2013年6月30日日曜日

ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2012-2013)

5 月に「ナブッコ」の実演を堪能し、その1か月後に「ファルスタッフ」を(映画上演で)見た。「ナブッコ」がヴェルディの最初の名作で、最後が「ファルス タッフ」である。この間55年。地下2階地上26階建てのビルに例えれば、「ナブッコ」は地上階、「ファルスタッフ」は最上階という感じである。そうそ う、「リゴレット」も6月に映画で見たが、これはちょうど真ん中の15階くらいだろうか。

その「ファルスタッフ」に 初めて接したのは、カラヤンの新録音がリリースされた時だった。たしか1982年、ながら受験勉強派だった高校生の私にとって日曜日の午後は「オペラ・ア ワー」の時間だった。NHK-FMも当時は満足すべき時間をクラシックに割いていた。その日はカラヤンの「ファルスタッフ」で、もちろん初めて聞く曲だっ た。だが聞いているうちに何か楽しそうな曲だな、と思ったのを覚えている。

それ以来、ヴェルディのビルを上ったり下 りたりして、随分他の作品にも親しんだが、26階の最上階だけは、 エレベータホールを少し見ただけで以後、一度も足を踏み入れたことがない。実際、ワーグナーにおける「パルジファル」と同様、何か近づきがたいものを感じ ていた。有名なアリアなどというものはなく、印象的ななメロディーもない。ドラマと音楽が一体となった作風は前作「オテロ」にも似ているが、ヴェルディに つきものの葛藤と嫉妬に燃える悲劇性は皆無である。

このオペラ・ブッファは、ヴェルディの中では異色の作品である。 この達観した高齢の芸術家が到達した最終地点である、などとよく解説には書かれているが、実際これはヴェルディ流の喜劇、つまりヴェルディの手にかかると シェークスピアの喜劇がこのように料理されるのか、という発見に満ちている。これは一にも二にもヴェルディの音楽を聞くオペラだと思う。

サー・ ジョン・ファルスタッフは、あまりに肥満で年老いているにも関わらず、ちょっとした下心から同じ文面のラブレターを、こともあろうに親友関係にある二人の 夫人、アリーチェ(フォード夫人)とメグに送る。二人が顔を見合わせ、その行いがバレると、その悪行を懲らしめてやろうと、娘のナンネッタ、その恋人フェ ントン、フォード氏、おせっかいなキンクリー夫人らが加わって仕返しの芝居となる。

ファルスタッフは自分が騙されて いるとも知らず、フォード氏の留守中を狙ってガーター亭に出向くが、何とそこに妻の逢引の現場を押さえようとフォード氏が帰宅する。ついたてのうしろ、そ のあとには洗濯籠の中に隠れるファルスタッフ。その洗濯籠はファルスタッフを入れたままテームズ川へ投げ込まれ、彼はは溺れそうになりながら帰宅する。九 重唱といった場面が何度か登場し、それぞれが別の歌を歌うなど、映像で見るとなかなか見応えがある。

パリのオペラ座 公演をライブ中継するにあたって、キンクリー夫人を歌ったカナダ人、マリー=ニコル・レミューや、登場人物中唯一のフランス人歌手、ガエール・アルケスに インタビューしている。この二人はとても良かったが、主題役のアンブロジオ・マエストリの当たり役とも言える素晴らしい演技を抜きにして、また円熟の指揮 ぶりを発揮したダニエル・オーレンを無視して、この公演の素晴らしさを語ることは出来ないだろうと思う。マエストリは、その巨漢と容姿がまさにファルス タッフにうってつけであった。

溺れたファルスタッフは懲りずにウィンザーの森へ出向き、さらなる仕打ちを受ける。第 三幕のシーンはガーター亭が見事に巨木に変身するあたりの演出上の効果も素晴らしかったが、映像がそれを伝えきれていないように感じられたのは残念であ る。女性陣に徹底的に打ちのめされたのは、ファルスタッフだけはなく、フォード氏もであった。だが最後のシーンで、ファルスタッフはすべてを悟りきったよ うに「この世はすべて冗談」と歌う。このフーガはヴェルディが最後に書いたもっとも素晴らしい歌だろうと思う。

「ファ ルスタッフ」はヴェルディのオペラの集大成のような側面があり、そのように思いながら聞くからこそ味わい深い。その歌が華麗でもなく、ドラマチックでもな くとも、私たちはこの半世紀にわたって圧倒的な作品を書き続けてきた巨匠にしか成し得なかった作風が横溢しているのを目の当たりにして、なんとも幸せな気 持ちになる。上演回数はさほど多くはないが、音楽家にとっては魅力的なのだろう。トスカニーニの歴史的名演を筆頭に、あのバーンスタインやジュリーニ、そ れにカラヤンらが名演奏を残している。最近ではアバドがベルリンで録音した演奏が評判だ。

2013年6月28日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第10回目(1985年4月)

浪人生活が決まった高校卒業後の春休み、残っていた1日分の「青春18きっぷ」を使って近畿地方の周遊旅行にひとり出かけた。「青春18きっぷ」というのは別に18歳限定の商品ではないのだが、18歳を意識して企画されたものだと思う。時間はあるけどお金がない。大学受験の浪人生活が始まるまでのわずかなひとときを、鈍行列車で過ごすなどということが許されるような優雅な時代であった。


4月になると、春休みも終わっている。学生は10日くらいまでは休みだが、それでも新生活の準備に忙しい。私が通うことになっていた予備校は15日くらいからしか始まらないから、有効期間ぎりぎりの4月10日頃は、もうのんびりと旅行している人などいない。

世の中は春爛漫で、桜の花が満開であった。けれども桜の名所が人出でひしめくのは週末くらいで、平日の田舎は普段の生活である。湖西線に乗って琵琶湖を眺めながら、近江今津で途中下車した私は、列車の乗り継ぎ時間に駅のまわりをしばらく歩いたが、することがない。駅のまわりも新しく整備されているが殺風景である。ここから敦賀までの区間は、運転本数が急激に少なくなる。この区間は電化区間の中でも特殊な区間で、交直流の電気機関車に引かれない普通列車はディーゼルしかない。乗客も非常に少ない。

敦賀で小浜線に乗り換え、春の昼下がりを舞鶴へ向かう。ここの区間は大変のんびりしていて、まだ田植えを待つ田んぼを眺めながら夢うつつの気分であった。西舞鶴から福知山へ出て、小一時間の散策の間に、福知山城と書かれた場所まで行ってみた。京都府の地方都市福知山は、その後何度か訪れたが、駅前の商店街もまだ当時は活気があった。


福知山と言えば大阪から出ている福知山線の終点で、もうかなり遠くというのが子供の頃のイメージだった。ドアのしまらないような客車列車に乗って、福知山まで往復しようとしたことが小学生の頃あった。だがそれは親に反対され、断念した。大阪を出発した普通列車は、各駅で数分から数十分ずつ停車して、何時間もかけて福知山へ着いたものだ。

この時も福知山から大阪へ向かう列車は、どこか遠いところから来た列車であった。もしかすると出雲市や鳥取といったあたりから来たかも知れない。そういえば日本一長い区間をはしる鈍行列車は、門司発福知山行きであった。山陰本線は、ローカル列車の宝庫だった。

谷川駅で加古川線に乗り換えるために下車した私は、ひなびた山間の駅のまわりを歩いた。人ひとり見かけないようなローカル駅で、春の陽射しが眩いばかりに降り注いでいた。なんとも美しく、平和な風景だった。河原に思いっきり石を投げても、思いっきり叫んでも誰ひとり気づく人はいない。よく晴れたその風景を私は独り占めした。そして世の中はこんなにも変わっていないのに、自分の生活だけはずいぶんと変わったなと思った。だが、もしかすると自分自身は何も変わっていないのかも知れないと思った。そうしている間に、何か自分だけが取り残されていくような感じがした。静かな小川のほとりに桜の花が綺麗に咲き誇っていた。青春時代のまさに真ん中で、私の心はその光景とは対照的に、焦燥感にあふれていた。

