2013年12月27日金曜日

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30(P:ユジャ・ワン、グスタヴォ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル交響楽団)

iPodとiTunesに押されながらも細々と携帯音楽プレーヤーを作り続けたSONYは、ここへ来て一歩前に進んだ感じがする。高音質の音源配信サービスを始めたからだ。詳しく言えばフリーのロスレス圧縮フォーマットflac音源への対応である。実際にはmoraというサイトからダウンロードしたハイレゾ音源は、最新のWalkmanに搭載された高音質アンプで再生可能である。このWalkmanは久しぶりに欲しいと思った。

flacに対応する携帯音楽プレーヤーにはこれまでも韓国のメーカーなどから比較的安く発売されていた。またハイレゾ音源ダウンロードもe-onkyoや英国のLINNなどから可能であった。だが大手音楽レーベルを傘下に持つSONYの本格参入は少し次元が違う。しかもその記者発表には我が国の音楽会社が勢揃いしたというから驚きである。遅れていた日本で、世界でも最高の音楽市場が誕生すれば、音楽の聞き方が大きく変わるだろう。アップルは最近iPodに力を入れていないので、巻き返しに転じて欲しいと思う。

そこで私もmoraの会員となり、さっそくクラシックの音源(まだ非常に少ないが)から良さそうなものをダウンロードした。ただ私の持っているiPod Classicはflacを再生してくれないので、変換ソフトを用いてWAV形式に変換。しかも44.1kHz/16bitにするしかないからCDと同じ音質である。これではハイレゾ音源の意味が無い。しかしPCにはflac形式で保存してあるから、これをfoobar2000などで再生し、アンプにつないで聞くことはできる。嬉しいのは、トラック単位で購入ができること(これもアルバムにより、実際には数は少ない。多くは一括売りである!)。

さて今年リリースされたクラシックの新譜のうち、私が最も感動したものは、そのmoraよりflacでダウンロードしたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番である。丁度ここのところラフマニノフの音楽を聞いてきているので、いいタイミングである。しかしこれまで何度も聞いて驚いてきたこの曲にあって、またひとつ突破口を開いた演奏に出会うということ自体が、感動である。その興奮は未だに覚めることがない。

ラフマニノフがロシアで作曲にとりかかり、やがては移住することになるアメリカで初演されたこの難曲を、そのわずか100年後には中国人のピアニストによって、南米ヴェネズエラで演奏されることになろうとは作曲者は想像だにしなかったに違いない。だがユジャ・ワンがピアノを弾き、グスタヴォ・ドゥダメルが指揮するシモン・ボリバル交響楽団の伴奏は、白熱のライヴを通り越し、もはや神がかり的な熱狂の渦を巻き起こしている。そのライヴを映像で見られるなら見てみたい。だが、音楽の録音だけでもその圧倒的な様子はひしひしと伝わってくる。

演奏はまるでジャズかラテンのロックのようである。第1楽章の冒頭から異様な雰囲気で始まる。この第1楽章の主題は、それだけだと何の変哲もないような単純なメロディーで、初めて聞いた時には肩透かしを食らったような気がしたものだ。けれどもそれが一通り終わると、あれよあれよとピアノがコロコロ転がり出す。上がったり下がったり、めまぐるしく動く様はあっけにとられるほどだ。

従来第1楽章ではそのメロディーも湿りがちで、まだエンジン全開というわけでもなく、なんとなく陰鬱な感じか、さもなくば気合が入りすぎて伴奏と咬み合わないことが多い。けれども今回の演奏はそのどちらでもなく、とてもうまい具合にコラボレーションを形成している。時折最初の主題が切り返されて、そうか、ラフ3を聞いていたのかと思いを新たにする。

けれども第2楽章になると、今度は圧倒的に素晴らしいラフマニノフのロマン性が満開となる。単に美しいだけのメロディーではなく、色彩的にも変化に富み、後半などは特に激情的である。この音楽を簡単に口ずさむことはできないが、何かの映画音楽にでも使いたいようなメロディーである。大恋愛映画の回想シーン、そのクライマックスで鳴っているような曲をイメージする。私はこの第2楽章が気に入っているが、そう何度も気軽に聞けるような気もしない。おそらくこの曲が、ピアノ協奏曲のひとつの到達地点を示しているのではないか、とさえ思えてくる。

第2楽章から続いて演奏される第3楽章は、迫力があって早く、技巧的にも最高レベルなので間違いなく興奮するのだが、それにしても長い。15分以上はあるその間中、ずっと圧倒的なピアノによる乱舞の連続である。ここの音楽をどう形容してよいかわからない。そしてワンの演奏ではオーケストラを含め、乗りに乗っている。クリアにとらえた録音が(特にハイレゾで聞くと)スピーカーを飛び出して迫ってくる。目に見えるかのような演奏である。あっという間の15分が終わると、割れんばかりの拍手と歓声が収録され、そのフィーバーぶりがよくわかる。

この曲はあまりに難易度が高く、余程自身のある演奏家でないといい演奏を残していない。おそらく世界最初の演奏家はウラディミール・ホロヴィッツだったし、その後にはヴァン・クライバーン、ウラディミール・アシュケナージ、マルタ・アルゲリッチ、エフゲニー・キーシンなど錚々たる技巧派の名前が挙がる。これらのピアニストがこの曲をライブ演奏する時には、レコード会社が録音機をセットし、何年かに一度センセーショナルな成功をおさめるとその録音がリリースされてきた。私もその演奏を、何らかの形でできるだけ聞いてきたし、その都度決定的な演奏が登場したと思ったものだった。だが、これらの演奏に並ぶ名演が登場したことで、この曲の演奏史に新たなページが加わった。

若い女性のピアニストによるラフマニノフとなると、どうしてもアルゲリッチの演奏を引き合いに出してしまう。リッカルド・シャイーが指揮するベルリン放送交響楽団による「白熱のライヴ」が、チェイコフスキーとカップリングされてリリースされている。この演奏はまた、この曲の決定的な演奏のひとつとして多くの愛好家により今でも高く賞賛されている。私もキーシンの演奏(小澤征爾指揮ボストン交響楽団)と共に長年親しんできた。ワンの演奏はこの演奏に勝るとも劣らない演奏と言える。しかもこの20年以上も前の演奏は(おそらく)放送録音なので、今回の方がはるかにいい録音である。それを高音質で聞くことができる。

私は同じflacファイルから変換したCD音質のWAVファイル(44.1kHz/16bit)と、ダウンロードしたままのflac(96kHz/24bit)とを、同じfoobar2000で再生して音質を比較してみた。するとその違いは歴然である。ハイレゾで聞くラフマニノフはもう元に戻れないくらいに迫力満点である。この演奏、ピアノだけが独走するわけでもなく、伴奏とそれなりに共同歩調をとりながら丁々発止の名演を繰り広げている。キーシンで聞くとこのような演奏もなるのかと思うくらいに大人しく端正なのに、派手なアルゲリッチ流に決めつつも、気まぐれなアルゲリッチにない協調性を感じることができる。

2013年12月26日木曜日

ヴェルディ:歌劇「ナブッコ」(パルマ王立歌劇場ライブビュー)

それにしても「ナブッコ」というオペラほど聞いていて胸を熱くするオペラはない。ヴェルディの出世作品は、若々しさとエネルギーに満ちあふれ、これでもかこれでもかと音楽が湧き出す。第1幕の冒頭の合唱を聞くだけで、私は胸が熱くなる。エルサレムの民衆は、迫りくるバビロニア人に怯えつつも、ザッカリーアの主導のもと、結束は固い。

Tutto Verdiシリーズのうち、私が今回見ることのできた最後の作品は、2009年にパルマで上演された舞台のものであった。ここで主題役ナブコドノゾルは、またもやレオ・ヌッチが歌っている。何もナブッコまでと思ったが、一度は見てみたい気もするし、それに何と言っても娘(フェネーナのほう)の可愛さあまり改宗までする父親の役である。バビロン捕囚の物語も、何か身近な家族の愛の物語になってしまうあたりはさておくとして、その音楽の圧倒的な迫力に、今回も酔いしれる結果となった。

指揮はミケーレ・マリオッティという若いイタリア人だが、彼はリッカルド・ムーティのように力強く、しかも音楽を軽やかにドライブする。パルマの劇場のオケがこんな音だったのかと思う。素晴らしい指揮者である。一方、合唱団はエキストラと思われる人も多くいて今回は登場箇所が多い。何せあの「行け我が思いよ」もあるのだから。

