2020年12月30日水曜日

ベートーヴェン:「ミサ・ソレムニス」ニ長調作品123(S: エリザベート・ゼーダーシュトレーム他、オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)

ベートーヴェンは、従来のキリスト教の枠を越えたところに、真の超越的な神と正義、自然の摂理と人間の尊厳を見出そうとした。この思想は、常に確信的で破壊的な創造に彼を駆り立て、その総決算としてほぼ同時期に作られた他に類を見ない2つの作品、すなわち交響曲第9番と「ミサ・ソレムニス」(あるいはまた「盛儀ミサ」「荘厳ミサ」とも訳される)が存在することになった。交響曲第9番は、それまでのあらゆる管弦楽作品を越えた作品であり、「ミサ・ソレムニス」もまた、典型的なミサ曲とは異なり、ミサ曲を越えたミサ曲として存在する。そして「ミサ・ソレムニス」の捉えどころのない難解さは、交響曲第9番を従来の交響曲として理解しようとすることが破たんを来すのと同様である。しかしこのこと=両作品におけるベートーヴェンの生涯を通じた革新的な動機=について思いを馳せることができれば、理解は比較的容易ではないか。そんなことを思いながら、改めて「ミサ・ソレムニス」に挑戦した。

「ミサ・ソレムニス」作品123はまさに、交響曲第9番作品125の直前に位置する作品である。そしてベートーヴェン自身はこの「ミサ・ソレムニス」を自らの最も偉大な作品だと語っている。このことは大きな意味を持つ。しかし「第九」であれば、我が国では農村の合唱団でも歌っているほどに身近な存在であるのに対し、「ミサ・ソレムニス」のフレーズを歌うことができる人に出会うことは稀である。「第九」の各楽章のわずかなフレーズを聞いただけでも、そのメロディーが心から離れないのに対し、「ミサ・ソレムニス」のメロディーはほとんど心に響かない。一生懸命に聴けば、ところどころ離散的に、記憶が形成されることがある程度である。演奏を変えて聞いても、この傾向は変わらない。ミサ曲であれば、他の作曲家のレクイエムや、ベートーヴェン自身のもう一つのミサ曲(ハ長調)の方が、ずっと親しみやすいのは事実である。

他の管弦楽曲や合唱作品と異なる「ミサ・ソレムニス」のとっつきにくさは、後期の弦楽四重奏曲や晩年のピアノ・ソナタに通じるものかも知れない。だが、今一つ思い出されるべきは、この作品が当初作曲され、初演された時点では、「キリエ」と「グローリア」のみだったという事実だろう。ベートーヴェンは1819年、長い間後援を惜しまなかったルドルフ大公が、大司教に就任することが決まった翌年の即位式に向け、祝典用に演奏すべく自ら申し出て作曲を始めた。しかし、あまりに多くの楽想が沸き、音楽が長くなりすぎて間に合わなかったとされている。結局、現在の形に完成されたのは2年半も後になってからのことで、この間もベートーヴェンは精力的に作曲を続けたようだ。この曲の初演は、何とサンクト・ペテルブルグで行われているが、それはベートーヴェンが筆写譜を各地の王侯貴族に送っていたからで、その楽譜を購入したロシアのガリツィン侯爵が、慈善演奏会で取り上げたからだと音楽史の本には記載されている。

生誕250年を迎えた今年、私は満を持してベートーヴェンの最も偉大な作品のひとつである「ミサ・ソレムニス」を、ここで取り上げることにしようと思う。これまで避けてきた作品だが、ほとんどのベートーヴェンの管弦楽作品(すなわち、室内楽曲と独奏曲を除く作品)について記述してきて、もう他に取り上げる作品がなくなってしまった。このまま避けて通ることができない関門のような作品である。この記述のために選んだ演奏は、独唱にエリザベート・ゼーダーシュトレーム(ソプラノ)、マルガ・ヘフゲン(アルト)、ヴァルデマール・クメント(テノール)、マルッティ・タルヴェラ(バス)、そしてニュー・フィルハーモニア合唱団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるもの。指揮は80歳を超えていたオットー・クレンペラー。1965年の録音。

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さて、音楽は通常通り「キリエ」で始まり「グローリア」と続くが、この2曲は比較的馴染みやすい。「キリエ」はどんよりと曇った海に漕ぎ出していくような厳かな曲で、クレンペラーの演奏で聞くと、粗削りな部分が丸で白波のように感じられ、長い航海を前に波に揺られているようである。クレンペラーの武骨な指揮が、透明でレンジの広い録音によって、一層その広がりを感じさせる。私などは、他の作曲家のどんなレクイエムにもまして、厳粛でありながら、作曲家の確固たる自信が迫り来る曲だと感じる。このような曲がそれまでに、いやそれ以降もあっただろうか。簡素な3部形式で、ミサ曲に聞く主題の和音が提示されると中間部に至るが、やがてオルガンを伴う主題が再現されるとき、その音楽は一層耳に馴染んでくる。すでに合唱と4人のソリストは全力投球を必要とする(以上、約10分)。

