2019年5月28日火曜日

ヴェルディ:歌劇「運命の力」(英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ・シーズン2018/19)

これまで何度も「ヴェルディの階段」を昇り降りしてきた。「ヴェルディの階段」とは私の造語で、ヴェルディ作品の発展を段階を意味している。1階にはまだベルカントの様式を残しつつも、若さとエネルギーに満ち溢れた初期の作品の数々が、2階部分には「リゴレット」「椿姫」「イル・トロヴァトーレ」を代表とする中期の作品群が、そして3階にはこのたび触れることになった「運命の力」や「ドン・カルロ」などの充実した大作が並んでいる。階段はまだ続き、上階には「アイーダ」が、さらに上には「オテロ」、最上階には「ファルスタッフ」といった具合である。

いずれも力溢れる名作ばかりの作品を、その初期の作品を除けばほぼすべて、実演かもしくは映画館でのライブ上演で接したことになる。ただ「運命の力」だけが残っていた。この作品は、「仮面舞踏会」や「シモン・ボッカネグラ」と並ぶ玄人好みの実力作品で、ストーリーに華やかさこそないものの、ドラマチックで重量感に満ちた「まさにヴェルディ!」と言いたくなるような作品である。「運命の力」には序曲がつけられていて、その高カロリー、ハイ・パワーな曲を聞いただけで身震いがするほどである。

「運命の力」がなかなか上演の機会に恵まれないのは、豪華な歌手陣を揃えることの困難さに加え、その歌唱が大変に難度の高いものだからであろう。陰惨なストーリーには、ソプラノとテノールによる「愛の二重唱」もなく、代わりにバリトンとテノールが決闘しながら歌うシーンが何度も登場する。祈りのシーンも多く、宗教色が強い。加えて、演出の難しさも指摘するべきだろう。場所はセヴィリャ、イタリアなど各地に亘り、時間の経過も大きい上に、そこに差しはさまれる滑稽な宴会シーンが、全体の集中をそぎ落としかねない。

そういった困難さを乗り越えて、今年の英国王立オペラハウスでは、一般前売りの前から全公演のチケットが売り切れるという前代未聞の事態が起こったらしい。それはキャストを見れば納得が行く。カラトラーヴァ侯爵の娘レオノーラにソプラノのアンナ・ネトレプコ、レオノーラの恋人でインカの血を引くドン・アルヴァーロに、テノールのヨナス・カウフマン、復讐に燃えるレオノーラの兄ドン・カルロに、ヴェルディ・バリトンの第一人者ルドヴィク・デシエという布陣である。ついでにグァルディアーノ神父にはバスのフェルッチョ・フルラネット、ジプシー女のプレツィオジッラには、ヴェロニカ・シメオーニ、グァルディアーノ神父と好一対をなすコミカルな神父、メリトーネにアレッサンドロ・コルベッリ、カラトラーヴァ侯爵には往年のロバート・ロイドが第1幕で少しだけ出演している。指揮はアントニオ・パッパーノ、演出はドイツ人のクリストフ・ロイ。

 運命の力は、ひょんなことから一家を滅亡に追い込む陰惨な結末となる。こういった舞台はスペインこそ相応しい。だかヴェルディはこのオペラを、サンクト・ペテルブルグからの依頼で作曲した。初版の台本は「椿姫」や「リゴレット」を手掛けたピアーヴェが担当し、ヴェルディ自身もジュゼッピーナ夫人を伴って極寒のロシアへ赴いている。だが、初版の結末があまりに惨かったこともあって、改訂作業にとりかかる。病床のピアーヴェに代わって台本の改定作業を行ったのは、後に「ドン・カルロ」と「アイーダ」の台本を手掛けるギスランツィオーニだった。

改訂版の最後では、それまで共に死ぬ設定だったドン・アルヴァーロのみが生き残り、天国に上るレオノーラと、彼らを見守るグァルディアーノ神父との美しい三重唱によって消えゆくように終わることになった。今回のコヴェント・ガーデンでの上演もこの改訂版に基づいている。

