2017年2月26日日曜日

ブルックナー:交響曲第0番二短調(スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団))

「零」という概念を発見したのはインド人と言われているが、この概念は単に数字が1の一つ前の整数、という「数」を表す以外に「無」、すなわち何もない、ということも意味する。この二つの概念は、コンピュータ科学、特にプログラミングでは意味が違う。「0」という定数を表す場合と、「値を持たない」という場合とを明確に区別する必要があるからだ。

「無」の方の「ゼロ」は「Null」と言うことがある。手元の英語の辞書でnullを引くと「無効の」「価値のない」「空の」などと言った意味が記載されていた(ジーニアス英和辞典)。この言葉の語源について一度きっちリ調べてみたいと思っているのだが、ドイツ語でNullteというと零番目という意味となり、このNullteがブルックナーの交響曲ニ短調の、いわばニックネームとなっている。交響曲第0番と言われる作品である。

この作品が我が国で初演されたとき、その模様はNHKテレビで録画放送されたのを覚えている。当時私は中学生で、地元大阪の大フィルがテレビに登場するのが珍しく思ったからだろう。演奏は朝比奈隆だった。ブルックナーの作品自体、まだ珍しい時代だから、私の最初のブルックナー体験になったことに相違はないのだが、その時の印象は「何もない」。演奏も凡庸だったと思うほど何かとりとめのない、地味な作品だと思った。それから私は交響曲第4番「ロマンチック」を始めとして第7番、第6番、第3番「ワーグナー」といった作品を好むようになって、改めて第0番に戻ってきた。この作品を、まあちょっとは聞いてみようかと思ったのだが・・・。

この時に買ったCDがポーランド人の作曲家でもあったスタニスラフ・スクロヴァチェフスキであった。1999年の録音で、この時に録音された一連の演奏はブルックナー全集となっている。後に買った第7番などは1990年頃の録音だから、全集の最後の方に録音されたことになる。だがこの録音を聞くと、すでに若い頃からブルックナーらしい音楽が作曲されていたことがわかる。

第1楽章の静かな雰囲気はまるで室内管弦楽のための作品のようだし、第2楽章の美しく透明な響きは、私には冬の夜の運河に映る都会の灯に奇妙にマッチして、何も考えすに佇む心落ち着く時間を想起させる。それもそのはずで、私は冬の夜にひとり散歩をしながら、ブルックナーを聞くことが多い。特に明日からまた忙しい一週間が始まると言う前の、日曜日の夜がいい。この時間帯、都会の片隅の運河界隈には、犬を散歩させる人たちや釣り糸を垂れる若者、ジョギングに勤しむ人など、様々な人々が残りわずかな週末の時間を過ごす光景を目にすることができる。もちろんそのそばを私はウォークマンでブルックナーを聞きながら通り過ぎる。

スクロヴァチェフスキは2000年以降の東京の音楽シーンにあって、ちょっとした巨匠であった。読売日本交響楽団やNHK交響楽団にたびたび客演し、もう80代にもなるというのに矍鑠とした姿で指揮台に登場しては、椅子にも座らず暗譜で見事なベートーヴェンやブルックナーのシンフォニーを聞かせてくれたからだ。ファンも多かった。彼が指揮する時には、あの広いNHKホールの3階席もほとんど埋まった。私も「エロイカ」を聞いて耳を奪われ、ブルックナーの作品に聞き惚れた。記念にCDを買って帰り、心地よい眠りについた記憶も新しい。けれども90歳を超えてなお現役のスクロヴァチェフスキも、とうとう帰らぬ人となった。

骨格のしっかりとしたゆるぎない演奏は、彼自身が作曲家でもあり、特に20世紀音楽に対して特別な感覚を有しているからではないかと思う。ある時な擬古典的な、ある時は前衛的なこの時代の音楽は、科学技術の時代の音楽である。それでもオーケストラという、すべて人の手による楽器集団を彼はリアリスティックに裁いて見せる。一点の違いもおろそかにしない音楽は時に冷たく感じることもあるが、現代の電子楽器に気になれた耳には、そういう演奏で聞くモーツァルトやベートーヴェンもまた、フレッシュであった。そして私はまた彼自身の作品を耳にすることもあった。だがもうその音楽を生で聞くことはできない。

ブルックナー自身が「取るに足らない」と名付けた第0番交響曲は、45分にも及ぶ大作ながら静かで落ち着いた曲である。第3楽章になってスケルツォとなり、やや躍動的になるが、第4楽章はまた内省的である。録音も少ないこのような曲が、コンサートで取り上げられることもほとんどなく、従って耳にする機会もほとんどない。大作曲家が「ゼロ」と名付けたという事実によって、この作品は良く知られている。その珍しい曲を真面目に、そしてきっちりと演奏しているのがスクロヴァチェフスキの録音である。

このCDには作曲家としてのスクロヴァチェフスキ(ミスターSと言う)の側面も感じることが出来る。余白(といういい方が相応しいのかわからないが)に弦楽四重奏曲ヘ長調から第3楽章「アダージョ」を管弦楽曲に編曲したものが収録されているからだ。この曲を初めて聞いたが、第7番の交響曲第2楽章を思わせるような、大変美しい曲に聞き惚れてしまった。それはまさしくブルックナーの交響楽そのもので、もしかしたら第0番なっかよりもずっと聞きごたえのある曲に、私には感じられた。

