2013年5月29日水曜日

シューベルト:交響曲第6番ハ長調D589(ジョス・ファン・インマゼール指揮アニマ・エテルナ))

冒頭はベートーヴェンを思わせるようなティンパニ付きの和音も、すぐに柔らかいシューベルトの歌が聞こえる。第1楽章は堂々とした音楽で、第2楽章はいつものように優しく美しい。だがその第2楽章にも若々しいティンパニの連打を伴うメロディーがある。

このティンパニの荒々しい響きは、第3楽章でも顕著である。スケルツォとしての性格が明確な部分は、やはりベートーヴェンを思い起こさせるが、もとをただせばハイドンに起源があるようにも思う。しかしモーツァルトにはなく、後世の作曲家としてはシューマンやブルックナーへの流れも感じ取れる。

この曲は第8番「グレート」に対して「小ハ長調」と呼ばれる時がある。シューベルトの初期の交響曲は、第1番からこの第6番までを指す。ドイチュ番号で言えば、D82からD589ということになる。1000曲近いシューベルトの作品のうち、前半部分である。わずか32年足らずのシューベルトの生涯に当てはめれば、16歳から21歳ということになる。

一方、我々が普段良く聞くシューベルトの有名曲は、いくつかの小さな歌曲を別にすればD600以降がほとんどで、その中で初期に位置する弦楽5重奏曲「ます」がD667、「未完成」でもD729、「美しき水車屋の娘」になると、もうD795である。

このように第6番までの交響曲は、若きシューベルトの作品に過ぎないが、聞かずにおくには勿体無いくらい素晴らしい。その中でこの第6番はとりわけ異彩を放っている。第4楽章の、まるで嬉遊曲とでも言いたくなるような軽快な曲は行進曲風の軽やかなリズムとメロディーで、一度聞いたら忘れられない。 なんという事だろう、主題メロディーの転調や再現などが繰り返されると、徐々に深みを感じるようになる。陳腐な例えだが、晴れた空の下を走る列車が、雲の陰に隠れてもなお快走するような感じである。

何度も繰り返し聞いていくうちに、こっちの体が馴染んできて、それに合わせて楽しんでいる自分を発見する。田園地帯を行く列車の如き愉悦感のお陰で、長く感じられないのが不思議である。それはあたかもあのグレート交響曲にも言えることで、「小ハ長調」と呼ぶに相応しい。

インマゼールの指揮する古楽器団体アニマ・エテルナの演奏は、繰り返しを省略しないで新鮮なシューベルト像を明らかにした秀演である。どの曲も素晴らしいと思うが、私はこの第6番の演奏を持っているので、今回繰り返し聞いてみた次第である。

2013年5月25日土曜日

読売日本交響楽団特別演奏会(2013年5月24日、東京芸術劇場)

ユーリ・テミルカーノフを指揮者に迎えて、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」とストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラムを、池袋の東京芸術劇場へ聞きに行った。B席の当日券4000円は妥当な額である。それが手に入った。この日はThe MET Live in HDシリーズの今シーズン最終日でヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ」を見る予定だったが、東劇の開始時刻が18時と早く、仕事が終わったあとでは間に合わない。これに対し、池袋へは私の職場のある新宿から電車で15分程度の距離である。

ユーリ・テミルカーノフというロシア生まれの指揮者は、私にとって長年、思い出に残っていた指揮者であった。かつて一度だけ聞いた演奏会がとても良かったからだ。それは20年近く前の1996年、ニューヨークでのことだった。サンクト・ペテルブルグ・フィルを率いたコンサートがカーネギー・ホールで催され、私はマーラーの交響曲「巨人」を聞いたのだった。その時の演奏はかなり記憶が薄くなったが、とても感動したのを覚えている。このコンサートにはたまたま日本から出張できていた伯父が聞いていて、翌日突然電話をもらった私は、ホテルで会うと何とこのコンサートに出かけていたと聞かされたのだった。

偶然というのは恐ろしいもので、まさかニューヨークでのコンサートに親戚が来ていたということには驚いた。だがその時伯父(は私にクラシック音楽を間接的に教えてくれた人である)は、このコンサートをさほど高く評価しなかった。その理由はわからない。私もただ、あの旧レニングラード・フィルが聞けたことに感動していただけかも知れなかった。

