2012年4月30日月曜日

N響の思い出⑤

アシュケナージの時代が来て私はN響のコンサートからはしばらく遠ざかっていた。2004年の秋になって、3年ぶりに定期演奏会に行くことを決意し、「ミスターS」ことスクロヴァチェフスキーの「英雄」を聞くため、3年ぶりにNHKホールへと足を運んだ。

12月にはデュトワによる定期演奏会が開催されたが、この日の聞き物はチャイコフスキー・コンクールで一位となった上原彩子の凱旋公演であった。最後の演目に置かれたピアノ協奏曲第1番は、久しぶりにこの曲をたっぷりとした伴奏で聞いたという思いがした。もちろんピアノの堂に入った演奏こそ満場の拍手をさらったことは言うまでもない。

その後、2005年にはN響の演奏会には出かけることはなく、2006年もわずかに一回のみであった。その一回は、すでにお馴染みとなったスクロヴァチェフスキーのブルックナーで、交響曲第8番を聞いた。私はN響のブルックナーとは相性が良かったので大いに期待したが、この曲は難しいからかなかなか期待通りの演奏にならない。スクロヴァチェフスキーも読売日本交響楽団との演奏のほうが、相性がいいような気がした。

再び空白期間が続く。2006年から2009年までの3年間は何とN響の定期演奏会がゼロなのである。いろいろ忙しかったということもあるが、他のコンサートには時々出かけていたので、単にN響から遠ざかっていたとうことに、結果的にはなる。そして2010年の秋になって、久方振りにN響のコンサートに出掛けた理由は、プレヴィンの登場に尽きる。

ガーシュインのピアノ協奏曲の弾き振りというコンサートに、私は我慢ができなかった。そして年末の第9。この年の指揮者はヘルムート・リリンクであったが、その第3楽章の美しさと、第4楽章の合唱の素晴らしさは、この年中行事と化した演奏を一段高いところにもたらしたように感じた。今年はノリントンということで今から期待している。

2011年になってプレヴィンの再登場となり、私が出掛けたのはメシアンのトゥーランガリラ交響曲。初めて聞く大規模な不協和音の連続を、楽譜も見ないで指揮した老齢の指揮者に心からの拍手を送った。そして2012年になってノリントンの2つの定期に出掛けたのは、前に書いたとおりである。

このように振り返ってみると、最近は指揮者とプログラムでかなり絞って出かけていると言えそうだ。忙しいということもあるが、かつてどんな演奏会でもますは出かけていたという時代とは違って、N響との相性やプログラムの珍しさを優先している。サントリー・ホールの定期は席が取れないので、本来なら聞きたい演奏会は他にもある。時間があればもっと行きたいとも思う。N響は、最近世代交代が進んで、一昔前とは随分違った上手さを持つようになった。だからこれからも、折に触れて聞いて行きたいと思いを新たにしている。

2012年4月29日日曜日

N響の思い出④

1996年に帰国した私は再び東京で暮らし始めた。またN響の演奏会を聞くことができるようになったわけだが、彼の地で非常に多くの演奏会を聞いた私にとって、少し食傷気味であったというのが正直なところだろう。そういうわけで、次のN響定期にでかけたのは、1997-1998シーズンの開幕を告げる第1328回定期演奏会ということになり、指揮者はあのスヴェトラーノフだった。チャイコフスキーの交響曲第5番を指揮した演奏は、この大時代的で広い大地を思わせるロシアの巨匠の聞き納めとなった。この時の感動的な演奏会は先月末に放映された「N響アワー」最終回のトリを務めた迫力ある名演奏として語り草になっている。

その次が11月の定期演奏会で、サヴァリッシュがシューベルトの「グレート」交響曲を指揮したものだ。長いこの曲の魅力に初めて触れたような気がした。実に大変な名演だったと思う。このように、立て続けに名演奏が続き、私も嬉しくなった。N響の実力が向上しているようにも思われた。音楽監督がデュトワになって、オーケストラの舞台上の位置が随分と前に出てきた。その効果もあったと思う。

翌1998年5月には、忘れえぬアンドレ・プレヴィンのモーツァルトと、6月にはハインツ・ワルベルクによるドヴォルジャークやベートーヴェンの演奏に心を打たれた。どちらの指揮者もN響との相性が非常に良いと感じた。ただどちらも高齢であと何回指揮台に立ってくれるだろうかと思ったが、ワルベルクは2004年に亡くなってしまった。一方のプレヴィンは、N響の音楽監督になるほどの活躍となり、今でも毎年来日が続いている。

高齢の指揮者で思い出深いのは、1999年のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキーもその一人で、2月の定期にオールソンをソリストに迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番で好印象を残した。その後、日本のオーケストラとの数々の名演奏に私も触れることになる。一方、ホルスト・シュタインは来日が予定されながら果たされなかったのもこの年だが、年末にはデュトワによるシベリウスの交響曲第1番の名演奏が思い出深い。この演奏は、N響との相性がいいだけでなく、そのまま録音してもいいのではないかとさえ思ったほどだったが、世間の評判はよくわからない。

2000年以降に関係の深くなるウラディミール・アシュケナージはいくつかのコンサートを聴いているが、思い出に残るものはあまりない。それに対して2001年に出掛けた3つのコンサートはどれも特徴的で思い出に残る。

ひとつはブロムシュテットによるブルックナーのミサ曲。滅多に聞かないこのような曲も、この敬虔なクリスチャンによる演奏は、大変な美しさだった。あと2つはN響創立75周年を祝っての特別な演奏会で、デュトワによるオルフの「カルミナ・ブラーナ」と、サヴァリッシュの十八番であるメンデルスゾーンの「エリア」である。後者はサントリー・ホールでの演奏で、私にはこのホールで聞くN響は初めてだったが、より近くでメンデルスゾーンの大作を心いくまで味わった。


2012年4月28日土曜日

N響の思い出③

1992年の春に就職とともに上京した私は、まだ試用期間だったというのに上司の目を盗んでオフィスを抜け出し、あこがれのNHKホールへと急いだ。新宿のオフィスからは程近い距離だったが、5時半の退社時刻から1時間30分後にはコンサートが始まった。指揮者はうるふ・しるまーガブリエル・フムラという人で、曲目はまだ聞いたことがなかったブルックナーの交響曲第6番だった。

馴れない会社勤めの疲れが頂点に達していたゴールデン・ウィーク明けの5月14日と日記には書いてある。私は演奏が始まると間もなく睡魔に襲われ、当時たった1000円だった三階席には客もまばらで私はかなり深く眠ったように思う。気がつくと第2楽章が終わろうとしていた。長い休止のあとで第3楽章が始まり、そしてそれは私のとって経験したことのない陶酔の時間へと変わっていった。この時の経験はいまでも不思議なくらいだ。それから終演までの数十分は、私にとってはじめてのブルックナー体験とでも言うべきものだった。

演奏が終わると深い感動に身が包まれた。しかしこのときの演奏が名演だったかどうかはよくわからない。客席からは疲れきったような盛り上がらない拍手が起こっていた。だが私に取ってこの時の演奏は、N響の思い出の中でもベストなもののひとつである。いずれこのときの演奏が素晴らしかったと言い出す人がいないか、心待ちにしている。

ブルックナーの名演奏は、あとひとつあってピンカス・スタインバーグによる第4番「ロマンチック」である。これは1994年9月14日で、アンドレ・ワッツを迎えてのメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番も聴いている。ここでの「ロマンチック」は、やはりシルマーとの第6番と同様の、ブルックナーの音楽に触れてたまに体験する大感動ものだったのだが、そこにいたすべての人がそうであったかどうかはわからない。

スタイバーグは、1992年の秋にも来日してスメタナの「わが祖国」やホルストの「惑星」などを指揮して私も大変に感動した。N響との相性はなかなかいいと思ったのだが、最近あまり指揮をしないのが不思議である。

ヘルベルト・ブロムシュテットは、N響の名誉指揮者のひとりだが、私にとってはシベリウスの名演が印象に残る。1992年10月31日で、交響曲第7番だった。

この他ではエフゲニー・スヴェトラーノフとの相性が良かった。それでこのコンビで1993年1月の定期演奏会には2回も出掛けた。最初がチャイコフスキーの交響曲第4番で、戦車のような演奏。続いてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番とカリンイコフの交響曲第1番を組み合わせた演奏会は、このコンビが残した白眉の一つと思う。ピアノ独奏はその後亡くなったシューラ・チェルカスキーであった。

シャルル・デュトワはこの頃から定期演奏会によく出演し、中でも記憶に鮮明なのは1994年6月の定期。サラ・チャンとのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に続いてショスタコーヴィッチの交響曲第4番が演奏された。この長い曲を見事に弾ききったN響の、演奏後のほっとした表情が忘れられない。客席は3階まで空席がないほどの盛況で、よく知っているなあと感心したのを思い出す。

1995年1月に阪神大震災が起こり、その混乱が続いていた頃、小澤征爾が何十年ぶりかにN響の指揮台に復帰して、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチを独奏に迎えてのドヴォルジャークのチェロ協奏曲などを指揮した。これは奇しくも追悼コンサートのようなものになったのは、運命の名せる技だろう。今はなき20世紀最大のチェリストは、満身の思いを込めて生きることへの思いを演奏に込めた。この時の特別な演奏会はテレビでも中継されたが、涙が出るほどの名演奏だった。

2012年4月27日金曜日

N響の思い出②

まだ大阪で過ごしていた学生時代、私にとってテレビで見るオーケストラは楽しみのひとつだった。丁度「N響アワー」が始まったのが1980年だから、中学生だった私が最初に見たN響の番組は、やはりこの番組だったと思う。その中で、何度もさかんに放映されたのは、何と言っても次の指揮者たちである。ウォルフガング・サヴァリッシュ、オトマール・スイトナー、そしてホルスト・シュタイン。

サヴァリッシュの名演奏は、テレビで見たベートーヴェンの交響曲第4番と第8番。N響の響きがいつもと違うと思った最初の瞬間である。モノラルの番組でもそれは感じられた。当時サヴァリッシュはまだ若かったが、その演奏スタイルはより若い時から老齢になるまで基本的に変わっていない。

スイトナーは東独の出身で、ドイツ統一後はほとんど指揮台に立たなくなった少し可哀想な指揮者だったが、シュターツカペレ・ベルリンを指揮したベートーヴェン全集などは大変評判が良く、N響とはベートーヴェンの第9の名演奏の印象が強い。またスイトナーにはN響を指揮して録音したモーツァルトのレコードがあり、これがまた何ともすっきりとした名演奏であった(ドイツ・シャルプラッテンから出ていた)。

シュタインは、バイロイトで大活躍したスイスの指揮者だが、その独特の風貌で私の興味を引きつけた。年末に聞いた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(バイロイト音楽祭の録音)などは手に汗を握るものだったが、N響との演奏でもワーグナーがよく取り上げられたと思う。ウェーバーなども入れたN響とのレコードもあった。

さらにもうひとり、忘れてはならない指揮者が、ルーマニアの大指揮者ロブロ・フォン・マタチッチだが、私はこの指揮者の名演奏をさほど知らない。いつも紹介されるブルックナーも、実演を聞いていればさぞ素晴らしかっただろうと思う。

これ以外の指揮者はあまり思い浮かばない。今から思えば、ギュンター・ヴァントやフェルディナント・ライトナー、それに岩城宏之なども名演奏を残している。N響アワーや数々の番組で取り上げられ、そのたんびになかなかいいなと思う。

私のN響の実演での初体験は、1989年の第5215回目のコンサートで、場所は神戸文化会館。指揮者は秋山和義、ピアノ独奏は野島稔。ドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、それにムソルグスキーの「展覧会の絵」であった。N響の地方公演というやつで、東京での公演と違い、何とも大受けする曲目が並ぶ。

それでもう少し本格的な演奏も聞きたいと思った。丁度、大阪にいずみホールという中規模のホールが出来て、大変音色がいいとの触れ込みだった。その開館記念にN響が招聘され、モーツァルトの三大交響曲が演奏された。指揮はウォルフガング・サヴァリッシュだった。この時の集中力を保った素晴らしい演奏は、私の心のなかで鳴り続けていた。上京して定期演奏会に通っていた頃、プログラムとして配られた雑誌「フィルハーモニー」にサヴァリッシュのインタビュー記事が掲載された。その中でサヴァリッシュはN響との思い出に残る演奏として、この時のモーツァルトを挙げていたのを発見し、嬉しくなった。指揮者自身、上出来だったということだろう。私もそのように感じたので、このときの演奏を今でも懐かしく思い出す。