第1幕で早くも登場する奴隷の娘アビガイッレは、ドラマチックな太い声と高音から一気に低音に下るヒステリックな歌唱が必要な難役である。その役はディミトラ・テオドッシュというソプラノ歌手によって歌われていた。名前からギリシャ人ではないかと思われるが、彼女は見事な歌いっぷりで、観客を大いに沸かせた。特に全体の白眉、第2幕のアリア「かつて私も」は、この不遇な女性の生い立ちを思うと泣けてくるくらいに見事であった。

アビガイッレはこと自分の出自や、恋敵でもある妹フェネーナの話題になると、心がいきり立つ。その感情の変化が歌に現れるのだが、そのあたりの表現は見事だった。

このシリーズでは幕が開く前に様々なビデオ映像が挿入されるのだが、「ナブッコ」では珍しくオーケストラ・ピットの映像を流していた。序曲はとても素晴らしい作品なので、その伝統的な収録方法は好ましい。ダニエレ・アバドによる演出は、古典的なもので、悪くはなかったが、雷の一撃のシーンと偶像が崩れ落ちるシーンは、もう少し派手でも良かったと思う。特に後者はあまりにわかりにくいのだ。

一方「行け我が思いよ」のコーラスでは、イタリア第二の国歌とも言われる名旋律がとても印象的である。ここで合唱は歌詞が聞こえないくらいに、しかし多人数で、あくまで静かに歌う。そしてこの合唱が終わると、待っていたかのようにViva Verdiの掛け声なども聞かれ、本場の演出である、ここはアンコールかと思ったのだが、それはなかった(もしかしたらビデオでは削除されたのかも知れない)。

全体に大変充実した舞台で、見応え充分であった。もっとも素晴らしかったテオドッシュウのアビガイッレやヌッチのナブコドノゾル、それにジョルジュ・スリアンによるザッカリーアの他に、イズマエーレを歌ったテノールのブルーノ・リベイロ、フェネーナのアンナ・マリア・キウーイも、悪くはなかった。ただ、このビデオを上映した東京都写真美術館のホールは、音響的に十分とはいえない。加えて暖房のスイッチを切っているのか常に寒く、後から入ってくる客を前の席に誘導するなどサービスが悪い。

しかもオペラは通常1回ないし2回の休憩時間を挟んで上演されるので、それを一気に見ることになると集中力を維持するのに一苦労である。休憩時間もない上に、寒いのでトイレにも行きたくなるし、映画だというのにワインを飲みながら、ということもできない。このような状況であるにもかかわらず1作品あたり2800円もするというのはいただけない。私はもうこの企画にはあまり魅力を感じなくなってしまった。

2013年12月18日水曜日

ラフマニノフ:「パガニーニの主題による狂詩曲」作品43(P:ラン・ラン、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団)

ピアノ協奏曲第2番を取り上げたついでに「パガニーニの主題による狂詩曲」を久しぶりに聞いてみた。この2曲はよくカップリングされてLP1枚に収められていた。私の長年の、そして唯一の愛聴盤は、ウラディミール・アシュケナージのピアノ、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の70年代の演奏である。だが今回はもっと新しい録音で聞いてみることにした。買ってもほとんど聞いていなかったCDがあったからだ。ピアノは中国人のラン・ランで、ワレリー・ゲルギエフが指揮するマリインスキー劇場のオーケストラが伴奏を務めている。

私の高校時代の同級生は、この曲が大好きであった。彼は私が彼の家を訪ねていくと、いつもこの曲をレコードでかけた。そして有名な第18変奏の部分が来ると、決まってこう言った。「ここは映画音楽や。『振り向けば君がいて』の曲だよ。」だが、私はそんな映画を知らなかった(今でも知らない)。けれどもなんとなくその話を信じ、なるほどなと思った。振り向いたところで誰もいない彼の家で、2人はいつもそのカンタービレに聴き惚れていた。なんて美しいメロディーなのだと。

ラフマニノフは一発で人を惹きつけるメロディーを思いつく天才だった。あのパガニーニの独奏曲「カプリース」のメロディーからこの曲は生まれた。この曲は狂詩曲(ラプソディー)というタイトルが付いているが、実際にはピアノ協奏曲風の変奏曲である。変奏曲とは、私が中学校の音楽の時間に習ったところでは、原曲の和音を保ちながら、拍子や強弱をアレンジするもので、確かモーツァルトのピアノ・ソナタか何かの曲をサンプルにした解説を聞いた。それがロマン派の後期ともなると原曲を留めないほどの曲となり、それだけで独特の世界を形成している。

原曲がはっきりとわかるのは序奏から第5変奏あたりまでで、ある時はジャジーな曲に、ある時は勢いのある行進曲風に、ある時は夜想曲のように、次々と姿を変えていく。常にピアノが技巧的なメロディーを絡めるので、聞いていても興奮してくる。このように何度も音形を変えて、盛り上がったり遅くなったりしながら、やがて深く陰鬱なメロディーとなる。アン・ニュイな曲がしばらく続くな、と思ったら突然、きれいな旋律をピアノが始める。第18変奏の突如現れるメロディーは、もはや原曲を想像することもできない。

朝の通勤電車の中でこの曲を聞いていると、丸で映画の一シーンのように眼前の光景がセピア色に変わるから不思議だ。急にこみ上げる若いころの悲しい気分が、朝日を浴びて輝く寒い冬の街にこだまして、丸で時間が止まったかのような錯覚に陥る。その間わずか数分。やがて次の変奏曲になり、そのままコーダを目指して突き進む。

ラン・ランの演奏は実演で聞くととても考えていると思わせる。だが録音された演奏ではそのあたりが伝わりにくい。けれどもこの音楽は、大変華やかで感傷的である。あまりそういう難しいことは考えずに、いい録音で楽しみたい。幸い、ゲルギエフのロシア風な伴奏がとても魅力的だし、それに何と言っても録音に独特の奥行きと残響があって、大変ゴージャスである。決して煽る演奏でもないのにエキサイティングで、この曲の聞かれるべき代表的なディスクのひとつだと思われる。

2013年12月17日火曜日

ヴェルディ:歌劇「オテロ」(ザルツブルク音楽祭2008)

考えてみればこれまで節目にいつも「オテロ」を見ている。最初はミラノ・スカラ座の来日公演をラジオで聴いた時。クライバーの振り下ろす白熱した音楽が、繊細で独特の緊張感を持って迫ってきたことをおぼろげに覚えている。中学生のときだった。

「オテロ」のCDを初めて聴いたのは、大学生になってフランコ・ゼッフィレッリ監督のオペラ映画「トラヴィアータ(椿姫)」にノックアウトパンチを食らった翌日だった。レンタルショップで借りたカラヤンの3枚組CDは、しかしながらこの曲が「椿姫」のようなわかりやすい音楽ではないことを教えてくれた。ヴェルディの中で最高傑作がこんな曲だったとは、ある意味でショックだった。そのマリオ・デル・モナコが主演するデッカ録音の演奏は、効果音が大変印象的で今でもこの曲の代表的なものである。

ゼッフィレッリの監督するオペラ映画としての「オテロ」が、京都の映画館で公開されていると聞いて、私は友人を誘いわざわざ2時間もかけて見に出かけた。プラシド・ドミンゴのオテロ、カティア・リッチャレッリのデズデモナ、フスティノ・ディアスのイヤーゴらによる演奏は、マゼールの指揮だった。全編息もつかせないほどの凝縮された映画を見終った時、どっと疲れが出た。河原町の居酒屋で興奮しながら夜遅くまで語り合った。映画館を出るとき、一体どうしてこうなってしまうのだろうとこわばった表情で出てゆく女子大生の顔を良く覚えている。

そのゼッフィレッリが主演し、ドミンゴ、リッチャレッリ、ディアスの出演する本当の舞台に偶然にも触れることができたことは、私にとって一生の思い出である。ニューヨーク旅行中にたまたまクライバーの公演がメトであり、その最終公演のチケットを手にすることが出来たのだった。この時の様子はすでにブログに書いた。

