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2021年8月9日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団演奏会(2021年8月7日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:下野竜也)

コロナ禍に見舞われた昨年、NHKは日曜夜のクラシック音楽の放送枠に、全国の地方オーケストラの公演を取り上げた。その中でとりわけ私を注目させたのは、下野竜也が指揮する広島交響楽団のベートーヴェン「エグモント」(全曲)の演奏会だった。序曲だけが有名なこの作品の全曲を、ナレーション(エグモント)とソプラノ(クレールヒェン)付きで演奏する意欲的な取り組みは、ベートーヴェン生誕250周年だったこともあり、事前に組まれていたものだろう。だが私の目を見張ったのは、その演奏の素晴らしさだった。

私は未だにこの鹿児島生まれの指揮者の姿を見たことがない。読売日本交響楽団などをしばしば指揮しているから、接しようと思えば簡単なことだと思いながらも、なかなかその機会が持てないでいた。だがテレビで見たその指揮は、なかなかスマートなもので、特にフレーズが次のフレーズに移ってゆく時、自然に流れを持続させるのが非常にうまいと思った。広島交響楽団というのが、どの程度の演奏団体なのかは実演で接したことがなく未知なものだったが、少なくとも映像で見る限り、これは第1級の演奏だと思った。他のオーケストラと比べても、それは歴然としていたと思う。

そしてエグモントとしてナレーションを担当するのが、バリトン歌手の宮本益光。この単なるナレーションに歌手をわざわざ起用しているのは、この演奏会の成功の要因だと思った。日本語なので自然に頭に入って行くことに加え、音楽との微妙な交わりがとても良い。ミューザ川崎シンフォニーホールで聞いた実演に関していえば、マイクを使う必要もなかったのではないだろうか?かえって残響が耳に残った。

クレールヒェンを歌ったのは、これも広響との公演と同じソプラノの石橋栄美で、彼女を私は新国の「フィデリオ」(2018年)で聞いている(マルツェリーネ)。その経歴から、私の生まれた大阪出身で、しかも私の育った豊中にある大阪音楽大学の出身とある。豊中でもとりわけ庶民的な地域にあるこの大学の前を、私はこの4月に歩いたばかりであるだけでなく、私の通った高校の音楽の先生などもこの大学を出ていたりしたから非常に親近感が沸く。もしかして同じ高校?などと勘繰り、さらに経歴を調べてみたら彼女は東大阪の出身で高校は天王寺にある夕陽丘高校だと判明した。

その石橋のソプラノの素晴らしさも特筆すべきもので、舞台向かって右後方より聞こえてきた自信に満ちた歌唱は、私が聞いた1階席では完全に音楽に溶け込み、素晴らしいバランスで3つのアリアを完璧に歌いこなした。 

ゲーテの戯曲にベートーヴェンは音楽を付けた。そのことだけでも興味が沸くこの作品の全曲が演奏されることは非常に少ない。私はかつてジョージ・セルがウィーン・フィルを指揮して録音した演奏でこの曲を知り、その後、クルト・マズアがニューヨーク・フィルと録音したCDで親しんで来た。だが実演に接する機会が来るとは思わなかった。この度、偶然川崎の音楽祭のパンフレットなどを眺めていたら、昨年テレビで見た広島での公演と同じものを日フィルとやることがわかった次第。迷わずチケットを買い、勇んで会場に入ったがその客席は2割にも満たない状況に、いくらコロナ下とは言えちょっと残念に思った。前日のバッティストーニは、5割は入っていたと思うからなおのことである。

プログラムの前半は、何とシェークスピアを題材にした曲が3つ。ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲で始まり、ヴォーン=ウィンドウズの「グリーンスリーヴス」による幻想曲を経てニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」と続く不思議な選曲。これらの3曲は非常にポピュラーで聞いていて楽しい作品だが、この日の演奏会は兎にも角にも後半の「エグモント」に注力した感じ。練習していないとは思わないが、軽く流した感じもしてちょっと不満ではある。だが「グリーンスリーヴス」の美しい音色は、心に染み入ってしばし音楽に触れることを喜んだ。

昨日の東フィル、今日の日フィル、いつもの東響、だけでなくここ川崎で聞くオーケストラの音は、いつもちょっと濁っている。これはホールに原因があるのかも知れない。だがこのホールに来ていつも思うのは、その客層の良さである。何かとても音楽を聞くことを楽しみにしている人が多いと思う。醒めたN響の定期会員や、何か特別な感覚のある読響、それに余り音楽に縁のない人がなぜか多い都響、と在京オーケストラにも様々な個性がある。そんな中で、この川崎に集う聴衆は、オーケストラが登場するだけで拍手を送る。だがそのような愛すべき聴衆も、今や高齢化が避けられないようだ。そのことがちょっと淋しいと思った。

なお、毎年夏の「フェスタミューザ」の広告に使われるイラストは凝っていて面白い。今年はベートーヴェンがテニスのラケットを持ち、マーラーがコーラ片手に山登りに出かけるというもの。とても面白いからここにも張り付けておきたいと思う。


2020年6月27日土曜日

ウェーバー:クラリネット協奏曲第1番ヘ短調作品73、第2番変ホ長調作品74(Cl: ザビーネ・マイヤー、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

管楽器のための協奏曲というのは、楽器の特徴から大規模な音楽が好まれるようになるロマン派以降にはあまり作曲されなかった分野である。クラリネット協奏曲の場合、あのモーツァルトのものが断トツで有名で、その他の作曲家の作品はほとんど知られていない。有名作曲家としてはコープランドくらいだろうか、思いつくところでは。確かに最晩年のモーツァルトの諦観に満ちた天国的に美しい作品を聞けば、これを超える作品などあり得ない、とさえ思わせるのは確かである。

そんな中にあって、ウェーバーが書いた2曲のクラリネット協奏曲は、比較的有名でよく演奏される。これらの作品はウェーバーの作品の中ではおそらく有名な方であるとともに、クラリネット奏者の多くが演奏し録音に残している。

ベルリン・フィルへの入団を巡ってカラヤンと楽団員との確執が伝えられ、そのことが長く続く両者の対立を招いた80年代の出来事は記憶に新しが、この時に話題に上ったのが美貌のクラリネット奏者サビーネ・マイヤーだった。当時のベルリン・フィルには、古くからの伝統に従い女性のプレイヤーはいなかった。従ってこの問題は、クラシック音楽における男女平等問題やその体質の閉鎖性といったものを炙り出した。結局彼女の採用は否決され、そのことが彼女のキャリアを一層華やかなものにしたのは皮肉である。

