2023年12月31日日曜日

プロコフィエフ:交響曲第1番ニ長調作品25「古典」(クラウディオ・アバド指揮ヨーロッパ室内管弦楽団)

クラシック音楽の演奏にも流行というのがあるようで、近年頻繁に演奏されるようになった曲がある一方で、かつては良く演奏された曲が滅多に聞かれない、といったことが起こっている。プロコフィエフの「古典交響曲」もまたそのような作品ではないかと思う。最近は大規模な難しい曲ばかり聞いていたので、年末のちょっとした時間に息抜きになるような作品はないかと思いを巡らしていたところ、そうだ「古典交響曲」があると思ったので取り上げることにした。もっとも大晦日の今日は午後7時20分から11時40分まで、今年恒例のバイロイト音楽祭収録演奏のトリを飾る「パルジファル」の放送があるから、その前にあまり重い曲は聞きたくはない。

「ハイドンがもし今生きていたらこういう作品を書いたのではないか」という風に考えた若きロシアの作曲家は、まったく独自にわずか15分の交響曲を作曲した。愛すべきこの先品は2管編成、第1楽章アレグロ、第2楽章ラルゲット、第3楽章ガヴォッタ、第4楽章フィナーレの4つの楽章から成っている。溌剌としてメロディーも印象的な作品は、ストラヴィンスキーらのいわゆる「新古典主義」のさきがけとも言えるような時期に作曲された。

私が初めてこの曲を聞いた時、もう一つの条件があるように思った。それは「もしハイドンがロシア人だったら」というもので、この作品は少なくともプロコフィエフならではの作風がみなぎっており、それはまさしくロシア音楽の流れに基づくものであろうと思ったからである。ただそういうことはどうはでもよく、かわいらしく親しみやすい音楽は、短いながらもクラシック音楽を聞く楽しみを存分に味わわせてくれる作品である。

私の家にはエルネスト・アンセルメによる演奏のレコードがあったのだが、記憶が正しければこのレコードはちょっと変わった大きさで、LPよりも小さくいわゆる「ドーナツ盤」よりは大きなものだった。かなり再生回数が多かったのだろう、このレコードは擦り切れつつあった。その後私は「カラヤン・デジタル名演集」というタイトルの1500円の新譜レコードが発売された時、このレコードを買った。その中に「古典交響曲」が入っていた。

しかしカラヤンによる「古典交響曲」の演奏は、より後になってベルリン・フィル恒例の「ジルヴェスター・コンサート」で演奏されたものが、鮮烈な印象を残すものだった。この時のプログラムはこのあとにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で、独奏はまだ10代だったエフゲニー・キーシン。祖父と孫以上の年齢の開きのある演奏に興味津々聞き入った。カラヤンはもう満足に歩くことができず、ゆっくりと舞台そでを進む老人と彼を気遣う若者が登場する長い時間、カメラはズームを最大に引いてこのシーンをカムフラージュした。

そのプログラムの前半に演奏された「古典交響曲」は(ピアノ協奏曲第1番でもそうだったが)、もう体のコントロールがきかなくなりつつあったカラヤンを知り尽くしたベルリン・フィルが力で押し切ったような演奏で、重厚で十分なエコーもあり、そこそこ切れもある不思議な演奏だった。映し出される各奏者は、いつものように向こうからライトで照らされて体をゆするとそれが見え隠れする。元旦早朝の生放送をVHSのビデオに録って何度も見た。見ていて楽しい演奏というのが、カラヤンのビデオだった。

それに比べると、CDで発売された80年代初頭の演奏は無理なく整理された演奏である。悪くはないのだが、どことなく醒めた感じがする。私の印象により残っているのはアンセルメの後を継ぐシャルル・デュトワの演奏以外では、クラウディオ・アバドがヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したもので、これには「ピーターと狼」の余白に収録されたものである。アバドのぜい肉をそぎ落とした指揮はプロコフィエフ作品によくマッチしており、ピアノ協奏曲を始めとして名演奏が目白押しである。この「古典交響曲」でもリズム感に溢れて刺激的であり、さらっとラルゲットやガヴォッタを通り抜けると、目一杯の速い速度で一気に快走するフィナーレに唖然とする。アバドの楽し気な指揮姿が目に浮かぶようだ。ヨーロッパ室内管弦楽団の巧さも特筆すべきものだと思う。