2012年4月26日木曜日

N響の思い出①

久しぶりにN響の定期演奏会に出かけ、N響アワーの終了について書いたので、ついでにこれまでの演奏の思い出について私なりに書いておきたいと思う。

私がN響の定期演奏会にでかけるようになったのは、丁度20年前の上京時で、社会人としてスタートを切った25歳の時であった(平成4年)。当時は独身で、お金はなかったが時間は割りにあったので、あこがれの定期会員とやらにさっそくなって、最低でも月1回はNHKホールにでかけた。私はこのときはじめて、実演で聞く数々の演奏から、思いがけない名演奏や名曲に触れたり、その時の指揮者やちょっとした調子で、音色に変化が生じたり、たとえようもない名演奏になったりするオーケストラの面白さを身をもって体験した。

その頃を境に私のクラシック音楽の鑑賞スタイルにも変化が生じたように思う。欧米の有名処のオーケストラを高額なチケットを求めて聞く演奏も良いが、身近に生の音楽がある生活、その中から自分なりの音楽を聞く楽しみを見出すスタイルが、確立されていったように思うのだ。

N響との関わりは、この時から深くなり、200回を超える演奏会の経験のうち、N響との定期演奏会等の回数がおそらくもっとも多いだろうと思う。また公共放送の専属オーケストラであることもあり、その演奏はかねてからテレビやラジオで聞くところであった。大阪に住んでいた学生時代にも、私は名演と言われる演奏の数々をブラウン管を通して体験している。それらを含めると、私とNHK交響楽団との関わりは、以下の4段階に分けられる。

(1)中学生時代上京するまでのテレビ時代(1979-1991)
(2)上京後、米国滞在までの定期会員期間(1992-1995)
(3)帰国後から2001年頃まで(1997-2001)
(4)その後の期間(2003-)

なぜ2001年が区切りになるかについては、難しい問題だが、ここは公私ともに区切りがつくからである。N響に関しては75周年記念という区切りの年で、そしていわゆる「デュトワ時代」の終わりでもあった。その前と後ではメンバーも大きく入れ替わり、N響の演奏もかなり違ったものに思えるのが理由だ。サントリー・ホールでの定期演奏会もこの頃始まったように思う。

それぞれの期間でそれぞれの指揮者による名演奏が思い出されるし、そのいくつかは「N響アワー」の最終回シリーズでも紹介があった。だが私の経験からすると、テレビで紹介されない名演奏も数多いし、紹介されたからといってその演奏会に行ったとは限らない。だからどの演奏がよかったか、などというのはどう頑張っても個人的なものになるしかないのである。

2012年4月25日水曜日

N響アワーの最終回

3月でN響アワーが最終回を迎えたことにより、私にとって現在のテレビ放送は、まったく魅力のたいものになってしまった。N響アワー程度の番組もなくなったので、もうあまりテレビを見ることはないと思われる。

これまで小さい頃から見続けてきた番組は2つだった。ひとつは「アタック25」であり、もうひとつは「N響アワー」。いずれも見なくてもどうということのない番組だが、ほかに見たい番組があるわけでないので、仕方なくつけていた番組である。しかしそれがとうとうなくなった。日曜日の夜9時に、他にみたい番組はない。そしてN響アワーくらいは、そういう私でも辛うじて楽しめる番組だった。だがもうそういう時間はない、ということである。

後続の番組はやはりクラシック音楽の番組だが、1時間の枠に司会者とアシスタントの女性が司会をするという同じスタイルなら、なぜN響アワーのままでいけないのか不思議である。ベルリン・フィルや世界の音楽界の話題もそれなりに面白いがそういうものは他にやればいい。そして演奏会をちゃんと放送するのは「芸術劇場」と相場が決まっていたはずだ(この番組もいつのまにかなくなった)。

N響の演奏会が我が国の音楽界の先端だとは思わないが、せめてN響の音楽くらい定期的に放送されることがあってもいいと思うし、ごく最近までは台本を見ながら司会をするという、今では珍しいトークにも新鮮さがあった。どだい時代遅れの古風な番組がひとつくらいのこっていてもいいし、西村朗の司会は特に好ましかった。そもそもこの時期に番組を終わる理由が理解できない。

というわけで、私は大変に残念で、かつてFM放送でクラシック番組が大幅になくなっていった時期と同じ気分である。最近ではお正月でさえもクラシック番組が減った。そういうわけだから、もうインターネットでドイツやアメリカのクラシック専門ラジオを聞くことに何の違和感もないし、ベルリン・フィルの定期だってオンラインで見られる時代である。

N響アワーの最終回をもって、もはやクラシック音楽が日本のテレビの定期的な番組となっていた時代は象徴的に終わったと思う。N響アワーが敬遠された理由をひとつあげるとするなら、それはN響のリスナーが首都圏中心になりすぎていたからだろうと思う。番組の内容に共感で来るのは、定期演奏会に通う人くらいだ。だがこれはN響の問題である。

N響アワーが終わる理由が理解できないのは、それに代わる番組が全くもって楽しくないからだ。これは他の長寿番組にも言える。そういうわけで私は昨年からほとんどテレビをみなくなった。そしてとうとうN響アワーの終焉を持って、クラシック番組をテレビで見ることもほとんどなくなった。

2012年4月24日火曜日

NHK交響楽団第1725回定期演奏会(2012年4月20日 NHKホール)

ノリントン指揮のN響公演があまりにも良かったので、私は次のCプログラムにも出掛けた。金曜日の夕刻、会社をあとにして原宿駅に降り立つ。少し肌寒いが、雨は降っていなかったので、少し時間があるため代々木公園を散策した。この公園は何度も近くを通っているが、中を歩いたことはほとんどない。iPodに入れた音楽(もちろんベートーヴェン)を聞きながら、噴水前のベンチでしばしたたずむ。都市公園の心地よさと都会の喧騒を離れてまわりは木々しか見えない広さで、大変リラックスした。思えばここ数日の仕事は、毎日がトラブル続きで私はほとんど緊張を強いられていた。

橋を渡ってNHKホールへ向かい、自由席を購入して3階へ上がるが、前回と異なって客席がかなり空いている。今日のプログラムはベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第2番と交響曲第4番、それにティペットの交響曲第1番という組合せである。今年になって2度目、通算223回目のコンサートである。ノリントンは3回目。テレビ録画あるのかカメラの設置も行なわれている。時間があったので、エビスビールを500円で飲むが、これが実に美味かった。

序曲「レオノーレ」第2番は、歌劇「フィデリオ」(となる歌劇)のために書かれた4種類の序曲のうち最初の作品で、より有名な第3番の出来損ないのような作品である。出来損ないというのは言いすぎかも知れないが、ベートーヴェンも何度も書きなおしているので、そう思っていたのかも知れない。第3番と同じフレーズが時々出てくるが、第3番ほどの凝縮した音楽ではなく、何とも締まりの悪い習作風である。だがそこが面白い。ベートーヴェンはあの一切の無駄を排した、ほぼ完璧とも言える音符の連続を、最初から書くことができた作曲家ではなかった。それでこの第2番を聞く楽しさは、あのベートーヴェンもこのような曲を書くことからスタートしたのか、と思いながら、いわば「作曲のプロセス」を体験できることだ。

結果的には第3番でも満足せず、さらに第1番を作り、最後には「フィデリオ」序曲に落ち着いた。もちろんオペラそのものもかなり書き換えられていくので、「フィデリオ」はベートーヴェンの創作のライフワークとも言うべき性格の作品となった。それが楽しくない作品であるわけがない。だが、「フィデリオ」については別に書こうと思う。

交響曲第4番を聞きたかったのが、このコンサートへ出掛けた直接の理由だった。だが、期待は半分程度しか満たされなかった。ノリントンの第4番はもう少し遊びがあってもいいと思った。第2楽章のスピード感は全体の白眉だが、それ以外の部分では、先日聞いた「英雄」ほどの興奮が伝わって来ない。

最後のティペットは、何と表現していいのかわからないのだが、英国のこの時代の作曲といえば、何と言ってもエルガーやウォルトンで、そのような退屈一歩手前の音楽にさえ到達してはいない。まったくもって印象に残らない作品で、ショスタコーヴィッチのような感じも時々したが、それでおしまいであった。総じてイギリス音楽は楽しかったことがないが、それを地で行く作品である。

2012年4月23日月曜日

NHK交響楽団第1724回定期演奏会(2012年4月15日 NHKホール)

最上段にずらりと並んだコントラバスの後に、反響板と思われる白い板が並んでいて、いつものコンサートとは雰囲気が少し違う。日曜日の昼下がりとはいえ、まだまだ肌寒い。お尻が見えそうな若者に混じって、老人たちの群れが公園通りを登っていく光景は、いつも微笑ましい違和感がつきまとう。定期演奏会でNHKホールが満員になることは滅多にないが、年に数回はあるようだ。この日はそういう日だった。

NHKホールの開館は開演1時間前で、いつものように自由席を確保するためかなり前に到着し、3階席に陣取る。注意喚起のアナウンスは、携帯電話やアラーム付き腕時計のことを話すのが通常だが、ここNHKホールでは補聴器のノイズについても行なわれる。老人また老人の中に、少しは若者もいるのだが、今日の指揮者も78歳のロジャー・ノリントンである。オール・ベートーヴェン・プログラムということで、この指揮者とは3年越しの交響曲全曲演奏会の最中である。もらったプログラムには、A/B/Cの全プログラムが掲載されているが、今日はその初回である。

ビブラートを極力排したピュア・トーンで知られるノリントンとは、NHK交響楽団とも相性がいいようだ。数年前から招聘し、N響の音が一気に蘇った。それまでくすんだような音色だったのが、何とも素敵な色に変身したのはテレビでもおなじみである。私はシュトゥットガルト放送交響楽団とのコンサートで「田園」を聴いているが、N響との演奏会は初めてである。今日のプログラムが大変魅力的に思えたので、半ば衝動的に足を運んだ。丁度家族はでかけて家にいないという好都合も手伝った。

そもそもN響の音色が何とも貧相な感じなのは、楽器が悪いからだとか、ホールが良くないからだとか、あるいはそもそもテクニックの問題だ、などとささやかれていた。しかし私がノリントンとの演奏で思ったのは、それまでの指揮者がそういう音色を出すテクニックを持ちあわせていなかったのではないか、ということだ。あるいは無頓着だったのだろう。オーケストラがそのような音を求めなかったかも知れない。だがノリントンの手にかかると、耳が洗われるように心地よい響きである。最初の曲「フィデリオ」序曲で、その素晴らしさは確認できた。ティンパニの強烈にして鋭角的な響きは、この演奏の集中力を一気に高めた。木管楽器もすこぶる上手いと思ったし、弦楽器のバランスも絶妙だと感じた。

三重協奏曲が今回の見物であった。三人ものソリストが必要なこの曲は、滅多にプログラムに登ることはない。私も初めてである。だがベートーヴェンの中でも目立たないこの曲は、室内楽と管弦楽曲が同時に楽しめるなかなか楽しい曲で、私も何枚ものCDを所有している。今回のソリストはすべて若手のドイツ人で、ピアノがマルティン・ヘルムヒェン、ヴァイオリンがヴェロニカ・エーベルレ、チェロが石坂団十郎である。

三人の若々しい音が、ノリントンのピュア・トーンに融け合ってなかなかの名演だったと思う。三人ものソリストがオーケストラの前に並ぶのも見ものだったが、ノリントンはやや斜めに向いて、指揮台にも立たずに埋もれた感じで指揮をしていたのが印象的だった。

さて、最後は「エロイカ」である。この「エロイカ」は私が聞いたすべてのベートーヴェンの実演の中でも最高のものだったことを最初に書いておきたい。ベーレンライター版を使用した演奏は、スピードがあってすべての繰り返しを行い、鋭いティンパニが特徴であった。第1楽章の出だしから私は興奮し、オーケストラも乗っているように感じた。長い第1楽章が終わるまでの時間だけで、その日のチケット代の元を取ったように感じた。おそらくそうだろうというような演奏を、見事に再現したN響との演奏は、そのままDVDで発売してもいいようにさえ感じたが、5月の「ららら・クラシック」という「N響アワー」の後続番組で放送されるようで、今から楽しみである。

第2楽章のメロディーもメリハリが効いて、メランコリックな木管も印象的だが、ここをあくまでリズカルに演奏することに、私はとても好感を持つ。その結果、この長い曲も終盤に向けて盛り上がっていく様子がよくわかるのである。第3楽章の難しいホルンのトリオを乗り切ると、第4楽章の興に乗った演奏が生きてくる。日経新聞夕刊にこの日の演奏の評論が掲載されているが、確かにここをもう少し喜びに溢れた愉悦感で走れば、申し分はなかったかも知れないし、私もそのように感じた。だが、それは高望みしすぎかも知れない。

