2013年4月30日火曜日

ワーグナー:管弦楽曲集(クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、他)

ワーグナーの最後の作品である舞台神聖祝典劇「パルジファル」は、抜粋で聞くことの難しい曲である。この音楽のどの部分をとっても、旋律を歌ってみることなどできない。ただ精緻にして荘厳な音楽がいつ途切れるともなく永遠に続くだけで、どの部分をとって繋いだとしても、この曲の全体像を見ることはできない。そもそも「パルジファル」にそのような安直な抜粋など、期待するほうが間違っている。なにせ神聖にして犯すべからざる音楽なのだから・・・。

と考えている人が多いからか、「パルジファル」の音楽を部分的に選択して収録したCDは、「指輪」とは違いほとんどない。だが2001年になって病気から帰還したクラウディオ・アバドは、ベルリン・フィルの音楽監督を辞任する直前に見事なワーグナー・アルバムをリリースし、その中心に「パルジファル」を据えた。このCDはアバドの真摯で安定感のある指揮と、ダイナミックでこの上なく美しく豊穣なベルリン・フィルによるもっとも成功した演奏のひとつであると思うほど素晴らしい。

「パルジファル」では、当然のことながら第1幕の前奏曲が最初に収められている。この曲は聞き手
をあっというまに別の世界へ連れて行く。私は家の中で静かに音楽を聞く時間がなかなか持てないから、携帯音楽プレーヤーにWAV形式でリッピングし、夜に散歩をしながら聞いている。運河沿いの歩道をひとりで歩きながら、頭のなかに重厚な和音が響き渡ると、まわりがいつもとは違う静謐で幻想的な光景に見えてくる・・・。

この音楽を聴き始めると、それをどう表現するかといったことが取るに足らないことのように感じられる。どのような言葉をもってしても形容しがたい音楽である。解説書によれば宗教性を感じさせるいくつかのモチーフや、管弦楽上の工夫が施されているという。だがそのようなことは、どうでもいいではないか。15分足らずのこの前奏曲は、2002年のザルツブルク音楽祭で収録された。

続いては第3幕からの音楽で、これをアバド自身が編曲したものである。実際には有名な「聖金曜日の奇跡」の音楽とそれに続く舞台転回のシーンで鳴る音楽などがつながっている。モンサルヴァート城の鐘の音は特注品だそうで、聖金曜日から続く部分ではやがてスウェーデン放送合唱団も加わる。どの部分をどう演奏しているかなどどうでも良く、ただこの音楽をずっと聞いていたいと思う。散歩の途中で足を止め、ベンチに腰を下ろしてしばし夜更けの音楽に浸る。たったひとりの至福の時間がここにある。

このような崇高な曲のあとに、なぜ「トリスタンとイゾルデ」が収められているのか、私には理解できない。この曲のこの演奏は悪くはないが、「パルジファル」の後に聞きたいとは思わないからだ。そういう収録時間があるのなら、第1幕の終わりの部分(聖杯の儀式)や、第3幕の前奏曲も付け加えるべきではなかったか。データを見ると、この「トリスタン」だけは2000年の録音とあるので、どう考えても違和感がある。

ただ最初に収録された「タンホイザー」の序曲は、最初に聞く音楽としては悪くない。それどころかこのアバドの演奏は大変充実している。完璧なベルリン・フィルの音も、少しこもったような残響を捉えていて、ワーグナー録音用の演出効果ではないかとも思われる。


 【収録曲】

1. 歌劇「タンホイザー」序曲
2. 舞台神聖祝典劇「パルジファル」から「第1幕への前奏曲」、第3幕からの組曲(聖金曜日の奇蹟、鳴り響く鐘と騎士たちの入場、パルジファルが聖槍を高く掲げる)
3. 楽劇「トリスタンとイゾルデ」から「前奏曲と愛の死」

2013年4月29日月曜日

ワーグナー:「ニーベルングの指輪」から管弦楽曲集(ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団)

ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」は、全部で4つの楽劇から構成される長大なもので、全曲を聞く機会などそうあるものではない。私も実演はおろか、CDでさえも全集を持ちあわせてはいない。ビデオなら放送されたブーレーズのものと、Metライブ上映された最新のルパージュのものを「真剣に」見た。だがそのような経験を経るまでは、このような巨大な音楽はとても手の届くものではなかった。

ワーグナーの音楽への入り口としては、まず「タンホイザー」や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などの前奏曲となる。そしてたまたま買ったレコードの余白?に「トリスタンとイゾルデ」やジークフリート牧歌などが入っており、なかなかいい曲だなと思ったりする。だがそのあと、オペラ全曲を聞くまでの間には、高尾山とマッターホルンほどの差が?あるように思う。ところが普通の登山者はなかなか踏み込めない領域に、ヘリコプターで訪れる日帰りツアーのようなものがあるとする。それはそれで見どころにさっと連れて行ってくれる大変便利なものだが、見ている光景は同じでも麓から登ってきた人と感じ方は違わないだろうか?

