2018年11月30日金曜日

NHK交響楽団第1898回定期公演(2018年11月15日、サントリーホール)

N響定期をサントリーホールで聞くのは、実のところ初めてである。というのはこれまで、チケットが取れないと思っていたからだ。N響が定期公演をサントリーホールで開催することになったとき、ここのチケットは、年間の定期会員にならなければ手に入らない状態だった。現在でもB席以下はそのような感じで、たまに1回券が発売になっても、すぐに売り切れとなることが多い。直前までスケジュールがわからない私にとって、N響のサントリー定期は縁がないと諦めていた。

ところがもう1週間前だというのに、N響のチケットサイト(からでしか、オンラインでは買えないようだ)には若干の空きがあった。10月のブロムシュテットの場合には、直ちに売り切れたようだからわからないものである。しかも11月の指揮者はジャナンドレア・ノセダで、どう考えても90代のブロムシュテットよりは躍動感のある演奏が期待できる。しかもプログラムが実にいい。まずレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第1組曲、それからハイドンのチェロ協奏曲ハ長調(第1番)。これらは編成こそ小さいものの、古典的な造形の美しさを堪能できる。チェロ協奏曲は有名な第2番の方ではないのがいい。第3楽章などはなかなかの難曲であると思う。テンポが速く、集中力の高いノセダの伴奏と、技巧的なっ若手チェリストがどういう掛け合いを繰り広げるか、胸が躍る。こういう曲はサントリーホールで聞く方が、だだっ広いNHKホールよりも細かいニュアンスまでわかるだろう。

後半はラフマニノフ最後の作品である「交響的舞曲」。一度サイモン・ラトルの演奏をビデオで見ているが、その時はあまり印象に残らなかった。けれども今回、事前にマゼールの演奏を聞いていると、そのリズムの処理の面白さと様々な楽器によるソロ部分の抒情的な旋律が、うまく溶け合っていながらも様々に変化する、とても充実した作品だということがわかってきた。ロマンチックな管楽器が重厚な弦楽器と溶け合うあたり、ロシア音楽の特徴をしっかり持つが、曲を手中に収め、聴衆に難解さを感じさせない第1級の技術が必要な作品だと思う。晩年のラフマニノフがアメリカで思うがままに作曲した傑作である。

考えてみれば、この3曲はリズムの複雑さとソロの巧みさが交錯するという共通点があるように思える。いずれの作品も、どちらかというと目立たない存在だが、曲としての完成度は高い。このようなプログラムをそれとなくやってのけるN響は、おそらく技術的にも非常に高いレベルだと言わざるを得ない。

私は最近、オーケストラの聞く音が会場の席によってどう違うかについて、興味が深まっている。前の方は一体となって聞こえ、上階の席だと時間差が生まれる。横手で聞くと管と弦が左右に分離し、裏で聞くとちょっとひどい音になる、くらいの知識しかなかったのだが、最近は安い席が余っていても高い席を買うようになって、そのあたりが随分気になってきた。今回のN響定期は、最前方の左右端(S席)と、2階後方の両脇(A席)しか残っていなかった。私は最前方の両脇に位置する席を購入した。視野としては管楽器奏者が見えず、打楽器またはコントラバスが遮ることなく見える。それでもNHKホールとは違い、オーケストラを完全に後ろから見るという程ではない。

この席で聞くオーケストラの音は、しかしながらさほど良くない。だから余っていたのかも知れないが、高い割には視覚的にも聴覚的にも不十分で、満足できるのは指揮者と独奏者が間近に見えることくらいだ。けれども2階席になると、今度はあまり良く見えないし、真横は視覚的には面白いが(テレビの角度だ)、音響的にはちょっと難ありと言える。余程前もってS席の2階斜め両脇の、おそらくサントリーホールで最高の席が確保できない限り、何らかの不満が残るような気がした。それに比べると、本拠地であるNHKホールでは、1階前方中央しか満足な席がない(とどこかの音楽評論家が言っていたが)のだが、ホールが広いために席数が多く、しかもS席の値段はサントリーホールと変わらない。結局、S席であればNHKホールでも遜色がなく、またN響の硬い音に馴染んでいると思う。NHKホールのC席以下はひどいが、ここは滅法安く、気軽に聞くには貴重な存在だと言える。

音響の差があまりないサントリーホールでは、結局のところ、オペラグラス持参で2階席後方でもいいのだが、もともと席数が少ないのでN響定期となると入手が極めて困難である。私が暫定的に下した結論は、NHKホールのSまたはA席であれば、無理にサントリーホールで聞く必要もないのではないか、というものだ。しかるに最近は、サントリー定期でも公演によってはチケットが取れる、ということではないか…。

レスピーギでノセダは、意外にも大人しくしっとりと溶け合った演奏を披露した。このような席で聞いていたからかも知れないが、イヤホンで聞くときのような分離もなく、通奏低音のチェンバロが随分控えめに思えた。3拍子の処理が特徴的な第2楽章の「ガイヤルド舞曲」に続く、第3楽章の夢見心地のような「ヴィラネル」は、丸でローマ時代の遺跡にひとり佇むような、静止したような時間が流れた。オーボエとチェロの独奏がほれぼれするように美しい。そして終楽章「バッサメッゾ舞曲と仮面舞踏会」では、弱音気を装着したトランペットの技巧が楽しく、あっという間の15分間だった。

