今、ブラームスの「セレナード第1番」を聴き始めた。
若々しさと穏やかさが同居するこの音楽は、今日のような少し肌寒い曇り空に、しっとりと寄り添う。いわばブラームスの「田園シンフォニー」とでも呼びたくなる風情で、交響曲第2番に付されることのある副題を思い起こすが、こちらの方が若々しい分、むしろ伸びやかで自由に息づいている。交響曲という形式の枠から解き放たれているからだとも思う。
三島を過ぎ、静岡県に入ってもなお空は重く曇り、富士の姿も望めそうにない。それでも、よくここまで歩いてきたものだと、ふと胸の奥で思い返す。
第2楽章に入る。引き続き牧歌的で、3拍子の穏やかな舞曲が、春の朝の空気にぴたりと溶け込む。ホルンが柔らかく響き、中間部へと移る。聴き入っているうちに、いつの間にか第3楽章へ。さらにゆったりとした牧歌的な旋律が流れ、私を乗せた「のぞみ」は静岡市内に入り、雲間から淡い陽光が差し込んできた。
それにしても、なんと平和的な音楽だろう。世界では戦禍が絶えず、暗い報せが日々流れ続けている。エネルギーの逼迫が生活を揺るがす未来も、もはや遠い話ではない。先行きの見えない不安に心が沈みがちな中で、こうした平穏と幸福に満ちた音楽に触れると、忘れていた大切な何かがふと胸に戻り、思わず息を呑む。
第3楽章も静かに幕を閉じる。弦と木管を主体とした音楽は、ほのかなロマンを湛えながら、ひたすらに平和的である。こうした曲を聴いていると、ブラームスはシューベルトやシューマンよりも、ずっと健康的で、まっすぐな精神の持ち主だったのではないかと思えてくる。だからこそ、彼はベートーヴェンを深く敬愛したのだろう。15分に及ぶこの楽章は、実に見事だ。
新横浜を出た頃に聴き始めた「セレナード第1番」は、長大な前半の3楽章を終え、木管が軽やかに導く第4楽章へと進む。第4楽章と続く第5楽章は短いながら、全体に小気味よいアクセントを添える存在だ。音楽は決して急いだり沈んだりせず、自然な呼吸のまま流れていく。
列車は早くも浜松付近を走っている。金管で始まるわずか2分あまりの第5楽章はスケルツォであり、最終楽章への前奏のように聴こえ、気分をそっと切り替えてくれる。ホルンとオーボエの掛け合いが愛らしく、3拍子の音楽は行進曲風に変わり、気持ち浮き立つ桜のシーズンを迎えた日本の空気とどこか響き合う。
第1楽章の冒頭と、この第6楽章の旋律はとりわけ印象深い。幸福感を増しながら、音楽は確かな足取りで終結へ向かう。豊橋を過ぎる頃、「セレナード第1番」は力強く幕を閉じた。空はわずかに明るさを増したようだが、まだ曇りがちだ。雨の心配はなさそうである。こういう日は歩くのにちょうどよい。京都まで、あと30分余り。
シャッフルされたSpotifyのAIは、ブラームス「大学祝典序曲」を選んだ。なるほど、今日は新入学の季節にふさわしい、陽気で快活な響きだ。「セレナード」のあとに聴くには、なんとも相応しい小品である。
若きブラームスの瑞々しい感性があふれる2つの「セレナード」の録音はいくつかあるが、わが国では長らく、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルのレコード一択だった。1980年頃の録音である。
それから40年以上が過ぎ、今日私が耳を傾けているのは、リッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏である。テンポはやや速めで、ビブラートを抑え、イタリア風の軽やかさと旋律の輪郭を際立たせた名演。耳を洗うような清新な録音でもある。