今年も残りあと7時間余りとなった。歳を取ると毎年新しい正月を迎えるたびに、よくここまで来れたものだという思いが強くなる。そういえば今年は飯守泰次郎の「ロマンティック交響曲」を聞いた。今年逝去したこの指揮者の最後の演奏会となったものだった。一方、オペラ「紫苑物語」で瞠目させられた作曲家西村朗も、若くして急逝してしまった。そのほかにはソプラノ歌手のレナータ・スコット、坂本龍一、そして谷村新司といった人も帰らぬ人となった。久しぶりに明るい年の瀬ではあるが、淋しい気分でもある。合掌。 

2023年12月13日水曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第756回東京定期演奏家(2023年12月8日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

カーチュン・ウォンが日フィルの首席指揮者に就任してから、彼のコンサートが目白押しである。私も初めて演奏を聞き(マーラーの交響曲第3番)、にわかにファンになってしまった。どんな名曲であっても常に新鮮な発見をさせてくれそうな予感がする。極めて微細な部分までを体全体を駆使して表現する様は、見ているだけでも楽しい。そして12月の東京定期公演なる演奏会も、若きマエストロの独断場であった。私は数日前に日フィルからメールが来て、まだ多くの席が残っていることをたまたま知り、8日(金)のコンサートのチケットを買った。今回はその表情豊かな指揮姿を真正面から見てみたいという思いに駆られ、普段はまず買わない舞台裏のP席を取った。だが客席は4割にも満たない状況。ちょっとショッキングだったが、それは見事な演奏会だった。

プログラムはウォンが精力的に取り上げていきたいと語ったアジアの作曲家、特に今回は我が国の代表的な作曲家である外山雄三と伊福部昭の作品が前半に並んだ。まず外山の交響詩「まつら」。この曲を聞くのは初めてだが、ウォンは15分足らずのこの作品を、丁寧に演奏した。1982年に日フィルによって初演されたこの作品は、佐賀県松浦地方に伝わる音楽をベースにしているという。夜明けの静かで厳かな情景に始まり、祭囃子も聞こえてくる日本的情緒を前面に表現した作品で、あの有名な「管弦楽のためのラプソディー」を思わせるようなところがある。P席から見ると打楽器がすぐ下に陣取って、残念ことに一部が見えない。

実のところ外山雄三は私が初めて聞いた指揮者で、それは親に連れられて行った大阪フィルの「第九」であった。小学生だった。古い大阪フェスティバルホールの3階席後方で、ティンパニの音が視覚とずれて聞こえたのを覚えている。その外山も今年逝ける音楽家となった。指揮者はカーテンコールに応えながら、楽譜を高らかに持ち上げ、作曲家の死を悼んだ。

舞台は長い時間、準備のための小休止となった。ピアノの次に大きな楽器が、アップダウンするサントリーホールの左奥から舞台中央に移動されたのだった。マリンバは小学生の頃、音楽室に置かれていた楽器だった。私の通っていた小学校は普通の地元の公立学校だったが、音楽の先生が大変ユニークな方で、通常の授業は一切行わずただ学生に楽器を触らせた。その中に大きなマリンバ(といってもプロが使う大きなものではなかったが、それでも当時80万円はすると言っていたような気がする)、ザイロフォン、パーカッション、ベースなどまで揃っていた。小学生は毎日、昼休みになるとこれらの楽器の争奪戦が行われ、勝者が順にこれらを演奏するのだった。