メトの「オテロ」はその後、レヴァインが受け継ぎ、演出はエリヤ・モシンスキーに代わった。この公演が今でも続いている。私が次に見た「オテロ」は、デズデモナをルネ・フレミングが歌っていた。オテロは依然、ドミンゴだった。1995-96年のシーズンの幕開けを飾るこの公演は、後にDVDで発売され、私は真っ先に購入した。ただ日本語字幕の付いたDVDが発売されたのは2004年にはいってからだったと思う。最初に「オテロ」に触れてから30年以上が過ぎ、その間約10年おきに「オテロ」を見ている。「たったそれだけか」と言われるかも知れない。だが堀内修も言っている。「オテロは何十年に1回位で良い」と。

そしてヴェルディ生誕200週年の今年、Tutto Verdiシリーズのオペラ映像を映画館で見る機会があり、9年ぶりに「オテロ」を見ることになった。前日には睡眠を十分にとり、満を持して出かけた。

Tutto Verdiシリーズはそのほとんどがパルマのレッジョ劇場での公演を撮影したものである。だがこの「オテロ」だけはどういうわけか異なっていて、2008年のザルツブルク音楽祭での公演を収録したものである。イタリアのローカルな舞台とはひと味もふた味も違うインターナショナルな公演である。もちろんオーケストラはウィーン・フィル、指揮はリッカルド・ムーティである。そうだと知れば、これを見逃す手はない。パルマの公演なら「オテロ」を敬遠したかも知れない。だがムーティとなれば、行かないわけにはいかない。

始まりの映像はそれまでのレッジョ劇場の全景ではなく、ザルツブルクのお城のおきまりの遠景かと思いきやそうではなく、荒れ狂う海の風景である。音声がないままに、字幕で出演者が紹介される。オテロにアレクサンドルス・アントネンコ、デズデモナにマリーナ・ポプラフスカヤ、イヤーゴにカルロス・アルバレス、演出はスティーヴン・ラングリッジである。

海のシーンが消えるといきなり大音量の音楽が始まった。嵐のシーンである。合唱団も実に見事。何と言ってもウィーン・フィルの響きはパルマの管弦楽団とは雲泥の差である。その豊穣な響きと迫力は、瞬く間に我々をキプロスの海辺へと誘う。ザルツブルク祝祭劇場はとても横に広いので、見応え十分。カメラワークも録音も、パルマのものより一段上だ。

オテロのアントネンコは、まだ若々しい歌声で、そういえばドミンゴも若い頃はこういう声だったかな、と思いながら聞いていた。その時点でオテロに最も相応しいかと言われれば、ちょっと疑問も残る。だが、彼は汗を額にみなぎらせ、容貌もムーア人に扮してなかなかの熱演であった。私はその体当たりの姿に大いに好感を持った。バリトンにこだわったヴェルディは、「オテロ」ではその歌をイヤーゴにあて、オテロをテノールの役とした。このことはオテロが人間的に完成された人格ではなく、脆くも崩れ去っていくコンプレックスだらけの若武者だからであろう。そのことがよくわかる。

一方のデズデモナはひたすら可哀想である。可憐で美しく、しかもこのドラマに登場する多くの男性とは一段上の人格でさえある。第4幕で歌う「柳の歌」は一番の聴かせどころだが、彼女はここで自分の宿命を知っているかのようである。誤解が解けぬまま毒殺される運命にあってなお、オテロのことを気にかけ、しかも神の赦しを乞う。その哀れな歌いぶりは、最終幕の最後の瞬間に近づくほど大きな集中を見せ、圧巻であった。

イヤーゴはこれ以上ないくらいの悪役だが、「オテロ」においては非常に重要な役である。このイヤーゴがつまらなければ「オテロ」の公演は失敗である。ここでアルバレスは、最初のシーンから安定した充実を見せた。いやそれどころか、オテロのコンプレックスに対するイヤーゴの嫉妬は、その表現において一頭上を行っていた。舞台中央に斜めに配置された透明な大きい舞台が印象的でその、奥には幕ごとに様々な工夫を凝らした壁があり、上部には民衆が合唱を奏でる。見事な演出はやはり国際級と言わねばならない。

とにかく久方ぶりに見る「オテロ」は私にとって再発見の連続であると同時に、圧倒的な力を持ってその魅力を知らしめた。どうすればこのような音楽が書けるのだろうかと思う。ちょっと口ずさむという音楽ではない。だがこれほど無駄がなく、しかも完成度の高い音楽は他にはないだろうと思う。まあそういうことは無数の音楽評論家やブロブの著者によって語られているから、私がつたない言葉で表現するもの野暮なことである。ヴェルディの真髄がまさにここに極まったというべきであり、この公演は十分にそれを伝えている名演の一つに数えられるだろう。

ムーティの指揮についてはもう何も言う必要がない。今やヴェルデょの第一人者であるムーティは、ローマ歌劇場を率いて来年来日する。私は通常、オペラ・ハウスの引っ越し公演には手を出さないようにしてきたが、とうとうそのこだわりを打ち破る時が来た。私は2014年5月に「シモン・ボッカネグラ」を、6月には「ナブッコ」を見るために、発売日にチケットを購入し、今日手元に届いた所である。ヴェルディ・イヤーは今年で終わるが、私のヴェルディへの旅は、これからもまだ続く。

2013年12月16日月曜日

ヴェルディ:歌劇「マクベス」(パルマ王立歌劇場ライブビュー)

我が国やヨーロッパでも近代化するまでは圧政と恐怖の社会だった。丁度Tutto Verdiシリーズの「マクベス」を見た前の日に、北朝鮮で反革命分子として、領主の側近が粛清されるというショッキングな事件が起こったが、そのことによってオペラも妙に生々しく感じられた。北朝鮮で本当にクーデターの未遂があったのかは不明である。だが11世紀のスコットランドでも、側近を皆殺しにして将軍に上り詰めたマクベスは、気がついてみると全てを敵に回したいた。

「マクベス」における恐るべきクーデターの首謀者は、マクベス夫人である。マクベスとマクベス夫人だけがこのオペラの主人公で、その他の登場人物はテノールのマクダフを含め、少しの歌しか歌わない脇役に過ぎない。この2人の心理的葛藤を描くシェークスピアの戯曲を、ピアーヴェの台本によってオペラ化したヴェルディは、入念なリハーサルのもとそれまでになかった舞台を作り上げた。しかも後年になって大きな改訂を行っており、初期の作品ながら完成度は高い。

始まりの音楽は第4幕でも演奏される夢遊の場のもので、一度聞いたら忘れられない趣がある。そして一気に観客は物語の中に吸い込まれていく。しかも次々に繰り出される音楽と早い物語が、うまく融け合って唐突感がない。このしっくりくる感じが娯楽作品中心だったオペラをシリアスなものにした。

第1幕でマクベスとバンクォーは魔女たちから2つの予言を聞く。その予言を聞きつけたマクベス夫人は夫に国王の殺人を迫り、国王は殺される。この間30分もかからない。さらに続く第2幕でも、今度は夫人も手伝ってバンクォーを暗殺する。だが小心者のマクベスは、良心の呵責にさいなまれる。宴の席で亡霊を見たマクベスは、周りから疑いをかけられる。

さてマクベスは、レオ・ヌッチであった。このバリトンはもはやイタリアのスターである。彼はマクベスの弱い性質を浮き彫りにし、国王として威厳と殺人の恐怖に怯える錯綜した感情を見事に表現する。一方のマクベス夫人はシルヴィー・ヴァレルというソプラノで、彼女は美しいながらも魔性をちらつかせ、見ていて違和感はない。2人の強力な歌手が揃ったので、舞台で大活躍する合唱団とバレエ、それにオーケストラも強力なサポートを惜しまない。指揮はベテランのブルーノ・バルトレッティで手堅い運び。

第3幕ではその合唱とバレエがなかなか良い。この作品がパリで上演されたことをよく物語っているが、決してやり過ぎの感はなく、かといってそれなりに舞台に色を添える。第2場になって再び予言のシーン。そうか、このあと舞台は最後のクライマックスへとつながってゆくのか、と期待が膨らむ。

その第4幕は何と言ってもマクベス夫人の発狂のシーンが、聞き手を集中させる。されにはマクベス自身も、不気味な予言通りマクダフに殺される。スコットランドの民衆はパーナムの木として暗喩されており、ここに国王の地位を得たものの全てを失い、自らも命を失うマクベスの壮絶な物語が幕を下ろす。