この時からテミルカーノフという指揮者は、私に強烈な印象を残し、いつか機会があればもう一度聞いてみたいと思っていた。テミルカーノフは、かつてムラヴィンスキーが指揮していた旧レニングラード・フィルの指揮者としてそれなりに有名だった割りには、レコード録音は少なく、その活躍も日本にまでは及ぶことは少なかったようだ。だが2000年代に入り時々読売日本交響楽団を指揮している。その関係は、パンフレットによれば極めて良好で、厚い信頼関係にあるという。読売のオーケストラは私もかつてよく聞いていたので、久しぶりに出かけてみることにしたのである。

しかしチャイコフスキーは、私の思い出に残る過去のイメージを再現してはくれなかった。私はテミルカーノフの指揮する音楽を、勝手にもっと歯切れのよい、現代感覚に満ちたものだと思っていた。しかしこの日の演奏は、少なくとも古くからある演奏の域を出ることはなく、従って新鮮味に欠けた。オーケストラは上手く、客席も静かにこのロマンチックな弦の調べに耳を傾けていた。だが、演奏から何か音楽の心のようなものが伝わっては来なかった。演奏にムラがないために、それは一層強調されていたように思う。

続く「春の祭典」は、冒頭からフレーズをたっぷり取った、近年には珍しい遅い演奏だった。それはオーケストラの力量がこの速度でしか発揮できないからなのかはよくわからない。けれども読売日本交響楽団は、ストラヴィンスキーの難曲をほとんど自分達の手中に収めていたと言って良い。オーケストラに関する限り、すべてのセクションの統制された集中力と、管楽器を含めて極めてよく練習された各パートの重なりによって、もう作曲されて100年の年月が経過したかつての「現代音楽」は古典作品になっていた。

テンポを落とした指揮は、私の記憶と経験から敢えて言えば、ドラティの演奏に近い。そしてドラティの演奏を含め、私には音楽的な共感が感じられない。あるいは誤解を恐れずに言えば、ショスタコーヴィチ風とでも言おうか。それでも第1部と第2部を続けて演奏したことにより、第2部の前半の神秘的な雰囲気は十分に伝えられていたし、特に第2の後半においては、手に汗を握るような展開であった。

この演奏会は私にとって不思議なものだった。オーケストラも巧かったし、まったくミスもない。音楽専攻の学生も多い聴衆は、行儀が良くて好意的、音楽も迫力があって呼吸している。改装した東京芸術劇場の音響は、おそらく都内最高であろう。だが何かが足りない。それがよくわからない。指揮者に音楽に対する共感が欠如しているのだろうか。 それとも読売日本交響楽団はいつもこのような演奏だっただろうか。

が、しかし、この演奏会には珍しくアンコールがあった。本演奏会を最後に退団するコンサート・マスターのデヴィッド・ノーラン氏のために花束も届けられ、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から有名な「ワルツ」が演奏されたのだった。この演奏は、実に素晴らしかった。オーケストラががよりリラックスしたなかで、最高の気分でダイナミックな演奏を繰り広げたからだ。日本のオーケストラがこのような音色に輝いた経験は私には初めてだった。そこにはまさにロシアの音があった。

そうか、テミルカーノフという指揮者はとことんロシア風な指揮者だったということか。私がよく聞く中欧やイギリス、あるいは米国の演奏とは少し違う傾向を感じ取るべきだった。最近の古楽器すっきり系、あるいは高速パワフル系の演奏ではない、こってりレトロ系の演奏は、また違うヨーロッパ音楽の側面を見せてくれた。

だとすると、かつてニューヨークで聞いたマーラーは、もしかすると今回のような演奏ではなかったのかも知れない。この時に聞いたサンクト・ペテルブルグ・フィルは、ソ連崩壊直後の低迷期で、随分米国から帰国した人が入団していたようだった。思ったような音色ではなく、むしろアメリカ的な音色のオーケストラであったことを思い出した。指揮者も歳をとったこともあっただろう。今回の読響の演奏は、その時よりも「ロシア的」だったと思うことにした。そのことが私に少し混乱を生じさせたのではないかという結論に、一日が経って達した。

2013年5月20日月曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(2013年5月19日新国立劇場)

去る5月19日に新国立劇場で行なわれた新演出による歌劇「ナブッコ」のプレミア公演について、以下に感想を書こうと思う。当然ながら、どのような舞台、演出だったかを書くことになるので、これから出かけて楽しもうと思っている向きには、その種明かしとなってしまう。そのことを最初に断って置く必要がある。そうというのもこの演出は、グラハム・ヴィックがこの東京での公演のために考えたプロダクションで、他の都市では見られないものだという触れ込みだったからである。

