2016年5月29日日曜日

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」(2016年5月23日、新国立劇場)

新国立劇場の最大の欠点は、初台という「辺境の地」にあることだが、ここは幸いにも私の会社のオフィスに近く、歩いていくこともできる。今日の公演は17時からなので、16時半に職場を後にしても、開演に十分間に合うという計算になる。だが私は今回に限り、さらに1時間前にはオフィスを出て近くのコーヒー店で初夏の午後のひとときを過ごした。仕事の頭を一端冷やす必要があるからだ。システム障害の緊張した頭を、中世ドイツの跡継ぎ問題にチェンジしなくてはならないのだから。

今日の演目はワーグナーのロマンチックな歌劇「ローエングリン」である。なかなかスケジュールが決まらず、朝になってチケットを買った時点でほとんどの席は売り切れており、最も高いS席の端っこが私の居場所となった。チケット代は2万7千円とベラボーに高く、これは新国立劇場の数ある公演でも最高位である。その理由はおそらく出演陣の豪華さによるのだろうと思う。何せ世界有数のヘルデン・テノールの一人、クラウス・フロリアン・フォークトが出演するという、知る人が聞いたら何をおいても出かけたいというくらいに信じられないことなのだから。

もっともフォークトは4年前にも同じ公演に出演しているから、今回はその再演ということなる。演出はマティアス・フォン・シュテークマン。指揮者はペーター・シュナイダーから飯森泰次郎に変わっている。あまりに素晴らしい公演だったので、その再演を待ち望んだ人も多かっただろうし、それはまたフォークト自身もそうだったようだ。彼のインタビュー記事が会場に掲載されており、そこに新国立劇場での仕事の素晴らしさに触れている。初登場だった「ホフマン物語」の時から、「いい思い出しかない」というのだから嬉しいものである。

2万7千円というと新幹線で大阪往復の値段に相当する。これを安いと見るか高いと見るかは意見が分かれるが、新幹線で大阪へ出かけたところで隣に変な人が座る確率は、新国の方が低いであろうし、「タンスにゴン」の広告以外見るものもない車窓風景よりは、音楽付きワーグナー舞台の方が圧倒的に素晴らしい。いや今回の「ローエングリン」もまた新国立劇場の素晴らしい照明を生かした、美しく見ごたえのある舞台だった。

歌劇「ローエングリン」を私はほとんど知らなかった。このオペラを最後にワーグナーの作品は、一度は鑑賞したことになる。今秋のMETライヴで見る予定のサイモン・ラトルの「トリスタンとイゾルデ」と、来春の東京・春・音楽祭で上演予定の「神々の黄昏」を最後に、私のワーグナーへの旅はひと段落を迎えることになる。歌劇「ローエングリン」は避けて通れる作品ではなく、機会があれば見てみたいと思っていたところである。そこにフォークト演じるローエングリンがやってきたのである。

我が国における「ローエングリン」上演史によれば、かくも有名な作品であるにもかかわらず、そう毎年上演されているわけでもない。もっとも初演はワーグナー作品の中でもっとも早く1942年だそうである(新国立劇場の上演ブックレットによる)。だが戦後散発的に上演される以外は、欧米のオペラハウスの引っ越し公演が中心で、これらはチケット代が法外に高く、とても庶民の手の出せる代物ではない。日本人による原語上演となると1979年ということになるようで、この時私はもうクラシック音楽に目覚めていた頃だから、学生がワーグナーの音楽を聞いて詳しく語れる世代(というのがあるのかわからないが)というのはもっと後ということになる。それでも新国立劇場ができた1997年以降だけでも1997年。2012年だけのわずかに2回。今回は2012年の上演の再演である。

白鳥の騎士が女性を救う。これが「ローエングリン」のストーリーである。それだけしか知らなかった私は第1幕を見て、最後に天井からつるされた白鳥?(巨大な蝶々にしか見えなかった)がゆっくり下りてきたとき、もう物語は終わりかと思ったのだった。めでたし、めでたし。アンドレアス・バウアー(バス)のハインリヒ国王も、マヌエラ・ウール(ソプラノ)が演じたエルザも、ユルゲン・リン(バリトン)が歌ったフリードリヒ・フォン・テルムラント伯爵もみな好演。そしてクラウス・フロリアン・フォークト(テノール)のローエングリンの声は、一層明瞭で気高く、若々しい艶のある声を会場に轟かせた。ああ、よかったねえ、と大きな拍手を起こった(もっともそれはすぐに鳴り止んだ)。