とにかくコーダまでの45分間は、思わず身体を揺すってしまいたい時間の連続で、私はパーヴォ・ヤルヴィの演奏をCDで聴いた時と同じような素晴らしい時間を楽しんだ。久しぶりのN響の定期だったが、こういう名演なら何回でも通いたいと久しぶりに思った。丁度ベートーヴェンの演奏を立て続けに聞いていたので、その意味でも大いに共感することのできた演奏会であった。

2012年4月22日日曜日

ティーレマン/ウィーン・フィルのベートーヴェン(2)


年末といえば「第9」というほどに、この曲は我が国のクラシック音楽シーンにおいて年の瀬の雰囲気に結びついているが、もちろんそういう曲ではない。それでも年末になると今年も第9を聞いておこうか、などと思うのだから条件反射というのは恐ろしいものである。今年は年末年始にかけて休暇を取るため、昨年に聞いたN響の第9は聞けない。けれども諦めていたらティーレマンとウィーン・フィルによるベートーヴェンのシネマ・コンサートが開かれる。そこで私は今年の締めくくりに、この全曲演奏会の最後を飾るビデオ上映に出かけることにした。

ティーレマンというのは少し変わった指揮者で、見ていてさほど面白い指揮をする人ではないし、その音楽はなんというか、まあ体つきににて少し野太い感じのする音楽で、いまとなってはあまり聞かれないタイプだが、かつての延長上に位置するようなところがある。保守系の最右翼ということだが、そのティーレマンがウィーン・フィルをどう指揮するのかというのが見どころである。

この全曲演奏会をビデオ録画するにあたり、何と足掛け3年もの歳月をかけるあたりは何とも気の長い話だが、考えてみるとウィーン・フィルのベートーヴェンの交響曲全集録音はサイモン・ラトル以来であるし、ビデオでの全集となると記憶にあるかぎりバーンスタインの80年頃の映像にまで遡るように思う。ベルリン・フィルを含めてもアバドとカラヤン位しか思い浮かばない。

そういうわけでこれは言わば記念碑的な収録ということになるのだが、そこに起用されているのが3人のビデオ・ディレクターで、その映像の撮り方の違いというのももう一つの見どころである。また客席を埋めた聴衆の熱狂ぶりもすごいが、ではその演奏はウィーン・フィルをどのようにコントロールした結果なのだろうか、などと見る方も力が入り、音楽がどのようであったかあまり思い出せない。もしかすると平凡な第9だったかも知れない。

ティーレマンは他の指揮者ならさらっと流すようなところで敢えてブレーキをかけている。これがオーケストラの注意を喚起し、何回か繰り返すうちに、独自の音楽のようなものになっていくあたりのプロセスはビデオならではのものである。だが、ここでどうしてもう少し丁寧にゆったりとしてくれないのだ、と思うところであっさりと流れることもあり、その裏切りはどちらかと言えば気味が悪い。

第9ほど指揮者の個性を発揮するのは難しい曲はないだろうと思うが、実際かつてこれは名演だと思った演奏は、それほど多くない。私の経験ではセル、フルトヴェングラー、それにバーンスタインといったあたりだろう。最近ではコリン・デイヴィスである。ウィーンでの記念碑的第9ともなると、やはり比較対象は過去の超が付く名演たちとなる。だが、この演奏がそのレベルに達していたかどうかは疑わしい。

人数の少ない合唱はさすがだし(これは日本人の演奏ではまずありえない)、いつ登場したかわからない4人の独唱(うち、アルトは日本人の藤村実穂子が歌っている)も特筆すべきレベルであると思われた。総じて水準は非常に高いが、かと言って何か新鮮なものを感じるわけでもなく、古い演奏の孤高の名演にも到達しない中途半端な印象が拭えなかった。音響と画質は、時代が新しい分、大変素晴らしかったことは言うまでもない。

(2011/12/17)

2012年4月21日土曜日

ティーレマン/ウィーン・フィルのベートーヴェン(1)

丁度昨年末に、ティーレマンの指揮するウィーン・フィルのベートーヴェン・サイクルを映画館で上演していた。私はその中なら、回の演奏会を見た。ベートーヴェンの最新の交響曲全集のうち、シャイーと比較されるティーレマンのベートーヴェンは、今ではちょっと珍しい部類の演奏である。この時の文章を過去のブログから転記する。

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ティーレマンに対する評価は2つに割れている。だが、この演奏を聞いた後で、私はやや好意的である。何かとても懐かしい響きに出会ったような気がする。それもそのはずで、ベームやバーンスタインの全集で育った世代にとって、ティーレマンの満を持した演奏は、ちょうど同年代の音楽として大変親しみが湧くのである。とうとう自分と同じ年代の指揮者がウィーン・フィルでベートーヴェンを録音(録画)したか、という個人的な感慨が、この演奏を贔屓目にさせる。

映画館での映像上映として、今年の締めくくりに恵比寿の東京都写真美術館へ出かけ、交響曲第1番、第3番「英雄」、第2番、それに第6番「田園」(演奏順)を見てきた。タイトフィットな時代のベートーヴェンではなく、少しカロリー・オーバー気味の演奏は、新しい発見をもたらしたというよりも、何か安心感のある、それでいて本場の味わいは十分な演奏に久しぶりに感銘を受けた。

ここには楽しそうに、満足そうに演奏するウィーン・フィルの映像が捉えられており、ティーレマンの演奏が作為的で鼻持ちならないと感じる若手や、やっと昔ながらの演奏に出会えたと胸を撫で下ろす中年以降の年代など印象は様々だろうが、私としては上記の意味でとても親しみやすいものだ。それがそんじょそこらの演奏団体ならいざしらず、ウィーン・フィルとなればこれは「おらが音楽」の全開である。

私は第2番の演奏にワルターを思い出し、第3番の演奏でバーンスタインを思い出した。「田園」ではそうだ、シュミット=イッセルシュテットだろうか。しかしどの指揮者で聞いても、同じような木管楽器の響きになるのが不思議な程である。

第2番のすこぶる熱のこもった演奏がまずは印象的である。ここの第1楽章はちょっとした名演だと思ったが、第2楽章の遅いテンポは今では聞かれなくなった風合である。同じ事は「田園」でも随所に聞かれ、この2曲が非常に印象的だった。もっと個性的にやってもいいのでは、などと思ったりもしたが、そうでないところが現代的。そして「英雄」の終楽章では、このコンビの最大の見せ所だったように思う。

ウィーン・フィルでなかったら、もっとティーレマンの個性が出すぎて、かえって変な演奏になったかも知れない。だが、ウィーン・フィルの伝統の力がこれを中和し、ティーレマンも無茶な要求をせず協調路線と取ったところに、近年稀に見る成功となった。客席の拍手は相当なもので、どの曲が終わっても、オーケストラの退場後にまで拍手が鳴り止まない光景は、ウィーンでは珍しいのではないだろうか。それだけ客席の期待は大きかったと言えるが、そういえばこの20年近くは、アバドやラトルの中途半端な演奏、アーノンクールの気鋭極まる(それはそれで面白いのだが)演奏などが続いていたのだから、そうかベートーヴェンはもともとこういう音楽だったのか、などという思いを持ちたかった向きには大歓迎だったようだ。

私はといえば、当初は複雑な思いだった。今さらまた前の演奏に戻る気もしないと考えていた。だが、自分の同世代が聞いてきた音楽が再現される様子は、別の頭脳を刺激した。もちろんティーレマンは昔の指揮者と同じというわけではない。もしかしたら彼にしかできなかった表現があるようにも思う。だが、それがウィーン・フィルのベールをかぶったことによって、2010年の音楽シーンに新たなページを刻んだと言えるのかも知れない。

売られているディスクには、かなり長時間の対談集が付けられている。これをゆっくり見てみたいものだ。それから第9。日本人の藤村実穂子も登場するこの曲は、やはり興味がある。今年最後の締めくくりにでかけようと今から楽しみにしている。

(2011/12/13)

2012年4月20日金曜日

ベートーヴェンの交響曲とそのディスク(まとめ)

これまでベートーヴェンの交響曲を一つずつ取り上げ、その作品に対する思いと、好みの演奏について書いてきた。30年以上に亘って趣味としてきたクラシック音楽の、その中でも最高峰とも言えるベートーヴェンの交響曲について、これだけ一度に文章にしたのは初めてだし、意識的には避けてきたことをついに果たしたという思いはある。だが、これもひとつの通過点に過ぎないのだろうと思うし、これからも多くの名演奏に出会い、新たな発見をそれなりにするはずである。

思うに「決定的な演奏」というのは存在しない。そのような演奏に出会っても、またしばらくたつと別の演奏で聞いてみたくなる。それがクラシック音楽だと思う。

無数にあるベートーヴェンの交響曲のディスクを取り上げるにあたって、私はひとつの方針を決め、それに従って書いてきた。その方針とは各曲に関して、まず曲の魅力を語ること。それに続いて、3種類のディスクに限定して、お気に入りの演奏を取り上げることである。3種類とは、すなわち次のようなカテゴリーである。

(1)主として1990年代以降に登場した「新しい」スタイルによるベートーヴェンの演奏

その多くがジョナサン・デル・マー改訂のベーレンライター版による楽譜を採用し、古楽器奏法の影響が見られる演奏。

(2)おおよそ私がクラシック音楽を聞きはじめた70年代以降に登場した、ステレオ録音(多くがデジタル録音)による演奏で、(1)に属するものを除いたもの

これは私にとって、もっとも同時代的な、そしてベートーヴェンの音楽の魅力を知る上で中心的な役割を果たした演奏が中心である。これはまたLP時代の終わりからCD時代にかけての演奏となる。

(3)1960年代以前の「歴史的」演奏

(2)より前に録音され、すべて私はディスクを通してのみ触れた演奏で、しかもその価値は今でも変わらないもの。モノラル録音も多いがCDとしてリマスターされ、音質は改善されている。

何せ、ベートーヴェンの交響曲のディスクは映像も含め、限りなく多いため、すべてを聞いて判断することは不可能である。だがそれなりに沢山の演奏を聞いてきたので、私の好みの評価はここ10年ほとんど変わっていない。それで、上記の選択作業となったのだが、以下に3点ほど注釈が必要だろう。


・全集として所有し、複数の曲においてその素晴らしさを伝えたいものについても、なるべく多くのディスクを取り上げる目的から、「代表的な演奏」として限定することとし、原則としてひとつの演奏はひとつの曲でのみ取り上げたこと。

・ごく最近になって登場した最新の演奏は、取り上げられなかったこと。たとえばリッカルド・シャイーによる素晴らしい全集も、私はレコード屋でわずか視聴したに過ぎない。

・いくつかの個人的な思いの強いディスクも、全体のバランスを考慮して取り上げることを今回は断念した。たとえばクラウディオ・アバドの「田園」などがそれに該当するが、それについてはまた別の機会に触れようと思う。

このような方針において取り上げたディスクを以下に再度列挙して、このシリーズを締めくくろうと思う(※はモノラル録音)。

■交響曲第1番ハ長調作品21

(1)ヘルムート・ミュラー=ブリュール指揮ケルン室内管弦楽団(00)
(2)ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(93)
(3)アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(51※)

■交響曲第2番ニ長調作品36

(1)ニクラウス・アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団(90)
(2)ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(86)
(3)ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団(59)

■交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

(1)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー(05)
(2)コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン(91)
(3)ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(52※)

■交響曲第4番変ロ長調作品60

(1)デイヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(98)
(2)リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(85)
(3)カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(69)

■交響曲第5番ハ短調作品67

(1)ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団(08)
(2)ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(90)
(3)エーリヒ・クライバー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(53※)

■交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」

(1)ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団(02)
(2)ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団(92)
(3)オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(57)

■交響曲第7番イ長調作品92

(1)クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(01)
(2)カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(76)
(3)トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(57)

■交響曲第8番ヘ長調作品93

(1)トマス・ダウスゴー指揮スウェーデン室内管弦楽団(05)
(2)ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(68)
(3)ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(62)

■交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」

(1)ジョーン・ロジャーズ(S)、デラ・ジョーンズ(A)、ピーター・ブロンダー(T)、ブリン・ターフェル(Bs)、チャールズ・マッケラス指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー合唱団・管弦楽団(91)
(2)ギネス・ジョーンズ(S)、ハンナ・シュヴァルツ(A)、ルネ・コロ(T)、クルト・モル(Bs)、レナード・バーンスタイン指揮ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(79)
(3)アデーレ・アディソン(S)、ジェーン・ホブソン(Ms)、リチャード・ルイス(T)、ドナルド・ベル(Bs)、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団・合唱団(61)


