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2022年1月31日月曜日

思い出のうた(4)NHKみんなのうた「おお牧場はみどり」(作詞:中田羽後、チェコスロバキア民謡)

私が小学生の頃は、まだ世の中がいまよりは落ち着いていたと今になっては思う。それまで一本調子で登りつめた高度成長時代が終わりかけ、石油ショックに見舞われる。東西の冷戦は極限に達し、いまや円高とバブルがそこまで迫ってきつつあった時代。だがそれは、その後に続く動乱の時代から見れば、まだ時間がゆったりと流れ、「世界」は自分の手の届くところにしかなかった。私が少年時代を過ごしたそのような時代は、わずか5年後にはもはや違ったものになっていた。情報化が進み、世界が一気にせまくなったからである。

そんなわずかの隙間の時代に、私は小学生だった。そしてその私が毎日楽しみにしていた夕方のテレビ番組の中で、とりわけ「NHKみんなのうた」はわずか5分の間に2つの曲が、アニメーションや実写などとともに流れるだけの番組。流れる曲は毎日違うが、それも1か月程度ですべて入れ替わった。そしてそのような中からヒット曲が数多く生まれた。「山口さんちのツトム君」や「南の島のハメハメハ大王」というのがそれである。「NHKみんなのうた」で流れる有名曲のみを集めたLPレコードも発売されていて、私も何枚かを持っていたが、なぜか歌う人が違っていたりして違和感を覚えた。録音はモノラルだった。

「NHKみんなのうた」は1961年にテレビ放映が開始され、1971年からカラー化された。私はカラーしか知らないから、おそらく5歳以降の記憶しかないのだろうと思う。だが、それまでに作られたいくつかの曲は、国民的に有名な曲となり広まった。そのような中には、「えんぴつが一本」(作詞・作曲:浜口庫之助)、「手のひらを太陽に」(作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく)、「ちいさい秋みつけた」(作詞:サトウハチロー、作曲:中田喜直)などがあり、遠足に持っていく歌集などに載っていたので、知らない人はいない。

従来の文部省唱歌や童謡の枠を超えて国民的な良質の歌謡を提供する路線は、70年代になると独自の音楽をさらに加えて全盛期を築いたと思う。「NHKみんなのうた」は、とっくの昔にその役割を終えたと思うのだが、信じられないことに何と2021年の現在でも放送されている。一体どんな曲が作られ、聞かれているのかはさっぱりわからない。そのような中から国民的歌唱曲が生まれているという話は聞かない。そもそも「NHKみんなのうた」というのは、いわば「オモテ」の歌で、子供から大人まで親しめる歌詞は模範的で教科書的。そんな歌が流行するのは気持ち悪いな、などと1980年代に荒れる青春時代を過ごした私などは思うのだが、あろうことか、平成の時代に入って流行する歌はみな、NHK的、みんなのうた的なものばかりになってしまった。例えばいきものがかりの歌などは丸で毒がない。

世界中のどこでも、大多数の歌のテーマは恋愛である。片思いの歌もあれば失恋の歌もある。あるは戦争。悲しい友人との別れ。喪失感、焦燥感。そういった陰のない歌は、小学生までである。丁度そのような層を対象にしたのが「NHKみんなのうた」だと言える。

1970年代に私が接した「みんなのうた」は、数多い。おもいつくままに並べると、

  • 「それゆけ3組」(作詞:桑嶋賢二、作曲:中村秀子、歌:西六郷少年少女合唱団、1971年)
  • 「算数チャチャチャ」(作詞・作曲:山口和義、歌:ペギー葉山、1973年)
  • 「想い出のグリーングラス」(訳詞:山上路夫、作曲:C.ブットマン、歌:上條恒彦、1974年)
  • 「勇気一つを友にして」(作詞:片岡輝、作曲:越部信義、歌:山田美也子、1975年)
  • 「さとうきび畑」(作詞・作曲:寺島尚彦、歌:ちあきなおみ、1975年)
  • 「遠い世界に」(作詞・作曲:西岡たかし、歌:チューインガム、1975年)
  • 「宗谷岬」(作詞:吉田弘、作曲:船村徹、歌:ダ・カーポ、1976年)
  • 「さらば青春」(作詞・作曲:小椋佳)1975年、歌:田中健
  • 「山口さんちのツトム君」(作詞・作曲:みなみらんぼう、歌:川橋啓司、1976年)
  • 「ボクたち大阪の子どもやでェ」(作詞・作曲:西岡たかし、歌:T.J.C、1976年)
  • 「南の島のハメハメハ大王」(作詞:伊藤アキラ、作曲:森田公一、歌:水森亜土、トップギャラン、1976年)
  • 「切手のないおくりもの」(作詞・作曲:財津和夫、歌:財津和夫、チューリップ、1978年)
  • 「ビューティフルネーム」(作詞:伊藤アキラ、作曲:たけかわゆきひで、歌:ゴダイゴ、1979年)

このように書いていくと、私の「みんなのうた」は1970年代の前半に集中している。小学生1年から4年生まで「3組」だった私は、「それゆけ3組」という曲が好きだったし、大阪生まれとしては「ボクたち大阪の子どもやでェ」のファンだった。興味深いのは、この中に「大人のうた」が混じって来ることだ。団塊ソングでもある「さらば青春」は異例だし、「さとうきび畑」は沖縄に爪痕を残す戦争の歌である(何か暗い曲だなあ、などと思っていた)。

「NHKみんなのうた」は少なくとも私にとっては1970年代後半には馴染みの薄いものになっていく。2000年に入って子供が生まれ、ひさしぶりに図書館などで「NHKみんなのうた」のCDなどを借りてみた。何十周年かの記念アルバムだったりしていたが、上記の曲が未だに収録されていた。久しぶりに聞いてみると、これが最近のJ-POPに見られる幼稚な歌詞よりももっとしっくりくるから不思議である。そして80年代以降の曲にまったく関心が向かない。唯一の例外は「川はだれのもの?」(作詞・作曲:みなみらんぼう、歌:東京放送児童合唱団、1995年)くらいだろうか。