私のスクロヴァチェフスキとの出会いとなったこのCDを改めて聞きなおすことにしたのは、彼の訃報に接したからに他ならない。そして例によって冬の日曜日の夜の都会で運河の向こうにそびえる高層建築を眺める。時折モノレールが音をたてて通り過ぎてゆく。勤労者として明日からの一週間に備える、少し緊張感を感じるそんな時間を、無機的な都会の夜景の中で過ごすとき、スクロヴァチェフスキの演奏するブルックナーほと似合っているものはないと感じる。

2017年2月19日日曜日

ロッシーニ:序曲集(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

米坂線というローカル線がある。JR米沢駅から新潟県の坂町までの90キロ余りを主に荒川に沿って走る。米沢は奥羽本線の大きな駅で山形新幹線も停車するが、その米沢駅の隅っこにある目立たないホームから、わずか二両編成の列車が出発してゆく。

米沢盆地の初春を私は22歳の時に数週間ばかり過ごしたことがある。自動車運転免許証を合宿で取るため、ここの赤湯温泉に滞在し、長井市にある教習所へ通ったからだ。雪解けが続く4月初旬のことで、遅い春を待つ北国の風景は私にとって思い出深いものである。

その地方都市にある教習所は、マイクロバスによる送迎を非常に広範囲に行っており、もっとも遠くは新潟県との県境にある町、小国であった。教習が終わって最終日に、私は大阪へ帰ることになり、福島に出て東京経由で帰るよりも新潟から帰れないかと考えた。一緒に過ごした新潟大学の学生と、同じく神戸へ帰る同い年の学生の4人で、マイクロバスの運転手に交渉したところ、快く坂町まで送迎してくれることになった。坂町は小国を越えて日本海側に出た羽越本線の小さな駅である。

この時にバスで通った道は国道で、薄暗く雪深い中を猛スピードで走行し、夜の坂町に到着した。そこの駅前で風変わりなカレーライスを食べた後新潟へ出て、そこからは夜行列車(急行「きたぐに」)の普通車で大阪へ帰った。

前置きが長くなったが、そのルートを通る米坂線に乗る機会があり、何十年ぶりかに訪れた米沢は深い雪の中にあった。小国を越えて坂町まで行くルートは、吹雪が途切れることはなく、その風景は寒々として私をしばし憂鬱にさせた。こういう時、何か陽気な音楽でも聞きたいものだ、と思った。そうしたら手持ちのWalkmanにカラヤンのロッシーニがコピーされているではないか。さっそく聞いてみる。ローカル線の心地よい線路音に合わせ、クレッシェンドのリズムが響く。

ここで私は歌劇「ウィリアム・テル」序曲を久しぶりに聞いた。小学校の音楽鑑賞会以来、何度も親しんできた曲だが、ここのチェロの静かなメロディーがカラヤンの十分に長い時間をかけてゆったりと演奏されるとき、北国の冬景色は囲炉裏の前で暖を取る光景に変化したし、それから続く嵐のシーンもまた、窓の外で横殴りに打ち付ける雪の粉に奇妙に合わさって私を快い気分にした。

カラヤンがこの頃に録音した一連の歌劇等の序曲集は、いずれも完成度が高く、こういったオーケストラの小品集でもまた、カラヤンでなければならないと思わせるような、真面目で純音楽的である。それはロッシーニだからイタリア風に、とかオッフェンバックだからフランス風に、といった固定概念を越えている。例えばスッペやヨハン・シュトラウスにしても、カラヤンはベルリン・フィルと演奏して録音を行っている。そのいずれもが、今聞いても色あせるどころか、昔はこういう作品のひとつひとつに丁寧に耳を傾け、心を躍らせていた少年時代があったのだなあ、と懐かしく思う。

「セミラーミデ」は最も長大だが、一番聞きごたえがある曲で、私は他の誰の演奏で聞いても最終的には好きになる。一方「どろぼうかささぎ」序曲は3拍子の浮き立つようなリズムが新鮮で、この曲を初めて聞いた時などは、しばらく耳にみびりついて離れなかったくらいだ。聞き古した「セヴィリャの理髪師」をカラヤンで聞くと、やはり音楽というのはいいな、と思う。

というわけでロッシーニの心洗われるようなリズムとメロディーに耳を傾けているうちに、私を乗せたがら空きのローカル線は坂町へ到着した。ここの駅前でかつて私を驚かせたカレーライスを出した食堂がまだあるだろうかと探したら、どうやらそれらしい店が見つかった。30年以上ここは何も変わっていないように見える。その時は夜だったが、今回私はお昼の羽越線を新潟方面へ向かう。すると向こうのほうから光が差してきた。新潟平野は雪も少なく、そこだけが青空に輝いている。通学途中の高校生が乗ってきては下りてゆくのは、昔も今も変わらない。信濃川を渡り新幹線の高架が見てくるころ、列車は新潟駅に到着した。


【収録曲】
1.歌劇 「セビリャの理髪師」序曲
2.歌劇 「どろぼうかささぎ」序曲
3.歌劇 「セミラーミデ」序曲
4.歌劇 「ウィリアム・テル」序曲


※今回取り上げたCDにはこのほかにスッペの序曲が収録されている。かつて我が家にはロッシーニの序曲のみを収録したLPレコードがあって、上記の他に「絹のはしご」「アルジェのイタリア女」が収録されていた。クラウディオ・アバドの序曲集(2種類ある)と双璧をなす演奏として親しんだものだ。もっとも当時、レコード雑誌で絶賛されていたのはトスカニーニであったのだが。

2017年2月18日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(The MET Livein HD 2016-2017)

