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2015年6月20日土曜日

ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」(2011/10/5 、新国立劇場)

このブログを書き始めた2012年元旦以前のコンサート記録のうち、オペラに関するものを順に書き続けてきた。そして以下の「トロヴァトーレ」でそれを終えることができる。このあとはブログにすでに書いてきたからだ。

2012年以降のオペラ体験は、MET Live in HDシリーズによってより大きな前進を遂げたと思う。と同時に実演に接することの良さも改めて認識することとなった。オペラという楽しみはお金と時間がかかるけど、それだけの価値のあるものだとつくづく思う。

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新国立劇場の新シーズン(2011-12)の最初を飾る演目は、新演出の歌劇「イル・トロヴァトーレ」である。このオペラはここ最近目いっぱい聞いているのだが、では実演に接した経験があるかとなると、これが実にないのだ。一度はゆっくり聞いてみたいと思っていたので、ここは4階席を買い求めオペラシティへと馳せ参じた。

当日は強い雨の降る日だったが、水曜日にも関わらず多くの人出。しかしその多くが高齢者なのはたまたまなのか。私は昨年の「影のない女」以来だがその時よりも何か、あまり活気のない様子の人が多いように感じた。歌手はなかなか好演しているにも関わらず、拍手が極めて少ないのである。私は出演者が気の毒ではないかとさえ思われた。

それが天井桟敷の4階席でも同じなのである。私の隣にいたご婦人の2人連れなど、まったく拍手をしない。それでも着飾った客でほぼ満席である。もっと下の席ではどうかと身を乗り出すが、これがまた何ともしけた感じ。これで舞台が悪いなら仕方ないだろう。だが、私は今回の公演に登場した歌手や指揮者がそれなりに実力を出していると思われたのだ。

まずレオノーラのタマール・イベーリ。グルジア出身の彼女は、急きょの代役だったそうだが、なかなかの実力派である。最終幕での長いシーンでも緊張感を絶やさず、圧巻であった。容姿もぴたりとはまっている。もっとも拍手が多かったのはルーナ伯爵を歌ったヴィットリオ・ヴィテッリである。「君の微笑み」などはとても素敵で、このルーナ伯爵が実力不足だとこのオペラは実はつまらないのである。

同じことはアズチェーナにも言える。このアズチェーナ役のアンドレア・ウルブリッヒは大したもので、私がCD等で聞いている過去の名歌手に比べても遜色がない。低いメゾの声だが、このアズチェーナを歌いこなす声というのがある。彼女はそれを持っている。マンリーコを歌ったイタリア人ヴァルテル・フラッカールは及第点の出来だと思われる。特に「燃える炎」といった聞かせどころではなかなか聞かせるのだ。

私は初めての実演に接して、いささか興奮していたのかも知れない。それでやはり生の舞台はいいな、と思ったのだが、さて他の客はどうだったかわからない。ブラボーを叫んでいる人もいたが、よく知っている人だろうと思う(ただしクラシックファンはしばしば「知ったかぶり」をする)。だいたい両脇にある字幕を追いながら、難しいストーリーを追おうとすると集中力が途切れる。指揮者のピエトロ・リッツォと東京フィルハーモニー交響楽団は無難な出来栄え。悪くない。

もしこの公演が何かすっきりしないものを残すとしたら、それは演出のせいかもしれない。だが私は批判しようとは思わない。これはこれでいろいろと考えられていることがわかる。全てのシーンに登場する悪魔のような親子?をどう見るかについては意見が分かれるだろう。

私は実演を見ること自体ですでに嬉しくなっているので、このような真新しい演出は大好きである。この「死」をモチーフにした老人は、要所要所でこの難解な話を分かりやすくしようとして、さらにわかりにくくしている。だがよく考えてみるとその存在は、このオペラに付きまとう影の存在であることを伝えている。

私はまったく声を発しないが、常に舞台のどこかで何かを演じるこの存在を楽しく追いかけた。「死」というと恐ろしいが、彼に付きそう若干6歳くらいの男の子が、その恐ろしさを少し緩和してくれて実に素敵であった。子役の彼は私の息子と同じくらいの年齢で、それでいて動じることなく最後のカーテンコールでもぎこちなくお辞儀する姿に、何かとてもほほえましものを感じた。

