2016年1月30日土曜日

J. シュトラウス:ワルツ集(ヤコフ・クライツベルク指揮ウィーン交響楽団)

元日に放送されるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを見ることが、毎年ほぼ1回だけのウィンナ・ワルツ体験となっている。それ以外の時期にあまりワルツやポルカを聞きたくなることはないのだが、お正月からしばらくはワルツ気分であることも確かである。そういうわけで1月中に何かのCDをラックから取り出して聞きたいと思っていた。

ウィンナ・ワルツを聞くためには、何もウィーン・フィルの演奏でなければならないということもない。それで私はあえて、ウィーン・フィル以外の団体によって演奏されるウィンナ・ワルツばかりを取り上げたいと思っていた。ライナーのシカゴ響、バルビローリのハレ管、アーノンクールのコンセルトヘボウ管、それにカンゼルのシンシナティ・ポップスなどなど。そのような中で私が一番気に入っている一枚は、ヤコフ・クライツベルクが指揮するウィーン交響楽団によるものである。この演奏が上記と異なる点は、この演奏もまたれっきとした本家の演奏ということである。

ヤコフ・クライツベルクというロシア生まれの指揮者は、まだ若かったにも関わらず2011年3月に死亡した。丁度東日本大震災の頃である。私はまだ少ない録音の中からいくつかの演奏を聞いたことがあり、その音楽のきちっとした表現が結構気に入っていたこともあって、とても残念に思った。SACDの専門レーベルPentatoneからリリースされている。ウィーン交響楽団の日本公演でも取り上げられたにもかかわらず、ほとんど評判にならなかったディスクである。

このディスクの特徴ははっきりしている。まず、すべてヨハン・シュトラウスⅡ世によるワルツのみを扱っていること。ポルカもなければ行進曲もない。次に演奏が非常に真面目で立派なこと。それから録音が非常に優秀なこと。ほぼ有名曲ばかり入れられている。珍しいのは「北海の絵」という作品だけである。この中には私が好きなベスト3のうちの2つ、すなわち「ウィーンの森の物語」と「芸術家の生活」が含まれている(あとひとつは「天体の音楽」であるが、これは弟ヨゼフの作品)。

首都圏にも雪を降らせると天気予報が伝えている。そのような低く垂れこめた曇天の下を出勤する月曜日の朝に、私はこの演奏を聞くことが多い。ウィンナ・ワルツは私の場合、冬の曇った朝に似合う。ゆっくり静かに「皇帝円舞曲」が始まるというのがいい。一方、気持ちが晴れ晴れとする「南国のバラ」で終わるというのもよく考えられていると思う。「ウィーンの森の物語」は長い序奏のすべてが美しく、特にツィターの響きが聞こえてくると白ワインを飲んで少し酔っぱらったような気分になる。

ウィンナ・ワルツはどのような演奏で聞いても楽しいが、これだけちゃんとした演奏で聞くというのも何とも言えない嬉しさがある。ウィーン・フィルの演奏だったら、もっとリラックスした雰囲気がいいいなどと言われるかも知れない。ウィーン以外の演奏家だったら、面白みに欠けると言われるかも知れない。ウィーン交響楽団の演奏だからそのどちらでもないのだ。ヤコフベルクの真摯な指揮ぶりが、そういう微妙なポジションをうまく引き立てることに成功したのだろう。

なお、ワルツ「芸術家の生活」はこれまで「芸術家の生涯」として親しんできた曲である。「生涯」などというと大袈裟なので「生活」とするのが自然ではないかと思っていたが、その通りのようで今では「芸術家の生活」というタイトルになっているようだ。


【収録曲】
1.皇帝円舞曲
2.ウィーンの森の物語
3.芸術家の生活
4.北海の絵
5.美しく青きドナウ
6.南国のバラ

2016年1月27日水曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第11番ヘ長調K413(P:ウラディミール・アシュケナージ、フィルハーモニア管弦楽団)

今日1月27日はモーツァルトの生誕記念日である。1756年生まれだから260周年ということになる。10年前の250周年の時の大騒ぎは一体何だったのだろうかと思うほど、今年は静かである。そういうわけだから今日はモーツァルトのピアノ協奏曲を取り上げることにした。モーツァルトのピアノ協奏曲は27番まであるが、それをいくつかの時期に区切ってみる。

  ①第1番~第4番
  ②第5番~第10番
  ③第11番~第19番
  ④第20番~第27番

となるだろうか。①の習作期の作品を私は聞いたことがない(ペライアの全曲盤には収録されており手元にはあるのだが、演奏されることが極めて少ないことからもわかるように、実際には他人の作品の編曲とされている)。

一方本格的な作品は第5番からで、すでに第5番はもうモーツァルトにしか書けないようないい曲だ。ここから第10番までの作品はザルツブルク時代の作品である(2台のピアノための協奏曲、3台のピアノための協奏曲を含む)。

それに対して第11番以降はウィーン時代のものであり、主として予約演奏会のために作曲し、自身が演奏もしている。これらの作品は年を経るごとに充実さを増し、特に20番以降は生活費のためというよりも自らの芸術性の発露を見出すかのような水準に到達している。その表現はピアノ協奏曲という一種のジャンルを打ち立てたと言っても良く、第24番などは短調で書かれていることからもわかるように、大衆ウケを狙ったものではない(だから聞いていても楽しくなかったのだろう、演奏会は成功しなかったようだ)。

モーツァルトのピアノ協奏曲は、オペラと並んでモーツァルトの音楽史に残る功績のひとつと言ってもいいのだが、実際に頻繁に演奏され録音の数も多いのは20番以降に限られ、せいぜい15番以降がたまに演奏される。ザルツブルク時代は9番のみがダントツで有名、あとの作品はあまり顧みられることがない。

ところが、である。この第11番も実にいい作品なのである。特に第2楽章のすばらしさにはうっとりと聞きほれてしまう。誰の演奏でもその魅力は十分伝わると思う。手元にあるアシュケナージの80年代のデジタル録音もまたそのひとつである。

この作品は春のような作品である。第1楽章は大人しく、まだ初春の頃。第2楽章は春たけなわの4月頃。夢のような気持ちよさが睡魔を誘う。第3楽章は次第に暖かくなっていく晩春の頃。そんなことを思うのは毎日次第に太陽の光が増していくからであろう。私は毎朝この曲を聞きながら、快晴の空の下を会社へと向かう。モーツァルトはいつ聞いても素晴らしいが、春に聞く若き日のモーツァルトはまた格別である。