舞台は何やらおかしげな空襲のシーンで始まったが、そんなことは最後まで関係が不明であった。いつも舞台上で劇を見ている人が大勢いて、彼らは何一つ言葉を発しない。つまりこれは劇中劇という設定である。だがそのことにどのような意味があるのかもよくわからない。さらには魔女たちが何と洗濯場の女達である。これまた意味不明。つまりリリアーナ・カヴァーニの演出にはよくわからない点が多い。

それを補う歌手の素晴らしさで、見応えはあった。なおバンクォーはバスのエンリコ・イオーリ、マクダフはテノールのロベルト・イウリアーノ、いずれもイタリア人と思われる。2006年のパルマ王立歌劇場でのライヴである。意外に少ないこのオペラの映像作品としては十分合格点だと思うが、それはドラマとして異彩を放つオペラを、ありのままに表現したことによるところ大であると思われる。

2013年12月12日木曜日

ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」(パルマ王立歌劇場ライブビュー)

ストーリーの展開があまりに唐突で、ドラマとしての完成度が低いと言わざるを得ないような部分が「トロヴァトーレ」にはあって、そのあらすじを知れば知るほど、舞台を見ている方は白けてくる。オペラではそれを補って余りある歌の魅力が、これを覆い隠すことがあるのだが、「トロヴァトーレ」の場合は少し微妙と言わざるをえない。話が変でも、そこに登場人物の心理的な内面描写があればいいのだが、残念ながらその要素に乏しい。しかしここに付けられているのは、紛れも無くヴェルディの力強い音楽である。

ヴェルディのより完成度の高い作品を知れば、「トロヴァトーレ」の見方は、それらと同じではいけないことに気付く。聞くほうが少し工夫をして、この作品は血沸き肉踊る音楽、歌を聞くものと割り切る必要がある。そうした時、「トロヴァトーレ」は生きた作品となって目の前に現れる。もちろん、それなりの舞台・・・歌手と指揮と合唱が揃って名演を繰り広げれば、の話だが。

さて、このたびはパルマ王立歌劇場のビデオ作品からTutto Verdiの一つを見たことの感想を書くことになるのだが、このビデオはBlu-rayとして字幕付きで売られているUnitel制作のもので、2010年パルマでのヴェルディ・フェスティヴァルでの上演。マンリーコにテノールのマルセロ・アルヴァレス、レオノーラにソプラノのテレーザ・ロマーノ、ルーナ伯爵にバリトンのクラウディオ・スグーラ、アズチェーナにメゾ・ソプラノのムジア・ニオラージェ、ユーリ・テミルカーノフの指揮、ロレンツォ・マリアーニの演出という顔ぶれである。

歌手の中で特に有名なのは、タイトル・ロールを歌ったアルヴァレスである。彼の歌声は艶があり、力も加わってこの若き武将の純粋な一途さと直情径行な愛情表現を、それは見事に歌いあげた。だが、この舞台でまず最初に評価をしたいのは、ルーナ伯爵を歌ったスグーラである。やや痩せていて、若いバリトンはその存在感も抜群で、最初から最後まで息をつかせない集中力と表現力で見るものを圧倒した。ただ残念だったのは、ルーナ伯爵の衣装があまりに高貴さを欠いている点だ。武将たち(合唱団)に交じると存在が浮き立たない。これは演出上の問題点だろうと思う。

一方、ロマーノのレオノーラは力演で、少し荒いところも合ったが、それはこの舞台が彼女にとってピンチ・ヒッターだったからだろうと思う。であればこの歌手の出来は相当褒められるべきだろう。特に終盤に進むに連れて、その体当たり的な熱演は、唯一この物語で純真無垢かつ可哀想な死を遂げる女性の哀しさを表現した。

アズチェーナの二オラージュも代役だそうで、そのことを差し引いても、これはこれで聞ける悪役である。ただジプシーの呪われた女というには、衣装を含めちょっと美しすぎる。第2幕のコーラスでもそのことは言える。舞台に並んだコーラスは、何かお祭りの歌を歌っているように陽気に聞こえる。金槌も印象的には鳴らず、あのおどろおどろしさが乏しいのだ。

全体に演出に対する不満は、少し述べておく必要があるだろう。簡素でしかも滑稽な読み替えをしないことには好感が持てる。だが、舞台中央に掲げられた満月を除けば、いかにも中途半端である。歌に集中させるというなら、それはそれでもう少し工夫の余地があっただろうし、そうでないなら原作に忠実に、ジプシー色を出して欲しかった。

指揮は歌にうまく寄り添い、十分に劇的であると同時に精緻でもあった。総じて言えば、音楽の素晴らしさで満点に近く、このビデオは一度は見ておく価値がある。初心者なら、このビデオを何度も見れば、ヴェルディ中期の傑作を堪能できること請け合いである。CDなら完璧だったかも知れない。けれども演出には今ひとつの傑出した部分が感じられない。ビデオとしてずっととっておくには少し物足りない。購入するとなると、そのことをどう考えるか。一般的な舞台収録と異なり、拍手やカーテンコールは少ない時間に抑えられている。ライブなら、もう少し歌のたびに余韻に浸りたかったという思いが私の場合、どうしても残った。

2013年12月10日火曜日

シューベルト:交響曲第8番ハ長調D944「グレート」(ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューベルトの音楽を楽しめるかどうかの、わかりやすい試金石は、この長大な交響曲ではないかと思う。とにかく長い(「天国的に」とかのシューマンは言った)音楽は、単調で極めて退屈、どこがいいのかさっぱりわからない、という次元を通過して、いつからかこんなにいい音楽はない、と思えてくる。私の場合、今から20年位前にその時が訪れて以来、今では丁度いい長さだと思っている。もちろん繰り返しは大歓迎である。

このきっかけとなったのは、サヴァリッシュがNHK交響楽団を指揮したものをライヴで見た時だったと記憶しているが、特に第3楽章で「その時」はやってきた。中間部のトリオでのことである。以来、ここを聞く時はいつもこの時の体験が蘇る。もっといい演奏に出会いたい、という一心から新譜は常にチェック。だが、その録音数とは裏腹に実演で聞くことは意外に少ない。

本年の春にその時はやってきて、ミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊の忘れがたき演奏が、私を感動させたことは、先のブログにも書いたとおりである。だが、この曲はいつも名演奏になるとは限らない。いやもしかすると本当にただ長いだけの、つまらない演奏に終始する可能性も大きい。その境目はどこにあるのだろうか。なかなか気づくことのできない部分で、その分かれ目は存在する。丁度ブルックナーの音楽が、この傾向に類似している。

第1楽章の冒頭から、いい演奏で聞くとゾクゾクする。これからこの長い曲を楽しむのだと思うと、嬉しくなる。なにせまだ曲は始まったばかりなのいだから。最近の演奏では嬉しいことに主題提示部を繰り返してくれる。たっぷりと歌わせる演奏なら、弦楽器も木管楽器も、乗ってくるのがわかる。ベートーヴェンの「エロイカ」でも同じ感じになる。よく似ているが、シューベルトの方はもっと繊細である。

第2楽章の行進曲風のメロディーがまたいい。ここでも歌う木管楽器に酔いしれよう。散歩しながら聞いていると、この曲に合わせて足を踏み出す。だがそれも後半に差し掛かると、丸でブルックナーを思わせるような音の重なりがクライマックスを迎え、そして休止!が訪れる。この深々とした憂いに持ちた味わいは何と形容したらいいのだろうか。この部分に感動しない人は、何か勿体無い人生を送っているような気がする、というのは言いすぎだろうか。

第3楽章も繰り返すと長い。早い音楽だがいつまでも続く。けれどもその中間部にさしかかると、しびれるような音楽が突如として現れるのだ!この至福の時間は、この音楽がずっと鳴り響いてほしいと願うばかりだ。けれどももう音楽は折り返し地点を過ぎている!ああ、何ということか。

力強い金管の響きと、早いリズムで始まる第4楽章は、リズムに乗っていつまでもいつまでも、体を揺らしたくなる。そして反復!オーケストラが乗ってくると、ここの演奏は愉悦に満ち、心から幸せな気分となる。その爽快さ。ここの音楽にはあの「未完成」とは対照的な、だが紛れも無くシューベルトの音楽だ。天才はこの音楽に全ての力を注いだのではないかと思える。