このようなことをしていてはいけないとも思った。加古川線を加古川まで出て山陽本線を兵庫まで戻った。山陽本線の支線、和田岬線という座席のない列車に乗車すると、終点で労働者がどっと乗り込んできた。神戸の片隅にこのようなところがあるのかと思った。神戸から三宮、さらに新神戸へ、夜の神戸を徘徊し、高校時代最後の春風に吹かれた。町工場の通りを歩き、桜の咲く夜の道を遅くまで歩いた。「青春18きっぷ」の旅はこれが最後であった。

2013年6月27日木曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第9回目(1985年3月)

今でもあるのかどうか知らないが、「近郊区間」というのがあって、その区間であれば経路に関わらず、行き先までの料金は最短距離で計算される。東京でも御茶ノ水まで行くのに、秋葉原経由とするか、神田から中央線経由でいくか、どちらを通っても料金は同じで、短い方の料金となる。これを拡大解釈すると、隣の駅にいくのに、わざわざ大きく遠回りすることもできる。ただし同じ区間を通っては(折り返しては)いけないことになっている。もちろん改札口を出てもいけない。

さて、関西地方の近郊区間は、大阪と京都、それに奈良を組み合わせれば、次のような経路が可能である。新大阪から隣の大阪駅までの区間の切符を購入し、東海道本線を京都まで上る。そこから奈良線で南下し、奈良からは桜井線に乗り換えて大和高田へ行き、関西本線で天王寺、さらに大阪環状線で大阪駅へ達する。この区間を普通列車で乗り継げば、数時間はかかるが、これを数百円で行くことができる。

このような、丸で暇でマニアックな旅行は、浪人生にふさわしかった。ある日、私はふと息抜きがしたくなり、このような列車旅行を思い立った。それで新大阪を出た。近郊電車の各駅停車で検札か来ることなど、まあ有り得ないことだった。ところがどういうわけか、列車が大山崎を出たあたりで車掌が検札にやってきた。乗り越しではない。そして上記の経路を行くことは、いわゆる不正乗車でもない。だが実際にこのようなことをする客はまずいない。しかしそのことをどう説明したらいいのか。

私はしかし、正直に、「近郊区間一周」の鉄道旅行をしているのだと告げた。車掌は表情を崩すことなく私の切符にはんこを押し、さらに裏面に検札にきた区間をボールペンで書くという律儀な行為に出た。私もだまっていたが、たかだか数百円のためにこのようなことをしているのは、国鉄だから許されるのだろうか、などと思った。思えばまだ当時、自動改札というのは国鉄にはほとんどなく(片町駅にはあった)、切符の裏面は白かった。

京都、奈良と行き慣れた駅を通ったが、奈良線や桜井線といった、「都会のローカル線」は初めてだった。だが、乗客数が多いことと、いわゆる「ロングシート」と呼ばれる長い座席車のせいで、車窓風景などはあまり楽しいものではなかった。近郊の農家や住宅街を走るだけの単調な路線で、そういえば大和三山などはその車窓から見えるはずだ、などと思っても興に乗らない。

結局、あまりストレスの解消しない半日の小旅行が終った。大阪駅に戻り、私は都会の空気がいいなと思った。みながそうかどうかはわからないが、勉強に疲れると癒されるのは田舎ではなく、都会だった。少なくとも私にとっては、そうだった。

2013年6月26日水曜日

読書ノート:「阪急電車」(有川浩、2008)

阪急今津線というのは大変風情のある路線で、特に私の記憶ではバブルが始まるまでの、すなわち1970年代頃の感覚で、そうだったと思っている。門戸厄神を過ぎて仁川までの区間など、夏の盛りになると静かな中に夏草が駅のホームを覆い、列車のドアがあくと蝉の合唱が聞こえてくるような、そんなローカル線の風情が漂っていた。だが1980年以降になると都市化が進むにつれて、そのような光景は急速に失われ、阪神大震災がトドメを指すように古き良きイメージを奪っていった。

その阪急今津線を舞台にした小説がベストセラーになったというので、一体どんな話なのだろうか、と興味が湧いたのがこの有川浩の小説「阪急電車」を読むことになったきっかけである。私も阪急宝塚線沿線の高校に通い、今では阪神地域に実家もある。これは私の地元を舞台にしたストーリーであるとも言える。知っている町並みや学校などが登場するので、どんなにつまらないものであっても一度は読んでみたいと思っていた。

そのストーリーは、今津線に乗り降りするごく普通の乗客たちの、数ヶ月間の間隔を置いて展開される話の集まりで、ひと駅区間ごとに入れ替わり立ち代わり、話が出てはまた戻り、少し進んでは立ち止まる。会話は現代の関西弁だが、標準語と違って人の心の中にうまく入り込み、独特の繊細さをもって登場人物の気持ちを揺さぶる。たまたま居合わせた人と会話を交わしたことによって心を揺さぶられた個人は、それぞれの人生における、大小様々な決断を行う。その底流に流れるテーマは、女性が自立することの大切さとその難しさだ。だがそれだけがテーマなら、何も阪急沿線を舞台に選ぶ必要はない。小説のタイトルとなっている「阪急電車」とは一体どのような意味なのだろうか。

登場人物の、主に女性たちは、この小説の中で様々なきっかけを得る。偶然であれ必然であれ、そのことが女性として自立して生きていくことへの自我を芽生えされる。つまり図書館の彼女は彼氏を見つけ、孫娘の相手をする時江は犬を飼い始める。PTA仲間に嫌気がさした平凡な主婦は、見栄とうわべだけの母親グループを脱退し、婚約者を寝取られた美貌の翔子は会社を辞めて沿線に引っ越してくる。暴力を振るうタツヤとようやく別れた女性、関西学院大学で軍事オタクの同級生と知り合った美帆、サラリーマンの彼と付き合いながら志望校を決めた女子高生、さらには仲間からいじめにあった女子小学生までもが、この電車に乗り降りする際に知り合った人々から励まされ、勇気づけられる。

関西の郊外には、今でもこのような出会いを生じさせ、維持するだけの余裕があるのだろうか。今は忘れてしまった古い関わり、それも田舎や下町のそれではなく、れっきとした近代人としての独立した個人が、他人とも心を通わすだけの余裕が、かつてはあったと思う。特に神戸や宝塚のそれは、近代日本の個人主義をもっとも理想的な形で実現した物質的、精神的豊かさというべきものだった。

その象徴が阪急電車であり、その沿線に点在するキリスト教の私学であった。自ら高校教師だった時江はその昔を知る、本作品では唯一の女性である。彼女が示す上品で、かつ芯の太い生き様は、わずか隣の駅に着くまでの数分の会話のうちに、確信犯のように現代の若者の、自信を見いだせない気持ちを揺さぶる。それこそがこの小説の真骨頂である。「討ち入りは成功したの?」時江は戸惑い憔悴しきったた翔子に小林駅での途中下車を薦める。「あそこはいい駅だから」・・・この一言が実にいい。

なお、この小説は映画化され、それも見た。小説ではあまり詳しく語られていない登場人物の表情や会話の雰囲気が、特に前半では役者の素晴らしい演技によって饒舌に語られている。宮本信子が演じる時江が、結婚式帰りの翔子に対して語る部分は、小説のレベルを遥かに超えた全体の圧巻であると思った。ここのシーンは、ライトノベル風の軽いタッチで書かれた(だがテーマは深い)小説を大きく凌駕していた。だがこの映画は後半で、脚本家の意見が出すぎてしまっている。そのことが少し白けさせる。またどういうわけか、宝塚中央図書館で出会う一組の男女を省略している。

