2026年4月25日土曜日

NHK交響楽団第2061回定期公演(2026年4月16日サントリーホール、ファビオ・ルイージ指揮)

最近、音楽を聴いても、以前のように心が震える瞬間が少なくなったように感じている。年齢を重ね、感性が鈍ってしまったのかと思うこともある。若い頃は時間もお金も限られていたからこそ、わずかな機会を逃すまいと満を持して会場に向かい、胸を高鳴らせながら音楽を待ち受けたものだ。あの頃の自分は、演奏が進むにつれて「もう終わってしまうのか」と切なく思った。欧米から来日する音楽家ともなれば、次に聴ける機会はないかもしれない。その思いが、音楽への渇望をいっそう強くしていた。

どんなに悪い席でも構わなかった。多少演奏が荒くても、目の前で音が鳴っているという事実だけで胸がいっぱいになった。しかし今は違う。耳が肥えたと言えば聞こえはいいが、むしろ感受性が摩耗してしまったのかもしれない。

今回、サントリーホールで聴いたファビオ・ルイージ指揮によるマーラーの交響曲第5番は、なぜ自分が感動しなかったのか、正直よく分からない。オーケストラは過去にも増して集中し、アンサンブルは見事で、日本でも屈指の水準にあると感じた。音色は磨かれ、細部まで神経が行き届き、欠点を探す方が難しいほどだ。それでも、どこか物足りなさが残る。

演奏側に原因があるのか、聴き手の問題なのか。第4楽章のアダージェットはロマンチックで、呼吸も十分に感じられたのに、心が動かない。理知的に偏っているわけでもなく、叙情美が欠けているわけでもない。ただ、音楽に「ゆとり」がないように思える。型にはまり、そこから自由に身をひるがえす余白がない。客観性はあるのに、音楽の揺らぎや遊びが抑え込まれているようで、優等生的な印象が拭えない。

人工的な完成度で魅了するマゼールのような個性があるわけでもなく、素朴な情熱で感性を揺さぶるタイプでもない。すべての教科で80点を取る秀才のような音楽で、そつがないが、どこか決定的な一撃に欠ける。こうしたタイプの指揮者は少なくないが、音楽は本来もっと多様で、多面的であるべきだと思う。その結果が、マーラー特有の曖昧な方向感や、遠い世界へ誘われるような感覚を薄めてしまっている。音楽が漂わず、その場にとどまってしまう。聴衆は常に目の前の音に向き合わされ、次第に疲れてしまう。まるで新入社員が上司に囲まれた酒席で酔えないような息苦しさがあり、どんな料理も味わえないのと似ている。

一方、前半のモーツァルトは実に素晴らしかった。ルイージの音作りは、モーツァルトに不可欠な浮遊感と音の美しさを見事に引き出していた。N響のアンサンブルも精緻で、クラリネット独奏(N響主席の松本健司)は安心して身を委ねられる出来だった。30分ほどの間中、懐かしい気持ちが胸に広がった。かつて、秋の夕暮れにこの曲の第2楽章を繰り返し聴きながら、最晩年のモーツァルトの心に思いを馳せた日々があった。少年時代の音楽の記憶がよみがえり、懐かしさと嬉しさが入り混じった。

2026年4月20日月曜日

ブラームス:セレナード第2番イ長調作品16(ベルナルト・ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団)

雨の日豊本線を、特急「きりしま」が走る。4月だというのに、沿線の木々はすでに新緑の季節を迎え、瑞々しい青さが目にしみる。宮崎から鹿児島へ向かう2時間の旅は、車内を歩くこともままならないほど揺れが強く、この文章を書く手も震えるほど。日本でも屈指の人口の少ない地域を走る列車の、月曜朝の車内は比較的すいている。だが台湾からの旅行客が多く乗っている。みな観光客だからか、静かながらもどこか華やいだ空気が漂っている。

耳には、Spotifyで流れるブラームスのセレナード第2番。ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏だ。牧歌的な第1楽章を聴きながら都城に近づくと、雲の切れ間から青空がのぞき始めた。3日間降り続いた菜種梅雨も、ようやく終わりを迎えつつある。南九州は本当に雨が多い土地だと、改めて思う。

