2014年10月28日火曜日

NHK交響楽団第1791回定期公演(2014年10月24日、NHKホール)

デング熱騒ぎで閉鎖されたままの代々木公園をかすめるように歩きながら、NHKホールへと急いだ。10月ともなると6時には陽もどっぷりと暮れ、薄い上着だと寒く感じる。今年の秋は、温暖化で季節感の乏しい近年には珍しく、平年並みの気温である。

4年がかりで行われたロジャー・ノリントンによるベートーヴェン・サイクルが、先週のAプログラムで完結したようだ。私は「エロイカ」の演奏が忘れられないし、シュトゥットガルト響と聞いた「田園」も衝撃的だった。レコードでは一世を風靡した80年代の第2番(ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ)と、シュトゥットガルトで入れた全集の中の第7番などが、私の記憶から離れることはない。N響がピュア・トーンに様変わりする姿は、今や当たり前の出来事だが、最初は本当に驚いたものだ。

そしてベートーヴェンの後にはシューベルトが演奏されるではないか。しかも「未完成」と「グレイト」という黄金の組合せ。私は何と言ってもシューベルト好きだから、シューベルトの交響曲がプログラムに乗ると、いつも行ってみたくなる(だがシューベルトのコンサートは割に少ない)。しかもノリントンで、となると即決である。

だがコンサートというのは案外難しいものだ。期待せずに出かけると、意外にいい演奏だったり、逆に大きな期待を持ってでかけると、これが期待外れだったり。そして今回のBプログラムは、もしかしたら後者だったような気がする。期待が大きすぎたのだろうか。でもそれは出かけてみないと判らないことで、出かけなかったらいつまでも後悔するし、それにN響の場合、テレビで放映されたりするので、演奏が良かったら悔しい思いをすることになる。

後半の「グレイト」は、私にとっては思い出に残る演奏がある。それはウォルフガング・サヴァリッシュがN響を指揮した演奏だ。この演奏によって私はこの曲に目覚めたと言ってよい。特に第3楽章のトリオの部分になって、私はどういうわけか体が硬直するような感動に見舞われたのだ。それは偶然と言ってよい。ただ長い曲だと思っていたこの曲が、実に美しいメロディーに彩られた、多彩な曲だっと知ったのである。

以来、「グレイト」の演奏はCDで数多く聞いた。もっとも好きなショルティによる演奏を筆頭に、コリン・デイヴィス、ジュリーニといった名前が浮かぶが、実演では何といっても数年前に聞いたミンコフスキである。このミンコフスキの演奏では、繰り返しが多く行われたにも関わらず、演奏にリズム感が溢れ、それは終楽章において頂点に達した。プレイヤーがみな乗りに乗っている様は、最前列の席から手に取るようにわかった。

けれどもCDで手当たり次第に聞いてみると、意外なことに全ての演奏が素晴らしくはない。指揮者の音楽に対する観念が、曲にピタッと馴染んでいるか、そしてその域に達しているか、ということがこの作品では求められる。それは丁度ブルックナーの曲と良く似ている。そしてCDで聞いてもさっぱり感動しない演奏というのが存在するのである。

さて今回のノリントンの演奏は、私にとっては完全に期待外れだったと思う。もしかしたら緊張しすぎたN響の、ちょっとした余裕のなさがそうさせたのかも知れない。いや実はノリントンは、シューベルトの演奏に向いていなかったということだろうか。私はすべての繰り返しを省いた今回の演奏から、その可能性が高いと思う。だがこの演奏では繰り返しが多くても、単に長いだけという結果に終わったかも知れない。

極論すれば「グレイト」の魅力はその長さにある。いい演奏で聞くと、どこを演奏といているかもどうでもよくなって、もっと長いことこの曲を聞いていたいと思うのだ。第2楽章の後半など、その典型である。もしかしたら私はこの曲に、主にドイツ系の演奏家で聞く典型的な演奏に慣れ親しみすぎているのだろうか。辛うじて第4楽章では、N響の力演とはなったが、それでもあの軽快な、弾むようなリズムを期待した聞き手にとっては、退屈でさえあった。