ヴェルディが28歳の時に作曲した3作目の歌劇「ナブッコ」は、旧約聖書の「バビロン捕囚」に基づいた物語である。舞台となるエルサレムやメソポタミアには、砂漠を切り開いて岩を重ねたような神殿があって、そこに暮らす2つの民族の対立を描いている。 当然ながら薄暗く、ゴツゴツとしたセットに大勢の民衆や司祭などが登場する。神殿の階段の上には、神を祀った偶像がそびえ、絶対的な権威を誇る・・・、というのが従来の筋書きである。ところが、実はここは、現代アジアのある都市の、どこにでもあるショッピング・センターだったとしたら?

開幕前に客席に入ったとたん、戸惑った。客席のはずなのに、向こう側にはお店とそこに出入りする人々、エスカレータまでもが見えている。なんで隣の建物が見えているの?と思ったのは私だけではないだろう。幕が開く前の舞台にはすでに人が大勢居て、ブランド物のショッピング・バッグなどを片手に携帯電話を操作したり、新聞を読んだりしている!開幕30分前にはすでにこのような状態で、舞台に向って座るのが何とも奇妙な感じだった。

私の座った座席の後の列には、演出を担当したヴィック氏がいて、サインなどに応じている。そこを通って席につくと、開演前のアナウンスなどが普通に流れ、やがて長身の指揮者、パオロ・カリニャーニが登場した。演出家も指揮者も新国立劇場初登場とのことである。カリニャーニはすでに「ナブッコ」 の各地での演奏で好評だが、日本人には馴染みが薄い。

珍しく歌劇「ナブッコ」には序曲がある。有名な「行け、我が思いよ」のメロディーも登場するこの序曲は、大変に充実した素晴らしいものだ。台本通りならここでオーケストラの演奏に聞き入り、開幕までの十数分を興奮して待つところだが、すでに舞台上では演技が始まっている。これは最近の流行だろう。大勢の買い物客がエスカレータを上下に行き来したり、各テナント(の中には梨をかじったマーク入りのパソコン・ショップもあって、iCarly風!)では店員が掃除や客の相手などをしている。客は並んだり服を広げたりと、音楽に合わせて踊る。

序曲に続いて私の大好きな合唱曲が一気に鳴り響く。新国立劇場の合唱団は、この合唱の多いオペラにうってつけで、私がこの公演を聞きたいと思った理由のひとつがこの合唱団であった。私の持つCDには「祭りで晴れ着がもみくちゃに」と訳されていたが、ここはヘブライ人が歌う「祝祭の聖具は落ちて壊れるがいい」と普通は言う。

ここの合唱で女声が歌うシーンになると、私はヴェルディがこのオペラに込めた乾坤一擲の野心を思わずには居られない。ふたりの娘と妻を相次いで亡くしたヴェルディは、2作目のオペラ「一日だけの王様」も最悪の不評に終わり、もはや作曲を続けることを諦めかけていた・・・という伝記のくだりである。ヘブライ人の祖国への思いは、やがて統一運動を発展させるイタリア人の心にも呼応する、というのがこの作品の一般的な解説だが、さらには一発逆転を狙うヴェルディ自身の気持ちの現われではないか、と思うのだ。

合唱に混じって登場するのはジーンズを履き「この世の終わりは近い」プラカードをクビから下げた司祭のザッカリーア(コンスタンティン・ゴルニー)と、人質のフェネーナ(谷口睦美)だが、しばらくザッカリーアの歌が続く。いずれもカヴァティーナを伴う番号オペラの典型のような進み方で、ベッリーニやドニゼッティの流れを踏襲しているが、その音楽ははちきれんばかりに力強く、カンタービレはほれぼれするような美しさである。

一方本作品ただ一人のテノール、イズマイーレは樋口達哉で、フェネーナとの脇役カップルは日本人同士だが、どうしてこれがなかなか上手い。特にフェネーナは、私がアビガイッレの次に上手いと思った今回の歌手陣であった。

ショッピングセンターに乗りこんで来た連中は、いわばテロリストの集団で、そのボスは国王ナブッコだが、その前に娘のアビガイッレが登場しここを占拠する。ところがサングラスをかけ、成り上がり金持ち風の太ったおばちゃんアビガイッレは、実はイズマイーレに好意を抱くあたりが、何とも奇妙なストーリーではある。