そんなマイヤーの奏でるウェーバーのクラリネット協奏曲は、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデンとの一枚によって知る事ができる。1985年の録音。二つのクラリネット協奏曲のほかに、小協奏曲ハ短調作品26も収録されている。また私の持つ「Great Performance of the Century」シリーズによるリマスター盤では、クラリネット五重奏曲変ロ長調作品34(管弦楽版)も収録されている。

モーツァルトのクラリネット協奏曲から20年後にあたる1811年に作曲された第1番へ短調は、静かな序奏が激情に変わるドラマチックな出だしで始まる。ウェーバーがモーツァルトの作品を聞いていたかどうかはわからないが、少なくともウェーバーの作品はクラリネットの特性をより追求したもので、モーツァルトにはないものを持っている。クラリネットの魅力を、モーツァルト以上に引き出していると言える。

ロマンチックで憂いに満ちた音色と、農民のポルカを思わせるような、素朴で生き生きとした旋律が交錯するのがクラリネットの魅力であるとすれば、ウェーバーのクラリネット協奏曲はこれらの要素を十全に引き出すことに成功している。例えば第1番の第2楽章は、静かで深く物思いに沈むような哀愁に満ちた旋律と劇的な中間部が交錯し、第3楽章では一転、踊りたくなるようなリズムがクラリネットの特徴を際立たせている。第2楽章におけるホルンとの二重奏は、これらのややくすんだ楽器同士が絡み合う印象的な効果を出している。

 一方第2番ホ長調は、第1番よりもさらに充実した作品のように感じられて、私は好きである。第1楽章の堂々とした冒頭は、この作品が長調で作曲されていることを思い起こし、古典的造形を残しているのが好ましい。登場するクラリネットの音程の幅も一気に大きく、より技巧的な要素が感じられる。ロマンスと題されている第2楽章では弦楽器のピチカートが効果的で、ここでは一気にロマン派が開花している。さらに第3楽章では、垢ぬけた踊りのような独奏に乗って、楽しく歌う。そう、クラリネットは歌う楽器である。

小協奏曲はクラリネット協奏曲に先立って作曲され、2曲のクラリネット協奏曲を生むきっかけとなった。演奏時間は10分足らずだが3つのパートから成り、数々の変奏やカデンツァを持つ作品、一方、クラリネット五重奏曲はクラリネット協奏曲と同様、当時のヴィルトゥオーゾだったハインリヒ・ヨーゼフ・べールマンのために書かれたが、作曲されたのはより後年である。クラリネット五重奏曲といえば、やはりモーツァルトとブラームスの作品を思い出すが、ウェーバーの作品もまた、クラリネットの今一つの特徴を良く捉えており、幻想的な雰囲気のなかで音楽が進行する。

一言で言えばウェーバーのクラリネット協奏曲は、技巧的な作品であると思う。従ってマイヤーのような技巧的な奏者によってその魅力は最大限に引き出されていると思う。ブロムシュテットの指揮は、ベートーヴェンではやや物足りないが、このようなロマン派初期の作品にはピッタリである。地味で目立たない曲も堅実で実直に演奏すれば、そこに漂う着飾らない味わいが、骨格のあるドレスデンの伝統的な音色によって引き立てられている。

2020年5月26日火曜日

ウェーバー:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品11、第2番変ホ長調作品32(P: ゲルハルト・オピッツ、コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団))

ベートーヴェンほど豊穣で壮麗ではなく、ショパンのように華麗で繊細ではないものの、ウェーバーのピアノ協奏曲は十分にロマンチックで、それでいて構成力がある。古典派とロマン派が同居していて、適度なさわやかさと重厚さが交互に現れる様は、聞いていて楽しい。にもかかわらず、ウェーバーのピアノ協奏曲の録音は非常に少ない。有名なクラリネット協奏曲や、ピアノ協奏曲第3番になるはずだった「コンチェルトシュトゥック(小協奏曲)」などに比較すると、一層その少なさは明らかである。これは大変惜しいことで、私たちはウェーバーが作曲した2つのピアノ協奏曲を、ほとんど身近に知ることはできない。

けれどもそれは昔の話。今ではストリーミング再生が全盛の時代となって、毎月いくばくかの料金を支払えば、聞き放題のサービスが沢山ある。そのうちのひとつで検索すれば、たちどころにいくつかの録音に出会うことができる。そして私は既に、ペーター・レーゼルがピアノを弾き、ヘルベルト・ブロムシュテットがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した一枚を持ってはいたけれど、さらにもう一種の素敵な演奏に出会う事ができた。ゲルハルト・オピッツがピアノを弾き、コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団によるRCA録音である。メジャー・オーケストラによるメジャー録音は、これくらいしか見当たらななかった。あとひとつは、強いて挙げるとすれば、ナクソスが録音したアイルランドのオーケストラによる一枚(ピアノ:ベンジャミン・フリス)で、この二つの演奏は対照的である。

ウェーバーの古典的な側面をよく表現しているのはオピッツによるものだと思った。第1番第1楽章のピアノが入るところなどは、丸でモーツァルトのようだ。一方、フリスの演奏は、何かショパンを通り越してシューマンかグリークを聞いているような印象を持つ。どちらがいいかは好みの問題でもあるのだが、大変残念なことにナクソス盤は録音が悪い。低音がもごもごしている。明らかにマイクセッティングの問題だろう。せっかく個性的な演奏をしているのに残念である。クラシック音楽のディスクでは、しばしばこういう問題が生じる。小澤征爾のドボコン(ロストロポーヴィチによる3回目の録音)などはその最たる例と言えるだろう。最新録音でもひどいものがある一方で、50年代のステレオ初期でもすこぶるヴィヴィッドな録音が存在する。

そういうわけでウェーバーのピアノ協奏曲は、デイヴィス盤が私の好みにあった唯一のディスクとなった。忘れないように言っておけば、レーゼルによる演奏も悪くない。こちらのほうは「コンチェルトシュトゥック(小協奏曲)」で取り上げた。