さて、舞台はパッパーノの指揮する見事な序曲から始まる。序曲のシーンですでにパントマイムが演じられるのは最近流行りの傾向だが、この舞台では子供たちが英国式の食事をとっているシーンから始まる。この子供たちは、幼いレオノーラや兄のドン・カルロが厳格な父に厳しくしつけられている。みな上流階級の衣装をまとっているが、これは舞台を20世紀前半に移しているからだ。このカラトラーヴァ侯爵家の一室が、これ以降に続くすべての舞台が演じられる共通空間となっていく。このことによって、舞台が散漫になることを防いだという見方もあるが、初めて見る私としては何とも物語に広がりがない。戦場のシーンも修道院のシーンも、あるいは第3幕の宴会のシーンも、同じ空間なのである。

第1幕に入っての見どころは、レオノーラの駆け落ちへの葛藤と、ドン・アルヴァーロの投げ捨てたピストルの暴発シーンである。レオノーラは愛する父親に反逆して駆け落ちを決意するが、それまでの父と娘のやりとりは、またもやヴェルディが全作品で見せた「父と娘」の愛情物語で、ここでもか、と思った。ここでレオノーラはまだ純情な少女だが、この舞台での紅一点の彼女は、このあと第2幕で男装した旅行客に、第4幕で一気に老けた修道女として登場する。その歌唱の見事な変化が、このオペラの最大の見どころのひとつかも知れない。もちろん、ネトレプコはこの変化を見事にこなし、それどころか今や彼女はヴェルディのすべてのレパートリーを満点でこなす大女優としての一面を、安定的に示し得た、まさに面目躍如たる円熟の舞台であった。特に第2幕の幕切れで、僧侶たち(男声)に合わせて歌うレオノーラの祈りは、ヴェルディの音楽が心に染み渡る瞬間だった。

第2幕がレオノーラ中心の舞台だとすれば、第3幕と第4幕の第1場はドン・アルヴァーロとドン・カルロの舞台である。男声二人による目まぐるしい関係の変化を、カウフマンとデシエは丁々発止繰り広げる。その不幸な出自ゆえ翳りがあって輝かしいカウフマンの声や容姿も役にピタリとはまっているが、それにも増してヴェルディらしさに溢れていたのは、デシエだったと思う。

3人の主役がそれぞれ第一の持ち歌を歌うシーンに、観衆が大声援を送る様は見ていて気持ちがいいのだが、それに加えてこのオペラの多彩な見どころが、今回のシネマ・ライブでは楽しめる。すなわち、ジプシー女の小唄「太鼓の響きに」(第2幕第1場)、物売りが戦地に登場して舞台が一気に乱痴気騒ぎと化す「タラプラン」(第3幕第2場)などである。これらの滑稽な挿入は、そこことがかえって悲劇性を助長するという効果をもたらすが、それも一歩間違えば、冗長さのあまり緊張の糸が切れかねない。だがそのことに関しては、今回の演奏と演出は大成功だったと言える。舞台で繰り広げられる、まるでミュージカル風のダンスは、見ていて楽しいものだったし、かといって連続する暗いストーリーを邪魔するものでもなかった。

幕間のインタビューで再三再四指摘されたのは、この作品の持つ宗教性とヴェルディ自身の教会との関りである。なぜなら教会の欺瞞と通俗性が、ことのほか強調された台詞が多いからだ。けれども一方で、ミサ曲にも通じるような歌詞とそれにつけられた祈りの音楽が、例えようもなく美しいのもまた事実である。祈りの作品は二人の神父の性格を際立たせることによって、大変見ごたえのあるもにになっている。すなわち、グァルディアーノ神父とメリトーネである。特にメリトーネを演じたコルベッリは、そのやや小柄で小賢しい歌によって、ピタリと役にはまり聴衆の拍手も一等多かったような気がする。

