2019年11月27日水曜日

ドヴォルジャーク:交響曲第5番ヘ長調作品76(イルジー・ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団)

ドヴォルジャークの第5交響曲の冒頭は、序奏がなくいきなりクラリネットの主題で始まる。牧歌的でヘ長調と言えばベートーヴェンの「田園」を思い出すが、この曲の第1楽章はもっと起伏に富み壮大である。どことなくワーグナーを思い出すようなメロディーも登場するが、これ以前の交響曲で見られる明らかなワーグナーの影響からは、むしろ脱却している方だという。

第2楽章もアンダンテとなっているが、それなりに壮大で、続く第3楽章も似たような感じである。つまりこの曲は、ずっと同じように適度に起伏を持ち、自然と民謡が溶け合うドヴォルジャークの特徴と相まって、ボヘミア地方のなだらかな風景を見続けているような気持になる。重々しい旋律もその底流は明るく、骨格もしっかりしているので、初めて聞く曲でも飽きることはなく楽しい。ただ後期の交響曲と比べると、どうしても見劣りがしてしまう。第5番から第7番まで聞いてきて、やはりこの順に音楽的な完成度は向上し、ドヴォルジャークの作風が自信とともに確固たるものになってゆくのを目の当たりにする。すなわち、第8番が第7番に続き、そして第9番「新世界より」で出世街道の大団円を迎えるというわけである。

チェコ人の指揮者であるイルジー・ビエロフラーヴェクは、首席指揮者だったチェコ・フィルを指揮して、ドヴォルジャークの交響曲全集を録音している(2014年、デッカ)。思えばドヴォルジャークの交響曲全集は、かつてデッカにハンガリー人だったイシュトヴァン・ケルテスが残したものが有名で、おそらく9曲全部というのは最初ではなかっただろうか。その後、ラファエル・クーベリックがベルリン・フィルと残しているのも記念碑のような名盤だ。けれども、チェコ人によるチェコのオーケストラとの全曲演奏は、思いつくところヴァーツラフ・ノイマン以来ではないだろうか。

ここで聞ける最近のチェコ・フィルは、ボヘミア的というよりはよりインターナショナルな響きである。けれども録音の良さと言い、演奏の完成度といい申し分なく、現在望みうる最高のドヴォルジャーク交響曲全集である。そのビエロフラーヴェクは、次に来日したら聞きに行ってもいいななどと思っていたのだが、知らない間に亡くなっていた。2017年のことだという。享年71歳。指揮者としてはまだまだ若い方である。

実は1994年のN響の第九で、私は一度だけこの指揮者に接している。今となってはこれといった記憶がないのだが、記録によればこの演奏会のソプラノは、やはり今年61歳の若さで亡くなった佐藤しのぶだった。そういえば、今年も残すところあと1か月となった。まことに年月の経つのが早い、と実感するこの頃である。

2019年11月24日日曜日

NHK交響楽団第1926回定期公演(2018年11月22日NHKホール、指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット)

ブロムシュテットがN響の指揮台に立つたびに、失礼ながらもうこれが最後なのだろうか、と思ったものだった。だが今年も巨匠は東京へやってきた。A/B/Cの3つのプログラムをそれぞれ二日ずつこなし、しかも台風被害の爪痕が残る北関東各地への演奏旅行にも同行して指揮したのだ。しかしいくらなんでも93歳ともなれば、現役指揮者としての制約が感じられるのが普通である。ところが指揮台に手助けも必要とせず歩いて向かい、立ったまま指揮をするというのだから、それだけでもう神に感謝するしかない。矍鑠というのでもなく、ごく自然なのである。そこが凄い。

勿論、演奏される音楽が悪かろうはずがない。ブロムシュテットほど若い頃から音楽が毅然と、劣化することなく流れてくる指揮者はない。今回聞いた最後の演奏会も、堂々たるモーツァルトに聞き入った記録をここに書いておこうと思う。プログラムの前半は交響曲第36番ハ長調K425「リンツ」で、後半はミサ曲ハ短調K427である。いずれもモーツァルトがザルツブルクへの帰郷に際して作曲された同じ時期の作品ということになる。

