2019年2月21日木曜日

西村朗:歌劇「紫苑物語」(2019年2月20日、新国立劇場)

世界初演の新国立劇場「紫苑物語」2回目の公演が終わったのは、午後九時半を過ぎていた。それでも、希望者には作曲家西村朗氏と指揮者大野和士氏によるサイン会が開かれた。私の番が回ってきて、何か一言言おうと思い、とっさに「私も大阪の出身です。それで興味がありました」と言ってしまった。すると作曲家は苦笑しながら「音楽は大阪、でしょう?」と言われた。そう、音楽は大阪。私もそう思う。いや大阪と言うところは、非常に即物的な考えをする一方で、多分に概念的、哲学的なところがある。このあたりは、ちょっと暮らしたくらいではわからないだろう。個人としての興味対象は、地域や国家をいきなり飛び越えて、世界に羽ばたく。そういう風土は、小さい時から知らず知らずのうちに個々人に染みついていく。大阪出身の芸術家や作家、あるいはスポーツ選手に至るまで、次は世界が舞台だと言う意識がある。あくまでも個人の才覚と実力を発揮する場としての「世界」。それを楽しむような自己の客体化。それも受けてなんぼ。「おもろいやないか」の精神。

私は昭和41年生まれだたら、西村朗とは一回り年齢が下である。現代音楽の作曲家であることは以前から知っていたが、どういう作風なのかについては、クラシック音楽を趣味とする私でもほとんど知っていることはなかった。正直に書こう。専門家でもなければ「西洋音楽」としての我が国の音楽に、そもそも興味を持つことが難しい。オペラともなるとなおのことで、團伊玖磨の「夕鶴」くらいしか見たことはなかったし、それ以外の作曲家となると、外山雄三の「ラプソディー」くらいしか聞いたことのない私が、なぜここに来て、新国立劇場が委譲した作品「紫苑物語」などという難解なオペラの世界初演に接しようとするか、まずそのことから書き始めなければならないだろう。

大野和士という、これも私の年齢の少し上の指揮者の、私はファンである。一昨年に聞いたハイドンの「天地創造」(都響)では、その身震いのするような柔らかの響きが会場を満たす様子に大いに感動したし、ベルギーやリヨンのオペラハウスでの活躍には、直接接した経験はなかったものの、興味を持っていた。その大野が、飯森泰次郎の後任として新国立劇場の芸術監督に就任した時には、私は心から喜び、その期待に大きく胸を膨らませた。彼がモネ劇場から買い取ったと言う、あのファンタジックな「魔笛」の舞台を私も1階S席で堪能した。その時には自らピアノを弾いて見どころを紹介するトークイベントにも出かけた。そして就任から半年、彼が満を持して取り上げ、自ら指揮をして初演をする「紫苑物語」こそ、今シーズンの新国立劇場での、もっとも意欲的なイヴェントであることには違いがなかった。

だがそれだけでは、1万円もの大金をはたいて、仕事を早々に切り上げ、病み上がりの体調を押してまで出かける理由にはならなかった。あえて言えば、私をこの作品に向かわせたのは、西村朗という作曲家への興味ということになると思う。それは私と同じ風土で育ち、同じ空気を吸ってきた人物が、よりによって西洋音楽の前衛を突き進むと言うことに対する、素朴な興味である。大阪と言う下町しかないような風土で、どういう風にそんな興味を仕事にまで昇華させたのか、ひとりの音楽愛好家でしかない私にも興味があった。

日曜日の夜と言うゴールデンアワーに、見たくなるテレビ番組がない。そのような私を辛うじて慰めてくれるのが「N響アワー」であった。他に見たいものがない一家団らんの時間に、「N響アワー」であればまあいいか、という消去法でテレビに向かわせて久しかった2010年代の真ん中に、何とこの番組は終了してしまった。これでいよいよ見る番組は消失し、NHKに受信料を支払う理由も消えてしまったのだが、その何十年も続いた消極的な長寿番組(なぜならこの番組では未だに「台本」があった)の最後の数年を担当したのが西村だった。もっとも彼は(今でも)FM放送で「現代の音楽」などという、よほど熱心なファンしか聞かないような番組のナヴィゲーターを務めている(それは放送時間を見れば明らかだろう。かつては日曜日の深夜や土曜日の早朝だったのだから)。