パッパーノの充実した指揮は、この長い作品を通して常に目を舞台に釘付けにする重要な役割を果たしていたことは、もはや言うまでもない。全体に完成度がすこぶる高い作品に仕上がった今回のシネマ・ライブだが、私はこれまでMETライブ(もう10年以上続き、私はこれを80作品以上見て来た)とパリ・オペラ座ライブ(最近やっていないようだが) しか見たことはなく、英国ロイヤル・オペラまで同様の企画をしていたとは最近まで知らなかった。今回の上演を見る限り、その完成度はなかなか高い。インタビューが中心で、幕間の舞台裏まで見せるMETとは異なり、むしろ作品に焦点を当て、その内容を掘り下げるというやり方は、作品の見るべき焦点を定めさせてくれる。

私はふだん東京のどこかでシネマ・オペラ作品を見ているのだが、今回は関西への出張が重なり、悩んだ挙句、西宮のTOHOシネマでみることになった。直前まで上映時間がわからず、予定を組むのが大変だった。さらに言えば、5000円と言う値段はいくら何でも高すぎるだろう。そういうことで、若干の不満もあるのだが、上映された作品自体については、前評判通り文句なく最高峰の見ごたえであったことは確かである。これで私は「ヴェルディの階段」に登場する主要作品のすべてを、このブログに書くことができた。あとは初期の作品をひとつずつ、楽しんでいく日々が待っている。すでにムーティのBOXセットを買ってある。私は重量級の後期作品よりも、初期の若きパワーの爆発する作品の方が、実は好きなのかも知れない。

2019年5月27日月曜日

NHK交響楽団第1913回定期公演(2019年5月18日、NHKホール)

どうしようかと迷った挙句、前週に引き続いてN響のコンサートに出かけた。同じ月ではあるものの指揮者は変わり、今回のCプログラムはエストニアの重鎮、ネーメ・ヤルヴィである。今は80歳を超える旧ソ連の老指揮者は、レニングラート音楽院で学び、ムラヴィンスキーに師事した。アメリカやイギリスでの活躍も有名で、録音した曲はカラヤンを超えるという噂もあるほどだ。私もシャンドス・レーベルより発売されているいくつかのCDを持っているし、日本との関係も深いようだが、実は一度も実演に接したことがない。息子のパーヴォはN響の音楽監督だから、こちらの方は何度もあるのだけれども。

だが、私はこの演奏会の記録をこれまで1週間も書くことができなかった。大きなショックに見舞われていたからだ。理由は3つある。第1にネーメ・ヤルヴィの音楽が、そのCDで聞ける以上のものではなかったこと、第2に満を持して座ったS席の隣の女性が、コンサートの間中寝続け、それはフラフラと時折私の視線を脅かし、さらに驚くべきことにそれがプログラムの最後まで続いたこと(この人は一体何のために来ているのだ?)、第3にトゥビン、ブラームスと続く曲の如何ともしがたい悲劇性に辟易し、少なからぬ戸惑いを感じざるを得なかったこと、である。これらはいずれもネガティブな印象を私に残した。まあ、実際のコンサートは良い時もあれば悪い時もある。客観的に言えるわけではないのだが、少なくとも私にとっては、失望以上の混乱を巻き起こしている。そのことについて、主に書いておきたい。

ネーメ・ヤルヴィがもはや細かい指示の効かなくなった指揮者であることは間違いがなく、若い頃の演奏がどうだっかまでは知る由もないのだが、この指揮者は細かい表情を付ける以前にオーケストラの自主性を重んじていたようだ。こう書くとポジティブな表現だが、言い方を変えれば、オーケストラの技量に頼っている。少なくとも今回のN響との演奏は、そのように感じた。だから称賛されるべきは、指揮者が細かく言わなくても大いに真面目な演奏することができるN響のすぐれたアンサンブルだろう。そのことがかえって音楽を平凡なものにしたことは言うまでもない。もちろんネーメなりの大きな部分の骨格は、この指揮者のものだ。だがそれは、テンポを速めて情緒を排したものであることは数々の録音からも知る事ができる。