2016年1月26日火曜日

NHK交響楽団2016横浜定期演奏会(2016年1月23日、横浜みなとみらいホール)

このコンサートの後で私はしばらくの間、音楽を聞きたくなくたった。年数回程度しかコンサートに行かない私にとって、これ以上の水準の演奏に出会うことはもうほとんどないだろう。そう思うと虚無感に襲われた。物事を達成した時の虚脱感。目的地に到達したときに味わう少し淋しい気持ち。私はここに書く文章がなかなか見当たらない。もっと立派な表現でこのコンサート、特に最後の「白鳥の湖」(抜粋)で味わうことのできたオーケストラの最高に美しい演奏というものについて語りたいと考えた。だがそれは、どんな言葉をもってしてもうまく語れない。悔しいことに私の文章力では、そう言うほかない。

トゥガン・ソヒエフが1月のN響定期に客演し、「白鳥の湖」を組曲ではなく自ら抜粋した内容で演奏するとわかったとき、私は間違いなくいい演奏になると確信した。だからサントリー・ホールで行われる2回の定期公演のチケットがすでに売り切れであることを知ったときには、とても残念な気持ちだった。だが会場の前で束にして配布されるコンサートのチラシの塊の中に、同じプログラムが場所を変えて行われることを知ったときは、この上なく嬉しかった。しかもラッ キーなことに1週間前でもチケットが残っていたのだ。

横浜みなとみらいホールで土曜日の午後に行われるコンサートには、誕生日が近い妻を誘うことにした。そしてまだ9歳の息子を家に置いていくわけにもいかず、とうとう彼の分まで席を買い求めた。息子はバイオリンを習っており、クラシック音楽の コンサートにはいずれ連れて行こうと思っていたが、実は彼は小学校から芸術鑑賞会という授業でサントリー・ホールに出かけ、都響のドビュッシーを聞いているのだ。

それからの数日間は、まるで遠足を楽しみしている小学生のように、私自身がそわそわとしはじめ、その間の興奮ぶりは自分でもおかしいと思ったほどだ。どうしてだろうか。ソヒエフという指揮者は一度だけテレビで見たことがあるだけだったが(それもN響の定期だった)、私はその瞬間に雷を打たれたように直感した。いい指揮者、少なくともN響とは相性のいい指揮者だと思たのだ。だから再び彼がN響に登場し、それもオール・ロシア・プログラムをやる、となれば悪かろうはずがない。この間にトゥールーズのオーケストラだけでなく、ベルリン・ ドイツ交響楽団のシェフ、そしてとうとうボリショイ劇場の音楽監督に就任しているのだ。

「白鳥の湖」。このチャイコ フスキー最大の名曲(だと私は思う)ほど、オーケストラの音楽を聞く喜びを味わわせてくれるものはないとさえ思う。それも組曲ではなく、全曲からの抜粋である。ワルツやマズルカをはじめ様々なメロディーやリズムが次から次へと続く。憂愁を帯びたオーボエの響きはロシアの大地を思わせる。私はバレエこそ見たことはないが、この音楽が大好きであることは先日書いた。いやバ レエなしで純粋に音楽だけでも楽しめるのが、チャイコフスキーのバレエ音楽の素晴らしいところだ。そしてこの曲は「くるみ割り人形」よりも「眠りの森の美女」よりもいい曲だと思う。

ソヒエフの指揮する「白鳥の湖」は、一糸乱れぬアンサンブルが豊饒な響きを伴って満開と なり、しかも指揮の動きに同化して揺れ動く。その様は、まさにオーケストラがひとつの大きな楽器であるかのようだった。こういう瞬間に出会うことはたまにある。だが曲全体にわたって続くことはめったにない。しかもN響の技術水準はいまや世界の主要オーケストラに肩を並べる水準であることに疑いはない。だから今回の演奏会は名実ともに最高レベルの演奏会だった。

その素晴らしさは休憩前のプログラム、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でも随所に見られた。特に第2楽章の後半!けれども私はこの演奏をとても残念に思う。それは独奏のルーカス・ゲニューシャスにある。思うに彼のピアノは、ラフマニノフの華麗で豪華な音楽にやや不向きである。線が細くて主張に乏しく、かといって表現が精緻を極めるわけでもな い。不向きでないなら、妻による分析が正しいだろう。つまり技術的な問題か、さもなくば練習不足だからだ。この演奏は伴奏のオーケストラがいいだけにとても勿体ない演奏に思えた。

コンサートはグリンカの歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲で幕を開けた。快速で飛ばす演奏の最 初から、この演奏会がとても期待の持てるものになることを容易に予測させた。ふと私はとなりでだまって座っている息子のことが気になった。私はクラ シック音楽しか聞かない珍しい少年で、そのまま大人になるまでほかの音楽をほとんど知らなかったし、それでも十分に満足した音楽生活を送ってきた非常に珍しい人間である。けれどもそのような奇特な人は世界にそう多くいるわけではない。例えばとなりの息子もまた普通の少年であろう。彼にしてみれば数多くある様々な音楽の中で、よりによってどういう理由で100年以上も前に書かれたロシア音楽を聞かなくてはならないのだろうか、と疑問に思うに違いない。

「これこそが人類の遺産、世界最高の音楽」などと説教をしたところで、それが説得力を持つようには思えない。私に対してそうであったからと言って、彼にとってクラシックが最高の音楽であるとは思えないのだ。レパートリーのマンネリ化によって、クラシック音楽は危機にあるとブーレーズは言った。おそらく100人中99人は、現在のポピュラー音楽にこそ楽しみを見出すだろう。ロックのリズム、ジャズの即興性、バラードの等身大的な感銘は、クラシック音楽からも見出せないわけではない。だがより直接的な訴えは、大衆性や同時代性と隣り合わせである。

