2023年8月11日金曜日

リスト:管弦楽曲集(ジュゼッペ・シノーポリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

猛暑の中を金沢へと向かう北陸新幹線「かがやき」の車窓からは、早くも妙高高原の美しい景色が広がっている。上信越の山々は木々も青く、高い山の稜線はくっきりと快晴の空と見事なコントラストを描いている。トンネルまたトンネルの線路が、かつては何時間もかかった山越えルートを一瞬のうちに北陸へと運んでいく。今日は金沢で、旧い友人と落ち合い、その後、五箇山を経て富山まで行く。予約してある居酒屋で味わう日本海の幸とお酒に舌鼓を打ちことを想像していると、早くも唾液が出てきそうである。

中部山岳地帯の雄大な光景を目にしてリストの「前奏曲」が聞きたくなった。Spotifyで検索したら、ジュゼッペ・シノーポリがウィーン・フィルを振った演奏のアルバムが先頭に表示された。満員の列車は早くも上越市内を快走している。リストは、ピアノの名手として超絶技巧を駆使した作品を数多く作曲し、その多くは自ら演奏することによってテクニックを披露することを目指した。ちょうどバイオリンにおけるパガニーニのように。しかし、リストはまた管弦楽曲において交響詩の分野を確立した作曲家でもある。その代表的な作品として「前奏曲」をあげることができる。

さらにリストは、ピアノ連弾用に作曲した19曲からなるハンガリー狂詩曲の一部を管弦楽曲に編曲している。最も有名なのは第2番で、千変万化するリズムが特徴の民族音楽をベースにしているから、数々の個性的演奏が目白押しである。カラヤンのねっとりとした演奏に舌を巻いていたが、晩年のショルティがいともすっきりと鮮やかにオーケストラをドライブして見せてくれたことは記憶に新しい。曲は交響詩「オルフェウス」に移っているが、その間に列車は日本海岸に出て西進している。早くも糸魚川を通過した。紺碧の海を眺めていると、ここはスペイン北部とフランスにまたがるバスク地方のように見えて来た。

地形的に日本を東西に分ける中央地溝帯がこの辺りを通っている。もっとも険しい日本列島の難所を、何事もなかったように新幹線は走る。関西の奥座敷である北日本地方は、このようにして今や東京文化圏に入りつつある。交響詩「オルフェウス」が静かに曲を閉じたとき、列車は富山平野へと入った。続く曲は交響詩「マゼッパ」。いきなり不気味な和音がさく裂する。富山湾の向こうに能登半島が見える。新幹線はあまりに早いので、音楽が終わるまでに終点に着いてしまいそうである。

シノーポリの演奏は、古くから定評あるカラヤンやショルティの演奏を更新して、リストの管弦楽曲に新しい風を引き込んでいる。イタリア風の流れるメロディーを加味し、しかもメリハリのある迫力を失っていないどころか、最新録音に支えられて低弦の響きも十分に厚く、オーケストラ音楽の魅力を最大限に引き出している。ウィーン・フィルのふくよかな響きも堪能でき、満足の行く一枚。高くそびえる北アルプスの山々を眺めていると、この曲がナチスによって利用されたことも納得できる。

収められた最後の「ハンガリー狂詩曲第2番」は、私が初めて聞いたクラシック音楽の一つで大変懐かしいのだが、何度聞いても飽きない曲である。久しぶりではあるが、しみじみと音楽に浸っているうちに、列車は倶利伽羅峠を超え、金沢市内をゆっくり走っている。金沢が東京からわずか2時間半で行けることに驚きを隠せないが、その新幹線も来年には敦賀まで延伸される。これでとうとう福井県までもが首都圏からの日帰り圏内となるのは時間の問題である。ただし能登半島となると今でも奥地である。私は富山で友人と別れた後、ひとり輪島まで足を延ばす予定である。金沢からさらに2時間以上の道のりである。

立山連峰

【収録曲】
1. 交響詩「前奏曲」
2. 交響詩「オルフェウス」
3. 交響詩「マゼッパ」
4. 「ハンガリー狂詩曲」第2番

2023年8月2日水曜日

PMFオーケストラ東京公演(2023年8月1日サントリーホール、トマス・ダウスゴー指揮)

