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2026年3月16日月曜日

ジョルダーノ:歌劇「アンドレア・シェニエ」(The MET Live in HD Series 2025-26)

ジョルダーノの歌劇「アンドレア・シェニエ」は、ヴェリズモ・オペラの中でも屈指の名作でありながら、これまで Met Live で取り上げられることがなかった。理由はおそらく明快で、主役を担える理想のテノールがなかなか見つからなかったのだろう。私自身、この作品を実際に観るのは今回が初めてである。とはいえ、オペラ好きとしては、いつまでも避けて通れない作品でもあった。

ディスコグラフィを眺めれば、往年の名テノールたちがこの作品に挑んできた歴史が見える。ディ・ステーファノ、ゴッビ、デル・モナコといった大御所たち。さらにドミンゴ、パヴァロッティ、カレーラスと続く黄金時代。しかし、その後は途切れてしまう。そんな中、今回の MET が選んだのは、近年ほとんど専属歌手のように活躍しているポーランドのピョートル・ベチャワ(アンドレア・シェニエ)。相手役にはブルガリアのソニア・ヨンチェヴァ(マッダレーナ)、そしてもう一人の主役とも言えるジェラール役にはロシアのイゴール・ゴロヴァテンコが名を連ねた。

東欧の三人がニューヨークに集い、フランス革命時の実話をもとにしたイタリア・オペラを歌い上げる。指揮者は MET Live には初登場ながら、すでにここの首席客演指揮者を務める若き俊英ダニエーレ・ルスティオーニ。しかも今年から都響の首席客演指揮者にも就任するというから、日本の音楽ファンとしては期待が膨らむばかりだ。

舞台はニコラ・ジョエルの演出で、第1幕冒頭には巨大なソファが運び込まれるという大胆な幕開け。音楽はイタリアらしい情熱を湛えつつも、プッチーニほど甘美に傾かず、どこか古い伝統の香りを残している。その古風さが批評家には物足りなく映ることもあるようだが、聴き手にとってはむしろ魅力の一つだ。何しろ、このオペラには聴きどころが実に多い。

第1幕のハイライトは、詩人シェニエのアリア「ある日青空を眺めて」。最高音 B♭ が2度も現れる難所で、幕間のインタビューでベチャワ自身がそのプレッシャーを語っていた。さらに第4幕冒頭には「5月のある美しい日のように」というアリアが控え、気品と信念を兼ね備えた歌唱が求められる。まさにテノールが主役のオペラであり、ソプラノでさえ脇に回るほどだ。

そのソプラノの見せ場は第3幕、マッダレーナがジェラールに懇願する名アリア「母は死んで」。一方、ジェラールにはその前に「祖国の敵」という力強いアリアが用意されている。どちらもガラ・コンサートで頻繁に取り上げられる名曲で、単独でも十分に舞台を支える力を持つ。

そして終幕には、断頭台へ向かう二人が歌う壮絶な二重唱「君のそばにいると、僕の乱れた心も」が待っている。かつて MET の資料室長だった P・クラーク氏は、この場面について「ここで身震いしない人は脈拍を確かめた方がいい」と語っている。けだし誇張ではない。

表題役のシェニエは、若い詩人である。しかし幕が開いてまず登場するのは、革命前の貴族生活を楽しむコアニー家の下僕ジェラールで、彼は冒頭からアリアを歌う。一方、同じサロンに令嬢のマッダレーナが登場。詩人シェニエの歌う即興詩にジェラールともども魅せられる(第1幕)。

5年後。ここからがややこしい。恐怖政治が吹き荒れる中で今や革命政府の要人となったジェラールと落ちぶれたマッダレーナが再会。ジェラールはマッダレーナに告白し、シェニエも登場して決闘を交えるが、ジェラールは2人を逃がす(第2幕)。

今回のMET Liveでは、第1幕と第2幕、第2幕と第3幕の間にそれぞれ休憩があり、そのあと第3幕と第4幕は続けて上演された。この後半は集中力が欠かせない見どころの連続である。反革命分子として捕らえられたシェニエを、マッダレーナは体と引き換えに助けてほしいとジェラールに懇願。その姿勢に心を打たれたジェラールは、2人を許す決意をするのだが、時すでに遅し(第3幕)。2人は高潔な死を歌い断頭台へと向かう(第4幕)。

アリアを含め、記憶に残るキャッチーなメロディーがないあたりが、プッチーニには及ばないところ。名舞台の映像を見慣れた人には物足りなさもあるかもしれないが、私のように初めて全編を観る者にとっては、新鮮な驚きの連続だった。指揮者ルスティオーニの自然でダイナミックな音楽づくりも心地よく、アリアが終わるたびに客席からブラボーが飛び交う。イタリア・オペラならではの熱気を、休日の朝にたっぷり味わうことができた。

2025年4月15日火曜日

東京春祭オーケストラ演奏会(2025年4月12日東京文化会館、リッカルド・ムーティ指揮)

2005年「東京のオペラの森」として始まった音楽祭は、今年でもう21周年を迎えたことになる。2010年からは「東京・春・音楽祭」として、丁度桜の咲く3月から4月にかけての上野公園一帯で繰り広げられる音楽祭として規模も拡大し、今ではすっかり春の風物詩となった。

私は2014年から4年かけて行われた「ニーベルングの指環」の演奏会を鑑賞したのをはじめ、今年までほぼ毎年、何らかのコンサートに出かけてきた。最初は小澤征爾を中心に、新作オペラを上演するというのが恒例だったが、2006年(たった2年目)からはリッカルド・ムーティも登場し、その後毎年のように何らかのコンサートを指揮するようになった。今彼が指揮するオーケストラは、専ら若手を中心に特別編成された東京春祭オーケストラで、海外の劇場とのコラボレーションや教育的なプログラムなど、様々な企画が始まり、その他にも多彩な顔ぶれと普段は聞けない珍しい室内楽曲など、意欲的で興味深い日々が続く。

今年の管弦楽のコンサートのトリを飾るのが、リッカルド・ムーティが指揮するイタリア・オペラの序曲・間奏曲などを集めたプログラムであることを知った時、私は即座にチケット購入を決意、妻と二人で出かけることにした。何と言っても御年84歳にもなるムーティが、(それでも彼は毎年何回か来日しているようだが)なお現役の指揮者として意欲的な演奏を繰り広げているのを観たいと思ったし、いまや巨匠とも言えるような指揮者は、ティーレマンを除けば彼が最後ではないか、などと考えたからに他ならない。

ムーティを聞くのはこれが3回目(正確には4回目)である。最初は1990年、旅行先のニューヨークでのことだった。この頃ムーティは、オーマンディの後を継いでフィラデルフィア管弦楽団のシェフを務めており、ニューヨークへもたびたび訪れて定期的な演奏会をしていた。この時聞いたのはベルリオーズの「夏の夜」(独唱:バーバラ・ヘンドリックス)とスクリャービンの交響曲第3番「法悦の詩」だった。1階のオーケストラ席真正面で聞いた演奏は大変見ごたえがあったが、当時の私にとっては馴染みの曲ではなく、あまり印象は残っていない。

その後ムーティの指揮する極めつけの2つのオペラ(「ナブッコ」と「シモン・ボッカネグラ」、いずれもローマ歌劇場の来日公演)を大枚を払って立て続けに見て、もうこれ以上のものはない、と思って遠ざかっていた。その間にアバドや小澤征爾が亡くなり、メータやバレンボイムも活躍を聞かなくなった。私がクラシック音楽を聞き始めた頃、まだ若手だった指揮者が次々と姿を消してゆく中で、ただ一人まだ精力的に活躍を続けているのがムーティである。今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは、ムーティの指揮だったことは記憶に新しい。

けれどもこのムーティのニューイヤーコンサートは、私を少々がっかりさせた。ウィーン・フィルの響きがいつもとは違って精彩を欠いていたからだ。録音の方はそう思えず、これはテレビのライブ中継を見た時の感想である。もしかしたらムーティも、高齢による衰えを隠し切れなくなったのだろうか。だとしたら私は今回の来日コンサートで、もはや精彩を欠いた彼の指揮姿を見ることになるのだろうか?まあそれはそれで、記念になると思いつつ当日を楽しみにしていた。

だが指揮台に現れたムーティは、足取りも軽やかで指揮姿も勇みよく、確かにかつての若々しさはないものの、なかなか切れのある音楽を作るではないか。この若手中心のにわか作りのオーケストラを、短期間のうちに手中に収め、歯切れのよいリズムと旋律がくっきりと浮かび上がるカンタービレに特徴付けられた往年の音作りは、まさにムーティの真骨頂であり、誤解を恐れずに言えば、正真正銘のイタリア流であった。

ムーティはまず「ナブッコ」序曲(ヴェルディ)で期待を膨らませたあと、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ)のうっとりするようなメロディーを、実際幕間に聞こえる間奏曲らしく演奏した。前半のプログラムで私が最も感動したのは、「道化師」間奏曲(レオンカヴァッロ)だ。「カヴァレリア・ルスティカーナ」と合わせて上演される2つのヴェリズモ・オペラのうち、「カヴァレリア」の方が親しみやすく音楽もきれいだが、「道化師」の方がやや複雑な心情を表現しており、音楽的充実度が高い。イタリア・オペラの神髄ともいうべき人生の宿命と儚さを、簡潔かつ雄弁に表現している。

ムーティはこのあと、「フェドーラ」間奏曲(ジョルダーノ)、「マノン・レスコー」間奏曲(プッチーニ)と続けて演奏し、これらはいずれも実際の劇中で演奏されると極めて印象深いが、このように間奏曲のみ立て続けに演奏されるとやや単調になる。けれどもこれは贅沢な悩みでしかない。思えばムーティのプッチーニなどどいうのも珍しい。

前半最後を飾るのは「運命の力」序曲(ヴェルディ)で、これは十八番中の十八番。確かフィラデルフィア管弦楽団との来日の際にもアンコールで演奏された記憶がある。トスカニーニ張りの緊張感を保ち、音の強弱を際立たせながら、流れるようなメロディーとたたみかけるようなリズムは健在だ。そういうわけで満員の客席からは前半からブラボーも飛び交うこととなった。

今回の客席には高齢者が目立ち、足どりも重い人が多い。にもかかわらず東京文化会館というところは、トイレに行くにも階段を上り下りしなくてはならず、しかも狭い。傘立てもなく客席は狭いが、音響は悪くない。

後半のプログラムは2つ。まず、カタラーニの「コンテンプラツィオーネ」というめずらしい曲。この曲を聞くのは勿論初めてだったが、わずか10分余りの長さながら、やはりそこにはレガートで音と音がなめらかにつながれてゆくさまを味わうことができる。なお、コンサートマスターはN響の郷古廉である。

もう後半最後になった。「ローマの松」(レズピーギ)である。オーケストラが最大に拡張され、3つの鍵盤楽器のほか両脇に金管楽器の別動部隊も配置された。クラシック音楽で最大の音量を誇るこの曲は、その圧倒的なコーダで有名だが、きらびやかな冒頭と夜の静けさを表現した中間部、それに朝もやにこだまする小鳥のさえずりなど、聞き所には事欠かない。ムーティはゆったりとしたテンポで味わい深く音を刻み、その印象は、これまで同曲を聞いた中では最高のものだった。