今回の演奏会におけるネーメの作る音楽は、そういう理由から極めて凡庸なものだ。そこにそうとは感じさせないものを何とか維持したのはオーケストラの優れた素質に基づくものであることはすでに述べた。巨匠指揮者にあるような大家としてのオーラが感じられたわけでもない。この場合には、細かい指示ができなくてもそこからは極めて音楽的な表情をオーケストラから引き出す類稀な演奏があり得る。だが、今回の演奏はそのレベルからは程遠いものだ。ブラームスの交響曲第4番第2楽章などを聞けば、それがいかに無味乾燥なものだったかがわかるだろう。

ただ、最初の曲、シベリウスの短いが印象的な「アンダンテ・フェスティーヴォ」においてはヤルヴィの良い面が表現されて、精緻で丁寧な演奏だったことは触れておきたい。けれどもこの曲は、唯一シベリウスが自作自演した録音が残っていることが知られているけれども、わずか5分ばかりの曲である。続くトゥビンの交響曲第5番は、この作曲家を知らしめた功績で知られるヤルヴィの、いわば第一人者としての評価が、他の評論を寄せ付けない。スウェーデンへの亡命を果たしたトゥビンの、母国エストニアに対する思い(あるいはソ連に対する抗議)は、自らアメリカへ渡ったネーメの経歴にも重なる部分があるのかも知れない。それゆえにこそ生じる一種の確信に満ちた足取りは、オーケストラから鋭いドラマチックな演奏を引き出した。

私の隣に座っていた女性が頭を揺らし始めたのは、難解で聞いていてそれほど心地よい音楽ではないトゥビンの曲が始まって直後のことだった。私は今回の演奏会で、初めて1階のS席に座ったのだが、考えてみればこのような高価な席では、むしろ客層が良くないと感じることもしばしばである。そして驚くべきことに、この女性の居眠りは、休憩を挟んだ後半のプログラムの間中、途切れることはなかった。おそらく大半の聴衆が期待しているブラームスの交響曲の第2楽章あたりまでは、まあ眠くなることもあるだろう。だがしかし、第3楽章の、結構賑やかな部分を経て最終楽章に至る頃には、オーケストラの音量も集中力も増してくると、一種興奮に似た心境に(このたびの演奏でも)達するものである。

オーケストラを前の方で聞いていると、見た目にもその熱量は伝わってくるわけで、その間中を寝て過ごす理由が私にはわからない。さらに驚異的なことは、演奏が終わるとこの女性は、眠りから覚めて拍手をし始めたのだ!天気のいい初夏の休日の昼下がりに、生のオーケストラの演奏を聞きながらうたた寝をするほど贅沢なことはない。けれどもそのために1万円近い金額を支出し、しかも周りの客に迷惑をかけ続けるまともな理由は見当たらない。

想像するにこの席は彼女の両親の予約席だった。この両親はいつも連れ立ってホールに足を運ぶのだが、今回に限っては何かやむにやまれぬ事情があったか、あるいはプログラムが気に入らなかったのか、出かけることができなかったのだ。母親は娘にこう言ったのだろう。「今日はお父さんの体調が悪いから、私たちは行けないわ。あなたもたまにはクラシック音楽でも聞いてみたら?」そういわれた育ちのいい娘は、一緒に行く彼氏や友人もおらず、単身着飾ってコンサートに出かけてはみたものの、どうも難解で難しい曲ばかりで退屈である。とうとう日ごろの疲れに呼び寄せられた睡魔が彼女の体を覆ったに違いない。そういえば彼女の隣の席は空席だった。

だが彼女に同情する要素が、わずかにでもあるとすれば、それはこの演奏が平凡だったことに加え、ロ短調(トゥビンの交響曲第5番)、ホ短調(ブラームスの交響曲第4番)というプログラムの悲劇性だ。ロ短調と言えば「未完成」(シューベルト)と「悲愴」(チャイコフスキー) で有名な濁った趣きの調だし、ホ短調と言えばマーラーの交響曲第7番を思い出す。悲しみの調である。