そのマリンバである。マリンバがオーケストラと共演する曲は珍しい。プロは畳以上の大きさのある広い鍵盤を右に左に移動しながら、4本のバチを持って演奏する。そのバチも曲の途中で様々な長さのものに交換する。指揮者がやや横にずれ、舞台正面に陣取ったマリンバを演奏するのは、「日本を代表する打楽器奏者」池上英樹である。指揮者とともに舞台に現れると、伊福部昭の名曲「オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ」が始まった。P席から見る奏者は、向こうを向いてはいるがそのバチさばきが良く見えてなかなか面白い。

この30分程度の曲は、よくあるように急=緩=急の3つの部分から成っている。北海道生まれの作曲家は、外山のような伝統的な日本風情緒を押し出すようなことはしない。むしろ北方の大地を思わせる広がりと、そこから湧き出すような土俗的リズムが顕著である。その中から「ゴジラ」の音楽が生まれた。それが音楽的にどういう意味を持つか、詳しく説明するだけの知識はないが聞いていて面白いことは確かである。カーチュン・ウォンはこの曲に前半の重心を置いていたのは明らかで、時に野蛮とも思われるようなリズムを軽快に刻む。私はマリンバの演奏の良し悪しを評価する知見を持たないが、よくもあんなに複雑なバチを暗唱した上で間違わずに弾けるものだと思った。この大きな楽器を演奏するには、楽譜を見ている余裕はないのである。

コーダの部分は長く続くリズムに合わせて聴衆が体中が揺さぶられた。その興奮の様子は録画され、早くもテレビマンユニオンのサイトで観ることができる(https://members.tvuch.com/member/)。ただ視聴には一つの公演につき1000円もかかる(しかも90日しか見ることはできない)。私は実演を見たわけだし、ビデオで観る音楽は所詮その時の感動を超えることはない。音楽はライブにこそ意味があるのだ。だからビデオ視聴はもう少し安くてもいいのではないかと思う。なお、マリンバ独奏のアンコールは、マリンバ用にたいそう味付けされた「星に願いを」だった。

休憩を挟んで演奏されたのは、本来この公演を指揮するはずだったアレクサンドル・ラザレフの十八番、ショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。ショスタコーヴィチの全15曲に及ぶ交響曲の中で最も有名であり、かつ明快な音楽である。かつてショスタコーヴィチの音楽などまだ珍しかった頃でも、この第5番だけは良く演奏された。私の実家にもレナード・バーンスタインが雪解け時代のモスクワに凱旋した際に録音された公演のライブ盤があったし、コンサートでもマリス・ヤンソンスの演奏を聞いている。親しみやすい音楽なのだが、その意味するところは複雑だ。結局何が真実かよくわからないまま、批判の矢面に立たされていたショスタコーヴィチの名誉が、ソビエト社会で回復する。

ただカーチュン・ウォンの解釈はプログラム・ノートに書かれているように、共産主義体制によって人間性が圧迫され、政治との軋轢と絶望の中で聞こえる悲痛な叫びや恐怖、絶望、その果ての孤独といったものに覆われている音楽だという。舞台上のマリンバに代わりピアノ、チェレスタ、鉄筋など打楽器が所せましと並び、2台のハープも加えた様は壮観である。私は普段見えないピアノの鍵盤を見下ろす位置に座っている。このオーケストラの中の鍵盤楽器奏者は、チェレスタも演奏する。ここから見る一番奥に、コントラバス奏者が10人以上いる。

演奏はほぼ完璧と言ってもいいものだった。オーケストラの技術的な観点だけではない。加えて音楽的な完成度という意味で、これ以上望めないレベルだった。カーチュン・ウォンの表現が恐ろしく明確で、それに応えるオーケストラ。日フィルに望みうる最高レベルの演奏だった。そして先日のマーラーいい、今回のショスタコーヴィチといい、このコンビで聞く音楽の充実度は、聞いていて歓喜の声を上げたくなるほどだ。第1楽章の冒頭だけで何十回と練習を繰り返したとか、弦楽器のボウイングを分けて演奏したとかといった技術的な噂も聞こえてくるが、そういったことを感じさせないほどにこなれている。余裕さえ感じられたと思う。それでいて白熱の名演、なかなかできるものではない。