このカップルは、差し迫った決断を下さない唯一の存在だが、小説の最初と最後に出てくる登場人物で、重要な役目を担っている。川の中洲に書かれた「生」の文字の意味が、最後のシーンで説き明かされるからだ。この「生」の文字は阪神大震災を象徴している。この沿線の良さを奪う最後の一撃を与えたその記憶が今や風化し、それをすぐには思い出せない世代に代わってしまっているのだ。今津線をそのことを抜きに語ることは出来ない。だからこのシーンは省略すべきではないだろう。

小学生の頃に友人たちと出かけた仁川から甲山に向かうハイキングのコースは、今はどうなっているのだろうと思った。もう40年近くも前になるこの界隈の記憶を、久しぶりに辿ってみたいと思った。

2013年6月24日月曜日

ホアヒンへの旅-バンコク③

私にとって二度目のバンコクは、1989年の夏であった。ギリシャへのトランジットで1泊をバンコクで過ごすことになり、旅行会社が手配してくれたホテルに泊まったのだ。そのホテルはマッカサン駅という少しはずれの、周りには何もないようなところにある高層ホテルで、そうは言っても中級の、パッとしないホテルだった。私はそこからあてもなく歩き、インドラリージェントという高級なホテルに着いた。まだバンコクに数えるほどしか高級ホテルのなかった時代、このインドラリージェントは下町の中では高層の、つまり目立つホテルだったが、まわりは浮浪者などが屋台のまわりに多くいて、あまり綺麗だとは思わなかった。

そのインドラリージェントが、大通りの向こうに見えた。チットロム駅を背に北を向くと、右手にはZENという超高級モール、その中に伊勢丹が入っていた。伊勢丹は、かつては大通り、すなわちラチャダム通りを挟んだ右手の、寂れた建物にあったはずだ。私はそこでテニスラケットを買ったのを覚えている。広大な土地が生まれ変わろうとして工事中だったが、その工事は数年後もそのままで、一体この街には発展というのがあるのかと思ったほどだ。だが、そこが今や高級ショッピング街であり、そこを抜けていくと、運河を越えて庶民的なエリアに到達する。

プラトゥーナム市場という、衣料品を扱う大規模な問屋街がそこにはあって、中東やアジア中から買い付けにやってくる商人で賑わっているという。私は賑やかなところも大好きなので、チットロムからわざわざ歩いてやってきた。もちろん20年前の面影を追いながら。

いつものように多くの店を訪ね、フードコートで安価な食事をしたが、考えてみればどの店も同じようであった。ただ飽きるというのではなく、そうなればなったでまた別の店や建物に向かい、疲れたら屋台かフードコートで休む。この繰り返しでバンコクは何日いても飽きないようになっている。

だがその日はもうバンコク滞在の最終日であった。明日には厳冬の東京へ帰らねばならない。今日はチャオプラヤ川の夕陽を見て最後の一日を締めくくろう。そう考えてホテルに戻り、私たちはシャワーを浴びた後、アジアティックと呼ばれる比較的最近完成した郊外型のショッピングセンターへ出かけた。

ここはホテルから至近の距離にあり、船で行くことができる。そしてそこにはまたもやお店。さらには観覧車までが併設されている。船着場に着いて、小奇麗な、そのままでは日本と思ってもいいくらい、いやもっと活気に溢れるショッピングモールには、レストランも数多くあって、今日は金曜日の夕方でもあり、数多くの人出である。観覧車に乗ってバンコクの風景を眺め、少しお店を巡っているとちょうどいい時間になった。夕暮れに近づいたことを察知してさきほどの船着場へ出てみると、そこにはすでに大勢の人がいる。思い思いにカメラを構えるその先には、夕焼けに染まる見事なバンコクの空が広がっていた。

チャオプラヤ川にかかる橋と行き交う船。穏やかな水面に茜色の空が反射している。息を飲む光景だった。夕焼け空は少しづつ赤みを強め、雲の合間からは太陽の白い光が漏れていた。これがバンコクの、目逃すことのできない絶景である。私はまたバンコクの夕陽を見ることができたことに感謝した。写真をとり、船着場を離れるとそこにはテレビのクルーがいて、アナウンサーが本番前のリハーサルを繰り返していた。

どこかで見たことのある人だと思ったら、それはNHKニュースウォッチ9の大越キャスターであった。日本との時差は2時間なので、もうすぐ1月4日の夜九時(日本時間)である。スタッフに日本語のわかるショッピングセンターの広報担当がいて少し話すことが出来た。日本への留学経験もある彼女は、ここの新しいショッピングセンターが好調なアジア経済の象徴的な場所であることなどを語ったが、まだ日本人客も珍しい新しい街に、NHKがお正月最初の生中継を行うということで、私の気持ちは高まった。

生中継の間中、私たちはチャオプラヤ川を吹き抜けるそよ風に吹かれながら、通りにテーブルを並べて週末のディナーを楽しむレストランの賑わいに浸った。中継が終わり、スタッフ一同で記念撮影をするというのでシャッターを切るのを手伝い、私たちは軽く最後の夕食を済ませると、そのまま歩いてホテルに戻った。

子供が寝ると夫婦で川沿いのホテルのバーに出かけ、夜の川を行き交う長大な輸送船などを眺めていた。 1月のバンコクは、暑すぎず寒くもなかった。バックパッカーだった自分が記憶に焼き付いている蒸し暑さと排気ガスのバンコクではなかった。快適な旅行をしているという実感が、かえって年の経過を感じさせた。

2013年6月23日日曜日

ホアヒンへの旅-バンコク②

正月三日のバンコクは、いつものように熱い一日だった。チャオプラヤ川を船で上り、王宮前の渡し船で対岸へ。私たち家族は今年の「初詣」に、バンコクを代表する寺院の一つ「ワット・アルン」を選んだ。ワット・アルンは、王宮前のワット・プラケオ、涅槃仏で有名なワット・ポーと並んで、バンコク滞在中に訪れるべき寺院のひとつである。その特徴は、そびえ立つ仏塔、そこに施された見事な彫刻である。

だが多くの寺院がそうであるように、仏塔は本堂ではない。そこで私たちはまず本堂へ向かい、ズラリと並んだ仏さんなどを拝んだ。ここは無料である。線香を買って火をつけ、お供えする。どこでも同じ光景である。私は自分を仏教徒だと思っているので、仏教寺院でのお祈りは何か気分を安心させる。日本の寺院とは違う部分もあるが、取り囲まれるように伽藍が配置されているのは、奈良時代のお寺のようで、関西生まれの私には馴染み深い。

仏塔は、その急峻な角度によって丸でトウモロコシが空に突き出たような格好である。掘られた彫刻も見事だが、階段がついていてここを昇ることができる。階段は3階層になっていたかと思う。高所恐怖症の妻は最初の階段で挫折したが、息子と私は最上位まで上った。お寺はチャオプラヤ川に面しており、周りに高い建物はないから、仏塔の上からはバンコク市内を見渡すことができる。その景色も美しいが、仏塔がそびえる光景もまたバンコクの象徴的な風景である。

20年前に来た時に比べると、バンコク市内のあちこちに高層ビルが林立している。だが、王宮とその周りの雰囲気は変わらない。そして客待ちのタクシーやトゥクトゥクとその悪どい手口も!