舞曲風の第2楽章はスケルツォ。ブラームスは秋に聴きたくなる作曲家だと思い込んでいたが、それは晩年の作品に限った話で、若い頃の作品には春や夏の空気がよく似合う。このセレナードも、彼が20歳の時の作品だ。ただ、こうした「若さ」についての感想を文章にするのは、どこか陳腐で恥ずかしくもある。

都城を過ぎると、車窓は次第にシラス台地らしい風景へと変わっていく。平屋の立派な家が多いのも、この地域ならではだ。列車は森の中を快走し、いくつかの峠を越えて大隅の国へ向かう。霧島周辺は九州でも屈指の風光明媚な土地である。今や鉄道旅は決して安くはないが、車窓をのんびり眺める楽しさは、他の交通手段には代えがたい。私はやはり鉄道の旅が好きなのだ。

このあたりには10代の頃に何度か訪れたことがあるが、それ以来の再訪だ。驚くほど、40年前と風景が変わっていない。

音楽は第3楽章、第4楽章へと進む。実際にコンサートで聴けば少し退屈に感じるかもしれないが、旅のBGMとしてはこれ以上ないほど心地よい。第5楽章はやや速めで陽気な曲。ハイティンクのブラームス全集は細部まで丁寧に描かれ、フィリップスの録音も秀逸でとてもバランスが良い。流行りのイタリア風流麗さではなく、適度なアクセントと明晰さを備えた演奏で、ブラームスの中庸の魅力がよく出ている。

第1番に比べて地味な印象のある《セレナード第2番》を聴く機会はほとんどない。いや、皆無と言っていい。だが今回はSpotifyのおかげで、旅の良き相棒となってくれた。曲が終わり、AIが自動で選んだ「ハンガリー舞曲」が流れ始めたころ、列車はちょうど霧島神宮駅に到着した。

2026年4月16日木曜日

ハイドン:オラトリオ「四季」(2026年4月12日東京文化会館、イアン・ペイジ指揮)

春というよりは、もう初夏の陽気である。まだ桜も散りきっていないからか、上野公園には大勢の人が訪れている。この季節、すっかり恒例となった「東京・春・音楽祭」は、今年も数多くの意欲的なコンサートを企画し、どの公演に出かけようかと東京のクラシック音楽ファンを悩ませている。西洋では復活祭の期間にあたり、来日する団体やソリストの融通がつきやすいのだろう。欧米に比べ、日本はすでに春本番を迎え、暖かく過ごしやすいということもあろう。

そういうわけで今年も「グレの歌」やいくつかのオペラなど、大型公演が目白押しである。その中でも私がもっとも注目し、発売日を待ってチケットを買ったのは、ハイドンのオラトリオ「四季」の演奏会だった。この音楽祭は合唱作品を取り上げるのが好例だが、今回はその「合唱の芸術シリーズ」の第14回目とのことである。とうとう大好きな「四季」が実演で聴ける。私は長年、この曲の実演に出会えることを心待ちにしていた。

そもそもこのブログを書くきっかけとなったのは、あの膨大な数に上るハイドンの交響曲をすべて聴き、その感想などをメモしておきたいという衝動にかられたからだ。書き進むにつれて、他の作品や演奏会の記録も残しておきたくなり、それは主要な作曲家の主要な管弦楽作品とオペラを次第に網羅するだけの量になっていった。10年以上が経過して、書いた記事は1000件を超えるまでになった。ハイドンの管弦楽を含む作品についていえば、2つのオラトリオ、すなわち「天地創造」と「四季」が避けて通れない作品である。この2曲は、実際ハイドンの数あるオラトリオの中でも双璧を成すとされ、片や旧約聖書の創成期を題材とした宗教的色彩の濃い作品、片や農民の労働生活を生き生きと描く世俗的色彩を持つ作品である。どちらがいいというものではなく、この両曲はハイドンのオラトリオの最高峰と言っていいだろう。