ヴェルディが大作曲家として成功する最初のきっかけとなった29歳の時のオペラ。その序曲が流れ始めた時、私はまたいつものように胸に熱いものがこみ上げてきた。この作品を見るときは、序曲とそれに続く合唱の、情熱と迫力に満ちた圧倒的な音楽に、しばし心を奪われる。私は、まだベルカントの様式を残した初期のヴェルディ作品が好きだが、この作品にはすでにヴェルディにしかない音楽の量感といったものが宿っていて、私をさらに虜にさせている。

レヴァインは序曲をあくまでたっぷりと、メロディーを大切にしながら悠然と指揮をする。続く第1幕でも、その流れを変えることはない。歌手の方が緊張して、どうもぎこちないのだが、それでもレヴァインは確信的に自分の指揮を貫く。観客は歌手の力んだ姿と、実力を出せばもっと素晴らしい歌を歌うことを知っているのだろう。ブラボーはいわば歌手に対する応援であり、その日にチケットを買って足を運び、時間を共有する自分も脇役とばかりに声援を送ろうと精一杯の努力を惜しまない。するとどうだろう。第3幕に至っては、見違えるような表現になっていくではないか。オペラをライブ映像で見る楽しさは、まさにこういうところにあるのだろうと思う。歌手も聴衆も、聞きどころをわきまえている。

例えばナブッコの娘でありながら奴隷の身分であるアビガイッレは、ソプラノのリュドミラ・モナスティルスカによって歌われ、その超絶的な高低差を行き来するアリアの数々はまさに見どころであるが、第1幕の「私はあなたを愛していました」を歌う時点ではまだ硬く、どうも緊張の糸が解けない感じが見て取れた。しかし第2幕で「かつて私も」の部分を歌い、その際のブラボーが彼女を勇気づけたのであろう。第3幕になってナブッコを押しのけて王座に就き、まるで北朝鮮の某書記長を思わせるような傍若無人極まりない強硬策を宣言するあたりは、なかなか迫力に満ちたものである。

このシーン、すなわちナブッコと立場が完全に入れ替わる場面では、ナブッコを演じたプラシド・ドミンゴの圧倒的な見せ場であった。彼はそういうアビガイッレに跪き、娘のフェネーナ(メゾソプラノのジェイミー・バートン)を助けてくれと懇願する二重唱に、全精力の大部分を費やすことを計画していたに違いない。バリトン役を歌うことでドミンゴは、七十代も半ばだと言うのにレパートリーを拡大し、しかもその精力は衰えるどころか、いっそう磨きがかかっている。

ヴェルディの作品は常に男の弱さを浮き彫りにする。どんなオペラでも男は弱く、繊細である。力強い音楽が時に三拍子で迫りくる印象的な場面の数々も、たった一度のアリアが珠玉のように光彩を放つ。その対比こそ、イタリア文化の象徴のような気がする。つまり一見陽気で明るくも、センシティブで涙もろい。レヴァインとドミンゴという、七十代のコンビにしてこの若きヴェルディの作品は、得も言われぬ貫禄を宿すことになった。

「行け、我が想いよ」のコーラスは慣例により、鳴り止まぬ聴衆に応えてアンコールされた。この様子は発売されているビデオ等でも見ることができ、今回も同じエライジャ・モシンスキーのオーセンティックな演出であることを知っていれば、意外ではない。だが、初めてこの作品のアンコール部分を見ると、この合唱がいつまでも続いてほしい至福の時間であることを実感した。2度目の合唱では優秀なメトの合唱団が、一層リラックスして表情豊かにメロディーを表現したからだ。最近は繰り返さない(原典主義の)演奏が多いが、私はこういう興業的サービスには大賛成である。

その他の男声陣、イズマイーレを歌ったテノールのラッセル・トーマスは、出来栄えで言えばもっとも完成度が高いと思われたが、この作品では女声陣の陰に隠れてしまうし、ザッカリーア(バスのディミトリ・ペロセルスキー)にしても同様である。

ナブッコは2001年になるまでMETの舞台には登場しなかった。だがレヴァインによってこのオペラは、METの代表的なヴェルディ作品の一角を占めるにいたったようだ。それも、ともすればぎこちないストーリーと、やや粗削りな音楽を完璧なまでに覆い隠してしまうほど圧倒的な力を引き出すことに成功したからだろうと思う。なお偶像が崩れ落ちるシーンは、このオペラの数少ない視覚的見せ場だが、下手をするとやや俗っぽい。そのためか、この演出であまり目立たない。結果的に全体のメリハリを感じさせなくすることとなり、音楽とストーリーを良く知っている人にはアピールするものの、もしかしたら初めて見る人には少し物足りない感じがしたかも知れない。

ヴェルディの初期作品は、そういう意味で見れば見るほど味わいが深まるような気がする。だから私はこの夏に行われるであろうリバイバル公演でも、再度味わってみたいと思った。長すぎないのもいい。そして何度も繰り返すように、この公演の見どころは、2017年にもなっていまだに現役の二人、すなわち今や車いすに乗った指揮者ジェームズ・レヴァイン(音楽監督)と、貫禄のあるプラシド・ドミンゴの表題役であることにつきる。彼らは40年以上に亘って競演を続けてきた。ゲルブ総裁による幕間のインタビューに、その深い年輪を感じる取ることもできる。

2017年2月8日水曜日

台湾への旅(2016)ー⑥映画「KANO」について

3泊4日の短い台湾旅行記を終えるにあたり、帰国後に見た台湾映画「KANO」(邦題「KANO~1931海の向こうの甲子園」)について触れることにしたいと思う。KANOは「かのう」と読む。嘉儀市という台湾中部の都市にある農業学校のことである。嘉儀農林というその高校(正確には旧制中学)は戦前に4回甲子園に出場した。毎年春夏に行われる中等学校野球選手権大会に台湾代表として出場したのだ。そのうち1931年には準優勝をしている。

この中学の野球部を率いたのは日本人の近藤監督で、彼は名門松山商業を率いた監督でもあった。映画はこの中学の出身者が日本兵として戦争に取られ、そのわずかな合間に故郷を訪れるシーン(だったと思うのだが・・・)から始まる。なぜ近藤監督が台湾の農業中学に赴いたのか?