半月も続いた猛暑が、突然の落雷と驟雨によって中断された。午前中に34℃にも達した気温は、22℃まで急降下。けれども秋の気配というには早すぎる。まだ8月になったばかりだというのだから。

パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル(PMF)がレナード・バーンスタインの提唱で始まってから、もう33年目だそうである。夏の暑い時期に、北の大地札幌で開催されるアカデミーでは、その期間だけ編成される若者のオーケストラが連日コンサートを開く。私は札幌での公演こそ聞いたことはないのだが、その最終公演を東京で行うようになってから、一度だけ聞いた。それは2019年のことで、ワレリー・ゲルギエフが指揮するショスタコーヴィチの交響曲第4番などであった。この公演には上皇夫妻もお見えになり、大変感動的な演奏会だった。

そういうことがあったので、このたびコロナ禍を経て催される公演に、私はいそいそとでかけた。プログラムは前半がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、後半がブルックナーの交響曲第9番である。メンデルスゾーンの独奏を務める金川真弓も初めてだが、デンマーク人指揮者のトマス・ダウスゴーの演奏を一度聞いてみたいと思っていたことが大きい。

プロフィールを読んでわかったことには、ダウスゴーはバーンスタインの弟子の一人であり、そして小澤征爾のアシスタントとしてボストン交響楽団を指揮していたそうである。またこれまでには単身、都響や新日フィルにも客演しているようだから、我が国に馴染みがないわけではない。しかし私はこれまで彼の演奏に接したことはなく、輸入盤のベートーヴェンやシューマンのCDを良く聞いていた。かつて「レコード芸術」という音楽雑誌があった(と、過去形で書かなければならないのは、とうとうこの雑誌が休刊に追い込まれたからだ)が、その数少ない魅力的なコーナーに、輸入盤の紹介欄があった。ダウスゴーはメジャーなレーベルの録音こそないが、ここで紹介されるBISレーベルからのリリースは、けっこう評判が良かった。

そのダウスゴーが今回初めてPMFに参加し、ブルックナーの交響曲第9番を指揮するということがわかった。ブルックナーの交響曲第9番は遺作で、完成された第3楽章(アダージョ)で終わることが多い。しかし今回演奏されるのは、第4楽章を補筆した完成版だという。補筆に参加したのは4名の作曲家で、サマーレ、フィリップス、コールス、そしてマッツーカという人だそうだ。その頭文字をとって「SPCM補筆完成版」と呼ばれるらしいが、それは1986年のことである。有名なサイモン・ラトルの演奏は、この補筆完成版の最初の録音である。

それから30年以上が経過し、この校訂版第4楽章は何度か改訂されている。今回の演奏は2012年改訂版と紹介されているが、ならば我が国で初演のようなものではないだろうか?また第1楽章から第3楽章までは、コールス校訂版ということになっている(2000年)。そういうわけで、今回注目したもう一つの理由は、この第4楽章付きの最新の「ブル9」というわけである。

さて、8割程度客席の埋まったサントリーホールの2階席奥に座った私は、随分若い人が多いという印象を受けた。静かに始まったメンデルスゾーンは、とても丁寧に、時にテンポを抑えてじっくり聞かせる今流行りの演奏で、かつてのようにさらさらと流れていくだけの音楽にはなっていない。メンデルスゾーン特有の中音域の甘いメロディーが、独奏ヴァイオリンと溶け合う様子は、私を久しぶりに音楽を聞く喜びへと誘った。

メンデルスゾーンは私の好きな作曲家の一人ではあるにもかかわらず、そう言うことが何故か恥ずかしかった。けれどもある時、池辺晋一郎氏がテレビでメンデルスゾーンが好きだと言ったのを見て以降、私も堂々とそういうことにした。すこし涼しくなった今日の東京で、このメンコンの音とリズムは、とても私の耳に馴染んだ。同様に感じた客も多かったに違いない。何度もカーテンコールに呼び出された金川は、アンコールにガーシュインの「サマータイム」(ハイフェッツ編)を演奏した。