チェリストのアレク・アフナリャジャンは、その名前から想像できるように、アルメニア出身の、気鋭に満ちた若手である。N響には2回目の登場だそうだが、私は初めてだった。私はソリストというよりは、ハイドンのチェロ協奏曲が聞けるということのほうが、期待が大きかった。ハ長調のチェロ協奏曲は、1961年に発見された作品である。良く知られたもう一方のチェロ協奏曲ニ長調も、高貴な香りのする素敵な作品だが、私はハ長調の方が躍動的で好きである。特に第3楽章「アレグロ・モルト」は、極めて高度なテクニックが必要とされる(らしい。それは聞いているとわかる)。ノセダはレスピーギと同様、むしろ地味で落ち着いた指揮が続く。だが第3楽章になると、微妙な変化が次々と続く、見ごたえと聞きごたえのある演奏へと発展した。前の方で聞いている良さは、この作品で際立った。拍手に応えたアンコールは、カタロニア民謡「鳥の歌」だった。

休憩を挟んで編成が大きくなったオーケストラからは、ずっしりとした行進曲風のメロディーが押し寄せて来た。ラフマニノフの「交響的舞曲」は、3つの楽章から成るシンフォニック・ダンスである。単に聞いた印象のみを勝手に記せば、第1楽章が刻まれた重いリズムが印象に残るロシア的な音楽であり、続く第2楽章はなんとなくフランス風の洒落たワルツ。そして第3楽章は賑やかなアメリカ風の都会風な音楽で、なんとなくバーンスタインのミュージカルを思い起こさせる。

ノセダの演奏は、決して煽るようなものではなく、しっかりと音楽的なアプローチに思えたが、特筆すべきはそれに答えたN響だろうと私は思う。音響的には、私は少々不満でもあった。それは聞いた場所によるのか、どうななのか、実際はよくわからない。もっとダイナミックな広がりがあっても良かったと思うからだ。もしかしたらこの世界中で引っ張りだこの指揮者との、十分な練習時間が確保できなかったのかも知れない。それでもオーケストラは演奏に満足した様子だった。何度もカーテンコールに応える指揮者を、最大限に尊敬して迎える、マロさんをコンサートマスターとするオーケストラに好感を持った。

演奏を終えて、今日のプログラムを再度、聞きなおしてみたいと思う。いずれ放送されるだろうし、私がそれぞれの曲で所有しているわずか1種類ずつのディスクを、携帯プレイヤーに持ち出して聞き始めたところである。

2018年11月12日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第705回定期演奏会(2018年11月9日、サントリーホール)

行こうかどうか迷っていたコンサートほど、感動的な演奏に出会うことが多いような気がする。今回の日フィル定期もまさにその例外ではなかった。いやむしろ大変な熱演に接することができたほどだ。そのことを書いておこうと思う。ただ私はこの度の公演で取り上げられた曲について、ほとんど知らない。だからうまく表現できるか、甚だ難しい問題だと言わざる得ない。

取り上げられた曲目はずべてロシアの曲で、前半がグラズノフの交響曲第8番変ホ長調作品83、後半がショスタコーヴィチの交響曲第12番ニ短調作品112「1917年」。いずれもロシア革命に縁の深い作品である。ただ作曲された年代は一世代違い、グラズノフの交響曲第8番は1905年の作品であるのに対し、1906年生まれのショスタコーヴィチが交響曲第12番を作曲するのは1961年のことである。ただその副題が示す通り、この作品はロシア革命を描いた標題音楽である。

ショスタコーヴィチがペテルブルク(レニングラード)の音楽院で学生の頃、グラズノフはすでに名声を博した音楽家で、ここの院長であった。二人は師弟関係にあったと言える。だが二人の音楽の間に、何らかの影響があるのかは私の知識ではわからない。いやそれよりもこの間の社会の変化こそより大きな重しとなってのしかかっているように思う。すなわちロシア革命と社会主義である。

グラズノフの交響曲は一貫して重々しく、悲劇的である。有名なバレエ音楽「四季」くらいしか知らない私にとってほとんど初めての経験とも言えるグラズノフの作品は、どこが聞きどころかさえもわからない曲だった。最終楽章でのコーダに向かう演奏で、私は舞台に向かって右横から指揮者や木管奏者を眺めていたが、それは冷静に見ていられないほどに熱くなっていく様が手に取るようにわかった。バレエ音楽でのグラズノフのように、3拍子の時に華やかなリズムなどは皆無で、ここにあるのはひたすら暗く、そして熱い音楽だった。