それで私たちは一度はぼられそうになりながらタクシーを拾い、東急百貨店が入るバンコク一のショッピングセンター、MBK(マーブンクロイン)にやってきた。その光景を見て驚いた。ショッピングセンターは昔のままだったが、その周りの風景が丸で違っているのである。かつては、その周りには何もなかった。ジム・トンプソンの家という観光スポットは今でもあったし、そのすぐ近くの中級ホテルも健在だったが、周りにはもっと多くの高層ホテル、超高級なショッピングセンター(これら空き地だった)、そして空中を走る交通システム。まるで宇宙都市に来たような錯覚を覚えるその下を、何車線もある道路が走っている。だがそこにかつて黒い排気ガスをまき散らしながら何重にも停車していた路線バスは見当たらない。

私はしばし感慨にふけっていたが、そのMBKの最上階にフードコートがあることを思い出して、出かけた。クーポン制のフードコートは、面積が随分縮小され、変わって高級なレストランと映画のコンプレックスが出来ていた。

かつてバンコクには地下鉄やBTSはなく、わかりにくくて混雑間違いなしのバスに乗って渋滞の中を行くか、それともうだるような暑さの中を歩いたものである。だが今では空調の効いたBTSが走る。ここシーロンから隣のチットロムにかけての光景は、全然別の都市に来たような感覚である。え、あのバンコクが?と私は何度も自問した。そのそばを、日本や中国から来た若者のグループや家族連れが、さっそうと歩いて行く。


BTSでサバーン・タクシーン駅に戻る間中、新たに出来た高級ホテルやブティック、それに公園の向こうに広がる高層ビル群を私は眺めた。そこにはかつて私の胸を踊らせたあのバンコクは、ほとんど失われていた。代わって、東京よりも活気があり、好調な景気に湧くアジアの国際都市が出現していた。噂には感じていたが、まさにその光景が、そこにはあった。そして私が好きだった物価の安いバンコクは、少し陰を潜めていた。だが考えてみれば、それは当然だった。バンコクは昔から、アジアだけでなくヨーロッパ、オーストラリア、中東の観光客が出会い、たむろし、歩きまわるところだったからだ。その雰囲気は、今でもかわらなかった。バンコクの魅力は、常に進化していたということだろう。

2013年6月22日土曜日

ホアヒンへの旅-バンコク①

今度バンコクに来ることがあるのなら、絶対にチャオプラヤ側沿いのホテルにしようと決めていた。10年以上に亘る闘病生活の間は、もう一生バンコクに来ることなどないと思っていた。それが実現するというのだ。だから迷わず、川沿いのホテルを探した。

クルンテープ、そうタイの人は呼ぶバンコクを、私は学生の時から何度か訪れている。最近は・・・といっても20年前のことだが・・・北部タイへの旅行の途中に立ち寄った。その前は学生時代で、インドからの帰り。さらには初めてヨーロッパ旅行をした1986年の夏にも、1泊をしている。

この最初のバンコク滞在は、思わぬことから実現した。香港からパリへと乗り継ぐはずのタイ国際航空機がトラブルにより遅れ、私たち乗客は急遽航空会社の手配するホテルへ収容されたのだった。

まだ古いターミナルのドンムアン空港は薄暗く、タバコの煙が充満した待合室は、乗客でごった返していた。よくわからない英語で私たちは出発が翌朝になることを告げられ、イタリア人の団体客一行と同じリムジンバスに乗せられてバンコク市内へと向かった。夜の10時頃だった。

巨大な看板と、人を乗せて走るトラックを見ながら私たちはチャオプラヤ川沿いのハイアット・ホテルに到着した。初めて見る夜のバンコクは何もわからなかったが、翌朝部屋のカーテンを開けてみると、そこにはどんより曇った朝もやの中に、熱帯の川の風景が目に飛び込んできた。朝の4時に起こされて朝食をとり、今度はタイ航空のタクシーに乗って空港へと向かった。バンコクの早朝の風景は、かつて「特派員報告」といった海外取材番組で見たままの光景と同じだった。柿色の袈裟を来た僧侶が、どの通りにも何人もいて托鉢に回っているのだ。痩せて長身の彼らはみな丸坊主頭で、手には壺を持っている。

その光景を私は、チャオプラヤ川の風景とともによく覚えている。いわばバンコクの最初の思い出であった。その後、何度かこの街を訪れたが、あのような幻想的な光景はついにこれが最初で最後だった。

バンコクの猥雑さと、一向に改善しない交通渋滞、それにあのまとわりつくような暑さと屋台の匂い。バンコクの悪口はいくらでも思いつくのに、バンコクが今でも限りなく魅力的な街であり続けているのは何故だろうか。私はそれがあのチャオプラヤ川をゆっくりと行き来する船や、その周りに暮らす陽気で穏やかの人々のおかげだと思っている。そういえばインドからの帰り、知り合ったニュージーランド人の夫婦とともに、舟を借りきって水上マーケットのツアーに出かけた。狭い運河に入るとそこには当時、まだ多くに人々が実際に生活をしていて、野菜や果物を売り買いしていた。

そのそばを私たちが通過すると、あまり綺麗とは言えない運河に、子どもたちは飛び込んだ。カメラを向けるとにこりと笑う彼らの屈託のない表情が忘れられない。寺院のそばをいくつも通り、私たちは買い込んだ果物を食べながら、王宮前へと戻った。高層ビルが立ち並び、水上生活者がいなくなっても、依然バンコクは水の街であり、運河に触れずしてその街の歴史を語ることはできない。

私たちはホアヒンからタクシーでバンコクへ戻り、サバーン・タクシーンという新しいBTSの乗り場近くにあるChatrium Hotel Riversideという高層ホテルに到着した。部屋からは予想通り、川が眼前に開けている。ただ。今回訪れた1月は、空気が澄んでいて、まるで別の街のように綺麗だ。変わりゆく風景に触れながら、変わらない表情を求めるわずか3泊のバンコク滞在が、このようにしてスタートした。

2013年6月21日金曜日

ホアヒンへの旅-チャアム

バンコクからホアヒンまで来るまで行くには、国道4号線を南下するルートとなる。これはバンコク湾に沿っているが、信号一つない国道から海は見えない。ペッチャブリ県に入り、すこし山などが見ててくると、ペッチャブリ市内となる。ここから海沿いのビーチ・リゾート、チャアムは近い。チャアムからホアヒンの間は、コンドミニアムやホテルの散在するリゾートである。ホアヒンが王室ゆかりのハイソなリゾートに比べると、チャアムはタイ人向けの庶民的なリゾート地である。特に見るものはないが、ホアヒンの喧騒を離れたい外国人もチャアムに滞在することができる。


海は・・・ホアヒンほど岩だらけではないが、さほど綺麗でもない(クラゲもいる)。だがここにはタイ人の若者が週末になるとこぞってやってくるため、海沿いの通りは大いに活気づく。その海沿いの通りは南北何キロにもわたって延々と、「海の家」が立ち並ぶ。1日借りても100バーツ程度のデッキチェアに腰を下ろすと、どこからでも物売りがやってきて、シーフードや揚げ物、ライスや飲み物など、何でも手に入れることができる。

ピクニックに来るタイ人の家族や若者のグループには、大きな炊飯器を持参して来る人もいる。マイカーで来る人で海岸沿いの道は渋滞し、駐車場は満車である。沖合にはバナナボートなどが行き交い、浮き輪やサンダルなどを売る店もあるし、それが夕方になるとどこからともなくやってくる屋台でさらに活気づく。

年も押し迫ったある日、私たちはチャアムを訪れ、傘で空が見えないくらいにびっしりと覆われたデッキ・チェアの一区画を専有して昼寝をした。道を隔てた町側には、ほぼ100メートルおきにコンビニやトイレ、シャワーなどがある。ホアヒンにも似たような雰囲気はあるが、こちらはずっと庶民的で、従って英語も通じにくい。タクシーも常駐しておらず、バスがあるのかないのかもよくわからない。

ホテルへ帰る方法もなく、屋台でいろいろな人に話しかけ、彼らの携帯電話でタクシーを捜したが、見つからなかった。途方に暮れて暑い道を歩いていると、開店したばかりのパン屋を見つけ、併設されたカフェでコーヒーとケーキを食べた。まるで日本にいるようなセンスの良い店で、クーラーも効いていた。翌日朝のためにクロワッサンを買って再び海岸に戻ると、さっきはなかったタクシー屋の屋台に人がいた。料金交渉が成立し、私たちはサムローに乗ってホテルへ戻った。