この映画は戦争映画かと思いきや野球の映画である。前半の甲子園に出場するまでの記録だけで2時間近くもあり、その内容から後半は悲しい話かと思いきや、実に甲子園出場を決めた彼らが活躍するそのシーンが最後まで続く。野球自体をほとんど知らず、従って地元でも一度も勝ったことのないチームを近藤監督は鍛え上げ、地元に錦を飾るのである。したがってこの映画の主要なシーンはほぼ野球である。だがその背後に一貫して流れるテーマを、すべて野球に光を当てることであえて何も主張させようとはしない。そこがこの映画の綺麗なところだ。

その一貫して流れるテーマは、台湾人(の中には少数民族も含まれる)と日本人がそれぞれの長所を発揮し、共に野球を戦うことで融合し、共通の目的を果たしたという、表面的なことでだけではない。この映画の全編に流れるノスタルジーにも似た美しさは、今の台湾がこういう時代を経た結果としてあるのだという事実を思い起こさせようとする。それは戦後生まれのすべての台湾人に向けたメッセージでもあるのだ。台湾の歴史を振り返ろうとするとき、現在の台湾を台湾らしくしているものひとつに、日本統治時代の遺産がある、という主張である。このことはおそらく外省人、すなわち戦後に台湾に移り住んだ人々に対し、野球というフィルターを通して一貫して語りかけている。

日本の統治時代を、こんなに美しく描いたものもないのではないかと思うと少し違和感も感じる。映画を通じて語られれている野球以外の要素は、豊富な雨量と湿潤がもたらす自然の恵みだろう。農業の近代化こそ大日本帝国における台湾統治の大テーマであったことは想像に難くなく、戦時中の食糧基地として台湾を近代化することが決定的な生命線であった。だがそのようなことは正面切っては語られない。

嘉儀市の農業中学に多くの日本人が移住し、台湾農業の近代化を進めた。軍国時代の産物であったとは言え、その効果は過小評価すべきではない。そしてもう一つの近代化の遺産が教育であったのだろう。すなわち嘉儀農林の活躍は、台湾にももたらされた民主的教育の成果でもあったという主張である。この二つ、すなわち農業と教育の近代化がなければ、90年代にはいってからの台湾の成長はなかったとさえ思われる。

だがこの映画は、そのことを隠れたテーマとして描きつつも、野球の映画に終始する。最後に甲子園の決勝で敗れた彼らは台湾へ凱旋帰国する。そこで活躍したラインナップの面々の、その後の人生について簡単にテロップで紹介される。その中には戦後の日本や台湾野球界だけでなく、様々な分野で活躍した人々が大勢いる。台湾映画史上破格の製作費を投入したこの映画は2015年に公開され、大ヒットを記録した。だから私が今回搭乗したTigerAirというLCCの広告に「甲子園博物館」が大きく出ていた理由がわかった。

日本人として。

この映画で近藤監督は、一貫して選手に「泣くな!」と言いつける。いつも言われてきたことだった。決勝で敗れた選手は「いつ泣いてもいいのですか」と監督に聞くのだ。なのに監督は「泣くな!」と怒鳴る。自分も泣いているというに。こういうシーンは、今ではほとんど見ることができなくなったな、と思った。精神主義を賛美したいのでは決してない。常に理性が勝る人でなければならないという、今では忘れ去られたような一貫した主張に、毅然たる思いにさせられたからだ。

LCCを利用した初めての台湾旅行は、帰りの航空機が4時間以上も遅れるというハプニングの結果、未明の羽田に到着するという事態で幕を閉じた。帰りの飛行機はわずか2時間半の旅程であった。だが年末年始の日本と台湾は、稀にみる晴天続きで、そのことが一層私の台湾の印象を心地よいもののした。

2017年2月7日火曜日

台湾への旅(2016)ー中華民国

台湾という地域を一言でいえば、所属のはっきりしない地域ということになる。それは歴史に登場してからずっとそうで、そしていまなお、そうなのだ。

中華民国を建国した国民党は、敗戦によって領土を手放した日本に代わって、今度は「戦勝国」として台湾を「開放」し、中国の一部として統治し始める。本土では毛沢東の率いる共産党の勢いが優勢で、国民党はそのまま台湾へ逃れ、台湾に「一つの中国」としての中華民国を建国する。ここで台湾はあくまでその中の一つの省にすぎない。台湾にもともと住んでいた福建省を中心とする中国人、すなわち明や清の時代にやってきた「内省人」との深い軋轢を生むのはこの時で、国民党の支配は日本統治時代以上に過酷な生活を台湾の人々に強いることとなった。「犬が去って豚が来た」とはこの時のことを表現している。

おそらく最も悲劇だったのは、国民党政権が民主的ではなく、かつ近代的でもなかったことだ。曲がりなりにも日本統治時代には、教育や農業を始めとして台湾の近代化が進められ、台湾の自治にむけた民主化の萌芽も芽生えつつあった、と私が読んだ本には書いてある。台湾の日本統治からの解放は、屈辱的な植民地支配の終焉をもたらしたが、それは同時に、近代化の停滞、そして民主主義の弾圧を生む結果となった。