お気に入りの演奏は、ゲオルク・ショルティの指揮するウィーン・フィルによる名演奏。他に何十種類の演奏を聞いたかわからないが、今でもベストである。何かが足りないように見えて、実は他の演奏にはない何かがある。ウィーン・フィルのふくよかな音色が、ウィーンの音楽に溶け合うのは当然としても、それをショルティはうまくドライブしている。強引さではなく、かと言って放任主義でもない。このような演奏は、演奏家の音楽に対する深い愛情がないと実現できるものではない。

何か特別な力が働いて類稀な名演が誕生した。録音も素晴らしい。聞き終わると、もう一度始めから聞きたくなる。この他ではジュリーニとコリン・デイヴィスの演奏が思い出に残っている。

2013年12月9日月曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(パルマ王立歌劇場ライブビュー)

ヴェルディ生誕200年の今年は、ヴェルディ全作品を網羅した映像作品がリリースされた。ヴェルディ音楽祭を開催しているパルマ王立歌劇場(レッジョ劇場)での2006年からの上演を、ブルーレイ・ディスクで楽しむことができる。その中には、最初の作品である「オベルト」や失敗作となった喜劇「王様だけの一日」なども含まれ、その全てには日本語字幕も付けられている(日本版)。

このビデオは由緒あるUnitelが制作しているから、歌劇場は小さいもののそれなりの水準の舞台だろうと想像がつく。そしてそのうちのいくつかを映画館で上映する催しが行われ、私はこれまで「アイーダ」、「仮面舞踏会」、そして「リゴレット」を見てきた。これでおしまいか、と思っていたら、その他の作品を含め、有名な十もの作品を一挙に上映するというチラシが目に留まった。東京都写真美術館で毎日2作品ずつを、12月いっぱい上映するという触れ込みである。

最初は「椿姫」で、10時の会場前には早くも列ができていた。何せ「椿姫」だから人気があるのだろう。配役はヴィオレッタにソプラノのスヴェトラ・ヴァシレヴァ、アルフレードにテノールのマッシモ・ジョルダーノ、ジェルモンにバリトンのウラディーミル・ストヤノフとなっている。指揮はユーリ・テミルカーノフ、演出はカール・エルンストとウルゼン・ヘルマン(夫妻)。収録は2007年である。

上映はMET Liveとは違い、ブルーレイと同じ映像をそのまま流す。よって休憩はない。音声は5.1乃至は7.1chのサラウンドであると期待したが、ここの上映スペースは音響効果が悪いのか、何かモノラル録音のような悪さである。前方の中央席に陣取って観たが、何とも音が悪い。これに慣れるのに結構な時間がかかる。

演出はオーセンティックなもので、今ではあらすじ通りの「椿姫」は貴重である。久しぶりに「椿姫」を見たという思いに浸った。だが、最近では当たり前になったように前奏曲の最初から、幕が開く。中央に大きな食卓が設けられ、ヴィオレッタはその上に乗ったり降りたり。「ああ、そはかの人か」~「花より花へ」では、最近では珍しくハイ音を上げて響かせる。

第2幕の演出は少し特徴的だ。まず季節が冬である。パリ郊外の館の外からドアを開けて登場人物が出たり入ったり。ガラスの窓から外が見える。ここでのジェルモンとヴィオレッタのやりとりは、この作品の聴かせどころが満載である。だがこの作品では、ヴェルディによくある父と娘の関係が、姿を変えて登場する。ヴィオレッタは娘ではなく、息子の恋人なのである。こともあろうに父は、息子と別れてくれるようにと頼みに来る。散々もがいた挙句、ヴィオレッタは別れる決心をするが、その時に発する言葉が「最後に、娘として抱いてください」と言うのだ!

ここにヴェルディの隠れた気持ちが投影されている!父はやけくそになってフローラの館に戻る息子の愚行の場にも駆けつけ、そして最後にはヴィオレッタの病床にまで姿を見せる。そこでとうとう「あなたを父として抱擁します」と言うのだ!これは娘を失ったヴェルディの、屈折した愛情物語である。ここで父は息子を許し、ヴィオレッタをも許す。こんな物分かりのいい父親は、他にはいない。

第2幕の後半の、歌また歌のシーンは、この作品がやはり素晴らしい作品であることを再認識するものだ。まずはじめにジプシーの女が踊り、続いてスペインの闘牛団が踊る。私はここのシーンが大好きである。賭けに勝ち続けるアルフレードのシーンは、見ていて心臓がドキドキする。そのドキドキが音楽になっている。札束を叩きつけるアルフレードの前に父が現れるシーンは、もっと印象的に上演して欲しかった。舞台がやや小規模で、ちょっと物足りないように感じるのは、メジャーな上演を見すぎているからだろう。イタリアの地方都市の舞台である。そもそも「椿姫」はこのくらいの規模のオペラだと思う。

第3幕になると「過ぎ去りし日」、そして「パリを離れて」と見どころが続く。形見に肖像画の入ったペンダントを渡すシーンは、すすり泣きも聞こえる。中央に置かれたベッドの上に倒れるヴィオレッタ。全幕とも対称的な配置によって、「語りすぎない演出」の効果が見事に出ている。

歌手は手堅く、超絶的ではないが平均以上の出来栄え。容姿もいい。ジェルモンが少し若く、しかもロシア系の顔だが、まあこれくらいは仕方がない。指揮のテミルカーノフも、カーテンコールでの拍手と歓声からその人気が伺える。

※その後同じ会場で「イル・トロヴァトーレ」も見たが、こちらは結構ヴィヴィッドな録音であった。従って音の悪さは会場の装置にいよるものではなくて、元の録音自体にあるように思われる。

2013年12月8日日曜日

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18(P:レイフ・オーヴェ・アンスネス、アントニオ・パッパーノ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

晩秋の奥州路をドライブしていたら、めまぐるしく天気が変わった。晴れていたかと思うとそのうち雨が降り出し、しばらくしたら止んで雲の切れ目から美しい虹が出た。遠くの山々も黒い雲の合間から差す日に染まって、幻想的な雰囲気である。こういう天候に合うのではないかと、ラフマニノフを鳴らしてみた。持っていたのはピアノ協奏曲第2番。すると、何ともピッタリなのだ。

この曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と並んで、ロシアの最も有名なピアノ協奏曲である。だが作曲年代はラフマニノフの方が少し後である。チャイコフスキーの、あのピアノ協奏曲のあとでラフマニノフは、やはり極めてロマンチックなピアノ協奏曲を書いた。この作品は多くの映画やドラマ、それにフィギュアスケートの伴奏に使われている。

第1楽章の冒頭でピアノが厳かに、次第に強く鐘の音を響かせると、何とも大げさな曲だなと思う。またこの曲を聞くのか、ちょっとやめておこうかな、などと思う。しかしすぐにオーケストラの弦楽器が、まるで冬の嵐の中を行く大型船のように、主題を奏でると金縛りにあったようにグイグイと引き込まれていく。ここは大いにうねらないといけない。速度はやや速めが好みである。重厚な弦楽器のオーケストラと良い録音で聞く必要があるのだが、さしあたりベルリン・フィルなどは相応しいオーケストラであると言える。

同じ主題は中盤で繰り返されるとき、ピアノがオーケストラに乗って、とてもダイナミックに迫りくる。このあたりまで来ると、もうこの曲は一気に最後まで聞き続けるしかない。だが、静かな部分においてのリリシズムはチャイコフスキーには及ばない。それを補うのがメロディーの忘れがたき美しさであることは言うまでもない。

その美しさ、もう少しうまく言えば、チャイコフスキーの叙情性に対する悲観的とも言うべきロマン性は、第2楽章で満開となる。特にピアノという楽器の持つ表現を、ラフマニノフはまた一歩進めた感がある。憂いを帯びてフルートやヴァイオリンがピアノと融け合う様は、単なる美しさではない。行き場を失った失意の淵にあるような、どうしようもない気持ちは、祖国へ帰ることのなかった亡命ロシア人の気持ちを現しているのだろうか。

つまり単にメロディーの綺麗なだけの作品ではないと思うのだ。だから有名な旋律部分がスケートで使われると何か苦笑したくなる。特に第2楽章の後半を聞くと、この作品の深みを感じる。とにかくこの曲は第2楽章の後半に尽きる。いい演奏で聞くと、むせび泣きたくなるくらいである。