オーケストラは指揮に極めて忠実に対応した。コーダに向かって大団円を築く時、フォルティッシモになっても乱れない響きの綺麗さには圧倒された。イタリア音楽を演奏するとき、音というのがどのように重なり、繋がり、あるいは引き延ばされるべきか、何度も細かく練習したのだと思う。これはムーティにしかできないような職人技に思えた。拍手の大喝采、ブラボーの嵐が満員の会場にこだました。退場時に抱き合って喜ぶオーケストラのメンバーに惜しみない拍手が送られた。そしてムーティも、退場しかけたオーケストラの中に再び登場、花束を持って会場に手を振っていたのは印象的だった。

2024年1月9日火曜日

第21回東京音楽コンクール優勝者コンサート(2024年1月8日、東京文化会館)

お正月休みが終わったと思ったら、すぐに3連休となった。本来なら趣味の街道歩きか、もしくは近郊へのドライブなどに出かけるところである。天候も良く連日快晴が続いている。東京を訪れるには冬に限る、とどこかの国の旅行ガイドには書かれているそうだ。

しかし今年のお正月は、カレンダーの並びが悪いことに加え、コロナ明けで帰省ラッシュが再来したため、結局どこへも行かず家でじっとしていた。そうしたら大地震や旅客機の事故が発生し、旅行気分ではなくなってしまった。そして3連休も「傘寿記念・桂文枝独演会」と散歩くらいにしか外出していない。あまりも侘しいので、何か音楽会でもと検索したところ、東京文化会館で「東京音楽コンクール優勝者コンサート」というのが開かれることがわかった。コントラバス、ファゴット、ピアノのそれぞれの優勝者をソリストに、3つの協奏曲が演奏される。そのプログラムの面白さもさることながら、オーケストラが下野竜也指揮新日フィルというから悪くない。値段も3000円以下と手ごろである。そこで急に思い立ち、開演3分前に会場に到着、当日券を買って2階席へ。

クラシック音楽のコンサートは、何の口上もなく始まるのが通例である。しかしこの日は出演者の紹介のため、元テレビ朝日のアナウンサー、朝岡聡が登場した。彼は手際よくこのコンクールのあらまし、それから登場する演奏者のプロフィールなどを紹介、チューニングも終えて最初の曲、ロータのディヴェルティメント・コンチェルタンテが始まった。ロータは映画音楽で有名なイタリアの作曲家で、近年は彼のクラシック音楽作品がよく演奏されるが、この曲は大変珍しい。なぜならこの曲は、コントラバスの協奏曲の趣があるからである。

ソリストは本コンクール弦楽部門の優勝者である水野斗希という若干二十歳の若者で、すらっとした体格ながら大きな楽器を携えて登場、普段あまり聞くことのできないコントラバスの独奏を楽しむことができた。2023年に始まったこのコンクールは、まだ歴史が浅いが、これは彼が生まれた年でもあり、そして本日成人式を迎えるとのことである。ヴァイオリンやチェロなど、奏者の多い弦楽部門でコントラバスの奏者が優勝するのは初めてだそうだ。

冒頭、下野の指揮するオーケストラが大変心地よい響きで驚かされる。下野の指揮というのは、派手ではないが安定しており、アンサンブルの見事さはなかなかのものだと感心している。東京文化会館のデッドな響きにも巧く対応し、バランスの良さが際立つ。そこの重厚なコントラバスの響きが重なる。

結構長い曲で全4楽章はあっただろうか。軽やかでイタリアの光を感じる作品に、しばし心を奪われる。重音やフレジオレットといった、オーケストラ・パートとしてはまず演奏されることのない技巧も駆使した曲は、一聴の価値があると思ったが、なかなかこういう曲を二度と聞くこともないだろうとも思った。今日もっとも関心したのは、この曲のこの演奏だったかもしれない。

続いては木管部門の覇者である保崎佑という方が登場。彼は音楽学の博士課程も修めた経歴の持ち主で、年齢は先の水野より10歳年上である。ファゴットもまたオーケストラでは最低音を担う楽器で、独奏を務める作品は少ない。有名なモーツァルトの作品もあるが短い曲。それに比べると今回演奏されたロッシーニの協奏曲は、歌うように流れるロッシーニの爽やかな音楽が魅力的な作品である。

ところがこの曲は、出版されたのが2000年代に入ってからだと朝岡が説明する。自筆譜が存在しておらず、正確にはロッシーニの作品であるかどうかはわからないそうだ。まあそれでもロッシーニだと思って聞けば、そのように信じることができる。リードを曲の途中で何度も変えながら、安定感のある演奏を披露して拍手を誘っていた。彼は観客の投票によって決まる「聴衆賞」というのも受賞しているそうだ。

休憩後はピアノ部門の優勝者である佐川和冴という25歳のピアニストが登場、選んだ曲が何とベートーヴェンの第2番のコンチェルトだった。この曲は第1番に先立って作曲されたことは有名で、度重なる改訂を経てベートーヴェンらしさも十分に感じられる素敵な作品だが、演奏される機会は最も少ない。だが彼はこの曲がもっとも好きだと話す。そしてベートーヴェンが自らこの曲を初演したのは、丁度彼と同じ25歳だったというから思い入れが強い。そして彼は大きく体をゆすりながら、まるでモーツァルトのように朗らかに、この曲を披露した。深々とした第2楽章は特に素晴らしく、オーケストラも献身的だった。どこか女性ピアニストを聞いている感じだった。

クラシック音楽に造詣の深いベテランの司会によって、この日のコンサートは通常以上に引き締まって楽しめることになったのは間違いない。そして最後にソリスト3名が再び登場、会場の大きな拍手を受けて、まだ初々しい表情が素敵である。2024年の最初のコンサートでは、このような新鮮な気持ちを感じることとなった。少し寒いがそれでも例年よりは温かい年明けの上野公園も、17時を過ぎればすっかり日が暮れて、大勢の人々が家路を急ぐ。東京文化会館と上野駅は50メートルくらいしか離れていないので、歩いても1分とかからない。その短い距離を爽やかな新春の風が、心地よく吹き抜けていった。

2022年9月27日火曜日

東京都交響楽団第398回プロムナードコンサート(2022年9月23日サントリーホール、小泉和裕指揮)

コロナ禍に見舞われた2020年は、ベートーヴェンの作品が数多く演奏されるはずだった。しかしそれが叶わなくなり、私も大変残念だった。だから、その後徐々に再開されたクラシックのコンサートでベートーヴェンの作品がプログラムにのぼると、私はできるだけ聞きに行こうと思ってきた。奇数番号の交響曲で、この願いはまず達成された。そして今回、「田園」のプログラムが目に留まった。指揮は都響の終身名誉指揮者、小泉和裕。毎年何回か開かれる「プロムナードコンサート」と題された、わずか一夜のみの名曲プログラムは、実のところなかなか充実した名演奏となることが多い。

それにしても「田園交響曲」を聞くのは何年ぶりだろうか。手元のリストを検索してみると、何と2004年にロジャー・ノリントンで聞いて以来であることが判明した。この時の演奏は究極のノン・ビブラート奏法で、舞台最上段にずらりとならんだコントラバスから響く嵐のすさまじさに圧倒されたものだった。もはやベートーヴェンの交響曲は、従来のモダン風演奏には出会うことができなくなったとさえ思った。まあ、古楽器奏法の魅力に取りつかれていた私は、それでも良いか、などと納得していた。

それから20年近くがたって、今では様々な演奏が切り広げられているが、ここで聞く小泉の演奏は、まっとくもって一昔前風の、つまりはモダン楽器による演奏スタイル。とはいえ、カラヤン譲りの颯爽とした演奏はスタイリッシュで新鮮である。いわゆる巨匠風の悠然たる演奏ではないが、昨今の過激なまでに集中力のある演奏とは一線を画す、安心して聞いていられる演奏である。こういう演奏が結局は人気が高いようだ。サントリーホールは、コロナ禍で私が出かけた演奏会の中ではもっとも客入りが良かったように思う。私も久しぶりに「田園」を聞きながら、長かった2年半の「非日常」の日々と、特に今年の夏に起こった公私にわたる様々な困難に、思いを馳せた。

いっときはどうなるかと思った夏の日々を回想しながら、まだ続く不順な天候に自律神経がかき乱されている最近の状況も、わずかずつではあるが時が経つにつれて改善されているように思える。何も手につかない日々が続いたが、それも癒されていくのだろう。そう「田園」には、ベートーヴェンのモチーフである「困難を克服して喜びに至る」テーマが反映されている。

今回の演奏では第3楽章の繰り返しが省略されていた。「農民たちの楽しい踊り」もあっという間に嵐が来て、乱されていく。しかしすぐに始まる「神々への感謝」とともにフィナーレに向かった。それにしてもわが国のオーケストラも聞いていて上手くなったものだと改めて思った。そつなくこれくらいの演奏はできるのである。

休憩をはさんで演奏されたのは、レスピーギの「ローマの噴水」と「ローマの松」であった。この2曲は、やはり実演で聞くに限る。オーケストレーションの巧みさを肌で感じることができるからだ。録音だとつい聞き逃してしまうわずかなフレーズやアンサンブルに、耳をそばだて集中して聞き入ることができる。そして小泉の演奏が実に職人的で、これらの曲を見通し完全に手中に収め、純音楽的にオーケストラを操る余裕の演奏。

特に「ローマの松」のような大規模な曲になると、いわゆる熱狂的・扇動的な演奏になっても大変聞きごたえがあり、バランスを欠いているにもかかわらず大いに盛り上がる。それも音楽の表現ではある。けれども小泉の演奏は、その対極にあると言ってよかった。冒頭の賑やかな部分も、オーケストラをゆとりをもってドライブし、冷静でさえあった。そのため各楽器がよく聞こえt。「アッピア街道の松」が最終部に差し掛かった時でさえ、そのことは保たれた。おそらくすべての管弦楽作品中最大と言っていいような、左右の金管バンダを含め、あれだけの音量が鳴っていながら、冷静さを感じるその指揮と演奏が、私がこれまでに聞いた「ローマの松」では経験できなかった新しい側面を浮き彫りにした。

一言でいえば大変「整った」演奏だった。コンサートが終わって舞台に何度も呼びもどされた小泉も、いつもの表情で拍手に応え、台風の近づく秋分の日のコンサートがが終わった。会場を出ると、とうとう雨が降り出していた。もう9月も終わるというのに、蒸し暑い日が続く。今年の夏は異例づくめの夏だったが、それでも少しずつ、少しずつ、秋の足音が近づいている。

2022年7月24日日曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの祭り」(ロリン・マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団)

まるでチャンバラ映画の効果音楽のような大袈裟な出だしで始まる「ローマの祭り」は、一連の「ローマ三部作」の最後の作品である。もっともレスピーギは、3つの交響詩を個別に作曲したのであって、決して連作を意識したものではない。そして「ローマの祭り」は、前作の2つの交響詩とは異なり、ローマで開催された歴史上の祭りを描いているという点で、やや趣を異にしている。

第1部「チルチェンセス」は帝政ローマ時代。

まだキリスト教がローマ帝国中に普及する前のことで、当時は相当な迫害を受けていた。その象徴とも言うべきものが、見世物として庶民の興奮を巻き起こす異教徒と猛獣との決闘で、今も各地に残る円形劇場は、その催しの会場だった。もう昔のことなので、これは史実として知る以外にないのだが、それにしても残酷な話である。そしてローマの歴史上これは避けて通れないことでもある。レスピーギはそのシーンを音楽にした。