このゆとりある完璧な演奏スタイルが、上記のようなショスタコーヴィチ音楽の暗く非人間的な負の側面をどれほど十全に表現しえたかはわからない。むしろ明快で単純な勝利への音楽と感じることもできるような気もする。このあたりは聞く側の主観にも依存するのでいい加減なことは言えないのだが、音楽の持つ多様な側面を感じるのも技術的完成度ゆえのことだろうとも思う。

第1楽章の何かが始まるような戦慄、第2楽章の無機的な舞踏を経て第3楽章の孤独の極限がこれほどまでに明確に聞こえてことはなかった。終楽章の沸き立つ行進は、精緻な中間部を経て大きく再現され、コーダでの打楽器を含むトゥッティへと導かれる。一気に自然な形で進むので、あっけにとられているうちに終わってしまった。アーカイブのビデオで再度見てみたいと思う。客席こそ空席が目立ったが、熱心なファンが止まってしまった拍手をパラパラと再開し、それが何分も続くうちに次第に増えていった。オーケストラが退場しても指揮者だけが呼びもどされた時、やはりこの演奏は多くの人の心を打ったのだと合点した。

カーチュン・ウォンの演奏会はこれからも多く組まれている。その中にはマーラーの交響曲第9番も含まれる。有名曲であっても何か新しい発見のある演奏に、来年も触れ続けていきたいと思った演奏会、ついに私は来春から始まるシーズン前半の定期会員チケットを購入してしまった。

2023年12月5日火曜日

ラフマニノフ:交響曲第1番ニ短調作品13(ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団)

白内障を患ってから活字に触れる機会がめっきり減ってしまった。それでもここ数日の未読の新聞をこの機会に読もうとして、何部かを旅行に持ってきた。福島へと向かう東北新幹線の満員の車内で書評などを読む。新しい小説との出会いはこのようにして得られることも多い。勿論耳の方は、スマホから流れるクラシック。冬景色のみちのくは私をロシア音楽、とりわけラフマニノフへと誘う。

雲が低く垂れ込み、そのわずかな隙間から青空が映える。進行方向左手の二人席は朝日も当たらず、北向きのクリアーな景色が好きだ。北関東の山々が次第に近づき、その山麓が少し色づいている。そんな景色を眺めながら、今日はラフマニノフの最初の交響曲第1番を聞いている。演奏はカナダ人ヤニック・ネゼ=セガンが指揮するフィラデルフィア管弦楽団、演奏は2019年(ドイツ・グラモフォン)。

ある作品が初演されたものの大きな不評を買い、後になって評価されるようになることはよくあることで、この作品もまたそのような経緯を辿った。後に有名となる才能ある作曲家にはほぼ一般的な経過とも言える。その洗礼をラフマニノフも受けた。ただ彼が受けた酷評は、あまりにもひどいものであったようだ。その後作曲の筆は途絶え、4年以上に亘ってそれは続いた。だがこの作品への思いは大きく、晩年の最後の作品「交響的舞曲」にも引用されている。このCDは、この「交響的舞曲」をカップリングしており、こちらの方も名演である。

今日乗っている列車は「なすの」郡山行きだから、新幹線の各駅に停車する。小山や那須塩原といった駅に停車する列車は1時間に1本しかないから、10両編成の車両は出張のサラリーマンでいっぱいである。埼京線と並走する大宮までの間、私は第1楽章を聞く。大宮で結構な人数の客が乗ってくるまでのこの区間は比較的空いている。

これほどにまで酷評された音楽を一度聞いてみたいと思った。ラフマニノフの交響曲は第2番が断トツに有名だが、今年生誕150年を迎えて、何度かは演奏されているようだ。

第1楽章の冒頭は3連符を含むおどろおどろしい出だしである。このメロディーは、実は続く以降の各楽章の冒頭でも繰り返される。これがこの曲の統一的なモチーフというわけだが、各楽章の性格は実に異なっていて、様々な要素がてんこ盛りである。第1楽章はフーガを伴う推進力のある部分が登場するかと思えば、木管のソロだけの静かな部分もやってくる。互い違いに進みながらも、まあこの楽章は聞けると思った。寂寥感を湛えたロシア風のメロディーは、あのラフマニノフならではのものである。