共通しているのは神への賛歌である。まるで情景が目に浮かぶような歌詞に合わせて、具体的な動物の鳴き声や気象の様子が音楽によって巧みに描写される。古典派の骨格を維持しながら、まるで標題音楽のようにそれらが出没する様子は、対訳を追いながら聴くとより鮮明に想像力が掻き立てられ、アリアや合唱との融合を繰り返しながら、壮大な絵巻物を見るような錯覚にとらわれてゆく。演奏を超えて、曲の素晴らしさにこそ感銘を受ける。おそらく若きベートーヴェンもこの曲を聴き、あの「田園交響曲」を着想したのではないか。

特に「四季」は、我が国でなじみやすい作品であるといえる。なぜなら中緯度に位置する日本は、春夏秋冬の区別がはっきりしており、季節感に対する感覚は世界のどの国よりも繊細であると思う。ひとこと「雨」といっても何十種類もの表現を使い分ける俳句の季語を持ち出すまでもなく、今でも天気予報はまず季節の話題から始まり、手紙の冒頭には季節表現を用いることになっている。四季に対する鋭敏な感覚を持ち合わせている日本人には、この作品ほどなじみ深く、また共感を覚える作品はない、とさえ思う。

にもかかわらず、「四季」が公演のプログラムに上ることはほとんどなかった。私はここ10年以上、この作品の実演を探してきたが、取り上げる団体は皆無に等しい状況だった。「天地創造」なら数年に1回は上演されていることを思うと、ちょっと理解しにくい。CDなどのメディアには「四季」の録音は数多くある。だから、今回の機会を逃すと、もう一生この音楽を実演で聴くことはできないのではないか、と思った次第である。

指揮者は当初予定されていたアイヴァー・ボルトンから、本邦初登場のイギリス人イアン・ペイジに変更された。そのことが関係していたのか定かではないが、チケットの発売日も延期され、私はその都度、カレンダーの印を変更する必要があった。だが、チケットは最後まで売れ残り、当日券も沢山用意された。会場に来た実感では、4割程度の入場者数だろうか。このような状況は見たことがない。しかも日曜日のマチネである。出演者に気の毒なくらいに、この作品の知名度は低いのだろうか。けれども、3人のソリストに加え、定評ある東京オペラシンガーズの合唱、東京都交響楽団による演奏とくれば、そこそこの演奏が期待できる。

そのソリストでひときわ安定した響きを会場に轟かせたのは、やはりバスのタレク・ナズミだった。冒頭から威厳があって、しかも明るく光彩を放つような低音は、聴いていてほれぼれとするほどだ。だが、テノールのマウロ・ペーターも悪くない。彼は真摯に歌詞に向かい、高音であってもであっても決して軽薄になることはなく、高貴で力強い神への賛歌を歌う。

その2人の男声に挟まれたのが、唯一の女声パートを歌うクリスティーナ・ランツハーマーだった。彼女は次第に調子を取り戻し、最終的には及第点の出来栄えだったと思う。合唱団はやや硬いという印象を持ったが、それも後半には解消し、特にクライマックスを築く「秋」の後半は、オーケストラの迫力と相まって深い感銘を残した。

オーケストラ中央には通奏低音を担うチェンバロとチェロの奏者が陣取り、ここはバロックの風合いを残す。合唱も時にフーガを奏でる。ペイジという指揮者は、ピリオド奏法の音楽団体を主宰し、主にモーツァルトの音楽で定評があるようだが、ここで聴いた演奏は特にビブラートを押さえたという感じはしなかった。むしろオーソドックスなモダン楽器の演奏スタイルだったことが意外だったというべきか。

そのようにオーケストラと合唱の硬さは、いささか精彩を欠いた感は否めない。しかし都響の、特に管楽器からは朗々と歌うメロディーが聞こえてくるし、「秋」における4台のホルンの重奏などは見事に決まった。イギリス人による「四季」の名演奏は、何といってもBBC響を指揮したコリン・デイヴィスだと思っているが、この録音は英語による歌唱である。デイヴィスの骨格ある質実剛健とも言うべき指揮は、この曲の魅力を伝えてやまないが、今回の演奏はそれに比べると、やや輪郭がぼけていた。それも初登場、かつ1度限りの演奏会の宿命だったのかもしれない。