もっとも台湾にはもともと住んでいた先住民族もいて、日本人、中国人、少数民族の三層構造の支配関係にあった。そしてその歴史は長らく語られることはなく、戦後はむしろ長い歴史を誇る中国の先頭を行く国家として、中国を代表するという、欺瞞と違和感が先行する政治状況であったと言わねばならない。蒋介石、その息子である蒋経国による圧政は、事実数多くの悲劇を生み、長らくそれが顧みられることはなかった。だが李登輝が国民党から総統に登りつめたころから台湾の民主化がゆっくりと進む。李登輝という人は京都帝国大学に学び、米国で農学博士号をとった台湾人だが、初めて台湾人出身の総統が誕生したのである。

その後、民主的な選挙を経て総統に再選された李登輝は、さらに民主化を進め、経済発展も手伝って世界でも有数のGDPを誇る国になった。ほとんどの国の政府は台湾を国だと認めていないが、今や台湾がなくなれば世界中のスマートフォンがつくられなくなるのではないか。それほど重要な地位に登りつめたのも、大きく端折って言えば、植民地時代の近代化がその主因のひとつであろう。

台湾人の中国本土とは違うという意識は、台北市内の随所に感じることが出来る。その一つが公衆トイレである。おおよそ台北ほどトイレの綺麗な街はない。地下鉄の駅であっても改札の内外に大きなトイレが設置され、常に掃除されている。個室はどこが使用中が電光掲示され、トイレの優劣を示す証明書まで掲示されているのだ。一部のトイレでは手拭き用の紙が自動的に出てくる。何でも自動化してしまう日本でも、これだけは見たことがない。

もう一つの台湾の素晴らしい点は、タクシーである。タクシーの水準がこれほど高いところを知らない。彼らは道を良く知っており、しかも客がタクシーを利用する理由を心得ている。すなわち速いのだ。だからと言って法外な料金を請求することはなく、小銭に至るまでお釣りを返してくれる。

最終日。私は夕方に中正記念堂を訪ね、その自由広場と名づけられた正門から蒋介石の銅像が設置されている建物に向かって歩こうとした。あちらこちらに中華民国の国旗がはためき、それは快晴の空にひときわ鮮やかに映えていた。だが私を驚かせたのはその広場の中心で、人気歌手のコンサートが繰り広げられていたことだ。若い男性の歌手だったと思う。彼は歌い、そして詰めかけた何千人もの若者がこれに聞き入っていた。平和な新年の夕暮れは、自由広場のロックコンサートで幕を閉じた。

群衆が地下鉄駅に群がるのを避け、台北駅方面に歩き出した私は、その向こうに総統府を発見し、そしてその前に今では博物館となった2.28事件の記念館の前を通った。多くのカップルが同じように歩き、空が夕焼けに染まる頃、台北駅に到着した。そこはまるで新宿駅のように混雑しており、2階にあるレストラン街はどの店にも行列ができていた。この光景は東京で見る週末の光景と何ら変わらないものだった。その店の名前、すなわちわが国でも有名な飲食店の数々を含めて。

2017年2月6日月曜日

台湾への旅(2016)ー④故宮博物院

台湾について書く以上、「一つの中国」あるいはその複雑な歴史について思いを馳せないわけには行かない。台北市郊外にそびえる故宮博物院は、世界有数の博物館と言われているが、その理由は6千年にも及ぶ中国の歴史的重要遺産を陳列しているからに他ならない。だが、ここにあるのはその多くではあるもののすべてではなく、北京や上海にもある博物館と合わせて中国の宝物が揃うということになる(らしい)。

国民党によって台北に持ち出された中国の遺産は、台北市の北、士林にある故宮博物院に展示され、台湾を訪れる観光客の必ず立ち寄る場所となっている。といっても行き方はやや複雑で、士林の駅からバスに乗るか、それともタクシーで行くことになる。私たちは元日の朝、南港からタクシーに乗って出かけたが、空いていたお正月の台北市内とは違い、故宮博物院は長蛇の列であった。こんなに観光客がいたのかと思うくらい物凄い人込みとなっているのは、元旦の入場料がタダ、という理由もあるのではないかと思われる。

今や台北には中国本土からの観光客も多く、すべての人々がスマートフォンを片手に長さ十数センチほどの白菜を見にやって来る。この白菜は「翠玉白菜」と言い、ヒスイでできた彫刻だが、作者や原産地は不明でわからないことも多い。自然の色を生かした彫刻は、まるで本物の白菜のように精緻で芸術的な美しさを醸し出しているが、これだけが突出して有名で行列は絶えることがない、というのも不思議ではある。ほぼすべての観光客がカメラに収めていくが、その写真を各自どう整理するのかよくわからない。

建物は3階建てだが、左右に分かれた展示室は広大で、すべてを一日で見て回ることはできない。いや通るだけならそれも可能だが、それでは意味がない、ということのようである。実は私は博物館というのがどうも苦手で、これまで世界各地の博物館へは出かけたが、あのパリでルーブルには行っていないし、バチカン美術館もプラド美術館も、到着した際には展示物を見る元気もなく歩き疲れ、とてもベストなコンディションで見たとは言い難い。他の人の意見はよくわからないのだが、私は博物館に行く理由をこう考えている。それは対象となる物事への関心の契機であると考えることである。

対象物に対しすでの博覧の知識を有し、その造詣も深い場合には別として、大半の場合、その領域には達していない。それでもとにかく博物館の類に足を運ぶことで得られる経験は、その後の知的活動において、対象領域への興味を深める重要なきっかけと成り得るのだ。例えば私は故宮博物院へ行った後、その向かいにある少数民族の順益台湾原住民博物館へも足を運んだ。ここは故宮とは異なり、訪ねてくる客も私たち以外には全くいない、という状況だったが、長く蔑まれてきた台湾原住民の文化が、丁寧にわかりやすく展示されていた。