「川はだれのもの?」のように「NHKみんなのうた」には、少年合唱団による歌が数多い。幼児向けの童謡などを集めたCDにも少年少女合唱団の歌が多いが、大人になって聞くようなものではないし、かといって難しい合唱曲となると、あまりに技巧的で私はあまり聞く気がしない。しかし「NHKみんなのうた」はその中間にあって、大人になってもそれなりに楽しい曲だったりする。その大半は実は60年代に作られたものだ。「線路は続くよどこまでも」や「クラリネットこわしちゃった」などである。そのような中でもとりわけ秀逸と思われるのが、「おお牧場はみどり」である。この曲は「NHKみんなのうた」で最初に放送された曲である。だがこの曲をきっちりと歌う合唱団の溌剌とした歌声は魅力に溢れ、小学生時代の音楽室を懐かしむ曲である。当時、この曲が作られたチェコとスロバキアは、ひとつの国だった。この曲を「チェコスロバキア民謡」としたのは、その理由からである。

私は丁度小学生の頃、ボーイスカウトの下部組織であるカブスカウトに入団し、これらの歌を数多く歌わされた。その思い出は別に書くが、合唱というのは終わりのない高みを目指すようなところがあって、大いに怖い先生が指導にあたるのが通例だった。いわば、上級の子女教育である。その範囲は歌う時の姿勢や服装などの生活態度にまで及ぶ。私にとって「怖い」ということしか思い出のない合唱団が、名曲「おお牧場はみどり」を歌う時に感じる規律の見事さは、背筋を伸ばして聞かなくてはならないほど屹然としたものだ。だからこの曲を、親しみやすい軽い曲だと思ってはならない。



2021年11月18日木曜日

思い出のうた(3) 坂本九「明日があるさ」(作詞:青島幸男、作曲:中村八大)

小学校低学年頃、NHKの人形劇「新八犬伝」(1973-1975)を見るのが好きだった。この人形劇は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を元にした奇想天外なストーリーで、私は夜6時になると夕食までの小一時間、「こどもニュース」から始まる子供向け番組(の中で放映された)を毎日見ていた。

人形劇と言えば「ひょっこりひょうたん島」(原作:井上ひさし)だが、私もこの人形劇の歌をよく覚えていて、見た記憶があるようなのだが、どう考えてもそれはかなり幼少の頃で、記憶していること自体が疑わしい。これに対し「新八犬伝」(脚本:石山透)は、そのストーリーも楽しく私がもっとも好きだった番組である。人形劇はその後も続き、「真田十勇士」などは大いに期待したがさほどでもなく、以降、「笛吹童子」、「紅孔雀」、「プリンプリン物語」と続くが「新八犬伝」を上回るワクワク感に及ぶものはなく、そのうち私も人形劇から卒業してしまった。

なぜ「新八犬伝」がそれほど楽しかったか。の理由のひとつは、坂本九の楽しい語りにあったと思う。所詮、小学生の頃である。飽きない演技とコミカルな表現。黒子となった九ちゃんが丸九と書かれた頭巾をかぶって時々登場する。私はまだ漢字を覚えたての頃だったから、あちこちに「仁義礼智忠信孝悌」などと書いては、知らない文字を書けることに優越感を感じていた。

坂本九は1960年代を代表する歌手で、その絶頂期に丁度世間に行きわたり始めたテレビ・メディアの寵児とも言える芸能人だった。「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)は1961年に始まったバラエティ番組「夢で会いましょう」で紹介された途端にヒットし、日本人として全米ヒット・チャートのトップを飾った記録はいまだに破られていない。さらには、「見上げてごらん夜の星を」、「幸せなら手をたたこう」、「明日があるさ」、「涙くんさよなら」などのヒットソングを連発する。

その坂本九が人形劇の語りを担当し、テーマ曲を歌った。「夕やけの空」というのがそれである。そしてこの曲が、挿入歌だった「めぐる糸車」と合わせてドーナツ盤レコードになり、私も大いに欲しかったが叶わなかったのを覚えている(レコード屋に見つけることができなかったのである)。

小学校3年生になって、私は同級生の友だちの家に遊びに行くことが多くなった。アメリカ人と日本人のハーフというのは当時としては非常に珍しいことで、遊びに行くとアメリカ人のお母さんが瓶入りのコカ・コーラを出してくれた。もっとも彼との普段の会話はすべて普通の日本語で、顔つきは白人なのに英語が喋れないことにコンプレックスを抱いていたようである。

そんなことは知らず、小学生二人が放課後の時間をかけてやるあそびが麻雀だった。と言っても小学3年生二人でやるのだから、簡単に役ができる。そんな見よう見まねの域を出ない麻雀遊びを、毎日彼の家の応接間でしていた。その応接間には立派なステレオセットが置かれていて、当然クラシックのレコードも豊富にあったと思うのだが、彼の家で良く聞いていたのが坂本九のベストアルバムだった。坂本九が、「火薬」と書かれた箱の上で煙草をふかしているというジャケットの写真でが面白く、この人はコメディアンだと思っていたくらいだ(このジャケット写真は後年、ベストアルバムがCD化されたときに復活している)。

人形劇の語りだった坂本九の歌を、私と友人は毎日のように聞きながら、麻雀をしていた。随分変わった小学生だった。そのLPに収録されていた曲には、上記のミリオン・セラーの他に「ステキなタイミング」、「悲しき六十才」、「あの娘の名前はなんてんかな」といったギャグのような歌詞を持つ曲も収録されており、私はそれらの歌詞を覚えては友人に自慢していたようだ。独特の歌い方と伸びやかな声で、坂本は高度成長期の元祖アイドル的存在だった

人形劇に語りを担当した1941生まれの坂本九は、この頃まだ30代である。しかし、1970年代に入るとテレビに登場する機会は減っていった。私の世代から見ると、彼はすでに「過去の人」という感じである。同年代で彼の歌を知っている人はほとんどいない。永六輔や中村八大が細々とでも活躍を続けるのと違い、アイドルの賞味期限は短かったのである。だが誰もが予想しなかった事故が起こった。1985年の日航ジャンボ機墜落事故である。坂本九は偶然にもこの便に乗り合わせ犠牲者となった。享年43歳。その時私は大学受験浪人中だったが、ラジオなどで坂本九の歌が数多く流れた。その中には、かつてLPで親しんだ数多くの楽曲が含まれていた。昭和の終わり、丁度バブル景気が始まろうとしていた頃のことだった。