「未完成」でも同様に、私の心は若干白けた。シューベルトの曲をピュア・トーンで聞くというのは、本当に必要なのだろうか。ノリントンの演奏の限界を知った気もするが、古楽器奏法で聞く演奏も、モダン楽器の演奏があって、その反面教師のような存在だったとすれば、今や古楽器奏法が主流になってしまうと、ロマンチックな演奏が懐かしい。懐かしさを期待するシューベルトの聞き手は、従来の演奏がいいのだろうか。だが私にはミンコフスキの名演の記憶が残り、そしてサヴァリッシュはと言えば、少し雑然とし過ぎてていたようにも思うので、そう単純なことではないだろう。N響は今や大変力量のあるオーケストラだから、やはりこれはノリントンのシューベルトが、私に合わなかったというしかない、というのが結論である。

2014年10月21日火曜日

ハイドン:交響曲第91番変ホ長調(カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

このカール・ベーム指揮ウィーン・フィルの演奏で聞いていると、丸でハイドンが里帰りしたかのように感じる。あたかもウィーン郊外をローカル電車で行くような演奏は、今ではほとんど聞かれなくなったスタイル・・・何もしていない・・・である。ここにはただ、ウィーン・フィルの演奏で聞く古き良き時代の姿がある。

この演奏を聴きながら、長い期間をかけてハイドンの初期の交響曲作品から順に聞いてきたにも関わらず、ウィーン・フィルによる演奏を一度も取り上げていなかったことに気付いた。これから最後の作品までにも登場しないだろうから、ここでベームの演奏に登場してもらい、聞いてみたという次第である。そして改めて気付いたのは、ウィーン・フィルによるハイドンの録音というのが、非常に少ないということだ。ハイドンはウィーンにゆかりのある作曲家だから、これは意外であった。だからこの演奏は、取り立てて特徴が感じられはしないものの、ウィーン・フィルの響きで聞くことのできる貴重なハイドンということになる。

そのような演奏で聞くハイドンの第91番目の交響曲とはどんな作品だろうか。私は第82番以降の作品の中では最後に聞くことになった作品に、とりたたてて強い印象を持つことはなかった。それどころか、この作品はどこがいいのかよくわからない。ゆったりとした第1楽章から、弛緩した、何かありふれたようなメロディーで、ハイドンらしい奇抜なものを感じないのである。それ以外の作品があまりに素晴らしいから、これは後期の作品の中では、という前提の話ではある。それにしても、けだるい第2楽章はどこか重いメロディーの連続だし、第3楽章のメヌエットに至っても、どちらかというと低音の楽器が活躍し、そのことが印象的である。

専門的なことはわからないが、そのような地味で面白くないかに見える演奏も、また別の演奏、たとえば手元にあるラトル指揮ベルリン・フィルの演奏で聞くと随分印象が異なるのもまた事実である。だから演奏による違いというのは無視できない。で、ベームの演奏というのが、やはり平凡なものに感じられてしまうのも、時代というもののせいなのかも知れない。


2014年10月13日月曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2013-2014)

パリ・オペラ座のライブ・ビューイングと銘打った2シーズン目の今年の企画(2013-2014)の第6作で、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」が上映された。冒頭で解説のおじさんが、今回の演出は有名なジョルジョ・ストレーレルによる古典的な舞台だと紹介する。この解説はガルニエ宮にある古い「オペラ座」での収録なのだが、実際のビデオ収録は新しいバスチーユで行われたものである。わざわざ初演時のことを話すために、ガルニエ宮に赴いたというわけである。

そんなにこの演出は素晴らしいのか。私はあまり比較して話すだけの知識や経験を有してはいないのだが、それでもやはり「素晴らしい」と思う。少なくともこれまで私が実演や映像で見た「フィガロ」の中では、最高のものであった。だからこの解説は正しいと思った。

解説では特に照明の使い方に多くを触れている。冒頭アルマヴィーヴァ伯爵邸でのシーンでは、この照明は明るく、結婚式の朝をイメージしている。ところが後半になると日が傾き、第4幕では夕闇の中で舞台は進行する。第3幕の広大な廊下において繰り広げられるややこしい人間ドラマは、まるでドタバタ喜劇のようでもあり、私の出身地、大阪の文化で言えば、吉本や松竹の新喜劇といったところである。人が入れ替わり立ち替わり、その登場人物の間で違和感なく話が進むのは、モーツァルトの音楽が素晴らしいからだろう。