私が北上川を北上しながら聞いていた演奏は、レイフ・オーヴェ・アンスネスがピアノを弾き、アントニオ・パッパーノがベルリン・フィルを振った2006年の録音であった。これはたまたまいくつか持っているうちから最も新しいものを持参したにすぎないのだが、考えてみればまだあまり真剣に聞いていなかったレコードであった。だが、この演奏ほど素晴らしい演奏はないのではないか、とさえ思うほどであった。

第3楽章になると、再びダイナミックにオーケストラとピアノが競演を繰り広げる。リズムがしっかりしていて、しかも歌うところは歌う。明るい響きはラフマニノフの持つ暗さと意外にマッチして、静かな興奮をも呼び起こしながら、コーダへと進む。私は毎日のようにこの曲を聞きながら、家路を急ぐ。聞き古した曲がまた好きになった。演奏が怒涛の如く終わると、はちきれんばかりの拍手が始まった。この演奏がライヴ収録であったことは、それまで気付かなかった。

もう一度、今度は朝早く起きて、雲の切れ目から差す朝日を浴びて輝く町を眺めながら、この曲を聞いてみた。少し大きめのボリュームで鳴らすと、冬の日の静かな室内が何ともノスタルジックな空間に満たされる。こんな美しいメロディーに溢れた曲だったのかと思いを新たにする。チャイコフスキーとは異なる、ラフマニノフにはラフマニノフにしか書けない音楽があったのではないか。

2013年12月6日金曜日

ヴェルディ:歌劇「リゴレット」(パルマ王立歌劇場ライブビュー)

2008年、ヴェルディゆかりの地パルマで上演された「リゴレット」を収めた映像を、中央区にある銀座ブロッサムホールへ見に出かけた(2013年11月30日)。この舞台の素晴らしさをどのように例えればいいのだろうか。少なくとも私の少ない経験では、過去における最高の「リゴレット」であり、これまで見てきたものは一体何だったのかと思うほどだ。あまりに素晴らしくて、何をどう表現していいかわからないし、ともすればその完璧さ故に、記憶にも残りにくい。

ここで表題役は、このたびのスカラ座来日公演でも「リゴレット」を歌ったレオ・ヌッチが歌っている。演技も歌唱も現在望みうる、そして過去に照らしても最高の歌い手が、60代にして歌った記録である。ハンディを負った道化師としての不遇の立場と、それがもたらすコンプレックスや卑屈さ、愛娘を前にした心の弱さなど、千変万化するヴェルディならではの心理描写を、あくまで力強く、心を込めて歌い上げる様子は、見ていて鳥肌が立つ。そのリゴレットを何千回と歌っているので、随分前から数多くの録音や録画が出ている。当たり役である。

そのリゴレットだけであれば、他にも優秀なディスクがあるが、この舞台はそれだけでない。まずジルダを歌ったグルジア出身のソプラノ、ニーノ・マチャイゼは、私は初めて見たのだが、それは何とも美しく、そして素晴らしい。ヌッチと組めば丸で本当の親子のようである。第1幕で可憐さのまま登場する彼女は、第2幕で父親の心情との間に揺れる二重唱を、ほぼ完璧に歌い切る。第2幕最後の「復讐だ」のシーンは、ヌッチのリゴレットと最高のコンビを見せる。沸き立つ拍手に応え、2人は幕の下りた舞台の前に改めて姿を見せる。

ここで2人は満面の笑みを浮かべ、物語そっちのけでアンコールを歌う。すでに歌い終えた歌だから、もう何も恐れることはない。圧巻のアンコールは会場を拍手の渦に巻き込む。抱き合って喜ぶ2人はオーケストラを讃える。パルマ王立歌劇場のオーケストラを指揮するのは、イタリア人の若手、マッシモ・ザネッティである。要所要所を締め、速めに指揮をするかと思えば、歌うところでは歌う。いい指揮者である。

もう一人の主役マントヴァ公爵は、細身の若者フランチェスコ・デムーロである。彼の声は若い時のパヴァロッティのように軽やかで艶があり、しかもルックスがいいと来ているから申し分がない。これでは往年のパヴァロッティの映像も色あせてしまう。やはりマントヴァ公はイケメンである必要がある。そのことによって舞台がより引き立つと同時に、わかりやすくなる。いや、それだけでない。この舞台の成功を支えているのは、演出のステファノ・ヴィジオーリによるところ大である。

舞台はオーセンティックながら、必要以上のものを表現しない。それによって歌手を引き立てる。だが細かいところがよく考えられている。第3幕の四重唱は、少し上部に作られたスパラフチーレの家の前方が開放され、その前にリゴレットとジルダが立つ。両カップルは、本当は壁で遮られているが、そんなことはわかっているので、ホームドラマのような舞台の方がかえって余計なものがなく、好ましい。

その四重唱では、ここ一番の役、マッダレーナ(メゾ・ソプラノのステファノ・イラーニ)と殺し屋スパラフチーレ(バスのマルコ・スポッティ)が加わる。だが彼らは決して脇役の出来栄えにとどまっているわけではない。いや、モンテローネ伯爵や女中ジョヴァンナに至るまで印象に残る。こんなに完成度の高い舞台があるだろうか。

もしかするとそれも演出の効果なのかも知れない。ジルダは第3幕で髪型を変え、容姿が一気に大人びる。ジョヴァンナは女中ながら、まるでジルダの姉のようである。いつも日本語の字幕を追っているにもかかわらず、今回ほどストーリーが頭にすっと入ってくることはなかった。歌心に溢れ、カンタービレは十全に歌い、声は若々しく、オーケストラにも張りがある。熱狂的な拍手でカーテンコールに立ったヌッチは、その動作がまだまだ若々しく、笑うと愛嬌のある素敵なおじいさんである。

陰惨な舞台でも演者はみな明るく、リゴレットがヴェルディの作品でも歌を重視して書かれた作品であることをよくわからせてくれる。この作品は、トロヴァトーレと同様に、歌を味わうオペラである。私のオペラ鑑賞体験において、この舞台は決定的な感銘をもたらした。両手を挙げて推薦するビデオである。

2013年12月5日木曜日

東日本大震災の記録:被災地への旅(5)

釜石といえば言わずと知れた鉄の町で、新日鉄釜石というラグビーチームは私が小学生の頃、毎年のように全国制覇を成し遂げたことで知られている。岩手県のこんなところになぜ製鉄所が作られたか。それは江戸時代にまで遡る我が国最古の製鉄業の歴史があるからだ。私が今回被災地を旅行先に選びながらも、どうしても行きたかった町は釜石であった。ここには花巻から遠野を経由して比較的整備された高速道も部分的に開通している。盛岡から宮古へ出るよりもはるかに便利だが、それでも2時間近くはかかる。

その釜石には釜石観音が大きな姿を太平洋に向けて立っており、深い入江と小高い丘に囲まれたとても風情のある町のように思えた。だが、中心地に向かっていくと実にこじんまりとした町であることに驚いた。事前に想像していたよりもはるかに小さな市には、最大で9万人いた人口も減り続け、今では半分以下の3万人台だという。

釜石には市立博物館があり、それは「鉄の博物館」と呼ばれている。小高い丘に結構な規模の建物が立っていて、私が訪れた時には他に家族連れがわずか一組という状況で、その展示物を私はほとんど一人で見て回った。

博物館からは紺碧の海に向って立つ釜石観音の後ろ姿がよく見えた。敷地内には軽便鉄道で使われたSLも展示されていたが、駐車場の上のスペースには仮設住宅が立ち並んでいる。夕方の4時をまわるとあたりはひっそりとして、よく晴れた穏やかの日でも淋しく寒い。私はかつて旅行した世界のどこに似ているか、などと考えてみたが、よくよく思いつくのは大西洋の孤島マデイラである。もっともその中心のフンシャルは、今では客船も停泊するリゾート地だが、そこから少し隔てた谷間の集落は、どこか三陸地方に似ている。

博物館に立ち寄ったあと、日が暮れるまでの短い間に市の中心部へ降りていった。2008年に完成したばかりの防波堤がいとも簡単に決壊し、釜石もまた壊滅的な被害を被った。かつて鉄を生産した溶鉱炉は今では動いていないが、もし動いていたとしてもかなりの被害を受けたのではないか。今は新日鉄住金となった近代的な工場を見ていると、ここが少し特殊な土地に思われてくる。それまでは漁業の町ばかりを通って来たからだろうか。