変な喩え話はやめようと思うが、ここで聞く全盛期のクリーヴランド管弦楽団をジョージ・セルが指揮した楽劇「ニーベルングの指輪」からの音楽集は、そのような手っ取り早い「指輪」入門編である。いやこれはオペラとは違う音楽であると割り切ったほうがいいのかも知れない。 完璧主義者のセルは、その力を発揮してオーケストラから他の演奏では聞こえないような部分までもクリアーに、リズムの処理も厳格に、ワーグナーを指揮している。すっきりとした、それでいて迫力もあるこの演奏が、私はとても気に入っていた。テープにダビングしてカーステレオで何度も聞いたものだ。

 「指輪」の全体に触れるまでは、このCDで聞くそれぞれの音楽が、みなとても素晴らしく「独立して」楽しんだ。4時間以上もかかる楽劇から十数分ずつしか演奏されないということは、とりあえず横において。またこれらの音楽は純粋に管弦楽曲として演奏されているので、歌も合唱もない。しかしこれらの曲は楽劇の中で、純粋に音楽だけを聴かせるシーンで演奏される部分が中心だから、当然のことである。もちろんそういうことははじめはわからない。

そういうことがわかってくるのは、全部のあらすじを追いながら聞いたあとである。実際にはこれらの有名なメロディーは、前の音楽がおわりかけて、そのまま混沌とした中に少
し出てきたかと思うと再び他の音にまみれ、そういったことを何度も繰り返しながら徐々にメロディー(動機)が明確になってくる。長大な会話やモノローグが、さして変化もない舞台で延々と演じられたあと、待ってましたとばかりに鳴り響く圧倒的な音楽に到達する。そのプロセスこそが、ワーグナーの素晴らしさであるとわかると、これらの「ダイジェスト」はいかにも安直な印象となる。

しかしそういういろいろな演奏に接したあとで、そういえばセルの演奏は、楷書風で正確無比、それはそれでいいなあ、と思う。その音楽を聞きながら、目にシーンを思い浮かべる。そのようにして「ダイジェスト」の楽しみもあるなあ、などと思ってみたりする。だが話があまりに早く展開しすぎて、置いてけぼりをくらったような感覚となるのも否めない。まあそれは数多ある「指輪」の「ダイジェスト」のどれにもあてはまることなのだが、このセルの比較的テンポの速い演奏は、とりわけそのような印象を与える。演奏は素晴らしいが、早送りで名画を見るような気分がしてしまう。もちろん、それは何度も言うように、「指輪」の全体像に触れた後でのことなのだが。


【収録曲】

1. 楽劇「ラインの黄金」より「ワルハラ城への神々の入場」
2. 楽劇「ワルキューレ」より「ワルキューレの騎行」、「魔の炎の音楽」
3. 楽劇「ジークフリート」より「森のささやき」
4. 楽劇「神々の黄昏」より「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ジークフリートの葬送行進曲」

2013年4月26日金曜日

シューベルト:交響曲第4番ハ短調「悲劇的」D417(コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

長く重々しい和音が響き、すぐに静かで沈痛な序奏となる。この部分だけでその音楽の充実ぶりは凄い。「悲劇的」な主題はシューベルト版「走る悲しみ」といったところだが、暗い中にもどことなく明るさを漂わせているのがいい。ハ短調の交響曲と言えば、何と言ってもベートーヴェンの第5交響曲を思い出すが、シューベルトはこの曲を意識して作曲したのだろうか。

その第2楽章の美しさはたとえようもない。何となくどこかで聞いたことのあるようなシューベルトのメロディーだが、それは途中からもっと深刻なものとなる。ここの曲ほどシューベルト的な曲はないと思う。そういう意味でこの曲は、彼の8曲ある交響曲のなかでも秀逸なものだと思う。ここにはもはや「走る悲しみ」はなく、行き場のないような哀しみである。そこにシューベルトの世界が広がっているように感じる。

第3楽章はリズム処理が面白く、いわばスケルツォ風である。重々しいが中間部になるとほっとするような安堵感が漂う。第4楽章になると、再びシューベルトの独壇場とでも言うか、テンポを刻みながら静かに走っている。やがて体が運動に慣れてきて、丁度いい感じになる。これと同じような感覚は、「グレイト交響曲」の終楽章でも味わえる。私はこの音楽が好きである。短調独特の暗さが漂っているが、充実した音楽に乗っていける。しかも主題が何度か繰り返されるので、長いがその分、適度な「運動感」も得られる。オーケストラが次第に熱を帯びてくる様子がわかる。

先月のサヴァリッシュに引き続いて、コリン・デイヴィスの訃報までが飛び込んできた。私にとってコリン・デイヴィスはサヴァリッシュほど身近ではなかったが、結構気に入っていた指揮者だった。2度ほど実演を聞いている。1回目はニューヨーク・フィルとのマーラーを、2回目は内田光子をソリストに迎えたロンドン交響楽団とのモーツァルトだった。さらにはレコードで聞く演奏には60年代のベートーヴェンを先頭にあらゆる年代、国、ジャンルの作曲家に及び、それはつい最近まで続いた。