短期間のうちに、オーケストラ経験の乏しい若手の編成から、そこそこの音色を出すものに仕立て上げるのは並大抵のことではないだろう、と思った。メンデルスゾーンといいブルックナーといい、中音域を重心とする中欧独特の重厚感に加え、特にブルックナーでは金管楽器のアンサンブルが決定的に重要である。それを若いオーケストラが挑戦するというのだから、こういうことはすでに当たり前になって久しいとはいえ、驚きである。

さてそのブルックナーだが、私はこの第9番の交響曲の魅力を、まだよくわかっていないと思っている。実演で聞くのはこれで3回目。同じ作曲家のの交響曲と比べても、少し変わった曲のような気がしている。演奏も難しいのではないかと思うのだが、この曲の名演奏は数多い。オーケストラは前半よりもメンバーが大きく増え、特にティンパニのそばにはなぜか3名のプレイヤーが座っている。どういうことかと思っていたら、曲の途中で交代した。

演奏は終始速めで、しかも熱い。ブルックナーの演奏には大きく分けて2つの傾向があると思っている。1つは統制を効かせて豪快に鳴らすタイプで、もう1つは流れに任せるかのように自然体を装うタイプ。コアなブルックナー・ファンには、後者を好むように思うが、この日の演奏(そしてかつて私が聞いたすべての第9番の演奏)は、前者である。PMFを創設したバーンスタインもこの曲を録音しているが、やはり前者。問題はにわか編成のオーケストラが、その豪快な金管アンサンブルと、重厚な弦楽をミックスさせ、かつ安定した響きを維持する音楽を実現できるか、ということであったが、第1楽章の冒頭を聞いた時からこれは杞憂に終わった。

崇高なブルックナー休止を含むどの楽章も、念入りに仕上げているだけでなく、聞き所満点だった。特に第2楽章のスケルツォは、息もつかせないような集中力で、唖然とするほどだった。一方、第3楽章のアダージョは、私がいまだに本気で感動した演奏に巡り合っていない曲で、今回も大変な熱演だったとは思うが、どうにも酔わないものに終始した。

本来ならここで終わるのが慣例である。それでも1時間かかるこの曲に、さらに続きを付け足したのが今回の演奏だった。しかしこの説明は誤解を招くだろう。なぜならブルックナーは死の当日まで、最終楽章の推敲を重ね、すでに多くの部分を作曲し終えていたからだ。そういうことがあるので、最近は補筆版の演奏が増えているようだ。今回の演奏もそういうわけで、続きがあって、全曲は80分にも及ぶものとなった。

初めて聞く「第4楽章」は、しかしながらちょっとブルックナーの音楽とも異なっているようにも聞こえた。いやもともとこの曲には、第8番までのブルックナーの作品とは若干異なったムードがあると思っているので、それはそれでいいのだろう。私は学者でも音楽家でもないから、こういう機会は大いに嬉しい。第4楽章が聞けるなんて、何か得をした気分であった。

20分にも及ぶ長大な終楽章のコーダが終わっても、タクトは長く振り下ろされなかったのだが、その長い「休止」の間、満場の観客の誰一人として拍手をしなかったことが印象的だった。やがて耐えきれなくなって、だれかがブラボーを叫ぶと、堰を切ったかのように嵐の拍手が沸き起こった。2階席の後方からは、各セクションが起立するたびに歓声が沸き起こり、ロック・コンサートのようでさえあった。何度も舞台に登場するダウスゴーは、とうとうオーケストラが引き上げてからも舞台に現れ、総立ちの客席から大きな歓声を浴びた。気が付いてみると、時計は9時半を回っていた。

コロナ禍による変則的な公演は姿を消し、コンサート会場はすっかりもとの光景を取り戻したように見える。私にとっての今シーズン(2022-2023)のコンサート通いも、これで終わりを告げた。会場入り口でもらった大量のチラシを自宅に持ち帰り、来シーズンのプログラムを眺めている。健康状態が持ちこたえる限り、月1回は会場へ足を運びたいと、今から心待ちにしている。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...