ここもまた造成中のニュータウンのようになった市街地を運転していると、いきなり被災当時のままの建物がそのまま残されていたりして驚く。だが、今では町にも自動車が溢れ、私の通った時刻は丁度帰宅のラッシュであった。カーナビの渋滞マークが初めて表示され、私はその釜石街道を遠野市方面へ走らせるうち日が暮れた。三陸は夕陽が山に沈むので、暗くなるのが早い。

釜石の町を抜け、高速道に入るまでは結構長い道のりで、その間、多くの商店などが立ち並んでいた。少し都市風の生活の雰囲気を感じた。途中、中学校の前を通った。クラブ活動でライトをつけ練習中の学生を見ながら、私は釜石の学校で震災と同時に全員が山に駆け上り、ほとんど被害が出なかったというニュースを思い出した。

私の三陸への短い旅は終わったが、被災地としてこの地域を見るのはもう十分だとも思った。今回行けなかった大槌、山田、田野畑、宮古、田老、そして久慈といったところへは、是非観光で訪れたい。三陸海岸のまだ三分の一しか見たことになっていない。今度はできれば夏がいい。コバルトブルーに染まる海へ落ち込む断崖の岬を、自由に巡ってみたいと思った。

遠野市に入ると、それまでなかったショッピングセンターやファーストフードの店が目に入ってきた。「遠野物語」のふるさとは僻村のイメージだが、三陸地方に比べると広く開けているな、と思った。だが、そこから北上市に向かうと、金曜日の夜まだ7時だというのに、何十分も前後に車が走らないような山間部を通る。一桁の気温も日没とともに下がり始め、内陸のせいか雨が降ってきた。私はレンタカーのヒーターを入れ、ライトをハイビームにして慎重に運転を続けた。

2013年12月4日水曜日

東日本大震災の記録:被災地への旅(4)

陸前高田からはまっすぐに大船渡を目指した。ここからはいよいよリアス式海岸の地形が顕著になり、国道からそれて半島に行く誘惑にかられる。だが私は日が暮れないうちに釜石に着かなければならず、今日その後は遠野を通って北上まで行かなければならない。11月も下旬となると4時には日は傾き始め、5時には真っ暗となる。北国ではなおのことだ。だが、今日の三陸海岸は快晴で気温も高く、風景はまったく素晴らしい。もし交通網や生活インフラが整備され、高台に住むことができるならそう悪いところではないな、と正直思った。これは実際旅行してみないとわからない感覚である。

大船渡は、特に深く「のこぎり」の刃が切れ込んだ大船渡湾に面した町である。海から押し寄せた津波は、このような狭い地形に力が集中して、波もより高くなっただろう。そういうことが容易に想像できる。だからといって何百年もそこに住まない、ということなどそう簡単にできることではない。

大船渡の中心も漁港で、周り一面がやはり更地になっていた。JR大船渡線の走る線路は道路となって舗装され、バスとして運行されているようだ。鉄道の復旧の見通しはほぼないように感じられた。気仙沼と同様に、被害を免れた高台の地域と更地となった被災地域が比較的近く、そういう意味で街全体が消失した陸前高田とは雰囲気が異なっている。

私はラジオで地元のFM放送を聞きながら、大船渡の町を通り抜けた。次の目的地、釜石までは、区間的に開通している高速道路を通ることができる。そうでもしなければ山また山の曲がりくねった道を行かなくてはならない。つい最近まではそのような道しかなかったことを思うと、ここから北は相当不便なところだと想像がつく。だが、トンネルを真っ直ぐにくり抜いた高速道路によって、風景の印象もずいぶん異なってくる。この区間は内陸部を走るので、海からは少し離れる。

次に海が見えた時、私は何の計画もなく海沿いの小さな集落を目指してみることにした。被災したのは大きな街だけではないだろう。知られていないところも多くが消失したのではないかと思われたからだ。ところがそこには三陸鉄道南リアス線の駅があって、何人もの観光客がたむろしていた。駅舎に列車は来ても、そこから先はバス(BRT)が運行されており、丁度その接続の時刻だったからだ。ここが開通区間と未開通区間の境目の駅だったのだ。

その駅は「吉浜」といい、駅舎の中に役所の出張所が設けられている他に、待合室を利用した展示も行われていた。もちろん地震と津波に関するものであった。その展示では、もとの集落の風景と震災後の様子、それに復興に向けた取り組みなどが紹介されていた。その中で私が驚いたのは、この吉浜では、たった一人の死者も出さなかったという事実である。もちろん集落は壊滅した。しかし先人の知恵が働いた。このようなところもあるのだと、私は何か少しは救われたような気持ちになった。来年には三陸鉄道は全線が開通するそうで、その時にはここの線路を鉄道が走るのだろうと思って写真を撮ったりした。


その「奇跡の集落」吉浜について。私は帰宅後、吉村昭の「三陸海岸大津波」を再び斜め読みしたのだが、そこには明治三陸大津波によって、吉浜村は全滅状態になったと書いてあるのを発見して息を飲んだ。その死者数は「人口1075名中、982名」となっている。生き残った人は100名にも満たなかったことになる。このような犠牲を教訓に活かしたということになる。だが、ここは近くに登れる高台もあり、そして集落もそう大きくはない。これが陸前高田だと、そうはいかない。

三陸海岸は、もともと人口の少ない地域であった。被災人口の最も大きかったのは、石巻や仙台を始めとする宮城県で、ここだけで阪神大震災の規模を上回ったことになる。そして津波は福島県も襲った。福島県の津波は、そのあとに続く原発の被害が重なって、訪れることさえできない。今回の津波の被害の不幸のひとつはまた、原発の問題によってそのことが置き去りにされてしまったことだろう。「みちのく」がさらに遠く感じられるようになってしまった。

2013年12月3日火曜日

東日本大震災の記録:被災地への旅(3)

陸前高田の被災の風景は何と形容していいのかわからない。ここを通りがかるときの心情は、驚き以外の何物でもない。辺り一面何もないのである。もともとここには街があった。しかし初めてここを訪れる者には、その違いさえもわからない。

唐桑半島と広田半島に挟まれた広田湾の小さな平野は、三陸海岸では最大級のものである。広田湾奥には気仙川が流れこんでおり、その運ぶ土砂で形成された砂州には高田松原が東西に続く。高田松原は石川啄木の歌碑などもある景勝地で、ここには松の木が何と7万本も植わっていたらしい。その白砂青松の海岸の歴史は江戸時代前期にまで遡り、国道沿いに「道の駅」もある、いや、あったというべきか。その「かつての」道の駅の建物の前には、慰霊の小屋が建てられていたが、ここは新たな観光地の駐車場にもなっている。それはわずかに一本だけ津波に耐えた「奇跡の一本松」である。

バス停の名称まで「奇跡の一本松」となっていた。しかしここには小さい小屋で営まれるコーヒー・ショップとガソリン・スタンドがあるだけで、他には何もない。かつて戦争で空襲が終わると「あたり一面焼け野原になった」などと私の祖父は語ってくれたものだったが、そのような光景とはこういうものなのだろうか。肝心の一本松は、海水によって腐食が進んだが、現在は復元されて移されている。バス停からは結構歩く距離ながら、どのようにして行けばいいのか案内もなく、私は工事中のエリアを隔てて遠くに見える松の木を写真に収めた。それ意外にもやたらと工事が多く、ダンプカーやトラックが国道をひっきりなしに通り過ぎて行く。

この陸前高田では、市役所や避難所までが被災した。そして病院の4階までもが水に浸かった。陸前高田に入る前に、津波が襲った当時のままの中学校の校舎があって、一瞬ドキッとした。一方、陸前高田から次の大船渡へ向かう途中、これも津波当時のままの鉄筋アパートがむき出しになってさらされており、再びドキッとする。この2つの建物は、丸で象徴的なものとして保存されるのを待っているかのように、不思議とそこだけ手が付けられていない。震災の直後は全てがこのような感じだったのではないかと思うと、恐ろしくなる。

国道を走ると至る所に標識が掲げられている。それは津波で浸水した区間を示すもので、この先は危険ですよ、その前ならまあ安心ですよ、と言っているようなものである。また浸水区間には、避難のためどちらにどの程度逃げればいいのかが示されている。だが、陸前高田のような広い平野では、中心地にいると逃げようにも逃げられない。どうすればいいのか全く頭の痛い問題である。見上げると山の中腹が工事中であった。そこに居住地域を作ればいい、ということだろうか。だが町を復元するには気の遠くなるような時間がかかるだろう。