クラシック音楽の敷居の高さというものがある。そしてどれほど高水準で演奏されても、それをはじめて聞くような人にとっては「この程度なの?」と思われはしないか。ソヒエフの演奏する「ルスランとリュドミーラ」 は唖然とするような素晴らしい演奏だった。だがそう感じるのはそれまで、何百もの演奏に接してきた経験を経たからこそそう思うのであって、もし初めてクラシックを聞いた人がいれば、それが身近に聞く洋楽やJ-POPのような曲ほどに共感をもって親しめるようには感じられないとしても、まったくもって不思議ではない。

今回の演奏会は私の個人的な経験上、何本かの指にはいるような高水準かつ感動的なコンサートだった。同じ思いを持ったクラシック・ファンも多いだろう。だがそれと同時に、クラシック音楽の限界を感じざるを得なかった。これほどポピュラーとされる音楽でも、一定の水準で演奏されてはじめて表現されるオーケストラ演奏が、そうではないものと違うのだと理解するのは、実はそう簡単なことではない。

だがこういうことはある。たまたま聞いた何かの音楽が、彼の人生を変えるほどの経験となることがあり得るということだ。だから私はこのように考えるしかない。それはたった今、すぐ隣に存在するのかも知れない、と。だからいつも、その隣の扉を開けてあげよう努力しているのだ、と。

2016年1月21日木曜日

ベルク:歌劇「ルル」(The MET Live in HD 2015-2016)

昨日ブリテンの大作「戦争レクイエム」を聞いたばかりだというのに、今日はまた二十世紀を代表する作曲家アルバン・ベルクの未完の大作「ルル」を見ることとなった。両作品に共通しているのは1930年代、すなわち2つの世界大戦に挟まれたヨーロッパの空気というものであろう。この時代にしかないムードが両作品を覆っている。好む好まざるにかかわらず我々が西洋音楽に向き合うとき、避けて通れないものがここにある。マーラーやシュトラウスを経たあとで西洋音楽が行かなくてはならなかったところ。それが二十世紀の音楽である。

教科書によればシェーンベルクへ受け継がれたクラシック音楽は、その弟子であるベルクとヴェーベルンとともに十二音技法を駆使した作風を確立し、この3人は新ウィーン学派と呼ばれる。西洋音楽が長い年月をかけて確立した音階を完全に打ち壊す音楽である。ではその全編十二音技法で貫かれた「ルル」とはどのような作品なのか。

この上演では舞台いっぱいに黒い墨とちぎれた紙に書かれた文字が大きく映し出されている。過日ショスタコーヴィッチの「鼻」で見たウィリアム・ケント リッジの手法は、ここでも舞台に統一感と緊張感を維持することに貢献し、それは斬新である上に一種の無政府的な空間を形成する。冒頭で猛獣使いが前口上を述 べる。蛇はルルであると。この蛇、何人もの人間を死に至らしめるルルの物語を暗示している。

ルルには全部で4人もの夫が登場するが、最後には自分も惨殺される。彼女は第一次世界大戦後の荒廃した社会で、刹那的に生きた成功者であると同時に犠牲者でもあるのだ。

第1幕第1場はアトリエ。ここでルルとともにシェーン博士、その息子で作家のアルヴァ、さらには画家が登場する。早くも登場人物が多い上に、音楽がそれこそいつも似たような調子なので(少なくとも初めて聞く者にはそう聞こえる)、あらすじを読んでストーリーを頭に入れていなかったことを悔やむがもう遅い。この3人はいずれもルルの魔性的な魅力に憑りつかれている。画家がルルへ言い寄るそこへ、夫である医事顧問官(ゴル博士)が帰宅。医事顧問は逆上して心臓発作を起こし死亡する。最初の犠牲者である。

ルルの出自は複雑である。台詞を総合すれば彼女はもともと貧しい街の出身で、いわば愛情というものを知らないまま生きてきた(のだろう)。貧民街で彼女を拾ったのは新聞の編集長シェーン博士で今は愛人関係にある。つまりルルを取り巻く三角、いや四角関係は、シェーン博士、今の夫である医事顧問、それに横恋慕中の画家。彼女はこれらの男を次々と翻弄していく。

第2場で画家と再婚。画家はルルをモデルに絵を描き、大金持ちになっている。さてここに登場するのはシゴルヒという老人で、彼はルルの「親」ということになっているがそれは怪しい。あらためて書くと単純なのだが、見ているとこのあたりからストーリーがほとんどわからなくなった。すると襲ってくる睡魔。音楽が斬新で、何かサスペンス映画を見続けているような感じだが、サスペンスと違うのはそのような音楽が延々と続くことである。それに加えて、それぞれの歌が不協和である。つまりはすべてがバラバラなのだ。もはや人間関係にも共感や親しみは感じられない。あるのは疑念、憎しみ、猜疑心といったドロドロしたものばかりだ。

シェーン博士というのがややこしい。彼はルルを拾って養ったが、すでにルルは2度も結婚している。もういいかげんけりをつけようと今では別の婚約者がいるのだ。ところがルルはシェーン博士との関係について、夫となっている画家に話してしまう。画家は精神的に強靭ではなかった。彼は自室にこもり自殺する。第2の犠牲者。

シェーン博士はルルに誘惑されて婚約を破棄してしまうのだが、その時にアフリカがどうのこうの、といった会話が登場し、私はうつつ気分の中で何か不思議な感じであった。もうストーリーなどどうでもいい。第1幕が終る。

第2幕はシェーン博士の家。とうとう彼はルルと結婚をしている。しかしルルは奔放で、しかも大金持ちに。様々な人々を呼び寄せ、その皆がルルに思いを寄せている。その中に同性愛者のゲシュヴィッツ伯爵令嬢がいる。さらにはシゴルヒ(「養父」なのに関係があった?)、そして少年院から逃げてきたギムナジウムの学生やプロレスラーかやくざのような筋肉マン(力技師=ちからわざし、と読むのだろうか)。さらには博士の息子のアルヴァまで!いずれもがルルに言い寄るに及んでとうとうシェーン博士は怒り狂い、ルルに自殺を迫る!けれどもここでもみ合いとなり、何とルルは夫(シェーン博士)を銃殺してしまうのだ!第3の犠牲者。

ここで10年の歳月が流れる。舞台は映画音楽に。墨がベチャベチャと天井近くから流れるのは血を表すのだとケントリッジは説明している。新聞の切り抜きのように文字がいくつも現れては消える。ここを境にルルの転落人生が始まる。ルルは警察にとらわれて投獄されたが、アルヴァやゲシュヴィッツ伯爵令嬢の下心のある尽力でコレラ病棟に隔離されている間に(?)脱獄に成功。アルヴァを誘惑しパリへと逃れる。