2026年4月11日土曜日

ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98(カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ブラームス最後の交響曲である第4番ホ短調は、彼の最高傑作であることに、おそらく疑う余地はないだろう。音楽的な知識をさほど持ち合わせていなくても、あるいはブラームスの本質を知らない人が聴いても、そう感じさせるだけの力を持っている。無駄のない骨格、ロマンティックで豊穣な響き、緻密にして多彩に変化するリズムやハーモニー。どの側面から見ても完成度は申し分なく、演奏を変えて聴いても常に味わい深い。後半の楽章に至っては、興奮を禁じ得ないほどである。

そのような曲だけに人気も高く、古今東西の名演奏・名録音は枚挙に暇がない。私がクラシック音楽を聴き始めた頃、我が家には何枚かのレコードがあった。思い出すままに記すと、フルトヴェングラー、トスカニーニ、セル、クレンペラーなどなど。そこに当時の新盤、バーンスタインのウィーン・フィル盤も加わった。知人の家に行けば、さらにS=イッセルシュテット、カラヤン、ワルター、あるいはケルテスの名盤もあり、私はそれらを広い居間で聴かせてもらったのを覚えている。

同じ曲を、演奏を変えて何度でも聞く。クラシック音楽の楽しみのひとつは、この「聴き比べ」にあると言える。それには一定数のディスクが必要であり、過去の名演奏を一通り網羅していることが望ましい。でないと、より詳しい人からは軽く見られるのが落ちである。「もっといい演奏があるのに、この人は知らないのだな」という、軽蔑をもにおわせる無言の視線が注がれる。クラシック音楽とは、このように恐ろしい趣味でもある。

さて、そのような我が家の「ブラ四」(通はこう呼ぶ)コレクションに、また一枚のLPが加わった夜のことを、私は忘れることができない。ちょうどデジタル録音が始まった頃、ドイツ・グラモフォンの黄色いジャケットに、どこかニヒルな表情の顔写真。誰だ?この人は。私の父は、まだ中学生だった私がすでに床に就いているにもかかわらず、自宅のステレオ装置を鳴らした。

一家7人が暮らす昭和の木造住宅である。ふすま一枚を隔てただけの隣室にも、その音はダイレクトに届いた。しかも大音量で。そこで聴こえてきたのは、ブラームスの交響曲第4番。だが、私はこの曲をまだあまり知らなかった。多くの人がそうであるように、私は第1楽章冒頭の、前奏なしで始まる主題だけを知っていた。よく聞いていたのはワルター晩年の演奏で、それはとてもゆったりとしていて、ロマンに満ちた、まるで映画音楽のような演奏(と私には思えていた)だった。

だが、父が再生した演奏は、そのようなものではなかった。音楽が始まるや否や、ぐいぐいと引き込まれていく。テンポはかなり速く感じられた(実際にはそれほどでもないのだが)。第1楽章の途中で私は興奮状態に置かれ、目は冴え、それどころか布団の中で汗ばむほどに高揚していった。

第2楽章の静かなメロディーでさえ、集中力を失わない緊張感と生き生きとしたバランスに圧倒されたが、第3楽章の冒頭が鳴り響いた瞬間、まるで最終コーナーを回った競走馬のような疾走ぶりに、私は完全に放心状態となってしまった。

この演奏こそが、当時の最新盤であったカルロス・クライバーのものだった。カルロス・クライバーはまだ若手の部類に入っていたが、すでに「伝説の指揮者」と呼ばれていた。何しろレパートリーは極めて少なく、実演も録音も滅多にお目にかかれない。しかし、ごくたまに現れては歴史的名演を残す。それまでにリリースされていたのは、ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」(デビュー録音)と、ベートーヴェンの交響曲第5番、第7番くらいであった。