このような展示が可能となったのは、これもまた台湾の民主化の産物と考えられるが、そういったことに気付くのもこの地を訪れたことがきっかけだろうし、それにそこに展示されていた首狩り族の展示などは、「やはりそうだったのか」と、かつて大阪の民俗学博物館で見た南米アマゾンの人間の首の展示を思い出した。ちなみに首狩りは、敵に勝った際にその酋長を打ち首にして骸骨を取り除き、戦利品として晒すというもののようだが、これを英語でヘッド・ハンティングという。ヘッド・ハンティングと言えば現代では、抜擢された名誉ある転職を意味するようだが、その実は曝し首である。

兎に角、博物館について、浅薄な私はそれでいいのではないかと開き直っている。そしてこのような経験は、その後の対象について語るときの、重要なテーマと成り得る。あるいはまたちょっと本を読んでみようか、などとなる可能性もあるのである。実際、時間が限られる中で、すべてを見ようとすることに無理があり、私はいつもこれはきっかけ作りだと割り切って、博物館を速足で通り過ぎる。もちろんギフトショップへも立ち寄り、気に入ったものを買ったりもする(今回故宮博物院の地下にある郵便局で、私はこの白菜の記念切手と、元旦の消印を押したフィラテリスト向け記念品を発見し、嬉しい思いで買い求めた)。

2017年2月5日日曜日

台湾への旅(2016)ー③小籠包など

台湾を旅行先に選ぶ動機のひとつに食べ物が美味しい、というのがある。食べ物が美味しい場所は香港やタイなど他にもいろいろあるのだが、台湾のそれはとびぬけて美味しいのだと言う。本当だろうか。「鼎泰豊」という我が国にも支店のある小籠包のレストランが、今では台湾食文化のシンボル的存在である。この状況に加え、屋台などが立ち並ぶナイトマーケットが楽しい、と「るるぶ」などには紹介されている。実は私も東京で2回、香港とバンコクで1回ずつ、この台湾料理レストランを経験している。私の妻はさらに上海でも行っており、その味は他の店よりも「ずば抜けて」美味しかったというのである。

台湾のガイドブックを見ると、その鼎泰豊を絞ぐお店があるという情報もあるが、それを経験するにはやはりまず台北で鼎泰豊を試さないわけにはいかない。比較のしようがないからだ。そこで私はホテルのフロントに鼎泰豊の店の場所を聞くことになった。そのデスクの彼曰く、台北にはいくつかのお店があるが、本店でなければならないのだという。そんなにまで言われたら、やはり本店を訪ねないわけにはいかない。だが彼は「朝行ってもお昼過ぎになるよ」という。美味しいものに目がないい台湾人は、まさに食べることにかけては世界一の情熱を示す。長蛇の列をなしているのは想像に難くないのである。

バックアップとして「他にいい小籠包のお店はないの?」という私の問いに彼は、マネージャと相談し、やや高級ではあるが別の店を紹介してくれた。そこは少し高いが、並ぶほどのこともないようなのである。

鼎泰豊は台北101の地下にもあったし、私はその前を通ったが、そのようにまでして言われればどうしても本店に行かないわけには行かない。というわけでさらにMRTを乗り継ぎ、永康街にある鼎泰豊の本店へ出かけた。

それはすぐに見つかった。地上に出ると多くの人がその前にたむろしており、番号を読み上げる店員の声がスピーカーから聞こえてきた。おおよその待ち時間を示す電光表示板には120分とあり、現在案内中のチケット番号が表示されている。待っている客には観光バスで乗り付ける人たちもいる。案内は日本語や韓国語でも行われていることから観光客の多さも窺える。その様子にあっけにとられた私たちは、自分の番号が呼ばれるまで近くの街を散歩して過ごすうち、いよいよばかばかしくなってきたものの、かといって引き返すわけにもいかず、とうとう大晦日の14時に入店することとなった。

狭い店内を3階に案内され、ちゃんとテーブルクロスの取り換えられた席で私たちが口にした小籠包の味は…とここに大袈裟に書くほどではないが、大変美味しかったことは確かである。一口に小籠包と言っても様々なものがあり、私たちはトリュフの入ったのやエビの入ったものなどを惜しげもなく注文したが、それらは口の中でぷちっと弾け、なかからジュワーと汁が噴き出すのである。噴き出した汁は中身の具のにおいを放ちながらも生姜入りの醤油にまみれて得も言われぬハーモニーを醸し出す。付け合わせとして頼んだ空心菜の炒め物など、どれも大変美味であった。ただ妻曰く、上海店もどの感動はなかったそうである。

ついでながらホテルのフロントマンが紹介してくれた別のお店にも、元旦である翌日に出かけることとなる。紹介された店は松山にあったのだが、私たちが出かけた頃はもう閉店時間を過ぎていたことが判明し、急遽行先を「そごう」に入っている同じレストランの別店に変更した。ここの8階で上海料理のレストランとして流行っていたこの店にも若干の列ができており、もう夕方になろうとしているのに直ぐには料理にありつけない。お正月だからだろうか。とにかく台湾人の食事にかける情熱は物凄いものである。ここの小籠包は決してまずくはなかったが、鼎泰豊のあの触感はなかった。おそらく鼎泰豊の小籠包は特別なものなのだろう。