私はブラームスの交響曲第4番という曲が、どうもあまりしっくり来ない。この曲はすでにマーラーが活躍していた時代であるにも関わらず、あまりに古い様式の曲である。ロマン派後期の斬新性を兼ね備えていると言うが、それが積極的に表現されると非常に激情的な演奏になるし、それらを隠してロマンチックな情緒を前面に押し出すと、通俗的な曲に陥る。後者の場合には、第2楽章などをゆっくりとしたテンポに落とすだろう。日本人の多くのファンが好む演奏である。だが、そういった演奏は、この曲の持つ本来の魅力を伝えていないような気がする。このたびのネーメの演奏は、「枯淡の境地」などと言われる抒情的な演奏の対極にあって、むしろロマン性を排除さえしている。けれども、クライバーの目の覚めるような演奏や、その後にリリースされた多くの古楽器風の演奏の後では、あまり語ることにない古風な演奏のひとつでしかなかった。

多くの期待を抱き、それなりの資金を投じながら、これらの理由が重なってあまりに悲劇的な結果に終わったこのたび演奏会も、演奏自体に技術的欠陥は見当たらず、暖かい拍手に包まれた。ネーメの若い頃の指揮を知らないが、おそらく息子はその演奏の良い部分と悪い部分を彼なりに分析し、受け継いだに違いない。パーヴォ・ヤルヴィの、もっと統制された、見通しが良くてリズミカルな演奏を聞くと、その違いがわかって面白い。そういう意味で、来月のパーヴォの指揮が、また楽しみではある。

2019年5月12日日曜日

NHK交響楽団第1912回定期公演(2019年5月12日、NHKホール)

ゴールデンウィーク明けの週末には、毎年タイ・フェスティバルが代々木公園で開催される。足の踏み場もないような人込みの中を、NHKホールに向かうのは、それだけで大変な労力と時間を要する。そのような週末に、何も定期公演をすることもないだろうに、と毎年思うのだが、決まってこの週末は演奏会が開かれる。NHKも気を使って、いつもは通れない通用口を開放し、便宜を図っている。そうでもしなければ、容易にたどりつくことができないのだ。

そこまでして出かけるには、どういうわけか毎年、この5月の定期に見逃せない演目が組まれるからだ。今年のAプログラムは指揮者にエド・デ・ワールトを迎え、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と、アダムズの「ハルモニーレーレ」という異色の組合せ。ピアノ独奏は、デ・ワールトを同じオランダ人のロナルド・ブラウティハム。後者は1985年の作品で、初演時の指揮をしたのがデ・ワールトだったというから、聞き逃す手はない。このミニマル音楽の作品は、とても恰好が良くてエキサイティングな曲で、現代音楽にもかかわらず数多くのディスクがリリースされている。

私は先月、自分自身のクラシック音楽鑑賞の一区切りとして、シェーンベルクの「グレの歌」を聞き、ベートーヴェンから続く芸術音楽(それはロマン派の音楽と言ってもいい)を俯瞰する有名作品の最後を鑑賞したつもりだった。もうしばらくコンサートにもいかないかも知れないと、その時は思ったものだった。ところが早くも、一昨日にはワーグナー・アーベントと称される新日フィルの定期に出かけ、「パルジファル」の音楽などを聞いたところだった。すると今回聞いた「ハルモニーレーレ」は、その第2部が「アンフォルタスの傷」と名付けられている。つまり「パルジファル」と同じ聖杯伝説を題材としており、その音楽ではマーラーの交響曲第10番にも用いられた和音が鳴るという。

そもそもこの作品はロマン派の音楽を強く意識した作品である。解説によれば、題名「ハルモニーレーレ」自体、シェーンベルクの同名の著作から取ったものだという。「和声楽」を意味するこの単語は、調性に対する大きな関心から派生している。つまりいみじくも、4月に聞いたシェーンベルク、一昨日聞いた「パルジファル」に通じる作品として、今日の「ハルモニーレーレ」が存在しているということになる。偶然とはいえこの連続性に私は何か運命的な関連を感じている。