しなやかでありながら圧倒的な集中力。類まれな興奮と、まるで鍛え抜かれたアスリートが放つような生物的な美しさ。それは独特の指揮姿にも表れていたが、当時のファンにはそれを知る術がなかった。知られていたのは、あの巨匠エーリッヒ・クライバーの息子であるということくらいである。後に知ったことだが、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」、ヴェルディの歌劇「椿姫」、あるいはシューベルトの「未完成交響曲」といった、完成度の高い名曲ばかりを取り上げていた。そのクライバーが選んだブラームス作品が、この第4交響曲だったのである。

ウィーン・フィルが顔を紅潮させ、身を乗り出すようにして熱演を繰り広げている様子が、スタジオ録音からも手に取るように伝わってくる。そのようなことは滅多にない。彼は100%の完成度でなければ音楽を世に出さないのである。その職人気質にウィーン・フィルのメンバーは心底惚れ込み、以後、さまざまな問題があってもなお、この指揮者に熱い思いを寄せ続けた。それが後のR・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」やニューイヤー・コンサートの名演につながっていく。

第1楽章はソナタ形式で書かれている。この曲は19世紀の終わり頃に作曲されたにもかかわらず、どこか古風な印象を残す。その最大の理由は、この冒頭のメロディーにあるのではないだろうか。ヴァイオリンが休符を挟んで上下の音を行き来する。専門的には3度の下降、6度の上昇。このモティーフは楽器を変えながら幾度となく現れる。分離と融合が自然に流れる心地よさ。ロマンティックでありながら、どこか理性を失わない確固たる構造を持つ。そこにブラームスの精神性が感じられる。

第2楽章では「フリギア旋法」という用語が登場する。私の知識では十分に理解できているとは言えないが、ピチカートが印象的である。ホ長調に転じて明るさを感じさせつつ、ゆったりとしたアンダンテが続く。単純でありながら複雑な世界である。

さて第3楽章は、トライアングルが鳴る非常に印象的な楽章である。ブラームスの交響曲における第3楽章は、いずれも個性的である。第1番の切れ目のない構成からすでにそうであり、第3番には単独で取り出したくなるような美しい旋律がある一方、この第4番では絢爛で豪快な性格を持つ。興奮に満ちていくこの楽章を、クライバーは一気呵成に畳みかける。

そして終楽章である。構造は極めて複雑とされるが、理屈を考えながら聴く必要はないだろう。シャコンヌ(パッサカリア)という、バロック時代に由来する技法が用いられているというが、決して古風なだけの音楽ではない。むしろ斬新で劇的である。古典的な骨格を保ちながら、その内実は極めてロマン的であり、しかも革新的である――それこそが最終到達点としてのブラームスの魅力である。

最後に一言。この曲を「人生の秋」を感じさせる、憂愁を帯びた作品とする見方がある。しかし本当にそうだろうか。ブラームスがまだ53歳の頃の作品であり、自ら「最高傑作」と認めていたものが、達観に基づく音楽であるとは私には思えない。この作品において彼は一つの頂点に到達し、その先へ進む必要がなくなったのではないか。これは最も完成度の高い、そして野心に満ちたブラームスの作品であると私は考える。カルロス・クライバーによる演奏は、その若々しさと情熱が、年を重ねてもなお漲っていることを示す、極めて斬新なものである。

2026年4月1日水曜日

ブラームス:セレナード第1番ニ長調作品11(リッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団)

今年は例年より早く桜の開花が宣言され、春の気配が静かに、しかし確かな足取りで近づいている。10年前に歩き始めた東海道五十三次の旅も、まもなく草津に到達する。京都までは、あと少し。日本橋を出てからの歳月を思えば、コロナや腰痛といった幾つもの困難を越え、よくここまで辿り着いたものだと、早朝の東海道新幹線の車内でひとり感慨にふける。

今、ブラームスの「セレナード第1番」を聴き始めた。

若々しさと穏やかさが同居するこの音楽は、今日のような少し肌寒い曇り空に、しっとりと寄り添う。いわばブラームスの「田園シンフォニー」とでも呼びたくなる風情で、交響曲第2番に付されることのある副題を思い起こすが、こちらの方が若々しい分、むしろ伸びやかで自由に息づいている。交響曲という形式の枠から解き放たれているからだとも思う。

