今回の演奏会は、前半にピアニストの小山実稚恵を迎えてのモーツァルトである。ピアノ協奏曲変ロ長調K595 は、私にとって宝物のような曲だが、実演で聴いたことは何と一度もない。モーツァルトが最後に書いたピアノ協奏曲であり、ピアニストにとっても容易に取り上げられる作品ではないのかもしれない。そこで今回はホールを運営するNPOのサイトでチケットを購入しようとしたところ、最後の席がただ1つだけ確保可能であることがわかった。
10月24日は11年ぶりに開催される東京湾の花火大会の日に当たっていた。花火は夕方、コンサートは昼だから時間が重なることはないとはいえ、晴海ふ頭のそばにあるトリトンスクエア周辺は大混雑が予想される。残席が1枚となると、妻を誘うわけにはいかない。しかし、この1枚には縁があったと考えて購入を決意した。
その席は2階の左脇奥から2番目。つまりオーケストラを脇から見下ろす位置である。選べるなら避ける席だったのだが、はたして予想どおり、この席のチケットは買うべきではなかった。
世界中でいろいろなホールを体験してきたが、この第一生命ホールの2階席脇はひどいとしか言いようがない。まるで舞台が見えないのである。席に深く腰掛けると舞台の二割ほどしか見えない。一生懸命身を乗り出してようやく四割見えるかどうかである。当然ながら、ソリストやコンサートマスターの位置が辛うじて見える程度。それはまさしく天井桟敷の類で、真上から隙間を覗き込むような感じだった。これでは演奏会も台無しである。
あまりのひどさに呆然としていた私は、ようやくソリストの姿が見える位置に身を乗り出してモーツァルトを聴いた。まあ少し嬉しいことには、ピアニストが指を動かす鍵盤がよく見えたことだろうか。だが、この日の演奏は彼女のベストとは言い難いのではないかと思った。あるいは、指揮者を置かないオーケストラの欠点が感じられたと言うべきかもしれない。
ずっと身を乗り出しているのはつらいから、むしろ音に集中した。隣のご婦人はすでに寝ておられる。
表情付けが難しいK595は、晩秋の残照のように失われてゆくものの哀しさを表す第1楽章や、死後の世界を蝶が舞うような第2楽章、といった「静」のイメージそのものの演奏がある一方で、そうではない快活な演奏も存在する。これは解釈を演奏へと具現化する力が試される作品だと言える。この日の演奏は、どちらかというと後者に近かった。そして、その演奏がやや中途半端なものに感じられて残念だった。
もっとも、本編ではやや不満の残った小山だが、アンコールに演奏されたシューベルトは秀逸だった。上から手の動きを見ていたが、いったいどの手のどの指が、聴こえてくる旋律を奏でているのかよくわからない。ピアニストの名人芸を堪能する思いだった。
このホールはビルの高い位置に設けられていて、勝どき方面のタワーマンション群がよく見えるのだが、トイレに立つにもバーカウンターに赴くにも何度も階段を上下しなければならない。つまりは大変使い勝手が悪い。音響は悪くない方ではあるが。そして次のベートーヴェンにおいても、私はまた舞台の眺望に対する不満を感じ続けることになる。
もっとも、この座席にもわずかな利点はあった。
それは大活躍するティンパニの撥の動きが手に取るように眺められたことである。これが逆側だったら、その楽しさもなかっただろう。相変わらず右横のご婦人は熟睡中。私は何度聴いた知れない第7交響曲の、全編舞踏会とでも言うべき音楽の、大変引き締まった演奏を楽しむことにしたが、やはり身を乗り出すことのつらさと、それでも半分以上が隠れてしまうホールの構造に、大いなる不満を感じないわけにはいかなかった。
オーケストラは、コンサートマスターが大きな身振りで要所要所を合図する様子が辛うじて見えたが、そのためにはほとんど腰を浮かせるような姿勢にならねばならない。我が国を代表する実力派のソリストたちも、これではよく見えない。
結局、今回の演奏会の不満は、演奏そのものではなく座席への不満である。このような席を設けるべきではないとさえ思った。少なくとも、そうであると分かっていれば、私はこの席を購入することはなかっただろう。このホールとオーケストラは、もうこれでいいや。とさえ思った演奏会だった。