7割程度しか客席が埋まっていないというのに、私はいつもの自由席ではなく、A席を購入した。1階右寄りの最後部である。隣の席はすでに埋まっていると思っていたが、実際に座ってみると両隣2席ずつ、そして前の列にもほとんど人はいない。だからリラックスして聞くことができる。ここではオーケストラの音が、おそらくすべて直接波で届く距離で、しかも指揮者のタクトが良く見える。ベートーヴェンの「皇帝」を引くブラウティハムは、古楽の奏者として知られており、従って今回使用されるであろうフォルテピアノは、そもそも音量がさほど出ないから、近くで聞くべきだと考えた。アダムズの大迫力は、やはり近くで堪能したい。そんな理由が私をA席に誘った。

オーケストラが登場すると、その前に設置されていたのは通常の(モダン楽器の)ピアノだった。そして指揮者がタクトを振り下ろした時の冒頭の和音を聞いて、私はやはりN響の音はいいな、と心から思ったのだった。

ずっしりと重い音がフォルテで鳴っても、決して濁っていない。それが身近で鳴った時の身震いを覚えるような感覚は、前方席の効果である。さらにはピアノ音の綺麗なこと!ブラウティハムは大きな体をピアノの前で揺すりながら、まさに「皇帝」に相応しいような華麗さで、一気に最後まで走り抜けた。伴奏も中庸を得た安定感のあるもので、まるでCDをそのまま聞いているようなきれいな音のブレンドが展開された。私にはブラウティハムのピアノは、どこか小節をわずかに早く始めるような、つまり少し流して弾いているようなところが目に付くのだったが、熱烈な拍手に応えて演奏された「エリーゼのために」はうっとりするような演奏だったと付け加えておきたい。

今年から20分に延長された休憩時間によって、老人たちもゆっくりとトイレを済ますことができるようになったことは喜ばしいことだ。そしてロビーから帰ってみると、舞台上のオーケストラが2倍程度に増強されている。最後列にずらりと並ぶ数多くの打楽器が、この位置からではちょっとわかりにくいが、解説によれば以下のものだ。

ティンパニ、マリンバ、ビブラフォン、シロフォン、テューブラ・ベル、クロタル、グロッケンシュピール、サスペンディッド・シンバル、シズル・シンバル、シンバル、ゴング、ベル・ツリー、タムタム、トライアングル、大太鼓、ハープ(2台)、ピアノ、チェレスタ。

指揮者がタクトを下すと最初に鳴った冒頭の音に、またもやのけぞるような驚きを禁じ得なかった。大音量になって鳴り響く連続音の嵐!この迫力は、やはり再生機では再現できないものだ。音楽はやはり生で聞くものなのだ、などと思う暇もなく叩きつける和音が、次第に早くなっていく。「寸分の狂いも許されないほどに精緻に構成された」第1部は、サンフランシスコ湾に浮かぶタンカーが空に飛び立つようなイメージだというが、そんなこともどうでも良い。

私は良く見える指揮者のタクトを追ってみた。デ・ワールトはさりげなく、手慣れた手つきで拍子をとっているのだが、一体どこでどう入ればいいのか、よく奏者はわかるなあ、などと感心してしまう。その拍子は3拍子、4拍子あるいは6拍子を繰り返しながら、様々な音が重なってゆく。ミニマル音楽独特の刻むリズムが、一定の時間を経過後に微妙に変化し、その変化を暫時的に繰り返しながら、複雑な音色を重ねて行く。メロディーを期待しない方がいい。何かロックを聞くような感じで体を揺するが、そこはクラシック音楽である。時折拍子が変わったり、珍しい楽器が飛び出したりと、飽きることなどない。

第2部に入ると、それでもミニマル音楽の特性は影を潜め、末期ロマン派の不協和音が取り入れられている。が、メロディーというものが感じられない。つまり、第1部では調整があってリズム中心の和音の反復、第2部が調性のある不協和音の音楽(もしかしたらクラシック音楽の愛好家はここの部分がもっとも馴染み易いかも)、そして第3部では再びミニマル音楽に回帰する。