オピッツのCDでは、まずその「コンチェルトシュトゥック」から始まる。この短いが数々の充実した要素を持つ作品は、ウェーバー作品の中では飛びぬけて有名である。この曲だけでウェーバーの特徴を表し切れているようなところがある。しかしこれとは別の、2つのピアノ協奏曲を聞いてみると、「コンチェルトシュトゥック」しか知らないのはもったいないと思う。これらの曲は、「コンチェルトシュトゥック」には及ばないかもしれないが、たしかにウェーバーの活躍した初期のドイツ・ロマン派の特徴を有した協奏曲として稀少である。私たちは通常、ベートーヴェンの次のピアノ協奏曲と言えば、オーケストレーションがやや平凡なショパンと、若書きのメンデルスゾーンくらいしか思い浮かばない。

ウェーバーの作品の面白さなは、ところどころまるでシューマンのようだと思ったり(第1番第1楽章)、ショパンのようだと思ったり(第2番第3楽章)、いろいろな作曲家の特徴にふと出会いながら音楽史を行ったり来たり。この折衷的な雰囲気こそその魅力なのだろうか、と思ったりする。いやこれは勝手な聞き手の都合なのだが。二つの作品は、ともに第1楽章で堂々とした古典的協奏曲を感じさせながら、第2楽章ではベートーヴェンをもっとロマンチックに進めたムード音楽になっている。一方、第3楽章は華麗で踊るようなリズムが、丸でマズルカやポロネーズを聞いているような感覚に見舞われる。

オピッツとデイヴィスは、これらの曲をきっちりと演奏して、他の大作曲家の作品の演奏と同様な充実を感じさせてくれる。このような演奏で聞く限り、他の作品と比べても遜色はなく、私は10回は繰り返し聞いただろうか、今では鼻で歌えるようになった。そうなると実演を含め、他の演奏でも聞いてみたいと思う。クラシック音楽を聴く楽しみのひとつは、最初はとっつきにくかった曲も次第に自分の耳に馴染んでくることである。特に演奏を変えて聞いてみると、最初は何も感じなかったメロディーが心にすうっと入って来る。その作品が自分なりに、わかったような気がしてくる。

ウェーバーは目立たない存在だが、このように他の作曲家にはない魅力が感じられるのもまた事実である。このCDには2つのピアノ協奏曲、「コンチェルトシュトゥック」のほかに「華麗なるポロネーズ」作品72という曲も含まれている。この曲もまた短いが華麗な愛すべき作品である。この曲はもともとピアノ独奏曲で、リストが編曲したものもあるが、ここでは管弦楽版として演奏されている。

2020年5月10日日曜日

ウェーバー:交響曲第1番ハ長調作品19(J50)、第2番ハ長調J51(ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団)

1786年生まれのカール・マリア・フォン・ウェーバーは、1770年生まれのベートーヴェンよりも16歳年上ということになるが、ベートーヴェンは古典派に属し、ウェーバーは初期ロマン派に属すると分類されている。だがもちろん、作曲された曲の多くが同時代であるし、ウェーバーの初期の作品はベートーヴェンの晩年の作品より前に作曲されている。

ウェーバーが20歳の時に作曲された交響曲第1番ハ長調は、1807年に完成しているが、この時期にベートーヴェンはハ短調交響曲(第5番)などを手掛けているころだから、まだまだということになる。しかも驚くべきことに77歳まで生きたハイドン(1809年没)はまだ存命である。

ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンが今日、ドイツの国境を越えて国際的な作曲家としての地位を確立しているのに対し、ウェーバーはどちらかというとドイツの国内に閉じた作品を書いたローカルな作曲家と思われている。ヨーロッパ中で一世を風靡した歌劇「魔弾の射手」でさえ、今日ではドイツ以外で上演されることはまれである。ましてやその他の作品となると、インターナショナルなリリースをされる録音もめっきり少ないのが実情である。

ウェーバーの若き日の作品、交響曲第1番と第2番もまた、録音は非常に少ない。 交響曲第1番ハ長調は、青年ならではの瑞々しい感性の中に、伸びやかである。第1楽章はモーツァルトの交響曲第31番ニ長調を参考にしていると言われている。そう言われて聞いてみたら、冒頭はなんとなく似ていなくもないが、でもやはり違う。そして、少しゆっくりになったりすると、そこは演奏のせいかもしれないのだけれども、旋律が歌うようなメロディーになっていく。

音が隣のすぐ上の音に移る。歌謡性のメロディーはシューベルトにおいて一気に開花するが、ウェーバーの音楽の魅力はそんなロマン性と古典派の骨格との同居である。その傾向は第1楽章で顕著だが、第2楽章になると、いっそうロマン性が深まるのもこの曲の特徴である。オーボエが、フルートが、弦楽器が、深々とした旋律を歌ったかと思うと、そこに古典派の和音が鳴り響く。

一方、第3楽章と第4楽章は初めて聞いた時、ハイドンのザロモン交響曲を聞いているのではないか、とさえ思うような感覚に囚われた。特に第3楽章はスケルツォとされているが、メヌエットと言ってもいいかもしれないようなムードである。

交響曲第2番ハ長調は、第1番とほぼ同時期に作曲された。聞いた印象では第1番以上に古典的で、どちらかというと第1番の方が充実した曲のように思える。第3楽章は短調だが、トリオの部分で長調に転じる。このあたりのはっきりとしたメヌエットの形式は、同じ3拍子の第4楽章とともに、どこかのんびりしている。そして何ともあっさりと終わってしまう。これらの交響曲はウェーバーがまだ若いころの作品で、数あるウェーバーの作品の中では地味である。

今となっては懐かしいドイツの巨匠サヴァリッシュは、ウェーバーの2つのハ長調交響曲を、壮大で骨格のある大きな交響曲として演奏している。聞き比べたわけではないのでほかの演奏がどうなのかはわからないが、サヴァリッシュはテンポを落としてじっくり聞かせている。ウェーバーのロマン性に焦点を当てているように思える。オルフェオがリリースした当CDの録音は、1983年10月ヘラクレスザールとクレジットされている。

2020年5月7日木曜日

ウェーバー:舞踏への勧誘(ベルリオーズ編)、序曲集(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンの亡きあと、音楽の中心はパリに移っていたのではないか。もちろんウィーンは音楽の都であり続け、シューベルトもいたし、ロッシーニやパガニーニだってウィーンを訪れている。しかしそのロッシーニは結局、パリで成功し晩年はパリに住み着いた。少なくともオペラに関する限り、絢爛豪華なグランド・オペラ様式を確立したマイアベーアらの活躍するパリこそが、その中心地だった。