「グローリア」は、輝かしく崇高で、ほとばしり出る合唱が圧倒的な曲である。ベートーヴェンのアレグロは、ここで全開である。この「グローリア」は4つの部分から成っている。激しい部分に引き続いて、テノールを先頭に独唱、それに合唱までもが再び力強いテーマに戻る。ここまでが第1部(約5分)。これに対し、ゆっくりとしたやや重苦しい部分が第2部(Qui tollia peccata mundi)。しかしこういう部分こそが、ミサ曲ならではの崇高で神妙な部分に思える。木管楽器が印象的(約6分)。

扉が開いて新しい世界に入ってゆくような堂々とした第3部の冒頭のメロディーは印象的である(Quaniam tu solus sanctus)。やがて始まる第4部は合唱も入り乱れてのフーガであり、聞く者を興奮の中に誘う。アーメンと何度も歌われ、最後の方は丸で「フィデリオ」の最終部を見ているように速く、圧倒的に昂揚し、突然終わる(約6分)。

「クレド」は4つの部分。まず合唱のバスが、続いて満開の合唱が、それ以前の部分に勝るとも劣らず力強く歌いだす。漸次的に押し寄せるパワーに圧倒されながら、合唱と管弦楽のハーモニーに酔いしれたい。音楽は大きくなったかと思うと、にわかに静かになったりしながら起伏を持って進行し、フーガもある(約4分半)。

音楽がアダージョになったら第2部である(Et incarnatus)。教会の神秘的な響きがするのは、そのような施法で書かれているから。そしてフルートのトリルの乗せながら独唱が天空に舞う。音楽はここからしばらく重苦しい響きが続く。それは神の苦しみが歌われる部分だからである。だがそれも啓示を得たように突如速い音楽に転換し、蘇る(7分以上)。

ここからの「クレド」の第3部と第4部はひたすらフーガとアーメンの音楽である。ここの、「ミサ・ソレムニス」における中心的な部分は、物凄い音楽としか言いようがない。よくこんな音楽を書いたものだと、あっけにとられるほどだ。それにしても「ミサ・ソレムニス」における独唱と合唱には、「第九」よりもはるかに高度な技術を要する。それも全編に亘って。複雑極まりに音楽を聞いていると、「第九」さえかわいい曲に思えてくる。フルートに乗って、やがて音楽は消え入るように登っていく(10分程度)。

これまで興奮の渦のなか、何が何かわからないような気持ちて聞き続けて来たが、まだここからが後半である。いい演奏でここまで聞いてくると、この曲はなかなか魅力満載の実力ある楽曲だと心から思い知らされる。ベートーヴェン以降のミサ曲で、この曲に迫るのはヴェルディの「レクイエム」くらいではないかとさえ思えてくる(ベートーヴェン以前でも、バッハの「ロ短調ミサ」のみが、これに匹敵する唯一の曲とされる)。それでももし、この曲がとっつきにくいと思うなら、もしかするとその原因は、あまりにまとまりを重視して、かえって音楽の規模が小さくなってしまった演奏(録音)のせいかも知れない。それまでの規範に収まらないこの曲を表現するには、その枠をはみ出す必要がある。「第九」もそのような要素があるが、それでもどの楽章のどのフレーズをとっても、親しみやすいメロディーに溢れている。「ミサ・ソレムニス」にはミサ曲独特の旋法、典礼文に即した楽曲が書かれているものの、ベートーヴェンならではの迫力を終始感じる点では、この曲以上のものはない。

「サンクトゥス」は静かに始まる。しかしやがては女声合唱のプレストが始まり合唱が高らかに歌うと(ここまで4分)、やがて管弦楽のみの部分(前奏曲)に入ってゆく。ここが「ミサ・ソレムニス」における全体の折り返し地点ではないかと思う(1分半)。そして独奏ヴァイオリンが続く「ベネディクトゥス」の開始を告げる。終始厳かで静謐な調べは、絶えず続く独奏ヴァイオリン(オブリガート)と4人の独唱によって特徴づけられ、そこに合唱が染み入るように合流する。全体の中でも白眉とも言うべき部分は、聞く者を陶酔の中へと誘い、しかも大変長い(11分!)。