第3部でも反復される音楽が、打楽器をより多く加えて快速に走る。その陶酔をも感じさせるような心地は、音楽を生理現象として捉える必要すらあるのかも知れない。リズムは3拍子が中心のように思えたが、デ・ワールトは丁寧に拍子を刻んでいる。楽団員がよくついてくるな、さすがはプロだな、などととりとめのないことを考えながら、こんな指揮でもひとつ間違ったら大変ことになると思うと緊張感が伝わって来る。そのスポーティーな気分は、聴衆を浮き立たせていったに違いない。終わるとまたたくまに多くのブラボーが飛ぶ。身を乗り出して拍手する人たちが、1階席にも大勢いた。もはや巨匠の域に達するデ・ワールトの、これは職人的な棒さばきだった、と思う。迫力と興奮に満ち、N響の力量と指揮者の熟達の安定感に感服した圧巻のコンサートだった。

シェーンベルクによって壊された調性が、ここで再び意味をもたげているのが面白い。もしかしたら、これは「その先」を開いた音楽なのかも知れない。つまり調整は無視できないということだ。今日のコンサートはベートーヴェンの「皇帝」で始まったが、この作品は変ホ長調で始まる。そして「ハルモニーレーレ」もまたフラット3つの変ホ長調で終わる。

2019年5月11日土曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会・ジェイド#606(2019年5月10日、サントリーホール)

これまで在京の6つの主要なオーケストラを、折に触れて聞いてきたが、新日本フィルハーモニー交響楽団だけはどういうわけか、感動したコンサートがなかった。といっても数えれば、ほんの数回しか聞いていないので、まあ運が悪かっただけなのかとも思っていたが、最近は特にプログラムや指揮者にこれという魅力が感じられず、結果的に私にとって、これまでにもっとも印象に残らないオーケストラだった。

その新日フィルは、日本フィルハーモニー交響楽団から分裂する形で、1972年に小澤征爾らによって設立された、比較的歴史の浅いオーケストラである。だからなのか、昔から楽団員に女性が多いという印象が、私にはあった。テレビ番組「オーケストラがやって来た」で舞台に上がるのは、山本直純が指揮する新日フィルだった。音楽監督は初代が小泉和裕、第2代が井上道義、第3代がクリスティアン・アルミンク、そして現在は上岡敏之となっている。近年は墨田区に拠点を移し、錦糸町にあるすみだトリフォニーホールを中心に活動をしている。

私は、上岡敏之という指揮者のことをほとんど知らなかった。私よりも6歳年上の、やや痩身の彼は、随分昔からドイツの歌劇場などを中心に活動をしていたみたいだが、これまでに聞く機会もなく、それに加えて外国でも特に大きな評判となるような指揮者でもなかった。2016年に新日フィルの音楽監督に就任してからは、我が国での演奏の機会も増えたようだが、専らドイツ音楽に定評があるその指揮も、総じて地味な印象だった。けれども、演奏会を知らせるチラシを読むと、歌劇場での下積みを着実にこなし、大器晩成型を思わせるその経歴に、私は興味を覚えた。コンクールで優勝するような若い指揮者にはない、本場物の味わいがあるのではないか、そのように思ったのである。

もっとも私は今回の、ワーグナーの主要作品ばかりを並べた定期演奏会に行くことを決めたのは、開演のわずか20分前のことで、サントリーホールのチケット売り場で、当日券があることを知った時だった。チケットは非常に多くが売れ残っており、実際、会場に入ってみると約5割か、それ以下の入りだったと思われる。期待を抱く人が少ない演奏会だとしたら、その出来にも影響を与えるのではないかと少々不安にもなったが、オペラではない形態でワーグナーの曲ばかりに耳を傾ける機会は、案外そうあるものでもない。オペラハウスでは視覚的な要素が優先され、それはワーグナー自身も望んだことだが、オーケストラはピットの奥に入って音響効果も悪く、いわば主役をドラマと、それを演じる歌手に明け渡すような部分があるのは否めない。オーケストラと指揮者も、歌手や演技に合わせるだけの注意を持つのそうでないのとでは、おのずと音楽自体の完成度に影響が出ることは自然なことではないか。