追補版の第3幕。パリは逃亡生活と愛の街である。オペラではいつもそうなっている。未完に終わった第3幕もパリでの生活から。ここにこれまでの出演者(シゴルヒやら力技師やら)もいるからややこしい。さらに連れ込みホテルでの脅迫やら賭博やら株の話やら。音楽は常に断片的なのに、ストーリーさえも断片的にしか理解できない。アルヴァとルルの堕落的生活。その舞台がパリである。賭博に絡んで金を脅され、密告を逃れて舞台はロンドンへ。

なれの果てのロンドンは落ちぶれ族と暗殺の街である。ルルはゲシュヴィッツ伯爵令嬢を伴って売春婦として身を立てている。舞台上の文字のテロップが英語になっている。そこに客となって登場するのは切り裂きジャックである。史上有名な暗殺魔で売春婦を大量に殺したジャックによってルルも、そしてゲシュヴィッツ伯爵令嬢も殺される。

ルルの当たり役で世界中でこの役をこなしてきたソプラノのマルリース・ペーターセンは、この舞台を最後に「ルル」を卒業するというアナウンスが最初に示された。何がどのようにいいかはもはやよくわからないのだが、表題役を歌った彼女への拍手でカーテンコールは最高潮に達した。シェーン博士と切り裂きジャックを歌ったのは、バス・バリトンのヨハン・ロイター。アルヴァ役はテノールのダニエル・ブランナ。以下、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢にスーザン・グラハム(ソプラノ)、シゴルヒにフランツ・グルントヘーパー(バリトン)、力技師にマルティン・ヴィンクラー(バス・バリトン)、画家にポール・グローヴス(テノール)など。指揮は当初ジェームズ・レヴァインが予定されていたが、早々に交代が発表され、ローター・ケーニクスが担当した。インタビューでもう50年以上も歌っているというフランツ・グルントヘーパーの印象が強く残った。彼のキャリアはプラシド・ドミンゴより長いというから驚きだが、その声もあの広いMETの会場にきっちりと響いていた。

幕間のインタビューで指揮者や歌手たちが、最初はこれをどう扱えばいいのかわからなかったが、4回、8回と聞くうちに体に馴染み、素晴らしい音楽に思えてくるというようなことをコメントしている。だが私はこの曲を聞くのが初めてなので、まだまだこなれた聞き方ができない。「ルル」も80年を経た現在、世界中の歌劇場で上演されている「古典」である。ほとんど自信はないのだが、バルトークやストラヴィンスキーがそうであったように、私にもやがてこのような音楽が「名曲」に思えるときが来るのだろうか。

ベルクはその50年の生涯に、わずかに数十曲を残しただけである。彼自身、作曲に難渋していたのではないか。師匠シェーンベルクへの手紙の中に「十二音様式はまだ、私が速く書くことを許しません」という記述あるそうだ。ほとんど生理的とも思えてくるような古典派の音楽の展開や、人間の感情を引き延ばして見せるロマン派の音楽に比べると、その音楽がそうでなければならない必然性は果たして存在するのだろうか。ある場面で、その音楽がそうなっていることをどのように想起し音符に書き留めるのか、私は作曲家でないからわからないが、その理由がわかる人がいれば説明してほしいと思う。もしかするとその説明は、ほとんど素人が理解できないものかもしれない。十二音技法に持ち込まれたライトモチーフや形式、あるいはシンメトリックな構造などというようなものは、私はほとんど理解できていないのだ(私もこの文章を書くのに時間がかかった)。


このオペラには2幕版と3幕版がある。ベルクは2幕まで書いて急死したため、第3幕のスケッチのみが残された。夫人は補筆を断り続けたが、その夫人も死去し1976年になってチェルハによる第3幕の補筆版が完成した。この3幕版「ルル」はピエール・ブーレーズによって初演されている。今回Met Line in HDシリーズで上演されたのもこの3幕版だが、私が手元に持っている録音はカール・ベームがベルリン・ドイツ・オペラを指揮して録音した2幕版で、録音は1968年。3幕ともなると上演時間は3時間にもなる。聞く方も大変だが歌う方も大変だと思う。よくこんな音楽を演奏し、また歌うものだと感心する。

なおベルクはこの曲の音楽からソプラノ付きの管弦楽曲として「ルル組曲」を作曲している。こちらは手元にブーレーズの指揮したウィーン・フィルのもの(ザルツブルク音楽祭2011年のライヴ)があり(Blu-ray)で、先ほど死去したこの作曲家・指揮者の手慣れた指揮姿を見ることができる(独唱はアンナ・プロハスカ。同時期に作曲された「ワイン」も収録)。

2016年1月17日日曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第551回定期演奏会(2016年1月16日、すみだトリフォニーホール))

手元の辞書には載っていなかったがcoventrateという英単語があるそうだ。その語源は、第二次世界大戦時バーミンガムにほど近いコヴェントリーの大聖堂が、ドイツ軍の空襲によってことごとく破壊されたことによる。ここから「空襲により破壊される」という動詞が誕生した。そのコヴェントリーの大聖堂は1962年に再建され、破壊された大聖堂の隣にそびえているという。

20世紀最大の作曲家の一人となっていたベンジャミン・ブリテンが、この大聖堂再建時の献堂式に際して歌唱曲の作曲を委託されたのは1960年だった、というから戦後15年以上が経過していたことになる。ブリテンは当時、「チェロ交響曲」などで親交のあったロストロポーヴィチの夫人でソプラノ歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤにこの構想を示し、彼女を含めた戦勝国と敗戦国、すなわちイギリス、ソ連、ドイツの3か国の歌手たちを独奏とするレクイエムの作曲を進めた・・・。

私はこのブログで数多くのブリテンの作品を取り上げた。過去に多くの作曲家がいるが、有名作品について最初に書き終えるのは、何とブリテンになりそうである。最初ほとんど聞くことのなかったブリテンに興味を覚えたのは、新国立劇場で見た「ピーター・グライムズ」に感銘を受けたからにほかならない。ブリテンの音楽は20世紀の音楽の中でも親しみやすい方だと思うが、その作品群の中でまだ取り上げていない大作が、この「戦争レクイエム」だったのだ。