そのデイヴィスは90年代にはシュターツカペレ・ドレスデンとの素晴らしい演奏の数々をデジタル録音している。丁度古楽器奏法が主流となって、CD販売の不振が続き、次々と指揮者が録音の予定から降板した頃だったので、これらの演奏には大変素晴らしいものが多いにも関わらずあまり評判にはなっていない。ドレスデンとのシューベルト交響曲全集もそのひとつではないだろうか。

だがここではいつものかっちりとした堅固な演奏が聞ける。そしてドレスデンの響きによくマッチして、ファンには嬉しい限りの演奏だが、聞く人によっては「力任せ」だの「無骨」だのと批判が多い。私はファンなので、今日は第4番を私の追悼演奏として聞いている。高い完成度で第2楽章など胸に迫る。

春が終わってまもなく初夏というよく晴れた日の朝。ふく風はまだ少し寒いが、日差しは眩いばかり。そのような一日なのに、なぜか寂しい気分である。新緑の木々が雲ひとつない空に映えて揺れている。そんな今日も、午後には急な寒気のせいで突風が吹く嵐になるらしい。

2013年4月22日月曜日

ビゼー:歌劇「カルメン」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2012-2013)

各地の歌劇場が「ライヴ・ビューイング」企画を始めている。「ライヴ」といっても本当のライヴではなく、時間差がある。日本語の字幕を付けるなど手間のかかる作業だから、数ヶ月の遅れなら仕方がないだろう。それよりも本場へわざわざ出かけなくても、旬の上演に接することができる。値段も実演に比べれば安く、しかもカメラワークの楽しみはオペラ作品の別の側面を浮き彫りにする。

そしてメトロポリタン歌劇場のThe MET Live in HDシリーズに倣って、とうとうパリのオペラ座がこの企画を始めた。今シーズンは8作品が順次映像で公開されるが、そのうちバレエが3作品を占めるなど、フランス風に拘った選曲である。その第2作目はやはりフランスを代表するオペラの名作、ビゼーの「カルメン」であった。パリ・オペラ座でも10年ぶりというこの作品は、知らない部分がないくらいに名曲の連続で、しかもよく知られたストーリーである。私も実演やビデオで何回となく見ているから、「またカルメンか」と思っていたが、青島広志氏の宣伝文を読むとやっぱり行きたくなる。

その日は朝から冷たい雨の降る肌寒い日曜日で、有楽町駅にも人はまばらであった。しかし日比谷のTOHOシネマに向かうとそこには、いつもオペラ映画では有り得ない多くの若い人々が切符売り場に並んでいる。これは一体どういうことかと思ったら、宝塚歌劇の列であった。宝塚歌劇というのはオペラではなく、実際は女性による女性のためのミュージカルである。宝塚劇場の地下が映画館で、広い方は「スカラ座」といい、私の目指すパリ国立オペラは、小さい方の「みゆき座」である。この名前は御幸通に面しているからであろう。

前後左右に人のいない席を、といったところ、中央のど真ん中の席をくれたが、実際、そのような人の入りで、午前10時過ぎから休憩なしの3時間半の上演は、連日のコンサート疲れもあって何となく食傷気味であったことは白状しておく。、だが、見続けるうちに、これは大変な演奏だと思うに至った。「カルメン」も本家がやれば「こういうものよ」と主張しているみたいである。これではMETライブも霞んでしまう。それほど良かった。

アンダルシアの城下町を舞台にした歌劇「カルメン」は、世界で最も人気の作品だが、その詳細な聴き所となると、次々と続くあまりに有名なメロディーの大衆性に隠れて、曖昧なものとなっていたような気がする。従来、この作品の持つ曖昧さはギローによる「低俗なレチタティーヴォ」を多用した「改悪」の結果というのが定説となり、最近ではめっきりオリジナルの「オペラ・コミック版」による上演が多くなって、この問題はかなり解決した。今回の上演ももちろん「オペラ・コミック版」で、台詞が語られることでストーリーが自然に流れる好ましい結果となった。

ところが今回の舞台は、スペインではなくどこかの廃墟の建物内で、その舞台セットが全4幕を通して変わらなかった。ここはタバコ工場前の広場でもあり、城内の牢屋でもあり、リーリャス・パスティアの居酒屋でもあり、山の中でもあり、そして闘牛場でもあった。このことがオペラを見る楽しさのひとつの側面を奪ったかもしれない。だが、それを補って余りある素晴らしさがあった。それは歌唱と音楽である。衣装も凝っていた。少年少女が登場するのは、限られた場面だけではなかった。そして彼らが身に着けていたのは、闘牛士の格好だったり道化師の格好だったりした。少年を含む合唱の素晴らしさは書き忘れることはできない。そしてもしろんバレエも!