平成の時代になって、テレビのCMなどで坂本九の歌が復活する。私の最も好きな「明日があるさ」がウルフルズ他の歌手によって歌われ、紅白歌合戦でも披露されている(2001年)。「見上げてごらん夜の星を」(作詞:永六輔、作曲:いずみたく)はゆずがカバーし(2006年)、「上を向いて歩こう」は、最も新しいところではSEKAI NO OWARIが歌っている(2016年)。「明日があるさ」が復活したのは、日本経済が長期的低迷に入り込んでいたことによる諦めから来る開き直りである。けれども本来の「明日があるさ」は、日本経済の高度成長期におけるストレートな明るさと自信を感じさせる。我が国の奇跡的復活は、大雑把に言えば60年代から70年代までである。私はこの最後の部分を、少年時代にわずかに感じることができた最後の世代だと思っている。



2021年11月13日土曜日

思い出のうた(2)天地真理「虹をわたって」(作詞:山上路夫、作曲:森田公一、編曲:馬飼野俊一)

今から思えば1970年代というのは、歌謡曲の全盛期だった。それまでの演歌歌手やグループ歌手に加えて大勢の若手のアイドルが台頭し、同年代の若者から圧倒的な支持を得ていた。20代になっていた団塊の世代が社会に出て、日本中のあらゆる側面で変化が起こった。圧倒的に人数の多いこの世代は、それだけでマーケティングの対象になる。勃興した大衆消費社会が彼らに迎合し、彼らも自分の時代が来たと思ったに違いない。それは文化的な意味で、戦後生まれの世代が我が国の中心に躍り出ようとする初期段階であった。

1966年(昭和41年)生まれの私は、その70年代を小学生として過ごした。1973年(昭和48年)に大阪郊外のマンモス小学校に入学、その6年後の1979年に卒業した。今でもよく覚えているのは、新しく赴任する小学校の先生が次々と若返り、新しい風を私たちにもたらしたことだ。遠足に持っていく歌集には、新しい歌が数多く登場した。それまでの文部省唱歌や教科書に載るような歌が中心のお仕着せの歌集の他に、先生が別刷りで作成したものだ。その中には流行のフォークソングなどが含まれていた。夜になればキャンプファイアーを囲んで、誰かのギターに合わせこれらを歌う。その歌詞は、それまでの体制から離れて自由になろうとする新しい時代の意志が込められていた。その象徴的な存在は、ジローズが歌った「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修、作曲:杉田二郎)だろう。この曲は大阪万博の年、すなわち1970年に発売された。

私の世代、つまり丙午(ひのえうま)を底とする「くびれ世代」は、その団塊の世代の20年ほど下である。従って、私達の親世代の文化と同時に、それとはずいぶん異なる団塊の世代の文化に大きく影響を受けていると言える。この2つの価値観が、学校や職場で共存・対立し、やがては下の世代が上の世代を駆逐してゆく有り様を、昭和から平成へと連なる過程で観察してきた。もっとも我々の世代は、その上下の世代に比して同年代の人数が圧倒的に少ないから、時流に乗ることもなければ世間の注目を集めることもない、極めて地味で消極的な世代だと思っている。実際、タレントや政治家になって世間の注目を浴びる人の割合は、これらの上下の世代に比べ圧倒的に少ない(1966年「ひのえうま」生まれは特に少ない)。

1970年代に隆盛を誇り、以後は低迷してゆく昭和アイドル文化はまた、団塊の世代が同年代の人を支えた文化ではないかと思う。そしてこれらアイドル系歌謡曲の裏で若者の心を捉えるニューミュージックもまた、彼らの文化である。実はニューミュージック系の文化こそ、若者文化の本流だったと知るのは、私が中高生になってからで1980年代のことである。従って小学生の私は、いわば表側の若者カルチャーたるアイドル歌謡曲に触れることが、生活の中でのごく一般的な出来事だった。そしてそのアイドル歌手の中で、もっとも高度成長期の底抜けの明るさを感じさせるのが、天地真理だと思う。

私が小学生に入った頃、すべてのチャンネルのテレビ局では歌謡曲番組が花盛りで、ヒット曲の歌手が出演する歌番組は、毎夜どこかの放送局がゴールデンタイムに放映し、その合間にはアイドル向け番組が時代劇やプロ野球中継の狭間に差し込まれた。TBSの「真理ちゃんシリーズ」は、そのような番組のシンボルだった。私はその中でも「真理ちゃんとデイト」を良く見ていた記憶がある。アイドルの中でも天地真理ほど、各放送局が競って登場させた歌手はいないだろう。どの時間にテレビをつけても、彼女を見ない時間帯はなかった。その様子は、全盛期の坂本九に匹敵し、それ以降にはもう存在しないと思われる。三人娘の他の歌手、南沙織と小柳ルミ子がこれに及ぶことはなく、郷ひろみや沢田研二のような男性系アイドルも、滅法有名ではあったが、そこまでテレビの寵児とまでは行かない。天地真理こそ1970年代を駆け抜けた満面笑顔の大スターだった。

彼女は「恋は水色」でデビューし、瞬く間にヒット作がこれに続いた。「ひとりじゃないの」「ふたりの日曜日」「恋する夏の日」などである。私はその中でも一番印象に残っているのが「虹をわたって」である。この曲は1972年にリリースされた4枚目のシングルで、3曲連続でオリコン1位を獲得したことでもわかるように、この年の代表的なヒット曲となり、翌年の選抜高校野球大会の入場行進曲に選ばれた。この1973年頃が天地真理の短すぎる絶頂期だったと思う。それ以降にも新しい曲は発売され、コンサートも活況を呈するが「思い出のセレナーデ」以降は翳りが見える。