ドラマチックなアビガイッレを歌ったのはメゾ・ソプラノのマリアンネ・コルネッティで、彼女は3月の「アイーダ」でアムネリスを歌っている。彼女の歌声は、低音から高音に行ったり来たり、この難易度の高い役をこなせる数少ない歌手のひとりであろう。アムネリスの時とは違い、登場していきなり低音を轟かせなくてはならない。だが、彼女はグラマーな買い物客に扮して存在感は抜群であった。

第1部の終盤のエネルギーも醒めやらぬうちに、アビガイッレが出生の秘密を知る第2部へと進み、ここで有名なアリア「かつて私も喜びに」と歌う。拍手が鳴り響くと今度は、弦楽四重奏を思わせる静かなメロディーへ。後年ヴェルディが様々な局面で応用した数々の音楽的な試みは、「ナブッコ」でもすでに明らかである。第2幕の終わりの最大の見どころは、雷のシーンである。 ナブッコは自分こそが神だと言う態度に出ると、神の怒りに触れて落雷を受けるのだ。舞台は一瞬暗くなり、電光と雷鳴が轟いた。

この作品では休憩が1回であった。私はスパークリング・ワインで喉を潤し、バルコニーに出て風にあたった。興奮した観客が話し合う声も聞こえた。そう言えばナブッコの事を書いていなかった。今回のナブッコ役は、イタリア人のルチオ・ガッロであった。登場した時には、少し貫禄に欠け、舞台上のどこにいるのかもわかりにくかった。だが、第3部に入ると徐々に存在感を増していった。

ショッピング・センターを占拠したテロリストを率いるナブッコは、落雷の結果、頭がおかしくなってしまった。愛する娘のフェネーナを助けたいあまり、もう一人の娘で奴隷の子でもあるアビガイッレに助けを求める。彼女は今や、ナブッコに謀反を企てた結果、テロリストを率いているのだ。だが、彼女は人質をすべて殺すというのだ。人質の中に、改宗した娘フェネーナがいることを発見する父。ここの父と娘、すなわちナブッコとアビガイッレの二重唱は、この作品最大の見どころである。父と娘の関係を、私はよく知らない。私の子は男の子であり、私にも女兄弟がいないからだ。娘を持つ父親の心境を、今や一人の等身大の人間となったナブッコが歌うあたりは、「リゴレット」にも登場する興味のつきないテーマだが、よく考えてみればこのオペラには、愛の二重唱にも乏しく、女性受けするストーリーではないのかも知れない。そのことが、このオペラがあまり上演されない原因のひとつではないか、などと考えた。

それにしても絶対神をめぐる民族の対立との中で揺れる葛藤の物語は、もともとわかりにくい側面があることに加え、ショッピング・センターで歌われることによって、さらに混乱させてしまう結果となったのではないか。どのような意図でこのような読み替え演出となったか、その成果があったかどうか。だが、そのようなことは音楽評論家に任せよう。この歌劇と演出の主題を知ることは重要なことだが、生の上演を見ることの唯一の目的ではない。お金を払い、勇んで出掛けた身としては、むしろこのような野心的な演出に接することが出来て、それだけで大変嬉しい。

第3部の終盤で歌われるこのオペラの白眉「行け、我が思いよ、金色の翼に乗って」は、一呼吸おいて歌われるものと思っていた。だが指揮者はほとんと続けてこの合唱に入った。階段やエスカレータに並んだ合唱団は、蛍光灯で薄暗い中でこの歌をうたう。やや不気味で、照明効果に疑問が残る。いっそもっと暗いところで(非常灯だけを灯したような中で)歌っても良かったのではないだろうか。合唱は上手く、最後は静寂の中に消え入ったが、アンコールされることはなかったのは当然と言うべきか。だが私の隣にいた初老の紳士は、序曲の時から眠りに入り、次第に落ち着きがなくなって、ここの合唱では息が荒くなるという許すべからざる出来事が生じていた。この人はとうとう最後まで、一切拍手をするということがなかった。ナブッコを襲った雷は、この人にこそ落ちるべきであった。

キューピーの頭が崩れ落ちる偶像ということになっていて、ここまでくると皮肉というものだろう。私の小学生の息子は、会場2階にあるキッズ・ルームで過ごしたが、ここには舞台のモニターがあった。彼は私が迎えに行くなり、なぜキューピーが出てきたのかと質問した。「オペラでは時々おかしなことが起こるのだ」と、言っておいた。