プログラムの最初は歌劇「タンホイザー」から序曲とバッカナールで、これはパリ版に基づくということになる。「タンホイザー」の序曲は、中世の巡礼の道に深く入り込んでいく旅路への荘重なプレリュードだが、ドレスデンを追われたワーグナーが、亡命先のパリで演奏するために書き換えられたこの序曲は、終盤からドンチャン騒ぎになっていく。不本意にバレエを挿入する慣例に従ったワーグナーは、むしろ余計な部分を最初にまとめ、以降は純粋に音楽に浸れるようにしたのではないか、という気がする。

ここでは少しオーケストラにまだ硬さが見られたが、こういう賑やかな音楽は、次の楽劇「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」に向かうための、いい準備運動となったようだ。「トリスタン」の不協和音が響き、それが最後まで合わさることなく進む斬新な音楽である。この重要なモチーフをオーケストラが鳴らしたとき、私は身震いのようなものを覚える。上岡の指揮する新日フィルは、こういう精緻な部分にまで神経を行きわたらせるもので、外見上の派手な動きも、音楽的な効果も抑制的なのだが、それでいて芯があり、さらには計算された原典への判断が垣間見える。

私は「トリスタン」がかくも美しく聞えたことはなかった、とさえ言おうと思う。新日フィルの、ちょっと技術的な問題を差し置いても、この徹底的に細部にこだわった客観的なアプローチは可能であることを示していたと思う。会場にいる、おそらくはこの演奏を聞きたいと思う人だけで構成された聴衆が、物音ひとつ立てず音楽に聞き入る様は、ちょっとした芸術的な瞬間をも生み出した。音楽が消え入るように終わるたびに、私は目を閉じて静寂の長い時間を味わった。もういいだろうと目を開いても、指揮者は腕を下さない。その時間が魔法のように続く。何十秒かして沸き起こる拍手には、派手なブラボーこそないものの暖かさに満ちており、それはまた演奏者と聴衆の満足感が一体化したひとときでもあった。

休憩を挟んで演奏された楽劇「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」で、私はヤノフスキが東京・春・音楽祭で見せた流れるような演奏を思い起こした。レコードで聞く大袈裟な演奏とは一線を画す等身大のワーグナーは、そのように慣習的な効果を排除した結果、むしろ新鮮で新たな発見に満ちている。「ジークフリートの死と葬送行進曲」は、ワーグナーが作曲したもっとも素晴らしい曲だと思うが、ここを演奏する金管楽器奏者の緊張感は、今はやりの言葉で言えば「半端ない」だろう。やや余裕がなかった感もあるものの、新日フィルはちゃんとこの部分をこなした。ただやはりこの曲は、5時間余りに及ぶ、いや「ラインの黄金」から聞いて来た後にやって来る音楽だ。ここだけを聞いても、その感動は中途半端である。

長い楽劇の序曲と最終部をつなぐ暴挙を、ワーグナー自身が「トリスタン」でやっているので、まあ他の曲でも同様の試みがあってもいい、ということなのだろうか。プログラムの最後は舞台神聖祝典劇「パルジファル」の第1幕への前奏曲と、第3幕のフィナーレであった。このような曲を、どんな小さな音が鳴り響いても(それは例えば、チャイコフスキーの「悲愴」のフィナーレを何分の一かに小さくしたような音だった)、それを演奏している緊張感を持ちながら進む様は、奇跡的であるとさえ思うほどで、実際、聴衆がざわめいてもいけないわけだから、そういっても過言ではない。「パルジファル」の厭世的とさえ言えるような虚無感に溢れた音楽が滔々と流れ、私の心の中まで染みわたっていく。今日のコンサートは前後左右に人もおらず、ゆったりと聞くことのできる理想的な環境だった(採算の面では心配だ)。

最後の「空白時間」は30秒以上にも及んだと思う。そして指揮者は各パートを個別に立たせ、聴衆の拍手は切れることなく続いた。新日フィルのコンサートで経験した初めての感動。それは、オーケストラというよりも上岡の丹念で飾りのない音楽づくりに起因するものではないかと思われた。この指揮者でブルックナーを聞いてみたいと思った。もちろんそれは、そう遠くない時期に実現するであろう。


日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...