とにかく天地真理の屈託のない曲と朗らかな歌唱は、高度成長が続く我が国の、楽天的で自信に満ちた喜びを感じる。楽曲の中にはメランコリックな曲も多いが、それがちっとも深刻にはならず、むしろ幸福感を感じるようで、この時代の雰囲気を良く表している。だが、実際にはベトナム戦争がひどくなってゆくこの頃、社会のひずみも増していくのと同様に、彼女自身もまた少々無理をしていたようだ。1974年を最後に紅白の舞台からは遠ざかり、1977年には体調不良で芸能活動を休止。以後、今日に至るまでマスメディアの話題にのぼることはなくなった。昭和アイドル歌謡の絶頂期を駆け抜けた表の顔は、彗星の如く登場し、虹のように消えて行った。

2021年11月6日土曜日

思い出のうた(1)「帰ってきたウルトラマン」主題歌(作詞:東京一、作曲:すぎやまこういち)

いまどき珍しいことに、私はゲームというのをほとんどしたことがない。昨今のスマホに代表されるネットゲームはおろか、家庭に初めて登場したコンピュータゲームがまだ「テレビゲーム」と呼ばれていた時代から、私はゲームを楽しめないでいる。理由はよくわからないが、人間が作り出した世界よりは、社会や自然の方がより複雑で面白いからだ、と答えることにしている。にもかかわらず私は情報科学、いわばコンピュータ科学を専攻する学生になった。

学生の頃、叔母に会いに行ったときゲーム「ドラゴンクエスト」の音楽が、耳から離れないと言われた。叔母も特にゲームに興じるような人ではない。それなのに、なぜか叔母は私にそう言った。私もなぜか「ドラゴンクエスト」の音楽のさわりを聞いて少し知っていたから、叔母に「この音楽はすぎやまこういちが作曲したのだ」と答えた。

それまでのコンピュータが発する音は、いわゆるビープ音の類、つまり必要があって何かを(だいたい不吉なことが多い)知らせるためのもので、音階で言えばAの音、しかも正弦波である。だがこの頃からコンピュータは、単なる事務機から娯楽の分野へと領域を広げ、アップル社のマッキントッシュなどは、起動時に鳴る和音で利用者をあっと楽しませるような「遊び心」がふんだんに搭載されていた。コンピュータゲームにも音楽が必要だとすぎやまは考えた。そこで耳に心地よい音楽の作曲を思い立ったのである。

叔母は団塊の世代である。彼女は「亜麻色の髪の乙女」や「学生街の喫茶店」のような歌謡曲が、すぎやまの作曲であることを知っており、なるほどそうなんだ、と大いに頷いたのを記憶している。確かにすぎやまの音楽は、いつまでも聞いていたくなるような音楽、たとえばイージー・リスニングなどと呼ばれた一種のポップス・オーケストラによるムード音楽(FM番組「ジェットストリーム」で聞ける音楽である)のようなものとよく似ているだろう。すぎやまが後に編曲し、自らが指揮して演奏した交響組曲などを聞いてみると、そのような感じがよくわかる。人類が音楽を様々な局面で使用するようになってから1世紀。映画やテレビ番組、それにデパートや広告などで使用される音楽の種類が、またひとつ増えた。それがゲーム音楽である。

だが私がここに書こうとしているのは、彼の代表作であるゲーム音楽の類のことではない。私が生まれて初めて聞いた音楽(少なくとも記憶する限りにおいて、自ら意識して聞いた音楽で、その曲名や旋律が明確なもの)は、当時大流行りしていたテレビ番組「ウルトラマン」シリーズの最新作「帰ってきたウルトラマン」の主題歌だった。当時幼稚園児だった私に、祖母が欲しいものを買ってやろうと言ってくれた。私は祖母と阪急北千里駅にあった小さなレコード屋に行き、一枚のドーナツ盤レコードを買って欲しいと言った。確か500円くらいだったと思う。バスの初乗りが30円の時代。1972年頃ではないかと思う。そのレコードに収録されていた「帰ってきたウルトラマン」の主題歌を作曲したのが「すぎやまこういち」だったことを覚えているのは、その名前がひらがなで書かれており、幼稚園児の私でも読めたからであろう。

そのすぎやまこういちが、先日亡くなった。もっとも私は彼の晩年の、特に国家主義的な政治活動に賛同できなかったし、ゲーム音楽に興味もなく、従って彼の作品を良く知っているわけでもない。だがこの「帰ってきたウルトラマン」の主題歌だけは、私の心に残る「最初の音楽」、つまりは音楽体験の原点なのである。そしてその主題歌は、今でも口ずさむことができるほど歌詞もメロディーも頭から離れたことがない。ウルトラマン・シリーズは円谷プロダクションが経営危機に陥った後も延々と続いているようだが、主題歌に関する限り「帰ってきたウルトラマン」を上回る作品はないのではないかと、勝手に思っている。

Wikipediaによると「帰ってきたウルトラマン」は1971年から1972年にかけて夜7時から放映されている。おそらく私は週1回、この放映を欠かさず見ていたであろう。またそれ以前のウルトラマン作品は、毎日夕方5時台に再放送されており、私は友人たちとそれを見るのが日課だった。このことからもわかるように、私は「ウルトラマン世代」の最後の部類に入ると思っている。それ以降のアニメや特撮ものは、私の世代から少し外れている。仮面ライダーしかり、マジンガーゼットしかり。そういうわけで、私の幼少期の音楽を代表するのは、すぎやまこういちの作曲した「帰ってきたウルトラマン」の主題歌なのである。

すぎやまこういちの訃報に接してから、急に数多くの追悼ビデオが流され、そのほとんどが「ドラゴンクエスト」である。関係の深かった都響は、10月の定期演奏会の冒頭で大野和士が「ドラゴンクエストⅡ」から「レクイエム」を演奏したようだが、「帰ってきたウルトラマン」の主題歌については、ほとんどどこにも掲載されていないようだ。かねてから私は、自分の幼少期からの音楽体験(つまりは好きな流行歌)のいくつかについてこのブログに書いてみたいと思っていたから、丁度いい機会が訪れたと思い、とうとうこの文章を書くことに決めた。