「リンツ」を実演で聞くのは、実は初めてである(と思ったら一度だけ、南西ドイツ交響楽団の演奏で聞いている!記憶に全くないのだが)。モーツァルトの交響曲作品を聞くことも最近ではめっきり少なくなり、一体何年ぶりだろうと思いながら、冷たい雨の降りしきる渋谷をNHKホールへ向かう。今日土曜日のマチネーは、最安値のE席(自由席)が早々と売りきれてしまったようだ。数あるN響の定期公演でも、巨大なNHKホールに関していえば極めてまれで、私の聞く限りでも、一昨年のピレシュの引退演奏会以来だったのではにだろうか(この時の指揮もブロムシュテットだった)。

今回はC席で3階の左端である。ここは3階ではあるものの比較的舞台に近く、値段の割には音響は悪くないという印象である。今回も、それは例外ではなかった。「リンツ」の小編成のオーケストラからは、実にきれいなモーツァルトの音が引き出された。冒頭の序奏から、この曲はさほど楽しくない雰囲気に満たされている。冊子「フィルハーモニー」の解説によれば、それはモーツァルトのザルツブルク帰郷が、いかに憂鬱なものだったかを示しているということだ。

だが私はこの「リンツ」が、かつては最も好きな交響曲だった。それはブルーノ・ワルターによる演奏が大変に優れていたからだ。ワルターの演奏で聞く限り、この曲はとても優雅である。それに比べるとクライバーの映像など、神経質すぎて聞く気にもなれない。だが、モーツァルトの心の内はクライバーの方に近かったのかも知れない。クライバーの方が、曲に込められた作曲者の心象風景をより的確に反映しているのだろうか。

ハ長調ということもあると思っている。「ジュピター」や他の作品がそうであるように、ハ長調のモーツァルトは、あの抜けるような明るさや、乾いた淋しさが感じられない。わずか4日で作曲されたという事情もあるのかも知れない。だが今回のブロムシュテットの演奏は、そういったモーツァルトの憂鬱な旋律を覆い隠す方の演奏だった。昔の(例えばドレスデン時代のブロムシュテットを私は好むのだが)演奏からほとんど変わらない幸福感が演奏から感じられる。90歳を過ぎてこんなにもスキッとした演奏を聞かせるのだから、神業である。N響が実にうまく、二つ以上の楽器の重なりも、まるでひとつの楽器のように聞こえてくる。

その「リンツ」で私がもっとも愛するのは第2楽章である。ここのメロディーはいつまでも聞いていたい。そして嬉しいことに今回の演奏は、第1楽章から最後まで、繰り返しを一切省略しないバージョンで演奏された。いつもはもう終わってしまうのか、と思うようなところがことごとく繰り返され、そのたびに私は幸せな気分になったのだった。決して主張するのではない、曲そのものの魅力をそのまま表現することに徹する真摯な姿勢は、モーツァルトのような純度の高い音楽でこそ真価を発揮したと言うべきだろう。

だとすれば休憩を挟んでの大ミサ曲が、悪かろうはずがない。ソプラノのクリツティーナ・ランツハマーの澄んだ声が、最初のキリエで鳴り響いた時、それはまるで歌声が天から舞い降りてくるような美しさだった。

新国立合唱団は、曲の途中で何度もポジションを変えるという珍しい光景にも出会った。そのパート、パートで求める音響が異なるということなのだろう。そしてトロンボーンは合唱団を挟んだ高い位置に分かれて配置されていた。チェロとコントラバスが左に配置され、ティンパニと他の金管は右、オルガンは左、というように左右で高低の音がまじりあうような配置は、この曲に限ったことではなく最近よく見られるのだが、ミサ曲においては、残響の多い教会のように常に会場をまんべんなく満たし、その広がりを表現するという見事な効果を生み出していた。広すぎるNHKホールにおいても、比較的ムラなく音楽が鳴ったと思う。

