーツ行進曲
  12. 高達雄:鉄腕アトム

2026年9月9日水曜日

ブラームス:合唱曲集(マリリン・ホーン(S)、ロバート・ショウ指揮アトランタ交響楽団・合唱団)

ブラームスのもっとも有名な合唱曲が「ドイツ・レクイエム」であることは疑う余地がないが、それ以外にも短い曲がいくつかあって、いずれもレクイエムと似てしみじみと味わい深く、ひとつひとつが素晴らしい作品である。しかし、合唱団を伴うこれらの曲が実際の演奏会で取り上げられることは少なく、ディスクへの録音でも、交響曲のカップリングとしてひっそり存在している程度である。

だが、いろいろ探していたら、4つの合唱付き作品を収録したものが見つかった。アメリカの有名な合唱指揮者、ロバート・ショウがアトランタ交響楽団を指揮した一枚である。そして「アルト・ラプソディ」に加わるアルト独唱には、重鎮のアメリカ人マリリン・ホーンが参加している。少し聴いてみると、実にこれが素晴らしかったので、ここで取り上げることにした。

【収録曲】

  1. 「アルト・ラプソディ」作品53
  2. 「運命の女神の歌」作品89
  3. 「哀悼の歌」作品82
  4. 「運命の歌」作品54

まず「アルト・ラプソディ」だが、これは上記の中では最も有名で、かつ演奏されることが多い作品である。ゲーテによる「冬のハルツの旅」からの断章が用いられており、アルト独唱と男声合唱が用いられる。3つの部分から成り立っており、人間嫌いの世捨て人が感じる心の痛みを表現している。ここで世捨て人とは、失恋したブラームス自身ではないか、という解釈がある。

こう書くとブラームスに叱られるかもしれないのだが、この曲の出だしはワーグナーの楽劇を彷彿とさせる。もっとも、ブラームスとワーグナーは、派閥として弟子同士が対立していたのであって、当人同士は尊敬し合っていたと言われている。そう思って聴くと、この曲はワーグナー風のブラームスという特殊なものに思えてくる。後半のアルト独唱と合唱の天国的な融合は、聴いていて心が洗われるようだ。

次の「運命の女神の歌」は、別の「運命の歌」と混同してしまいそうになるが、こちらもゲーテの詩から歌詞が採られている。「タウリスのイフィゲーニエ」という戯曲の第4幕らしい。ここの歌詞は、神々を恐れる人間の歌である。ブラームスはもう50歳になろうとしていたが、この時期に大いなる不安を抱えていたようである。そう思って聴くからか、この曲にはシューマンのような不安定さと、ブラームスの力強さが混在している。実際、この曲を絶賛したのはクララ・シューマンだったようだ。

3番目の「哀悼の歌」というのは初めて聴いた曲だったが、やはり美しい混声合唱を伴い、時にハープの音も聞こえるが、冒頭とコーダをはじめとしてしばしば奏でられるオーボエが印象的な曲だった。ブラームスらしい底堅い力強さと繊細さが感じられる。その名の示す通り、これは亡くなった人を哀悼するもので、やはり「ドイツ・レクイエム」の線上にある曲とも言えるだろうか。

収録された最後の作品は「運命の歌」である。これもまた素敵な曲である。私はかつてクラウディオ・アバドの指揮するディスクで感動した覚えがある。最初は管弦楽のみの序奏で始まるが、やがて女声合唱が静かに歌い始め、次第に男声も加わっていく。何と心が落ち着く曲だろうか、と改めて思う。ところが中間部になると、激しく緊張感のある曲調に変化する。トルコからのギリシャの独立戦争が背後にあるテーマだが、これは原詩であるフリードリヒ・ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」の歌詞に由来する。

合唱が付いているのは第2部までで、最後はオーケストラのみの曲となる。言葉よりも音楽が、より饒舌に、そして真摯に胸に迫る、と考えたのかもしれない。天国的な雰囲気に変化する音楽は、自然への賛歌ともいうべき昇華の中で、十数分の曲を静かに閉じる。