だからドニゼッティもベッリーニもパリの観客ためにオペラを書いたし、ワーグナーもフランスの音楽から影響を受けた。そのパリではモーツァルト以降のオペラを継承し、ドイツ・ロマン派のオペラ様式を確立したウェーバーの作品もまた、聴衆にもてはやされた。ウェーバーの「魔弾の射手」を見てベルリオーズは作曲家を志したとさえ言われている。「オペラの運命」(岡田暁生著、中公新書)によれば、パリは「十九世紀オペラ史における首都」であり、グランド・オペラによって「イタリアの旋律の甘さと、ドイツの重厚な管弦楽と、フランスのきらびやかさ」が融合された。

ウェーバーによって作曲されたピアノ曲「舞踏への勧誘」が、ベルリオーズによって恐る恐る編曲され、見事な管弦楽作品となったことは有名である。私が子供の頃などは、男性が女性を勧誘してダンスを踊り、再び会釈をして別れるというストーリーが見事に表現された作品を、よく耳にしたものだった。どういうわけか今ではほとんど聞かなくなってしまったが、「舞踏への勧誘」は音楽を聞き始める入門者にうってつけの作品として知られていた。

カラヤンによる「舞踏への勧誘」がFMで放送されたとき、私はカセットテープに録音して何度も聞いた覚えがある。そして今私の手元にある一枚のCDには、この作品とともにいくつかのウェーバーの序曲が収録されている。久しぶりに聞く「舞踏への勧誘」は非常に懐かしい。

「オベロン」や「オイリアンテ」といった作品は、「魔弾の射手」ほどではないにせよ少なくともその序曲は有名であり、従って比較的よく演奏される。序奏に続く「オベロン」序曲の、ほとばしり出るような速い主題は、かつてモノクロの映像で見て腰を抜かしたことがある。確かブルーノ・ワルターの指揮だったのではなかったか。それに比べると大人しい演奏だが、カラヤンの指揮するウェーバーの序曲は、どの演奏も丁寧でしかも艶があり、ベルリン・フィルの機能美を活かして極上の音楽に仕上がっている。

私は初めて「アブ・ハッサン」という歌劇の序曲も聞いたが、ここで打ち鳴らされる中東風の音楽も楽しいし、その他の曲もドイツ・初期ロマン派の香りが実に麗しい。ドイツの放送局のクラシック・チャネルを聞いていると、ウェーバーの時代の作品が良く演奏されている。その中にはワーグナーの交響曲などもあって、この時期のドイツ人作曲家の人気ぶりがうかがえる。まだ古典派の骨格を残しながら、ほのかなロマン性を感じるところが良いのだろう。

ウェーバーは数多くの歌劇を残したが、すべての序曲を収録したディスクはほとんどない。そんな中でカラヤンは、その中から懐かしい「舞踏への勧誘」を含め、選りすぐりの作品をオーソドックスに演奏している。ところがカラヤンは交響曲や協奏曲はおろか、歌劇「魔弾の射手」でさえ全曲録音を残していない(と思う)のは不思議なことだ。どこかに録音があれば、是非とも聞いてみたいと常々思っているのだが。ともあれ今日も、初夏の夜風に吹かれつつカラヤンのウェーバー序曲集を聞きながら、しばし近くの遊歩道を散歩をすることとしよう。フラワー・ムーンと呼ばれる五月の満月を見上げながら…。


【収録曲】
1.舞踏への招待作品65(ベルリオーズ編)
2.歌劇「オイリアンテ」序曲
3.歌劇「オベロン」序曲
4.歌劇「アブ・ハッサン」序曲
5.歌劇「魔弾の射手」序曲
6.歌劇「精霊の王」序曲
7.歌劇「ペーター・シュモル」序曲

2020年1月27日月曜日

NHK交響楽団第1932回定期公演(2020年1月23日サントリーホール、指揮:ファビオ・ルイージ)

ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲の冒頭が鳴り響いた時、いつもとは違う一気呵成のN響の響きに驚いた。まるで一筆書きのような引き締まった演奏は、「英雄の生涯」の最後まで続いた。ファビオ・ルイージとN響の相性は大層良好なように思われた。演奏が終わった時の楽団の表情が、それを表していたように思う。ソヒエフとルイージは、現在N響に客演する指揮者の中では、群を抜いていい演奏になる確率が高いような気がした。

ルイージが客演したのは1月の定期公演のうち、サントリーホールで行われるB定期のみである。多忙な指揮者だからだろう。だがその演目は注目に値するものだった。ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲を先頭に、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノはクリスティーネ・オポライス)、そして交響詩「英雄の生涯」である。これらの曲目のいついては、ブックレットに掲載された岡田暁生氏の解説が興味深い。シュトラウスが得意とした「1オクターヴ以上の音域を一気に駆け上がるような電光石火の主題、ウェーバーにも頻繁に見られるものだ」というのである。

ただ実際のプログラムでは、シュトラウスの最後の作品である「4つの最後の歌」が前半に置かれていた。ここでN響との初共演となるオポライスは、プッチーニを得意とするイメージがあるラトビア生まれの美貌のソプラノ歌手である。彼女を生で聞いてみたいと思った客も多かったに違いない。私もまたその一人だったが、彼女が歌ったシュトラウスの晩年の諦観を、果たしてどこまで表現できるのかが今回の一つの聞きどころであった。

オポライスの歌唱はドラマチックな歌で真価を発揮するもので、そういう意味ではドイツ・リートをベースとするシュトラウスの歌とは性質がやや異なる。だが私は事前の懸念とは逆に、そこそこ良かったのではないかと思っている。生で聞くコンサートを、再生装置で聞く録音されたものと比較することはナンセンスだが、それでも私は十分楽しむ事ができた。それは声が非常に美しかったからだと思う。

ただもし、この演奏が私を打ち震える感動に導かなかったとしたら、その原因は二つ考えられる。ひとつは私の曲に対する理解が、まだ十分に及んでいないからだ。歌詞を追いながら聞けるCDと生演奏では違う。たとえそれができたとしても。特に死というものを意識する歌詞を自分がどこまで理解し得るのか、それはまた別問題だ。私は2度余命宣告を受け、死の際まで行った身だが、「夕映えの中で」で歌われる境地には達しなかった。lこれはもしかしたら、「死」をまだ観念的に捉えることができる余裕がある時の心境なのかもしれない。

もう一つの可能性は、オポライスの歌唱が十分美しくはあるものの、総合的にはシュトラウスの晩年の心境を語るにはちょっと明るすぎるのではないかという、主観的とも客観的ともつかない判断である。だが、これはライブという性格のコンサートで、どこまで正確に評価できるのかわからない。私には少なくともその能力がない。事実として言えるのは、上記のいずれか、または両方の理由によって、私は今回の演奏を大変素晴らしいと思いながらも感動することはなかったという事実である。