まずカルメン。この表題役を歌ったのはイタリア人のソプラノ、アンナ・カテリーナ・アントナッチで、黒い髪の毛をわざわざ白く染め、もともとの台本ではない雰囲気になっていた。マリリン・モンローを思い起こさせる姿はたいそう美人の女性ではあるが、もっと妖艶な雰囲気を期待していると裏切られる。だが、彼女の歌声は私のこれまでのカルメン像を打ち砕き、さらにはより素晴らしい役柄へとこの役を引き上げた。「ハバネラ」がこれほど綺麗に歌われることは少ないし、かといって低い声でドン・ホセを翻弄する魅力もまた持ち合わせている。この演出からはジプシー色がほとんど消え失せていた。「どこにでもいる女性」を目指したのだろうか。この「カルメン」はすべての女性が持つ要素であり、そしてドン・ホセはまたすべての男声が持つ危ない要素なのかも知れない。

そのドン・ホセはテノールのニコライ・シューコフで、声の質は三大テノールにあえて例えるならホセ・カレーラス風だろうか。真面目な風貌もこの役にぴったりである。一方、ホセのいいなづけミカエラは、ゲニア・キューマイヤーだが、この可憐な役をひときわドラマチックに歌い、観客の歓声を集めていた。第1幕の冒頭で自転車に乗って登場した彼女は、第3幕の後半でホセを追いかけて来るシーンで、ひときわ叙情的に歌い、観衆の涙を誘った。

エスカミーリョは、歌こそ少ないがこの歌劇では非常に重要な役柄である。登場していきなり「闘牛士の歌」を熱唱するからだ。バリトンのリュドヴィック・テジエは、登場したとき白いスーツにサングラスをかけていて、どこかの芸能プロデューサーかと見間違えたが、グラスを外して歌い始めるとその声は大劇場にこだまし、貫禄充分であった。

これらの主役の陰に隠れる多くの脇役は、通常ならそれほど言及する必要がない。しかし今回のこの上演では、これらの脇役たちが実に上手い。衣装も個性的で、しかもそれがハマっている。そう言えばフランスに行けば、こういうおっさんがいるなあ、と思う人々は合唱団のひとりひとりに言える。フランス人でなければ表現できない雰囲気というのが感じられる。

指揮は音楽監督のフィリップ・ジョルダン。ワーグナーを指揮しても上出来のこの指揮者について、もはや何も言うことはないだろう。音楽は自然ななかにもたっぷりと歌われ、迫力があるが急がず、十分に劇的であった。私が映像や実演で見た「カルメン」ではもっとも完成度が高く、興奮の度合いはクライバーに継ぎ、発見の多さでは群を抜いていた。 満員の観客が多くのブラボーを叫ぶ中、昨年12月の公演が終了した。カーテン・コールの間中、私は感極まって胸のつかえが取れなかった。

開始前と第2幕後には歌手や演出家イヴ・ボーネンに対するインタビューもあり、見どころは満載のこの企画は、今シーズンの全8作品を5月より順次上映する。次回は「ホフマン物語」で、私も今から待ち遠しい。MET Liveが6月に今シーズンの公演を終えるので、その後9月まではこのビューイングで過ごすことになりそうだ。

2013年4月21日日曜日

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」(パルマ王立歌劇場ライブビュー)

ヴェルディの生まれ故郷はパルマ公国の小さな村で、そのパルマのオペラハウス
がパルマ王立歌劇場である。ここでは「ヴェルディ・ファスティヴァル」なる催しが開催されていて、それは本場のオペラだから「我が音楽」とばかりにヴェルディを演奏する。しかしオペラハウスそのものは、スカラ座やフェニーチェ劇場などの「都会の」劇場と違ってローカルだから、それなりの水準で演奏されているとは思われるが、これまでさして見向きもしなかったところである。

ところがそのパルマ王立劇場で上演された2012年の演目から「アイーダ」が映画上演されるというチラシが手に入り、よく考えて見ればそれは今日ではないか!会場の銀座ブロッサムホールは家から地下鉄で10分くらいだからこれは便利。中央区の公民館のようなところで、何度か行ったことがある。それで雨の中を有楽町から歩いて到着。会場は1000人くらいの大きさだが、当のパルマ王立劇場も1000人くらいの小さな劇場で、もともとオペラというのはそのくらいの小さな劇場を想定して作られている。

会場は平均年齢が65歳はあろうかと思われるような人々でいっぱいで、私は最前列の右寄りに座らざるを得なかったが、スクリーンを見る上では素晴らしい。だが左右に配置された大型のスピーカーは、もっと遠くに向けられているので、右側の音だけが大きい。もう少しスピーカーはうしろに置かれていてもいいのに、と思った。しかもこれでは2チェンネルの音である。せっかくサラウンドで録音されているであろうに、残念である。

映像はUnitel制作のもので、言ってみればインターナショナルなリリースである。そういうわけで、このローカルな劇場が満を持して?届ける「アイーダ」となったのだが、その出来栄えはなかなか大したもので、狭い劇場のやや低予算な演出を補うだけの見せ場も多く、それはそれで新たな発見も多いものだった。

その中でも第3幕の集中度はすばらしい。アイーダはほぼでずっぱりのこの幕で、前半は父アモナズロとのドラマチックな対話である。アモナズロはバリトンのアルベルト・ガザーレで、この歌手の出来栄えが私は最も印象的だったが、観客の評価はどうか、よくわからない。しかしこのアモナズロが出てくると舞台は一気に引き締まり、周りを巻き込んで迫真の演技となっていた。対するアイーダ役はスザンナ・ブランキーニで、容姿の美しさもあり、アイーダにぴったりの役だと思う。