新日本フィルによる「戦争レクイエム」の演奏会が開かれることを知ったのは、当日の朝だった。指揮者はイギリス人のダニエル・ハーディング。私は過去に彼の指揮するコンサートを聞いているが、あまり感動したことがない。けれどもソリストの一人に目が留まった。テノールのイアン・ボストリッジである。いまや世界を代表するリート歌手の一人であり、私もシューベルトの歌曲集を持っていたりする。コンサートの当日券はたくさんあるようだったので、私はひとりトリフォニー・ホールへと向かった。

プログラムによれば独唱者はほかに、ロシア人のアルビナ・シャギムラトヴァ(ソプラノ)、ノルウェー人のアウドゥン・イヴェルセン。合唱はサイトウ・キネン・フェスティヴァルで小澤征爾指揮のCDにも登場する栗友会合唱団。それに舞台裏からは東京少年少女合唱隊の天使のような声がこだまする。新日本フィルのいつものコンサートマスターは、今回は小編成のオーケストラの方に回る(指揮者の右側に配置されていた)。打楽器の数々にハープ、ピアノ、さらにはオルガンまで登場する。これだけ多くの出演者がいるわけだから、演奏はさぞ大規模なものかと思われるが、実際にはこの曲は静かな部分が多い。

レクイエムに限らずミサ曲では通常、ラテン語の典礼文が歌詞となる。それらは「キリエ」「ディエス・イレ(怒りの日)」「サンクトゥス(聖なるかな)」「アニュス・デイ」などである。「戦争レクイエム」も一般的な典礼文から始まり、「永遠の安息」「怒りの日」「奉献文」「サンクトゥス」「アニュス・デイ(神の子羊)」「リベラ・メ(われを解き放ちたまえ)」と続く。だがこの作品は通常の死者のためのミサ曲ではない。これは戦争に対する強烈な批判を込めた反戦の歌なのである。

その理由はこれらの典礼文(混成合唱団、少年合唱団、ソプラノによって歌われる)に混じって、 ウィルフレッド・オーウェンの詩が挿入されているからだ。詩(英語)は時に死せる兵士、あるいは死者に話しかける声となって会場に響く(室内オーケストラとテノール、それにバリトンによって歌われる)。二つの歌詞が呼応しあうように進行していく様子は、度数の開いた音程差を行き来しながら、時に鋭角的な響きを伴うブリテンの音楽に合わさり、また時には二つのオーケストラが異なるメロディーを弾くというような独自性も加わって、独特の音響的空間を作り出す。

オーウェンは25歳で戦死する。彼が戦ったのは凄惨を極めた第一次世界大戦であった。ブリテンが生まれたのはその戦争の前夜であり、オーウェンが死亡したのは終戦の1週間前だったとプログラムには書いてある。だが人類はこの過ちを再び犯す。第2次世界大戦が始まる時、ブリテンは渡米して戦禍を免れようとした。だが太平洋戦争が始まると彼は平和主義者として帰国し、音楽界を上り詰めていく。「ピーター・グライムズ」か初演された年に、第二次世界大戦は終わった。

平和な時代に生まれた戦後の大多数の日本人にとって、戦争とは間接的にしか知りえないものとなってしまった。私たち日本人が通常「戦争反対」などと言うとき、その頭にあるのは広島・長崎への原爆被害などに代表される第二次世界大戦の惨禍である。私が祖父母から何度も聞かされた戦争の悲惨な実体験もまた、太平洋戦争のそれであった。だが国が変われば戦争の記憶も異なる。大戦後に戦争はいくつもあったし、今でも内戦や地域紛争は世界各地で収まる気配がない。先日もジャカルタやイスタンブールでテロがあったばかりである。

どうすれば戦争を繰り返すことをなくせるのだろうか。オーウェンは言う。「詩人が今日できることは警告することだけだ。だから真の詩人は本当のことをいわなくてはならない」と。

死に直面した壮絶な詩を、私はコンサートで音楽に合わせきっちり読みたかったと思う。英語の詩に字幕を付けてほしかった。暗い会場ではリブレットを読むこともできないし、できたとしても音楽に集中できない。ほとんど完璧な歌い手によって静かに音楽は終わった。「われらを平和な中に眠らせたまえ。アーメン」。それからどれくらい時間がたっただろうか。ハーディングは手を下ろしたままこちらを向かない。静まり返る客席からは、物音ひとつしない。その時間が1分は続いたと思う。客席と出演者が一斉にささげる深い祈りは、永遠に続くかのように思われた。

ハーディングが静かに手を動かしたとき、会場からは次第に大きな拍手が沸き起こった。感動というよりは何とも言えない悲しみと疲れ。現代に生きる日本人にとっても戦争は身近なものになりつつある。だからだろう。深い音楽に刻まれた戦争の記憶は、たとえそれを思い起すことが求められるにしても、ずっと過去のものであってほしいと思う。この曲は「音楽」を聞こうと思っていた人を裏切る。でもそれが現代というものの置かれた、あまりに脆弱な世界の真実なのだろう。

2016年1月16日土曜日

チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」(ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

新しく開通した上野東京ラインの電車に乗って、栃木方面へ出かけるのを私は楽しみにしている。理由は片道1時間半もの間、空いた車内で車窓風景を眺めながらのんびり音楽を聴き続けることができるからである。暖冬の今年も1月に入り、寒い日が続いている。雲の切れ目から注ぐ日差しは弱く、こんな一日にぴったりなのはチャイコフスキーの音楽であろう、などと勝手に決めつて、今日はバレエ音楽「白鳥の湖」をWalkmanで聞くことにした。

この曲を聞く理由はもうひとつあって、1月のN響定期に演奏されるからだ。私はチャイコフスキーの音楽の中でもとりわけ「白鳥の湖」が好きである。でも全曲を通して聞くことはほとんどなく、「白鳥の湖」に限らず最近は、このようなポピュラーな管弦楽曲を聞く機会はめっきり減ってしまった。だが、妻と息子の誕生日祝いを兼ねて、3人でトゥガン・ソヒエフの指揮する演奏会に招待するつもりなのだ。