「N響アワー」で西村は、自らの高校生時代について語ったことがあり、そのことを私はよく覚えている。大阪市内の下町で育った若者は、ひたすら作曲に勤しみ、コンクールに作品を応募しては落選を繰り返していた、というのである。このたった1回、たまたま見ただけの彼の言葉から私は、同じ大阪に生まれ平凡な府立高校生だった自分を重ね合わせ、(私は音楽家にこそならなかったが、クラシック音楽しか聞かない変わった若者だった)、音楽にあまり縁のなかったような人間が、どういう風にして西洋音楽の作曲を志し、そして我が国を代表する音楽家になっていったのか、興味を覚えたのである。

コンサートに出かけるたびにもらう大量のチラシの中に、赤紫色の華麗な一枚を見ては、チケットをいつ買おうかと迷っていた。原作は石川淳の短編小説で、勿論読んだことはないし、それを台本化した、これも大阪で活躍する作家の佐々木幹郎についてもよく知らない。世界で活躍する笈田ヨシが演出する、と聞いても私にはピンと来ない。でもそれらの方々は、いずれも我が国を代表する芸術家たちで、その4人が議論に議論を重ねて構想を練り、ようやく実演にこぎつけたものと思われる(その様子は、会場で購入できる冊子に詳しく書かれており、大変興味深い)。勿論演奏は大野和士が音楽監督を務める東京都交響楽団。都響がオーケストラ・ピットに入るのは珍しい。日本語で歌われるが、文語調の台詞には重唱も多く、従って聞いただけではわからない。そのため、日本語と英語による字幕が付いていた。

以下、私は他のどのブログにもない独自の視点で、見たまま感じたままを書いていきたい。プログラム・ガイド以外の予備知識は一切ない。ひとりの未熟なリスナーの駄文であることをご承知いただきたい。

まず舞台に季節感はない。ただ第1幕は赤が基調、第2幕は青。これはそれぞれ暴力(血)と希望を表すのだと言う(演出家ノート)。けれども赤と言えば晩秋の頃か、青と言えば風雪の頃か、などとイメージしてしまう。前奏曲から第1幕へと長く続く音楽は、まず弦楽器によってのみ提示されるが、それだけでこの音楽への圧倒的な表現力に驚かされる。風が舞って落ち葉や雪が舞い上がり、それは流れて再び地面に吹き付け、あるいは揺蕩いながら、とどまらず、時に荒く、時に重い。そんなつむじ風の吹く殺風景な光景が、見事に音楽で表現されている。この感覚は日本人の心を刺激する。いつもヴェルディやワーグナーなどの古い音楽を聞いていると、音楽上の表現がこんなにも発展しているのかと驚く。私はそれでも、メシアンやベルクの作品を聞いたことは何度もあるし、一連のプログラムの最初に演奏されることの多い現代音楽のいくつかにも何度も接してきた。だが、これほどにまで惹きつけられたことはなかった。3階席の脇で聞いていたが、ピットから聞こえてくる音楽の、確信に満ちたエネルギーは、重心が不規則に移動しながら、不安定な風向き(それは主人公の若者の、荒れ狂う心象風景でもあろう)が変化する様子が、手に取るようにわかる。ゆらぎの中に帯びる翳り。ステレオ効果も抜群で、私を一気に舞台に引き寄せてゆく。その見事さ!

やがて舞台に勢ぞろいした合唱団からは、何とも意味のつかない呪文のような合唱が聞こえてくる。平安時代の衣装をまとっているのだろうか、そのあたりはよくわからない。時代設定自体はさほど重要ではない。日本人による日本語の歌であるにもかかわらず、視覚的には日本的ではない(それも意図されている)。新国立劇場のすばらしい照明装置を駆使した、都会的とさえ言える洗練された色彩感覚は、もしかするとこの作品が世界的な評価を受けるだろうことを予感させる。

やがて合唱団の中からうつろ姫(メゾ・ソプラノの清水華澄)が姿を現す。その存在感は圧倒的で、エレクトラを彷彿とさせるように舞台で声を張り上げている。主役の宗頼(バリトンの高田智宏)との婚礼のシーンが続く。圧倒的な新国立劇場合唱団と絡み合いながら、リズムも増していく。パーカッションも多用されたリズムは、ジャズのようなムードを醸しながら速度を速めるのは河内音頭のよう。西村の音楽は、私が初めて聞いた第1印象を記すなら、非常に明晰でクリアーだということだ。ピット右半分を埋め尽くす多くの打楽器や、妖艶なバスーンや尺八を思わせるフルートを始めとする木管楽器、トロンボーンやホルンの卑猥な金管楽器。オーケストラの表現力はこんなにも多彩だったのか、と私は改めて驚き、それを一切の曇りもなく表現する都響&大野の、今公演での技術的な素晴らしさに感嘆した。