「帰ってきたウルトラマン」の主題歌は、東京一(あずま・きょういち)という名前の円谷プロダクションの社長が作詞し、主人公を演じた団次郎(だん・じろう)とみすず児童合唱団が歌っている。「ウルトラマン」全盛期を思わせ、高度成長まっしぐらの明るい音楽である。私の通っていたカトリック系幼稚園でも「ウルトラマンごっこ」が流行しており、男の子ならだれもが「スペシウム光線」などの技を知っており、3分経つとエネルギーが急速に失われるシーンを真似ることができた。

「ウルトラマン」の時代、一家に一台だったテレビは家族全員で見るものだった。同じ勧善懲悪ものでも「ウルトラマン」の前と後では、その意味内容が完全に変わってしまったと主張するのは社会学者の宮台真司である。「ウルトラマン」のストーリーには簡単には理解しにくいテーマを含んでいる。例えば怪獣(悪者)にも一抹の善意があって、ウルトラマンもそれを認めようとする立場があったりするのである。それを大人がお茶の間で、子どもに解いて聞かせることを前提にしていたからだ、と彼は言う。しかしそれ以降の時代になると、テレビは家族全員で見るものではなくなってゆく。自然、ストーリーは単純化され、誰が見てもわかる価値観を提示しないといけなくなるのだ。善は善、悪は悪と。この転換期に始まる日本社会の衰退は、いわば高度成長の絶頂期を境とした「坂の上」からのなだらかな下り坂になって今日まで続いている。

2020年9月25日金曜日

ファド名曲集(アマリア・ロドリゲス)

ポルトガルの首都リスボンは、函館に似ている。海に近くて料理が美味く、坂道を古い市電が走り、ひと時代前のノスタルジーに溢れている。かつて函館を舞台にしたモノクロ映画を見たことがあるが、そのタイトルは「とどかずの町で」というもので、音楽に使われている作品の中にポルトガルを題材にしたものが混じていたように記憶している。ただ北海道生まれの妻に言わせるとリスボンは、室蘭なのだそうだ。

リスボンは暗い事情のある男女が駆け落ちする街にピッタリの風情がある。リスボンを舞台にした映画「過去を持つ愛情」は、パリを逃れてやってきた男女が、南米行きの船を待つ間の恋を描いたフランス映画である。私はかつて衛星放送で放映されたのを覚えている。最後のシーンが印象に残った。この作品で歌われたのが「暗いはしけ」という歌である。アルファマ地区と呼ばれるリスボンの下町は、市電がやっと通れるような狭い路地を縫うように走り、庶民的な生活の匂いがただよってくるところでる。小高い丘からはテージョ川河口が見える。アズレージョと呼ばれる青いタイルが映える。そんな街の夜の居酒屋で、地元の女性歌手はあまりに情に満ちたファド「暗いはしけ」を歌う。この映画は彼女だけでなく、リスボンの街そのものを有名にしたと言って良い。

話は変わるが、大阪のキタにかつて「ワルツ堂」という、クラシック通には有名なレコード屋があった。当時大学生だった私はある日たまたまこの店に入り、CDやレコードを物色していると突然、独特の弦楽器を伴う哀愁を帯びた歌声が聞こえてきた。それは叫ぶような歌声で、時に音程を外しかけるようなサビを連発していた。このレコード屋には名物の店主がいて、そんな評判の演奏を聞かせては客と対話する。そしてある客がついに尋ねた。「これ、何の歌ですの?」。すると店長は一枚のCDを取り出し、「はい、これ。なかなかいいですやろ」。話はそれから数年前に遡る。

1987年に初めてヨーロッパを旅行した私が、どうしてまたリスボンくんだりにまで足を運ぶことにしたかは、もしかするとこのファドの魅力によるのかも知れない。といってもまだインターネットもない時代、遠いヨーロッパの歌謡曲など知る術もない。ファドという、とてもエキゾチックな音楽がある、ということしかわからない。そこで私がリスボンの街を友人と別れてひとり歩き、エデュアルド7世公園にほど近い、当時としては最新で唯一の高層ビルの中にレコード屋を見つけた。私はファドのディスクを買ってみようと思い、入ってみた。

ところが当時、CDはまだ発売され始めたばかりの頃で、ポルトガルではまだあまり出回っていなかった。「ファドを聞いてみたい」という私のリクエストに、店員は棚の中から2種類のカセットテープを取り出した。一枚は最新の男性歌手によるもので、もう一つはアマリア・ロドリゲスのライブ。男声のファドというのもめずらしいが、コインブラを中心に歌われている少し女々しい歌は、女声によるファドとはまた違う趣きがあった。私はそれらを買って日本に持ち帰り、「涙」「憂い」「懐かしのリスボン」といった名曲を聞いていった。もちろん「暗いはしけ」も。そしてヨーロッパ旅行から帰国して何年かたったある日、大阪の「ワルツ堂」で耳にしたのが、そのアマリア・ロドリゲスの、もっと明瞭に録音された、アナログ録音の香りが彷彿とするCDだったのである。

私はこのCDを衝動的に買った。そして調べて見ると、アマリア・ロドリゲスはまだ健在の現役歌手であり、たまに来日公演を行うことがあるそうだった。ポルトガル語がわからない私は歌詞カードを見ながら、まるで演歌のようなその台詞に胸が締め付けられるような思いがした。リスボンの抜けるような青空とは対照的に、何と心は哀しいのだろう。例えば「涙」の歌詞…

涙でいっぱいになって 涙でいっぱいになって
わたしは横たわる(中略)
もし わたしが死んだなら
あなたがわたしに 涙を流してくれるのだとわかったら
ひとしずくの涙 あなたのひとしずくの涙のために
どれほどうれしく 私は殺してもらおうとするだろう

郷愁、憧憬、思慕、切なさといった、どこか日本の心を思わせるような意味を持つ「サウダーデ」という言葉は、ポルトガルを語る時、避けられないものである。そのポルトガルと我が国は、戦国時代から縁が深い。我が国に初めて西洋文明をもたらしたのは、大航海時代のポルトガルだった。ポルトガル旅行のあと、長崎や澳門、あるいはマラッカといったポルトガルゆかりの地を訪ねることが、私の旅の一つのテーマとなった。そしてあの美味しいワインともに鰯や干し鱈などを食するポルトガル料理もまた、我が家では時折チャレンジするものとなっている。