だが、私はこのような優れたミサ曲は、やはりより狭い空間で聞いてみたい。モーツァルトが作曲した短調のミサは、「自身の内面の苦悩が反映されている」(「フィルハーモニー」11月号)らしい 。例えば私は今、ヘレヴェッヘの指揮するシャンゼリゼ管弦楽団による演奏を聞きながらこのブログを書いているのだが、ここで聞かれる小編成の古楽器演奏などは、透き通った中に細かい部分まできっちりと聞こえてくる。ライブならでは良さも、身近に聞いてこそ感じられるのだろう。とくにモーツァルトのような音楽では。

もう一人のソプラノ、アンナ・ルチア・リヒターは昨年、ヤルヴィの指揮するマーラーの交響曲第4番で、非常に美しい歌声を聞かせた歌手で私は大いに期待した。その歌声は、やはり同様に素晴らしいものだったが、もしかすると同じソプラノでも、ランツハマーとは声の質が少し違う。むしろメゾ・ソプラノに近い翳りの声がまた、曲の中でうまく溶け合っていたような気がする。なお、テノールはティルマン・リヒディ、バリトンは最後にやっと登場するが、日本人の甲斐栄次郎。

それにしてもブロムシュテットのミサ曲は自然ななかにも敬虔さに満ちており、何か幸福な気分に満たされた。曲が終わらないうちに拍手が始まったのには閉口し、聴衆が興醒めにさせられたのだが、その拍手も次第に大きくなり、最後にはオーケストラが立ち去っても成り止むことはなかった。指揮者はひとり舞台の袖に登場し、軽く手を振っていたが、それも老人のそれではなく、まるで普通の日常の光景のように振る舞っていたのが印象的だった。

前日の朝から降り出した雨は止むことを知らず、明日まで降り続くという。この寒い雨は、羽田空港に降り立ったローマ教皇にも降り付けていたようだ。丁度演奏会の途中の出来事だった。

2019年11月22日金曜日

ドヴォルジャーク:交響曲第7番ニ短調作品70(ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ドヴォルジャークの交響曲第7番は、独特の趣きを持った作品である。楽天的で明るい第6番とは対照的に、ほの暗く、内に秘めた情熱を感じる。これはブラームスの交響曲第3番に影響を受けたからだ、と言われている。確かによく似た感じがする。もっともブラームスの交響曲第3番はヘ長調であるのに対し、このドヴォルジャークの交響曲第7番は二短調である。

第1楽章アレグロ・マエストーソは八分の六拍子。暗いメロディーにもっともブラームスを感じるところかも知れない。ただ、暗いだけでなく、どことなく憂愁を帯びた情緒が垣間見られ、しかも次第に熱を帯びてゆく。交響曲としての風格は、しっかりとしたものがある。第6番が朝の明るい音楽さとすれば、第7番は午後の曇った陽気である。

第2楽章を聞いた時は、この曲が「新世界より」のあの有名な第2楽章の前触れのような作品だと思ったことがある。「新世界」ではイングリッシュ・ホルンが、確信的に哀愁を帯びた「家路」のメロディーを奏でて聞くものをしんみりと懐かしさに浸るのだが、ここではクラリネットやオーボエが控えめに旋律を奏でる。物淋しげだが、展開されてゆくと独特のドヴォルザーク節である。フルートやホルンの印象的なソロと弦楽器が重なり合ってゆく。第2楽章はいい演奏で聞くと本当に味わい深い。

第3楽章のスケルツォはスラヴ舞曲である。ただここでのリズムは、特徴のあるアクセントで進み、しばしば穏やかである。賑やかな祝祭的音楽とは一線を画す。この曲を初めて聞いて以来、忘れることはない。ぐっと内省的な感じがしてくる渋さは、第8番や題9番「新世界より」にはない、また別の魅力である。第4楽章のフィナーレは力強い曲で、壮大に終わる。その重なり、煮詰まっていく感じは、やはりブラームスを思い出してしまう。