「白鳥の湖」はチャイコフスキー最初のバレエ音楽で、クラシック・バレエを新しい時代によみがえらせた作品としても名高い。チャイコフスキーのバレエ音楽としては「眠りの森の美女」、「くるみ割り人形」と並んで三大バレエ音楽という。この3つの作品はいずれも長いので組曲がつくられ、その3つの組曲をカップリングしたレコードは数多い。けれども今回聞くのは全曲盤のCDである。2枚組に75分ずつたっぷりと収録されているので、新橋から小山までの往きに第1幕と第2幕を聞き、帰りに第3幕と第4幕を聞く。発車と同時に聞き始めると、到着の直前で曲が終わるという塩梅である。帰りにはグリーン車を使うことにしているので、この静かな時間がまた楽しい。

よく知られているように「白鳥の湖」は王子ジークフリートと娘オデットの物語である。オデットが白鳥に変えられてしまい舞踏会で王子と結ばれようと努力するが、悪魔が邪魔をしてかなえられずとうとう二人は湖へ身を投げる。したがってこの物語は悲劇である。あの美しい「情景」のメロディーが随所に顔を出し、終曲では壮大なクライマックスになって全体を締めくくる。甘美で感傷的なメロディーや、壮大で楽しいワルツなど聞きどころは満載で、旋律の美しい大規模なオーケストラの曲を聞く喜びに浸ることができる。

サヴァリッシュはフィラデルフィア管弦楽団の時代にこの作品を録音した。サヴァリッシュのファンである私は直感的にこの演奏が素晴らしい出来栄えであろうと想像したが、最初のエディションは高価だったため諦め、その後廉価版でリリースされたタイミングで輸入盤を買った。その演奏は想像していた通り、この曲の録音の中で最上位の完成度と思われる出来栄えである。冒頭から音楽が息づき、途切れることなく熱を帯びながら高揚していく。それでもなお冷静な部分をサヴァリッシュは持ち合わせていて、音楽が一定の想定された調和の中に収まっている。壮麗なフィラデルフィア・サウンドを堪能することもできる。録音もいい。

「白鳥の湖」はバレエ音楽だが、実際にバレエを見なくても音楽だけで楽しめる作品である。そのことがこの曲を名曲たらしめているように思う。ではその音楽をかいつまんで聞いていこう。

冒頭はオーボエの憂愁を帯びたメロディーで始まる。これを聞いただけでロシアという風景(私は行ったことないのだが)を思う。同じ旋律をクラリネットが、さらには弦楽器が受け継ぎ、ついにはその規模が一気に大きくなってメロディーが流れると、私はもうこの音楽に「嵌って」いる。 まだ序奏の序奏なのに。抑制されているようで、十全にオーケストラ満開の様子はサヴァリッシュの職人的な上手さを表しているように思う。幕開きは管楽器も加わったアレグロの行進曲で、そのまま第1幕に入っていく。ジークフリート王子の祝祭のシーンである。

続く音楽はワルツ(第2曲)。友人や農民たちも加わって壮麗な踊りが繰り広げられる。このワルツ、「くるみ割り人形」の「花のワルツ」や「エフゲニー・オネーギン」第3幕の舞踏会のシーンとともに、チャイコフスキーの魅力満載の音楽だと思う。そしてまた有名なポロネーズ「乾杯の踊り」(第8曲)!

第2幕はその白鳥の音楽を繰り返すところから始まる。「情景」と訳されているが、バレエ音楽には一つの作品の中に数多くの「情景(シーン)」や「パ・ドゥ・~」(~人のステップ)といったものが存在する。だが一般に「白鳥の湖」の「情景」と言えば、あの音楽を指す。つまりオーボエがメランコリックな旋律を奏で、ハープがまるで羽を広げるような情景を描写する、「あの」音楽である(第10曲)。この聞き古した音楽は、いい演奏でちゃんと聞くと実に素晴らしい。カンタービレの部分で弦楽器が入ってきて、甘く切なく盛り上がっていく様子が、オーケストラ音楽のある種の醍醐味を表現している。そういう意味でチャイコフスキーは天才的である。時折冷たい風が吹き抜ける静かな湖のほとりがまるで目の前にあるかのようだ。

その湖のほとりで王子は白鳥になった娘に出会う。「小さい白鳥たちの踊り」(第13曲Ⅳ)それ「(オデットと王子の)パ・ダクシオン」(第13曲Ⅴ)などが続く。「小さい白鳥たちの踊り」もコケティッシュな有名な曲で、聞いたことがない人はいないのではないだろうか。「白鳥の湖」は「くるみ割り人形」と同じくらいに名曲が尽きない。「パ・ダクシオン」はハープの美しい旋律で始まる静かな音楽で、ソロ・バイオリンが活躍する。3拍子のリズムが耳に心地よい。

第3幕の舞踏会はこの音楽の最高潮の部分である。したがって数々のダンスが繰り広げられ、聞くものを飽きさせない。 抜粋でよく演奏されるのは「ハンガリーの踊り(チャールダーシュ)」(第20曲)、「スペインの踊り」(第21曲)、「ナポリの踊り」(第22曲)、「マズルカ」(第23曲)などである。いずれも異国情緒がロシアのムードとミックスする。リズムが動き、タンバリンやカスタネットなどの打楽器が豊富に挿入される。なおサヴァリッシュのこのCDには、この第3幕と第2幕に数多くの省略された部分が付録として挿入されている。それにしてもこれだけ次々とオーケストラの舞踏音楽が続くというのは音楽を聞く楽しさの限りである。

第4幕はフィナーレ(第29曲)が充実している。ここであの「情景」のメロディーが様々な形態で再び現れるが、それは白鳥と王子の死を表している。悲劇ではあるけれども物語の美しさを失ってはいない。二人は死後の世界で結ばれるからだ。 サヴァリッシュの演奏はバレエ音楽としての性格をわきまえている。ただ通常バレエを見に行ったとしても、そこで演奏されるオーケストラは一流とはいいがたい水準であることが多い。このサヴァリッシュによる演奏は(小澤やプレヴィンの名演もそうだが)、音楽として楽しむための演奏である。安易に抜粋版にしていないところがいい。なんせ30分やそこそこで聞いてしまうには勿体ないのだから。

2016年1月15日金曜日

ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサート2003(ピエール・ブーレーズ指揮)