ファドはその後、ポルトガルが経済成長をして有名な観光国となり、東京にもポルトガル料理のレストランが誕生した現在では、気軽に聞くことができる。もちろん音楽はダウンロードやストリーミング配信によって、簡単に手に入る。「ワルツ堂」をはじめとする数多くの個性的なレコード屋が姿を消し、音楽との出会いがかつてのような偶然と感動に満ちたものではなくなった。手に入りにくいからこそ思いが募るという当たり前だった経験は、現代に入ってもはや消え去ってしまったのだろうか。

リスボンで買った2つのカセットテープは長らく私の宝物だったが、もはやデッキが壊れ聞くことができない。かわりに私はMP3形式でデジタル化し、ハードディスクに入れてある。それもあと何回聞くことになるかは、実のところわからない…。


【収録曲】
1. 私の憂い
2. 涙
3. 月の花
4. 暗いはしけ
5. ポルトガルの四月(コインブラ)
6. 懐かしのリスボン
7. 愛しきマリアの追憶(マリキーニャス)
8. かもめ
9. わが心のアランフェス
10. バラはあこがれ
11. 孤独
12. にがいアーモンド
13. マリア・リスボア
14. どんな声で
15. 洗濯
16. 私は海へ
17. 叫び
18. 川辺の人
19. アイ・モーラリア
20. このおかしな人生

2018年12月9日日曜日

Pops:「ひとたびの愛」(ハイメ・トーレス)

南米アンデスの民族音楽(フォルクローレ)である「コンドルは飛んで行く」は、素朴な美しい曲である。もともと歌詞はなかったが、アメリカの歌手サイモンとガーファンクルは英語の歌詞を付けてこの曲を歌い、世界中でヒットした。それからしばらく経って、私が小学校2年生の時に、音楽を専攻したまだ若い担任のS先生が、私たちにこの曲をソプラノ・レコーダー吹かせようとした。先生によれば、ケーナと呼ばれる南米の笛の音が、リコーダーの音に良く似ており、それゆえにこの曲をみんなで合奏したら、さぞ素敵なことだろう、というのであった。

先生は楽譜を編曲、手写ししてプリントし(まだプリンターのない時代である)、そこに音階を書き込むことから練習が始まった。「シミ#レミファソファソラシ・・」と今でもよく覚えている最初の小節の、その弱起で始まる冒頭の音は、実際には低い「シ」である。ところがこの音はソプラノ・リコーダーでは出す事ができない。先生はこの音を一オクターブ高い「シ」を使って演奏するように指示した。そのような事情を知らなかった私は、ある日サイモンとガーファンクルの歌う「コンドルは飛んで行く」のドーナツ盤を聞いた時、少し戸惑ったことを覚えている。どうりで変な曲だと思っていた謎も、この時解けた。

学芸会が来るまでの間、毎日毎日、少しづつ演奏を進めて行く。S先生は、まだ音楽大学を出たばかりの新任教師だったせいもあって、その指導には熱が籠っていた。高い音が連続して続く中間部を綺麗に合わせることが要求された。当日になってもう一つの出し物の演劇が終わるや否や、舞台に全員が一斉に整列して、先生の指揮に合わせて合奏した。今から思うと奇妙な学芸会だが、手作りの良さはあったと思う。中学生になってアルト・リコーダーを習うようになった時、この曲の冒頭を低い「シ」を用いて吹いてみた。友人に太鼓を叩かせて。

それからさらに月日が経って、南米のフォルクローレはいつの頃からか、世界中の駅や広場で、週末になるとペルーあたりから来たバンドがこの曲を演奏するのを見かけるようになった。我が国でも同じで、先日もJR田町駅前でやっていたし、かつてミュンヘンやニューヨークでも同じ光景を見た。そのたびに私は、小学生の頃を思い出すのだが、確かに彼らがはるか南米より出稼ぎに来るまでは、ケーナと言う笛と、チャランゴというギターに似た弦楽器など実際に聞くことなどできなかった。

エクアドルに「アンデスの声」という放送局がかつてあり、日本語による短波放送がブラジルと日本向けに毎日行われていた。中学生になった私はついにこの放送を聞くことに成功し、アナウンサーの尾崎さんに手紙を書いたりしたのだが、その放送でしばしば流れていたのが「コンドルは飛んで行く」だった。「南米赤道の国・エクアドル」から直接届く「コンドルは飛んで行く」は、雑音と伝搬障害の中で聞くひどい音質にもかかわらず、独特の雰囲気を持っていた。

「コンドルは飛んで行く」を含むフォルクローレのCDを、大学生になって私は買った。ハイメ・トーレスというバンドのCDだった。「レコード芸術」というクラシック専門雑誌にも、わずかなポピュラー音楽のコーナーがあって、その中で紹介されていたのだ。南米へはとうとう24歳の春に旅行することになる。小学生の時に触れた「コンドルは飛んで行く」、それに続く旅行記「南アメリカ人間旅行」との出会い、「アンデスの声」、そして卒業旅行。これらがつながって、このCDを聞きながら、当時のことを思い出す。「アンデスの声」の尾崎さんに会ったのは数年前で、その時にもこの話をした。

今日は山形新幹線に揺られながら、手持ちの音楽プレイヤーで聞いている。冬の低い雲が空を覆っている。山々は雪をかぶる前の、枯れた山肌を露出している。時折ピアノやギターも混じる都会的なムードも持っているものの、原曲の素朴さを失わないように注意が払われている。

ハイメ・トーレスは、ボリビアからの移民の子としてアルゼンチンに生まれた、チャランゴを得意とするミュージシャンである。だからアンデスの純朴さと、タンゴを思わせる都会性が程よくブレンドされ、独特の南米音楽世界となっているのだろう。