今日は再上演の初日であり、月曜日の夕方という中途半端な時間帯にもかかわらず大勢のお客さんがロビーに出て、ワイングラス片手に写真やポスターに見入っている。序奏で飯森泰次郎のタクトが振り下ろされると、東京フィルハーモニー交響楽団が静かに崇高な旋律を響かせ始めた。オーケストラの音色が歌手ととてもよく溶け合う。S席といういい席で聞いていると、それが特に素晴らしく、職人的な音楽の構成力が手に取るようにわかるのだ。現代人はラジオやCDで、技術的に非の打ちどころなく録音された音を聞いているが、かつて教会に行かなければ絵画作品に出合えなかったように、オペラハウスでしかこの音の融合の瞬間は聞くことができなかったであろう。ワーグナーが求めた100年以上前の音色が今目の前に再現されている。そう感じると目を閉じて聞き入るすべての音符が、とても神秘的で奇蹟のようにさえ感じられるのだった。

第2幕になるとワーグナー作品にみられる崇高なものと人間的なものとの対比が露わになる。つまり夫婦喧嘩が始まるのだ。ここで初めて歌を歌うテルムラント伯爵夫人、オルトルート(メゾソプラノ)が夫を奮い立たせ、再度エルザを落とし込めようと入れ知恵をするのである。手元のオペラグラスで見ると、どこかで見たような女性である。オルトルートを歌ったのはペトラ・ラングだが、彼女はすでに第1幕にも登場し、歌を歌わず群衆の中にいたのである。ゲルマン民族の血を引く異教徒のオルトルートは悪の象徴だが、よく考えてみるとこの作品は、オルトルートとローエングリンという二人の謎の人物の戦いである。そのモチーフには「ニーベルングの指環」と「パルジファル」の物語につながる要素が続出する。

「愛」には二つの側面がある。主として所有することによって得られるものと、それを超えたところに存在する「真の愛」。人間はおろかな存在で、前者を超えることができない。「ニーベルングの指環」は指環という世界征服が可能となる権力の象徴を奪い合う壮大な神々の物語だが、それを救うのは人間ブリュンヒルデの崇高な愛である。彼女はジークフリートを失うことによって、真の愛は物欲を超えたところに存在すると気付くのではないか。とすればこの「ローエングリン」もまた、身分を確かめずにはいられないエルザが、その正体(モンサルヴァート城で聖杯を見守る信徒)を知ったとたんに、彼の愛を失うのだ。彼女はブラバント公国の後継候補だから、国を救うためにはどうしても不可思議な存在を確かめる必要があった。

ワーグナーが終生モチーフとした真実の愛への道は、この「ローエングリン」でも見て取れるのは明らかである。であるとするとこのオペラは単に白鳥の騎士が乙女を救うという表面的な理解では済まされない。そしてそうであるように、第2幕の後半以降の心情的な葛藤やそこに展開される様々な音楽が、凄みをもって迫ってくることに気付く。新国立劇場の合唱団はここでも大変素晴らしかったが、かれらは一般民衆の移り気で依存的な体質(ポピュリズム)を表現している。

すべての歌手は最初、少し緊張も見られたが、みな尻上がりに調子を上げて行った。今思い出しても興奮するのは、どの歌手も甲乙が付けがたいほどに素晴らしかったことだ。音楽に負けることなく歌声は響き、オーケストラと見事にブレンドした。どちらかというとスリムな飯森の音楽も、シンプルな舞台によくマッチしていたと思う。舞台後方に設えられた壮大な格子状の壁には、200メートルにも及ぶ数のLEDが埋め込まれ、それが数々の色に変化する様は壮大である。視覚的にもこれほど素晴らしい劇に出会えることは珍しい。婚礼の時に一瞬ひざまずくエルザのシーンは、シュテークマンの演出の見どころだろう。そしてフォークト!彼の歌声の素晴らしさは、まさに奇蹟的にさえ聞こえたのだった。

