米国で最も著名な作曲家のひとりで、ミニマリズムの正統的な後継者のひとりであるジョン・アダムズが、一昨年に引き続いて都響の指揮台に立った。2年前に行われたアダムズの公演は、彼自身が日本のオーケストラを指揮して自作を演奏するという歴史的なものだった。記録によれば私もこの日、「アイ・スティル・ダンス」「アブソリュート・ジェスト」、それに有名な「ハルモニーレーレ」を聴いている。この日は日本の作曲家の姿も多く見かけ、いつもとは違った雰囲気に圧倒されたのを覚えている(https://diaryofjerry.blogspot.com/2024/01/9922024118.html)。
今回の演奏会には、再び彼自身の作品を中心に3つの曲のプログラムが組まれた。このうち最初の演目は、日本初演となる「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」という作品で、日本語に訳せば「内気で感傷的な音楽」などとなるのだろうが、近年の傾向に倣って、原題のままカタカナ表記とするのが流行りのようである。だが、どちらの言語で表現しようと、そのタイトルの意味には解説が必要だろう。
幸いブックレットは、彼自身が自作を解説した部分を中心に、大変読み応えのあるものだった。それによれば、おおよそ表現者たる芸術家は、「ナイーヴな人格を持つ人」と「センティメンタルな人格を持つ人」に分かれるのだという。これはドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーの論で、シラーと言えば、あのベートーヴェンの「第九」の歌詞で有名な、あのシラーである。
シラーによれば、自分と周囲の環境、そして自分の内面が一致している芸術家(ナイーヴ)と、それが芸術の発展に伴って失われ、今や理想としてのみ存在するものとして追い求める芸術家(センティメンタル)に分かれるのだという。大雑把に言えば、自然に自己矛盾なく作品が創作できた時代の人と、芸術的なものを意識せざるを得なくなった、自意識過剰の時代を生きざるを得なかった人。
この2つの立場の違いを意識して本作品は作られた、云々のような解説が掲載されているのだが、では実際どんな音楽なのかとなると、多くの現代音楽作品の解説同様、音楽以上に難解である。特に本作品は日本初演。事前に聴くこともできない(実演でなければ、そういうわけでもないのだが)。
45分の曲は3つの楽章から成っている。舞台上に並んだ大規模なオーケストラには、見たこともないような打楽器が所狭しと並べられていたようだが、私の座席の位置(1階席10列目)からはよく見えない。この大規模な演目は、後半に設定されてもよさそうなものだったが、前半になっていた。これは指揮者(作曲家)の意向を反映していると考えるのが妥当だろう。
第1楽章が「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」。20分にも及ぶ楽章は、例の小刻みなリズムが絶え間なく続き、その合間に様々な楽器が入り乱れながら、次第に規模を増していく。よく指揮者のタクトを見ると、拍子がくるくると変わっていく。8拍子だったと思ったら3拍子になる、という具合。漂う音楽。
第2楽章は「人間の母」という。「母の死と、男あるいは女が汚れなき幼年期の状態に願うこと」を呼び起こす人間の潜在意識を表現している。これが「ナイーヴ」と「センティメンタル」の葛藤である、というのである。
ここで印象的だったのは、増幅器を用いたギター(エレキ・ギターみたいなもの)が、間隔を置いて舞台左袖奥から聞こえてきたことだ。このギターの音は、とても鮮烈に聞こえるのだが、音楽とうまく調和しているようでもなく、かといってバラバラでもない。その微妙なハーモニーは、そういう音楽だからなのか、それとも演奏がおかしいのか、よくわからない。
第3楽章「リズムへの連鎖」。オーケストラがさらに規模を増し、圧倒的なエネルギーで聴衆を興奮に巻き込む。ストラヴィンスキーの「春の祭典」第1部の終わりを聴いているような感覚、とでも形容するくらいしか思い浮かばない。音楽が終わると同時に沸き起こったブラボーと拍手は、終演時を上回るほどだった。
指揮者としてのアダムズは、きっちりと指揮するので精いっぱい、という感じで、指揮者のプロが振ればもっと刺激に満ちた演奏になったようにも思われた。しかしこの表現には注意が必要だろう。彼自身が書いている。「作曲家であると同時に指揮者でもある者は、公と私、外向性と内面性、内面生活と外面生活の間の過酷な分断という厳しい衝突を日々経験する」(プログラム・ノート)。作曲家として自作を指揮することには、聴く者には簡単にはわからない葛藤があるのだろう、と思った。だからこの曲は、その境遇を理解している、指揮者であり、かつ作曲家でもあるエサ=ペッカ・サロネンに捧げられたそうだ。
休憩時間を挟み演奏されたのは、アイヴズの「答えのない質問」であった。この曲は短い作品だが、演出がとても凝っている(改訂版)。まずP席に4つの譜面台が設置され、そこに登場したのは3人のフルートと1人のクラリネット奏者。そして驚くべきことに、彼らを指揮するために副指揮者が指揮者の前に着席。さらに音楽が始まると、2階席の奥からトランペットが響いてくるという仕掛け。このトランペットが、まるで勘違いしたかのように唐突に、周囲の調和を無視するような(つまりは下手を装ったような)感じで吹き出すのである。それに対して、しどろもどろな応答をする4人の木管奏者。この対話が舞台空間を利用してやり取りされる間、小編成のオーケストラは静かな音を終始奏でていた。
今回のプログラムで、なぜアイヴズの音楽が挿入されたのかは、解説に様々書かれているが、同じニュー・イングランドをルーツに持つ作曲家の先駆者として、敬意を表したということだろうか。いや、もっと深い意味があるのかもしれない。後年の作品と若い頃の作品の間に挟まれた、わずか6分の小曲は、前衛的な音楽の「答えのない質問」を続けてきた彼自身の創作の経歴を表しているのかもしれない。アイヴズがそうであったように。
さて最後の「ハルモニウム」もまた大きな曲で、これだけ次々と凝った曲が聴けるのは、何とも贅沢極まりないことである。演奏する方は大変なことだろうと思う。だが都響は今回も素晴らしい仕事をこなしたと思う。そして合唱団!
P席に陣取った新国立劇場合唱団は、ミニマル音楽における合唱という新しい地平を行く曲を、見事に表現し尽くしたと思う。その難しさは、これもまたプログラム・ノートによるのだが、実際にはいくつものパートに分かれているそうだ。それがばらばらにならず、一定のリズム感覚を生理的に高めながら、時にグレゴリオ聖歌のような静謐な部分も交えて(実際、歌詞の英語がラテン語のように聞こえるときがあった)、見事にオーケストラと溶け込んでいるのである。
この曲はアダムズがまだ若い頃の作品で、いわば野心作であろうと思う。作品は3つの楽章から成り、それぞれ3つの詩を用いている。第1楽章「否定でしか表せない愛」、第2楽章「私が死のために立ち止まることができなかったから」、第3楽章「大荒れの夜」。会場に字幕の用意はなされなかったが、歌詞がプログラムに掲載されているのは親切なことである。
いつもとは違う音楽体験。おそらく現代音楽の難解さを理解できない多くの聴衆も、それを求めて来ているのだろう。そしてアダムズの音楽は、身を任せて聴いていれば、まるで麻薬のように身体に陶酔感をもたらすようなところがある。来年80歳になる作曲家は、世界中で多くの記念コンサートを控えているのだそうだ。何度もカーテンコールに応え、会場を立ち去りがたい多くの聴衆からは、いつまでも熱い拍手が送られていた。