さて、私は1995年に米国ニューヨークに滞在していたことを、これまでに何度か書いた。そして私は幾度となくカーネギーホールやリンカーン・センターに馳せ参じていたのだが、毎月の演奏会を記した縦長のリストを見て驚いたのは、ロバート・ショウがいまだ現役でコンサートの指揮をしていたことだった。トスカニーニとの共演もある指揮者だったロバート・ショウの「LIVING STEREO」と題されたシリーズに録音された生々しいアナログ・サウンドのLPレコードが小学生時代の我が家にもあったのを覚えている。

もう80歳にもなる彼は、自身が設立した合唱団を解散した年(1967年)にアトランタ交響楽団の指揮者に就任している。そしてこのディスクも、そのアトランタのオーケストラと合唱団を指揮している。

一方、マリリン・ホーンについても、長年現役を続けたメゾ・ソプラノの大御所で、やはり私のニューヨーク時代にコンサートを開いていた記憶がある。そして彼女は、2026年の今でも92歳で健在である。改めて調べてみると、彼女はロッシーニやベッリーニなどのベルカント・オペラを得意とし、数々の名声を博したようだ。これもやはり1960年代が中心の話であって、それ以降も現役を続けた点で、ロバート・ショウと同時期に生きた古きアメリカのクラシック音楽家の栄光を感じる。それがデジタルの時代になって、テラークの名録音で蘇った当盤は、もはや遺産級のディスクであると言ってもいいのではないだろうか。

2026年8月18日火曜日

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それをモロッコからモーリタニアに続く砂漠地帯を舞台に展開する。

有楽町にあるそこそこ広い映画館に座った私を、重低音のリズムが襲った。映画が始まって長い間、容赦なくそれが続く。振動は四方八方から聞こえてくる。やがてそのリズムに合わせて自然に体が動き、勝手勝手に踊りだす。「レイブ」と呼ばれるらしい。Wikipediaによれば、主に1980年代後半から1990年代初頭にかけてイギリスで流行した若者文化で、麻薬との併用によってエクスタシーを得るようなパーティーが盛んに行われた。スクリーンではモロッコの砂漠で、レイブのパーティーに集まったヨーロッパの若者たち。いずれも、浮浪者、あるいは世捨て人のような人たちで、それぞれの背景はよくわからないが、世間から離れ、もはや生きる意味など失ってしまったような風貌である。だが考えてみれば、いつ自分がそうならないとは限らないのが、今の世の中ではないか。

この映画には、ヨーロッパで始まった第三次世界大戦のニュースと、迫りくる軍事組織が時に登場する。レイブ・パーティーに参加する若者は、そこから逃げ惑うように自動車を走らせ、次の会場を目指す。辛うじて現世の中を生きている。

一方、まだ世捨て人にまでなったわけではないスペイン人の主人公ルイースは、愛する娘がレイブに参加すると言って家を出て行ってしまったらしい。彼は息子のエステバンを伴ってモロッコの砂漠に出かけ、写真を見せては消息を尋ねるが、誰も知らない。しかし、別の場所で次のパーティーがあると聞き、移動する一隊に加わる。人目を避け、目的地に着くまでの行程は、狭い急斜面の道の連続で困難を極める。パンフレットにあるような「父が娘を探すロードムービー」とは桁違いの描写が続く。そして幾度となく繰り返される重低音の音楽も。

次のパーティー会場まで、いったいどういう風に行くというのだろう。あまり計画性はなく、行き当たりばったりのようにさえ見える。いや、彼らはすでに死後の世界との境を歩いているのだということが、次第にわかる。そして突如起こる事故や事件に、見る者は震撼し、目を覚ます。主人公を含め最後まで登場人物の背景も関係もわからない。極限状態に置かれ、人間が取りうる行動の選択肢がなくなっていく悲しさと、それを宿命として受け入れなければならないと悟る、死の直前の恐怖。それにしても一体何を描こうとしているのだろう。見終わると疑問が長く続く。そんなことを深く考えさせられるこの映画は、カンヌ国際映画祭に出品され、4冠に輝いた。 

2026年8月17日月曜日

映画:「大統領のケーキ」(2025年、イラク・アメリカ・カタール)

私にとって湾岸危機(1990年)と、それに続く湾岸戦争(1991年)は衝撃的な事件だった。ちょうどそのころ、夏の間だけ私はスイスに滞在していて、帰国の際にはイスラエルやエジプトなどに寄って帰ろうとしていたからだ。しかしサダム・フセイン(イラク)がクウェートに侵攻すると、多くの西側諸国の市民を人質にとった。その中にもちろん日本人もいた。