舞台は宗頼と父(テノールの小山陽二郎)の重唱シーンとなっている。父がテノールで息子がバリトン。一般にテノールの方が世間に従順であり、バリトンにこそ心理的な葛藤が現れるのは、ヴェルディ以来のオペラの伝統か。ここでは二人の音域の違いによって、噛み合わない思いの違いを明確にする。勅撰歌の家系に生まれた宗頼は、歌の世界に嫌気がさし、父と決裂。勘当された宗頼は、弓術師で伯父の弓麻呂(バリトンの河野克典)のもとに出向く。このあたりから第1幕終盤までの展開も、常に舞台に釘付け。巨大な鏡が舞台の中央に左右から現れ、それが並ぶと指揮者とオーケストラ、客席が反射して見える。主観と客観の入れ替わり。3階席からも指揮者の姿が見えて、視覚的にも面白いが、字幕を追い、役者も観なければならず、油断している隙はない。

舞台に何度も現れる男女のまぐわいや、第2幕での「愛の二重唱」とでも言うべき性愛のシーンは、この物語のもう一つの側面を際立たせる。原作でもそうなのだろうけれど、うつろ姫(原作では醜女だそうだ)のあからさまな情欲や、それをものにする藤内(テノールの村上敏明。宗頼の部下であり、やがては宗頼の立場を乗っ取る)とのセクシャルな台詞と表現は、芸術家たる若者の彷徨とエネルギーの持つ暴力性が、弓で人や獣を射るという行為と表裏一体の関係にあることを想起させる。不協和音やトロンボーンなどの音楽が、このシーンに合うように演奏され、その感覚はエロチックでもある。コミカルで隠喩的な意味不明の佐々木の台詞が、自由であからさまな音楽的表現を可能にしたと、西村は座談会で語っている。

卑猥でありながら雅な歌詞。音楽も舞台も表現はストレートで、しかも確信的である。さらには第1幕でケチャ(インドネシアの伝統音楽)、第2幕でホーミー(モンゴルの歌唱法)などが駆使されている音楽は、西村がアジア的なるものの音楽を取り混ぜていく真骨頂である。私がここに大阪的なるものを見出してしまうのは、筋違いだろうか。そういえばモンゴル語を専攻し、世界的な広がりを持ちつつ、独自のユニークな日本論を展開した司馬遼太郎も、東大阪の出身だった。

アジアの東の端に位置する我が国で、多くの大陸文化が流れ込んだが、その行き着いた先が近畿地方であった。長らく都として栄えた京都や奈良に近い大阪は、また、近世においても諸外国の文化を消化し、その盛隆は安土・桃山時代を頂点としているように思う。西洋と東洋が入り混じり、さらに奈良時代からの伝統文化も混ざる混沌としたごちゃ混ぜは、近代化以降に西洋化する日本文化の先駆けとも言える。私が大阪に感じる無国籍性と多様性、その中にある独自の個性は、大阪のユニヴァーサルな文化の原点がそこにあるからだと思う。そして西村の音楽もまた、西洋の流れを組みながら独自のアジア的発展を見せる。私が同郷の作曲家に抱いた興味の本質は、どうやらこのあたりにあると思う(作曲家の音楽の変遷についても、プログラムガイドに詳しい)。

第2幕で登場する宗頼の愛人、千草(ソプラノの臼木あい。長大なコロラトゥーラのアリアがある)と、宗頼の分身ともいうべき存在の仏師、平太(この日はバリトンの松平敬、宗頼と声が酷似しているという見事なキャスティング)も加わった4重唱とその前後の音楽は、鳥肌が立つほどだった。我が国のオペラで、4人がそれぞれ別々の歌詞を歌う重唱(ヴェルディのオペラではよく見かけるが)は、初めてだそうである(NHKの番組で大野和士が「革命が起こる」と言っていた)。2階になった、丸でモーテルのような建物の左右に分かれて、4人の歌手が心情を吐露する本作品のクライマックスは、後日テレビ放映されたらもう一度見てみたいと思う。全般に歌唱と歌唱が重なり合う部分が多く、歌手は大変だったと思うが、この日の出演者に欠点や難点は見ることができない。声は良く出て張りがあり、それがオーケストラと混じっても存在感を失わない。