モーツァルトは「フィガロ」において自らの作曲家人生の新境地を開いたと思われる。ここで繰り広げられる人間味溢れるドラマは、それまでのオペラになかった題材ともいうべきもので、際立って新鮮である。「イドメネオ」や「魔笛」がいくら素晴らしいからといって、「フィガロ」ほどモーツァルトらしいものはない。その頂点は「ドン・ジョヴァンニ」だとは思うが、「フィガロ」にはそれ以上に、ストレートに挑戦的で若々しさに溢れる作品はないかと思う。

このストレーレルの演出はDVD等でも売られているが、今回、映画館で見たのはこれとは異なるものだと思っていた。ところがどうやら同じなのである。ということは収録は少し古く2010年ということになる。その映像がなぜ今頃上映されることになったかはよくわからないが、DVDを見なくても画面いっぱいに広がる映像を見ることができるのは貴重な経験である。指揮は音楽監督フィリップ・ジョルダン。

序曲からジョルダンの指揮は丁寧で、今となってはゆっくり目のテンポを維持し、そのことが意外というよりもかえって新鮮である。 これは古典的でエレガントな演出を意識したものだと思う。登場人物が多いので、以下にまとめて記載しておこうと思う。

  リュドヴィク・テジエ(Br、アルマヴィーヴァ伯爵)
  バルバラ・フリットリ(S、伯爵夫人)
  エカテリーナ・シューリナ(S、スザンナ)
  ルカ・ピサローニ(Br、フィガロ)
  カリーヌ・デエイェ(Ms、ケルビーノ)
  アン・マレイ(Ms、マルツェリーナ)
  ロバート・ロイド(Bs、バルトロ)
  ロビン・レガート(T、ドン・バジーリオ)
  アントワーヌ・ノルマン(T、ドン・クルツィオ)
  マリア・ヴィルジニア・サヴァスターノ(S、バルバリーナ)
  クリスチャン・トレギエ(Br、アントーニオ)

この中で一等際立っているのがロジーナこと伯爵夫人のフリットリである。また彼女の夫で「セヴィリャの理髪師」では素っ頓狂なテノール役だったアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったテジエもまたしかりである。この二人に重鎮を起用したことで、比較的若手中心の他の歌手たちものびのび歌っているように思えた。

「フィガロ」で描かれているのは、古い世代と新しい世代のせめぎあい、対立、相克である。第1部のフィナーレでの舞台は特に印象的だ。左側にいる旧世代のバルトロ、マルチェリーナ、伯爵に対し、スザンナ、フィガロ、ケルビーノ、それに伯爵夫人は右側に分かれる。 古い考え方が徹底的に茶化されるのは、後半の第2部の主題である。第3幕でいきなり、マルチェリーナがフィガロの母であり、バルトロが父であるとわかる荒唐無稽なシーンがある。だがこのシーンがわずか数分後には、見事なアンサンブルの中に溶け込み、とても自然でさえあるのは、モーツァルト音楽の魔法のひとつの例だと思う。

「フィガロ」の素晴らしさや物語の面白さを語った文章には枚挙に暇がないので、私としてはこのオペラに対する苦言をひとつ。どうも「フィガロ」についていけないことが多いのは、この作品があまりにもエネルギッシュで変化に富みすぎていることだろう。音楽に聴き惚れいるとストーリーがどうでもよくなってしまうことは、オペラではよくあることだが、このストーリーは十分に複雑であり、どうでもいいことなのだけど、いつも何か重要なものを聞き逃したような気分になる。それではとストーリーを追いすぎると、セリフの部分にまで集中力を絶やすことができず、音楽にゆとりを持って入れない。それに少し長すぎると言うべきか。