総じて、私はこの公演は今シーズンを幕開きを飾る成功であったと思う。だが、このような高いチケットを買ってまでオペラを聞きに来る客は、年々少なくなっているような気がする。もちろん私のような物好きなファンも沢山いることだろう。丁度時間帯に、隣のコンサート・ホールではアントニオ・パッパーノが指揮するローマ・サンタ・チェチーリア管弦楽団の演奏会があったので、多くの客はそちらに流れたのかも知れない、などと思うことにしながら帰りの京王線に飛び乗った。

2012年4月24日火曜日

NHK交響楽団第1725回定期演奏会(2012年4月20日 NHKホール)

ノリントン指揮のN響公演があまりにも良かったので、私は次のCプログラムにも出掛けた。金曜日の夕刻、会社をあとにして原宿駅に降り立つ。少し肌寒いが、雨は降っていなかったので、少し時間があるため代々木公園を散策した。この公園は何度も近くを通っているが、中を歩いたことはほとんどない。iPodに入れた音楽(もちろんベートーヴェン)を聞きながら、噴水前のベンチでしばしたたずむ。都市公園の心地よさと都会の喧騒を離れてまわりは木々しか見えない広さで、大変リラックスした。思えばここ数日の仕事は、毎日がトラブル続きで私はほとんど緊張を強いられていた。

橋を渡ってNHKホールへ向かい、自由席を購入して3階へ上がるが、前回と異なって客席がかなり空いている。今日のプログラムはベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第2番と交響曲第4番、それにティペットの交響曲第1番という組合せである。今年になって2度目、通算223回目のコンサートである。ノリントンは3回目。テレビ録画あるのかカメラの設置も行なわれている。時間があったので、エビスビールを500円で飲むが、これが実に美味かった。

序曲「レオノーレ」第2番は、歌劇「フィデリオ」(となる歌劇)のために書かれた4種類の序曲のうち最初の作品で、より有名な第3番の出来損ないのような作品である。出来損ないというのは言いすぎかも知れないが、ベートーヴェンも何度も書きなおしているので、そう思っていたのかも知れない。第3番と同じフレーズが時々出てくるが、第3番ほどの凝縮した音楽ではなく、何とも締まりの悪い習作風である。だがそこが面白い。ベートーヴェンはあの一切の無駄を排した、ほぼ完璧とも言える音符の連続を、最初から書くことができた作曲家ではなかった。それでこの第2番を聞く楽しさは、あのベートーヴェンもこのような曲を書くことからスタートしたのか、と思いながら、いわば「作曲のプロセス」を体験できることだ。

結果的には第3番でも満足せず、さらに第1番を作り、最後には「フィデリオ」序曲に落ち着いた。もちろんオペラそのものもかなり書き換えられていくので、「フィデリオ」はベートーヴェンの創作のライフワークとも言うべき性格の作品となった。それが楽しくない作品であるわけがない。だが、「フィデリオ」については別に書こうと思う。

交響曲第4番を聞きたかったのが、このコンサートへ出掛けた直接の理由だった。だが、期待は半分程度しか満たされなかった。ノリントンの第4番はもう少し遊びがあってもいいと思った。第2楽章のスピード感は全体の白眉だが、それ以外の部分では、先日聞いた「英雄」ほどの興奮が伝わって来ない。

最後のティペットは、何と表現していいのかわからないのだが、英国のこの時代の作曲といえば、何と言ってもエルガーやウォルトンで、そのような退屈一歩手前の音楽にさえ到達してはいない。まったくもって印象に残らない作品で、ショスタコーヴィッチのような感じも時々したが、それでおしまいであった。総じてイギリス音楽は楽しかったことがないが、それを地で行く作品である。

2012年4月23日月曜日

NHK交響楽団第1724回定期演奏会(2012年4月15日 NHKホール)

最上段にずらりと並んだコントラバスの後に、反響板と思われる白い板が並んでいて、いつものコンサートとは雰囲気が少し違う。日曜日の昼下がりとはいえ、まだまだ肌寒い。お尻が見えそうな若者に混じって、老人たちの群れが公園通りを登っていく光景は、いつも微笑ましい違和感がつきまとう。定期演奏会でNHKホールが満員になることは滅多にないが、年に数回はあるようだ。この日はそういう日だった。