弓で人や獣を射て殺戮を繰り返す宗頼は、やがて仏彫りの彫った仏像にまで弓を引く。世界が壊れ、最後にはお経を唱える合唱が響く中、「鬼の歌」が静かに、消え入るように舞台に響き渡った。だが「パルジファル」のようにファンタジックでもなければ形而上的でもない。むしろ即物的で、多義性をはらんだ台本と音楽。それにしてもなぜ「紫苑物語」なのだろうか。それはプログラム冊子で評論家の長木誠司氏が明確に語っている。新しい委譲作品を、日本語と音楽の関係、物語と音楽の関係を発展させつつ、西洋のオペラ史の中にも位置付けられる作品として実現させたかったから、ということだ。素人の音楽好きには、そのような部分にまで深く理解することはできない。けれども本作品を楽しんだ私は、これが世界でも通用するようなものとなっているような直感がある。もちろん、これだけの大歌手と指揮者、それにおそらくは物凄い時間の練習を繰り返したであろう合唱団とオーケストラの熱演が揃ってのことだろうが。

いずれにせよ、大きな芸術的野心を持った作品、そして公演だったと思う。にもかかわらず、視覚的、聴覚的に楽しめる作品でもあった。日本人ならその言葉の微妙な感覚を理解し楽しめるし、日本人でなくても、その魅惑的な世界と音楽・舞台の両面での表現の多彩さで十分である。原作の持つ一見難解な主題も、若者の持つ破壊性が芸術と結びつくことの暴力とその結末、という普遍的な意味を暗示している、と考えればむしろわかりやすい。戦争への危機が叫ばれている今の世界にあって、石川淳がアナーキーとでも言えるほどの凝縮されたエネルギーを注いだ作品。それをまた莫大なエネルギーで表現した音楽と舞台。数多くの作曲家が二十世紀以降に表現してきた芸術音楽のその先に、まだ表現することの可能性が残っているのだということを示したように思う。それに触れることのできた都合4回の本公演の聴衆もまた、その舞台と対峙して何かを感じる機会を得たと言う意味において、大変幸せだと思う。まさにそのことが芸術作品を味わう意味に他ならない。私もその一人として、個人的な興味、関心も含めて、そのように思う。

2019年2月17日日曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(The MET Live in HD 2018-2019)

暗い舞台の真ん中にベッドが置かれている。前奏曲の冒頭から、そこにはヴィオレッタが横たわっていて、肺病に苦しんでいる。これから起こる出来事は、すべてが回想である。前奏曲が終わると一転、華やかな舞台に登場するパーティの参加者たち。色とりどりの衣装を着た人たちが、グラスを片手に歌いだす。

ミュージカルで有名な演出家がオペラを手掛けることが、ここ数年のMETの潮流になりつつある。その賛否はともかく、トニー賞を受賞した気鋭の演出家、マイケル・メイヤーのカラフルで豪華な舞台は、多くの聴衆がこの作品に抱くパリの豪邸とそこに集う人々のイメージをそのまま再現している。若干、アメリカ的趣味ではあるとしても。

私はこの舞台を見て、あの名作、フランコ・ゼッフィレッリの映画を思い出した。その冒頭のシーン、どんよりと曇ったノートルダム寺院の無音部分が終わると、一人の少年が美しい女性の肖像画に見とれるシーンから始まるのだ。テレサ・ストラータスの演じるヴィオレッタは、咳込みながら迷宮に迷い込む。聞こえてくる歓声に戸惑いながらも吸い寄せられ、一気に社交界の花形の舞台に躍り出る。困惑する間もなく、あれよあれよといううちに現れるアルフレード、そして二重唱。すべてが夢の中で繰り広げられる魅惑の日々。私がオペラと言うものを初めて経験し、そしてノックアウトされたその映画については、かつて何度か触れた。

METのライブ・シリーズとしては何度目かだが、新演出にしてヤニック・ネゼ=セガンを芸術監督に迎えてのデビュー作品となる「椿姫」にヴィオレッタ役として起用されたディアナ・ダムラウは、幕間のインタービューで何とこの映画について触れている。彼女もまた若干12歳だったかの頃、オペラを初めて体験したのがこの映画だったというのだ。彼女がその後、世界的ソプラノ歌手に登りつめるきっかけと成った作品が、私も大阪・梅田の小さな映画館で、ある雨の降る日に見たのと同じ作品だった、というわけだ。虚無と焦燥に満ちた日々。そこに出現した「トラヴィアータ」という作品。この映画が私に与えたインパクトは強く、以降、私が「椿姫」を見るたびにどうしても頭から離れられない作品なのである。