ナブッコは神を捨て改宗してでもフェネーナを助けようとする。いよいよ処刑が近づくとき、彼はユダの神に祈り、そのことによって救われる。アビガイッレも懺悔の歌を歌いながら死に絶える。 幕切れでアカペラとなって歌手と合唱団が歌う天国的なメロディーの部分で、大きな身振りをするカリニャーニの集中した指揮ぶりも大変素晴らしかったが、全体を通して東フィルもそのような指揮に十分答えていた。このオーケストラがこれほど上手いと感じたことはなかった。団員はこの奇抜な公演に接することが嬉しかったのだろうと思った。とにかく力が入っていた。

カーテンコールでひときわ大きく長い拍手を受けたのはコルネッティで、次が合唱団。個人的には第4部でも綺麗な歌声聞かせたを谷口睦美が気に入った。演出家のヴィックも舞台に登場したが、1階で聞く限りブーイングもなく、かといって盛大な拍手というわけでもなかった。日本人の聴衆は、このような現代的な読み替え演出にどう応じていいのか、やや混乱していたのかも知れない。それでも好意的に拍手を送るのは、日本人の奥ゆかしさだろうか。

とても変わっていたが、最高にエキサイティングな時間があっという間に過ぎ去った。機会とお金があれば舞台をもう一度見てみたいと思う。そしてこれはずっと心に残るであろう。 そう言えば開演前、会場前の広場で税金の無駄遣いを訴えるデモがあった。だがオペラとはもともと採算度外視の代物である。税金が無駄に使われている、と言われても、誠にその通りであると言うほかないではないか。



2013年5月13日月曜日

NHK交響楽団第1754回定期公演(2013年5月12日NHKホール)

最初の曲、エルガーの序曲「フロアサール」作品19が鳴り響いた途端、私は今回のN響の音に釘付けとなった。非常にバランスが良く、綺麗な音色は、3階後方の自由席でも明確に確認できた。自由席に座っていながら、これほどにまで美しい響きに出会うのは滅多にないことだ。いつものN響の何かくすんだ濁ったような音が、今回はしない。ろ過された水のように澄んだ音は、イギリス音楽に必要不可欠だ。今回の定期公演のために、このオーケストラはシェイプ・アップして端麗となった。

尾高忠明の指揮するイギリス音楽を、私はかねてから聞きたいと考えていた。そのチャンスはいくらでもあったし、これからもあるだろうと思う。けれども私は尾高自身がそうであったように、イギリス音楽を「食わず嫌い」していた。正確に言えば、楽しめないでいた。尾高はNHKのテレビ番組に古くから出演し、東京フィルとの演奏会は非常に多い。その尾高がイギリス音楽のスペシャリストとして世界的に注目され始めたのは、90年代になった頃だったように思う。BBCのウェールズのオーケストラを指揮したエルガーなどのCDが随分と評判になったからだ。

だが私にとって尾高の音楽はこれまで身近にはなかった。NHK交響楽団の会員にもなって何度も定期公演に出掛けたが、これまでに一度も聞いていない。それで私は今年3月、日本人だけで演奏されたシェーンベルクの「グレの歌」を聞きに行こうとチケットを買おうとした。ところがその日は家族の予定と重なって断念せざるを得なくなったのだ。3月のことだった。この演奏会はテレビでも放映されたが、的確にして静かな興奮を呼び起こす素晴らしい演奏だった。

今回2番目の演目だったディーリアスの歌劇「村のロメオとジュリエット」から間奏曲「天国への道」は、唖然とするくらいに綺麗な音楽に聞こえた。不足しない質感と知性を保ちつつも、静かで自然の感興が感じられる。ディーリアスというのはこういう音楽なのか、と思った。N響の管楽器も弦楽器も、すばらしくブレンドされ一体となっているが、重なって濁り合うことはなく、かといってバラバラでもない。醒めているかといえばそうではなく、言わば中庸の美しさである。珍しいヴォーン=ウィリアムズのテューバ協奏曲がN響主席奏者の池田幸宏とともに始まると、80歳にもなって作曲されたという世界最初のテューバ協奏曲に、私は目を奪われた。