いよいよ最後の「アニュス・デイ」である。3つの部分から成るこの終結部は、まず痛切な祈りの第1部で、バスの独唱によって開始される。イタリア・オペラの終幕冒頭に歌われる不気味な予感といった感じ。夜も更けてきたころ、静かにひとり耳を傾ける。祈りの歌が、ソプラノによって、テノールによって、重なり、合唱に引き継がれたかと思うと再び合わさり、ひたすら深く、心の淵まで染みわたる。ベートーヴェンが書いたおそらくもっとも崇高な音楽のように思えてくる(7分程度)。

だがそのような深淵な音楽にも明るさが差し込んでくる(第2部「われらに平和を与えたまえ(Dona noblis pacem)」)。ここの音楽から最後までの間は、特にベートーヴェンらしく印象的である。フーガが平和の安寧を願う。するとティンパニ、そしてトランペットが行進曲のように響くのだ。不安げな表情を見せる独唱陣。これがちょっとしたアクセントになって、再び平和を求める合唱に戻る(6分)。

最後は速い。金管楽器とティンパニによる力強いコーダが始まる。寄せては返す波のように、合唱や独唱が何度も押し寄せる。気高く荘厳な音楽も、最後に再びティンパニによる響きが何かの啓示を行いながら、まるで尻切れトンボのように終わる。

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クレンペラーの「ミサ・ソレムニス」の演奏を評価するのには、努力が必要だ。逆説的な言い方だが、この演奏の偉大さを認識するには、それ以外の演奏にも耳を傾けておかなければならない。そこで私は、ショルティの演奏にある程度の時間をかけて聞いてみた。ショルティと聞いて毛嫌いする向きもあろうかと思う。何を考えているのか、よりによって気高いミサ曲にショルティとは?という意見である。だが「第九」でも書いたように、いくつかの大規模作品におけるショルティの説得力は素晴らしいものがある。

ショルティとクレンペラーの演奏に共通するのは、骨格が非常に明確な点である。そう書けばカラヤンやバーンスタインはどうなのか、と言われるかも知れない。だからこれは程度の問題で、カラヤンは部分的に丸く、全体的に磨きがかかっている。バーンスタインともなるとこれはかなりデフォルメされてくる。そういう点ではショルティ(あと一つ挙げるとすればガーディナー)の演奏は、鋭角的とでも言おうか、録音もいいので曲そのものの形が見えてくる。そのような骨格をさらに太くし、しかも広がりを与えているのがクレンペラーの演奏である。峻厳、崇高などという形容詞を使う人も多いが、これは80歳を超えて体力を失った巨匠が、車椅子に座りながらも楽団員に睨みをきかせ、あらんかぎりの統制力を発揮しようとしたこと、楽団員がそれを真摯に受け止め、可能な限り応えようとした結果であると推測される。

ショルティの演奏で全体をおおよそ理解した後に聞くクレンペラーの演奏は圧巻である。どの部分をとっても、この類稀な録音が、60年近くを経た今でも新鮮に再生できることを心から喜びたい。大波に乗るような悠然とした「キリエ」、椅子から転げ落ちるのではないかと心配する「グローリア」、武骨で気違いじみたように荒れ狂う「クレド」、ヴァイオリン伴奏に乗ってこの上なく美しい「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」。悠揚迫らぬテンポが続く「アニュス・デイ」に至っては、神がかったように天に昇ってゆくような気持になる。この終曲をここまで心に刻む演奏は他にない。「心より出でて、再び心に戻らんことを」。この曲は、やはりベートーヴェンの書いた最大の曲であると同時に、その最高の演奏の一つが、間違いなくこのクレンペラーのものだろうと得心するに至った。

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曲のあきれるような大きさと、演奏の底知れぬ偉大さに腰を抜かし、結局のところ、「ミサ・ソレムニス」におけるベートーヴェンの革新性とは何だったのだろうか、と改めて考えてみた。けれども素人には、その破格の規模や表現の複雑さに圧倒されるだけであった。

様々な解説を参考にすれば、音楽的には2つのことがまず、言えるのではないかと思う。ひとつは、「サンクトゥス」から「ベネディクトゥス」に至る標題音楽にも似た物語風の進行である。すなわちキリストの肉と血が「パンと葡萄酒」に変化する「聖変化」の儀式と、「前奏曲」を経て三位一体の降臨へと続く。今一つは、「アニュス・デイ」における軍隊風のラッパがもたらす不安への回帰と、それを打ち消して、高らかに平安を謳うまでのプロセスである。いずれもベートーヴェンらしい、飾り気のないストレートな表現で新しさを打ち出している。