このインタービューによって、俄然私の今日の作品を見る目が変わった。それまで何となく締まりのないものに感じていた今回の公演が、目に見えて良く思えて来たのだった。ダムラウのヴィオレッタは、演技と歌ががっぷりに組んだ見事なものだったが、特に第3幕での演技は圧巻である。もうほとんどの歌が空で歌えるくらいに聞いてきたと言うのに、どうして何度見ても見入ってしまうのだろうか。誰がどう演じたとしても、ここの第3幕、すなわち前奏曲とアリア「過ぎ去りし日々」そして「パリを離れて」は、あらゆるヴェルディ、いやオペラ作品の中でも右に出るものはない、とさえ思う。自らの肖像画の入ったペンダントを渡し、「清らかな乙女が 貴方に心を捧げたとしたら、 その人にこの絵姿を渡してください」と伝えるシーンを、涙なくして見ることはできようか。

全体にカラフルな新鮮味はあったものの、聞きなれた「椿姫」の総合的な印象というものを覆すことには重点は置かれず、むしろイメージ通りの進行に合わせる今風の保守性を感じる結果となった。そのことで私を少々がっかりさせたが、ダムラウを始めとする出演陣は、フレーズの中から、それまで意識されていない部分を探し出し、スポットライトをてようと努力していたように思う。そのことが成功したかどうかは、わかりにくい。ただ、ダムラウの歌のフレーズの一つ一つが、そういったこだわりのある新鮮味を持とうとしていたことは感じられた。

いやむしろ驚いたのは、クイン・ケルシー演じるジェルモンである。彼ほどヴェルディを感じさせる歌唱をジェルモンに与えたことはない。特に「プロヴァンスの海と陸」を歌った頃からだったと思う。この有名なアリアが、これほど見事なヴェルディ・バリトンによって歌われたことはない。その容姿を、もっと威厳のある父親風に仕立てれば、完璧だった。これは衣装の担当であるが。もしかすると、今宵もっとも成功していた歌手は、ケルシーだったかも知れない。

ヴィオレッタとアルフレードが別々にパリに舞い戻り、フローラの館で催される舞踏会が始まるシーンは、私がもっとも好きな部分だ。次々と現れるバレエ・ダンサー、そして賭けのシーン。心臓が高鳴り、緊迫感を出すこのシーンは、手に汗を握るほどである。そして私はまた、ゼッフィレッリの映画を思い出し、涙さえも禁じ得ないのだ。

今回の演出では、久しぶりにちゃんとバレエが楽しめた。しかしネゼ=セガンの指揮は、なんとなくぎこちなく、丁寧でしっかりとはしていたが、あのヴェルディの迫力を感じることはなかった。この指揮者は、もっと流麗で小気味いいテンポの演奏をするものと思っていたが、そのあたり少し意外である。

アルフレードを歌ったペルーのテノール、フアン・ディエゴ・フローレスは、ベルカント・オペラの第1人者ではああるが、そのやや能天気なまでの白痴性が、アルフレードの直情径行でプライドの高い人物像とあまり相性がいいとは言えない、と思った。歌としては完全だが、存在感がないのだ。彼はやはりドニゼッティやロッシーニにおいて真価を発揮すると思う。だが、このオペラの主役は、一にも二にもヴィオレッタである。そのことを考えれば、フローレスのアルフレードもまあ許容範囲ではある。

総じて及第点の舞台も、終わってみればそれなりに見どころは多く、楽しめたことは違いない。だけど、あのヴェルディのゾクゾクするようなリズムとメロディーがやや後退し、変わって万人受けする舞台と予定調和的な演出が、どことなくネット文化主流の今風の時代迎合的に見えてしまうのは残念である。世界的に、こんな風な舞台が主流になってゆくのだろうか。

2019年2月15日金曜日

NHK交響楽団第1906回定期公演(2019年2月10日、NHKホール)

珍しいリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲の冒頭が3階席の奥まで響いてきたとき、私はぞくぞくとした感覚に見舞われた。ソロのヴァイオリンがこんなにも豊穣な響きを聞かせることは、そう多くはない。カザフスタン生まれの若手女流ヴァイオリニスト、アリョーナ・バーエワはN響との初共演だそうである。彼女は野太い音色を豊穣に響かせながら、体を大きく揺する。