2012年4月19日木曜日

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」 ②ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団

ジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮して録音した一連の演奏は、ほとんどすべて完璧とも言える水準に達している。その演奏について評論家の吉田秀和氏は、セルを「最も高潔な指揮者」と讃え、「これ以上ないほどの高さに到達していた」その演奏は、「中国の陶器、それも元宋から明清にかけてのあのひんやりした清らかさと滑らかな光沢を具えた硬質の感触」だと喩えている。なるほど、そういうものか、うまいことを言うなと私は長年、この演奏を聞くたびに読むことになるソニー・クラシカルのCDのブックレットを読み返すのだった。

この文章のなかで吉田氏は、万博の年に大阪公演で聞いたモーツァルトの交響曲第39番を引き合いにして「まるで北宋画のような犯すべからざる気品の雅致が、ひそかに暖かく、息づいている」と語っている。そして私にとってのセルの思い出も、やはりこのモーツァルト、それも後期の三大シンフォニーのレコードが最初である。「一点の妥協も排した」セルの演奏は「一点一画もおろそかにしない楷書のようなもの」で、私はまず交響曲第40番の確かでギリシャ彫刻のように美しいその音楽と演奏に唖然としたし、第39番の立派な演奏は、いまもってこの曲のベスト演奏であると確信している。

そのセルのベートーヴェン、その中でもひときわ精彩を放つのがこの第9の演奏である。合唱に、あのロバート・ショウ合唱団を起用した演奏は、完璧に素晴らしいが、玉にキズがあるとすればその録音である。当時の録音には、もっと素晴らしいものがあったのだが、この当時の米国の録音にはあまりいいものがない。セルはその犠牲になってしまった。ややもすれば硬いその録音を通してセルの演奏を聞くので、少し歩が悪いのだが、今もってリマスターされるほど人気が高く、しかもSACD化されたりするところを見ると、やはり熱心なファンがいて、何とかこの演奏を少しでもいい録音で聞きたいと日々思っているのだろうと思う。

セルはウィーン・フィルと録音した劇音楽「エグモント」の名演もあるし、EMIに録音したドヴォルジャークの交響曲第8番などを聞くと、その演奏が単に完璧なだけの、つまり冷たさが全面に出ただけの血の通わない演奏であるのとは、違うと感じる。リハーサルはさぞ厳しかったのではと想像できる。当時の米国は、いわばモータリゼーション全盛の時代で、クリーヴランドと言えばその中心地のひとつであった。その時代は遠く過去のものとなった今でも、クリーヴランド管弦楽団の名前には過去の栄光のイメージがつきまとうのは、セルの時代がいかに素晴らしかったかを物語っていよう。

これほど完璧な第9の演奏は、このセルの前にも後にも存在しないように思う。

さて第9の他の演奏だが、思いつくところではショルティ指揮シカゴ響による70年代のものがいい。ショルティの残したベートーヴェンの中では、これは白眉である。もう一度聞いてみたい演奏としては、ミュンシュ指揮ボストン響による速めの演奏に興味がある(だが録音は良くない)。これらの演奏はみな、同傾向にあると言えるだろうし、米国の少し昔の演奏である。

これに対し、クレンペラーの演奏は傾向が違う。フルトヴェングラーの第9では、有名なバイロイトの復活演奏ライヴがいいとは思うが、この第3楽章はおそろしくゆっくりとしていて、泣けるようなメロディーである。この楽章を聞けば、フルトヴェングラーの演奏の特徴がわかる。ラトルがウィーン・フィルと来日して演奏した第9は実演で聞いた。素晴らしかったが、これはライヴ特有の迫力が優っていた。第9は何でもありの曲で、どうなろうとそれはそれで良い、と開き直っているかのような演奏だったが、それもひとつの解釈だろうと思う。

私が初めて自分のお金で行ったコンサートは、やはり年末の第9だった。1978年だっったかで朝比奈隆の指揮する大阪フィル。年末の第9は最近でもたまに行くが、一昨年のNHK交響楽団の演奏は、指揮がレオンハルト。これはなかなか良かった。テレビで見たN響の第9では、昔のスイトナー指揮のものと、最近ではスクロヴァチェフスキーが印象的。また私は2007年に金聖響指揮東京都交響楽団による第9(6月頃)を聞いて、我が国でもとうとうこういう演奏がなされるようになったかといたく感銘を受けた覚えがある。

ディスクで名演に巡りあうのは難しいが、こう並べていくと、結構第9は聴いているのだなと改めて思う。

2012年4月18日水曜日

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」 ①レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

我が国の特殊事情を除けば、通常は滅多に演奏されないベートーヴェンの第9交響曲は、難解な曲であると思う。そしてそうであるからこそ、演奏されるのは何か特別な時である。レナード・バーンスタインはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との映像によるベートーヴェン交響曲全集において自ら解説を務め、その中で第9の特別な存在について解説をしている。

そのバーンスタインがウィーン・フィルと入れたベートーヴェン全集こそ、私のベートーヴェン体験の基本とも言える演奏である。1980年、丁度デジタル録音へと移行しつつあった頃にリリースされたドイツ・グラモフォンによる録音は、どの曲の演奏を聞いても「何か違う」演奏に思われた。音色が活き活きとして、新しい時代の演奏のように思われたのだ。

私は当時中学生だったが、友人と共に第1番から順に毎日1曲の割合で聴き始め、そしてとうとう第9番までたどり着いた。すべての交響曲を通して聞いた経験は、これが最初であった。友人はいたく感激し、持参したマクセルのカセット・テープに、すべての曲を録音した。楽章の長さを計算し、すべてが丁度収まるように何枚ものテープを交換し、そして再度第9で締めくくった。

第9のレコードは我が家に数多くあって、有名なフルトヴェングラーのバイロイト盤、トスカニーニ盤、ワルター指揮のニューヨーク・フィルハーモニック、それにミュンシュの輝かしい演奏などであった。しかしそのいずれの演奏をも曇らせてしまうくらいに、バーンスタインの演奏は素晴らしいと思った。第1楽章の低弦の響き、第2楽章の躍動感あるスケルツォ、第3楽章の暖かさと悲しさに溢れたロマンチックで愛情あふれる響き、そして第4楽章の人間性に溢れた名演である。

ウィーン・フィルがここでは指揮者に共感し、そして滅多にない力演をしている。ライブ録音とされた全集は、拍手こそ収録されていないという不思議な演奏だったが、そこには音楽というものがそもそも等身大の、人間性を飾りけなく表現するものだというバーンスタインの音楽観というようなものが示されている。装飾された芸術性から開放し、同時代の共感を優先するアメリカ生まれのこの指揮者は、間違いなく新しい時代を形成し、それは一方にいるカラヤンなどとは対角線上に位置する音楽であった。

私はそのようなバーンスタインの音楽を、自分たちの時代の代表的な演奏として歓迎したのは事実である。それはカラヤンに魅せられた上の世代よりは少し後であり、そして古楽奏法などが主流となる時代よりは少し前である。この第9に代表されるバーンスタインの演奏は、このあと超越的なマーラーの全集となって結実し、それは音楽史に名を残す名演だったと思われる。ウィーン・フィルとの良好な関係を示すベートーヴェンの演奏に限っても、かの有名な歌劇「フィデリオ」、ピアノ協奏曲全集などと並んで、この時代の輝かしい遺産である。

2012年4月17日火曜日

ベートーヴェン:交響曲第8番 ②ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(62年)

ヘルベルト・フォン・カラヤンの演奏を聞いて驚くのは、今もってその新鮮さが失われていないことだ。カラヤンの演奏は、若い頃ほど斬新で、その特徴は晩年まで変わらなかった。だからここでベートーヴェンの交響曲第8番を60年代の演奏で聞くとき、それが今から半世紀も前の録音でることにまずは驚く。

カラヤンは自分が君臨した手兵のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、3種類のベートーヴェン全集を録音した。60年代、70年代、80年代と時代が進むに連れてカラヤン節に磨きがかかり、録音技術の進歩と相俟って、リリースされるたびに話題を呼んだ。加えてビデオ撮影も行なわれ、録画されたベートーヴェン全集は2種類、さらにフィルハーモニア管弦楽団とによる50年代の録音も加えると、全部で6種類はあるということになる。だが、批判を恐れずに言えばこの中では、50年代のフィルハーモニア管弦楽団とのものが演奏としては最も素晴らしく、後になるほどオーケストラの統制に問題があるような気がする。

ただ50年代はさすがに録音が平べったく、何か気の抜けた音がする時があるので、私は60年代のベルリン・フィルとの演奏が、ディスクとしては最も欠点の少ない全集と思う。それぞれの曲毎に、若干の出来、不出来があるので、これは全集としての感想である。

そういうわけで私は第7番と第8番をカップリングした一枚を60年代の録音で所有しているが、最近はベートーヴェンの交響曲も曲毎に分けて発売されるのではなく、全集として廉価販売されるので、今60年代のものを購入するとすれば、当然全集ということになる。その中で、どの曲がもっとも優れているか、というのも野暮な質問で、どの曲の演奏も一流の水準に達していることは言うまでもない。何せカラヤンなのだから。

流線型の車を思わせるようなスマートさで、あ然とするような見事な演奏である。この職人的とも言えるような音と音の重なり、そして強弱によって、ワーグナーもブラームスも、そしてヴェルディやチャイコフスキーでも、カラヤンにかかると物の見事に音楽がモダンな建造物に変身する。その姿を演奏前に想像することが楽しく、そして実際に聞きながら舌をまくようなフレーズに出会うと、やはりそうやるか、などと嬉しくなる。そういう体験がしたくて、またもやカラヤンのディスクを買ってしまう。まだ聞いたことのない曲を、カラヤンならどう奏でるか、これがまたクラシック音楽の楽しみの一つであった時代がある。

といくわけでベートーヴェンの作品もカラヤン流の料理によって、それがすべてではないにしろ、他では味わえないような趣が、今でも再生可能なものとして手元にあるという感覚は、クラシック音楽のディスク収集家として、避けては通れないだろう。「私はカラヤンを一切聞かない」という人もいるが、そういう人(はそれなりにいる)を除けば、まあ、カラヤンの演奏を一度は聞いて見るだろうし、この演奏が媚薬のようにいつも頭から離れない、という経験もすることだろうと思う。

2012年4月16日月曜日

ベートーヴェン:交響曲第8番 ①ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーンの雰囲気満点のベートーヴェンである。ハンス・シュミット=イッセルシュテットが指揮したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン全集のうち、この第8番と「田園」をカップリングしたCDを持っている。お目当ては「田園」だったのだが、第8番も実に伸びやかで明るさに満ちており、幸福感が漂っている。この演奏を聞くと、速度の指示がどうの、といったことはどうでも良くて、音楽はこのようにいつも幸せな気分で聞いていたいものだと思う。ただ緩慢な演奏ではないということはお断りしておく。

この演奏を聴いていると、ウィーンのような音楽の都で、昔から変わらずに音楽を聞き続けてきた人の思いを感じる。保守的という言葉があるが、誤解をせずに解釈したい。現状満足ではなく、かといって必要のない改革など意味が無い。まあ誰がなんといっても、自分としてはこれでいいのだという、惑わされない信念と余裕。そういうものを持っている。ベートーヴェンが何を意図していたかはわからないが、このドイツの田舎生まれの作曲家をもウィーンは飲み込んで、そして彼ら流の音楽史に置き換えてきたはずである。ベートーヴェンが活躍していたこの時代には、すでにシューベルトやロッシーニが活躍し、ワーグナーも生まれていた。

そのウィーンの音楽の都としての歴史が、ここの作曲家の、あるいは演奏家の意図したものになっていたかははなはだ疑問で、そういうのとは違うところで、自分の芸術としての価値を求める必要が生じるのも当然のことである。だが、そのような活動は、ウィーンのような保守性のアンチテーゼとして存在することも確かである。そのどちらをも消化するのが、都会の凄いところだろう。先進性と保守性は相反する概念ではない。これは共存し、互いに対立して昇華してゆく。