第2部「五十年祭」は中世ロマネスクの時代。

時が経ってローマ帝国は分裂し、長い中世の時代に入る。キリスト教はもはやヨーロッパ中を席巻し、各地に教会が建てられ、巡礼の道も整備された。「すべての道はローマに通ず」と呼ばれたこの都は、その巡礼の終着点の一つであった。音楽は厳かで讃美歌の旋律や鐘の音も混じえながら「永遠の都」を讃える。

第3部「十月祭」はルネサンス時代。

小刻みの速いリズムに乗って、弦楽器が高音の旋律を奏でると、やはりここはイタリアという感じがしてくる。明るく楽天的である。そして中間部にはマンドリンが登場。幽玄で穏やかな日暮れは、古風なムードを醸しながら、静かに過ぎてゆく。

第4部「主顕祭」は現代。

いよいよ最終部に入った。賑やかで大はしゃぎの音楽。それぞれの旋律が何をモチーフをしているかは、いろいろあるのだろうけど、すべてがごちゃまぜになっていく。千変万化するリズムに多種多様な楽器が入り乱れ、時に威勢よく、狂喜乱舞の乱痴気騒ぎ。

私の知る限り、マゼールは「ローマの祭り」を2度録音しているが、私が聞いたのは旧盤のクリーヴランド管弦楽団とのものである。この録音はデッカによって1976年にリリースされているが、現在では「Decca Legendsシリーズ」でリマスターされているものが手に入るだろう。あまりに通俗的だからかカラヤンやライナーが「ローマの祭り」を省略していたのに対し、ここでは「ローマの噴水」が省略され、代わりにレスピーギの師匠だったリムスキー=コルサコフの作品が収録されているのがユニークだ。

マゼールに「ローマの祭り」のような作品を振らせたら、その交通整理の巧みさと醒めた盛り上がりによって大変聞きごたえがある演奏に仕上がるのは明らかだ。音の魔術師とも言えるマゼールのアーティスティック・センスは、デッカの「超」優秀録音に支えられて、見通しが良く、細部までクリヤーだ。

2022年7月23日土曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの松」(リッカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団)

「ローマ三部作」の中でもっとも人気があり、演奏される機会が多いのが「ローマの松」である。その理由はおそらく、桁外れに大規模な編成が大音量で鳴り響く終結部だけでなく、賑やかで色彩感あふれる冒頭、それに録音テープまで流れる静謐な第3部など、聞きどころが満載だからである。オーケストラが奏でる最も小さな音から、四方に配置されたバンダとオルガンまでもが混じる最大音量までを、わずか20分の間に体験できる。まさの音の万華鏡。

その歴史的名演奏は、いまもってトスカニーニが指揮したNBC交響楽団の演奏にとどめを刺すが、モノラル録音であることを考えるとちょっと物足りない。最新のAI技術により、モノクロ写真がカラー化できるように、モノラル録音がステレオ化されるようなことはないのだろうか?そうなればこの演奏は聞いてみたい気がしている。

第1部「ボルゲーゼ荘の松」は、まるで荒れ狂ったような乱痴気の音楽だと思ったが、これは子供たちが松の木の下で軍隊ごっこをして遊んでいる様子だという。ホルンやフルートを始めとした管楽器の鋭い旋律に乗って、弦楽器や打楽器が甲高い音を立てる。だがやけに速いだけの上ずった演奏よりは、リズムを刻む冷静な演奏が、結局はいいようである。

第2部「カタコンバ付近の松」はレント。急に静かになると、祈りの音楽が聞こえてくる。奇妙な対照。途中からトランペットの旋律が入り、そのまま弦楽器に乗って厳かに大きく鳴り響く。6分と長い。

ピアノが聞こえてくると第3部「ジャニコロの松」である。深夜、月明かりに照らされてそよ風に揺れている。クラリネットが、フルートが、ハープが幻想的なムードを醸し出す。そしてやがて夜泣き鶯が最弱音のオーケストラに乗って鳴き出す。夜明け前の薄明かりに照らされて幽玄の世界が見事に表現されている、この曲の聞きどころのひとつである。ここも約6分。

とうとう最後の第4部「アッピア街道の松」に入った。最初はまだ夜明けの時刻。オーケストラはオーボエの独奏が聞こえるくらいである。しかし暫くして太陽が昇り始めると、音量はみるみるうちに上がってゆき、そこへ軍隊が行進してくると勇壮なバンダを加えて会場が壊れるのではないかとさえ思われるようなボリュームになってゆく。その間3分にも満たない。会場の前後左右から、オルガンまでもが混じってクレッシェンドを築く。この立体的な様子は、やはり録音機で捉えることができない。ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)の終結部と同様、実演で聞くしかなく、音楽が終わると少しの間難聴になっているような感じもする。

レスピーギは自らフィラデルフィア管弦楽団を指揮してこの曲を演奏したようだ。「ローマの松」はフィラデルフィア・サウンドの十八番とでも言うべき存在である。かつてはユージン・オーマンディがこの曲を指揮して名声を博したが、その演奏もいまもって素晴らしい。が、ここではムーティを取り上げることにしたのは、私がこの曲のCDを初めて買った時の演奏がムーティのものだったからである。当初録音に難があったと思ったが、今ではリマスターされこの問題は緩和されている。

本当に久しぶりにこの演奏を聞いてみたところ、外面的な効果にとらわれず、非常に音楽的であることを改めて発見した。全体の構成を良く把握しており、20分程度のひとつの交響詩としての構成感が明確である。

ところで「すべての道はローマに通ず」という言い方があるが、アッピア街道というのも数あるローマ街道の一つである。私はイタリアを何度か旅行したことがあり、イタリア語も少しかじったが、いまだこの街道を歩いたことはない。できればいつか、わずかの区間だけでも歩いてみたい気がする。思えばまだ旅行していない地域や国は数多い。

2022年7月22日金曜日

レスピーギ:交響詩「ローマの噴水」(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

街そのものが博物館と言ってもいいイタリアの首都ローマ。ここへは二度行ったことがある。一度目は1987年夏のことであり、2度目は1994年冬のことだった。どちらも天候に恵まれ、快晴だった。冬の寒さはさほどでもなかったが、夏の暑さは堪えた。当時まだ冷房も冷蔵庫も豊富には普及していなかったヨーロッパでは、特に日中の陽射しを避けるしかなく、よほどの店でもない限り、冷たい飲み物は手に入らなかった(手には入るが、値段が跳ね上がった)。それでも学生の私は、たった2日しかないローマの休日を大いに楽しもうと、朝から夜まで歩き回った。

ローマ市内の至る所に噴水があった。どの噴水も芸術的に装飾が施された彫刻と一体である。広場という広場には、そういう噴水が1つはあった。彫刻の口や手から、ふんだんに水が溢れている。夏の日差しを浴びて、その水は白く青く輝いている。水不足のヨーロッパでおそらく噴水は、贅沢の象徴だったのだろう。暑い真夏のイタリアで、少しでも涼し気な場所は、広場の噴水であった。

「トレヴィの泉」と聞くと、大阪育ちの私は阪急三番街を思い出すのだが、もちろん本物はローマにある。数えきれないローマ市内の噴水の中でも、ひときわ大きく豪華で有名なこの泉は、宮殿の一部を構成している。その前に多くの観光客が座って、長時間眺めていたりするのだが、そのスペースはさほど広くはない。その噴水に向かってコインを後ろ向きに投げ入れる。再びローマに来ることができますように、と。

レスピーギの「ローマ三部作」のひとつ「ローマの噴水」は、3つの交響詩の中でも最初に作曲された(1916年)。ローマ市内にある4つの噴水を描写している。それは時間の経過とともに、「夜明けのジュリアの谷の噴水」「朝のトリトンの噴水」「真昼のトレヴィの泉」「黄昏のメディチ荘の噴水」と切れ目なく続く。クライマックスは「トレヴィの泉」だが、それ以外の部分は静かで、派手な残りの2つの交響詩と比較して地味である。

第1部「夜明けのジュリアの谷の噴水」は、朝もやのなかに牧歌的な雰囲気が表現されていて印象的である。家畜が通って行ったりする。一方、どこか日本風のファンファーレのような(と私はいつも思うのだが)が聞こえてくると第2部「朝のトリトンの噴水」に入る。何かドビュッシーを思わせるようなメロディー。朝の陽射しがキラキラと輝く。ホルンに合わせて神々が踊る。

Fontana di Trevi(1987)
第3部「真昼のトレヴィの泉」は、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」を思い出してしまう。レスピーギはリムスキー=コルサコフから作曲の指導を受けているが、あらゆるものを壮大に管弦楽によって表現してしまうのは、リヒャルト・シュトラウスにも通じるようなところがあるように思う。

音楽が再び静かになっていく。黄昏時を迎えたローマには西日が差し、暑かった一日もようやくしのげるようになった。第4部「黄昏のメディチ荘の噴水」というのを私は見たことはないのだが、暮れてゆく光景が目に浮かぶようである。

「ローマ三部作」にはトスカニーニによる極め付けの名演を筆頭に、数多くの録音が存在するが、私がこれまでもっとも感心した一枚が、カラヤンによるものである。カラヤンの精緻な表現は、アナログ録音全盛期の高い技術に支えられて、いまでも輝きを失わない。ただカラヤンは「ローマの祭り」を録音しなかった。この通俗的な曲の代わりに、より気品に満ちた愛すべき「リュートのための古風なアリア」が収録されている。

※写真はトレヴィの泉(1987年)

2021年8月8日日曜日

東京フィルハーモニー交響楽団演奏会(2021年8月6日ミューザ川崎シンフォニーホール、指揮:アンドレア・バッティストーニ)

 ツイッターでフォローしている音楽ライターが、川崎で毎年夏に開催される「フェスタサマーミューザKAWASAKI」での音楽会について、好評のコメントを寄せている。ということは、このコロナ禍においても演奏会が開催されているということである。考えてみると神奈川県は緊急事態宣言も出ておらず(7月末時点)、中止になる理由はない。そういうわけで私も久しぶりにコンサートに出かけようとプログラムを眺めてみたら、何とバッティストーニ指揮の東フィルがまだ沢山あまっているではないか!