NHKホールの開館は開演1時間前で、いつものように自由席を確保するためかなり前に到着し、3階席に陣取る。注意喚起のアナウンスは、携帯電話やアラーム付き腕時計のことを話すのが通常だが、ここNHKホールでは補聴器のノイズについても行なわれる。老人また老人の中に、少しは若者もいるのだが、今日の指揮者も78歳のロジャー・ノリントンである。オール・ベートーヴェン・プログラムということで、この指揮者とは3年越しの交響曲全曲演奏会の最中である。もらったプログラムには、A/B/Cの全プログラムが掲載されているが、今日はその初回である。

ビブラートを極力排したピュア・トーンで知られるノリントンとは、NHK交響楽団とも相性がいいようだ。数年前から招聘し、N響の音が一気に蘇った。それまでくすんだような音色だったのが、何とも素敵な色に変身したのはテレビでもおなじみである。私はシュトゥットガルト放送交響楽団とのコンサートで「田園」を聴いているが、N響との演奏会は初めてである。今日のプログラムが大変魅力的に思えたので、半ば衝動的に足を運んだ。丁度家族はでかけて家にいないという好都合も手伝った。

そもそもN響の音色が何とも貧相な感じなのは、楽器が悪いからだとか、ホールが良くないからだとか、あるいはそもそもテクニックの問題だ、などとささやかれていた。しかし私がノリントンとの演奏で思ったのは、それまでの指揮者がそういう音色を出すテクニックを持ちあわせていなかったのではないか、ということだ。あるいは無頓着だったのだろう。オーケストラがそのような音を求めなかったかも知れない。だがノリントンの手にかかると、耳が洗われるように心地よい響きである。最初の曲「フィデリオ」序曲で、その素晴らしさは確認できた。ティンパニの強烈にして鋭角的な響きは、この演奏の集中力を一気に高めた。木管楽器もすこぶる上手いと思ったし、弦楽器のバランスも絶妙だと感じた。

三重協奏曲が今回の見物であった。三人ものソリストが必要なこの曲は、滅多にプログラムに登ることはない。私も初めてである。だがベートーヴェンの中でも目立たないこの曲は、室内楽と管弦楽曲が同時に楽しめるなかなか楽しい曲で、私も何枚ものCDを所有している。今回のソリストはすべて若手のドイツ人で、ピアノがマルティン・ヘルムヒェン、ヴァイオリンがヴェロニカ・エーベルレ、チェロが石坂団十郎である。

三人の若々しい音が、ノリントンのピュア・トーンに融け合ってなかなかの名演だったと思う。三人ものソリストがオーケストラの前に並ぶのも見ものだったが、ノリントンはやや斜めに向いて、指揮台にも立たずに埋もれた感じで指揮をしていたのが印象的だった。

さて、最後は「エロイカ」である。この「エロイカ」は私が聞いたすべてのベートーヴェンの実演の中でも最高のものだったことを最初に書いておきたい。ベーレンライター版を使用した演奏は、スピードがあってすべての繰り返しを行い、鋭いティンパニが特徴であった。第1楽章の出だしから私は興奮し、オーケストラも乗っているように感じた。長い第1楽章が終わるまでの時間だけで、その日のチケット代の元を取ったように感じた。おそらくそうだろうというような演奏を、見事に再現したN響との演奏は、そのままDVDで発売してもいいようにさえ感じたが、5月の「ららら・クラシック」という「N響アワー」の後続番組で放送されるようで、今から楽しみである。

第2楽章のメロディーもメリハリが効いて、メランコリックな木管も印象的だが、ここをあくまでリズカルに演奏することに、私はとても好感を持つ。その結果、この長い曲も終盤に向けて盛り上がっていく様子がよくわかるのである。第3楽章の難しいホルンのトリオを乗り切ると、第4楽章の興に乗った演奏が生きてくる。日経新聞夕刊にこの日の演奏の評論が掲載されているが、確かにここをもう少し喜びに溢れた愉悦感で走れば、申し分はなかったかも知れないし、私もそのように感じた。だが、それは高望みしすぎかも知れない。

とにかくコーダまでの45分間は、思わず身体を揺すってしまいたい時間の連続で、私はパーヴォ・ヤルヴィの演奏をCDで聴いた時と同じような素晴らしい時間を楽しんだ。久しぶりのN響の定期だったが、こういう名演なら何回でも通いたいと久しぶりに思った。丁度ベートーヴェンの演奏を立て続けに聞いていたので、その意味でも大いに共感することのできた演奏会であった。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...