興奮醒めやらぬ休憩時間を挟んで、とうとうお待ちかねのウォルトトンの交響曲第1番が始まった。この曲のN響の演奏は、その出来栄えで言えば、私の過去20年、数十回にも及ぶN響定期公演体験史上、最高の演奏の一つだったと思う。巧さという点においてこの曲のこの演奏は、そこらへんの平凡な演奏を圧倒的に凌駕していた。速くしかも重量感を持って進む第1楽章は、ストラヴィンスキーの音楽のように機知に富み、続く第2楽章になると、さらに高まる。スケルツォといった感じの面白いリズム処理は、手際の良い指揮に支えられて、類稀な名演となった。

第3楽章の何か日本的な感じもするフルートの出だしで、一息ついたように静かになったが、続く終楽章では長いフレーズのフーガを始め、ほとんど完璧なオーケストラの響きに打ち震えることとなった。いよいよティンパニが二人体制となって、そこに大太鼓や銅鑼が加わる様子は、3階席から見ていてもめくるめく感覚の連続である。この様子をテレビで放映されるときには、もう一度見てみたい。そしてもしCD録音されたら「買い」である。おそらく今シーズン一番の演奏だったと思う。

終演後には指揮者に花束が贈られた。その理由はよくわからないが、演奏が特に素晴らしかったからだと思いたい。そしてこれを最後に退団する奏者への花束も、オーケストラから贈られると尾高は聴衆に向ってユーモラスなスピーチを行った。こういうことは定期公演には珍しいことだった。外に出るとタイ・フェスティヴァルの雑踏であった。東京は昨日とうって変わって晴れ、気温は30度近くにまで達したようだ。しかし暑かった日中が一気に下るこの時期の気温のように、私の興奮も心地よく醒めた。イギリス音楽には結局、引きずって酔うという感覚がもたらされることはほとんどなかった。

2013年5月10日金曜日

シューベルト:交響曲第5番変ロ長調D485(カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

そっと窓を開けたら温かい初夏の風が入ってきた、というような出だしである。何ともさり気なく、自然でぬくもりのある音楽は、シューベルトにしか書けないような感じだ。

ベートーヴェンの交響曲第5番(ハ短調)と第6番「田園」(ヘ長調)が対になっているように、シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」(ハ短調)とこの第5番(変ロ長調)は対になっているように思える。どちらも趣きの異なる2つの作品が、ごく短期間のうちに作曲されたという点である。すなわち第5番は前作の第4番と異なってとてもおだやかで美しい曲である。頬を撫でるように優しい第1楽章に続く第2楽章は、物思いにふけるような、そして癒されるような曲で、牧歌的でもある。

カール・ベームがウィーン・フィルと録音した一連の作品のうち、ベートーヴェンの「田園」とこのシューベルトの第5番がひとつのCDにカップリングされて発売されていた。DG Originalsシリーズの新リマスタリングにより、このCDはひときわ魅力的である。

ベームはウィーン・フィルの魅力を引き出すにあたって、ほとんどオーケストラの自主性にまかせているようだ。少し遅めのテンポと、ルバートを多用することにより、今ではとても懐かしく感じられる。そう思えばある時期まではこのような音楽が「音楽」だと言われていた。だが最近ではビブラートを極力抑えるので、現代楽器を使用していてもあっさりと音楽は流れてしまう。そこがとてもつまらなく思えていたのだが、こちらの演奏スタイルに慣れてしまうと、古い演奏はクドくてもたれるように思えてくる。

ブルーノ・ワルターはそのような演奏の最右翼ではないかと思っている。特に晩年のステレオ録音はその極みのようなところがある。だがこの時期の録音はコロンビア・レコードの人工的な音作りのせいもあって、私は必ずしも好きになれない。ベートーヴェンの「田園」がその代表例である。だがカール・ベームは、そこまではいかず、むしろゴツゴツとした印象がある。それがウィーンの音に中和され、郊外風の演奏に仕上がっている。

3拍子の第3楽章を聞きながら、今日は東北本線を北上する鈍行列車に乗っていた。すでに一部では田植えも終わって、水を張った水田に夏の陽射しが反射している。

第4楽章に入ると、転調して少し激しい部分もあらわれるが、どこかハイドンを思わせるような曲だと思った。少しずつ変化しながら、繰り返されてどこまでも続いていくリズミカルな曲は、シューベルトのまたひとつの魅力である。ベームの演奏が何を置いても素晴らしいというわけではないが、このような演奏もたまにはいいものだと思う。列車はいつのまにか、埼玉県を通り過ぎ、小山に着いた。今日は日中の気温が摂氏25度を越え、夏の陽気になるという。新緑まぶしい五月晴れの朝である。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...