第3幕はすべての登場人物が歌を披露する場面の連続だが、やはり何といってもここはローエングリンに尽きる。そしてフォークトの一等群を抜く歌唱によって、われわれすべての聴衆は圧倒されたと言ってよい。白鳥に化けていた黙役のゴットフリート(エルザの弟)が舞台の底から登場した時、背筋がぞくぞくするような感動に見舞われた。そして幕がおりると沸き起こるブラボーの嵐。私はこれほど熱狂的な拍手を知らない。全員が総立ちとなって何度もカーテンコールに答える歌手に混じって、演出のシュテークマン氏も登場し、成功を祝う姿に私は胸がこみ上げてくるほどの感動をこらえることができなかった。

17時に始まった公演が終わった時にはは、22時を過ぎていた。丁度5時間だったから、これもまた「のぞみ」での大阪往復に相当する時間が経過したことになる。

2016年5月28日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ロベルト・デヴェリュー」(The MET Live in HD 2015-2016)

METライブシリーズも今年で10周年だそうだが、このシリーズの最大の良さは、それまでに触れたことのない作品に気軽に触れられることである。その中でもシリーズ最大と言ってもいいほど私にとって意味深かったのは、ドニゼッティの「チューダー朝女王三部作」と言われる作品を、圧倒的な感銘を持って味わうことができたことである。すなわち「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」そして今回見た「ロベルト・デヴェリュー」である。

おさらいをしておこう。比較的有名な「アンナ・ボレーナ」でもMET初演となったライブ映像を見たのは2011年だった。この時ヘンリー八世の王妃アンナを演じたのはアンナ・ネトレプコ。私はこの作品でドニゼッティの魅力を思い知ったと言ってよい。「連隊の娘」のように阿呆らしい荒唐無稽さはなく、「愛の妙薬」のようなほのぼぼとした明るさとも無縁である。

次の「マリア・ストゥアルア」はスコットランドが舞台の作品である。メアリー・ストゥアートを演じたのは、アメリカ人のソプラノ歌手ジョイス・ディドナートであった。2013年の公演はまたもや初演。女性同士の対決は手に汗握る迫力で、私はまたもや圧倒されたと言ってよい。これらの感想は、それぞれブログに書いた。「歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない」などと書いており、興奮したことを思い出す。3つとも演出はデイヴィッド・マクヴィカー。舞台装置は斬新というわけではなく、かといって保守的でもない。全体に暗いのはイギリスを舞台とした悲劇だから。ただ歌手の演技を引き出すことにかけては彼は天才的ではないか。指揮はメトのベルカント・オペラの第一人者、マウリッツィオ・ベニーニ。

今回の作品「ロベルト・デヴェリュー」の主役であるエリザベッタを演じたのは、シカゴ出身のソプラノ歌手、ソンドラ・ラドヴァノフスキーであった(このオペラの表題役はロベルトだが、彼女の存在感をなくしてこのオペラは語れない)。彼女は齢69歳にもなるエリザベス一世の役を、蒼白の顔面、こわばった表情、そして足元がふらつくという演技を続けながら、90%以上が怒っている状態の難役を見事に歌った。その様は「すごい」の一言につきる。ベルカントの歌声は高音と低音をいったりきたり。こんなに歌っていると声をつぶすのではないかと心配になる。

史実に基づくあらすじは至って簡単である。エリザベッタは自分を裏切った恋人(ロベルト)を死刑にしてしまうというものだ。 高齢であることもあり最後の心のよりどころであるロベルトを失うことに、彼女の心は揺れ動く。だが私はこのストーリーが早くも第1幕で展開されるとは知らなかった。

一体他に何を歌うのかしらん、などと思っていたが、ストーリーはベルカント時代の様式のように、ひとつひとつの心情が次から次へと美しい歌となって続く。これは見た人にしかわからない興奮だろう。ともすれば退屈極まりない作品も、音楽、特に歌手が素晴らしいと実に見ごたえのあるものとなる。今回もそのいい例だと思う。

エリザベッタの恋人で、彼女を裏切って親友ノッティンガム公爵の妻サラを愛してしまうのがロベルトである。この役はアメリカのテノール歌手マシュー・ポレンザーニによって歌われた。彼の歌声は甘くて柔らかく、素朴な風貌が例えば「椿姫」のアルフレードなど好適であろうと思わせる。彼の出番は数多いが、最高に素晴らしかったのは第3幕の長いアリアである。絞首刑になる直前、何をどう歌ったかは忘れたが(こういうところがベルカント・オペラである。歌に聞きほれているうちにストーリーなどどこかへ行ってしまうのだ!)、その歌声は頂点に達し、メトのすべての観客を心底魅了した。私はエリザベッタを歌ったラドヴァノフスキーよりも総合的な安定度において上回っていたと思う。