休憩を挟んだ演目「英雄の生涯」は、「4つの最後の歌」とは異なり、シュトラウスの若い頃の作品である。作曲されたのは飛ぶ鳥を落とす勢いだった1898年は、まだ19世紀ということになる。ここで「英雄」とは伝説上の神でも、ナチスのヒトラーでもなく、彼自身である。この曲で聞ける大規模で迫力ある音楽によって、私はシュトラウスの虜になった。どこまでも続くロマンチックで豊穣な音楽が、他の作品でも体験できることを知るのはそのあとだった。

ルイージはその細身の体を目一杯振り上げながら、N響からとてつもなくダイナミックでドラマチックな音楽を弾きだした。イタリア人ではあるもののドイツ音楽を得意とし、数々のオペラの名演奏でも知られる彼は、ドレスデンやウィーンのオーケストラを指揮することでキャリアを積んできた。N響がこの熱い指揮に導かれ、すべての楽器が躍動的で、大きな広がりを持っていた。サントリーホールで聞く残響の多い音は、時に私を疲れさせさえした。1階席で聞くと、それぞれの楽器が混じり合い、ダイレクトに届く。だからもしかしたら2階席や脇の席の方が適度に分離していいのかも知れない。

「英雄の生涯」(そして「4つの最後の歌」でも)大活躍するヴァイオリン・ソロはコンサートマスターが受け持つが、今回のコンサートマスターはライナー・キュッヘルだった。彼がオーケストラに加わるだけで、ヴァイオリンの音が大層良く聞える。コンサートマスターによるオーケストラの音の違いを実感する。

切れ味の鋭い、ダイナミックな演奏は、一糸乱れることなく最後まで一気に聞かせたといってよい。N響の実力を弾きだしたルイージには、静かに音楽が終わると(そう、今回の「英雄の生涯」は初稿版が採用されていた)、しばしの静寂が訪れた。丸でそうしなければならないかのように、客席は拍手をこらえていた。そして大喝采に混じり、普段は大人しい敬老会のようなN響の客席も大いに沸いた。花束が贈呈され、わずか1度だけのプログラム(ただし公演は定期を含め何公演か行われる)が終了した。この曲は彼の十八番だったのかも知れない。得意なプログラムで客演をこなしたルイージには、次回是非ゆっくりと客演し、他の曲も指揮してもらいたいと願いながら家路についた。

2018年12月7日金曜日

ウェーバー:ピアノ小協奏曲ヘ短調作品79(P:ペーター・レーゼル、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデン)

宇都宮駅を発車した東北新幹線「やまびこ」仙台行きは、次第に速度を上げて一路みちのくへと北上する。車窓にも小さな山や林が次々と現れ、それらをものともせずくり抜いた短いトンネルに入っては抜ける。

ウェーバーのピアノ協奏曲は番号付きのものは2曲あるが、それらとは別に、比較的良く演奏される「小協奏曲(コンツェルトシュトゥック)」というのがあって、17分ほどの切れ目ない曲である。面白いのはこの曲が、標題付きの協奏曲であるという点だ。作曲家が自ら語ったストーリーに合わせて曲が進む。那須塩原駅を通過。ドイツ・ロマン派の初期の曲は、なぜか東北への旅に良く似合う。

「魔弾の射手」にあるような、どこか郊外の森の中に入ってゆくような伴奏が終わって、静かにピアノが入って来る。 ウェーバーは1786年に生まれ、1826年に没している。40年にも満たない人生だった。丁度、ベートーヴェンとワーグナーをつなぐ作曲家である。自らピアノの名手として活躍したのはベートーヴェンと同じで、オペラにも多くの作品を残している。比較的軽く見られているが、私はウェーバーの音楽が好きである。ドイツのインターネット・ラジオなどを聞いていると耳にすることが多い。

曲は4つの部分に分かれている。ある貴婦人が十字軍の一員として遠征中の騎士である夫と、夢の中で再会する物語が、ピアノを交えて進む。ロマンチックなメロディーがショパンを思わせる華麗なメロディーに変わっていたが、それもつかの間、不安に襲われる貴婦人。彼女は夢の中で、戦地に取り残される夫の姿に出会ってしまったのだ。

列車は新白河駅を通過し、福島県に入ったようだ。雲の合間から、日が差し込んでくる。やがてクラリネットの旋律に乗って、次第に近づいてくる行進曲風の曲。曲は一転、ハ長調の明るい曲となる。ピアノが高い音から低い音まで何度も行き来し、浮かれ立つ貴婦人の心情が、軽やかに奏でられる。

喜びに溢れる最後の部分で、ヘ長調に転ずると、元気よく絢爛のうちに幸福な音楽が幕を閉じる。今は高齢のブロムシュテットが東ドイツで活躍していた若い頃の演奏。シュターツカペレ・ドレスデンの独特の響きが大変好ましい。ペーター・レーゼルのピアノもメリハリの効いた指揮に合わせて、明るく冴えたタッチを聞かせている。

外はいつの間にか雨が降っている。今日はこのまま一日中雨が降る予報である。このまま今日は列車に乗って一日を過ごす予定である。いつのまにか郡山を過ぎ、福島に向かっている。まずは福島で途中下車してみる予定である。

2018年7月23日月曜日

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」(2018年7月22日、東京文化会館・二期会公演)

長い間、ぜひ実演で見てみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいたウェーバーの歌劇「魔弾の射手」は、ドイツ国民的オペラとして重要な位置にある。民謡のように親しみやすい音楽は誰もが口ずさみたくなるほどであり、それゆえにか、おいそれとは上演されない演目でさえある。ドイツ人かよほどドイツに縁のある指揮者でなければ、この曲をレパートリーに加えることはないし、逆にドイツ人であれば、そう簡単に演奏してはならない代物だからである。

モーツァルトが確立したドイツ語圏におけるオペラは、やがてワーグナーによって大成されるが、その間の隔たりは大きい。この中継ぎともいうべき時代に、ウェーバーが位置している。いわゆるジングシュピールとしての歌芝居的要素を持つ点は「魔笛」などから引き継がれ、少しオカルト的で深い森の中に彷徨いこむドラマ的性格は、そのままワーグナーに受け継がれた、と一応音楽史的には説明されている。その間に社会は、自由を得た市民が音楽を楽しむ時代が到来し、これがすなわち大衆化した娯楽としてのオペラの最初(特にドイツ語圏での)という点も添えておく必要があるだろう。