シュミット=イッセルシュテットの第8番を聞きながらそんなことを考えていたら、演奏がいつのまにか終わっていた。難しいことを考えている自分が、何かつまらなく感じてしまう。ウィーン・フィルの演奏はいつも同じ演奏に聞こえてくる時がある。大指揮者でさえも、それはウィーン流の音楽をするための飾りと言えば、言い過ぎだが、そのような演奏もあるのであって、最近のティーレマンの演奏などはそういう匂いがする。そしてこの演奏もまた、ウィーンの演奏を聞くためのCDである。

第2楽章の典雅なリズムと、第3楽章のホルンの合奏が美しい。だが第1楽章のおおらかな演奏も大音量で聞くと大変に素敵である。

なお「田園」も同様の名演奏で、私はこの「田園」で初めてこの曲を最後まで聞いた。最初から驚きの連続で、退屈だと思っていた「田園」が全曲を通して絵画のように美しい曲であることを知った。中学2年生の時だったと思う。その時の感激は、この演奏で聞くと見事に蘇る。だから最初の経験というのは、重要なものなのだろうと思う。

2012年4月15日日曜日

ベートーヴェン:交響曲第7番 ②トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(57ライヴ)

ベートーヴェンの交響曲を1曲づつ取り上げ、最初のサイクルでは曲に関する思いを述べ、最新のお気に入り演奏(は同時にピリオド楽器もしくはピリオド奏法である)を1枚づつ紹介した。今回の2サイクル目では主として演奏の観点から、各曲2つずつ取り上げている。一つ目(①)は、主に私が生まれる1966年以降の、まだ古楽器奏法が主流になっていなかった頃の演奏から、二つ目(②)ではそれ以前の、いわゆる歴史的な録音から取り上げている。

第7番の歴史的録音で、私は1960年の若きコリン・デイヴィスがロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したEMI盤(は、その後に登場する2組の全集・・・ロンドン交響楽団、シュターツカペレ・ドレスデンとは違うものである)を取り上げるつもりでいた。しかしデイヴィスだけが2回登場するのもどうかと思うし、存命中の指揮者を「歴史的」というカテゴリーに含めるのも違和感があった。ところが、我がCDラックを眺めていたら、同じロイヤル・フィルを、その創始者であるトーマス・ビーチャムが指揮したものが見つかった。

さっそくこれを再生してみたら、録音も良く、演奏もなかなかのものだった。それが何と1957年10月のスイス・アスコナでのライヴ録音で、音源はどうやらスイス・イタリア語放送協会である。ここの放送局には、シェルヘンなどがいた有名なオーケストラがあるし、何と言っても国際的な保養地である。私も学生時代に旅行して、素敵なところだった。そういうわけで音楽祭も開かれ、各地の演奏家が名演を残しているというわけである。

CDは10枚組で、シェルヘンやフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュなど錚々たる演奏家が登場するが、その中でもビーチャムの演奏は大変録音もいい。その中からベートーヴェンの交響曲第7番があったのは嬉しい発見だった。冒頭から何とも言えない大らかで、しかも気を衒わない演奏が始まる。古き良き時代の演奏の薫りである。第2楽章の懐かしいようなテンポと、メランコリックに響く木管楽器、そして大時代的とも言えるような弦の刻みとアクセント。ベートーヴェンの第7番はかつてこのように演奏されていたのである。私も懐かしさでいっぱいの気持ちになった。

思うにディスクによるクラシック音楽の楽しみには、大きくわけて2つある。1つは最新の録音の聞くことで、演奏にも流行があり、その中での発見も多い。だがもうひとつは歴史的な演奏を掘り出すことである。レコード屋に行けば、このような最新リリースのコーナーと並んで、歴史的録音のコーナーの充実ぶりに目を見張る。得体の知れないレーベルも混じって百科騒乱の装いである。それが古いSP復刻盤であっても「新譜」となれば案外に値段が高い。でもこれらの、まだ自分が生まれるよりも前の演奏からも、新譜にはない発見があるのだからクラシック音楽の楽しみは尽きないというわけだ。

さて第7番の演奏もこれを書くうちに第3楽章になった。古い演奏なので繰り返しは省略されているが、それでも第7番の演奏ではこの第3楽章が長い。しかし先を急ぐ必要はないので、ここは悠然と味わっておくべきか。この第3楽章は7分強の第4楽章より長い9分もある。

70代になっていたビーチャムは第4楽章の後半の部分でいきなり速度を速め、フーガに突入する。そして春の嵐が駆け抜けていくようなさわやかさで、締めくくられる。拍手も収められて、演奏は盛況のうちに終わる。なかなかいいCDを買っていたものだと嬉しくなった。なお、余白?にはヘンデルのバレエ組曲「バースの愛」、ディーリアスの「楽園への道」など洒落た演奏が収められている。これも古き良き雰囲気を持ったいい演奏。

2012年4月14日土曜日

ベートーヴェン:交響曲第7番 ①カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「海外盤視聴記」を除くと、今ではほとんど読む価値のない音楽雑誌「レコード芸術」も、かつては随分熟読したものである。中学生になりたての頃だったか、1970年代の終わり頃、その「レコ芸」には、評論家が大勢で曲毎にどの演奏がベスト3か、を投票するコーナーがあった(何とこの企画は今でも時々続いているが、大変つまらない企画となってしまった)。当時としては画期的で、私はそのうちベートーヴェンの交響曲について、なるほどねえ、などと面白がっていたのだが、その頃私がもっとも親しんでいた第5番と第7番について見てみると、そこには他を圧倒的に引き離して、聞き覚えのない指揮者が掲載されていた。

カルロス・クライバーという指揮者の存在を知ったのは、そのときだったと思う。だが、この指揮者はわずかにこの2曲について断トツの1位で登場しておきながら、それ以外の曲には何位にも登場しない。何とも奇妙な指揮者がいるものだ、とその時は思ったが、どちらの演奏も天下のウィーン・フィルを指揮してドイツ・グラモフォンのジャッケットに収まっていたので、これはれっきとしたメジャーな演奏なのだと直感した。

だがその演奏を聞く機会がない。第5番の方は私が高校生になったのを記念して、叔母がプレゼントしてくれたが、第7番のほうは、毎週「FMファン」などを読んでは、エアチェックの目印をつけていて、学校帰りの時間帯にやっとのことでそれを発見し、高かったクロームのカセット・テープに収めたのである。それがこの演奏に接した初めての体験だった。

その頃の私のお気に入りは、少し前まではカール・ベーム指揮ウィーン・フィル、それから出たばかりのレナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルと、ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団によるものだった。だがクライバーの演奏はそのいずれもにはないリズム感と、熱狂的なまでの速さ(と感じた)があるのを発見した。私は何度そのテープを聞き返したかわからない。そのたびにウィーン・フィルが魔法にでもかかったように必死で演奏する姿に、ほとんど放心状態で聞き入った。このときの録音は、何かヴェールに包まれたような不透明感と、それがゆえの小規模感があった。私はこれがオリジナルの録音のせいだと思い、大いに失望していた。


1995年になって、2枚のLPが1枚のCDに組み合わされて登場した。しかもオリジナルのリマスター盤だった。第5番と第7番がカップリングされていたが、私はいずれも擦り切れるほど聞いていたので、そのCDを購入したのは2005年になってからだった。今あらためて聞き直すと、当時悪いと思っていた録音が実に生々しく、大変素晴らしい。

記録によれば第5番が1974年の録音、1975年の発売、第7番が1975年の録音、1976年の発売である。第7番はクライバーの写真だが、CDのジャケットは第5番の方が使われていて、指揮姿のアップを白黒のシルエットに加工したもの。この頃は定期的にウィーン・フィルにも登場していたのだろうか。その後第7番は実演でもしばしば取り上げ、私も大阪で1987年だったかに第4番とともに聞いた。この時はバイエルン国立管弦楽団だったが、東京公演はNHKで放映されたのでアーカイヴに残っているはずである。また、別の演奏会の第7番は、クライバーの死後になってOrfeoからライヴ盤のリリースがあり、やはり素晴らしい演奏である。映像でもコンセルトヘボウを指揮したものが出ているが、これはその華麗な指揮姿が楽しめるにも関わらず、録音がかなり貧弱である。第5番はこのウィーン・フィル盤くらいしか録音がない。

第1楽章で繰り返しが行なわれ、徐々に熱を帯びてくる。第2楽章の終わりで、かのクレンペラー盤がそうであったように、ピチカートで終わるのが特徴的である。第3楽章は少し冗長な音楽だが、それを嫌ったのか、実演で聞いた時にはもっとスピーディであった。第4楽章の熱狂は言うまでもない(ちなみにクレンペラー盤のLPを間違って45回転できいたことがあるが、その時の演奏がクライバーそっくりだった。このことからクレンペラーがリズム処理に長けていたことが逆にわかる)。

ウィーン・フィルが真剣に熱演している。実演収録ではないにもかかわらず、その様子は驚きである。このレコード以降、この演奏は第7番のひとつのモデルになったのではないかと思う。そして今ではこれだけの緊張感のある演奏は珍しくなくなったが、それを1975年に既に、しかもウィーンで行なわれていた、という記録は今想像しても新鮮である。クライバーのベートーヴェンは、結局、第4番、第5番、それに第7番だけである。後に「田園」も出たが、これは音質が劣悪で、しかも演奏はベストとは言いがたい。それでも、この第7番の演奏だけで彼の名は後世に残るだろうと言うと、言い過ぎだろうか。

2012年4月13日金曜日

ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 ②オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

数ある「田園」のお気に入りのディスクの中で、もっとも好きなひとつがオットー・クレンペラー指揮による演奏である。1957年の録音だが、状態はなかなか良く、クリアーな音が部屋いっぱいに広がる。このコンビの演奏らしくどっしりと遅めながら、中間音から高音にかけて伸びやかで、フィルハーモニア管弦楽団の演奏が素晴らしい。

この演奏に初めて触れたのは、今から10年ほど前で私は長期に亘る病気療養中の身であった。このころの自分の心を、「田園」の音楽がどれほど癒してくれたかは知れない。当時の日記から、その時の感激を拾ってみた。

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しばしば「標題音楽」の元祖とされるベートーヴェンの「田園交響曲」は、確かに親しみやすい自然描写の解説が付けられていますが、単純な自然の描写音楽ではない、ということは、この曲の解説に登場する常套表現です。つまりあくまでそれを感じる人間本来の「感情を表現したもの」ということです。これは、第2楽章の小鳥の描写でさえ、既に聴力を失いつつあった音楽家の自然への憧れを描いている、とさえ言えるのかも知れません。

ドイツの豊かな農業地帯を空撮した風景。それに乗せて「田園交響曲」の第4楽章から第5楽章に入る部分が荘重に奏でられます。これ以上ない、というようなゆっくりとしたメロディーから、この演奏家が世紀の大指揮者であることは明らかでした。ナレーションがその演奏に乗ってドイツ語で語り始めます。「指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーは1886年、ベルリンに生まれた・・・」。「フルトヴェングラーの秘密」とかというタイトルの白黒映画を友人と梅田の映画館に見に行ったのは、中学生時代でした。その時の最初のシーンに流れた曲が「田園」だったのです。

フルトヴェングラーの「田園」が聞きたい、そう思っていながら十数年間、私はこの曲(とカップリングのワーグナー風「モルダウ」)への数千円の投資にためらいを感じていました。もっと新しい演奏で、この第5楽章の冒頭を最低速度で演奏するレコードはないものか、そう思ってきたのです。しかし、テンシュテットの中途半端な田園も、ウィーン郊外を地で行く明るいE・クライバーの田園も、はたまたフランス風のベルリン・フィルという変てこなクリュイタンスの演奏も、私には違和感がつきまとい、なかなか名演奏にめぐり合わないのです。

思うに第1楽章が明るすぎるのがいけないのではないか、そう思っていた1980年代の後半、アバドの演奏が登場しました。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した由緒ある全集で、アバドは何とこの曲をゆっくりと開始したのです。数あるウィーン・フィルの「田園」でも白眉となるこの演奏は、ついに昨年、購入し、幾度となく楽しんだのですが、残念なことに第5楽章の冒頭はフルトヴェングラーほど感興豊かではありません。これは現代風で仕方のないことかと半ば諦めていますが、結局、私は往年の名演奏から、私の理想にふさわしいものを追い求める旅を続けることにしたのです。

私に相応しい「田園」は何か---その解を得るべく遂にフルトヴェングラーのEMI盤を手にして、恐る恐る針を下ろしてみました。そこに流れる「お化け屋敷」の田園は、確かに神経症にかかったような田園でした。これはちょっと不健康だ。嫌な予感が私の脳裏をよぎります。第2楽章はやや持ち直すものの、いくら遺書まで書いたベートーヴェンといえども、これでは少しかわいそうです。バーンスタインの健康体丸出しの田園もいただけないが、かといってここまで鬱状態が続くのは精神衛生上好ましくありません。そして注目の第5楽章の出だしは、かつて私が見た映画の冒頭の音楽ほどロマンチックではありませんでした。それは聞き手である私の勝手な思い込みによるものなのでしょうか、それとも演奏にムラのあるフルトヴェングラーのせいでしょうか。他にもリリースされている録音を聞いてみたいとは思います。しかし、そのことのために一体いくら投資すればいいというのでしょうか?