三島を過ぎ、静岡県に入ってもなお空は重く曇り、富士の姿も望めそうにない。それでも、よくここまで歩いてきたものだと、ふと胸の奥で思い返す。

第2楽章に入る。引き続き牧歌的で、3拍子の穏やかな舞曲が、春の朝の空気にぴたりと溶け込む。ホルンが柔らかく響き、中間部へと移る。聴き入っているうちに、いつの間にか第3楽章へ。さらにゆったりとした牧歌的な旋律が流れ、私を乗せた「のぞみ」は静岡市内に入り、雲間から淡い陽光が差し込んできた。

それにしても、なんと平和的な音楽だろう。世界では戦禍が絶えず、暗い報せが日々流れ続けている。エネルギーの逼迫が生活を揺るがす未来も、もはや遠い話ではない。先行きの見えない不安に心が沈みがちな中で、こうした平穏と幸福に満ちた音楽に触れると、忘れていた大切な何かがふと胸に戻り、思わず息を呑む。

第3楽章も静かに幕を閉じる。弦と木管を主体とした音楽は、ほのかなロマンを湛えながら、ひたすらに平和的である。こうした曲を聴いていると、ブラームスはシューベルトやシューマンよりも、ずっと健康的で、まっすぐな精神の持ち主だったのではないかと思えてくる。だからこそ、彼はベートーヴェンを深く敬愛したのだろう。15分に及ぶこの楽章は、実に見事だ。

新横浜を出た頃に聴き始めた「セレナード第1番」は、長大な前半の3楽章を終え、木管が軽やかに導く第4楽章へと進む。第4楽章と続く第5楽章は短いながら、全体に小気味よいアクセントを添える存在だ。音楽は決して急いだり沈んだりせず、自然な呼吸のまま流れていく。

列車は早くも浜松付近を走っている。金管で始まるわずか2分あまりの第5楽章はスケルツォであり、最終楽章への前奏のように聴こえ、気分をそっと切り替えてくれる。ホルンとオーボエの掛け合いが愛らしく、3拍子の音楽は行進曲風に変わり、気持ち浮き立つ桜のシーズンを迎えた日本の空気とどこか響き合う。

第1楽章の冒頭と、この第6楽章の旋律はとりわけ印象深い。幸福感を増しながら、音楽は確かな足取りで終結へ向かう。豊橋を過ぎる頃、「セレナード第1番」は力強く幕を閉じた。空はわずかに明るさを増したようだが、まだ曇りがちだ。雨の心配はなさそうである。こういう日は歩くのにちょうどよい。京都まで、あと30分余り。

シャッフルされたSpotifyのAIは、ブラームス「大学祝典序曲」を選んだ。なるほど、今日は新入学の季節にふさわしい、陽気で快活な響きだ。「セレナード」のあとに聴くには、なんとも相応しい小品である。

若きブラームスの瑞々しい感性があふれる2つの「セレナード」の録音はいくつかあるが、わが国では長らく、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルのレコード一択だった。1980年頃の録音である。

それから40年以上が過ぎ、今日私が耳を傾けているのは、リッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏である。テンポはやや速めで、ビブラートを抑え、イタリア風の軽やかさと旋律の輪郭を際立たせた名演。耳を洗うような清新な録音でもある。

2026年3月17日火曜日

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第1番、第2番(リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)

ショスタコーヴィチの音楽を聴き始めたころ、こんな曲があったのかと思った。それはちょうど、リッカルド・シャイーがコンセルトヘボウ管弦楽団とジャズに関する曲を集めたCDを新発売し、それが目に留まったのである。「なぜソビエトの作曲家がジャズを?」と思ったものだ。