エリザベッタの恋敵で、ロベルトが恋に落ちるサラは、友人ノッティンガム公爵の妻である。サラはまたエリザベッタがただひとり心を許すことのできるだけの信頼を寄せている人物であるところが話を複雑にしている。だがそのことは最初ノッティンガム公爵は知らず、親友を死刑から救い出そうとする。恩赦を懇願されるエリザベッタもまた、サラこそが恋敵であったことを知るのは幕切れになってからである。ここでサラの役はメゾソプラノで、何と贅沢なことにエリーナ・ガランチャが歌い、その夫、ノッティンガム公爵は、これまた大バリトン歌手のマウリシュ・クヴィエチェンである。このようなところがメトらしく、何と4人が4人とも素晴らしい。主役二人はアメリカ人で固め、脇役を東欧の実力派が担うのだ。

ここでの登場人物は、すべて大切なものを失う。エリザベッタは最後の生きる望みを、ロベルトは自らの命を、ノッティンガム公爵は妻と親友を、サラは恋人と夫を、といった具合である。救いようもないストーリーは後の世代の作曲家ならもっと違う作風にしたであろう。イギリスを舞台にしているとはいえ、このオペラはイタリア・オペラらしく感情の動きが活発であり、それに合わせた音楽もドラマティックである。そしてそれはヴェルディの初期作品を彷彿とさせる。ヴェルディがここから学び発展させたドラマとの融合は、ドニゼッティのオペラ・セリアにその出発点を見出すことが出来る。

この時期の音楽は、たとえ各役柄の間に感情的、あるいは立場の違いがあっても、音楽は見事に調和している。まだ不協和音というものが目立つことはない。つまり殺人をほのめかすような罵り合いも、和音となって重唱となる。ドラマはまだ神の維持する世界の中に納まっている。だからエリザベッタは最終幕でロベルトを愛していることを告白し、彼を赦そうとさえする。高齢の自らの立場を嘆きつつも。この少し創作めいた、やや滑稽な心情の告白は、興業としてのオペラを意識させる。だからこそヴィッカーはこの上演を劇中劇という形でやや客観視しているように思える。

そのあまりに悲惨なストーリーがたとえ事実だとしても、これは演技と歌を楽しむ作品である。その限りにおいて、今回もMET初演となった「女王三部作」の最後、 「ロベルト・デヴェリュー」は、それが完全な形で上演されることによって、それまでに(おそらく)知られていたであろう魅力の何十倍もの可能性を示す結果となった。この素晴らしい経験が、METライブという気軽なもので味わうことの嬉しさを感じずにはいられない。今年のシリーズ中、いやこれまでのMETライブの中でも傑出した上演であったと信じて疑わない。3つの作品を再度見てみたいと思う。それはリバイバル上映で可能だろう。だが舞台でこのレベルの感動を味わうことは・・・経済的、空間的あるいは時間的制約に、字幕といった言語的障壁を考えると一生ないだろうと思う。

2016年5月14日土曜日

プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」(The MET Live in HD 2015-2016)

我が国を舞台にしたストーリーではあるものの、西洋人のステレオタイプな偏見に満ちているという点で、日本人として違和感を感じるために、このオペラが好きでないという人があるが、私はまったくその逆である。むしろ親近感を覚えるし、美しくも悲しい物語に心を打たれる。もしかしたらこれはプッチーニの最高傑作ではないかと思うほどだ。音楽の白眉は第2幕の間奏曲のシーンである。ただ待つだけのシーンは動きもなく歌もない。なのにどうしてこんなに美しいのだろう。音楽に耳を傾けているだけで、ゆっくりと時間が経過してゆくその様に涙さえ浮かぶほどだ。見ると蝶々さんを歌っているクリスティーヌ・オポライスも泣いている。こみ上げる感動に、幕が下りているというのに感極まるばかり。インタビューが始まると彼女は告白する。「早く泣き始めないように我慢していた」と。

蝶々夫人の舞台には、当然のことながら日本の家屋が登場する。長崎の港を見下ろす幕末の家には、障子、畳、あるいは日本式のお庭がセットさせるのが普通だ。だがこのオペラは心理の移り変わりを描いたオペラだ。下手な大道具が登場すると興ざめである。むしろ舞台はシンプルな方がいい。そしてカレル・マーク・シションの演出は、障子が左右にスライドする以外は至ってシンプルである。代わりに文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の要素がちりばめられている。黒子がまるで本当の子供であるかように3人がかりで人形を操るかと思えば、空を舞う鳥の群れが舞いながら飛び去る。その美しいこと!