台湾料理の味は凡そ薄味である。その大元は福建省由来のものである。私はその味が好きだ。東日本の塩分過多な食事に比べると、私はむしろ親近感さえ覚える。そこに加えて長く植民地政策が続いたことにより、日本料理の影響もあるらしい。みそ汁や稲荷ずしを普通に食べる習慣が台湾にはあるらしい。そういったこともあって台湾の料理は、日本人にとって特別な印象を残す。戦時中、日本本土の食糧基地として豊富な農産物を提供した台湾の自然があってこそだが、その料理文化は大変に豊かだと言わざるを得ない。

ナイトマーケットで大晦日の数時間を過ごした私たちは、さらに臭豆腐や阿宗麺線、胡椒餅などといった、いわゆる「B級グルメ」をもたらふく味わい、その総カロリーは相当なものであったと推測できる。大晦日のナイトマーケットは、ラッシュ時の山手線の車内にも匹敵するほどの人込みで、どの店の前でも人は食べものを注文し、歩きながら食べ、食べながらおしゃべりをしている。縁日が毎日続くような台北は、かつて戒厳令が敷かれていた頃でもこうだったのだろうか。日本の、それも北海道料理がどこの屋台にも登場し、今や日本ブームも完全に現地化したアジアの各地にあって、台北もまた例外ではなかった。いやむしろ台湾がその急先鋒というべきか。ただ秋葉原と原宿を合わせたような猥雑さの西門町で食べたマンゴー入り特大かき氷だけは、台湾を感じさせる食べ物である。おそらく長く暑い夏ともなれば、その味は病みつきになるのだろうと思う。

2017年2月4日土曜日

台湾への旅(2016)ー②新しい台北

旅行の初日から帰国するまでの数日間、私はこの「麗しの国」を実感することになる。それは天候が良かったからに尽きる。お正月を挟んだ冬の台湾は天気が悪い、とガイドブックには書いてある。雨がしとしと降り続き、時に肌寒くて滅入るというのである。だが今日の天気はどうだろう。空は青く、吹く風は涼しい。天気予報によるとこの先1週間、高温、快晴の天気が続き、気温は28度にも達するというのである。丁度日本では4月下旬か、あるいは初夏の陽気である。東京の冬もまた天気が良く素晴らしいが、暖かい空気ほど私を和ませるものはない。ホテルから一歩外に出ると、暖かくて柔らかい風が頬を撫で、私はまるでハワイかどこかのリゾート地にいるような感覚に囚われた。道は広く、週末の朝とあっては人はまばらである。

私の泊まったホテルは台北市の東の方角にあたる「南港」という地下鉄駅の真上にあった。「南港」に海はなく、むしろ山の方角である。ここに展覧会場がつくられ、いわば副都心としての性格を帯びつつある。その展覧会のある駅の1つ手前、すなわち台北駅寄りにある3棟建の高層ビルにホテル(コートヤード・バイ・マリオット台北)はあった。まだ新しくできたばかりのホテルで、私たちはここで快適な3日間を過ごすことになる。部屋の窓は南の方角を向いており、すぐ前に山が見えるのもまた嬉しい。ホテルの印象は旅行を決定的に左右するもので、私にとっての台北は、緑に囲まれた街、という印象である。


この南港駅は台湾新幹線の始発駅である。ターミナルにはMRTすなわち地下鉄の他に、いわゆる国鉄の在来線、そして新幹線(HSR、高鐵)が地下ホームで隣り合う。もっともこのあたりはまだ開発中で、建築中の空き地も目立つ。拡大を続ける台北の新しい顔となるのだろうか。ショッピングモールのベンチに腰掛けて見る光景は、どことなく日本の地方都市の駅前のような感じでもある。

南港駅から地下鉄で台北駅方面へ数駅いったところに市庁があって、ここのショッピングセンターには三越を始めとする百貨店などが連なり、その奥に台北101がそびえている。この地上101階建ての台北のシンボルは、2004年の竣工時点で世界一の高さを誇っていた。下から見上げる独特のデザインは、まるでブロックを積み上げたようでもある。このビルの側面から四方に花火が上がるらしい。大晦日の新年を祝うイベントの準備が着々と進められている。カウントダウンの模様は地元のテレビで生中継され、私も「紅白」や「ゆく年くる年」を見終わった後に見た。台北の市長夫婦に混じって、日本で活躍する野球選手の顔も見える。

花火はこれでもかこれでもかと音楽に合わせて打ち上げられたが、その模様はホテルからは少し遠くて見えない。だが大抵の台北市内からは良く見えたのではないかと推測される。

新しい台北のシンボルというわけではないが、猫空に向かうロープウェイもまた、新鮮な見どころであった。大晦日の昼下がりに私は台北市郊外にある動物園まで、地上を練るように走るMRTに乗り、そこから猫空行のロープウェイに乗り換えた。大勢の人が列を作り、何十分も待った末、私たちを乗せた大型のゴンドラは、引き寄せられるようにグイッと上昇したかと思うと幾たびも方向を変え、登ったり下ったりを繰り返しながら、とうとう終点のの猫空に到着した。この間、遠くにかすんで見える台北の市内が徐々に遠ざかり、お寺の前を通過して私たちを楽しませた。終着駅いといってもここは山の中腹で、風景は特別な感じはしないのだが、何でもお茶の産地であり、土産物屋などが軒を連ねる。