一般にジャズとは、米国南部を源流に持つアフリカ系アメリカ人(黒人)の音楽として発展した。その軽妙さと即興性、独特のリズムを持つ音楽をソビエトに紹介した人物がいたのだろう。しかし、そのままの形でソビエトに持ち込まれたわけではなくロシア流にアレンジされ、原型から大きく変化したものだと言ってよい。

シャイーの指揮で聴くショスタコーヴィチのジャズ作品集は、とてもリラックスして軽妙だが、どこか洗練されておりモダンである。もっとも作曲されたのはいまから100年ほど前でもあるので、古きレトロな香りが充満している。いってみれば、サロン音楽、あるいはダンス音楽といったムードである。

ここで話は少し脱線するが、米国で活躍し、時にジャズの要素を取り入れた作曲家にロシア系アメリカ人が多いことは興味深い。ジョージ・ガーシュイン、アーロン・コープランド、それにレナード・バーンスタインといった誰もが知るアメリカ人作曲家は、みなロシア系、しかもユダヤ人の血を引いている。そのユダヤの音楽をショスタコーヴィチもしばしば引用し、交響曲をはじめとする作品に取り入れているのは、さらに興味深いと言える。

さて、ソビエトにおけるジャズは、本家アメリカのものとは異なり、体制的なバックアップもあって流行した側面がある。ショスタコーヴィチは数々の映画やアニメーションの音楽を作曲しているが、これらの作品もいわば彼の本業を少し離れたユーモラスで打ち解けた作品である。その面白さは一度聴くとよくわかる。シャイーの軽やかで明るいリズムが、その傾向に拍車をかけている。

ジャズ組曲第1番(1934)は8分程度の曲ながら印象的である。ワルツ、ポルカ、フォックスロットの3つの部分からなる。一方、第2番(1938)は、1999年に発見され2000年になるまで初演されなかった作品とは異なり、ここでは「舞台管弦楽のための組曲第1番」が収録されている。約25分の曲で、これがかねてより「ジャズ組曲第2番」とされていた。シャイーの演奏は1991年のものだから、「ジャズ組曲第2番」と表記されている。

8つの部分から成り、さまざまな他の作品からの転用も多くなされているようだ。まあそんなことはともかく、ムード音楽のような気軽さでソビエトのジャズに耳を傾けてみたい。1922年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)は、ゴルバチョフによる改革に失敗し、1990年代初頭に崩壊してしまった。ショスタコーヴィチの人生(1906–1975)は、そのほとんどをソ連時代に過ごさざるを得なかった稀有な芸術家である。彼が残した数多くの交響曲については、また別の機会にゆっくり聴いてみたい。とかく難解なショスタコーヴィチの音楽にも、こんな気さくに聴けるものだってあるのだということが、私などはとても人間的で嬉しいことのように思えてくる。

なお、本CDにはピアノ協奏曲第1番、および「タヒチ・トロット」としても知られる「二人でお茶を」が添えられていて、サービス満点である。

2026年3月16日月曜日

ジョルダーノ:歌劇「アンドレア・シェニエ」(The MET Live in HD Series 2025-26)

ジョルダーノの歌劇「アンドレア・シェニエ」は、ヴェリズモ・オペラの中でも屈指の名作でありながら、これまで Met Live で取り上げられることがなかった。理由はおそらく明快で、主役を担える理想のテノールがなかなか見つからなかったのだろう。私自身、この作品を実際に観るのは今回が初めてである。とはいえ、オペラ好きとしては、いつまでも避けて通れない作品でもあった。

ディスコグラフィを眺めれば、往年の名テノールたちがこの作品に挑んできた歴史が見える。ディ・ステーファノ、ゴッビ、デル・モナコといった大御所たち。さらにドミンゴ、パヴァロッティ、カレーラスと続く黄金時代。しかし、その後は途切れてしまう。そんな中、今回の MET が選んだのは、近年ほとんど専属歌手のように活躍しているポーランドのピョートル・ベチャワ(アンドレア・シェニエ)。相手役にはブルガリアのソニア・ヨンチェヴァ(マッダレーナ)、そしてもう一人の主役とも言えるジェラール役にはロシアのイゴール・ゴロヴァテンコが名を連ねた。