思うに「田園」はドイツの田園です。それはベートーヴェンがドイツ人であるから、ということもあり、たとえ本当にはハイリゲンシュタット、すなわちウィーン郊外であったとしても、そして今では観光地となった新種のぶどう酒を飲ませる「ホイリゲ」が立ち並ぶ界隈が、夏の間いかに豊かな輝きを見せるか、を考えても、この田園は私のこだわりの中で「ドイツの」しかもやや寒い田園でなくてはならないのです。かといって精神病ではなく、自然の風景に豊かに共感する内面的充実を持つものです。

北ドイツ交響楽団を指揮したギュンター・ヴァントの演奏が私の最も好きな演奏のひとつでした。しかし、ここに新たに加わったコレクションは、この偉大な指揮者がやはりそういう演奏をしていたのか、と敬意に似たものさえも抱かざるを得ない素晴らしいものだったのです。その演奏とは、Great Recordings of the Centuryシリーズで見事にリマスタリングされた1957年録音のクレンペラーの指揮する「田園」だったのです(カップリングはプロメテウス序曲、コリオラン序曲、エグモントの序曲を含む数曲で、これがまた素晴らしい!)。

この「田園」、遅く始まることは言うまでもありませんが、その確固たる足取りは他を寄せ付けない「冬の」田園です。しかしフィルハーモニア管弦楽団の明るい音色が、不思議にこの演奏に重苦しさを与えていません。これはまぎれもなくオーストリアの田園ではありません(かといってイングランドの風景とか言い出すと一体何を根拠に行っているのかわからなくなるので、この辺で止めておきます)。むしろ「絶対音楽」としての自然描写をこれほど見事にやってのけた演奏は、他にはありません。この「田園」に聞くベートーヴェンの確固たる足取りに、その後の発展を見せる大作曲家の精神風景を感じることが出来ます。

このような演奏、なかなか出会えるものではないと思います。というわけで、私の「田園」を巡る旅も、一段落をつける時がやってきました。ついでに、どうしてもウィーン風の明るい田園を聞きたい向きには、S=イッセルシュテット盤を私の推薦盤リストに加えることとしたいと思います。また最近流行りの南欧風田園をどうしても聞きたい時には、ムーティ盤を聞くことをお奨めします(こちらは全集として推薦盤リストに入っています)。

(2003年)

2012年4月12日木曜日

ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 ①ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団


「田園」は私が最も愛するベートーヴェンの音楽である。それはひとことでは語り尽くせない。とにかく私は「田園」が好きで、過去に何度もこの曲について書いてきた。自分の古い日記(は当然まだインターネットもブログもなかった頃に遡る)にも度々登場するこの曲、それをギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団により演奏されたCDを聴いた時の感想が残っている。少し恥ずかしいが、私がまだ20代だったことをお断りして、下記にコピーする。なおカップリングは第5番。これも名演である。

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思えばこれまで何度「田園」の名演レコードに感動してきたことでしょう。40年代のフルトヴェングラー、50年代のワルター、クライバー、60年代のクレンペラー、セル、70年代のベーム、カラヤン、バーンスタイン、デジタルの80年代はテンシュテット、と枚挙に暇がありません。しかしヴァントはこれらの過去の名演に勝とも劣らない結果を残してくれました。これは90年代を代表する名演となるのは間違いないでしょう。

「田園」の第1楽章の冒頭から考え抜かれた特徴的なパッセージで始まります。それはたった1小節で聴くものの心を掴むのに十分効果的です。続く主題のメロディーが少し遅すぎるのではないか、と考える人がいるかもしれません。しかし少したつとその完璧なまでの美しさに耳を奪われます。心地よい起伏が何度か繰り返されていくうちに、この演奏がやがてはどれほど見事なものに仕上がるかを想像してしまうことでしょう。「田舎に着いたときの愉快な気分」そのままの表現で、ドイツの風景が目に浮かびます。イタリア系の指揮者からはこの雰囲気が出てきません。ウィーン・フィルの明るい風景でもなく、ここはあくまで「ドイツ」なのです。

第2楽章でも完璧なまでの美しさが持続します。それはクライバーやワルターのような典雅なものではなく、非常に素朴です。バーンスタインのように人間味あふれるものではなく、飾り気のないものです。またカラヤンのように都会的(郊外的?)でもありません。しかしこれが無機的かというと決してそうではないのです。素朴だからといって古くはなく、むしろ大変新鮮です。オーケストラも第1級の技術で不足感など全く感じません。非常に自然で素朴で、それでいて新鮮で美しいのです。

第3楽章は木管の美しさに感動します。ここではしばしば「ドイツ的」とされる演奏にみられがちな「洗練のなさ」が当てはまりません。かつてのベーム盤がおそらくは最も対応されて論じられるべきでしょう。しかしウィーン・フィルとの盤ではむしろ「余分なもの」がベームの意図した表情を阻害した感が否めません。ブラームスやモーツァルトの晩年の演奏が、それ以前の録音に比べて「音楽が甘い」感じがするのは私だけではないでしょう。年をとって細かい指示が行き届かなくなり、オーケストラの技量に頼って指揮をするようになったのは、ベームのみならずカラヤンでも見られた現象です。しかしヴァントは違います。

第4楽章の「嵐」のシーンでそのことが明確に示されます。嵐は突如やってきて瞬く間に物凄い勢いで爆発します。しかしここでもまた、その迫力は過度の重々しさに陥ることはありません。第5楽章に入っていく部分に、この演奏の真骨頂があります。それは嵐が過ぎ去っていくにつれて徐々に、非常にゆっくりと、しかし確実に「感謝の気持ち」に変化していきます。主題がそれは美しい管楽器によって示されます。そしてそれに続く弦楽器の見事なまでの響き!この表情を何と表現したらいいのでしょうか。恍惚の気持ちが心地よい起伏を伴いながらも、一定のレヴェルで淡々と持続します。叩いても壊れることのない頑強さを内に秘めながら、しかもなめらかに喜びの気持ちが歌われるのです。

いまだかつてこのような見事な「田園」を聴いたことがありません。聴きおえて「ああよかった」と独り感じてしまいます。第5楽章の表現などは特にフルトヴェングラーやバーンスタインといった歴代の演奏とは違ったものです。そしてこの曲にかくも新鮮で見事な解釈を与え得たのは奇跡としか言いようがありません。そう、そういう演奏なんだよ、望んでいたのは!

この恐るべき「田園」の後に第5番が始まります。ああ何ということでしょう!そこでもまたヴァントの指揮は魔法のように心を引きつけるのです。

第1楽章の十分に激情的な表現と、おそろしくロマンティックなカデンツァ。そこでふと我を見つめるのです。しかし間もなく繰り返される「運命の動機」ここにはまぎれもなくべートーヴェンが存在します。正攻法的解釈がこれほど見事に表現されるなら、他の演奏は一体何だったんでしょうか?それは第2楽章と第3楽章で如実に現れています。

第4楽章。このおそらく最もべートーヴェンらしい音楽に私は何度感激したことでしょう。小澤征爾がボストン交響楽団と共に北京を訪れ、中央人民管弦楽団と合同演奏をしたときのこの楽章を雑音混じりの北京放送で聞き、それをテープにとっては毎日10回も聴いたものでした。メロディーが頭を離れず、短波の雑音とともにそれは私の脳裏に焼きついて離れませんでした。

以来何度かこの曲を聴く度に、私はあの時の感激を追い求めていたのです。しかし初恋を二度することができないように、フルトヴェングラーの47年盤、カルロス・クライバー盤、バーンスタイン盤、ジュリーニ盤などの超ド級の名演ですら、いや小沢のテラーク盤ですら二度とあの時の感激を味わうことはなかったのです。

しかし、このヴァント盤は当時小学生だった私の感動の記憶をその時と同じほどにまで思いおこさせるものでした。CDのような媒体に録音されたもののうちでは最も完璧に演奏された第5の一つであり、しかもその表現は正統的なものなのです。第4楽章はインテンポの表現で圧倒的な推進力が横溢しています。決して破綻を来すことなく、しかも極めて重厚です。もう何も言うことはありません。この演奏を聴きなさい。恐らくは今後少なくとも10年間はこの曲のベストであり続けるでしょう。

(1994年)

2012年4月11日水曜日

ベートーヴェン:交響曲第5番 ②エーリヒ・クライバー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

伝説的な指揮者カルロス・クライバーの父でもあるエーリヒ・クライバーの演奏には、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を代表として、ウィンナ・ワルツなど名演奏が多い。どれも決定的とはいかないまでもなかなか優れたものだが、残念なことにほとんどがモノラル録音である。そのせいかあまり評判にはならないが、ベートーヴェンの交響曲には「田園」や「エロイカ」などが代表的な演奏として名を残している。第5番も、それらに負けない演奏である。

ここでどうしても話は、エーリヒの息子であるカルロスとの比較となってしまう。それはこの2つの演奏が、やはりどう考えてもよく似ているからだ。例えば第2楽章。旋律を浮き上がらせていくところや、第4楽章で少しテンポを落として、フレーズの隅々までをきっちりと明確に演奏するあたりである。カルロスの演奏は1975年の録音で、私はそのLPレコードを中学3年生のときに聞いた。確か2400円だったレコードには、この曲が1曲しか入っていなかった。

それから翻ること約20年の1952年の録音で、オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団である。デッカによる録音なので細部まで明確だが、アムステルダムの比較的明るい音色が合っている。なお第4楽章の繰り返しは、当時の慣習で省略されている。

カップリングの「田園」についても一言。この演奏は特に第2楽章が名演だと思う。初めて効いた時には、その味わい深い雰囲気に酔ったものだ。これにくらべて第1楽章などは比較的快速である。そしてこの「田園」は、息子の演奏(オルフェオから発売された唯一のライヴ録音)などよりもはるかにいい。「田園」には素晴らしい演奏が多いが、これもその一つである。

エーリヒ・クライバーは結局ベートーヴェン全集を残していない。カルロスもまたいくつかの曲を演奏しただけである。私は長い間、カルロスが第9や「フィデリオ」を演奏する日を心待ちにしていたが、これも結局、かなわぬ夢となってしまった。モノラルで聞くエーリヒの演奏に、職人として時代を駆け抜けた淋しげな親子の姿を、どうしても見てしまう。演奏が素晴らしいだけに、それが初春の一夜の宴のように、はかないのである。そう言えば満開だった桜も、今日の小雨で随分と散ってしまった。


2012年4月10日火曜日

ベートーヴェン:交響曲第5番 ①ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

昨今ベートーヴェンの交響曲は録音されすぎている。演奏会ではさほどでもないが、世界でリリースされるベートーヴェンの交響曲のディスクの数は、近年でも衰えることがない。過去を振り返っても、そういえばそんな演奏があったのか、という発見をすることが多い。まだ聞いたことのない古い録音も数多くあり、興味は尽きないというわけだ。

ベートーヴェンの交響曲を録音するからには、それなりの覚悟があってのことだろうと思う。なんたってベートーヴェンの交響曲である。古今東西の残る録音と比較されることはわかった上でのことだろうし、リスナーとしてもすでに耳にタコができるくらい聞いているわけだから、ちょっとしたことでも指摘を受けかねない。それでもベートーヴェンの録音がこれほど多いのは、やはり何と言っても曲の魅力が尽きないからで、しばらくするとまた違った演奏で聞いてみたいと思うし、実際聞いてみたら新たな発見をすることも一度や二度ではないのだから。

とりわけ第5番のハ短調交響曲は、その数が突出して多いと思われる。全集にならなくても5番だけが単独で発売されることだってよくあることだ。レコード会社も売れるのだろう。そういうわけで、第5番をライヴ収録したレコードが昔から沢山あった。私の手元にも、そのような全集とは切り離された第5番が何枚もある。カルロス・クライバー(ウィーン・フィル)、サイモン・ラトル(ウィーン・フィルとのライヴ)、クルト・マズア(ニューヨーク・フィルハーモニック)などである。また手元にはないが、カルロ・マリア・ジュリーニ(ロサンゼルス交響楽団)、グスターボ・デュダメルなども思い浮かぶ。その中から私のお気に入りは、ゲオルク・ショルティがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したライヴで、1990年の録音、カップリングはショスタコーヴィッチの第9番。