東フィルのコンサートも、首席指揮者として大人気のバッティストーニが指揮する公演は、いつも売切れ。私も過去に何度か行こうとしてきたが、直前だと満員御礼のことが多く、未だに一度も聞いたことがない。そうこうしているうちにコロナが感染爆発を起こし、コンサートそのものが中止になってしまったのが昨年である。東フィルに限らず、辛うじて観客数を抑え何とか公演にこぎつけた場合でも、外国からの指揮者を迎えることはできない日々が続いていた。

それに加えて、私を襲ったのが腰痛とそれに続く長い闘病の始まりであった。もうかれこれ1年近くに及び、私の下半身はいまだに言うことを聞かず、しびれと痛みが時おり襲ってくる。このような状態で2時間もの間、会場の椅子に座る自信もなければ、そもそも会場に足を運ぶだけの力も失せてしまった。クラシック・コンサートの会場では、歩くのも苦労するような人々をいつも大勢見かけるが、彼らはそうやってここへ来て座っているのだろうか、といつも思っていた。ところがその仲間入りを、私も果たしてしまった。

どうせ世の中は不要不急の外出をしないよう呼びかけられている。たとえ外出に成功したとしても、感染の恐怖に怯えながら常時マスクを装着しなければならず、酷暑の中では不快で不自由極まりない。そういうわけでわずかに開催される演奏会にも、出かけたくなる精神状態ではなかったのである。おそらく同様の状況に置かれてる人は多いと推測される。だからチケットが結構余っている。これでは演奏家の方々も可哀そうである。

コロナ禍が襲いつつあった昨年2月の新国立劇場で見た歌劇「セヴィリャの理髪師」を最後に、生の演奏会から遠ざかること1年余り。しかしここへ来てやっとのことで、腰痛は少し軽くなり、我慢をすれば外出もできるように思えてきた。そもそも人間は、旅行をしたり芸術に触れることによって人間性を回復し、家族や友人との交流によって生活を営む存在である。音楽に接することは、生活に必要な行為であると言える。演奏会への参加は、決して不要不急なものではないのである。

そういうわけで私は久方ぶりにチケットを購入し、8月6日の演奏会に出かけた。プログラムはオール・イタリアン。ヴェルディの歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲で始まり、レスピーギの珍しい組曲「シバの女王ベルキス」と続く。賑やかな演奏会になりそうだ、との大方の予想通り、カラフルなサウンドが会場を満たすと、実演で聞く音楽の高揚感が1年ぶりに私の体に押し寄せてきた。

ドリンクの販売もない休憩時間を経て後半には、世界を代表するハーピスト、吉野直子が登場。今日のプログラムの目玉であるニーノ・ロータの珍しいハープ協奏曲を披露した。

ロータは映画音楽で有名な作曲家だが、実際には複数の交響曲を含むクラシック音楽を多数作曲しており、それらの音楽が死後に演奏されることが多くなっている。ハープを独奏楽器とする曲は大変珍しいが、この曲も定番のフルートとハープの組合せだけでなく、トロンボーンやホルンなどといった楽器との二重奏などもあって、この音色の溶け合いが大変新鮮だった。ハープの清涼感あるバロック的な響きが、現代音楽の要素の中に入りこむ野心的作品に思えたが、音楽としての充実度はどうか、と問われるとちょっと答えに困惑する。

吉野直子を聞くのは初めてだった。彼女の弾くハープのディスクは、アーノンクールによるモーツァルトの定番「フルートとハープのための協奏曲」を私も愛聴しているのは、先に書いた通りである。若い頃から頭角を現し、数々の演奏家と共演を重ねている彼女はロンドン生まれだそうだが、私と一つ違いという年齢もあって親近感が沸く。そして音楽学校を出ておらず、国際基督教大学の出身であることも最近知った。

彼女は鳴り止まない拍手に応え、アンコールに小品を披露したが、これはフランスのハープ奏者だったトゥルニエの演奏会用練習曲「朝に」という曲であることが、ミューザ川崎シンフォニーホールのWebサイトに掲載されている。今日のプログラムは編成が大きく、オーケストラの中に2台のハープが置かれていた。だが彼女はこれとは別のハープを演奏した。曲の中で聞こえてくると世界が一瞬にしてモードが変わり、丸で蝶が舞うような感覚にとらわれるハープも、独奏楽器として使われると、長大な時間、重い楽器をずっと弾いていなければならないのは大変タフなことだと思わずにはいられなかった。

プログラムの最後を飾るレスピーギの交響詩「ローマの松」については、もう何も言うことはないだろう。極採色の大編成はオルガンとその左右に計7名もの金管奏者を配するもので、私の知っている音楽の中でもっとも大音量だと思う曲である。キラキラ光る鮮やかな冒頭とに挟まれて、鳥が鳴く静寂な中間部も聞きものである。私のバッティストーニに対する感想は、意外にも落ち着いたオーソドックスな指揮だということ。だから安心して聞ける指揮者だと思った。その分興奮に満ちた音楽という前評判も、私にはどこか醒めたものに感じられた。

楽団員が引き上げても指揮者のみがステージに呼び出されるのは珍しい光景である。来日した巨匠の最後の演奏会ではよく見るが、それが何と実現された。舞台に再び登場したバッティストーニは、惜しみない拍手に応えていたが、それは彼の日本での人気ぶりを表していた。

2019年3月3日日曜日

チレーア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」(The MET Live in HD 2018-2019)

あれは大学生の頃だっただろうか。FM放送から流れてくるチレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」という作品に、はじめて触れたのは。

当時私はヴェルディやモーツァルトのオペラに目覚めた時で、有名な作品であれば何でも聞いてみたいと思っていた。大学生であっても試験前の勉強くらいはするもので、その日は私も受験生時代を思い出しながら、自宅で机に向かっていた。勉強をするときは自然にラジオに手が伸びる。ところが日曜日の午後というのは、どこの放送局も競馬中継ばかり。唯一NHKのFM放送だけが、私をクラシック音楽に誘ってくれる時間だった。そういう誰も聞かないような時間帯に、NHKはオペラの全曲録音を放送することになっていた。

今でもニューヨークの公共ラジオは、メトロポリタン歌劇場の土曜日の公演を中継している。この放送を楽しみにしている人は多いようで、MET Live in HDシリーズの中でよくアメリカ人の歌手たちが、小さい頃この放送を聞いてオペラに目覚めた、などという話をしている。だが我が国ではオペラはまだ身近なものではなく、実演はおろかレコードを通しても、オペラを全曲通して聞くことなど滅多にできない時代だった。そのような時代に、NHK-FMの「オペラ・アワー」は、貴重な番組だったと言える。

透き通りような、それでいてしっとり落ち着いた声の持ち主、後藤美代子アナウンサーが喜歌劇「こうもり」の序曲に乗せて番組が始まる。その日の曲目は、私も聞いたことのない作曲家チレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」だった。どこの歌劇場の誰の演奏によるものかは、覚えていない。もしかするとその日は、CDの全曲録音ではなく、どこかの放送局のライブ録音だったように思う。タイトル・ロールを歌ったソプラノは、ミレッラ・フレーニだったかも知れないし、レナータ・スコットだったかも知れない。そのどちらかだけは、ほぼ確かだと思う。歴代の大歌手が主役を歌う作品であるにも関わらず、チレーアなどという「アドリアーナ・ルクヴルール」以外では知られていないイタリアの作曲家(唯一の例外は「アルルの女」における「フェデリコの嘆き」だろう)。ヴェルディの「椿姫」と「オテロ」、あとはプッチーニの歌劇のアリア集程度しか聞いたことのない私が、なぜかこの作品を初めて聞いて、それなりに楽しんだことを覚えている。

後で知ったことには、「アドリアーナ・ルクヴルール」は結構有名なオペラで数々の名歌手が録音を残しており、その中には上記のフレーニやスコット以外にもレナータ・テバルディ、モンセラット・カヴァリエといった錚々たる顔ぶれが並ぶ。多くの役をこなした世界的ソプラノ・スターが、やがてどうしても歌いたくなる作品、それが「アドリアーナ・ルクヴルール」とのことである。そして今回、METでその番が回ってきたのは、アンナ・ネトレプコだった。18世紀パリに実在した大女優の役と聞けば、世界中のヒロイン役を欲しいままにした人物が惚れる作品だということだろうか。

10年以上が経ったMET Liveシリーズに初登場した「アドリアーナ・ルクヴルール」は、その顔ぶれが豪華である。主題役のネトレプコに加え、アドリアーナと女性同士の熾烈な争いを繰り広げる恋敵のブイヨン公爵夫人にメゾ・ソプラノのアニータ・ラチヴェリシュヴィリ、二人が争う美男のザクセン伯爵マウリッツィオにテノールのピョートル・ベチャワという布陣。今やイタリア・オペラを歌える歌手は、みなロシア・東欧系になってしまった。一方、重要な役割を担う劇団の舞台監督ミショネはバリトンのイタリア人、アンブロージョ・マエストリである。マエストリと言えば、「ファルスタッフ」の当たり役というイメージが強い実力派である。

読む年齢によって小説の見方が変わるように、オペラ作品もまた年齢によって見方が変わる。若い頃は「椿姫」の「ある日、幸運にも」(アルフレードが第1幕で歌うアリア)などを聞いては胸を締め付けられていたが、今ではミショネの密かな恋心と、温厚で優しさを湛えた心情に心を奪われる。彼は第1幕で自分がアドリアーナの相手にはならないことを悟ると、独白「さあ、モノローグだ」で複雑な感情を吐露するものの、以降この劇には何かと出続け、いつもアドリアーナに寄り添うことで思いを保とうとする。その初老ゆえの知恵とで言うべき行動は、作曲者チレーアの投影ではないかと書かれている(音楽之友社「スタンダード・オペラ鑑賞ブックⅠ~イタリア・オペラ(上)」)のを読んで一層親近感が増した。

ストーリーは一人の男性を巡る二人の女性の鞘当てと書けば単純だが、見た感じでは随分複雑である。だが私はここで、この作品を金曜日の夜に映画館で見たときの状況を正直に告白しなければならない。2月に入って体調を壊し気味だった私は、仕事が終わってから3時間余りにもわたって映画館に座るだけの体力がないことは明らかだった。それでもこの作品は見ておきたい。この機会を逃すわけにはいかないので、私は迷った挙句、結局東銀座の駅から東劇へと歩いて行った。パンを二つ買い込み、インタビューの時間などに食べていると、予想通り睡魔が襲ってきた。

最近のMETライブには珍しく、どういうわけか客の入りが良くない。これほどきれいな歌に満ちた作品なのに意外であった。けれども音楽を子守歌にうとうととするには好都合だった。第1幕でネトレプコがいきなり有名なアリア「私は芸術の卑しい僕」を歌ったのを最後に、ほとんど記憶がない。途中、第2幕との間も切れ目なく上演されたため、私が目を覚ますのは、アドリアーナとブイヨン公爵夫人が対決する壮絶な二重唱(第2幕の幕切れ)だったのだ!おかげでこの作品のもっとも複雑な部分、すなわち政治的な理由でマウリッツィオが公爵夫人に取り入る部分をすっ飛ばして理解することとなった。

第3幕はフランスを舞台にしたオペラらしくバレエも挿入されるものだが、ここの音楽「パリスの審判」はほのぼのとしたもので、劇中の舞台で演じっれると古風でこじんまりとした感じ。チレーアの音楽は他の作曲家の作品と比べても、どことなく決定打に書ける感じがする。そんな微妙な不足感が実はこの作品の魅力で、私が学生時代に「ながら勉強」しながら聞き続けた理由もあるような気がする。つまり、何となく聞いているオペラとしては実にうってつけなのである。ヴェルディのように高カロリーではないし、プッチーニのように胃にもたれることもない。おかげで特に心に残るメロディーがあるわけでもないし、クライマックスと呼べるようなドラマチックな場面も少ないにもかかわらず、十分に抒情的で時に歌手が、感情的に変化して急に高らかに歌い始めるあたりは、イタリアにおけるオペラの大衆演劇という側面をにわかに表す。

アドリアーナがマウリッツィオに贈ったすみれの花が、よりによってなぜかアドリアーナに届けられ、恋人から絶縁されたと嘆くアドリアーナ(そういうシーンにも常にミショネは登場する)のもとへ、やっとのことでマウリッツィオが戻って来るが、彼がアドリアーナと愛の二重唱を歌う時には、ブイヨン公爵夫人が偽って届けたすみれの花に染み込まされた毒がアドリアーナに回り、彼女は痙攣を起こしながら死に絶えてゆく。