大晦日の夜になると、ホアヒンやチャアムの海岸からは大量の花火が上がり、灯籠も空に舞い上がった。海に面してホテルのバルコニーから眺める新年の様子は、日本の厳粛な年越しとは異なり、大変華やかで活気に満ちていた。爆竹が夜遅くまで鳴り響き、テレビではカウントダウンの中継をしている。その中に、お坊さんが数百人も一斉にお経を唱える番組があった。年越しの行事の生中継である。昨年は香港で迎えた新年を、今年はチャアムで迎えた。熱帯の夜風は涼しく、季節感のない新年である。だが日本から来た私には、とてもリラックスした新鮮な気分であった。

2013年6月20日木曜日

ホアヒンへの旅-Novotelとその周辺

今回私が宿泊したNovotel Hua Hin Cha Am Beach Resort and Spaは、ホアヒンの北20キロ程度の地点(実際にはペッチャブリ県のチャアム)にあって、海に面している。ホアヒンを含む海沿いには、リゾート・ホテルや長期滞在型のアパートが並んでいて、そのうちのいくつかは高級な欧米系のリゾートである。その意味で国際的な観光地であるとも言える。高層の建物もあって、そのひとつがNovotelであった。このフランス系のホテルは、高級ではないが中級よりは少し上のランクに入る。広いプールがあってスライダーが付いており、子供を連れた家族に人気である。

子供がプールで遊ぶことを考慮して、予約の取りやすかったここのホテルをAgodaで予約したことは、結果的には正解だったと思う。ホアヒンへは毎時バスが往復しており、部屋の窓から見えるバンコク湾の風景は見事なくらいに綺麗であった。

バスタブがなく、エレベータなどの設備がやや古い。レストランの食事は高すぎないが、それほど特徴があるわけではない。しかしロビーにいると吹き抜けていく風が心地よく、プールサイドのレストランはのんびり過ごすにはいいものだ。子供向けの部屋も広く、トレーニング・ルームも充実している。もちろんプールの中にバーもある。

ここに7泊滞在し、毎日プールで過ごした日々は、私から日頃のストレスを奪っていった。波が高く海ではとても泳げなかったが、プールサイド脇のデッキチェアに寝そべっていると時間がたつもの忘れた。喉が乾けば、その場でカクテルなどを注文できるのは勿論だが、ホテルの入り口にはセブン・イレブンがあって、何でも必要なものは買える。

事前に調べたホテルのクチコミは、このホテル周辺の施設について、正反対の2つの意見に分かれていた。ひとつは「ホテルの周りには何でもある」という意見である。もう一方の意見は「ホテルの周りには何もない」という意見。どちらが正しいかと問われれば、どちらも正しいと言えるだろう。

ホテルの入口にあるのはセブン・イレブンで、その並びにはマッサージ屋、仕立屋、クリーニング屋、レストラン、ATM、タクシー屋の小屋などが並び、その続きには果物屋、より多くのレストランや土産物屋が並んでいた。生活に必要なものは何でもひと通り揃う。一方で、ここには他にみるべきものはない。高級な店も、贅沢なレストランもない。そしてあるのはただ毎日同じ人が同じところで同じことをやっている日常的な光景、つまり変化のない空間と時間。その風景はタイの典型的な農村ではなく、ホテルの客をあてこんだ、やや西洋化された、しかしどこまでもタイ風の町並みであった。どのレストランにも英語のメニュー、ハンバーガーやスパゲッティのようなイタリア料理、Free Wifiなどが完備され、勿論冷たいビールもある。客はほとんど西洋人だ。

殺風景な風景はホテルの滞在をややつまらないものにしている。世離れした美しい光景に出会えるプーケットなどの世界的観光地・・・はむしろタイ風とは言い難いのだが・・・のような天国感はない。ここは少し変わったタイの観光地で、長期滞在のヨーロッパ人と金持ちのバンコク住民の街である。

海は東に面し、朝日が昇る。一方、裏手の山はその向こうがミャンマーである。この山地にはケーン・クラチャーン国立公園やカオ・サム・ローイ・ヨート国立公園などがあって、トレッキングなどができるツアーも用意されている。タイには珍しいワイナリーもある。だが、これらの近郊へのエクスカーションは、私の旅行前の期待をさほど高めてはくれなかった。一週間程度の滞在では、わざわざ出かけていくほどのことでもない、とあっさりあきらめた。やはりここの良さは、比較的温和な気候と、治安の良さ、それに美味しいシーフードということになるだろう。

2013年6月19日水曜日

ホアヒンへの旅-ホアヒン

ホアヒンはタイ王族が別荘を持つ高貴なリゾート地である。バンコク湾に面していることは、かの有名な対岸のパタヤと同じだが、ここは東側のパタヤとは異なり西側にあって、そのまま南下するとマレーシアに至るマレー半島の細い部分の入り口、プラチュアッブキリカン県にある。バンコクからは200キロ程度で、車で来ると3時間強である。

ホアヒンへは、バンコクから列車で来ることもできる。速度の遅いタイの国鉄では、ホアヒンを経由してさらに南下する列車を多数走らせているが、移動手段としての列車はさほどポピュラーではない。しかしホアヒンの玄関は鉄道駅ということになっている。それはここの駅には、王室専用の待合室があるからで、ここがホアヒンの第一の観光地となっている。私たちもホアヒンを去る前日、ここの駅でしばらくのんびり過ごした。1時間ほどの間に2本の列車がやってきて、人が乗り降りし、発車していった。

駅のすぐ近くには有名なナイトマーケットがある。私はホアヒン滞在中幾度かここへ来て、屋台で買い物を楽しんだ。さらにはシーフード・レストラン!ホアヒンの第一の楽しみは、エビやイカなど豊富な海産物である。よく冷えたシンハーやチャーンのビールとともに、大きなエビを頬張る。物価はバンコクより安いが、より庶民的である。のんびりしているせいか、運ばれて来るのが遅い。

駅からまっすぐ海に向って伸びる道路が、バンコクから来るメインストリートと交わる交差点のあたりが中心地で、待ち合わせ場所として利用されるクロックタワーもここにある。交差点を挟んでナイトマーケットと丁度反対側には、より高級なショッピングセンターがあり、有名店やスーパーマーケットなどがある。一度は行くのも良いが、短期旅行者が何度も行く所ではない。

南北のメインストリートを挟んで東側、すなわち海側が旅行者のエリアである。のんびりとした田舎の街を思ってここへ来ると、ホアヒンもまたタイの一大観光地であることを実感する。ヒルトンホテルを目印に、その周辺の通りという通りは、国際的な旅行者のための店がひしめく。世界中の料理が食べられるのもここの特徴である。ドイツ料理、イタリア料理、あるいはスイス風のパン屋まで、ここにはヨーロッパ人の長期滞在者(あるいは居住者)のための施設が揃っている。

ホアヒンの最高級ホテルは、ヒルトンの南側にある広大なソフィテルである。ホアヒンの中心地に泊まってのんびり過ごすには、ここしかない。だがここは大変に高く、滞在者でないと入れないことになっているので、私はいかなかった。子供連れのような場合には、郊外に欧米の高級クラスのホテルから地元の安いホテルまで揃っている。ただいずれもバンコクあたりから週末に出かけるリゾートといった感じである。

ホアヒンの海岸は、大変賑わっていて風景明媚だが、泳ぐにはいささか問題がある。海はプーケットのようにきれいではなく、クラゲが泳いでいたりする上に、波がやや高い。このため泳ぐのはもっぱらホテルのプールということになる。ということは滞在のポイントとしてはプールの質ということになる。より遠くに行けば(つまりホアヒンから離れれば)、きれいな海もあるようだ。タイ人は、ホアヒンでも楽しそうに水遊びをしている。バナナボートが時々走ってくる。