2月にも訪れた蔵王を右手に眺めながら、ゆっくりと走るローカル新幹線に、アンデス山脈の殺風景な風景を重ね合わせる。木の葉をすっかり落とした裸の梢の向こうに、最上川の水面がちらっと見えた。

【収録曲】
1. 巡礼
2. 風とケーナのロマンス
3. コンドルは飛んで行く
4. 楽しいカーニバル
5. さあ、娘さん
6. チシ
7. ヘネチェル
8. 小さな泉
8. ひとたびの愛
10. かわいい女の子
11. オー、コチャバンバ
12. わが愛のミロンガ
13. 昔のように、おれのお父さん
14. ラ・ボリビアーナ
15. バイラ・チョリータ
16. いつの日かまた
17. あなたが帰る日

2018年7月25日水曜日

映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(2017年、イギリス)

都内にある私のマンションの玄関には一枚の白黒写真が飾ってある。花束を持った一組の歌手が盛大な拍手に応えてアンコールを歌っているシーン。この歌手の名はオマーラ・ポルトゥオンドとイブラヒム・フェレール。当時もう70代の老人である。だが彼らこそ90年代になって、キューバの貧しい下町から「発見」され、鮮烈なデビューを果たしたバンド、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのメンバーだ。

確か2000年頃だった。私は妻とともに渋谷の狭い映画館の最前列で、彼らのツアーを追った映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を見た。直前に飲んだ大量のワインの影響で、私は映画の間中、心地よい睡魔に襲われ、ほとんど夢見心地でソンと呼ばれるキューバの「伝統的」ポピュラー音楽と、その知られざるハバナの風景を楽しんだ。荒波が波しぶきを上げて旧市街の道路を洗い、そのそばを大型の古い自動車が走る。子供たちが戯れ、老人たちが葉巻をくゆらせる。夕焼けが空を赤く染めている。心地よい音楽が、丸でカリブ海から吹き付ける風のように、私の体を覆っていた。

あまり良く覚えていないその映像は、後日発売されたDVDで何度も見た。全体を通して流れる黄金時代のキューバ音楽は、サルサやメレンゲとして知られる軽快な今のカリブ音楽の、いわば原型のようなものである。私は彼らがワールドツアーで来日した時も、有楽町の東京国際フォーラムで行われたライヴに出かけたのは言うまでもない。その時に行われた抽選会で、何と一等を得たのである。その時の景品が、いま私の家にあるサイン入りの白黒写真なのである。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のメンバーは、みなキューバ革命以前から活躍していた名歌手たちである。その彼らが激動の時代を生き抜き、ギターリスト、ライ・クーダによって知られるところとなる。ドイツ生まれの映画監督ヴィム・ヴェンダースは彼らのアムステルダムでの公演を皮切りに、ニューヨーク・カーネギーホールでのコンサートまでの模様を、キューバの風景を交えながら追いかける。だが彼らに残された時間は少なく、その後の10年間に多くのメンバーが世を去った。もちろん高齢だからである。

その続編とも言える本映画は、ヒット後の彼らの活動を追うとともに、革命前後のキューバにも焦点を当ててドキュメンタリー風に構成していく。 最初の映画ほどの完成度には及ばないが、この映画に魅せられてコンサートまで足を運んだ者としては見逃すわけにはいかない。先週末の日経新聞に紹介され、東京での公開が今週中にも終わると聞いて慌てて出かけた次第である。

この映画を見て思うことのひとつは、革命、すなわち社会主義がこのラテンの国にもたらしたものとは何だったのだろうということだ。 長く資本主義社会から隔絶され、ミュージシャンと言えども生きる意欲を失い、靴磨きや葉巻工場の労働者として辛うじて生計を立てていた、というのはいわば負の側面である。だが革命前のキューバはアメリカ帝国主義により搾取され、それ以前から根強く続く黒人差別と奴隷の歴史から逃れることはできなかった。

ミュージシャンの口から語られる、そういった革命前後のキューバの実情は、見る者の心をより複雑にさせる。だが社会がどう変わろうと、音楽は常にキューバにあり、その精神は絶えず生き続けてきたということは事実だろう。音楽がキューバを救った、などと楽天的なことを言うのではない。オモーラ・ポルトゥオンドによって、失った愛の哀しみが歌われる時、そこには万感の思いが伝わってくる。その歌を彼女は、2003年に亡くなったイブラヒム・フェレールに捧げるのだ(最後のシーン)。

最初の映画から20年近くが経過し、私の住む家も三鷹の賃貸から都心のマンションに変わった。その間、私はずっと白黒写真を見続け、生死を彷徨う闘病の長い日々を過ごした。長い時間がもたらしたもの、その前の時代への憧憬。私の過ごしたこの20年は、人生を変えた20年でもある。その長さを思いながら、この映画を見た。

私はまだキューバに行ったことがない。今後、行けるかどうかはわからいし、行けたとしてももうあの、まるで半世紀以上もタイムスリップしたようなハバナの街に出会えるかどうかはわからない。でも可能なら、1時間でいいからハバナの旧市街を歩いてみたい。そこここから聞こえてくる人々の話し声や車の喧騒に混じって、あの哀愁に満ちたソンのメロディーが、きっと聞こえてくるはずだから。

2015年2月5日木曜日

J-POP:「Tree」(SEKAI NO OWARI)

子供が聞く音楽を聞いているうち、いつのまにか自分も好きになるというのはよくあることで、私の場合、小学生の長男が毎日のように聞くSEKAI NO OWARIが今は大変気に入っている。けれどもこのようなことは私にとって極めてまれな、もしかしたら人生で初めてのJ-POP(この言い方がなされ始めた90年代より以前を含めて)経験ではないかと思う。もっぱらクラシック音楽にしか触れないこのブログで、何を突然言い出すのかと奇異に思うのは本人でもそうなのであって、ゆえに音楽と言うのは面白いというか楽しい。