劇団コメディ・フランセーズの人間模様がこのオペラのまたひとつの側面だが、女性の嫉妬による恋敵の毒殺という劇的な要素が絡んでいる。それも歌が適度に心地よく、いわばオペラの典型のような作品だと思う。そんな作品を劇中劇として再現し、舞台の中の舞台に人間関係を表現したデイヴィッド・マクヴィカーの演出は見事だと思った。彼はまたインタビューで、本作品の本質的な要素として、真実と嘘の境界がわからなくなる点だと述べていたような気がする。第3幕の後半で、バレエを見る客席に座っていたアドリアーナと公爵夫人が、いつのまにか感情をむき出しにして歌い始める時、視点は舞台の中から外に飛び出る。「道化師」の先駆けとも言えるような設定が、ことのほか生きてくるのだと思った。

ヴェルディの後、プッチーニに向かうオペラ史の中で、ヴェリズモ的要素をほのかにたたえつつも、フランスらしい抒情性を持ち合わせた作品。指揮のジャナンドレア・ノセダは、昨年N響の定期を振った引っ張りだミラノ生まれのイタリア人で、長らくトリノの歌劇場で活躍してきた経歴を持つ。彼は煽るタイプの指揮者で、ちょっとムラがあるというか、その時によって印象が随分と異なる印象がある。けれども今回の上演では、オーケストラから力強い表現を引き出していて見事だった。


(注)「オペラ・アワー」を始めとするNHKのクラシック番組を長年担当した後藤美代子アナウンサーは、 2017年逝去されていたようだ。「オペラ・アワー」に代わる番組は今でもあるようだが、まだ音楽メディアが少なかった頃の、心をときめかせてくれたFM番組で聞くクラシック音楽の時間が、名実ともに過去のものになってしまったような寂寥感に見舞われた。

2019年1月12日土曜日

NHK交響楽団第第1903回定期公演(2019年1月11日、NHKホール)

新しい年の最初のN響定期に思い立って出かけた。金曜日の夜のコンサートにも関わらず、当日券は沢山余っていた。指揮は私としては初めて聞くフランス人のステファヌ・ドゥネーヴ。プログラムは色彩豊かな大編成もので、まずルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」第2番、続いてサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番イ短調(独奏はゴーティエ・カプソン)、後半はポピュラープログラムで、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」とレスピーギの交響詩「ローマの松」。お正月に相応しい絢爛豪華なプログラムである。

いつものように3階席の自由席で通路側の席を確保すると、再び1階へ降りてワインを飲む。NHKホールのドリンクはビールでも確か400円くらいだが、ワインは1杯800円もする。けれどもこれはなかなかおいしい。年が明けて最初の週にもかかわらず、私は仕事のことで頭がいっぱいで、心に余裕はなく、とても音楽など楽しむ気にはなれない。そのすさんだ気持ちを、なるべく早くクラシック音楽に向けるには、ちょっとしたアルコールが必要だった。

開演前のワインは、このような気分転換にはうってつけなのだが、プログラムの前半に睡魔が襲うことになるのは目に見えている。これは想定通りである。ルーセルの「バッカスとアリアーヌ」は、従って結構大編成であるにもかかわらず、記憶にほとんどない。一方、カプソンを迎えてのサン=サーンスは、チェロという比較的小さな音の楽器がソロを務めるにもかかわらず、3階席まできっちりと聞こえる演奏で、オーケストラとの呼吸もピッタリの名演だった。いろいろな独奏のチェリストを聞いてきたが、カプソンは一等秀でているような感じを受ける。テクニックということもあるが、音が前面に出てくる。そのことがチェロの魅力を高めているような気がする。アンコールに演奏された「白鳥」では、何とドゥネーヴが舞台左奥のピアノを自ら弾いて、美しい至福の時が流れた。

ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」は、時代が少し遡る。冒頭でイングリッシュ・ホルンが見事なソロを披露する。多くの打楽器もピタリと決まる。フランス音楽の特徴は、たとえばドイツやロシアの作曲家の作品にないような楽器の組合せが聞こえることだ。ドゥネーヴは非常に大きな体で、いつもよりオーケストラの音も大きく感じられるが、決して力任せの指揮をするわけではなく、むしろ緻密だと思った。そして歌う。それはピアニッシモの美しさに現れている。

そのことが見事に実感されたのは、やはり「ローマの松」だろう。千変万化するリズムと、数々のソロの重なり。いっときの予断も許さず見とれているうちに、様々な楽器が登場する。極めつけは舞台後方に備えられたSP蓄音機であった。打楽器奏者がこの蓄音機を鳴らすと、かすかなスノーノイズを伴った小鳥のさえずりが聞こえて来た。それに合わせて奏でられる木管楽器の美しさといったら!インフルエンザが猛威を振る東京で、少しせき込む人もいたが、レスピーギが自ら指定したと言う蓄音機が、これほどにまで饒舌に「ジャニコロの松」を表現するのは聞いたことがない。

蓄音機の音響効果に酔っていたら、今度は次第に楽器奏者が増えて行く。舞台の両サイド上方にあるバルコニーには、普段はテレビカメラが設置され、今日もプログラムの前半にはカメラマンがいたが、今はオルガン奏者と、それに何名かの金管楽器の譜面台が置かれている。両サイドからの管楽器とオルガン、それにチェレスタだのピアノだの、そして大規模な打楽器。すべてが一斉にクレッシェンドしていく「アッピア街道の松」は圧巻であった。ドゥネーヴという指揮者の美しさはまた、フォルティッシモにおいても堅調であった。決して音は濁らず、破たんもしない。それでいて迫力満点の音のパノラマは、大盛況うちに幕を迎えた。ドゥネーヴという若い指揮者は、なかなかいいと思った。

2019年は平成最後の年となる。国内外ではいろいろな問題が山積する中で、クラシック音楽の世界などというものは、あまり大きな変化というものを感じない。だからこそ、今日も古い音楽に耳を傾けるという地味で保守的な楽しみが、一層価値のあるものに感じられる。そういうことを改めて感じる年明けである。


2018年12月2日日曜日

レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア(リチャード・ヒコックス指揮シンフォニア21)

1879年ボローニャ生まれのレスピーギと言えば、「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」の3つの交響詩(いわゆる「ローマ三部作」)でとりわけ有名だが、古楽への興味から数多くのバロック的作品を残していることでも知られている。その中でも「リュートのための古風な舞曲とアリア」は有名で、録音でも取りあげられることが多い作品である。

レスピーギはローマのサンタ・チェチーリア音楽院で教鞭をとっていた際、ルネサンスからバロックにかけての古い楽譜と出会い、その中でもリュートのために書かれたいくつかの曲を現代の作品として編曲した。編曲といってもあまり現代風のアレンジが加えられているようには思えず、むしろ作曲当時の作品の持つ気品や古風な味わいをそのまま残し、リュートで書かれた部分はうまく合奏の中に溶け込ませている(従ってこの作品にはリュートやギターは使われていない)。

そんな、素朴で香り高い作品は、目立たないながらも珠玉の如ききらめきを放っている。この作品は、愛さずにはいられない作品である。どの曲のどの部分も捨てがたいが、まるで古代ローマの遺跡に佇むような、時間が止まったかのような印象を与える第1組曲の「ヴィラネッラ」、一方、第2組曲の「田園舞曲」や第1組曲の「酔った歩みと仮面舞踏会」は、管楽器のソロが活躍する楽しい舞曲である。また「ベルガマスカ」(第2組曲)や「ガリアルダ」のリズムは、バロックの香りを讃えた現代風のポップな曲でもあり(まるでディズニーの作品のような)、愛らしく素敵だと思う。

「パリの鐘」や「シチリアーナ」はしっとりとした味わいを残す曲で、とりわけ「シチリアーナ」は我が国では有名である。私はNHK-FMの夜のクラシック番組のテーマ曲として使われていたことをよく覚えている。シチリアにはまだ行ったことはないが、シチリアーノとかシシリアーノといった表記の曲に出会うたびに、郷愁を掻き立てられる。極東の国で聞くこの曲は、忙しい都会の喧騒を離れて昭和の時代の地方にタイムスリップしたかのような印象を与える。気持ちが落ち着き、安らぎを覚える。

実に素晴らしい作品だが、私が所有しているCDはわずかに一枚。イギリス人の指揮者リチャード・ヒコックスがシンフォニア21という団体のオーケストラを指揮したChandosレーベルのもの。楽器を鮮明に捉えつつも節度が聞いた音作り。第1組曲ではチェンバロの音もはっきりと聞こえて、大変好ましい演奏だと思う。もっとも比較のしようがないのだが、今ではNaxosを始めとする定額制の音楽サイトから、いくらでも聞くことが出来るので、そのうち聞いてみようかと思っている。

なおこのCDには、フルートと弦楽合奏のための組曲第2番より「アリア」と弦楽合奏曲のためのベルキューズという、2つの世界初録音と謳われる曲が収録されている。いずれもゆくりとした味わい深い作品である。これらの作品から受けるレスピーギの印象は、あの「ローマ三部作」で見せるような色彩感溢れるものとは対照的である。この作曲家の多才さを感じる。ヒコックスはこのほかにも数多くの録音を残しており、目立たないながらもいい演奏をする指揮者だと思っていたが、2008年に急逝していたことを知った。享年60歳だった。


【収録曲】
1. 第1組曲
    小舞踏曲(Balletto)(シモーネ・モリナーロ作曲)
    ガリアルダ(Gagliarda)(ヴィンチェンツォ・ガリレイ作曲)
    ヴィラネッラ(Villanella)(作曲者不詳)
    酔った歩みと仮面舞踏会(Passo mezzo e Mascherada)(作曲者不詳)
2. フルートと弦楽合奏のための組曲第2番より「アリア」
3. 第3組曲
    イタリアーナ(Italiana)(作曲者不詳)
    宮廷のアリア(Arie di corte)(ジャン・バティスト・ベサール作曲)
    シチリアーナ(Siciliana)(作曲者不詳)
    パッサカリア(Passacaglia)(ロドヴィコ・ロンカッリ作曲)
4.弦楽合奏曲のためのベルキューズ
5. 第2組曲
    優雅なラウラ(Laura soave)(ファブリツィオ・カローゾ作曲)
    田園舞曲(Danza rustica)(ジャン・バティスト・ベサール作曲)
    パリの鐘(Campanae parisienses)(マラン・メルセヌ作曲)
    ベルガマスカ(Bergamasca)(ベルナルド・ジャノンチェッリ作曲)

2018年11月30日金曜日

NHK交響楽団第1898回定期公演(2018年11月15日、サントリーホール)

N響定期をサントリーホールで聞くのは、実のところ初めてである。というのはこれまで、チケットが取れないと思っていたからだ。N響が定期公演をサントリーホールで開催することになったとき、ここのチケットは、年間の定期会員にならなければ手に入らない状態だった。現在でもB席以下はそのような感じで、たまに1回券が発売になっても、すぐに売り切れとなることが多い。直前までスケジュールがわからない私にとって、N響のサントリー定期は縁がないと諦めていた。

ところがもう1週間前だというのに、N響のチケットサイト(からでしか、オンラインでは買えないようだ)には若干の空きがあった。10月のブロムシュテットの場合には、直ちに売り切れたようだからわからないものである。しかも11月の指揮者はジャナンドレア・ノセダで、どう考えても90代のブロムシュテットよりは躍動感のある演奏が期待できる。しかもプログラムが実にいい。まずレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第1組曲、それからハイドンのチェロ協奏曲ハ長調(第1番)。これらは編成こそ小さいものの、古典的な造形の美しさを堪能できる。チェロ協奏曲は有名な第2番の方ではないのがいい。第3楽章などはなかなかの難曲であると思う。テンポが速く、集中力の高いノセダの伴奏と、技巧的なっ若手チェリストがどういう掛け合いを繰り広げるか、胸が躍る。こういう曲はサントリーホールで聞く方が、だだっ広いNHKホールよりも細かいニュアンスまでわかるだろう。