そのような「魔弾の射手」を我が国で見ることは、実はなかなか困難であった。モーツァルトやワーグナーの作品なら、毎年どこかで必ず上演されているのに、「魔弾の射手」となると難しい。録音や録画された媒体としても、ドイツ系の大指揮者でないと、この作品を録音することはない。カイルベルト、クーベリック、それにクライバーくらいしか長年聞くことはできなかったし、ベームやカラヤンさえ正規録音は残っていない。最近ならアーノンクール、ティーレマンといったあたり。そのような中で、私はコリン・デイヴィスのCDを愛聴してきた。骨格のしっかりした、ドイツ人以上にドイツ的な演奏である(2種類あるが、古いドレスデン盤が良い)。

ところが今年、東京と兵庫で同時期に、まるで申し合わせたようにこの作品が上演されると知った時は、ちょっと困惑した。兵庫県に実家のある私は、隣の市である西宮で上演される佐渡裕指揮による上演も見てみたい。一方、東京在住者としては、二期会による4つの公演のどこかに行ければ、まずは「魔弾の射手」の聞き初めとなる。結局私は、実に公演の数日前に、東京文化会館で行われる二期会のプロダクション(演出:ペーター・コンヴィチュニー)を見ることに決めた。何週間も続く猛烈な暑さの中を、上野へと向かう。一連の最終公演のマチネである。

さて、長年数多くのCDで演奏を楽しんできた「魔弾の射手」を、実演で見るのは初めてである。それで、どこまでこの公演について書き記すだけのものを持ち合わせているか、相当あやしいことを覚悟のうえで、いくつかの感想を記しておきたい。私も読み取れなかった演出上の詳細な解釈(読み替え)については、他の人のブログが参考になるだろう。

まず、私が購入した一階席(向かって最も左手)は、今回の上演を見るうえで大きなハンディであったことを指摘しなければならない。これでS席は納得がいかない。なぜなら演出上重要な道具であるエレベータが左袖に配置され、おそらく会場の左側に座った約3割程度の客席からは見えなかったことだ。エレベータは7階まであり、これが魔法の弾丸の数を表す重要な意味を持っていた。さらに、いくつかの出演者のやり取りが、この舞台袖で行われたようで、隠者が終幕で名刺を交換し、ザミエルともども再度姿を現す、などといったこともよくわからなかった。

開き直って言えば、私の席からはコンヴィチュニー流の読み替えの「毒」がわかりづらく、そのことによってかえって、音楽をストレートに味わうことができたとさえ思う。私の席からは、読売日本交響楽団が演奏する、本当に素晴らしい音楽が、安定して聞こえて来たし、アルゼンチン生まれの若い優秀な指揮者アレホ・ペレスの表情もよく見て取れた。いわゆる古典的な舞台ではなく、むしろ簡素にして照明効果の美しい舞台は、ありきたりのドイツの風景を感じさせるような古めかしさがなく、そういう点で私は気に入った。満月の月、空高く飛ぶ鷹、火が燃えたり、灯が会場をも照らしたり、それに客席にいた隠者が時折みせる仕草などは、1階席で見るアドバンテージであった。

ただもっと詳しくわかってしまうと、今回の読み替えは賛否両論が渦巻く側面に直面することになっただろうし、もしかすると実演初心者の私などは、ちょっと抵抗感を持ったかもしれない。そのあたりの解釈の「不完全さ」によって、私は救われた。皮肉なことに、音楽主体でこの演奏を聞くことができた。

私はすべてを日本人が演じるオペラを見たのは初めてである。いつも出掛ける新国立劇場では、たいてい主役はみな外国人だし、かつて見た藤原歌劇団の「椿姫」もヴィオレッタとアルフレードのみがイタリア人だった。だから、今回のように、セリフのみが日本語で、歌はドイツ語(英語、日本語の字幕付き)というスタイルに、多少戸惑った。演技されて発せられる日本語は、わかりやすさのためであるとはいえ、やや大時代がかった演劇スタイルで、どうにも私は好きになれない。歌唱の時は字幕を追うが、会話になると字幕が出ない。急に舞台から聞こえる日本語が、学芸会のように聞こえ、しかもときどき聞き取りにくいのである。このことが上演のスムーズな進行にちょっとブレーキをかけていたのではあるまいか。

今回の二期会の公演は2組のキャストによって演じられ、私が見たのはそのうちの後半の組であった。まず良かったのはアガーテの北村さおり(ソプラノ)とカスパルの加藤宏隆(バス・バリトン)。北村の声は清楚で美しく、結婚式を前に希望と不安の入り混じる女性の役にぴったり。対照的に明るくて屈託のないエンヒェンを歌った熊田アルベルト彩乃(ソプラノ)も、そういう役作りを意識していたようで、なかなか好演だったと思う。

一方、主役のマックスを歌った小貫岩男(テノール)は大変綺麗な声の持ち主だが、ちょっとパワーが足りないところが惜しい。これで声に張りがあれば、ヘルデン・テノールとして及第点だったと思う。舞台最前列に座って花嫁に花束を投げた隠者の小鉄和広(バス)は、カスパルが打たれて幕が閉じかかったところで舞台にあがり、この劇がハッピー・エンドに終わらないといけないという素振りを見せる。台本役が登場し、再び幕が開くという仕掛けに会場は大笑いかと思ったが、静まり返っている。小貫の大変充実した声は、存在感があり上手かったが、興行主としての成金ビジネスマン風のいで立ちで登場する今回の演出では、そういう歌唱の側面の評価をそぎ落としてしまう。やはり演出というのは、大きな要素である。

演出という観点で言えば、今回の目玉は何といっても、元宝塚女優大和悠河をザミエルに起用したことだろう。決して歌わないが、何度も舞台に登場し、男とも女ともつかない美人の悪魔を、タカラヅカ風にやらせようとしたのも、ブックレットによれば演出家の仕業だったようだ。だがこの点に関して言えば、私は今回の演出にフィットしていて面白かったと思う。会場にいつになく大勢の女性ファンが詰めかけ、花束が数多く並んでいる。十着以上も衣装を交換しながら、様々な局面で彼女は登場した(らしい)。私は中でも「狩人の合唱」の前に幕前で歌詞を朗読したとき、その演技に釘付けられた。