東欧の三人がニューヨークに集い、フランス革命時の実話をもとにしたイタリア・オペラを歌い上げる。指揮者は MET Live には初登場ながら、すでにここの首席客演指揮者を務める若き俊英ダニエーレ・ルスティオーニ。しかも今年から都響の首席客演指揮者にも就任するというから、日本の音楽ファンとしては期待が膨らむばかりだ。

舞台はニコラ・ジョエルの演出で、第1幕冒頭には巨大なソファが運び込まれるという大胆な幕開け。音楽はイタリアらしい情熱を湛えつつも、プッチーニほど甘美に傾かず、どこか古い伝統の香りを残している。その古風さが批評家には物足りなく映ることもあるようだが、聴き手にとってはむしろ魅力の一つだ。何しろ、このオペラには聴きどころが実に多い。

第1幕のハイライトは、詩人シェニエのアリア「ある日青空を眺めて」。最高音 B♭ が2度も現れる難所で、幕間のインタビューでベチャワ自身がそのプレッシャーを語っていた。さらに第4幕冒頭には「5月のある美しい日のように」というアリアが控え、気品と信念を兼ね備えた歌唱が求められる。まさにテノールが主役のオペラであり、ソプラノでさえ脇に回るほどだ。

そのソプラノの見せ場は第3幕、マッダレーナがジェラールに懇願する名アリア「母は死んで」。一方、ジェラールにはその前に「祖国の敵」という力強いアリアが用意されている。どちらもガラ・コンサートで頻繁に取り上げられる名曲で、単独でも十分に舞台を支える力を持つ。

そして終幕には、断頭台へ向かう二人が歌う壮絶な二重唱「君のそばにいると、僕の乱れた心も」が待っている。かつて MET の資料室長だった P・クラーク氏は、この場面について「ここで身震いしない人は脈拍を確かめた方がいい」と語っている。けだし誇張ではない。

表題役のシェニエは、若い詩人である。しかし幕が開いてまず登場するのは、革命前の貴族生活を楽しむコアニー家の下僕ジェラールで、彼は冒頭からアリアを歌う。一方、同じサロンに令嬢のマッダレーナが登場。詩人シェニエの歌う即興詩にジェラールともども魅せられる(第1幕)。

5年後。ここからがややこしい。恐怖政治が吹き荒れる中で今や革命政府の要人となったジェラールと落ちぶれたマッダレーナが再会。ジェラールはマッダレーナに告白し、シェニエも登場して決闘を交えるが、ジェラールは2人を逃がす(第2幕)。

今回のMET Liveでは、第1幕と第2幕、第2幕と第3幕の間にそれぞれ休憩があり、そのあと第3幕と第4幕は続けて上演された。この後半は集中力が欠かせない見どころの連続である。反革命分子として捕らえられたシェニエを、マッダレーナは体と引き換えに助けてほしいとジェラールに懇願。その姿勢に心を打たれたジェラールは、2人を許す決意をするのだが、時すでに遅し(第3幕)。2人は高潔な死を歌い断頭台へと向かう(第4幕)。

アリアを含め、記憶に残るキャッチーなメロディーがないあたりが、プッチーニには及ばないところ。名舞台の映像を見慣れた人には物足りなさもあるかもしれないが、私のように初めて全編を観る者にとっては、新鮮な驚きの連続だった。指揮者ルスティオーニの自然でダイナミックな音楽づくりも心地よく、アリアが終わるたびに客席からブラボーが飛び交う。イタリア・オペラならではの熱気を、休日の朝にたっぷり味わうことができた。

NHK交響楽団第2061回定期公演(2026年4月16日サントリーホール、ファビオ・ルイージ指揮)

最近、音楽を聴いても、以前のように心が震える瞬間が少なくなったように感じている。年齢を重ね、感性が鈍ってしまったのかと思うこともある。若い頃は時間もお金も限られていたからこそ、わずかな機会を逃すまいと満を持して会場に向かい、胸を高鳴らせながら音楽を待ち受けたものだ。あの頃の自分は...