後半はラフマニノフ最後の作品である「交響的舞曲」。一度サイモン・ラトルの演奏をビデオで見ているが、その時はあまり印象に残らなかった。けれども今回、事前にマゼールの演奏を聞いていると、そのリズムの処理の面白さと様々な楽器によるソロ部分の抒情的な旋律が、うまく溶け合っていながらも様々に変化する、とても充実した作品だということがわかってきた。ロマンチックな管楽器が重厚な弦楽器と溶け合うあたり、ロシア音楽の特徴をしっかり持つが、曲を手中に収め、聴衆に難解さを感じさせない第1級の技術が必要な作品だと思う。晩年のラフマニノフがアメリカで思うがままに作曲した傑作である。

考えてみれば、この3曲はリズムの複雑さとソロの巧みさが交錯するという共通点があるように思える。いずれの作品も、どちらかというと目立たない存在だが、曲としての完成度は高い。このようなプログラムをそれとなくやってのけるN響は、おそらく技術的にも非常に高いレベルだと言わざるを得ない。

私は最近、オーケストラの聞く音が会場の席によってどう違うかについて、興味が深まっている。前の方は一体となって聞こえ、上階の席だと時間差が生まれる。横手で聞くと管と弦が左右に分離し、裏で聞くとちょっとひどい音になる、くらいの知識しかなかったのだが、最近は安い席が余っていても高い席を買うようになって、そのあたりが随分気になってきた。今回のN響定期は、最前方の左右端(S席)と、2階後方の両脇(A席)しか残っていなかった。私は最前方の両脇に位置する席を購入した。視野としては管楽器奏者が見えず、打楽器またはコントラバスが遮ることなく見える。それでもNHKホールとは違い、オーケストラを完全に後ろから見るという程ではない。

この席で聞くオーケストラの音は、しかしながらさほど良くない。だから余っていたのかも知れないが、高い割には視覚的にも聴覚的にも不十分で、満足できるのは指揮者と独奏者が間近に見えることくらいだ。けれども2階席になると、今度はあまり良く見えないし、真横は視覚的には面白いが(テレビの角度だ)、音響的にはちょっと難ありと言える。余程前もってS席の2階斜め両脇の、おそらくサントリーホールで最高の席が確保できない限り、何らかの不満が残るような気がした。それに比べると、本拠地であるNHKホールでは、1階前方中央しか満足な席がない(とどこかの音楽評論家が言っていたが)のだが、ホールが広いために席数が多く、しかもS席の値段はサントリーホールと変わらない。結局、S席であればNHKホールでも遜色がなく、またN響の硬い音に馴染んでいると思う。NHKホールのC席以下はひどいが、ここは滅法安く、気軽に聞くには貴重な存在だと言える。

音響の差があまりないサントリーホールでは、結局のところ、オペラグラス持参で2階席後方でもいいのだが、もともと席数が少ないのでN響定期となると入手が極めて困難である。私が暫定的に下した結論は、NHKホールのSまたはA席であれば、無理にサントリーホールで聞く必要もないのではないか、というものだ。しかるに最近は、サントリー定期でも公演によってはチケットが取れる、ということではないか…。

レスピーギでノセダは、意外にも大人しくしっとりと溶け合った演奏を披露した。このような席で聞いていたからかも知れないが、イヤホンで聞くときのような分離もなく、通奏低音のチェンバロが随分控えめに思えた。3拍子の処理が特徴的な第2楽章の「ガイヤルド舞曲」に続く、第3楽章の夢見心地のような「ヴィラネル」は、丸でローマ時代の遺跡にひとり佇むような、静止したような時間が流れた。オーボエとチェロの独奏がほれぼれするように美しい。そして終楽章「バッサメッゾ舞曲と仮面舞踏会」では、弱音気を装着したトランペットの技巧が楽しく、あっという間の15分間だった。

チェリストのアレク・アフナリャジャンは、その名前から想像できるように、アルメニア出身の、気鋭に満ちた若手である。N響には2回目の登場だそうだが、私は初めてだった。私はソリストというよりは、ハイドンのチェロ協奏曲が聞けるということのほうが、期待が大きかった。ハ長調のチェロ協奏曲は、1961年に発見された作品である。良く知られたもう一方のチェロ協奏曲ニ長調も、高貴な香りのする素敵な作品だが、私はハ長調の方が躍動的で好きである。特に第3楽章「アレグロ・モルト」は、極めて高度なテクニックが必要とされる(らしい。それは聞いているとわかる)。ノセダはレスピーギと同様、むしろ地味で落ち着いた指揮が続く。だが第3楽章になると、微妙な変化が次々と続く、見ごたえと聞きごたえのある演奏へと発展した。前の方で聞いている良さは、この作品で際立った。拍手に応えたアンコールは、カタロニア民謡「鳥の歌」だった。

休憩を挟んで編成が大きくなったオーケストラからは、ずっしりとした行進曲風のメロディーが押し寄せて来た。ラフマニノフの「交響的舞曲」は、3つの楽章から成るシンフォニック・ダンスである。単に聞いた印象のみを勝手に記せば、第1楽章が刻まれた重いリズムが印象に残るロシア的な音楽であり、続く第2楽章はなんとなくフランス風の洒落たワルツ。そして第3楽章は賑やかなアメリカ風の都会風な音楽で、なんとなくバーンスタインのミュージカルを思い起こさせる。

ノセダの演奏は、決して煽るようなものではなく、しっかりと音楽的なアプローチに思えたが、特筆すべきはそれに答えたN響だろうと私は思う。音響的には、私は少々不満でもあった。それは聞いた場所によるのか、どうななのか、実際はよくわからない。もっとダイナミックな広がりがあっても良かったと思うからだ。もしかしたらこの世界中で引っ張りだこの指揮者との、十分な練習時間が確保できなかったのかも知れない。それでもオーケストラは演奏に満足した様子だった。何度もカーテンコールに応える指揮者を、最大限に尊敬して迎える、マロさんをコンサートマスターとするオーケストラに好感を持った。

演奏を終えて、今日のプログラムを再度、聞きなおしてみたいと思う。いずれ放送されるだろうし、私がそれぞれの曲で所有しているわずか1種類ずつのディスクを、携帯プレイヤーに持ち出して聞き始めたところである。

2018年3月31日土曜日

スプリング・ガラ・コンサート(2018年3月28日、東京文化会館)

ロッシーニ没後150周年を記念して、今年の「東京・春・音楽祭」では、ロッシーニのアリアを始めとしたガラ・コンサートが開かれた。だが実際の公演の後半半分は、ヴェルディやプッチーニのアリアが中心で、しかもここの部分こそ聴きどころが満載、どの歌手も乗りに乗った素晴らしい歌声に、会場に詰め掛けた聴衆は心行くまで魅了され、久しぶりに歌を聞く楽しさを満喫した2時間余りだった。

ソプラノを歌ったアイリーン・ペレスはメキシコ系のアメリカ人で、まだあまり知られていないが、美しくも力のある実力派。まず最初のアリア、「セヴィリャの理髪師」からロジーナのアリア「今の歌声は」を歌う。安全運転の歌いだしで、指揮もどこかぎこちないのだが、最初にしては不足はない。まあこんなところかと思った。だが、休憩を挟んだ後半のヴェルディ「椿姫」より第3幕のヴィオレッタのアリア「さようなら、過ぎ去った日よ」で見せた圧巻の歌声は、私を一気に舞台に釘付けにした。続くアルフレードとの二重唱「パリを離れて、いとしい人よ」では、もう何といったらいいのだろうか、ヴェルディの持つドラマチックな音楽の素晴らしさが堪能できる。オーケストラも前半の最後で「ギユーム・テル」序曲を演奏したあたりから安定し、後半を通じて最後のアンコールまで、それはなかなかの見事なもの。歌声と楽器が見事に調和する様は、オーケストラが舞台にいることもあってなかなか聞きごたえがある。

今回、歌手は4人登場したが、おそらくテノールを歌ったサイミール・ビルグこそ、今日もっとも素晴らしかったと思う。それは前半の「ギヨーム・テル」でのアルノルドのアリア「わが父の庵よ」を歌い始めたときから明白だった。艶があって軽やかな歌声はロッシーニにピッタリだが、後半のドラマチックな各アリアで見せる芯のある歌声は、整ったリリカルな美しさもあって聞きごたえ十分である。後半では歌劇「仮面舞踏会」でのリッカルドのアリア「永久に君を失わば」ですでに圧巻だったが、最後のチレアの名曲「アルルの女」での「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」で頂点に達した。会場がどよめき、一斉にブラボーが響く。

バリトンのジュリオ・マストロターロは、最初の「セヴィリャの理髪師」からフィガロの有名なアリア「おいらは町の何でも屋」を歌った時には、オーケストラのボリュームにかき消されるところが多く、先行きが気になった。しかしオーケストラも含め、まだ時には、十分に声が出ていなかったのだろう。後半になると持ち直し「ファルスタッフ」でのフォードのアリア「これは夢か?まことか?」では本領が発揮された。「ファルスタッフ」はヴェルディ最後の喜劇作品だが、音楽はより深く緻密となり、実力が試される。オーケストラと歌がピタリと決まると、会場から間髪を入れずブラボーが飛び交う。

バスのマシュー・クランはアメリカ人。長身で貫禄のある存在感は、出番こそ少なかったものの、低い声もまたオペラの魅力であることを十分に伝えていたように思う。前半の「セヴィリャの理髪」におけるバジーリオのアリア「陰口はそよ風のように」はやや硬かったが、「マクベス」でのバンクォーのアリア「何という暗闇が」を歌う時には、ドラマチックな歌声で会場を魅了した。

オーケストラはこの音楽祭のために編成されたもので、「東京春祭特別オーケストラ」という名前。各楽団からの奏者が集まっているという触れ込みだが、全体に女性が多く、ヴァイオリンなどは最前列を除いてほぼ女性である。そしてやや迫力が不足しているのではと思われたが、後半は次第に音楽的な表現が実を結び、アンサンブルの良さでこの欠点をうまくカヴァーしていたように思う。「ギヨーム・テル」序曲でのチェロは1階席中央で聞いていると、初夏のそよ風のように暖かく、フルートのソロは桜の花が散るようであった。指揮はイタリア人のレナート・バルサドンナ。後半特に音楽がピタリと歌に寄り添い、音の弱すぎない強さと、歌とソロ楽器の音程を抜群に保ちながら一体感を作り出す手腕はなかなかだと思った。

全般に欠点はなく、総じていい出来栄えだったところが嬉しい。チケットも直前まで売れ残り、どういうコンサートか気にしていたが、会場には若い女性が多く、9割は埋まっていたと思う。次第に完成度を増してゆく歌声に会場は沸き、特に後半ではイタリアの風が通り抜けて行った。私はプッチーニやチレアの音楽や歌が、これほどに精緻で、美しいものだったかと再発見したことは特に書いておきたい。

歌劇「ジャンニ・スキッキ」の超有名アリア「私のお父さん」は短いが、ペレスの歌声は澄み渡り、会場の隅々までこだました。その美しい歌声は、しばし時間を忘れさせ、会場にいることさえわからなくなるほどである。マスカーニの歌劇「友人フリッツ」からは「さくらんぼの二重唱」。彼女は満面の笑みを浮かべ、テノールのピルグも会場を小走りに出たり入ったり、会心の出来栄えだったのだろう、実に楽しそうである。