ホアヒンの海沿いには、さらに多くのシーフードレストランが立ちならんでおり、どこも非常に賑わっている。郊外を含めどこに宿泊しても、ホアヒンの中心部に出かけることになる。日が沈みかけてから夜が更けるまで、ホアヒンの街は活気づく。ホテルはたいていホアヒン中心部との間に定期バスを走らせており、これを利用するのがいい。帰りにバスがなくなっても、そこら中にいくらでもタクシー屋がたむろしているので、ほぼ一定の料金で賃走してくれる。ほぼ毎日のように、ホアヒンの街に繰り出すことになったとしても、3泊以上の滞在なら郊外の広いホテルがいいだろう。私も大晦日を含め、何度もホテルと街を往復した。私の泊まったホテルは厳密にはチャアムというところにあって、ここは別の県に属しているが、ホアヒンから30分程度であった。高速で飛ばすタクシーに揺られていると、タイに来た実感が湧いてきて、大変爽やかな気分であった。

2013年6月17日月曜日

ホアヒンへの旅-到着まで

昨年の1月1日に旅行を中断し帰国したのは、仕事のためである。だが麗しきタイへの旅は、ここで中止するわけには行かない。前年に引き続きプーケットへの旅行を計画したが、バンコク、香港、クアラルンプール、シンガポール、広州、上海、北京、台北、それにソウルのいずれを経由しても、10月の時点では格安飛行券はほぼ満席、高い飛行機代とホテル代を支払わない限り、年末年始の旅行は難しいことが判明した。

一方、それ以外のアジアのリゾート、すなわちバリ、サムイ島、ベトナムのニャチャンなどは、季節風の影響でベスト・シーズンとは言い難い。そういうわけで諦めかけた矢先、私はひとつの考えを思いついた。それは比較的多くの便が飛んでいるバンコクへ行き、そこから陸路で行けるリゾート地を探す、というものである。バンコクなら最悪そこで滞在するのも悪くはない。ただ子供連れの家族旅行では、バックパッカーのような機動性は発揮できない。

そのようにして航空会社や旅行会社のWebページを漁っていたところ、昨年も利用したキャセイ航空のバンコク往復の航空券が、比較的安価に売られていることを発見した。東京から香港へは非常に多くの便があり、しかもそのうちの半数は羽田発着である。乗継時間を1時間とすれば、バンコクへの乗継も便利である。香港の空港が1時間のトランジットというのも冒険だが、キャセイの時間に厳密なオペレーション(それは実に素晴らしい)を考えると、これは不可能ではない。

お正月休みをうまくはさんで、小学校が冬休みに入る12月26日朝に羽田を立ち、その日の夕方にはバンコクへ到着できる。ここでタクシーをチャーターすれば、その日のうちにホアヒンへたどり着くことも可能だ。ホアヒンには1週間ほど滞在し、年を越して正月2日にバンコクへ戻り、20年ぶりのバンコクで3泊、1月5日に羽田へ戻るという日程がベストな選択であった。私はAgoda.comで昨年同様、ホテルを検索し、子供が泳ぐプールが広い比較的リーズナブルなNovotalに決めた。ホテルの手配でタクシー会社も決まり、あとは風邪をひかぬよう万全の体制でクリスマスの3連休を過ごした。

2012年12月26日(火)、私は久しぶりに機上の人となった。香港までの4時間を興奮気味に過ごし、遅れた出発時刻も到着時には30分早いという素晴らしい定時運行で、1年ぶりの香港へ。さらに乗り継いで夕方5時には、新しく出来たスワンナプーン国際空港へ降り立った。広い空港に圧倒されながら、タクシーの運転手と無事に出会い、そこから高速道路を飛ばして一路マレー半島を南下した。

久しぶりに訪れたバンコクは、がらりと雰囲気が変わっていた。汚い路線バスや、荷台にまで子供を乗せて走るトラックなどというものは見かけなくなり、大きくて新しい乗用車が縦横無尽に高速道路を飛ばす。空港を出て到着まで、信号というものがまったくない。途中、コンビニやショッピングセンターなどがいくつもあって、熱帯の土地であることを除けば、タイであることを忘れるくらいである。私たち家族を載せたトヨタのタクシーも快適そのもので、約3時間の行程を心地良い眠りとともに過ごすことになった。今朝までの分厚い防寒具はとっくに脱ぎ棄て、南国の風を浴びながら、私たちは月光の輝く優雅なリゾート、ホアヒンに到着した。

2013年6月16日日曜日

オペラ映画「ボエーム」(2008年、ドイツ・オーストリア)

オペラ映画について触れたついでに、一昨年に見た映画「ボエーム」についても書いておこうと思う。これはプッチーニの歌劇「ボエーム」の映画版で、アンナ・ネトレプコらが出演する最新のもの(といっても2008年)である。銀座の映画館で見た時の印象を、古いブログからコピーする。

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Met Live Viewingのアンコール上演も終わり、次のシーズンまでの間、どう過ごそうかと考えてしまう。3週間で12作品を立て続けに見たし、その最後は「指環」の「ラインの黄金」と「ワルキューレ」で、今もって私の頭の中にはヴォータンの声が響いている。だから、次に始まったオペラ映画が「ラ・ボエーム」と聞いても、いまさら甘ったるい音楽なんか聞きたくない、と思うところである。

だが、私にとって「ボエーム」こそ人生最初のオペラ体験となった作品なのだ。それは1981年9月のことで、中学生だったころである。ミラノ・スカラ座が来日し、東京と大阪で公演を行った。その時にテレビとFMで放映されたのがプッチーニの「ボエーム」で、指揮はカルロス・クライバーだった(今一つの公演はヴェルディの「オテロ」とアバドによる「シモン・ボッカネグラ」)。

この伝説的な指揮者については私は当時何も知らなかった。ただFMで生中継が行われ、40分もの幕間をつなぐ時間に解説の話がそう長くは続かないことを想定したNHKは、ここに適当な音楽を挿入する予定だったようだ。ところが解説を担当した数名の音楽評論家が興奮してしまい、話が白熱する。結局この音楽は放送されなかったのである。その舞台はやがて教育テレビでオンエアされ、私も最後の幕に見入った記憶があるのだ。

ベッドに横たわるミミに対し、ロドルフォが大声で歌うがなかなか死なない。ずっとやりとりが続くのを見て、オペラとはかくも変わった劇なのかと思ったと同時に、その音楽の魅力に触れた気がしたのだ。演出はフランコ・ゼッフィレッリ、ミミが当たり役のミレルラ・フレーニでロドルフォがペテル・ドヴォルスキーという夢のようなコンビ。クライバーの指揮棒が舞台の下で勢いよく動きまわるのが大変印象的であった。

それから30年が過ぎたが、私が「ボエーム」に触れるのは、音楽のみのディスクを除けば実にこれが初めてである。そういうわけで、今回新たにアンナ・ネトレプコとローランド・ビリャソンの21世紀の黄金の組み合わせで映画が作成されたので(監督はロバート・ドーンヘイム)、私はさっそく出かけたというわけである。

映画館に入って驚いたのは観客の少なさである。平日とは言え夜の上映時間ならサラリーマンが大勢いても不思議でない。ところが銀座にある映画館には10人程度しかいない。500人ほども入る映画館にたった10人である。そこで私は真ん中の席に陣取り、いつものようにどっぷりとスクリーンに見入ることになった。

三角関係のないドラマは、青春小説をオペラにしたようなところがあって、何となく見るのも恥ずかしいくらいなのだが、それがプッチーニの甘く切ない音楽に乗ると、第2幕あたりからは見る方も感情が移入してしまう。もっともその時にはすでにミミとロドルフォが惚れあい、有名なアリア「私の名はミミ」や「冷たい手」などは歌い終わっているのであるが。

パリの屋根裏部屋を舞台にした映像は、舞台の制約を打ち払い、特に第2幕のカフェのシーンは見ごたえがある。少年の歌声や軍隊の行進もあって、華やいだクリスマス・イブの雰囲気はプッチーニの音楽がどのように構成されているかを良くわからせてくれる。第3幕の別れのシーンは、2組の男女が一斉に歌う雪中のシーンだが、1組はののしり合い、もうひと組は愛情を感じつつも別れてしまう切なさを、それぞれ歌っている姿が二重に映され、大変楽しめると同時に印象的だ。