阪急沿線で育った私は、小学校1年生のときに見た人生最初で最後のタカラヅカ以来、どういう女優がどういうミュージカルを歌っているのかまったく興味もなかったが、彼女はマリア・カラスが好きでオペラ通になり、本も出版しているらしい。それで白羽の矢が立った彼女は今回の出演を大変嬉しく思い、そしてその期待通りに、存在感がありながら流れに見事にマッチした演技を披露したと思う。その振る舞いは節度と品があった。なお、もう一人の悪魔が舞台に登場し、ヴィオラを奏でながら踊る。その役はハンブルク歌劇場首席ヴィオラ奏者で日系のナオミ・ザイラーという人で、彼女の演技も面白い。

他の役についても記しておこう。オットカル公爵は薮内俊弥(バリトン)、クーノーは伊藤純(バス)、キリアンに杉浦隆大(バリトン)。合唱は二期会合唱団。

CDで聞く「魔弾の射手」は、次から次へと楽しい歌が登場し、それだけで随分この曲を知っていると思っていた。ところが何年か前、映画仕立ての作品を見たときには、狼谷のシーンなどホラー映画のように怖くて、この曲をCDでのみ聞いているだけではわからない面白さがあった。今回、斬新な読み替え演出で観る「魔弾の射手」は、そのどちらとも異なる側面を私に見せてくれたことは確かである。そういう新しさがないと、この作品の上演は評判になるようなものにはならないだろうと思う。だが、そういう冷静な判断ができたのは、一定水準の歌唱と演技、それに十分に貫禄のあるオーケストラの引き締まった演奏があったからだろう、と思う。

2013年10月10日木曜日

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」(2013年10月6日、三鷹市芸術文化センター)

開演に先立ってマイクを持ち、簡単な挨拶を行った指揮者の沼尻竜典は、今年から引き受けたドイツの歌劇場で、ドイツ・ロマン派オペラの魁となったこの作品を、せっかくだから上演してはどうかと持ちかけたところ、この歌劇は観客の目が厳しく、よほどの名演にしなければいけないとたしなめられた、などと語った。にもかかわらずドイツ以外の国々での「魔弾の射手」は、さほど人気があるわけではなく、我が国でも序曲以外はあまり知られていないようだ。

だがこの作品が大好きな私は、一度その実演に接してみたいと思っていた。その願いはなかなかかなうことがなく、何組ものCD以外ではただ一度、映画になった作品を見ただけである。合唱だけでなく、全編にとても素敵な歌が続くこのオペラは、ベートーヴェンとワーグナーを繋ぐ重要な作品であり、 私のオペラ体験において欠かすことの出来ないものである。第2幕の「猪谷の場」などは、真面目に演奏されればとても充実した満足感が得られる。

そんなことを思っていたところ、同じ沼尻の指揮する「ワルキューレ」を横浜で見た際にもらったチラシに、この公演のものが混じっていた。日本人主体の演奏会形式だが、三鷹市芸術文化センターという中規模のホールが、この作品を間近で見るのには大変好ましいものに思えたし、何と言ってもここは、私が三鷹に住んでいた時によく通ったホールである。そして沼尻は、その三鷹市出身の指揮者として随分前から、ここで定期演奏会を開いている。

久しぶりに出かけた武蔵野の森は、10月だというのに汗ばむ陽気で、駅前は以前のままである。南に向ってまっすぐ伸びる長い商店街をふらふら歩くこと約30分程で会場へ到着した。この日はトウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズの定期演奏会ということになっており、合唱団と歌手たちを合わせると出演者は数多く、字幕も付いている。舞台の上部には様々な色の投影機も用意されていて、一応物語に応じて色が変わった。

主な出演者は以下の通り。

松村恒矢(Br、オットカール)、松中哲平(Bs、クーノー)、立川清子(S、アガーテ)、今野沙知恵(S、エンヒェン)、大塚博章(Br、カスパー ル)、伊藤達人(T、マックス)、清水那由太(Bs、隠者)、小林啓倫(Br、キリアン)他、栗友会合唱団、トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ。指揮は沼尻竜典。

ここの「風のホール」はとても残響が長く、いつも思うのだがオーケストラが違った風に聞こえる。残響は長ければいいというわけではなく、好みの問題もあって一概に言えないが、私には少々違和感がある。とてもいい演奏の時、たとえば今回でも、エンヒェンのアリアに沿うオーボエやフルートの独奏は大変美しいし、第3幕のチェロやヴィオラの独奏も綺麗に聞こえたが、大きなアンサンブルとなると音がかぶりすぎるように思う。そのためオーケストラは小規模で合唱団も40人程度と少ない。

歌手は総じて好ましい歌声であったが、特に良かったのはアガーテとカスパール、それに隠者であった。日本人の歌手が主役を歌う機会に恵まれないのは残念なことだが、それだけにとても練習をしていたと思う。今回は特に、新国立劇場の研修生など若手中心であったが、それは私の期待するところである。それに対しオーケストラはやや不足感があったことは否めない。第1幕の「ワルツ」のシーンでは、単純な3拍子を振る指揮者に対し、元ウィーン・フィルのコンサートマスターで、ゲスト出演のウェルナー・ヒンク氏は、自らの主張(それはウィーン風のそれかも知れない)を込めて、リズムを刻もうとしていた結果、合奏に若干の乱れがあった場面などに象徴的に現れていた。一方、活躍の多い合唱は少数精鋭で素晴らしい。

私にとってはこの歌劇を一度は生で聞いてみたいと思っていたので、その目的が達成されたことが嬉しい。上演では各幕の最初に短いダイアローグがドイツ語で流れ、その訳がスクリーンに投影された他は、台詞を省いた演奏である。そのことが全体を弛緩なく見ることに寄与したかも知れないが、さりとてそのストーリーは、たとえ字幕がついていても聞いてすぐにわかるというものでもない。このオペラの醍醐味は、やはり音楽そのものの純粋な美しさと、溢れるロマン性である。ドイツ的なロマン性は実に表現が難しい。

ここで私はもっとも好きなコリン・デイヴィスの演奏を思い出す。ドレスデンの響きを湛えたデイヴィスの演奏は、ドイツ的かどうかはわからないがとても気合の入ったもので、各シーンが目に浮かぶような迫力がある。総じて演奏は、力強いがゆっくりしている。このズッシリ感は私もやみつきなのだが、クーベリックの軽やかさ、クライバーの駆け抜ける若々しさなどとはまた違ったものである。