酔いしれるうちにプログラムは終盤になった。歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕でのアドリアーナのアリア「私は創造の神の卑しい僕」は最高によかった。私は美しいトスカーナの田園やヴェニスの海を思い浮かべた。そしてまたイタリアをゆっくり旅したいと思った。時間をかけて、北から南へと、西から東へと。もしかしたらそれは最後の夢かも知れない。

鳴り止まない拍手に応え、アンコールが続く。まず1曲目はプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」から第4幕「馬車にだって」。冒頭でロドルフォ(テノール)とマルチェッロ(バリトン)の二人が歌う。この組み合わせは本日初めて。そして2番目はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕から「奥様お手をどうぞ」。ここではドン・ジョヴァンニとツェルリーナが歌う。この組み合わせも初めてで面白い。

そして最後のアンコールは何と4人で歌う「椿姫」の「乾杯の歌」であった。割れんばかりの拍手に何度も応えるカーテンコールは10分以上続き、歌手と指揮者が何度も手をつないで前に出たり後に下がったり。満足の一夜は盛況のうちに幕を閉じ、花見客で深夜までごった返す上野公園を、私はゆっくりと歩いて行った。春の風がライトアップされた桜の木の間を吹く抜けてゆく時、私は紅潮した頬を鎮めながら、青く深い南ヨーロッパの海を思い浮かべていた。


【曲目】
1.ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
2.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「おいらは町の何でも屋」
3.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「今の歌声は」
4.ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」第1幕より「陰口はそよ風のように」
5.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」第4幕より「我が父の庵よ」
6.ロッシーニ:歌劇「ギヨーム・テル」序曲
7.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕への前奏曲
8.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「さようなら、過ぎ去った日よ」
9.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第3幕より「パリを離れて、いとしい人よ」
10.ヴェルディ:歌劇「マクベス」第2幕より「何という暗い闇が」
11.ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」第3幕より「永久に君を失えば」
12.ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」第2幕より「これは夢か? まことか?」
13.マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
14.プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」より「私のいとしいお父さん」
15.マスカーニ:歌劇「友人フリッツ」第2幕より「さくらんぼの二重唱」
16.チレア:歌劇「アルルの女」第2幕より「ありふれた話(フェデリーコの嘆き)」
17.チレア:歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」第1幕より「私は創造の神の卑しい僕」

<アンコール>
18.プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」第4幕より「馬車にだって」
19.モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第1幕より「奥様お手をどうぞ」
20.ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕より「乾杯の歌」

2018年2月4日日曜日

ジュリアーニ:ギター協奏曲第1番ハ長調作品30、第3番ヘ長調作品70(G:ペペ・ロメロ、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

今年は1月末から特に寒い日が続いていて、関東地方でも凍てつく寒さである。毎日朝の気温は氷点下となり、おまけに20センチもの大雪が降った。半世紀ぶりの低温記録は2月に入っても続き、1日にはまたもや雪が降り出す始末。この悪天候の中、受験生を抱える我が家では連日早朝から、試験、帰宅、合格発表という緊張した毎日が続いていた。

けれども耐えに耐え、ひたすら信じ続ける丸で闘病生活のような日々にも、ようやく一つの光が見え始めたのは、天候が少し回復した3日のことだった。まだ気温は低く空も曇ってはいたが、薄日が差し、風も少し穏やかだ。道端に残った雪の塊も、もう2週間もの間溶けずに固まっているが、それでも少しずつは小さくなっているように思える。

気が付けば節分、そして立春である。朝久しぶりに音楽を聞きながら、運河沿いの街を散歩した。雲の合間から差し込む白い光が水面に反射し、その上をカルガモが散らばってのんびりと浮かんでいる。風の強い夜などは、身動き一つしないで縮こまっているのとはずいぶん違う光景だ。まだ吹く風は寒いが、何かゆったりとした光景に、この寒さも峠を越えた感がある。

ウィークマンでたまたまジュリアーニのギター協奏曲第1番を聞いていた。伸びやかな伴奏と古典派の形式に合わせて進むギターのコードが、吹く風と合わさって心地よい。第1楽章のアレグロ・マエストーゾに合わせ歩みを進めながら、今年の冬を振り返っていた。例年にない寒さも、よっやくここにきて春の香りがかすかに感じられるのではないか。それに合うような、穏やかで落ち着いた曲である。

第2楽章のシチリアーノは、後年のレスピーギが書いた「リュートのための古風なアリア」を思わせるが、あのような憂愁を帯びた感じはなく、あくまで古典的である。そして第3楽章はうきうきとしたポロネーズとなっている。

マウロ・ジュリアーニはベートーヴェンと同じ時代に活躍したギターの名手であり作曲家である。 ナポリ生まれだがウィーンで活躍し、いまでは3つのギター協奏曲が知られている。リュートの流れを組むギターは、せいぜいこの時代までは協奏曲にも使われたが、音楽の規模が大きくなるにつれて、オーケストラとの競演の舞台からは姿を消していった。ギター協奏曲は、私も長年、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」を除けば、ヴィヴァルディの珍しい作品くらいしか思い浮かばなかった。

ギター協奏曲第3番は規模もやや大きく、いろいろ聞きどころの多い曲である。第1楽章はなぜかブラームスのハンガリー舞曲第7番などを思い出す。少しおかしみを込めたような表現は、独奏楽器が登場するまでの間、一通り主題を奏でる。ティンパニの堂々とした響きが奏でる壮大な部分と、室内楽的に精緻な部分がミックスするギター協奏曲の面白さが体験できる。

第2楽章はモーツァルトのピアノ・ソナタK311を思わせる旋律に驚くが、考えてみるとモーツァルトもジュリアーニも、同じ時期にイタリアとウィーンを行き来しながら活躍した作曲家である。そして第3楽章もどこかで聞いたことのあるような音楽で、親しみやすい旋律が続く。ポロネーズ。

ヘンデルやモーツァルトのようにドイツの作曲家がイタリアで音楽を学び、同時にイタリア生まれのロッシーニなどがウィーンで活躍した時代。ウィーン古典派がその隆盛を誇る19世紀の初頭の音楽は、私の場合、春を待つこの時期に聞きたくなる音楽でもある。

2015年5月25日月曜日

レオンカヴァッロ:歌劇「道化師」(The MET Live in HD 2014-2015)

ファビオ・ルイージの指揮する前奏曲が流れると、会場は一気に引き込まれていった。マスカーニよりも音楽的に新しい要素が散りばめられた音楽は、この作品をほとんど聞いたことがなかった私を驚かせた。カルーゾの歌う「衣装をつけろ」は良く知っているが、そのメロディーが緊張感を持って奏でられた。幕が開く前にマイクを持って登場したトニオ(ジョージ・ギャクグニザ)は、まずはじめに前口上を述べる。

この物語は実際にあった話をもとにしている。愛し合う男女とその悲劇的な結末。それは何も特別な人にだけ起こるものではない。旅芸人の一座だって普通の人間と同じなのだ。

「カヴァレリア・ルスティカーナ」の悲劇から50年後。同じ南イタリアの村ではすでに電気が通じ、自動車も走る時代となった。旅芸人の一座はそこでトラックの荷台を改装して舞台を作り、歌芝居を演じていた。座長の妻ネッダ(ソプラノのパトリシア・ラセット、それなのに筋書き通り馬に乗って登場する)は、夫のカニオ(テノールのマルセロ・アルヴァレス)の執拗な愛情に辟易していたのだろう。美貌のネッダをひそかに慕うトニオは、ある時ついにネッダに告白を試みるが、彼女は「毒蛇」などと罵って彼をあしらう。

トニオが自尊心を傷つけられてしまったあたりから、この物語の悲劇は進んでいく。おそらくもともと濃密で小さな世界に閉じ込められた人間関係の中で、隷属的な立場にあるトニオ、溺愛され精神的にも身動きの取れないネッダ、といったあたりがもうこの悲劇を起こるべくして起こさせる、と言ってもいいかも知れない。

ネッダを口説く男がもう一人いる。村の青年シルヴィオ(バリトンのルーカス・ミーチャム)である。いよいよ一座が村を去るという前日になって、ネッダとシルヴィオは駆け落ちを約束する。だがそのことをトニオが知り、トニオから告げられてしまった座長カニオは、うすうす感ずいてはいたもののやはりそうだったのかと悲しみのあまり泣きたい気持ちであるのに、今宵は道化師として人を笑わせなければならない自分のつらさを歌いあげる。有名なアリア「衣装をつけろ」である。このアリアはカルーゾによって有名となり、テノールの中でも屈指のアリアとしてその表現が確立された。彼の歌う録音はいまもって塗り替えられることのない音楽メディアの売上ベスト記録として有名である(古いモノラル録音だが私も持っている)。

さて第2幕に入る前の間奏曲が、またいい。ルイージの指揮はここでいっそう冴えわたり、巧みなカメラがオーケストラ・ピットを写しだす。何という美しい音楽。私はここから幕切れまでの間はほとんど釘付け状態であった。

劇中劇となって現実とフィクションの区別がつかなくなってゆくカニオ。音楽は喜劇と悲劇が巧妙に交錯する。視覚的にも圧巻であった。マクヴィカーの演出がここで真価を発揮した。それからラセットの歌うソプラノの奇麗な歌声は、ヴェリズモ歌いとして理想的なものであると思った。迫力がありながら威圧的でなく、澄んでいながら細くもない。その彼女が丸でストリッパーのような姿をして演じるのが、道化芝居のコミカルな舞台である。ジャグリングやケーキの盛り付け、冷蔵庫に閉じ込められるトニオなど、とにかく見せ場は盛りだくさんあるが、その滑稽な舞台が徐々に復讐の場と化してゆく。「もう道化師ではない」と歌うカニオは遂にネッダを刺し、横たわる彼女から駆け落ちの相手が観客に混じるシルヴィオであることを聞きだす。

客席にいたシルヴィオを捉えて彼をも刺し殺すカニオ。「これで道化芝居は終わりました」と、この舞台ではトニオが叫んだ。圧倒的な集中力の1時間余りが終わると割れんばかりの拍手。これほど音楽的に充実した、完成度の高い作品だとは知らなかった。私としては「カヴァレリア・ルスティカーナ」」よりもはるかにこちらの方が見ごたえがある、と思った。かつて見たゼッフィレッリの映画ももう一度見てみたい。

レオンカヴァッロは派手なマスカーニと違い地味で、オペラ作曲家としての活躍は対照的である。けれどもこの作品は若干25歳のトスカニーニによって初演されたらしい。もしタイムマシンの乗ることができるのなら、私はその初演に立ち会ってみたいと思う。

2015年5月24日日曜日

マスカ-ニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(The MET Live in HD 2014-2015)

朝一番にチケット売り場に並ぼうとして驚いた。今回は何と女性が多いこと!それも若い人も結構いる。ところが男性陣はおじさんばかり。東劇のMETライブシリーズも今年は一日3回上演する作品も多く、この企画は確実に裾野を広げている。けれどもこんなに女性の多い回というのも珍しい。なぜだろうか。

その答を考えることから始まった。おそらくわかりやすい回答は、今回の上演作品、すなわちマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とレオンカヴァッロの「道化師」が、いずれもヴェリズモ・オペラであるということだ。舞台はともに南イタリア。まだ因習の残った小さな村だが、近代化の波は押し寄せていて、人々は自由を求め始めていた。そこで起こる血なまぐさい劇は、テレビドラマのような展開を見せる。ドロドロした人間関係、不倫が引き起こす悲惨な結末。人は人を殺し、愛情は屈折する。このような内容が女性人気の理由なのではないか、とひそかに思う。