そういうわけで名作中の名作も、聞き手に大変な努力を必要とする。私はモーツァルトのオペラでは、CDで音楽だけを聞くのが好きである。そうすることによって音楽だけを純粋に楽しめるし、それだけで十分という気がしてくる。ここに映像が加わると、あまりにカロリーが高すぎてしまうのである。だから今回の映像も、それはそれで素晴らしいのだが、あまりにモーツァルトの音楽が素晴らしすぎて、聞き手の余裕を奪ってしまうという、いつものパターンに陥った。だが、伝統的な演出が、音楽を決して邪魔をしないものであるために、音楽を楽しむ余裕が比較的大きかったという点を評価したい。いや、この評価は客観的には正しくない。要するに見る側の、つまりは私の経験がまだ足りていないということに尽きる。だから「フィガロ」を初心者向けのオペラだと言うのは、そろそろやめたほうがいいと思う。

2014年10月4日土曜日

ワーグナー:パルジファル(2014年10月2日、新国立劇場)

ワーグナーは最後の作品「パルジファル」で、かのベートーヴェンが「第九」で到達した世界観を自らの言葉で再構築しようとしたのではないだろうか。「ニーベルングの指環」で全世界の破滅を描いたその後で、世界は救われると説いた。「救済者に救済を」、その言葉は形骸化したキリスト教世界を越えたところに求めるべき価値観のことである。ワーグナーの全作品、生涯を通して希求した「愛による救い」は、この作品でも、いやこの作品でこそ主要なテーマである。

そこには謎めいた宗教的儀式と、呪われたあばずれ女クンドリー、そして完全無垢な青年が存在するだけである。時代も場所も特定することは、おそらく重要ではない。永遠に続くかのような音楽は、もはやライトモチーフでさえ必ずしも明確ではなく、舞台のセットも抽象的である。今回のハリー・クプファーによる演出も、天へと続く「光の道」が一貫して中央にセットされ、その道は照明の効果で様々な色合いに変化する。「道」は部分部分が動く台にもなっており、それらが上がったり下がったり、時には地下から修道士や小姓らが出てくる。

前奏曲で早くも答が示される。「道」の上にいるのは3人の仏僧で、袈裟をまとっている。この3人は最後のシーンでも登場し、聖槍によって傷が癒えたアンフォルタスたちがゆっくりと登っていく道の上部に、その存在を際立たせているのだ。それこそがワーグナーが関心を寄せていた仏教的世界である。堕落した西洋の世界(それはキリスト教の不可思議な教義に象徴される)を救うのは、東洋的な思想ということだろうか。クプファーの演出はこのことを極めて明確に表現していると言える。

この解釈が正しいかどうかわからないが、少なくともこの演出の主張は明瞭である。そしてその内容は、会場で売られているブックレットに掲載されたインタビュー記事(はまたホームページにも掲載されている)にもはっきりと書かれている。つまりこの演出はとてもわかりやすい。あまりにわかり易すぎて、意外性に欠けるくらいであると思った。ついでに記述すると、その「光の道」に対して巨大な細長い台が回転して舞台の中央に出てくる。その上にアンフォルタスが寝そべり、癒えない傷を嘆いている。この台は先が尖っており、槍を象徴しているのは明らかである。その「槍」の色は赤かったり、緑になったりして見ているものを楽しませる。

黒い背景と稲妻のような光の道、それに静かに動く巨大な槍の台が浮かび上がって、光の演出が効果的である。音楽が場面転換にさしかかると、台が上下に動いたり、紗幕が降りてきてヴェールに覆われたモンサルヴァート城内で挙行される秘儀を際立たせたり、その変化は音楽に合わせて動きすぎず、飽きさせもしない。視覚的にとても印象的である。クプファーのような世界的演出家が、東京での「パルジファル」のために演出したその舞台は、私にはとても好印象であった。

だがそれよりも何よりも、このプレミア公演で見せつけられた第1級の歌手達による、魂を揺さぶられるような歌いっぷりには、私は心底驚いたと言って良い。第1幕の冒頭でジョン・トムリンソンによるグルネマンツの声が聞こえると、私は背筋がゾクッとしたほどだ。トムリンソンは終始、落ち着きながらも貫禄のある歌声で、安定的で重厚な響きを場内に轟かせ、この作品がグルネマンツの多くの語りを抜きにしては成功などありえないものであることを印象づけた。

