2017年9月12日火曜日

東京都交響楽団第840回定期演奏会(2017年9月11日、サントリー・ホール)

半年に及ぶサントリー・ホールの改修が終わり、その直後にあたる9月11日、都響の定期演奏会に出かけた。ハイドンのオラトリオ「天地創造」を聞くためである。月曜日だというのに、しかも前日には別の会場で同じプログラムを演奏していると言うのに、客席は満席に近く、この演奏会の前評判の良さがうかがえる。音楽監督大野和士が満を持して挑むハイドンの最高傑作に、何とスウェーデン放送合唱団が登場するではないか。しかも字幕付きである。

こんなコンサートに出かけないわけには行かない。ただでさえ「天地創造」を生で聞く機会などそうあるわけではない。7月には早々と1階のS席を確保し、体調を万全に整えた。仕事の疲れも残ってはいたが、今年の9月は早くも涼しい風が吹き、新シーズンの幕開けに相応しい華やいだ雰囲気を感じるのは期待値のせいか。

大野和士を聞くのは初めてである。そしてもちろんスウェーデン放送合唱団も。アバドのCDなどによく登場するこの北欧の洗練されたプロ合唱団は、今ではペーター・ダイクストラによって率いられている。彼はバイエルン放送の合唱団で名を馳せた実力派である。ハイドン一美しい、いや世界の音楽の中でもっとも美しいこの曲を、最高峰の合唱で聞けるというのがこのコンサートに注目する最も大きな理由である。

ところが演奏が始まると、どの一音たりともおろそかにせず、集中力と気合の入った演奏に一気に釘付けとなった。まだ「混沌の描写」である。その何かを感じさせるような重々しい雰囲気は、やがてラファエルの「はじめに神は天と地をつくられた」と歌う荘重さに引き継がれ、会場が固唾を飲んで聞き入るような緊張感に包まれる。ようやく合唱が静かに歌い始めると、丸で会場全体がひとつのバランスの取れた気球に乗っているように感じられた。まったくもって必要十分と言える絶妙のバランスは、少人数の合唱団だけに限ったことではない。3人の独唱とオーケストラまでもが、こんなにも上手くブレンドされた演奏は初めてである。完璧にミキシングされたCDでしか、こういう音は聞けないと思っていた。だがいままさに、ここで、このような瞬間の連続に接している、そう考えると体が硬直し、涙が出るような感動に何度も見舞われるのだった。

「光あれ!」と叫ぶ冒頭の頂点に達する以前に、私はこの演奏が類まれな名演であることを確信した。十分に練習が重ねられ、何度もの調整を経て、この演奏が可能となったのだろう。それは慎重に節度を保っていることに加え、音色はビブラートが抑えられ気味であることによって、新鮮でピュアであった。木管楽器の奏者は、自分のパートを完璧にこなし、独唱や合唱と重なっても大きすぎず小さくもない。指揮者の正面でチェンバロがレチタティーボの伴奏に始めるたびに、私は深く息を吸い込んで我を取り戻すことを繰り返した。

これまで何十回となく聞いてきたどの演奏よりも素晴らしいと思ったのは、それが実演であるからだけではないことは明らかだった。これは現在経験し得るもっとも完成された演奏のひとつであると言ってよいだろう。次々と進められてゆくハイドンの音楽に深いため息をつきながら、あっという間に前半が終わった。ただ前半が終了したのは第2部の中間地点で、その時点でまだ神は人間を創ってはいない。第3部から後半とすると前半が長くなりすぎるのを避けたのだろうと思う。けれども私は前半に第2部を最後まで一気に演奏してほしかった。

後半はその人間創造のシーンから始まり、第3部のアダムとエヴァによる人間賛歌へと移っていった。ハイドンの音楽はますます磨きがかかり、私がいつもクライマックスだと思うアダムとエヴァによる二重唱を始めとする約10分間は、至福のひとときであった。「アーメン」と深くコーダの余韻を残しながら音楽が消え行く時、会場にはしばし静寂が訪れ、そして静かに、だが確信に満ちた拍手が始まった。以降、何度もソリストや指揮者が舞台に読み戻されるに連れ、それは次第に大きくなり、やがて最高潮に達した。見ると1階席の真ん中を足早に通り過ぎる長身の外国人がいた。カーテンコールに呼ばれた彼は、合唱団を率いるダイクストラ氏であった。

3人の独唱は、ソプラノが林正子(ガブリエルとエヴァ)、テノール(ウリエル)が吉田浩之、そしてバリトン(ウリエルとアダム)がディートリヒ・ヘンシェルであった。ヘンシェルは安定した見事な歌でまったくもって素晴らしかったが、吉田の声も特筆に値する。彼は透明で良く通るキレイな声を、大変上手く表情をつけながら、最後まで歌い切った。ドイツ語の歌としても及第点だと思う。それに比べると林の歌は、声量こそ確かなものの、表情にやや雑な部分があり、ドイツ語の発音にも違和感があった。フランス・オペラの歌手ならこういう歌い方だろうか。だが彼女も声の通り方に不満はなく、後半では気にならない程であった。