リスボンにある世界遺産・ジェロニモス修道院を新婚旅行で訪れた。1996年12月のことである。ヴァスコ・ダ・ガマとエンリケ航海王子。香辛料貿易によって得た巨大な富は、大航海時代を代表するこの二人を称え、さらなる航海における修道士たちの精神的な支えを得る場所となった。だがポルトガルの繁栄は長くは続かなかった。大航海時代の主役はスペイン、そのあとオランダへと取って代わられ、リスボンの街は天災も重なって大きな苦難を味わうことになったのだ。

ジェロニモス修道院はそんなポルトガルの短いながらも大きな繁栄を象徴する場所である。サンタマリア教会を中心に2つの博物館、それに航海時代を偲ばせる装飾的な彫刻の施された、マヌエル様式といわれる建物で構成される回廊と中庭からなる巨大な建築物である。航海を終えてテージョ川の河口に入ると見えるその姿は一層、航海士たちを励ましたに違いない。

ベルリン・フィルの創立記念日である5月1日に行われるヨーロッパ・コンサートは、ドイツ統一の翌年1991年から始まった。このコンサートはヨーロッパ各地の歴史的建造物で行われ、わが国でも放送されるしDVDなどで発売されている。2003年のこのコンサートはリスボンのジェロニモス修道院で行われた。大病を患い療養中だった私には、大きな残響をともなって響く音楽と映像自体が大変新鮮でおおいに感慨を持ちながら見たのだが、その時の指揮者が何とピエール・ブーレーズであった。それまではアバドやバレンボイムが担当していたコンサートに、何とブーレーズが招聘され、しかもモーツァルトを振るではないか。ピアニストはポルトガル生まれのマリア・ジョアン・ピレシュであることが決定的だった。すなわちこのDVDを手元に置いておきたいと思ったのである。

ビデオで見るジェロニモス修道院は、私が訪れた時とは違って修復され、中庭の植物も芝生に変わってしまったようである。このほうが見栄えは良いのかも知れないが、往時の繁栄を偲ばせる雰囲気が損なわれてしまったような気もする。そんなことを考えながら、このビデオを久しぶりに見た。ブーレーズの訃報に接したことを機会に、追悼の意を込めて取り上げる録音は何がいいかと考えたからである。

私は一度だけブーレーズのコンサートを聞いている。ロンドン交響楽団を指揮したストラヴィンスキーの「春の祭典」などである。この演奏は凄かった。オーケストラが丸で巨大な戦車のように思えたのである。 同時にブーレーズの音楽が、一般的なCDで聞くときの、やや平べったくて大人しい、ややもすればちょっと息苦しいような演奏とは全く異なることを発見したのだ。もしかするとその音作りは、CD制作会社の創作の結果ではないのか。ミキシングにおける「ブーレーズの音」の編集方針があらかじめ決まっているのかも知れない、とさえ思ったのだ。

「古い友人に会ったような気がする」とどこかの批評で読んだのは、90年代ドイツ・グラモフォンと専属契約を結び、何十年ぶりかとなる「春の祭典」の録音が登場した時のことだ。クリーヴランド管弦楽団を指揮した旧盤の「春の祭典」は、特に「生贄の踊り」の部分の正確さがほかの演奏の追随を許さないほどに完璧であると言われていたし、私も中学生時代に聞いて大いに感動していたのだが、そのあとはブーレーズはむしろ作曲に専念し、メジャー・レーベルの録音からは遠ざかっていた。

その後私はバイロイト音楽祭を録画したシェロー演出の「ニーベルングの指環」で初めてワーグナーを知った。一連のマーラーの作品はどれも名演で、何枚かを買って持っている。最近では珍しい「嘆きの歌」をザルツブルク音楽祭で演奏し、その模様はブルーレイ・ディスクで発売されている(私はこれも買った!)。というわけで私はブーレーズの演奏の、さほど熱狂的ではないがファンであると思っている。そうそうあの最速の「パルジファル」も!

思えば90年代以降のオーケストラ録音はすべてが話題であった。晩年のブーレーズはもはや超一流のオーケストラとしか共演することはなく、無表情に見える指揮から紡ぎだされる音楽は構造が正確この上ない。その表現が面白いかはともかく、近代以降の音楽の演奏のにおけるひとつの模範ともいえるものではないかと思ったりしている。

そんなブーレーズのレパートリーはせいぜいロマン派後期あたりから始まるわけで、それ以前の演奏を聞いたことがなかった。ところがこのDVDでは何とモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K466を指揮しているのである。このモーツァルトは何もしていないようなまったく自然な演奏だが、それがピレシュの自発的で素朴な真摯さと組み合わさって、とても充実した見ごたえのある演奏になっている。

ブーレーズとベルリン・フィルの演奏はプログラムの最初にラヴェルの組曲「クープランの墓」と、モーツァルトをはさんだ最後にバルトークの「管弦楽のための協奏曲」である。このいずれの作品も私はこれまででもっとも共感を得ながら聞くことができた。特に「クープラン」はあまり聞かないが、これほどよくわかる気がしたことはない。一方、短いコメントの後にドビュッシーの「夜想曲」より「祭り」が演奏され、これは誠に素晴らしい演奏である。

ジェロニモス修道院は天井が高い教会コンサートにありがちなように、とても残響が大きいのだろう。マイクは近めに設置されている。そのため各楽器がメリハリを持って弾かれている。前の残響を打ち消す必要があったのだろう。

ブーレーズはフランスを代表する現代音楽の作曲家もあった。だが彼は作曲家としてではなく指揮者として後世に残るだろうと思う。彼自身が現代音楽の限界を知っていたと考えるべきだろうか。音楽の知識に乏しい一ファンが安易なことを書くのはよそう。けれども私にとってのブーレーズは、ストラヴィンスキーとワーグナーそれにマーラの、他に比肩しうることのない名演奏をする指揮者であった。

2016年1月10日日曜日

NHK交響楽団第1826回定期公演(2016年1月9日、NHKホール)

1500円の自由席の当日券を公演前に買い求め、NHKホールの3階席、しかもその後方に座るのは何年振りだろうか。上京して間もない頃の90年代、私はいきなり定期会員となり、仕事が終わると渋谷の雑踏をかき分け、この3階席によく来たものだ。その後も3階席は私の定位置であり、シーズン中はほぼ毎週のように通った。通常は満席にならないので、後半のプログラムはもう少し前方に移動して、遠くから響く音楽に耳を傾けた。