今日の演奏は、そのどの演奏に近いか、などと余計なことを考えた。沼尻は音楽そのものに語らせることに力点を置き、自ら強い主張をしない方だと思う。そこが私も好感を持っているところで、実演では歌手を引き立たせているようだ。アンサンブルをうまくまとめることが、やはり重要だと思う。だが、幾分、音楽をなぞっているという感じがしないでもなかった。つまり一言で言えば、音楽に対するこだわりや情熱にやや欠けるのだ。それは客席にも言えた。合唱と、そして何人かの歌手はとても素晴らしかったが、全体に盛り上がりに欠けてしまった。

これは仕方がないのだろうとも思う。休日の昼間に郊外の文化センターへ出かける老人たちは、一体何者だろうかなどとも思ったが、見る方にもわくわくどきどきの熱い視線がないと、このオペラはうまく成立しないように思う。そこがモーツァルトやワーグナーとの違いである。だが一度、その熱い感覚の中に入る状態となれば、音楽の素晴らしさが際立ってくる。そのようにして長く試練に耐えた演奏だけが、今日録音されリリースされていると考えるべきだろう。げに歌劇というものは、その文化的背景に依存する部分が大きければ大きいほど、難しいものだと思う。それがこの作品を、ドイツ以外の地域にまで普遍化して広まることを、やや難しくさせているのではないか。


2012年9月17日月曜日

オペラ映画「魔弾の射手」(2010年、スイス)

ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」は、ドイツ以外ではあまり上演されないようで、私も未だに一度も実演に接していない。これほど「ドイツ的」なオペラもないのは、あの長いダイアローグがすべてドイツ語によってなされることから、ドイツ人の歌手を揃えて満を持して上演しないといけないからだと思う。だがそういうと、モーツァルトの「魔笛」だって台詞は多いし、ワーグナーの「ジークフリート」だって台詞こそないものの、至って長い歌詞をすべてドイツ語で歌わなければならないではないか、と言われるかも知れない。

確かにそうであるのだが、それらがインターナショナルな評価を得た第一級のオペラであるのに対し、少し地味な感じがするし、特別に歌唱力を要求される難しい歌があるわけでもなく、何ともローカルな印象を拭えない。そのような特別な人気があるわけでもないオペラとなると、ドイツ人を揃えて上演するほどの期待値が高まるわけではないということになって、興行上困難なのではないか、などと勘ぐってしまう。

けれどもディスクで聞いてきた身としては、このオペラが数多くの合唱や管弦楽に彩られ、ロマン派前期特有の、構成美を有しながらも叙情にも満ちた素晴らしいバランスを保っていることを考えると、一度は実際に見てみたいと長い間思っていた。ベートーヴェンからいきなりワーグナーに飛び越えるのは、何か違和感があるのも事実で、その間に位置する最重要作品とあらば、なおのことである。その歌劇「魔弾の射手」が映画となっていることを偶然発見し、しかもそれが近くの映画館で上演されるということを新聞で知ったことは、私にとっての今年の大ニュースのひとつであった。

そういうわけで有楽町のヒューマントラストシネマという新しい映画館に駆けつけたのだが、ここは小さな映画館がいくつも列ぶところで、イトシアという新しいビルの4階にあった。座席数は数十で、満席ではないが4割くらいは埋まる、この手のものとしては上出来の観客数で、土曜日の夕方ということもあり、見に来る人もいるものだなあ、などと思ったのである。演奏はダニエル・ハーディング指揮のロンドン交響楽団、2010年スイス映画。監督はイェンス・ノイベルトという人である。

まず思ったことは、このような古典的な舞台(それも森や村、野原などである)の映画がよく撮れるものだなあ、ということ。丁度大河ドラマのロケのようで、当時の風習(1650年頃のボヘミア)が、日本人の私にはよくわからないのだが、上手く描かれているのだろう。我が国に置き換えれば、元禄時代の風習を再現しなければならないのと同じだろうか。

急に何百年もの昔にタイムスリップさせるための、オペラ映画でよく使われる方法をこの作品も使用している。小学生が森に遠足にやってきて、そこで人形劇をするというものである。序曲の間その光景が映し出される。これは現代である。この、原作にはない登場人物は、幕間にも登場するが、それがうまくアクセントになって、全体の劇の奇妙な興奮と錯覚と鎮める効果を示す。歌劇であることとストーリーが滑稽であることを、忘れてしまう効果はこの作品にもあるので、それをうまく中和してくれるのだ。

猪谷の場面は、音楽だけで聞くと何やら騒々しい音楽で、恐ろしい雰囲気も持ってはいるがそれは音楽上の表現にすぎないと思いがちである。この時代の音楽は、まだ全体に古典的雰囲気を残しているので、物語を型にはめて表現する傾向がある。しかしそれでも映像を伴ってこのシーンを見ると、ボヘミアにかくも深い谷があるのか、と思うことに合わせて、その恐ろしさが倍増する。もしかするとこの音楽は、そのような一種オカルト的な映像付きの場面の映画音楽にしても十分に威力を発見する、現代的な雰囲気をすでに持っているのではないか、と思うのである。それはワーグナーが後を継いだロマンチックな世界である。

女性の歌についても触れておかねばならない。エンヒェンとアガーテの二重唱などは、この映像の白眉ではないだろうか。全体に各場面が印象的である。第1幕では村が舞台で、農村の土臭い身なりの人々が群れ集う中、射撃大会の行われるシーンはこのようだったのか、と思う。自分の想像で聞いていたことがいかに情報不足だったということか。第2幕の城か宮殿を利用したシーンは大変美しいが、猪谷の場にいたって急転直下、夢にも出てきそうな怖いシーンが映画ならではだ。

第3幕では宮殿の庭で、射撃大会が行なわれる。ハッピーエンドがしらけないかと心配したが、隠者などもうまく登場して、それなりに劇としての形式を維持していることに驚く。最終的に、これはやはり映画だろうということで、映画でなければできないオペラの新しい表現を、今日この作品でもやってのけた、というところが私にとっては何とも嬉しく、新鮮であった。

(2012年3月24日)

【出演】フランツ・グルントへーバー(Br)、ベンノ・シュルム(Bs-Br)、ユリアーネ・バンゼ(S)、レグラ・ミューレマン(S)、ミヒャエル・フォッレ(Br)、ミヒャエル・ケーニヒ(T)、ルネ・パーペ(Bs)、オラフ・ベーア(Br)他、ベルリン放送合唱団、ロンドン交響楽団/ダニエル・ハーディング、監督:イェンス・ノイベルト

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...