大野和士という指揮者を初めて聞いたが、指揮はわかりやすくて安定しており、演奏のコンセプトが合唱やソリストにもよくいきわたっていたと思う。完成度の高さにおいて、今回触れた「天地創造」の実演はなかなかのものだったと思う。合唱の美しさ、それが管弦楽やソリストと合わさって和音を形成する時、左右から広がりのある歌声と楽器が次から次へと重なっては絡み合い、時には静かさの中に余韻を残した。

もし可能なら次は「四季」を聞いてみたい。私はよりハイドンらしい茶目っ気の感じられる「四季」の方が好きである。だがこちらもほとんど実演で聞いたことがない。規模も大きく華やかなのに、実演に接する機会はずっと少ないだろう。ハイドンの合唱作品など、予算がかかるうえ宣伝効果に乏しいのだろうか。だが今回の「天地創造」で見せた実力をもってすれば、それも可能ではと思わせる。それから字幕が用意されていたこと、詳しい解説書が配布されたことなどは、当たり前のように思っている人もいるが、大いに評価しておくべきだ。でないとあの音楽による擬態表現がまるでわからないからだ。

指揮者とソリストは、とうとうオーケストラが引き上げても続く拍手に、再度呼び戻された。いつまでも続くブラボーと拍手は、会場に詰め掛けた聴衆の多くが今回の演奏の高さを評価していたことの証明に他ならない。Twitterで「明日ももう一度聞いてみたい」と書いていた人がいたが、この方は前日の東京芸術劇場の公演を聞いているようだ。今日、私も同じように思う。けれども同時に、こんな嬉しい演奏には、もう少し余韻に浸っていたいとも思う。もう十分に音楽を楽しんだという充実感が、私を覆っていた。気が付くともう9時半で、そうかこの拍手は30分近くも続いたのか、などと思いながら、溜池山王への足取りを速めた。

2017年9月11日月曜日

モーツァルト:歌劇「イドメネオ」(The MET Livein HD 2016-2017)

モーツァルトの音楽人生を2つの時期に大別するとしたら、ザルツブルクでの生活(すなわち幼少期からのイタリアを始めとする欧州各地への旅行と、大司教に仕えることになる青年時代まで)と、単身ウィーンに乗り込んで、音楽史上初のフリーランス作曲家として活躍する後年の時代とになるだろう。

モーツァルトの有名なオペラ作品の大半は、後半のウィーン時代に作られたものだ。ダ・ポンテの台本による3部作は特に有名で、古い風習に囚われたオペラを人間味あふれるドラマとして構成するという前代未聞の試みをやってのけた。これはオペラ史における大転換となるのだが、そのモーツァルトもザルツブルクではまだ、貴族の依頼に基づく古い形式に則ったオペラを作曲し、いろいろ台本に注文をつけながらも、溢れる才能を注ぎ込んだ。

そのような作品の中の最高峰であり、かつ新しい時代へと向かう直前の作品である歌劇「イドメネオ」は、ギリシャ神話に題材を取った伝統的なオペラ・セリアで、まだバロックの名残りも感じられる作品である。モーツァルトの中では影が薄い方だが、今でも上演回数は比較的多いことから、この作品以降がモーツァルトの「聞くべきオペラ」ということになっている。

「イドメネオ」は実際、後年のモーツァルト・オペラの大躍進を窺う才気に満ちた作品だが、その音楽的充実とは逆に、生前わずか1回しか上演されなかったという(実際には後年ウィーンにて、ごく小さな部屋で私的に上演されたらしい。このあたりは「モーツァルト オペラのすべて」(堀内修・著、平凡社新書)に詳しい)。

西洋史がここから始まるとされているトロイア戦争でギリシャが勝ち、トロイアの王女イリアは囚われの身となっている。クレタ王イドメネオの息子であるイダマンテは、そんなイリアを愛してしまう。イリアもイダマンテを敵の王子と知りながら、その愛に応えようとして葛藤に悩む。だが、やがてクレタ王となるであろうイダマンテの妻の座を、アガメムノン王の娘エレットラが狙っている。こちらは味方だから、その地位に相応しいはずだ、というのである。

二人のソプラノ(イリアとエレットラ)、それにイダマンテ(メゾ・ソプラノ)を加えた3人が第1幕から聞きどころの多い歌を披露する。特にエレットラは起伏の激しいアリアを披露して「魔笛」における「夜の女王」を彷彿とさせる。いやその前に、何と充実した序曲が奏でられることだろう。グルックがもたらしたオペラの大規模化は、このようなところにもしっかりと現れている。

ある日、イドメネオは戦場からの帰途、嵐に合い遭難して死亡したとの知らせがもたらされる。だがこれは誤報で、実際には命からがら生きて漂着するのだ。そこに息子のイダマンテが現れる。最初はイドメネオであるともわからない。だが、よくよく話してみると父ではないか。生きていたことがわかるイダマンテは喜びに溢れるが、父のイドメネオを何故か息子を避けようとする。