ベートーヴェンの音楽のベートーヴェンたる所以は、その解釈を聞き手に迫ることである。「こんなに考えて作曲したのだ。聞き手も考えて聞き給へ」と言われているように感じてしまう。だからベートーヴェンの音楽は、聞き手を験すようなところがある。特にこの「ミサ・ソレムニス」は、難解な曲でありながら、それを聞き手がどう理解しているのか、究極的なところでベートーヴェンは問いかけているような気がする。

ベートーヴェン生誕250周年の今年は、コロナ禍に明け暮れた大変な一年だった。全世界が暗い苦悩に満ち溢れたと言って良い。であればこそ「苦しみから幸福へ」というベートーヴェンのモチーフに倣い、来年こそは幸せな年となることを願いたい。今年は、きっとどこかで演奏されるであろう「ミサ・ソレムニス」を実演を聞くことを願っていたが、それもかなわわなかった。しかしいつか、圧倒的な迫力を持つこの偉大な曲を大合唱で聞いてみたい。そう願いつつ今年のこのブログを終えることとしよう。

2020年12月15日火曜日

ドヴォルジャーク:ピアノ協奏曲ト短調作品33(P:ルステム・ハイルディノフ、ジャナンドレア・ノセダ指揮BBCフィルハーモニック)

師走に入って木枯らしの吹くこの季節、雲一つない晴天が続く日もあるが、どんよりと曇った寒い日も多い。今年は特に12月に入ってから、関東地方では天候に恵まれない日々が続いている。ドヴォルジャークの音楽が似合うのは、このような晩秋から初冬にかけての季節である。

中部ヨーロッパの、さらに真ん中ほどに位置するチェコの秋が、どのような風情なのか、行ったことがないのでわからないのだが、おそらくは日本の秋と同様に紅葉が見事であり、空気は乾燥し、そして曇った日と晴れた日が交互に訪れる北半球中緯度の天候と思えばいいのではないだろうか。

ドヴォルジャークがその民族風の音楽を取り入れ、国民楽派としての名声を獲得していく前の、若き日の作品。その中にあってピアノ協奏曲はほとんど顧みられない曲である。作品番号が33と言えば、交響曲で言えば第5番の頃。作曲家として駆け出しの頃である。35歳。後年アメリカへ渡り、名声を獲得していくずっと前である。

だがその作風には、もうどうしようもなくドヴォルジャークの血が流れている。40分にも及ぶ長い曲の第1楽章は、同時代の作曲家、例えばチャイコフスキーやグリークのように、いきなりピアノが弾きだしたりはせず、長い序奏が付けられている。古典的な雰囲気も漂わせながら、やがてピアノがテーマを弾きだすと、そのテーマがいろいろに使われ、オーケストラと掛け合いながら、結構長い時間をかけて第1楽章が終わる。ただこの楽章を聞くだけでは、何となく単純な曲に聞こえる。

この曲を聞くきっかけとなったのは、20世紀最大のピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルが伝説の指揮者カルロス・クライバーと競演した珍しい録音があるからだ。共に聴衆の前に姿を現すこと自体が稀な二人の巨匠が、よりによってこんな珍しい曲を正規録音している、というだけで話題性は十分なはずだが、残念ながらこの演奏を聞いても、曲の良さがあまりわからない。私もいつしかラジオで放送された演奏をエアチェックして聞いてみたのだが、地味な曲は地味なままである。この他の演奏はあまり知られていない。もちろん、実演に接することはほとんどない。

それゆえに、なかなかちゃんと聞いたことのない曲だったが、Spotifyの時代が到来し、珍しい録音を含めて数多くの演奏に触れることができるようになった。こうなったら自分の気に入る演奏に出会うまで、聞き続けることができる。そしてとうとう出会たのが、ここで紹介するルステム・ハイルディノフによる演奏だった。伴奏はジャナンドレア・ノセダ指揮BBCフィルハーモニック。2004年の録音、レーベルは英シャンドス。目立たない演奏だが、なかなかこれは大変充実した名演奏であると直感した。

ハイルディノフはロシア生まれのピアニストだが、若い頃にイギリスに留学し、その後王立音楽院の教授になったピアノの教師とのことである。ラフマニノフのCDが出ているようだし、NHK交響楽団とも共演しているらしい。けれどもほとんど知られていないピアニストが、これまたあまり知られていないドヴォルジャークのピアノ協奏曲を演奏している。