湾岸戦争が起こっても、フセインの独裁政権はなくならなかった。しびれを切らしたアメリカは、大量破壊兵器を増産しているとしてイラクを攻撃(2003年)することになるが、それまでの間も延々と恐怖政治は続き、外国からの経済制裁がさらに追い打ちをかけた。圧政下で犠牲になるのは、いつも無名の一般市民、それも弱い立場の人々である。ただでさえ過酷な砂漠の国で、貧しい暮らしを耐えしのぐのは容易なことではない。特に老人や子供にとって。

南部メソポタミアのデルタ地帯に住む若干9歳の少女ラミアは、すでに両親を失い、祖母と2人で極貧生活を送っている。ある日少女は、学校に遅刻しただけで、昼食として持参したリンゴを先生に盗まれる。見ていてそれだけでも腹が立つのだが、軍事政権下の学校は、それ自体が体制維持の容赦なき隷属装置となっている。権力に歯向かうと市中引き回しの刑が待っている(実はこれは、江戸時代や太平洋戦争中の我が国とさほど変わらない)。そんな中でラミアは、あろうことか大統領の誕生日を祝うケーキを作る担当にさせられてしまう。

フセインは全国の学校に、自らの誕生日を祝うケーキを作るよう命じていたのである。これに何の根拠もないし、そもそもケーキを作るにも材料が不足していて手に入らないし、お金もない。しかも、たった2日間で仕上げる必要があるのだ。そこに追い打ちをかけたのは、高齢の祖母がもはや仕事を続けられなくなるという事態だった。祖母はラミアを町に連れて行き、彼女を養子に出すことにする。しかし彼女はその怪しい様子を嗅ぎ取って脱走する。愛する雄鶏ヒンディを伴って。ここまでは、検索すると表示される「ネタバレ」以前のあらすじである。

差し支えない範囲でもう少し書こう。彼女には同級生の男の子の友人サイードがいた。彼は父親に連れられて遊園地でスリの手伝いをさせられているのだが、逃げたラミアはそこに合流し、一緒にケーキの材料を探すことになる。わずか1日の間に、材料を探し回る2人の小学生と、ラミアを探す祖母の様子が描かれてゆく。だが、極度の食糧難のイラクにあって、誰も手など差し伸べてくれない。それが、たとえあどけない少年・少女であっても。

この映画のポスターに「実話から生まれた感動作」などと書かれている。「感動」を『広辞苑』で調べると、「深く物事を感じて心を動かすこと」とだけ書かれていて、それはポジティブな局面だけでなく、ネガティブな局面でも使われる可能性を排除していない。しかし一般に人々が「感動する」というとき、それはいい意味でのことである。こういうとき「新明解国語辞典」(三省堂)の出番である。そこにはこう書いてある。「美しい行為・話・芸術作品などを見たり聞いたりして、人間の理想に触れた感じがして、充足感を覚えること」。

後者の解釈に従えば、この作品を私は決して「感動的」だとは思わない。いや、むしろその逆で「絶望的」である。なぜなら、登場する人物のほとんどすべてが悪人なのである。大人たちのような立場の人間でも、平気で子供をいじめ、搾取し、罵倒する。長く続く独裁政治と貧困が、いかに人々の心を荒廃させているか、その様子は容赦ない。それでも子供たちは健気に生きている。そして彼らに手を差し伸べてくれる大人が、まったくいないというわけでもない。偶然にもたらされるそれが、わずかな救いである。

この映画のトーンは砂漠のように極めて乾燥しており、感傷的なシーンなど皆無である。そのことが一層リアルに、見ているものの心を突き刺す。登場人物はすべて素人から採用されたという。監督の実経験をもとに、圧政下のイラクで起こっていた様々なエピソードをつなげた本作品は、カンヌ国際映画祭で2つの賞を受賞した。実話をベースにしている点で、そして今もなお戦禍の絶えない中東で起こっているであろう庶民の耐え難き生活は、この映画のような感じだろうかと貧弱な想像を働かせたりするが、それは我が国がかつて辿った道でもある。