その理由は第2幕で明確に明かされる。海の守り神ネプチューンが、イドメネオの命と引き換えに、最初に出会った人を生贄に差し出すことを約束させたからだ。父は自分の息子を殺すことになる運命を認めたくはない。イドメネオは考えた挙句、イダマンテをエレットラとともに出国させ、その場を凌ごうとするのだ。だがこれにネプチューンは怒り、嵐が起こる。

冷静に考えると単なる三角関係のオペラも、ネプチューンやら何やらで第2幕は聞きどころの多い音楽だ。アリアはバロックの風習に倣って繰り返しが多く、そのことが少し疲れさせもする。加えて今回Met Lineで上演されたジャン=ピエール・ポネルの古色蒼然とした演出は、動きが少ない上に舞台装置がほとんど変わらない。これは演奏がよほど上手でないと退屈だし、それにMetの舞台はこの時代のものを上演するには広すぎる。

それでも定評あるジェイムズ・レヴァインの指揮は、引き締まったところとメロディーを十分に歌わせる部分とをごく自然に使い分け、この作品の一時代を築いた演出を今なお新鮮に表現する。初めてレヴァインがこの曲を上演した時、イドメネオを歌ったのはパヴァロッティで、その時に今回イリアを歌ったネイディーン・シエラはまだ生まれていなかったというから驚きだ。

一方、エレットラを歌ったのはエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーで、このヒステリックで表現の幅の広さが要求される役を十分にこなしていたと思う。いやそれどころか最終幕で怒り狂うシーンは圧巻で、満場の喝采をさらっていたのが印象的である。また初演の際、カストラートによって歌われたイダマンテは、テノールではなくメゾ・ソプラノが歌う。つまりはズボン役だが、これがどうも見ていてしっくりこない。かといってテノールが歌うと、音域がイドメネオとバッティングしてしまう。このオペラの欠点のような気がしてならない(作曲は初演時の歌手を想定して進められたのが、その理由である)。

標題役のイドメネオはマシュー・ポレンザーニで、リリカルな歌声はこの高貴な役に今もっともふさわしいと感じさせるに十分である。聞きどころは重唱を含め数多いが、私たちはCDなどでパヴァロッティとどうしても比較してしまう。そのくらいこの役はパヴァロッティの当たり役だったのではないか。 そのパヴァロッティの歌うイドメネオは、今ではCDならプリッチャード指揮のウィーン・フィルで、DVDならレヴァインの指揮で味わうことが出来る。私もプリッチャード盤を持っているが、しかしながら、「イドメネオ」の他の演奏を知らないのも事実であり、この演奏が最高であるのかどうかはわからない。

第3幕でイドメネオはとうとうイダマンテを生贄として差し出す決心をしたとき、ネプチューンの声がこだまする。これは本日のMet Liveの進行役エリック・オーウェンズが歌ったようだが、舞台には登場しない。ネプチューンはイドメネオの退位とイダマンテの即位、それにイリアとの結婚を宣言し、舞台は一転ハッピー・エンドとなる。愛の勝利にひとり怒り狂うエレットラ。

このオペラのテーマは一見上記のように単純なように見える。だがそれですまされない要素がある。それはこのオペラが「父と息子」の関係を描いた数少ないオペラであるからだ。思えば、「父と娘」のオペラなら星の数ほどある。ヴェルディのオペラやワーグナーのタンホイザーなどがそうで、自ら二人の娘を失ったヴェルディは、すべての作品にこのテーマを追い続けたと言ってよい。その最高峰は「シモン・ボッカネグラ」ではないか。あの「椿姫」だって、ヴィオレッタをジェルモンの娘にするかどうかの駆け引きに重点が置かれ、アルフレードの存在感は薄い。

「母と娘」もある。ポンキエルリの「ジョコンダ」がそうである。また「母と息子」も探せばあって、「イル・トロヴァトーレ」がそうではないかと思いつく。もっとも実の親子ではないが。それに比べると「父と息子」はドラマになりにくい。いや「イドメネオ」におけるイドメネオとイダマンテの葛藤は、心理劇と言うには少し形式が古いのは事実だ。だがここに描かれる二人の関係は、そのままモーツァルト自身の親子関係が反映されているように思えてならない。

実際にモーツァルトは「イドメネオ」の上演が成功に終わると、そのままザルツブルクへは戻らずウィーンに出かけてしまう。とうとう親の反対を押し切って独立したのである。「イドメネオ」はもともとその1世紀前にパリで初演された劇の台本を元にしている。だがこの台本に音楽を付け、自らも何かと口を出して成功させたオペラの制作過程で、いよいよモーツァルトの独立心は決定的な親子の決裂(そしてザルツブルクとのそれ)を招くのである。その父と和解するのは、ウィーンに出てしばらくしてからのことである。神が古い立場の人を退け、新しい生活を始める息子を祝福するこのオペラは、そのままモーツァルト自身の成長物語となっている。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...