第1楽章の明るくて陽気な音楽は、ドヴォルジャークらしい民族的で抒情的なメロディーとしてすでにこの作曲家の特徴が現れてはいるが、チェロ協奏曲のような滋味はさほど感じられず、むしろ若々しいエネルギーが勝っている。若い頃の作品は、どの作曲家でも同様の傾向があり、それは自然なことなのだが、私たちがいつも期待するドヴォルジャークの作風には、まだ一歩近づかないのが本当のところである。それを演奏が補っている。
 
第2楽章は冒頭、ホルンのメロディーに惹きつけられる。どことなく「新世界より」風のメロディーで始まるが、静かな曲である。途中からリズミカルな響きに変わるあたりは、ピアノの特徴をよく捉えており大変魅力的ではある。全体に散文詩的である。

第3楽章のフィナーレは、快活で民族的な曲調の音楽である。ドヴォルジャークはこの曲しかピアノ協奏曲を残していないが、もしかするとピアノで活かせるフレーズが、ドヴォルジャークに合っていなかったのではないかと思わせる。メロディーが平凡で、しかも技巧的でもない。

この演奏を聞いていると、二流の音楽が一流の演奏によって見事に蘇っている様を目の当たりにする。

2020年12月12日土曜日

ドヴォルジャーク:管楽セレナーデニ長調作品44(チョン・ミュンフン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員)

元NHK交響楽団オーボエ主席奏者の茂木大輔氏によれば、弦楽器はオーケストラの「ごはん(主食)」であるとのことである。落語に造詣の深い氏ならではの、ユーモラスな表現だが、だとすれば管楽器のみで演奏される「管楽セレナーデ」は、逆に「おかず」のみの食事のようなものだろうか。そんな卑近なことを考えながら、ドヴォルジャークの「管楽セレナーデ」を聞いている。この曲は「弦楽セレナーデ」とカップリングされることが多いが、今聞いているチョン・ミュンフンが指揮するウィーン・フィルの演奏も同じである。

しかしCDのジャケットには、「弦楽セレナーデ」の方はWiener Philharmonikerと書かれているが、「管楽セレナーデ」の方には楽団員の名前がずらりと書き記されている。ウィーン・フィルのホームページなどを手掛かりに、これらのメンバーの楽器を調べて行くと、若干二人の弦楽器奏者が混じっていることがわかった。チェロとコントラバスである。だからこれは「管楽器主体のセレナーデ」ということになる。

指揮者、チョン・ミュンフンはこのような小さい編成でも指揮していることになってはいるが、実際にウィーン・フィルの奏者ともなると指揮者などいなくても、素晴らしいアンサンブルを聞かせることは明々白々である。しかもウィーン・フィルが用いる管楽器は、少し古いものが多く、独特の色合いを醸し出す。私はカール・ベームの指揮するウィーン・フィルの、モーツァルトの協奏交響曲などを聞いた時、何とこれらの音楽が微妙な色合いを見せ、雲の合間に見え隠れする11月の空のように、明るくなったり陰ったりするのを目の当たりにして、その音色の虜になった。ここでのウィーン・フィルの演奏は、まさにその管楽器の独断場である。

【演奏者】
オーボエ:Martin Gabriel, Alexander Öhlberger
クラリネット:Peter Schmidl, Andreas Wieser
ファゴット: Štěpán Turnovský, Wolfgang Koblitz, Fritz Faltl
ホルン:Ronald Janezic, Thomas Jöbstl, Wolfgang Vladar
チェロ:Wolfgang Herzer
コントラバス:Herbert Mayr

4楽章から成る20分余りの曲には、無駄が感じられない。おそらくこれだけの小編成で奏でられる音楽としては、ほとんど完璧なものだと思う。第1楽章の葬送行進曲は、「弦楽セレナーデ」と同様に終楽章で回帰するが、このやや暗い音楽は一度聞いたら忘れられない不思議なものである。

第2楽章はメヌエットで、民族的な曲調である。そのスラブ的雰囲気は第3楽章にも引き継がれる。この全体の白眉とも言うべき楽章は、各楽器の絶妙なテクニックとバランス、その重なり合いが堪能できる。自由な時間はたっぷりあるのに、いつも心は哀しく不安だった青春時代を思い出すようなメロディーであり、しみじみと心に響いてくる。コントラバスのピチカートが見え隠れ、チェロが静かに裏で管楽器を支えている。やはりドヴォルジャークは秋が似合う。

終楽章になると快活なリズムが曲を華やかに盛り上げるが、中間部で見せる哀愁に満ちたメロディーがアクセントとなって冒頭の主題が回想される。全体にまろやかな演奏も、最後のフィナーレでは快速に飛ばしてフレッシュな演奏が終わる。それもどこか青春の一面を覗くようである。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...