それにしてもリヒャルト・シュトラウスがヴァイオリン協奏曲を作曲していたことを、私は恥ずかしながら知らなかった。シュトラウスの作品はどれも有名で、しかもいずれの曲も名曲だから、演奏されている曲がすべてだと思っていたのである。ヴァイオリン協奏曲と言えば、古今東西の作曲家が手掛けているから、何もシュトラウスのものを聞く必要はないということだろうか。だが今回、バーエワの演奏で聞いたこの曲を初めて聞いて、何かとてもいい作品に触れた気がした。

この30分ほどの曲の半分を占めるのが、第1楽章である。全体に ブラームスやメンデルスゾーンを思わせるドイツ風のロマンチックなメロディーが鳴っている。特に親しみやすいと言うわけでもなく、印象的なフレーズがあるわけでもないのだが、安心して身を委ねることができる作品である。音楽的な見通しの良さというのが感じられ、大作曲家17歳にしての作品は、それだけでバックグラウンド・ミュージックのようでもあり、もっと演奏されても良いのではないかと思われた。

第2楽章のレントも印象的だが、第3楽章になって軽やかな響きになる。ヴァイオリンの特性を良く生かしていると思う。私は第2楽章の途中で少し眠くなりかけたが、どういうわけかやはり第2楽章の途中でハッと目が覚め、そのあとは第3楽章の最後まで、一気に集中して聞けたような気がする。

大きな拍手に何度も応える彼女は、それだけで全力投球だったのか、アンコールはなかった。それにしてもN響の響きといいヴァイオリンといい、今日の演奏会では音が良く聞えてくる。3階席自由席の常連である私でも、その後半分の席に座るのは、もしかするとこれが初めてである。しかし今日のNHKホールは、こんな珍しい作品であるのも関わらず、結構な客の入りである。シュトラウスのヴァイオリン協奏曲は、真冬の寒い午後のひとときを、少し暖かくしてくれた。

プログラムの後半がハンス・ロットの交響曲第1番という作品だから、今日のプログラムはすこぶる玄人好みであると言える。ロットの作品を実演で聞けると言うのは、これまた大変貴重なことだ。わずか26歳でこの世を去ったウィーンの若き作曲家は、丁度ブルックナーとマーラーの間に位置し、その重なる作風が奇妙な魅力でもある。いやマーラーはロットの影響を受けた。コンクールに敗れ、精神異常を来して失意のうちに亡くなったこの音楽家がもう少し長生きしていたら、音楽史はまた変わっていたのではないか、とさえ思えてくる。

今日のコンサートのテーマは、世紀末のウィーンで活躍した作曲家の若い頃の作品ということになる。もっともロットは、この作品以外に知られているものはない。交響曲第1番でさえも、その録音は極めて少ない。ヤルヴィは、その中の数少ない指揮者のひとりで、この作品をすでに何度も演奏している。だからN響との定期でも、というわけである。

これまで何度か録音では聞いているが、改めてその第1楽章の重厚で壮大な作品に、ちょっとした戸惑いをも覚えてしまう。 冒頭で高らかにトランペットがファンファーレを奏でるとき、この作品に対する若き作曲家の意気込みのようなものを感じる。やがて静かに、歌うようにクレッシェンドしていく様や、その後に訪れる休止など、ブルックナーの音楽そのものだと思う。とても親しみやすく、そしてまるでアルプスの夜明けのような音楽である。

第2楽章のアダージョは、演奏によっては静かな曲だが、ヤルヴィの演奏は何か全体的にとても賑やかであった。第3楽章に至っては、これはマーラー節全開である。そうだ、この曲の魅力は、わずか1時間の間に、ブルックナーとマーラーが交錯する時間を体験できることである。全体の半分近くを占める終楽章の、長い長いコーダを聞いているとウォルトンのような作曲家を思い浮かべることもあるし、延々と鳴るトライアングルを目で追っていたりする。ヤルヴィはコントラバスを左奥に配し、中間部を奏でるチェロとヴィオラを浮き立たせる。ヤルヴィでブルックナーを聞いた時に感じる同じような印象を、思わずにはいられない。もう少し強弱と緩急をつけた落ち着いた演奏でも良かったと思っている。

今年の冬は暖冬と言われたが、ここへ来て凍てつくような寒い日が続いている。私もとうとうインフルエンザを罹患してしまった。 コンサートの間中もマフラーとコートを着込み、静かに座って音楽に耳を傾けていた。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...