第3幕の後半は、父の命を受けたアイーダが、ラダメスから軍事機密を聞き出すシーンである。ラダメスを歌ったワルテル・フラッカーロはリリカルなテノール歌手に思われたが、悪くはない。ただあまりエジプトの将軍という感じではない。

第4幕の前半ではさらに、アムネリスの独壇場となる。アムネリスは貫禄充分なメゾ・ソプラノのマリアーナ・ペンチェヴァ。アモナズロの次に成功していたように私には思われた。指揮はアントニーノ・フォリアーニで、必要な素質を持っている。第2幕の終わりに重唱が響くが、ここの部分はオーケストラも大きな音で重なるので、わけがわからなくなる。だが、映像の協力もあって見応えはした。

総じて第2幕の後半から第4幕前半までが素晴らしかった。だが、特に第4幕の最後のシーンは、急に散漫な感じがして、どういうわけかあまり感動が伝わらない。目の肥えた観客席は当初は熱狂というふうでもなく、少ない拍手であることが少し残念だ。第1幕すぐに歌われるラダメスの「清きアイーダ」と、第1幕後半のアイーダの「勝ちて帰れ」は、悪くはなかった。けれども凱旋のシーンは、低予算のためかグランド・オペラとしての豪華さを表現できないのは仕方がないだろう。その反面、第3幕以降では、うしろにナイル川を思わせる夜の水面が建物の背後に映されて、美しい舞台とともに迫真の演技が印象的だった。

全4幕を休憩なしで観るには少々重い。だから幕の間の時間をもう少し配慮すべきだろうと思う。だがそういう不満は抜きにしても、まずはパルマのようなローカルな劇場の公演を、時をそれほどおかずして見ることのできることに感謝しなければならない。次は「仮面舞踏会」だそうで、楽しみである。

2013年4月20日土曜日

NHK交響楽団第1752回定期公演(2013年4月19日NHKホール)

そのほとんどが音楽史に残る輝かしいイタリア・オペラの発展の軌跡とも言えるヴェルディの作品群にあって、オペラ以外の作品でほとんど唯一といっていいくらい有名な作品は、言わずと知れた「レクイエム」である。この作品はどこの段階に位置するのだろうか。手元にある音楽辞典で調べてみると、作曲は1874年となっている。これは後期に属し、「アイーダ」と「オテロ」の間ということになる。

「レクイエム」は4人の歌手と合唱団を必要とする。規模だけで言えば、ベートーヴェンの第9と同じだが、当然のことながら独唱も合唱も出だしから大変な実力が要求される。加えて管弦楽は「怒りの日」を筆頭にこれまた大変な迫力で、力の弱い演奏だとつまらない。それらを統率する指揮は、単に力任せであればいいというわけではなく、音楽を揃えるのは勿論、独唱や合唱の各パートの強弱にも配慮し、ピアニッシモにおいても緊張感を持続させなければならない。つまり大変な難曲であろうことは、素人にも想像に難くない。

そのヴェルディの「レクイエム」を、NHK交響楽団は生誕200周年の今年、定期公演に加えた。丁度今年は私もこの2大巨匠の音楽を聞き続けているので、これを逃すことはできない。そして私にとって2度目の「レクイエム」の演奏会である。前回は2001年8月の新日本フィル(指揮は佐渡裕)で、それから比べると私は随分ヴェルディに詳しくなった(はずである)。その結果、聞き方にどのような違いが生じるかといった興味もあった。出演者は以下の通り。

 独唱:マリナ・ポプラフスカヤ(S)、アニタ・ラチヴェリシュヴィリ(Ms)、ディミトリ・ピタス(T)、ユーリ・ヴォロ日エフヴォロビエフ(Bs)
 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:NHK交響楽団
 指揮:セミョーン・ビシュコフ

プロフィールを見るまでもなく、この布陣は第一級のヴェルディ歌手と、我が国屈指の合唱団の組合せである。ビシュコフは最近の活躍がめざましく、そう言えばMETの「オテロ」は彼の指揮であった。そういうわけでこれはなかなか力の入った演奏会であろうと思われた。

実際の演奏は、それを証明することになった。客席は満席ではなかったが、多い方である。そして演奏が終わると、しばし沈黙が続いた。オーケストラが静かに音を慣らし終えてから、10秒以上は経過しただろうと思う。誰かが待ちきれなくなってブラボーを叫ぶまで、指揮者はタクトを降ろさなかった。会場の拍手は次第に大きく膨れ上がり、何度も何度も呼び戻された出演者は、大きな歓声を受けていた。

新国立劇場合唱団は各パートのそれぞれが異なるメロディーを歌っても乱れることはないばかりか、その強さのミックスとバランスは絶品であった。最前列のソロ歌手と、後方から発する合唱の音が、奥行きを持って重なりあう様は、冒頭の「レクイエム」という歌詞の時から明らかだった。