さて今回の「二本立て(ダブル・ビル)」は、いずれも新演出でデイヴィッド・マクヴィカーがこれを担当している。私はこの演出家をとても気に入っているので、これは見ないわかにはいかない。そしてMETライブでこの作品を上演するのも初めてだし、私はビデオやCDでしか見たこともない。個人的にはヴェリズモ・オペラがそれほど好きな方ではないが、やはりこれらは見ておくべき作品だろう。

マスカーニを一躍スターの座に押し上げたのが「カヴァレリア・ルスティカーナ」である。1890年のことだ。マスカーニは1945年まで生きていた作曲家だから、自作自演の録音も残っているようだが、私はこの作品をゼッフィレッリの監督するオペラ映画(ジョルジュ・プレートル指揮)で初めて体験したし、カラヤンのCDも持っている。カラヤンの有名な「間奏曲」はそれだけで涙が出るほどに美しく、音楽というのは奇麗なメロディーだけでどうしてこんなに感動するのだろうといつも思うほどだ。

今回は指揮がファビオ・ルイージである。彼は今やMETの首席指揮者だがこういう作品を指揮するとその才能が如何なく発揮されるように思う。出だしの前奏曲とそれに続くいくつかの合唱は、この作品が丸でミュージカルのように楽しく、ポピュラーなものであることを示している。主役はサントゥッツァ(ソプラノのエヴァ=マリア・ヴェストブルック)で彼女はほぼ一貫して舞台に登場している。円形の回転舞台を囲んで並べられた椅子に黒い服の人々が座ると、何か新興宗教の儀式のようだが、この日は復活祭の日。登場人物は皆黒い服を着ているので、作品中一貫して華やいだところがない。

サントゥッツァは自分を捧げたトゥリッドウ(テノールのマルセロ・アルヴァレス)のことが忘れれない。それで彼の母親ルチアのもと訪ねる。もとより小さな村なので皆が知りあいのようなものなのだが。サントゥッツァはトゥリッドウがいつしかこの村に帰っていること、そしてあろうことか、すでに彼を捨てて馬車屋のアルフィオ(バリトンのジョージ・ギャグニザ)に嫁いだはずのローラと密かに通じていることを知ってしまうのだ。サントゥッツァはトゥリッドウに会って復縁を迫るが、逆ギレされとうとうアルフィオにトゥリッドウの不倫を知らせてしまう。このことが決定的にトゥリッドウを、そして彼女をも不幸に陥れる引き金を引いてしまったのだ。ああ、なんということか!

有名な二重唱は前半部分にあるがシンプルな舞台で音楽的なメリハリだけが勝負である。またそのあとにあの間奏曲もあるが、無難にこなした感じである。後半の緊迫したアリアも素晴らしかったが、全体的に見てソプラノとテノールが絶唱するヴェリズモ・オペラ独特の雰囲気が会場を覆う。圧倒的な迫力は作品の持つポテンシャルをほぼ完全に表現していたように思うが、あくまで舞台を、オペラ上演を見ているという感覚から脱することはなかった。だから質が低いとは思いたくはない。けれどもどんなに滑稽なストーリーであれ、それが美しい音楽を伴って歌われる時、なぜか涙腺を刺激するような瞬間がある、というのがオペラの不思議でもある。ヴェリズモはあまりに現実的なストーリー過ぎて、見る側にそのような意外性を発見するだけの心理的余裕を消失させてしまうのだろうか。

トゥリッドウに決闘を申し込まれたアルフィオは、トゥリッドウを刺殺してしまう。そのことを知ったサントゥッツァとルチア。私はこの母親のルチアが気の毒でならない。トゥリッドウは自分が死んだら、サントゥッツァの母親になってくれ、などと嘆願するが、こういったあたりは何か白々しい。皆が幼馴染みのような小さな村で、このような悲劇は起こるべくして起こった。ルチアまでもがソプラノで歌われると、オペラ自体が高い声の出し合いとなる。ヴェルディやそれ以前のオペラと違って低い声の歌はあまり聞かれず、そのことが何か通俗的な気分にさせ、私をヴェリズモから遠ざけけいるのかも知れない。

2013年9月1日日曜日

ポンキエッリ:歌劇「ジョコンダ」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2012-2013)

ヴィクトル・ユゴーの原作をボーイトが台本化したポンキエッリのオペラ「ジョコンダ」は、リコルディ社から楽譜が売り出され、ミラノ・スカラ座で初演された。これだけを見れば晩年のヴェルディの作品に引けを取らない。だが、あの劇的な心理描写と力強い旋律に満ち溢れたヴェルディの作風には及ばず、かといって甘美で徹頭徹尾流麗なプッチーニのメロディーにも満たない。ポンキエッリという作曲家の作品で唯一演奏される機会に恵まれた「ジョコンダ」は、所詮そのような中途半端な作品であると、思ったのは最初のうちだけで、聴き進むうちに見応えは十分だし、複雑なストーリーも深みを持っているばかりか、合唱やバレエといったエンターテイメント性も持ち合わせている。なるほどこれがヴェルディからヴェリズモ・オペラを経てプッチーニに至る移行期に活躍した作品かと思わせる結果となったのは、歌唱力を必要とする多くの歌手の力量によるところが大きい。

今シーズン最後の「ライブ・ビュー」に、パリ・オペラ座はその輝かしい歴史の中で意外にも初演奏となる「ジョコンダ」を選んだのは、この作品を立派に上演してみせるという意気込みの現れだったのではないか、と思えた。案内役の評論家、アラン・デュオ氏も今回は力が入っているように見えた。バスティーユの新しい歌劇場に詰めかけた観客の前に、指揮者のダニエル・オーレンが姿を現す。前奏曲が厳かに流れると、すぐに幕が開き、そこに赤と黒で象徴的に表現されたベネツィアの運河が現れた。ゴンドラが人を乗せてゆっくりと入ってくる。悲劇を予感するような異様な始まりは、オテロのイアーゴを上回るような悪役、バルナバ(バリトンのセルゲイ・ムルザエフ)の登場で極まる。彼は横恋慕する歌姫ジョコンダ(ソプラノのヴィオレータ・ウルマーナ!)に袖にされた腹いせに、盲目の母チエカに魔女の濡れ衣を着せるのだ。

これだけでも見てはいられないほど嫌なストーリーである。冒頭から響く合唱、カーニバルの華やかな雰囲気は、恐ろしい心理描写をかえって強調する。その可哀想な母チエカ(コントラルトのマリア・ホセ・モンティエル)を助けようと必死のジョコンダの願いを、騒ぎを聞いて駆けつけた司法長官アルヴィーゼに、妻ラウラ(メゾ・ソプラノのルチャーナ・ディンティーノ)が取り次いで許すのだ。だが、これでほっとするのもつかの間、このラウラは別れた恋人エンツォに出会ってしまうのだ。しかしエンツォ(テノールのマルセロ・アルバレス!)こそ、ジョコンダの恋する人だったのだ!ああ、ややこしい。しかも悪の権化、バルナバはこの不倫カップルをも破滅に追いやろうとする。エンツォにラウラとの逢引を手伝いつつ、手下の部下を使って恋仲を密告する手紙を書かせ、ライオンの口に投函させる。

以上が第1幕「ライオンの口」である。ここですべての登場人物が姿を現す。約1時間の長い幕は、筋を負うだけでも苦労する。どうせ気乗りのしないオペラだったし、寝てしまってもいいかと思っていた私は、そのドラマチックな展開に引きこまれてしまった。

だが、これは第2幕「ロザリオ」になってさらに強くなっていく。ここでは登場人物に組み込まれた二重唱やアリアの熱唱が待ちかまえているからだ。まず、少年合唱団を含む冒頭の船乗りたちの歌で、それまでにない新鮮なムードが表現される。舞台は赤い帆の船。 登場するエンツォによる有名なアリア「空と海」である。テノールのマルセロ・アルバレスのつやのある歌声は、登場した時から一頭際立っていた。テノールは彼しかいないのも幸いして、この人物の存在感は明らかだ。だが、エンツォは恋人を捨ててかつての女ラウラに簡単に乗り換えを図る。貴族の身分とそうでないジョコンダの身分には、そこに明らかな線が引かれている。

そのラウラとの愛の二重唱は、なかなかの聴かせどころで、さらにはラウラのアリアと続く。ここでジョコンダが登場すると、舞台は一転ラウラとの憎しみの劇へと変貌する。だが、ラウラのつけるロザリオを見て、それが母のものであると知ると、ジョコンダは恩人であるラウラを許さざるを得ない。ジョコンダの心理は右に左に揺れ動き、歌は上下に乱高下する。マリア・カラスのデビュー作品は、ジョコンダだったと覚えている人も多い、と解説は話す。

第3幕。ここでいよいよあの有名な「時の踊り」が用意されている。その前に司法長官アルヴィーゼ(バスのオルリン・アナスタソフ)による妻への、毒殺を命じるシーンがある。だが、ここでもジョコンダは葛藤しながらも、ラウラを許してしまう。彼女の毒を麻酔薬に取り替えるのだ。横たわるラウラを前に、いよいよバレエが始まる。

パリ・オペラ座のバレエ団は、ディズニー映画で有名になったこの音楽のために、特上の演技を披露した。舞台一列に階段上に姿を表した女性たちは、それまでになかったカラフルな色の衣装をまとい、中央の主役二人はほとんど何も身につけていない!3つの部分からなるバレエに見とれていること十数分。フランス風グランド・オペラの本家の放つ醍醐味を、これほど楽しんだことはない。割れんばかりの拍手とブラボーは、この陰惨なオペラにはちぐはぐでさえある。だが、このバレエを批判する人はいないだろう。

第4幕の聞き所は、なんといってもジョコンダのアリア「自殺」だろう。このアリアは私もどこかで聞いたことがある。そしてウルマーナの驚くべき演技!彼女はただ美しいだけの女性ではない。悲劇の主人公であると同時に、何か凄みのある宿命を負っている。そのことが良く合っている。彼女はエンツォの釈放と引き換えに自らの体をバルナバに売ることを約束してエンツォを助けるばかりか、息を吹き返したラウラとの逃避行を助ける。

これほどの犠牲をしてまで助けようとした彼女の母チエカは、しかしすでにバルナバによって殺されていたのだ!そのことを知ることもなく、ジョコンダは自ら命を断つ。

悪い奴と狡賢い奴が残り、敬虔で愛情の深い親子が共に死ぬ。ジョコンダは恋人と母親を同時に失うのだ。彼女はか弱い悲劇の主人公ではない。むしろ愛憎を表現し、やや屈折した性格ながら盲目の母親を助ける。そうまでしても生きようとし、最後には自害して果てるジョコンダの人生とは何だったのか。オペラを見終わった後数日間、私はそういうことを考え続けた。ヴェリズモの雰囲気、グランド・オペラの色彩、そして合唱。歌手は相当の力が要求される。しかも長い。様々な要素が入り込んだ「ジョコンダ」は、上演の難しさと込み入ったストーリーのせいで、上演回数は少ない。だからこそ、ビデオ上演の機会は嬉しい。同じことを考えた人も多かったのか、会場はそこそこの人の入りであった。満場のブラボーは何回ものカーテンコールを必要とし、あの素敵なバレエ団も再び舞台に上がって、このプロダクション総出演の成功を喜んでいるように見えた。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...