かねてから2度ものベートーヴェン全集を録音したショルティは、手兵シカゴ交響楽団との演奏が多いが、たまにウィーンに赴くとそこでなかなかいい録音を残すことがあった。シューベルトの第8番「グレート」もそのひとつであるし、ウィーン・フィルとの歴史に残る金字塔であるワーグナーの「指環」は、このコンビが成し遂げた最高の遺産である。ショルティは、その鋭角的な指揮がぶっきらぼうで、何とも音楽的センスに欠ける時があるというのが率直な感想だが、ウィーン・フィルとの演奏となるとその傾向に一定の歯止めがかかる。ウィーン・フィルの職人的な保守性が、このハンガリー生まれのピアニスト!を手玉に取っている、と言うと言い過ぎかも知れないが、とにかくそのような「歩み寄り(妥協)」が見られるのが好ましい。

というわけでこの第5番もショルティの特徴とウィーンの伝統が面白く融合して、なかなかの名演奏となっている。私は第4番や第6番などと違って、この曲の重々しい演奏は苦手だ。颯爽としたスマートな演奏なら、そこそこの演奏でも私には好ましい。ショルティ以外の演奏では、上記やこれまでにで触れたもの(ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団)以外では、例えば以下のものが私の印象に残る(思いつき順)。

アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
小澤征爾指揮ボストン交響楽団
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
金聖響指揮オーケストラ・アンサンブル金沢
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団
リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

第3楽章の静かなピチカートに入る前のフーガで、低弦の響きがこの演奏の注目点である。他には第1楽章のオーボエのソロ、それから終楽章での健康的な演奏もいい。曲がいいのだからあまり難しいことを言わずに、音楽に身を任せて聞くことが好きだ。いい演奏が目白押しなので、毎日違う演奏で聞いても飽きることはない。こんなに何度も演奏されるのだから、ベートーヴェンはお墓の中でさぞ驚いているのではないか、と思う。

2012年4月9日月曜日

ベートーヴェン:交響曲第4番 ②カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(69ライヴ)

カール・ベームという指揮者は私が中学生の頃に最後の来日をして、車椅子に座りながらベートーヴェンの第7番などを指揮したが、この当時、すでに往年の名指揮ぶりとは違う老境の域に達していて、すでに過去の面影はなかった。また我が家にあったベートーヴェン全集なども、どちらかと言えばウィーン・フィルの力を信じて演奏している感もあり、「田園」などは結構な名演として知られてはいたが、まあそれくらいしか印象に残る指揮者でしかなかった。

むしろかつての歴史的名演奏の数々は、レコードで知ることとなる指揮者である。それらはモーツァルトの「コジ・ファン・ツゥッテ」、ベートーヴェンの「フィデリオ」、ワーグナーのバイロイト・ライヴ、それにベルリン・フィルとのブラームスなどだが、このまだ若々しい頃の指揮を知れば知るほど、音楽の味わいというものを思い知る。今では聞かれなくなった感のある演奏は、ある意味でレトロであり、それでいてモダンでもある。リヒャルト・シュトラウスの一連の演奏などは、その両面が出ているような気がする。

さてこの1969年のザルツブルク音楽祭のライヴも、かつてのベームを知る貴重な録音である。まるで止まりそうなテンポで始まる序奏は、印象的なピチカートではっとするような生々しい音に揃い、後半になるにつれて静かな熱を帯びてくる。全体的に遅いテンポも、この曲の魅力を伝えている。もしかしたら重々しいような演奏のほうが、この曲の姿が良くわかるような気がするのは、単なる慣れのせいなのだろうか。歴史的録音というほどではないのかも知れないが、昔のライヴの雰囲気を捉えたステレオ録音と、今では懐かしいような響きに魅せられるディスクである。

なお、このCDの他の部分にはこの日のプログラムであるマーラーの「さすらう若人の歌」(メゾソプラノ:クリスタ・ルートヴィヒ)と、これまた名演のシューマンの交響曲第4番が収録されている。

ベートーヴェンの第4番の名演奏で他に思いつくのは、ベームの追悼演奏会をライヴ収録したカルロス・クライバーによる演奏(バイエルン国立管弦楽団)や、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によるライヴである。前者は今では珍しくない猛烈なテンポによって、オーケストラの一部がついていけないほどの緊張感と躍動感に驚愕した覚えがある。一方、後者はそれと同じテンポでありながらオーケストラが意地でもついていくことが更に驚きである。共産主義的な減点主義が生んだ類稀な名演というべきか。

2012年4月8日日曜日

ベートーヴェン:交響曲第4番 ①リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団

ムーティのベートーヴェン全種は、隠れた名盤だと思う。だが録音が悪い。その悪さは、この演奏がいいだけに悔しいくらいだ。もともとフィラデルフィアのホールは音質の悪さで悪名高い。だがこの時期に録音されたムーティの演奏のすべてが悪いわけではない。例えば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などはなかなかだと思うし、その後の音楽監督サヴァリッシュの録音でも、ここまで悪いものはない。というわけでこれはムーティの貴重な演奏を知る素晴らしい録音であるにも関わらず、存在感は薄い。

ムーティの演奏は、今風のトスカニーニという感じと言えばまあ当たらずしも遠からず、というところだろうか。だが録音は残響を伴っており、しかも全体の音が広がりをもっていない。下手をすればモノラル録音ではないか、という感じの、何か別の部屋で聞いているような捉え方である。従ってモノラルながら残響を排除して独特の緊張感を維持したトスカニーニのようには聞こえない。

このムーティの全集で、例えば第7番やハ短調の第5番などは特にいい演奏だと思う。その中から第4番に登場してもらうわけだが、この第4番という曲はなかなか難しい曲だ。この曲がいい曲に聞こえる演奏がなかなかないのである。そこで思い出すのはクレンペラーの遅い演奏とか、バーンスタインの迫力ある演奏である。特にバーンスタインのウィーン・フィルの演奏は、私にとって初めてこの曲の魅力を実感した最初の演奏だった。

遅くても速くても、噛み締めるような演奏が、私にとっては印象的だった。それにくらべると、このムーティ盤は何か流れていくようなところがあって、これはイタリア風の演奏ということなのかも知れない。そのような感覚は演奏のスタイルの違いというべきだろうかと思う。ドイツ風の骨格のあるしっかりとした演奏と、イタリア風の柔らかくて陽光が降り注ぐような演奏。その違いを実感するための、後者の代表選手のような演奏である。そのような違いを楽しめるようになると、演奏による甲乙などはむしろどうでもいいような気がする。

1988年の録音なので、今のエッジの効いた演奏とは一線を画す。かと言って古いスタイル、というわけでもなく、そのように片付けてしまうには少し勿体無いような演奏。ベートーヴェンが聞きたくなって、他の有名な演奏ではない演奏を聞きたい時に、このムーティの全集はなぜか重宝する。

2012年4月7日土曜日

ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」 ②ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

エロイカの歴史的名演奏の筆頭にあげられるのは、やはり何と言ってもウィルヘルム・フルトヴェングラーのものである。フルトヴェングラーのエロイカは、私が中学生だったころには、2種類あった。ひとつが戦後ソビエトに没収された1944年のもので、「ウラニヤ盤」と呼ばれた幻の演奏だが、そのころにはもう廉価版で入手することができた。この演奏は戦時下のドイツでなされたもののライブ録音で、手に汗握る白熱のものだったが、録音がすこぶる悪く、そのことがかえってこの演奏の魅力にもなっていた。丁度バイロイトの第九のように。

今ひとつのエロイカは、戦後にスタジオ録音されたもので、1952年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのものである。長い間、フルトヴェングラーのエロイカ正規盤はこれで、私が今日取り上げるのもその演奏である。私のコレクションの中で、フルトヴェングラーのベートーヴェンとしてはこれを代表的なものとして飾ってあり、そのジャケットはLPでの最初の発売時のものを採用した99年のリマスタリングCDである。ジャケットの裏には、これもLP時代の解説がそのまま縮小コピーされており、LPで聞いていた中学生の頃を思い出させてくれる。

「フルトヴェングラーの解釈は、テンポはどちらかと言えばゆっくりしており、鋭い緊張感に支えられながらかなり大幅に伸縮するが、それが全曲を一貫しておおきくうねるように起伏するダイナミックと相俟って素晴らしく重厚でスケールの大きい雄渾な迫力を感じさせる。」などど書かれた文章には、楽譜の一部までコピーされていて、限られた情報の中で勝手に大演奏家のイメージを膨らませていた頃が懐かしい。学校から帰ってくると、おもむろにレコードの針を下ろし「これがあのフルトヴェングラーの演奏か」などと友人たちと言い合いながら、次はクレンペラー、次はワルター、などと聞いていた。

だがこの演奏はフルトヴェングラーの一連の演奏中でも、非常に折目正しいというか、楷書風なのであって、目もくらむようなアッチェレランドなどを期待すると裏切られる。それでどこがいいのか、ということなのだが、割にきっちりと音楽が刻まれるのは、むしろ好ましいと感じるし、それでいてフルトヴェングラー流のテンポを抑えた大時代風のフレーズも聞かれる。90年以降になって、戦時中のベルリン・フィルとの演奏も数多くがリリースされ、フルトヴェングラーの神格化されたイメージも今では等身大の評価へと落ち着いた。それでもフルトヴェングラーが活躍していた時代にしかなされなかったような演奏の雰囲気が、ここからは感じられる。まさに歴史的録音なのである。

このフルトヴェングラー流の演奏をいまやろうとすると、おかしなことになるだろう。だがモノラルのレコードでしか聞いて来なかった私などとは違い、生の演奏を聞いたことのある世代(はもうかなりの高齢である)などは、ティーレマンやバレンボイムの演奏に接すると、懐かしいと感じるのかも知れない。私は、そういう演奏はモノラル録音でなければ、雰囲気が感じ取れないのである。第4楽章などは非常に遅く始まって少しづつテンポを上げる。そのような演奏が、作為的ではなく何か自然の成り行きでできてしまうようなところが、魅力とでも言おうか。

なお、ついでながらフルトヴェングラーのベートーヴェンとしては、私はこの他に第5番の白熱のある演奏(ベルリン・フィル)も好きだが、「田園」にも思い入れがある。特に第5楽章の嵐のあとのゆっくりとした流れの中で風が吹いてくるあたりのムードは、他の演奏に代えがたい。同様のことが第7番の全体、とりわけ第2楽章にも言える。ここで聞く演奏は、フルトヴェングラーでしか有り得ないし、それが言わばベートーヴェン演奏のひとつの極をなすものと言える。そして第9番では、第1楽章の終盤と第3楽章の止まるかのような遅い演奏に、初めて聞いた時から心を打たれた。だが、これらの演奏は超のつく名演であるため、取り出して聞くことは極めて少ない。

一方、「エロイカ」の他の演奏ではクレンペラーの録音に未練が残る。クレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を振った演奏には2種類あって、モノラルの古い方が素晴らしい。またトスカニーニやワルターの演奏やバーンスタインのウィーン・フィル盤にも親しんだ時期がある。そしてカラヤンの颯爽とした録音(フィルハーモニア管弦楽団のものと60年代のベルリン・フィルとのもの)については、今聞いても新鮮である。フルトヴェングラーの演奏の流れを汲む古楽器系としてはブリュッヘンのものが有名で、私も持ってはいるがあまり楽しくはない。

2012年4月6日金曜日

ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」 ①コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン

「エロイカ」の冒頭で音楽史が変わった。このアルプスの峰を仰ぎ見るような、とてつもない大規模な曲の最初を指揮するとき、その瞬間の緊張を想像することができますか、と大指揮者は語った。なるほどそういうものか、と私は長い間納得してきたし、今でもそう思っている。

「シンフォニア・グランデ」とは「大規模な交響曲」という意味だろうか。それまでの常識を覆し、ベートーヴェンのベートーヴェンたる所以とも言えるような大作を、遂に三作目の交響曲において成し遂げるベートーヴェンは、やはり偉大であった。そしてそのような曲だから、ここは堂々と、しっかりとした演奏で聞きたい。遅くても充実感があり、実力のある音楽が真剣に鳴り響く演奏・・・。

そのような聞き手にうってつけの録音が、コリン・デイヴィスがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した90年代の全集からの一枚で、記憶が正しければこれはその時の最初のリリースだったような気がする。ところが待ちに待っても次が出てこない。そしてどういうわけかいきなり全集が発売されたと思いきやもう廃盤となってしまい、フィリップスというレーベルも店仕舞いする始末に・・・。時代はもう逆戻りできない古楽器奏法の時代になっていたのである。