第4幕になって病に伏すミミを、若い芸術家たちが見舞うシーンは泣ける。ここにはオペラにつきものの嫉妬に狂う三角関係も、ヴェルディによくある葛藤もない。みんないい人なのね、と思うとそれはそれでまた、大いに泣けてくるから音楽の力とは不思議なものだ。夢を追いつつも若者特有の焦燥感と虚無的な生活に、突然薄幸なミミが現れて一時の恋に落ちるも、友人たちに見送られながら息を引き取っていく青春ストーリーが、それでも新鮮な後味を残すのは、登場人物がみな若いからだろう。

裕福ではないが友情に厚いこれらの愛すべき登場人物を見ながら、自分にもそういう時期があったなあ、などと思ったりする。若者にしかない特権で、彼らはクリスマスから冬にかけての数か月をともに過ごす。共通の思い出として残るこれらの生活もまた、彼らの掛け値のない財産なのだろう。

プッチーニの音楽は、他のオペラと同等かそれ以上の完成度を見せている。そのことがこのオペラの成功の理由の一つである。指揮のベルトラン・ド・ビリーとバイエルン放送交響楽団とによるオリジナル・サウンドトラック(ということはオペラ全曲録音だが)は、Deutsche Grammophonからリリースされている。なおマルチェッロはジョージ・フォン・ベルゲンでなかなかいい。私は好感を持った。ムゼッタはアメリカ人のニコル・キャベルで、最初は韓国人かと思った。

「口パク」である上に、甘ったるい音楽。少し無理のあるストーリーなのになぜか泣いてしまう。オペラというのは不思議なものだと改めて思った。

2013年6月15日土曜日

オペラ映画「トラヴィアータ」(1985年、イタリア)

ヴェルディの一連のオペラ作品のうち、1980年代に映画化されたものについて語るとき、フランコ・ゼッフィレッリが監督した「トラヴィアータ」を取り上げないわけにはいかない。これは個人的に、オペラの楽しみに触れた、最初で、もっとも衝撃的な作品であったからだ。ヴェルディ中期の音楽的な充実とストーリーの美しさが、当時傷心していた私の心を直撃した。1987年、20歳のときである。

主演のトラヴィアータ(椿姫)が、その細身で病がちな美貌を買われたと思われるテレサ・ストラータス、アルフレードにプラシド・ドミンゴ、父ジェルモンにコーネル・マクニールを配した布陣は、音楽だけを取り上げるとやや不足な要素もないわけではないが、映画としての完成度はこれ以上無いというくらいに素晴らしい。

1995年にニューヨークで、メトロポリタン歌劇場の「椿姫」を見るにあたり、この映画について書いた文章があるのでそれを転記しておきたい。この作品はやがてドイツ・グラモフォンからDVDで発売されたし、今回のイタリア文化会館における「ヴェルディ生誕200周年」に因んだ映画上映会でも取り上げられた。しかし私はこの時の印象があまりに強く、その当時の感動を壊したくないとの思いが先行して、いまだに全編を通して見ることが出来ない。購入したDVDは一度も再生されることなく、私のラックに飾ってある。

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誰もが経験するように当時大学2年生の私は、単調な丁度学生生活にちょっとした失恋が重なって何をしようとしても力が入らず、心の傷がぽっかりとあいたまま時間とプライドと望みのすべてを失ったような気がして、立ち直れないでいた。

茫然自失腑抜けのような、あまりにむなしいその日の午後、私はしとしと降る秋雨の中、授業をさぼって大阪・梅田に出た。何を思ったのか映画を見ようと思い立ち、タイトルも確認もせず堂島の「毎日ホール」地下の映画館に入った。2本立てで確か800円だった。ただ何も考えなくていい時間が欲しかった。私は1本目の「ラ・トラヴィアータ」が、ヴェルディのオペラ「椿姫」であることすら知らなかった。何気なく後ろの席に座り、沈痛な面持ちで始まるのを待っていた。

スクリーンには冬のどんよりと曇ったパリのノートルダム寺院が映るだけで、何分間も全く音すら流れてこない。私の気持ちはますます陰鬱になり、何と言う映画を見に来たのかと後悔しつつあった矢先、静かに前奏曲が流れてきた。

少年が部屋の片付けを手伝っていたところ、額に入った一人の美しい女性の肖像画に気付く。少年の心はなぜかその顔に惹き付けられ、やがってじっと見入る。ここが前奏曲の主題の部分で、画面はやがてその女性の肖像画をズームインしていく。少年の気持ちは何かにとらわれたかのように部屋をさまよい、そしてある殺風景な部屋に入ろうとして立ち止まる。そこはみすぼらしい屋根裏部屋で、ひとり咳き込むか弱そうな肖像画の女性がベッドに横たわり、それを気の毒そうに覗きこむ少年。ここが悲劇を暗示するメロディと重なっていたように思う。

何とインパクトの強い映画だろうか。音符のすべてが画面のシーンにぴたりとあてはまり、美しい画像と音楽の連関に、私はまるでその少年の心のようにスクリーンに惹き付けられていった。

前奏曲が静かに終わると、カーテンの向こうから騒ぎ声が聞こえる。「一体何だろう」女性はベッドから起き上がり、ふと向こうの部屋を見やる。するとどうだろう。第1幕の出だしの音楽が勢いをきって流れ出した。女性はみるみるうちにパーティー会場へ引き込まれ、いきなり見たこともないアルフレードという一人の純情な青年からの愛の告白を受ける。あとは有名な「椿姫」の筋書き通りである。

私は初めて見るオペラ映画なるものが、随分変わったものだと思いつつも字幕を追い、豊かに響く音楽と歌に聞き惚れていった。筋書きは知らなかった。「乾杯の歌」や「花より花へ」といった歌を部分的に覚えてはいたが、その歌の意味するところも全体のストーリーも知らなかった。ただ魅力的で美しい映像と音楽に、わたしは我を忘れて聞き入り、一種の興奮にも似た感覚を感じていた。こんな経験は初めてだった。

今でも鮮明に焼き付いて離れない数々のシーンと音楽のうちで、最高潮はスペインの闘牛士の踊りとそれに続く賭けのシーン、それから第2幕の最後の3重唱である。私は初めて知るストーリー、初めて聞く音楽でありながら、背筋が緊張して動かないくらいに感動し、そして涙を流した。映画の構成は見事というほかなかった。ヴェルディの意図した音楽的動機が、一つ残らず説明されていくような説得力を持つ画像の構成であった。

幕間の休憩もなく、第3幕のパリ祭の日にアルフレッドが駆けつけるシーンと、それに応えるヴィオレッタが形見を渡すシーンは、私を魂の根底から揺さぶった。やがて病に倒れるヴィオレッタ、映画は急転直下悲劇で終わる。

実は第3幕の前奏曲でも、あの最初の少年が登場し、ヴィオレッタの部屋をカーテン越しに眺めている。あとで知ったがこれはヴェルディのオペラには登場しない人物である。なぜ、映画監督ゼッフィレッリは彼を登場させたのだろうか。そしてこのことがこの映画をより一層示唆に富むものにしている。

私は余りに感極まって打ち震える体を静めようと努力しながら、映画館を出た。雨はまだ降り続いていて止む気配はなかった。私は大急ぎで家に帰り、しばらくは他のことを何も考えることができなかった。それ程私は感動していた。

これが私とオペラとの劇的な出会いである。それから私は立て続けに「椿姫」のCDを借りてきては聞き入り、全てテープにとっては訳を見ながら解釈本を読み漁った。次いで「オテロ」「魔笛」「トリスタンとイゾルデ」というように次々と聞いていった。学校から帰るとすぐにオーディオ部屋に籠って、その年の冬は過ぎていった。

このような魂を揺さぶられる経験は、人生でそう何度もあるものではない。私はどういうわけかオペラに縁があったのだ。もし毎日ホールの映画の上映順序が逆で、2本目の映画「恋に落ちて」を見ていたら、私は別のものにのめり込んで行ったに違いない。