ケーキは辛うじて完成し、当日学校へ持参するが、そこにとんでもない事態が生じる。その内容は書かないが、この映画のひとつのキーは、ラミアとサイードが時に行う「にらめっこゲーム」である。瞬きをした方が負けという単純なものだが、これが何を意味しているのだろうか。最後のシーンを見ながら、そのことを考えた。そしてこれは、独裁政治というものがどれほどの悲惨な状況をもたらすのか、ということを主題としながら、そこに空爆を繰り返す米国の大義なき戦争をひそかに批判しているとも言える。このたびの米国によるイランへの軍事作戦の結果、イラクは石油の輸出量が激減し、国内経済は崩壊寸前だと言われている。イラク人の監督によって、このような映画が作られたことは画期的である。だが、その状況は現在でも続いていることを忘れてはならない。

2026年8月16日日曜日

下野竜也プレゼンツ!音楽の魅力発見プロジェクト第13回(2026年8月15日すみだトリフォニーホール)

チケット予約サイトを見ていたら目に留まったのがこのコンサートだった。下野竜也が自ら企画し、司会を務め、新日本フィルを指揮するらしい。すでに13回目というが、私はこのような企画があったことをこれまで知らなかった。よく見ると、今年の出し物はブルックナーの交響曲第4番「ロマンチック」(ハース版第2稿)である。それは何と終戦記念日であるお盆真っただ中の8月15日。真夏にのんびりブルックナーに耳を傾けるのも悪くないな、などと考えた。いわば「レクチャー・コンサート」だからチケットも安い。

まあ素人向けの気さくなコンサートを思っていた。実際、前半に行われた「特別レクチャー」では、ホール前面のパイプオルガンを覆い隠すように大きなスクリーンが設置されている。マイクを持って登場した下野は、まず滝廉太郎の「花」を演奏し、隅田川とブルックナーの関係を説明(!)した。「徹底解剖」というほどのアカデミックな話は一切なく、時折冗談を交えながら、楽しいトークとなった。こういうコンサートなら、オーケストラも気さくにやっているのだろうと思っていた。しかし、後半に行われた全曲の演奏は、素人騙しのレベルなどではなく、ブルックナーの魅力を引き出す大名演だったと思う。うちとけた雰囲気が、かえってオーケストラの気持ちに余裕を持たせ、そのことが演奏を自然な形で立派なものにした。その手腕はもちろん、指揮者にある。

私は今回、前方の真ん中という絶好の位置に座ることができ、真っ白な衣装のオーケストラを壮観に眺めることができた。それは対向に配置され、左右のヴァイオリンがシンメトリックに響く。奥からは低音のコントラバスと管楽器の数々。教会に勤めたブルックナーの音楽には、その対称的な響きが相応しいと考えた。唯一の不満は、前に座った人の背が高く、丁度指揮者だけが見えにくかったことだ。だから音楽に集中した。そしてその音楽は、これまで何度聴いたかわからないこの曲の魅力を、再発見するものだった。

もしかすると下野竜也は、ブルックナーと相性がいいのかも
しれない(すでに「第00番」以外の曲はすべて振っているそうだ)。ただ、この長い曲の魅力を徹底解剖するには、少し時間が足りなかった。ブルックナーの交響曲全体を俯瞰するのであれば、もう少し他の作品や版の違いにも言及してほしかった気もする。いや、これはむしろ、夏休みに地元の方々を招待して行われるポピュラーなコンサートと理解すべきか。まあ彼自身「一切のクレームは受け付けません」とジョークを飛ばしながら、心からコンサートを楽しんでいるように見えた。

新日本フィルは楽団員が若返り、佐渡裕の時代になって技術的に巧くなっているように感じる。最後に来年度の演目を少し演奏したが、それは何とベートーヴェンの「第九」だった。このさわりだけの演奏もなかなか立派だったが、これは行かねばならぬ。思わぬところで見つけた真夏のコンサートに満足した一日だった。

チャイコフスキー:3大バレエ組曲(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チャイコフスキーの3大バレエ音楽について、個人的なベスト盤とともに感想を書き終えた。3作品のうち最初に作曲された「白鳥の湖」は、1877年の初演時には必ずしも成功を収めることができず、チャイコフスキーにとっても不本意な結果となった。しかし、1890年に初演された「眠れる森の美女」...