2013年12月2日月曜日

東日本大震災の記録:被災地への旅(2)

気仙沼は塩釜や石巻と並んで、三陸を主な漁場とする大規模な漁港があることで知られている。このあたりは宮城県で、リアス式海岸の壮大な眺めが続く土地というよりも、むしろ漁業が育んだ都市の雰囲気が濃い。大きな湾に大島があることによって、内海のように穏やかである。インフラが整備され、比較的高い山に阻まれていないから、高台もそれなりに存在する。私は一関から国道を下り、気仙沼に入ったが、町中の郵便局あたりに来ても、そこままだ古い町並みが残り、被災地という感じがしない。

気仙沼漁港に行ってみた。するとそこは一面ニュータウンの造成地のように綺麗に整地され、まるでこれから団地が立ちますよ、とでもいう感じである。だがそれこそが津波によって街ごと流された地域だった。当時を物語る壊れた建物はもう残っていない、と思った矢先、一階が吹き抜けのビルが目に留まった。2階から上はガラスが割れ、鉄骨がむき出しに成っている。どういうわけかそのような、取り壊される機会を失った建物が、時折存在する。漁港の建物は新築されたのか、とても綺麗だったが、その側面に津波の高さを示す標識がかがられていた(写真)。

昼食を取ろうとしていたら、港の入口に「復興商店街」というのがあった。大島へ渡るフェリー乗り場の前には駐車場が設けられ、専ら観光客用のスペースとなっていたが、その日は平日の金曜日で閑散としている。向こうの山の中腹に教会が見え、大島行きのフェリーものどかに止まっている。これだけを見れば、とても被災のことは忘れてしまいそうな、平和な風景である。だが記録によれば、ここは重油タンクがもとで大火災を引き起こしたところである。3月11日の夜、私は歩いて帰宅中の妻を待つ間中テレビのニュースを見ていたが、この為す術のない火事のニュースには胸が傷んだ。阪神大震災の時の長田の火事のことが思い出されたからだと思う。


復興商店街は各地に設けられていて、どこも仮設プレハブの商店が立ち並んでいる。土産物屋や飲食店が多く、そのうちの一つに入って「漁師の海鮮丼」なるものを注文した。鮪を始めとする遠洋漁業の中心地だけあって、値段の割にはボリュームもあり、大いに満足すべきものだった。その店の壁やテーブルには、数多くのメッセージがマジックで書かれていた。中には有名人のものもあるとお店の女性店主は語りかけてきた。

開店して丁度2年目になる明日は、お祭りをするそうである。「どこから来たのですか?」と話しかける彼女は、私に100円安く会計をしてくれた。私はそのお金をフィリピンの台風被害義捐金として寄付することにした。メッセージには、松江や稚内など全国各地の訪問客のものまであって、被災地にも多くの人が足を運んでいるのだと思った。快く観光客を迎え入れてくれた気仙沼を後にして、私は再び岩手県に入った。次の訪問地は陸前高田である。遠くに深い入江が見えた。快晴の空に雲がなびき、終わりかけの紅葉が山々を黄色や赤色に染めていた。

2013年12月1日日曜日

東日本大震災の記録:被災地への旅(1)

一関は「杜の都」仙台の北約100キロにあって、世界遺産の中尊寺がある平泉やくりこま高原への玄関口である。岩手県とは言えここは南の淵にあたり、これから向かう気仙沼は、逆に宮城県が北に少し入り込んだところにある港町である。この2つの都市は、鉄道ならJR大船渡線、国道なら284号線で結ばれている。東日本大震災の被災地を廻るはじめての旅のスタートに、私は気仙沼を選んだ。ここから三陸海岸沿いに、国道45号線を北上する予定である。

三陸復興国立公園(陸中海岸国立公園から変更)というのはとても広く、北は青森県の八戸あたりから、南は松島近くまで、全長600キロにも及ぶ。北へ行けば断崖絶壁のリアス式海岸で、のこぎりの刃のような曲がりくねった地形を、上ったり下ったり、海にへばりつくように形成された漁村を通って行く。それらは近代まで、内陸部との交通は遮断され、冬は寒く、耕作地も極めて限られていた。生活の場といえば漁港がある猫のひたい程の入江と、そこに寄り添うように建てられた家屋で、隣の村へ行くにも峠を越えるよりは舟に乗るほうが容易く、そのようにしてわずかな交易を行うという日本でも有数の僻地であったということは容易に想像できる。

今でも高速道路はなく、南北を貫く鉄道が悲願のもとに開通したのは、構想から80年以上が経過した1984年である。手元に1983年の時刻表があるが、その東北地方の巻頭地図には、この三陸鉄道はまだ掲載されていない。そのような「陸の孤島」に、インフラ整備がようやく整えられてきた矢先、今回の大震災は発生した。

三陸地方を襲った津波は、もちろん今回が初めてではない。明治以降に限定しても、
  • 1896年(明治29年)6月15日:明治三陸地震による津波(明治三陸津波)
  • 1933年(昭和8年)3月3日:昭和三陸地震による津波(昭和三陸津波)
  • 1960年(昭和35年)5月24日:チリ地震による津波(チリ地震津波)
といった、3回もの多数の死者を出す大津波が記録されており、その様子は「三陸海岸大津波」(吉村昭著、新潮文庫)に詳しい。このような経験から、次に来る津波に備える共同体的知恵が存在しなかったわけはないだろう。だが、時を隔てて襲った今回の大津波は、それまでの津波を大きく越える規模で、近代以降に建てられた建造物をもすべて流してしまうほどであった。
 
三陸海岸を旅行する計画を立てたことは、これまでに幾度もある。日本全国を回ってきた経験から、岩手県に行くと次はぜひ、北上山地を越えたいと思っていた。しかし交通の不便さのため、休みが長期間取れないとあっては、断念せざるを得なかった。それを覚悟してまで訪れたい観光地に乏しいというのも、偽らざる理由であった。
 
しかも震災によって、ここの旅行は一層困難なものになってしまった。交通網は寸断され、次にまたいつ来るかわからない地震に怯えながらの旅行となると、かえって復興の足かせにならないかと気が引けた。それでも徐々に訪れる人が多くなっていったようだが、私は長らく躊躇していた。いかんせん、被災地になったからという理由でここを訪問すること自体、不謹慎に思われた。阪神大震災の時は、実家がすぐそばにあって、友人が近辺で働いていたりしたこともあり、わずか1か月後には私は神戸の変わり果てた町を歩いたのだが。
 
加えて、今回の東日本大震災の特徴として触れないわかにはいかないのが、この途方も無い自然災害を、その向こう側に覆い隠してしまうような人的災害、すなわち原子力発電所事故が、より身近な問題としてあり続けたことである。私の住む東京から三陸へ向かうには、福島県を通過する必要が有ることが象徴するように、原発事故が収束しないうちに三陸の復興を願うだけの心理的余裕が、残念がら持てないでいたことを正直に書いておく必要がある。大震災は、いまでも身近にあり、それが一段落したとは思えないのであった。
 
だが原発の問題に隠されて三陸の復興が遅れるとすれば、それはまた大いに不幸なことである。そう考えると以前から・・・それは中学三年の冬以来・・・何度も足を運ぼいうとしてきた三陸地方に、丁度地震から2年半が経過した時点で、その夢を果たすことができるかも知れない・・・そう私が気づいたのは、家族が一人旅の時間をあたえてくれたからである。一人でしか行けないところへ、わずか1日とは言え、でかけることができるなら・・・私は迷わず被災地を選んだ。そして地図を片手に、どこからどこへ行くべきか連日考えた。
 
私が想像していたより三陸海岸は、ずっと広大であった。岩手県を南北に貫く険しい北上山地が大きな障害だった。ここを東西に移動するだけで何時間も必要だった。すべての町を一日で廻るのはとても無理であった。私は松島までは行ったことがあるので、できればより北の方・・・そこはリアス式海岸がもっとも特徴的な姿を見せるところである・・・に行きたかった。しかし東北新幹線の駅から比較的アクセスの良い場所として、岩手県の南部を選ぶしかなかった。
 
2013年11月22日、私は会社を休み東北新幹線「はやて101号」に乗り込んだ。一関で車を借り、気仙沼の市内へ入ったのは、もうお昼頃だった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...