当初は着席したままで歌った合唱は、しばらくしてソロが歌い出すと同時に起立した。ソプラノのポプラフスカヤは、もっとも印象に残ったが、それ以外の歌手が悪かったわけではない。ビシュコフの指揮はダイナミックで迫力があり、細かい表情でも決しておろそかにしない音楽作りには好感が持てた。この様子はテレビ収録されていたので、今度放送された時にはもう一度見てみようと思う。

さて、ヴェルディのレクイエムだが、これは宗教音楽なのか、それともオペラの延長なのか、という論争が常につきまとってきた。音楽的な充実度がありすぎる結果だろうと、今回聞いていて思った。晩年のオペラ作品から華やかなアリアなどを取り除くか、ないしはそれをセイクリッドな音楽に書き換えればこのような作品となるのだろうか。そもそも教会の音楽は、華美であってはならないという伝統がある中で、ロマン派の作曲家がそのような「枠」を打ち破らざるを得なかった。だがそのようなミサ曲をめぐる論争は、何もヴェルディの作品にのみ向けられるべきではないだろう。

これはヴェルディのレクイエムであり、ヴェルディにしかかけなかった作品として今でも演奏され聞けることに感謝せざるを得ない。力強い合唱が管弦楽と一体となって手に汗を握る部分があるかと思えば、独唱とわずかな管楽器のみでメロディーを歌う部分が多い。この「静かな」部分は、ヴェルディの中期以降のオペラで顕著となるドラマ性を帯びた響きに似たものだ。歌詞はレクエイムのミサなので、物語性があるわけではない。ここには音楽それ自体で語る力がある。ソロ歌手がひとり歌う部分において、あらゆるものを削ぎ落した「声」そのものの力・・・その力の重なりと連続によって、「ドラマチックなレクイエム」というものが登場することとなった。

2013年4月17日水曜日

ワーグナー:管弦楽曲集(ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

さきごろ逝去したウォルフガング・サヴァリッシュは、優れたワーグナー指揮者であった。若いころ、当時最年少でバイロイト音楽祭に登場したことも有名だが、ミュンヘン・オペラの監督時代には「指輪」を含むすべての作品を上演しているという。そのサヴァリッシュが、フィラデルフィア管弦楽団時代に録音した珍しいCDがあることを発見し、さっそく購入した。

このCDには、いわゆる「管弦楽曲集」としてよく取り上げられる作品がほとんど含まれていない。その結果、多くの管弦楽曲集を持っているにもかかわらず「もう一枚」欲しいと思わせる戦略が功を奏している。そしてコレクションの隙間を埋めてくれる大変有り難い一枚である。

歌劇「恋愛禁制」はもはやほとんど演奏されることのないワーグナー最初期の作品だが、その賑やか極まりない序曲でこのCDは始まる。そして終わりは歌劇「リエンツィ」序曲で、こちらもフランス・グランド・オペラの影響丸出しの壮大な序曲である。いずれも若い作品で、元気溌剌、陽気である。ここでのサヴァリッシュは大人の響きで、大真面目に、あたかも晩年の作品のように演奏する。手を抜かない真摯な指揮ぶりは、ややぶっきらぼうだが、逆にサヴァリッシュの好感の持てるところである。

いや、サヴァリッシュの「リエンツィ」序曲を聞いていると、遠くの方で賑やかに鳴っている歌劇場の音の広がりと適度な残響が、ワーグナーらしい雰囲気を出していてなかなかいい。他の演奏、私が持っているレヴァインやマゼールの演奏も素晴らしいが、音の表情でサヴァリッシュはひとつ上を行く。

珍しい交響曲ホ長調は、未完成の単一楽章の曲で、完成された交響曲ハ長調とは別の曲である。だがこの曲はもしかするとハ長調よりもいい曲である。少なくとも私は好きだ。ここではもうひとつのワーグナーの側面、すなわちロマン派中期の曲調がすっきりと好ましい。

このような明るい曲の中で、異彩を放つのは「ヴェーゼンドンク歌曲集」(メゾ・ソプラノ独唱マリヤナ・リポヴシェク)である。楽劇「トリスタンとイゾルデ」の下書きを思わせるような独立した歌曲集は、ワーグナーのスイス亡命時代、ヴェーゼンドンク夫人との濃密な交際のあった頃に作曲されている。ピアノ用の原曲を管弦楽版に編曲したのはフェリックス・モットルであった(「春」のみ作曲者自身)。しかしサヴァリッシュはここで、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェによる1976年の室内管弦楽団用の編曲を採用している。

ヘンツェによる編曲により、オリジナルの曲よりも低いキーで歌われることになったらしく、他の作品に挟まれて少し変わったムードになる。それがいささかの違和感を禁じ得ないのは聞き手のせいだろうか。曲は5つで構成される。1.「天使」、2.「とまれ!」、3.「温室にて」、4.「痛み」、5.「夢」。個人的な感想で言えば、「天使」と「夢」が心に残る。解説書にサヴァリッシュ自身の文章が掲載されている。それによれば、「この編曲ではあまり使用されない楽器が使われ、30人程度の室内オーケストラ用としてより『私的』な雰囲気がもたらされている」という。そして「歌詞はリヒャルト・ワーグナーにのみ向けられ、音楽はマチルデ・ヴェーゼンドンクにのみ捧げられているように思える」と結んでいる。