指揮者のアレクサンドル・ラザレフは、2008年以来日フィルの首席指揮者を務めており、その後は桂冠指揮者として毎年のように登場、特にロシア物には定常のある指揮者であることは知っていた。私はそのように有名になる前の90年代、ボリショイ劇場のオーケストラを指揮して録音されたCDを聞いたことがあって、ソビエト崩壊後の混乱期にあってなかなか洗練された指揮者だと思った記憶があるが、実演で聞くのは初めてであった。一度、生で聞いてみたいとも思っていた。

そのラザレフはここ数年来、日フィルとともに「ラザレフが刻むロシアの魂」というシリーズを続けており、なかなか好評であるという。最初のシーズンにラフマニノフ、2番目のシーズンにスクリャービン、その次のシーズンにショスタコーヴィチを取り上げて来たようだ。今回はグラズノフ、しかもその第4回目ということである。

「凄い」という形容詞は最近、特に乱用される傾向がある。老いも若きも形容詞に困ったときに発するのが「すごい」というもので、程度がはなはだしいことはわかるが、何がどう凄いのか、そのあたりの具体性を欠いているいい加減な表現である。だが今回のコンサートを一言で言うと、「スゴイ」の一言につきる。私の表現力の問題を脇に置いて、今回の演奏会、特にショスタコーヴィチの演奏に関する限り、どこがどう素晴らしいのかよくわからないくらいに麻痺してしまうほどに、演奏が凄かった。

ティンパニやパーカッションを始めとする打楽器を思い切り叩き、そのわきで重厚な金管楽器が号砲を吹き鳴らす。それを聞いただけでも鳥肌が立つほどだが、特に終楽章のそれはすさまじく、聞いている方が打ち負かされてしまうのではないかと身構えること数十分。一糸乱れぬアンサンブルも見事で、日フィルの演奏会の中でも屈指の熱演ではないかと思われた。

玄人好みの演目に平日とあって、6割程度の入りだった今日の演奏会も、終わるや否や轟いたブラボーの嵐は、これだけ珍しい曲であるにも関わらず多くの聴衆を驚かせるだけのパワーに満ちていたことを明確に証明した。何度も登場する指揮者は、オーケストラの間中を回って、最上段に並んだ打楽器奏者や、右わき後方のコントラバス奏者とも熱い抱擁を交わし、舞台の袖に出ては、観客の拍手を煽る仕草を見せるなど、とても変わった指揮者だと思うほどだった。だがそんなラザレフと、オーケストラのメンバーの表情を見れば、本日の演奏が会心に出来だったことは容易に窺うことができた。

興奮冷めやらぬうちに帰宅して、そう言えばショスタコーヴィチの交響曲第12番は、ヤンソンスの録音を所有していたことを思い出した。もしかするとまだきっちりと聞いていない。そこで翌日、この音楽をポータブル・プレイヤーに入れて聞いてみた。ヤンソンスの演奏は定評のあるバイエルン放送交響楽団との録音で、実演ではないという点において客観的なアプローチだと思う。ここの演奏で聞く、それでも十分に熱のこもったショスタコーヴィチは、もしかするとこの曲の決定的な完成度を持つものかも知れない。

この演奏を聞いて、ショスタコーヴィチの音楽がグラズノフの音楽と決定的に異なる要素、それはロシアの民族性の有無ではないかと思った。いや二人の音楽の間には半世紀近い隔たりがあるので、いい加減なことは言えまい。だが共産党革命によって変化させられた芸術的要素、それはそういった冷徹までの近代性を最高のものとする無機的で、非人間的な(と勝手に言ってしまえるほど単純ではないのだが)客観性である。

だがここまで書いてみて、この表現は若干修正が必要ではないかと思う時があることも事実である。ショスタコーヴィチの音楽には、時に極めて抒情的で、民族性を機能主義で濾過したような音楽が、それは純粋だと言ってしまうほどに表現されていることがあるからだ。私は結局のことろ、ショスタコーヴィチの音楽がまだわからない。ソビエトという今はなき国家の、その存在証明がどうなされるのか、そういった歴史による試練を経て評価されるのと同様に、またグレゴリオ聖歌から始まる西洋音楽史の中に明確な位置づけを与えられるのを待つ必要があるのかも知れない。

ラザレフは、グラズノフの音楽の、ロシア的情緒(それはノスタルジーと異教性にあると誰かが言っていた)と社会主義的合理性が奇妙に合わさった曲と、時に強烈な二面性を持って語られるショスタコーヴィチの、その中でもとりわけ社会迎合的な作品を続けて演奏することで、20世紀前半のロシアが変遷を余儀なくされた芸術的傾向を際立たせたかったのかもしれない。21世紀なって聞くこの時代の音楽は、しかしながらもはや歴史の中に埋もれつつある。私がかつて鉄のカーテンの向こうのラジオ放送で聞いていた「赤い」芸術の持つ(当時の)同時代的な迫力と恐ろしさ、あるいは荒唐無稽さなど、今では知る人も少なくなってしまったからだ。

勝手な想像を膨らませながら、迫力に満ちたラザレフのコンサートを聞き終えた。機会があれば、また行ってみたいと思うに十分な演奏会だった。嬉しいことに、この組み合わせの演奏会は来年にも多数用意されている。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...