SEKAI NO OWARIは4人組のロックグループで、ボーカルのFukaseやギターのNakajinを中心に幼馴染みの若者たちで構成されたバンドである(ということは最近知った)。実は数年前から大変人気があったのだが、確かに私はANAの機内かどこかでいくつかの曲を聞いたことがあるように思った。そしてこの1月、待望の新アルバム「Tree」が発売され、その限定盤にはDVDも付いているということをたまたま知った私は、息子の誕生日のお祝いにこれを買い求めた。この最新アルバムは、嬉しいことにそれまでの主要な曲をも収録しており、DVDも合わせると「セカオワ・ワールド」がすべて体験できるという内容である。

このバンドの魅力について、とうとうここに書くことに決めたのだが、その理由はこのグループを聞くことが、他の人気グループや歌手たちを聞くときによく感じるような、ある種の軽薄な情緒、それゆえの気恥ずかしさを感じるようなことがあまりない、と思ったからである。日本の流行音楽がこれほど力を持って心の中に響いてくることは、私の場合、ほとんどなかったことだ。いや過去にあったことはあったのかも知れないが、それをはるかに凌駕している、というべきか。それは一体どういうことか。

それについて書く前に断っておく必要があるのは、私はこのような我が国のポップ・ミュージックについて語るにはあまりに何も知らなさすぎる、という事実である。つまり私はベートーヴェンの全交響曲についてはほとんどそのメロディーを口ずさむことができるが、流行歌となると相当な有名曲でも歌えない・・・いや知らないということである。だから以下の文章があまりに的外れであったとしても、批判されることにすら値しないと言っておこうと思う。そして、だからこそ感じたままに書けるということも。

SEKAI NO OWARIが子供にも人気がある理由はおそらく、そのメロディーの親しみやすさではないかと思う。コンピュータを駆使した音楽は、丸でおもちゃ箱をひっくり返したように多彩で、クラシックを聞いてきた私にも新鮮に響く。例えばアップテンポのリズムに合わせ、とても印象的な和声の進行(例えば「スターライト・パレード」を聞くといい)、ハープシコードやオルガンの通奏低音を思わせる印象的な挿入部分(「スノーマジックファンタジー」)、阿波踊りのお囃子(「ムーンライトステーション」)などがあるかと思えば、東洋的や旋律やバンジョーまでもが顔を出し(「Dragon Night」)、鼓笛隊かバンダを思わせる行進曲(「炎と森のカーニバル」など多数)、ユーロビートかミニマル音楽のような鮮烈なメロディー(「Death Disco」)といった具合である。歌声はしばしばボイス・チェンジャーで幻聴の如く装飾され、DJ Love(奇妙なマスクをかぶっている)の効果音が入るかと思いきや、Saoriが弾く鍵盤が天空を行くが如く駆け巡る。だが、それだけではこれほどにまで人気を持ちうるまでに至った現象を十分に説明できない。

おそらくもう一つの大きな理由は、一見不可解な歌詞が醸し出す不思議な雰囲気にあるように思う。ほとんどの曲はFukaseによって作詞されているが、彼の歌う世界には「眠れない」「夢」「魔法(あるいは悪魔や魔女)」「夜空」「星」などといった言葉が散りばめられている。それらの合間に「戦争と平和(愛)」「自由と束縛(不自由)」「正義と悪」あるいは「太陽と月」といった二項対立をめぐる葛藤が鋭く描かれる。主人公はそのはざまで悩み、迷い、考える・・・、自由を得ることによって失われるもの、信じていることの危うさ・・・その先でこれらの対立は、もしかしたら共通の側面を持っていることを発見するのだろうか。世界の終わりのような世界を見た後で彼は、ある時は疲れ果て、ある時は愛情に芽生え、またある時は自信を持って歩きだす・・・終わりはまた始まりでもあるからだ。それ以外の意味はいっそ不可解なままの方がいい・・・そういうやり方があったのか、と思うに違いない。

夜の町を彷徨する「僕たち」が「眠れない夢」の中で出会う「ファンタジー」は、彼自身の過去の経験を体現している。最初は空想的でおとぎ話のような歌だ、などと思いながら聞き続けてきた聞き手は、「銀河街の悪夢」に至ってとうとう、行き場のないような現実に直面する。薬を飲むたびに体が壊れていくような闘病のつらさが切々と歌われる時、それぞれの聞き手が最もつらかった過去の日々を思い出すとしたら、おそらくそれこそがこのバンドの真髄とでもいうべき部分だろう。絶望も消えるが希望も消える、と彼は歌うのだ。寝ようとしても朝が来て眠れず、起きようとしても日が暮れるまで起きられない・・・それと同じようなつらい日々を私も味わった。だからここのファンタジックな空間は、病的でもあり同時にリアルでもある。現実逃避と片づけてしまうにはとてもシリアスであり、「夢」から覚めると結局そこにしか行けないという終末の世界・・・つまり(自意識としての)「世界の終わり」から出発しなければ仕方がないという開き直った意識である。

「RPG」はどこか狂気じみてもいるが、前向きでとても明るい歌だ。何か吹っ切れたような気分にさせてくれる屈託のなさもまた、彼らの音楽の特徴である。奇抜な衣装をまとい、丸で中高生が作るのような歌詞が高い声で歌われていたとしても、パワフルでストレートな音楽が、聞き手の心には虚飾的なバリアを飛び越えて響く。押しつぶされそうな弱さを見逃さない感受性と、隅々に至るまで自己の世界を主張する底力を合わせ持っているという点で、この人たちの歌はちょっと突き抜けたようなところがある、と感じた。


【収録曲】
1. the bell
2. 炎と森のカーニバル
3. スノーマジックファンタジー
4. ムーンライトステーション
5. アースチャイルド
6. マーメイドラプソディー
7. ピエロ
8. 銀河街の悪夢
9. Death Disco
10. broken bone
11. PLAY
12. RPG
13. Dragon Night

(限定盤DVD)
1. スターライトパレード
2. 眠り姫
3. Love the warz
4. 虹色の戦争
5. ファンタジー
6. Never Ending World
7. スノーマジックファンタジー
8. 生物学的幻想曲
9. Death Disco
10. 青い太陽
11. ピエロ
12. 銀河街の悪夢
13. 幻の命
14. yume
15. RPG
16. 深い森
17. 炎と森のカーニバル
18. Fight Music
19. インスタントラジオ

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...