この上演の素晴らしさは、定評あるロベルト・アラーニャやプッチーニ歌いとしての名声を確立したオポライスにあることは第一に評されるべきだろうが、まあそれは当然と言えば当然である。意外性に満ちたこのオペラの新鮮な発見は、やはりその演出にあると言えるだろう。和音階を随所に取り入れたプッチーニの音楽を十全に表現したアンソニー・ミンゲラの指揮の素晴らしさを讃えることを忘れるくらいに、演出の素晴らしさが際立つのだ。

最近METライヴもマンネリ化し、どうも感動する作品が少ないと感じ始めていた。正直なところこの上演を見る気力が失せていたのだ。歌手はいいし一定の水準であろうことは想像できる。ビデオ上映する以上、まるで失敗ということもないと思う。いつも案内役が言うように「実演で見るのに勝るものはありません。是非METか、もしくはお近くの歌劇場でお越しください」というのは事実である。もしかしたら大きな損失を被ることを覚悟してもなおチケットを買い求め、ハラハラしながらも歌を聞くときの期待と緊張感、そしてそれが良かった場合の感動は何物にも代えがたい。

でも今回のシション演出の「蝶々夫人」は、そんなあまりに当たり前のことを忘れさせてしまうほどに感動的であり、感情の移入に自分でも驚くほどである。精緻な演出は一挙種一挙動にまで及んでおり、洗練されているだけでなく細部に磨きがかかっている。もしかしたらビデオで見ることで、細かい動きにまで気付くのかも知れない。浄瑠璃で表現される3歳の男の子の仕草などは、その代表だろう。

第2幕で3年間を待ちわびた蝶々さんは今日も長崎の港を見下ろしながら暮らしている。そこでアメリカの戦艦が現れると、彼女はそこに夫であるピンカートンがいると信じ込むのだ。彼女はなんと結婚衣装に着替え、期待に胸を膨らませながら時間が過ぎるのを待つ。ここで彼女はあくまで待つのだ。女中のスズキ(マリア・ジフチャク、彼女は本当にいそうな旅館の女将のようないでたちである)と少年と3人で居間に正座する。暮れ行く長崎の空は赤みを増してゆくその中に、滔々と流れるきれいなメロディー。ただ待つというシーンを、こんなにも美しいオペラにしたプッチーニは天才的だと思った。

テレビも電話もない時代。港に現れた戦艦に夫がいるかどうかすら確かめようがない。彼女はじっと待ち、そして時間だけがゆっくりと過ぎ去る。まるで昔の松竹映画を見ているように、動きが少ない中にも落ち着いた時間である。彼女はそわそわと感情的になることはしない。そういったところにプッチーニは日本人の慎ましさを表現したのだろうか。だとするとそういう部分は何とも誇らしく、嬉しい。おそらく蝶々さんは、少し前に領事のシャープレス(ドゥウェイン・クロフト)が言いかけたように、夫に捨てられることを悟っていたのかも知れない。だがたった一人残された子供までを引き渡すよう言われることまでも想像していなかったと思う。

まだ十代で異国の妻となった元芸者の蝶々さんは、もはや元の生活に戻ることなど考えられない。すべてを失い、希望も消え失せた彼女に残されたのは、短剣で自らの命を絶つことだけだった。そのシーンを見られまいと子供に目隠しをし、遊ぶようにと促すそのシーンに至って、感興は一気に頂点に達する。流れた血の色が彼女の来ていた着物の帯の色であることを思い出すのはこの時である。劇的な音楽は一気に幕切れに向かう。音楽が鳴り止むのを待ち切れず盛大な拍手が沸き起こってもなお、私は物語の中に身を置いていた。この上演はもう一度見てみたいと思った。10年にも及ぶMETライヴの中で、感動的なものは数えきれないくらいあったが、もう一度見たいと思った作品は少ない。だが間違いなくこの上演は、私のオペラ経験の中でも特異なほどにランクインするものとなったのだった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...