多くの家族連れやカップルに混じってお茶のソフトクリームなどを頬張ったが、帰りのロープウェイを待つ列は何百メートルも続いており、ちょっとすぐには乗れそうな雰囲気ではない。夕暮れ時、ここは絶好のデートスポットになるさしく、大晦日の夕暮れとなれば、そのタイミングを目がけて大勢の人々が訪れることとなる。帰りのゴンドラを待っていたら何時間かかるかわからない。どうすればいいかと途方に暮れつつあったところに立看板を見つけた。乗り合いタクシーである。わずか75元でふもとの動物園駅へ行ってくれる。嬉しいことにここにはほとんど人は並んでいない。私たち家族はこの乗り合いタクシーに乗り、曲がりくねった山道をあっと言う間に下った。しかも下車はロープウェイの乗り場ではなく、そこから359メートル離れたMRTの駅の前である。このようにして台北最初の大晦日の時間は過ぎていった。

2017年2月3日金曜日

台湾への旅(2016)ー①麗しの国

旅行が趣味の私にとって、台湾はどういうわけか長い間、無縁であり続けた。別に避けてきたわけではない。むしろ台湾に友人もいたし、初めて一緒にヨーロッパを旅行した友人のS君も、大学生の頃いち早く台北へ出かけ、私に手紙を書いている。「こんな素敵な場所はない。君も早く来たまえ」と。

台湾という土地に初めて「降り立った」のは、この最初のヨーロッパ行きの途上であった。私とS君は大阪から大韓航空に乗り、ソウルで乗り換えた香港行きの飛行機が台北を経由したのだ。当時韓国と中華人民共和国との間に国交はなく、台湾が「唯一の中国」だったのである。「蒋介石国際空港」と機内のアナウンスにはあった。現在の桃園国際空港のことである。当時国民党による一党独裁政治が続いていた台湾は、まだ「自由な」国ではなかった。

20年以上に及ぶ世界一長い戒厳令は、おそらくまだ続いていたかと思う。「自由中国」は名ばかりであった。とはいえ、1980年代の冷戦時代、そこには大陸の中国とは違う空気があっただろうとは思う。中華人民共和国はまだ人民服を着た青年が人民公社で働く国だった。台湾の入国記録があると中華人民共和国のビザは取得できないと言われていた。今となっては信じられないことだ。私たちは、その空港の薄暗く静かなトランジットルームで小一時間を過ごしただけで、再び機上の人となった。私は台湾へ入国していない。

その後沖縄の先島諸島を旅行し、台湾の目と鼻の先にある与那国島の西の端で、東シナ海に沈む夕陽を見たことがあるが、その時も台湾を見ることはできなかった。「自由中国の声」という台湾の国際放送(当時)は、私をして台湾を身近な国にした。「玉山」という富士山より高い山があることも知った。台湾東部の断崖絶壁を非り開いた鉄道が、世界でも有数の難工事であったこと、数多くの少数民族が暮らす台湾では、かれらの独特の文化が存在すること(ただしそれは差別と偏見の歴史でもある)、国民党の独裁政治が李登輝総統を最後に終わり、中国史上初の民主的な選挙を経て民進党による政治が始まったこと、そして奇跡の経済発展へとアクセルを踏み続ける台湾には、我が国の技術で作られた新幹線(高鉄、すなわちHSR)が開通したこと、そういった数々のニュースや知識は断片的であり、友人や知人が土産に持ち帰るお茶やパイナップルケーキ、それに台北101という世界有数の高層ビルなどの話を聞く程度であった。

最近の台湾ブームは、小龍包をはじめとする料理とマッサージ、ナイト・マーケットなどで目にするかわいらしいアクセサリーや雑貨類などが若い女性の心を捉え、大変な活況を呈している。数多くのLCCが今や日本各地に就航し、それらは日本を訪れる台湾人と台湾を訪れる日本人を連日大量に輸送している。近くて遠い国が、まさに近くて近い国になることはとても素晴らしいことだと思う。私もそういうわけで、とうとう台北の地を旅行する時が来た。思い立って年末年始のチケットを押さえ、ホテルを予約したのは11月になってからだった。台北への旅行計画は、このように突如始まった。

「麗しの国(フォルモサ)」と台湾を「発見」したポルトガル人はそう名付けた。我が国に鉄砲やキリスト教が伝来した頃に、台湾は世界史に登場する。だがその後の台湾は、欧米列強(オランダ)や清による支配を経て日本の統治下に入る。台湾を占領した日本は、その後半世紀にわたって台湾を支配し続け、帝国主義下での近代化を推し進めた。台北に鉄道を敷き、帝国大学を作ったのも日本である。植民地時代の「遺産」は、戦後の台湾の歴史にも大きな影響を与えたに違いない。だが、そのようなことを含め、正確に台湾の歴史を知ることは長年困難であった。

第2次世界大戦後に日本が手放した台湾を徹底的に弾圧したのは蒋介石率いる国民党で、そのことは2.28事件に象徴されている。けれどもこの事件が明るみになるのは1990年代になってからだ。台湾の歴史を台湾自らが直視してこなかったことが、私を長年この国から遠ざけてきた原因ではないかと思うに至ったのは、「台湾」(伊藤清、中公新書)を読んでからだ。台湾のわかりにくさは、この国の政治状況が目まぐるしく変化し、中華人民共和国との関係改善、諸外国(とりわけ米国と日本)との矛盾した外交関係、外省人と内省人との対立、そして小数民族の問題など、あまりにタブー視されてきたものが多く、複雑だからだろうと思う。

それらから目をそらせ、曇らせてしまうほどに21世紀に入ってからの台湾の経済的発展は著しい。だからこそ、現在の台湾ブームがあるように思う。台湾の頼もしくて美しい側面だけを見ようとすれば、それが可能となったのだ。丁度ヨーロッパ人が何世紀も前にこの島を「麗しの国」と呼んだように。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...