N響の音が今一歩良くならないのは、ホールのせいだと言われた。NHKホールは紅白歌合戦には適していてもクラシックのコンサートには広すぎる、というのである。 横にも縦にも大きく、いい音に聞こえるのは1階席の中央だけだと、ある評論家は書いている。N響もそれを何とかしようとして、定期公演の一部をサントリー・ホールに移し(おかげでこの公演はほとんど当日券がない)、舞台を前方に張り出したり(デュトワ時代)、特別な反響版を設置したり(ノリントン)などといった試行錯誤が続いた。

この間に私はN響のコンサートからも遠ざかり、行くのは年に数回となった。それならいっそいい席で聞こうと、今では2階のB席や1階袖のチケットを買うこともある。だが今日の公演は久しぶりに3階席で聞こうと思った。ひとりででかけた、ということもあるが本当は、早朝から出かけっぱなしだったので、もしや睡魔に襲われるのではないかと危惧したからだ(それは2曲目のドビュッシーで現実のものとなった)。

山田和樹という若い日本人指揮者を聞くのはこれが初めてである。以前から聞こうと思って果たせないでいた。一度CD屋で視聴したビゼーの交響曲の演奏が忘れられず、もしかしたらこの曲のもっとも素敵な演奏ではないかと思った。2011年に発売されたこのCDは3000円もする非常に高価なものだった。カップリングの「ジュピター」をあきらめてダウンロードで買おうと思ったが、それもできないとわかると私は諦めざるを得なかった。

一瞬にして才能がある、のかどうかはわからないが、素人耳にもちょっと違うと思い込ませるような何かがこの指揮者にはあるようだ。横浜シンフォニエッタによる演奏も素晴らしいが、その後、スイス・ロマンド管弦楽団、日本フィルなど内外のオーケストラの常任ポストの地位を次々とものにしていったのだから。その山田和樹がとうとうN響の定期公演を指揮するということで、私も勇んで出かけたのである。

山田の演奏会はプログラムにも凝っている。今回の演奏会は「おもちゃ」をテーマにした管弦楽曲をロマン派から順に並べ、色彩感を増してゆく音を楽しもうというものだ。まずビゼーの小組曲「子供の遊び」で、このような曲がコンサートに上るのも珍しい。CDでしか聞いたことのないこの曲の冒頭が鳴った瞬間、NHKホールのせいだと思っていたN響のくすんだ音色が、きらめきの如く光彩を帯び、適度な残響をも伴って綺麗に響いた。まるで違うオーケストラのように、それは3階席後方にまで到達した。もしかしたらヤルヴィの時代を迎えてN響は「本当に」音が変わっていたのかも知れない。

続くドビュッシーのバレエ音楽「おもちゃ箱」(カプレ編)も大変珍しい曲である。おもちゃ箱から飛び出す登場人物たち、すなわち人形の女の子、木彫りの兵士、道化師プルチネルラにはそれぞれテーマ音楽がつけられ、その紹介から始まる。ピアノが活躍し、いろいろな楽器が様々なリズムで登場する。全体に大音量の音楽ではないが、奏者の数は多いのだ。私も初めて聞く曲なので、一生懸命聞こうとはしたのだが、ここで睡りの世界からやってきた魔法師が私を音楽から遠ざけた。私が目を覚ますころ、35分に及ぶ曲は終わろうとしていた。なおこの曲には語り(女優の松嶋菜々子)がついていた。彼女は長い台詞を間違うことなく朗読し、音楽との呼吸も見事だった。

プログラム最後はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」であった。この演奏者いじめとも思われるような難しい曲を、手際よく処理していく指揮者にまず心を打たれる。冒頭のフルートの難しいメロディーも今のN響はとても上手に弾いていく。ホルン、ファゴット、クラリネット、トロンボーン、独奏バイオリン、それにピアノと打楽器。20年以上前、いやテレビで見ていた少年時代からすると今のN響のレベルは、本当に高いと思う。あのストラヴィンスキーが、日本人の指揮者、そして日本人のオーケストラによってこれほどにまでこなれて聞こえることがあっただろうか。山田和樹の指揮はとても処理がうまく、かえって難しさを感じさせない。もっと時間をかければ、さらに上等の演奏になるものと思われる。おそらく忙しい指揮者なので、次々とこなしていくことでレパートリーと経験を積んでいくのだろうと思う。

それにしても欧米のオーケストラで聞く「ペトルーシュカ」でしか耳を洗われるような経験をしたことがなかったものだ。だがそれと同じ程度のレベルの演奏を、私たちはもう身近に聞くことができる。総じて世界のオーケストラの技術水準は高くなったと思う。おそらく今がクラシックを聴くもっとも楽しい時期ではないかとさえ思う。けれどもそれは、ささえる聴衆があってのことだ。もしチケットが売れず、CDなどが売れないとなると、この水準を維持することができなくなるだろう。そう思うと何かとても不安でもある。帰り道、私は1年ぶりに渋谷のタワーレコードに立ち寄り、最近の新譜CDなどを探してみた。けれどもそこにはもはや、かつて私を心ときめかせたものが驚くほどに減少しているように感じられた。いやクラシックでけではない。かつて洋楽の宝庫としてポップスの街だった渋谷は、いまではどこにでもある普通のショッピング街になってしまったのだから。

2016年1月1日金曜日

謹賀新年

今年もまた新しい年を迎えることができ、うれしく思います。

昨年の夏以降はパソコンの調子からブログの更新が滞りましたが、新しいPC(Lenovo TninkPad X1 Carbon)を購入し、とても快適です。

恒例のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートはマリス・ヤンソンスの指揮。いまヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」が終ったところです。今年の特徴は選曲が良く、知られていない曲と有名曲がうまく組み合わされていて、しかも親しみやすい曲が多いことでしょう。ヤンソンスの指揮は、時に非常にテンポを落とし、しっとりと聞かせる部分が多く見受けらます。3回目の登場ともなると、少しは独自性を出そうとしているのかも知れません。どういうわけか音質も何か少し悪い気がします。まあ完成度を求めるならCDとしてリリースされるものを聞くべきかも知れません。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...