だからデイヴィスの全集はほとんど顧みられることなく、こだわりのファンだけが買い求める不遇の全集となってしまった。もともとこの武骨なイギリス人指揮者の演奏の好きな人など、そういるわけではない・・・単に力任せの演奏なんて・・・というわけである。だが、ファンはいるもので熱心な人はコリン・デイヴィスと聞いただけで胸踊り(私もそういうところがないわけではない)、シュターツカペレ・ドレスデンと聞いただけでコレクションに加えるような人が・・・それもそう少なくないのである。

デイヴィスとドレスデンの伝統オケががっぷりと組み、それをデジタル録音したこのCDは、だから私の大のお気に入りである。全集として持っているもののなかで、いわゆるベーレンライター版、あるいは古楽器奏法流のものを除けば、これはムーティと並ぶ私の伝統的ベートーヴェン全集のコレクションである。その中から、どの曲を選ぼうかと思ったが(どれも捨てがたいのだが)、やはりここはエロイカに登場してもらった。

何も言うことはないが、第1楽章の長々とした主題提示部を律儀にも繰り返してくれるが、それがうれしくて堪らない。もうその頃にはすっかりデイヴィス調の耳になっているので、あとは遅くても緊張感の失われない重厚で美しい音色を追いかけていくだけである。葬送行進曲もたっぷりと聴きごたえがあるし、後半の音楽になったからといって力を抜くどころか、ますます熱を帯びてくるあたりは、真面目な演奏の極みである。結局、長い曲をまたもしっかり聞いてしまう。このような演奏は少くなったが、どれかひとつ置いておくとすれば、私は躊躇なくこのデイヴィス盤にする。そして他の人が何を言おうと、私はそれで満足なのである。

2012年4月5日木曜日

ベートーヴェン:交響曲第2番 ②ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団

いわゆる歴史的な録音の部類に入るものからもベートーヴェンの各交響曲について一枚づつ選ぶこととした場合、第1番のアルトゥーロ・トスカニーニに続いて選ぶとすれば、文句なく第2番はブルーノ・ワルターということになる。そして誤解を怖れずに言えば、この演奏は戦後に録音されたワルターの演奏としては最高の出来栄えであると思う。ここでもカップリングは第1番で、つまり第1番と第2番の組み合わせのCDは、私は4枚も持っている。

注目の第2楽章は、昨日紹介したノリントンの演奏の対極にあるものと言えるのではないか。こちらの演奏は、まさに歌う音楽そのものである。ワルターがいつもこのような演奏をしていたかは定かでないが、良く親しんだモーツァルトなどを知る人にとって、これはまさに音楽的な演奏である。ワルターの良さが出ている。そしてそういうワルターらしさが出ている演奏の中でも、この第2番の完成度は非常に高い。

第1楽章の序奏からパーフェクトである。主題が出てくるあたりからは熱も帯びてきて、この目立たない作品がちょっとした迫力の演奏となっていく。このあたりがむしろ驚きということか。それに対してラルゲットの第2楽章は想定通りか。でも今聞くとその逆の印象もある。第1楽章が想定通りで、第2楽章はいまでは「有り得ない」演奏だと。ノリントンの演奏とこの演奏を比較すれば、クラシック音楽の楽しみを端的に知ることができる。演奏によってこうも表現が違うのか、ということだ。同じ作曲家であるにもかかわらず。

だがそのような経験をもたらすその音楽こそ、偉大であると言うべきだと思う。どのような演奏で聞いても、やはりいいものはいいのである。ワルターは私にとって思い出深い指揮者である。それは初めてクラシック音楽を真面目に聞いた演奏が、ワルター指揮コロンビア交響楽団の「英雄」であったし、初めて自分のお金で買ったLPレコードが、やはりワルター指揮コロンビア交響楽団のモーツァルト序曲集といういものだったからだ。

ある時期私は、ワルターの演奏こそが音楽だと信じていた。アイネ・クライネ・ナハトムジークの冒頭で、少しウィーン風の間合いのある演奏が、大好きだった。「フリーメーソンのための葬送音楽」というのに触れて、何とも言えない感動を覚えたのも、あるいは「リンツ」交響曲の練習風景を収めたレコードに聞き行って、みるみるうちにモーツァルトの音楽が生まれてくる魔法のような指揮にも驚いたものだ。

今ではワルターの演奏を聞くことは少くなった。だがこのような体験は私の原体験である。もしかするとワルターは若い頃、戦前のドイツで活躍していた頃はもっと荒々しく、荒れ狂う指揮者だったのかも知れない。だが米国に移住してからのステレオ録音は、そのような姿を感じさせない。もしかするとそれは、嘘のような姿かも知れない。だがこの第2番の両端楽章では、若々しい頃のワルターが垣間見える。そして緩徐楽章では、よく知られたワルターの味わいが捉えられている。このシリーズにしては良い方の録音で、今ではこのディスクが、私の唯一のワルターのCDということになっている。いやブルックナーの第9番を除いて、だったか。

2012年4月4日水曜日

ベートーヴェン:交響曲第2番 ①ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレーヤーズ

いわゆる古楽器奏法の中でも、今では古典的な部類に属するロジャー・ノリントンの旧盤は、1987年のリリースである。ヒストリカルな録音でもなく、最新盤でもないこのような演奏のCDは、もう廃盤になっているか、そうでなければ大幅なディスカウントにより廉価発売されている。この演奏もノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した新録音が出たことにより、割を食ってしまったと言える。私もとある中古屋でたった200円ほどで手に入れたぐらいだが、これは大変な名演奏で、この地味な作品に新たな風を吹き込んだ「歴史的な」演奏である。

その第2番の演奏で、私がもっとも惹かれているのが第2楽章である。かつてのルバートを多用した演奏とは違い、古楽器系の演奏は快速で変な情緒がない。それは全くといっていいほどあっさりしているので、初めて聞いたときは「これが音楽か?」と感じたものだ。ビブラートに代表されるように、あるいは演歌のように、メロディーはたっぷりと抑揚を聞かせ、時には音を震わせて「歌う」、それが「音楽というものだ」と音楽の時間にならったか、あるいは知らず知らずのうちに思い込んでいた。

だが最近の演奏は、その考えを裏切る。けれども慣れてしまえばこんなに清々しい演奏はない。丁度春が来てコートを脱いだ時のように、新鮮である。この演奏で聞くラルゲットは、ベートーヴェンが指定したメトロノームの指示に従っている。ピアニストだったベートーヴェンはもしかしたら、このような速い演奏を思い描いたのかも知れない。その速度指示がCDの裏面に表示されている。

この曲の第2楽章を聞くと、一日中頭の中で鳴っている。だが、第1楽章と第4楽章の迫力も実に堂々としたものだ。この両端楽章は、私はとても充実していて完成度が高いと思う。これにラルゲットとスケルツォが加わって、大変魅力的な作品が第2番だ。ノリントンの演奏は、その新しい魅力を伝えてやまない。

2012年4月3日火曜日

ベートーヴェン:交響曲第1番 ②アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団

ベートーヴェンの交響曲第1番の最も素晴らしい演奏は何かと考えていたら、やはりここに行き着いた。それはアルトゥーロ・トスカニーニがNBC交響楽団を指揮した演奏で、手元にあるのは1951年カーネギー・ホールでのモノラル録音である。もちろん音楽評論家のようにすべての演奏を比較したわけではないし、特に音楽的な知識を有しているわけでもないので、これはひとりの愛好家の意見であることをお断りしての話である。

この第1番を聞くと、もう半世紀以上も前の演奏であるにもかかわらず、現在リリースされているどの演奏よりもキビキビとしていて、聴き劣りがしないばかりか、もうすでにこのような演奏があったのに、今の演奏家はすることがなくて大変だなあ、などと思ってしまう。そのくらいにこれは、突き詰めた完成品である。第2楽章のカンタービレも、イタリア人にしかできないような雰囲気で素敵である。第3楽章の舞踏風のリズムも、このように刻めばなるほどなあ、という感じがしてくる。総じて現在に通じるような演奏スタイルの原型があるように思える。

トスカニーニを起点にカラヤンを経て、いまでは数多くの指揮者の演奏が存在するが、その流れも源流はこの演奏ではないかという感じである。そう考えれば、すべてのベートーヴェンの交響曲がそうなのかも知れないが、あまりトスカニーニばかり聞いているのも面白くないので(そういう聞き手もいるが)、私はトスカニーニについてはこの第1番で代表させておこうと思う。

この他の演奏で思い出に残っているのは、これまでに触れた物以外では、バーンスタインのウィーン・フィルによる演奏、それからやや個人的ではあるがショルティの90年代の演奏といったところだろうか。まだよく聞いていない演奏では、ライナー盤とマリナー盤に興味がある。

それにしてもこの演奏の第4楽章は圧巻である。まるで春の嵐のような演奏だが、そう言えば今日の首都圏は「爆弾低気圧」が列島を北上し、台風並みの大嵐となった。そういう日にこの演奏を聴いている。録音が古いことを残念に思う向きにはムーティによる演奏が推薦できようか。ただムーティの全集は大変な名演奏だが、これがデジタル録音であるにもかかわらず、非常に透明度の悪い点が何とも悔やまれる。

2012年4月2日月曜日

ベートーヴェン:交響曲第1番 ①ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

ここからは、一度触れたベートーヴェンの交響曲について、主として好きな演奏の観点から、思いつくまま書いてみたいと思う。全ては私のディスクのコレクションで、聞いていない演奏については書いていない。

ハ長調の第1交響曲は、私にとって長い間、馴染めない曲だった。もちろん曲のメロディーは口ずさめるほどに聞いているのだが、なかなかいい曲だとは思うことがなかった、というのが正直な感想だ。そのため比較的後になって聴き始め、いまでは最高に好きな曲となった第2番とは、対照的であった。そのような中でウォルフガング・サヴァリッシュがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して90年代に録音したベートーヴェン全集の中から、この第1番を聞いた時には、初めて名演奏に出会った気がした。

何となく春の初めの頃の海岸を行くようなイメージがある。それで丁度今の時期、まだ桜が咲くか咲かないかの日に、明るい陽光が降り注ぐような感じのこの演奏は、NHK交響楽団でもお馴染みの指揮者によるもので、驚きがある演奏では決してない。どこまでもサヴァリッシュの演奏だと思うようなところがある。私はサヴァリッシュが好きなので、このようなベートーヴェンの演奏は甚だ好ましい。第2楽章のそぞろ歩くような感じがまた何ともいい。早歩きの最近の演奏風ではないが、かといって遅すぎない。何の変哲もないが、そこが気に入るか、どうか。

第3楽章のスケルツォ風メヌエット、第4楽章も中庸の演奏で、パン、と明るい音がする。全体に落ち着いていて、いまでは聞かれなくなった感じの演奏だな、などと考えてしまう。録音がいいのがこの演奏のいいところだが、このCDは他に第2番、第3番「英雄」、そして第8番のカップリングである。無圧縮のPCオーディオによる再生で、何か聞き古したような演奏が、細部にまでクリアに蘇って嬉しい。ちょっと保守的な感じがするが、音は現代風で、そのようなところがサヴァリッシュ風である。

2012年4月1日日曜日

サントリーホールのオープンハウス

毎年恒例のオープンハウスに家族と出掛けた。11時の開演に合わせて到着したが、物凄い人出である。今年はまだ桜も咲いておらず、この時期としては大変寒い。それでも天気が良かったので、大勢の人でごった返しており、しかも広場では市場のような催しもあった。

午前中に室内楽を小ホール(に入るのは初めてだった)で聞いたり、子供とツアーに出かけたりして時間を過ごす。横浜シンフォニエッタの演奏会で、ツィゴイネルワイゼンや古典交響曲の演奏を聞いていたら、もう2時になっていた。アークヒルズのレストランで遅い昼食を取り、同行した息子の友人一家としばし歓談。花や野菜を買い物して帰宅した。

いつもはコンサートで年数回は出かけるサントリーホールも、今日はすべて無料で公開。バーではいつものように500円でプレミアム・モルツも販売されていたが、これは飲みそこねた。新年度初日とはいえ、今年は日曜日。主な社会生活は明日から始まる。震災でそれどころではなかった昨年と違い、今年は少しは明るいか。冬がこれほど寒かったのは久しぶりだと思う。そう言えばまだ春を実感する日がほとんどない。だが、それももう少しで終わるのだろう。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...