本当の意味でこの日の大成功の立役者だったのは、しかしながら、グルネマンツというよりはクンドリーを歌ったエヴェリン・ヘルリツィウスである。彼女は第1幕でこそ存在感が目立ちはしなかったが、第2幕の後半になるにつれ、その声はびっくりするほどの迫力を持って会場を微動だにしないほどの感動に導いた。おそらくこの日の聴衆は、彼女の歌声に金縛りにでもあったような雷の一撃(それは丁度第2幕でも、丸で合わせたかのように現れるのだが)に打たれたと思う。パルジファルを演じた円熟のヘルデン・テノール、クリスティアン・フランツとの丁々発止のやりとりは、本当のワーグナーとはこういうものなのか、と私を瞠目させた。第2幕が終わると、観客がみな顔を紅潮させ、興奮冷めやらぬ様子であった。このような光景を私は経験したことがない。

他の歌手についても、標準のはるか上を行く出来栄えだが、上述のグルネマンツやクンドリーに比べるのが気の毒なほどである。すなわちアンフォルタスのエギリス・シリンス、クリングゾルのロバート・ボークである。このうちシリンスは今年の春、上野で聞いた「ラインの黄金」でヴォータンの役を演じたことは私の記憶にも新しい。タイトルロールのフランツは新国立劇場でもお馴染みだそうだが、私はその綺麗な歌声に魅了された。このパルジファルの役は、自分の名前も知らないほどの白痴とされている。けれどもクンドリーの接吻によって、一瞬のうちに人間の苦しみを悟る知者となる。つまりはヴォツェックの阿呆とは違うのである。パルジファルはブッダのように、苦役の末に智慧を得る存在である。だからもう少し印象的な衣装を身につけ、高貴な存在として舞台に現れていても良かったと思う。ついで言えば今回、あのゴングのような響きの第1幕の音楽は、私には仏教寺院の鐘のような音に聞こえた。

第3幕では再び儀式的な音楽となるが、舞台の演出はここでも変わらない。そのことがもしかすると、変化に乏しすぎると感じたかも知れない。第3幕は第1幕の二時間に次ぐ一時間半もの長さであることから、できれば気持ちが昇華してゆく気分を味わいたいと思っていた。歌手も第2幕のクンドリーが良すぎたために、第3幕の存在が浮かび上がらない。とは言え、これは極めて贅沢な注文だと言うべきだろう。

最後に飯森泰次郎・新監督による指揮と音楽について。我が国におけるワーグナーの第1人者による「パルジファル」と聞いただけで鳥肌が立つというのは私だけではないだろうと思う。その音楽は実に年期の入ったもので余裕がある。だからこれだけの安定した成功を収めたのだろうと思う。歌手の信頼がなければ、どれほどの歌い手でもこうはいかないと思うからだ。どちらかと言えばゆったりとしながらも、メリハリがあり、第3幕では少し早めだったように思う。けれども「パルジファル」ほど音楽の速さがわからなくなる作品はない。実際、あの最も長い部類に入ると言われるレヴァインの演奏を長いとは決して思わない。まさに「時間が空間になる」というのを実感する作品なのだから。

東京フィルハーモニー交響楽団の演奏がこんなにも見事に感じたことはあっただろうか。この日のオーケストラからは、ほとんど完璧にワーグナーの音がしていた。冒頭から私は、あっという間に中世のヨーロッパにいるような雰囲気(というのは陳腐な喩えだが)に浸ることができた。もちろんそれも飯森の素晴らしい指揮による結果だろう。新国立劇場合唱団が素晴らしくなかったことは一度もないが、この日も精緻にして奥行きのあるアンサンブルに心を打たれた。荘厳で透明な歌声は、浄化された水のように澄みわたりながら、静謐な会場に気高く響いた。

拍手されないことの慣例にあえて挑戦するような拍手がある第1幕とは異なり、幕切れでの盛大な拍手とブラボーは、歌手達を4回以上のカーテンコールに誘い、その舞台にはクプファー氏も登場した。私にとって圧倒的に思い出に残る今回の「パルジファル」は、これまでに舞台で見たワーグナーの中でダントツのものであった。2回の休憩を挟むこと6時間はあっという間であった。小ぶりだった雨も上がり、16時に始まった舞台も22時に終演となった。日本でもこのような上演があるものだ、と私は嬉しくなった。


東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...