サヴァリッシュはスター路線をひた走る指揮者とは一線を画し、極めて真面目で地味な活動を続けた。それは頑なでさえあって、時に他人からは冷たいとも思われたようだ。だが決して路線を踏み外したわけではなく、むしろ最後のドイツの巨匠として、多くのファンを得ていたように思う。このCDの企画はどのようになされたかを想像することは、少し楽しい。おそらくまだ録音していない曲にこだわって、そればかりを収録したのではないか。フィラデルフィア管弦楽団は、ここでワーグナーの残響を伴った響きに見事に変身している。


【収録曲】

1.歌劇「恋愛禁制」序曲
2.交響曲ホ短調
3.「ファウスト」序曲
4.ヴェーゼンドンク歌曲集(ヘンツェ編)
5.歌劇「リエンツィ」序曲

2013年4月13日土曜日

ワーグナー:パルジファル(The MET Live in HD 2012-2013..

ヴェルディと並ぶもう一人のオペラの巨人、ワーグナーの記念の年として、今年は多くのワーグナー作品が上演がされている。復活祭を目前にした聖金曜日は、キリスト受難の記念日として、パルジファルの上演が繰り返される。今年のメトロポリタン歌劇場は、このワーグナー最後の大作を、超豪華なメンバーで上演し大成功を収めた。

私は1995年の春、そのメトロポリタン歌劇場のあるニューヨークに住んでいた。その年のシーズンでも「パルジファル」は上演された。 4月に3回の公演があり、私の同僚が私に質問をしたのを覚えている。彼によれば、彼の友人がわざわざメトの「パルジファル」を観るために、日本から飛行機でやってくるというのである。「それがどうしたの」を聞き返す私に彼は、「オペラというのはそんなにまでして見たいものなのか?」と半信半疑で訊いて来るのだった。正直に告白すれば、私は当時「パルジファル」を知らなかったし、ワーグナーの楽劇どころかほとんどのオペラについて知識がなかった。それでもクラシックが好きだという私に、同僚はそのような質問をしわたけである。

私としては「よくわからない」などと正直に答えるのはクラシック通としての体面に関わることなので、「オペラとはそういうものなのよ」などといい加減に答えたが、その「パルジファル」はそれからも20年に亘って私にとって「秘曲」であった。ワーグナーがバイロイト以外での上演を禁じていたという「舞台神聖祝典劇」は、最近でこそ各地で上演されるようになったものの、その難解さもあり私にとっては取りつきにくい作品で在り続けた。そう、昨日映画館で観るまでは。

インターネットで当時のキャストを調べてみた。1995年4月22日の上演では、主題役パルジファルがプラシド・ドミンゴ、クンドリがギネス・ジョーンズ、グルネマンツにロバート・ロイド、クリングゾルにドナルド・マッキンタイアなどとなっている。同僚の友人はこのキャストを見て、ニューヨーク行きの飛行機を予約したことになる。指揮はもちろんジェームズ・レヴァインであった。

その「パルジファル」を私もとうとう知る機会が訪れた。といっても映画館での上演なので、本物というわけではないのだが、閉ざされた状態で字幕付きの映像を5時間以上にわたって観るという機会は、一生を通じてもそうあるものではない。私はもちろん会社を早退し、体調を整えて上演に臨んだ。前後左右に人のいない席を確保するのは勿論のこと、夕方5時に始まる長丁場を乗り切るため事前に軽い夕食を済ませ、ミネラル水とスナックなどを買い込み、売店ではワインも買って持ち込んだ。寒さ対策にセーターを用意し、ネクタイを外して席に深々と腰掛けた。

私は「パルジファル」を観るに際し、2つのことを守ることにした。まず眠くなっても我慢しないこと。そしてストーリーを追わないこと。睡魔との戦いはワーグナーの常だが、前日に睡眠導入剤を用いて十分眠っても、仕事後の当日の眠さにはかなわない。ワーグナーの楽劇においては、たとえ数十分の眠りであっても、場面がそう展開することはない。実際「パルジファル」の舞台は、いつまでたっても人が動かない予想通りのものだった。

ストーリーについては・・・ああ、なんという事か・・・それまでも何度予習しても頭に入らないではないか。登場人物も含め、誰がどういう人物か事前に頭に入れようとしても、他の作品のように入って来ないのである。それで私はあっさり諦めることにした。それよりは音楽に浸ればいい、ということである。だがその音楽も・・・私にはこれまでほとんど無縁であった。これは「指輪」とも異なる深刻な事態で、「指輪」では長い我慢のあとにあの有名な音楽が高らかに鳴り響くことが予めわかっている!私にとって「パルジファル」は、それとも無縁なのである!だが「パルジファル」を避けたままで一生を終えたくはない。そしてそのためにはやはり一度は通らなくてはならない関門が存在するのである。

イエス・キリストが十字架上で処刑された際に血を受けたという「聖杯」と、脇腹に刺された「聖槍」は、聖遺物としてヨーロッパ各地に伝えられている。聖杯をめぐる様々なキリスト教の儀式が、このオペラに登場する。