2013年6月7日金曜日

オペラ映画「リゴレット」(1982年、ドイツ)

ヴィクトル・ユゴー原作のオペラ「リゴレット」のテーマは「呪い」である。オペラ映画として1982年に作成された「リゴレット」は、そのことをとてもよくわからせてくれる。

主人公リゴレットはせむしで、道化師として生きるしかなかった男である。身体的ハンディキャップを負った彼は、時に卑屈でコンプレックスの強い人間となっていただろう。そのリゴレットにはただ一人美しい娘がいて、彼女(ジルダ)のことを愛してやまない。ジルダはそのような父を見ながら、箱入り娘として育つ。だがリゴレットはそのような自分をどこか情けなく、負い目を感じていたのだろうと思う。

自分の娘がまたもや公爵の手に落ちてしまうのを悲しむ父モンテローネ伯爵に、自分の弱い姿と同様のなものを感じてしまうのを発見し、嘲ってしまうのだ。そのことが、とうとう彼をしてリゴレットを呪わせる。モンテローネ伯爵の呪いは、自分にもある感情と同種のものであるがゆえに、心のなかで常につきまとい、あろうことかその悲劇は、自身の身にも降りかかるのである。

思えばヴェルディの他の作品、例えば「椿姫」では肺病を患った娼婦が、「トロヴァトーレ」では息子を誤って殺したジプシー女が、「オテロ」では肌の黒いムーア人が、いずれも自分の出自ゆえのコンプレックスを抱えていて、そのことが自分に跳ね返る災いの間接的な引き金となって、遂には身を滅ぼしてしまうのである。私はここで何故か松本清張の小説を思い出すのだが、このような今では少しタブーとなった差別的な部分が、このストーリーを理解する上で避けて通れない。

このオペラ映画はいまから30年以上も前の作品である。映像を見ると少し色あせていて、時間の経過を感じる。だが、私にとってこの作品は、同時期に相次いで映画化された「トラヴィアータ」や「オテロ」(いずれも監督はフランコ・ゼッフィレッリ)と並び、学生時代の私をオペラ、とりわけヴェルディの世界に引き込んだ思い出深い作品なのである。この3つの映画が同時に、ヴェルディ生誕200周年の今年、東京・九段のイタリア文化会館で上映されるのを知って私は、会社を休んで出かけた。

このうち「トラヴィアータ」と「オテロ」はいずれも映画館で見ているから、今回は「リゴレット」に的を絞り、朝11時の開演40分前に会場に到着したが、すでにそこには大勢の人が着席していて、そのあともどんどん人はやってきた。開演時には500席以上ある会場がほぼ満員となった。私は最前列に座ったが、平均年齢65歳はあろうかと思われる客は、後ろの方から埋まり始め、はたして字幕を追うことができるのだろうか、などと心配した。

北イタリアの城壁都市を実際に使ってロケをしたという映像は、カメラが劇場の舞台を飛び出して動きまわることができることでより一層、リアルなものとなった。この映画に限らずこのような演出が、オペラ映画の素晴らしいところだ。実際のオペラとはまた違う魅力がある。

圧巻は第3幕の四重唱のシーンだと、初めて全体を通して見た今回も思ったが、それ以外にも多くの発見があった。第1幕でスパラフチーレがリゴレットに初めて言い寄るシーンや、貧乏学生に扮したマントヴァ公が乳母を買収してジルダの元を訪れるシーン、それに廷臣たちがリゴレットを騙してジルダを拉致するシーンなど、実際の舞台を見てもよくわからないままとなってしまうことがある。どこまで台本に忠実かはわからないが、このジャン=ピエール・ポネルの演出は、少し饒舌すぎるにせよストーリーがよくわかるのである。

リゴレットはその弱さ故に殺し屋にすがり、そのことが結果的には愛する娘を死に至らしめる。救いようのないオペラも、ジルダは自ら身代わりとなって死んでゆくところが涙を誘う。マントヴァ公は悪役ではあるが、許せない悪ではない。むしろ愛嬌があり、さらにはいっときジルダを心から愛する者として描かれている。その役を若いルチアーノ・パヴァロッティは、美声を轟かせながら好演している。パヴァロッティの素晴らしさこそ、この映画のまず第一に触れられなければならない点だろう。

まだ若く艶のあるパヴァロッティの次に心に残るのは、もしかするとスパラフチーレ(フェルッチョ・フルラネット)の妹、マッダレーナを歌うヴィクトリア・ヴェルガーラかも知れない。そして一人二役となるイングヴァール・ヴィクセルのモンテローネ伯爵。これらの脇役がしっかりとしている。そしてエディッタ・グルベローヴァのジルダとイングヴァール・ヴィクセルのリゴレットは、及第点の出来栄えである。リッカルド・シャイーの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が素晴らしく、この若き天才の出世作であったことを思い起こさせる。それにしても作製されて30年以上が経ったとは、自分自身も歳をとったものである、と感じた。

2013年6月2日日曜日

ゲーゼ(ガーデ):弦楽八重奏曲ヘ長調作品17(ラルキ・ブテッリ&スミソニアン・チャンバー・プレイヤーズ)

いよいよ梅雨に入り、鬱陶しい天候が続くかと思いきや、ここ数日は気持ちのいい快晴である。このような気分のいい朝に、メンデルスゾーンの八重奏曲などでも聞いてみようか、と思って取り出したCDに、北欧デンマークの作曲家ゲーゼの弦楽八重奏曲がカップリングされていることに気づき、似たような作品ならまだあまりちゃんと聞いていない、こっちの方を聞いてみようかと思った。

ゲーゼ(ガーデ)(1817-1890)は、師匠のメンデルスゾーンと同時期からより長く活躍した作曲家である。 ちょうどロマン派のまっただ中を駆け抜けたその作風は、メンデルスゾーンとよく似ている。メンデルスゾーンは私の大好きな作曲家なので、この曲もさぞ素敵だろうと思っていたが、まさにその通りであった。そしてメンデルスゾーンの死後、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めた後にコペンハーゲンへ帰り、北欧の後の多くの作曲家、例えばグリーグやニールセンに大きな影響を与えた。

グリーグなど、まるでドイツ・ロマン派の本流のようなメロディーを思い起こすと、そこにゲーゼのような橋渡し役がいたということが、あまり知られていないことに驚く。実際、ゲーゼの音楽のCDといったってほとんど売られていないし、演奏会でも取り上げられない。だがその音楽の親しみやすさから考えれば、これは意外である。そのゲーゼの最も有名な作品は、彼の8曲中最初の交響曲第1番であるという(私はまだ聞いたことがない)。

弦楽八重奏曲は、弦楽四重奏曲を2つ合わせた規模の音楽で、ヴァイオリン4人、ヴィオラ2人、チェロ2人の構成である。弦楽オーケストラというには小さいが、カルテットでは表現できないような迫力の音楽が、室内楽曲の中では少ない数のジャンルに彩りを与えている。この曲の気持ちがいい第1楽章を聞くと、規模の大きな室内楽を聞く楽しもというものを実感する。弦楽四重奏だと音楽が小さく、室内オーケストラだと輪郭がぼやけてくるのだ。

第2楽章からスケルツォの第3楽章でも音楽が沈むことがない。このメンデルスゾーン風の育ちのいいロマン性が、好きなものにはたまらないのではないかと思う。ロマン派の音楽ということが、旋律の美しさを強調する。 まさに初夏に聞くには相応しいような音楽のように思えてくる。

終楽章ではアレグロに戻って、颯爽とした風が吹き抜けるかのようなメロディーが流れてきて印象的である。メンデルソーンが若干16歳の時に作曲した弦楽八重奏曲を、ゲーゼはライプチヒを追われてコペンハーゲンへ帰郷後の1848年、31歳の時に作曲した。メンデルスゾーンの天才的早熟さはないかもしれないが、もう少し落ち着いた、しかしみずみずしさを失っていない、ちょうどバランスのいい作品である。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...