列車はかつて住んでいた大宮市(現、さいたま市)を抜けていく。住宅街が途切れ、田園風景が広がってくる。演奏は第2楽章に入っている。第2楽章はスケルツォ風で、目だった変化こそ少ないが、3拍子の駆け足の音楽がずっと続く。続く第3楽章は緩徐楽章。ここはしっとりと味わい深いので、何度も聞いてみるとだんだんその良さがわかってくる。

第4楽章が始まって再び主題が現れると、今度はファンファーレを伴った行進曲になる。祝祭的なムードと性急で不安定な和音を織り交ぜながら進む。木管ソロと打楽器が組み合わさるラフマニノフの真骨頂である。これが後年ジャズの要素にも結び付く。45分にも及ぶ曲がようやく終わろうとする頃、派手に銅鑼なども打ち鳴らされていったん静かなムードに戻って溜を打ち、最後はティンパニが鳴って突如終わる。

一般にある曲を「わかる」ようになるためには、そうなるまで聞き続けるしかない。クラシック音楽は最初から誰でも簡単に親しめるわけではないので、そういう努力をしなければならない。なぜそういうことをしてまで音楽を聞き続けるか?それは「わかった」時の嬉しさが大きいからである。ただここで「わかる」というのは、大いに主観的かつ曖昧なことであって、そのレベルには実際限りがない。だから一愛好家としては「わかる」イコール「楽しめる」とでも捉えておくのが良いだろう。そういうわけで、私もラフマニノフの交響曲第1番を何度も聞いてみたところ、これは大変カッコいい曲に思えてきたから不思議である。最初は支離滅裂で、それこそ初演時に評論家がこき下ろしたものを読んで納得したのだから、当の作曲家にしてみればいい加減なものであろう。

だが、よくよく考えてみるとこれは若き天才作曲家の野心作なのである。いくら最初の交響曲とはいえ、初演時の指揮は何とグラズノフである。注目されないはずはない。そもそもまだ駆け出しの若者の作品を、サンクトペテルブルクの音楽界は満を持して迎えたことになる。そこで歴史的な不評を買った。だがこれを額面通りに受け取ってはいけない。私見だが、これは当時の重鎮たちの嫉妬ではないか、と思うようになった。才能ある若者は、それを臆せず見せびらかしたからかもしれない。このことが原因でラフマニノフはうつ病にかかり、しばらく作曲から遠ざかったにもかかわらず、チャイコフスキーに並ぶロシア最大の作曲家のひとりになった。

ラフマニノフ生誕150年の今年、ラフマニノフの曲が数多く演奏された。私もいくつかに出かけようと思っていたのだが、プログラムに上ったのは昨年の終わりから今年前半にかけてが多く、私は迷っているうちに行きそびれてしまった。今シーズンのプログラムの中心は、来年生誕200周年を迎えるブルックナーへとすでに移っている。

ラフマニノフの交響曲第1番はユージン・オーマンディによって西側に紹介された。オーマンディと言えばフィラデルフィア管弦楽団から豪華絢爛な音色を引き出した指揮者として有名である。その後「フィラデルフィア・サウンド」はヤニック・ネゼ=セガンに引き継がれた。

間近に迫った寒い冬を前に、つかの間の落ち着きを楽しんでいるような陽気の中で、宇都宮を出た列車は、那須連山を遠くに仰ぎながら快走している。今年の秋はひときわ暑かった夏のおかげで、さぞ紅葉が見事だろうと思っていたら、気温の高い日が長く続いたせいで色づきが遅れ、しかも急に寒くなったことで葉が散ってしまった。山々はいくぶん赤い感じがするが、その奥の山々は山頂付近がすでに冠雪している。いつのまにか雲は消え、その連山に光があたってまぶしい。

東京からわずか1時間。今回の旅の最初の目的地、新白河も間もなくである。

南湖公園(白河市)

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...