第1幕の約2時間に及ぶ老騎士グルネマンツによるモノローグ主体の音楽は、冒頭の前奏曲からどこか遠くの違う世界へと誘うようだった。しかし今回の演出はこの精神的な世界を、現代に設定している。その結果、黒いズボンに白いシャツを来た騎士たちが舞台一面に登場することになったが、何かサラリーマンの一団がいるかのような違和感がある。それはまあ仕方がないのだろう。演出のフランソワ・ジラールは、この世離れした内容の作品を、現代に上演する意味を問いかけているからだ。身近なものになろうとした舞台は、ほとんど動かない。それで私は瞬く間に睡魔に襲われた。

目が覚めたのは、自分の名前も知らない愚かな青年(パルジファル)が、白鳥を捕まえて登場するシーンである。母親はヘルツェライデという名前だが、息子には武器をあたえなかったという対話のシーンが私にはなぜか記憶に焼き付いている。

第1幕の終盤は、モンサルヴァート城での聖杯の儀式で、崇高な音楽が全体を覆う。城主アンフォルタスの負った傷が癒えない中で、結局グルネマンツは若者を追い出してしまうところで幕となる。このあたりの音楽はこの上なく美しく、私の心を洗うかのようだった。その幕切れでは拍手されないことが慣例となっている。だがメトの観客は幕が閉まるのを待たずに拍手をする人がいた。そのことが少し、気になった。

主役のパルジファルは今もっとも売れているヘルデン・テノール、ヨナス・カウフマンで、その歌と演技は最高であった。加えて長いモノローグを歌い切るグルネマンツのルネ・パーペ、さらには謎の女性クンドリ役のカタリーナ・ダライマンらは、まざにこの舞台のためにいるかのようなキャストである。そして指揮のダニエレ・ガッティ!彼はこの5年間、バイロイトを含め「パルジファル」を振り続けている。その音楽は、このメトのオーケストラから、かつてないほど精緻で強靭かつ叙情的な音色を引き出していた。あのルパージュ演出の「指輪」もガッティの指揮で見てみたいと思った。レヴァイン以来の見事な指揮は、すべて暗譜だそうである。

第2幕の乙女たちの誘惑のシーンは、ワーグナーらしい音楽の連続である。すこし下世話なストーリーがないとワーグナー的には物足りないなどと思っていたらこの話が登場し、私は何か嬉しくなった。魔法使いのクリングゾルはエフゲニー・ニキティンという歌手だったが、彼は手先のクンドリに若者を誘惑するように命じる。ところが自分の名前を悟ったパルジファルにクンドリが接吻すると、パルジファルは一気に人間の苦悩を理解する。クリングゾルと乙女たちがパルジファルを目がけて矢を放つが、それはパルジファルに当たることはない。この第2幕は赤い色に着色された水の上で行なわれ、乙女たちやクンドリ、それにパルジファルは徐々に濡れて赤く染まりながら歌う。その変化が印象的だ。

ワインを片手に見ていた舞台もいよいよ第3幕となった。だがここで私はかねてからのドライアイによる目の痛みにさいなまれることになった。字幕を読むために目を開けるが、読み終えると目を閉じる。そのようにして理解するストーリーも、さほど変化が急ではない。第1幕と同じ、まるで月面を思わせるような荒涼とした風景の真ん中には、一本の水路があって水がチョロチョロと流れている。ハイビジョンの映像は、そのようなところまでリアルに見せる。パルジファルの足や頭を水で清めるシーンなどは、映像としては印象的である。

舞台後方に設えられたスクリーン一面に、月から見た地球のような大きな丸い星が浮かび、空には雲が流れている。その幻想的な光景は一生忘れることができないほど美しかった。ペーター・マッティの演じるアンフォルタスと、再び登場したグルネマンツを始めとする騎士団が、最後の聖杯の儀式を執り行うと、聖槍によって傷は癒え、舞台は悠久の音楽ともに別次元の世界へと流れていく。音楽と空間の感覚が消え、静かに音程を下げながら消えていく崇高で厳粛な音楽を聞きながら、物音一つしない客席からは溜息さえも聞かれないくらいにスピリチュアルな雰囲気に包まれていった。

観客の熱狂的な拍手は何十分も続いただろうと思われる。聖金曜日の奇跡の夕方を、世界中で舞台を見入る私を含めた観客が、打たれたように過ごした。果てしなく続く感動の連続に、映画館で拍手をする人がいた。終わったのは夜の10時半を過ぎていた。春の風が、満足しきった観客の中を吹き抜けていった。

私は、自分がワーグナーの音楽に陶酔することはあっても、よもやハマることはないと思っていた。だが翌日、私はかねてから録音していたティーレマンのCDを朝の通勤電車で聞きたくなった。いつもとは違う朝のように感じられた。その瞬間、もしかしたら自分も感染してしまったのかも知れないと感じた。丁度、流感にかかったときのように、ほのかな感覚の変化が、私に芽生えつつあった。ワーグナー病の患者候補となったのかも、知れなかった。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...