この曲の今一つの特徴は、複雑なリズムにあると思う。独特のアクセントを伴っているのは、第3楽章だけではない。そういう音楽をきっちりと、職人的な感覚で指揮ができる指揮者がいい。そこで私は長年、コリン・デイヴィスによる演奏を聞いて来たが、今ではマゼールがウィーン・フィルを指揮した演奏が気に入っている。80年代初期のデジタル録音。この頃のマゼールはウィーン国立歌劇場の音楽監督であり、しばしばベルリン・フィルにも客演するという活躍ぶりだった。

マゼールによるこの曲の冒頭の演奏を聞いていると、何かシベリウスを聞いているような気がしてくる。そういえばここ数日は、急に寒くなってきたような気がする。秋の短かった今年は、いつのまにか11月も終わりかけている。例年なら紅葉を楽しみにしている時期なにだが、どういうわけか北国からは雪の便りも聞こえてくる。どうもよくわからないムードの中で、年末を迎えるのだろうか。


2019年11月16日土曜日

ドヴォルジャーク:交響曲第6番ニ長調作品60(トーマス・ダウスゴー指揮スウェーデン室内管弦楽団)

チェコの作曲家、アントニン・ドヴォルジャーク(我が国ではドヴォルザークと書くことが多いが、ここでは原音に忠実にドヴォルジャークと記す)は、その音楽史における功績以上にファンの多い作曲家とみなされている。憂愁を帯びた親しみやすいメロディーは、遠い田舎の記憶をよみがえらせるようで忘れ難い。けれども9曲ある交響曲の、前半のものなるとほとんど聞くことのない作品となる。第1番から第5番までは、実際私も聞いたことがない。

ドヴォルジャークの交響曲は第9番「新世界より」が最も有名で、番号か下るにつれて次第に演奏されなくなる。だがそれもせいぜい第6番まであろうか。実際、この交響曲第6番ニ長調作品60は、かつては交響曲第1番と呼ばれていた。

交響曲第6番は、しばしばブラームスの交響曲第2番の影響がみられると言われる作品である。調性が同じニ長調ということもある。そしてブラームスの交響曲第2番はまた、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」に例えられる。大作曲家が残した牧歌的で伸びやかな交響曲作品のつながりが、ここに見て取れる。それではドヴォルジャークの交響曲第6番を聞いていこう。

第1楽章はソナタ形式。ここで最初に思いついたことは、何かスメタナの「わが祖国」に登場する交響詩「ボヘミアの森と草原から」を思わせるようなメロディーだということだ。第2楽章アダージョも牧歌的な魅力を伝えてやまない。しっとりと詩的な情緒を湛えている。

第3楽章はスラヴ舞曲。フリアントと名付けられている。フリアントとは変則的なリズムと急速なテンポが特徴のチェコの民族舞曲のことである。最後の第4楽章フィナーレは、アレグロ・コン・スピリート。幸せな気分で大団円を迎え、45分に及ぶ交響曲が幕を閉じる。

国民楽派と名付けられる後期ロマン派の一時期にあって、ドヴォルジャークは生まれ故郷ボヘミアを愛し、その民族的曲調をあらゆる作品に付け加えた。どの作品も哀愁と幸福感に満ちているあたりが、交響曲作品に深い精神性を求める聞き手には物足りないのかも知れない。けれども私のようなお目出度い聞き手は、このような親しみやすい音楽を好む。

全体的にしっとりとした抒情性と、スラブ風の快活なメロディーに溢れる作品だが、従来のシンフォニックな演奏よりも室内楽的な集中力で、この作品の新たな側面を切り取った演奏がお気に入りである。デンマークの指揮者トーマス・ダウスゴー指揮によるスウェーデン室内管弦楽団による演奏は、Opening Doorsと名付けられたBISレーベルのシリーズで、数々の作品に新たなスポットライトを浴びせている。このドヴォルジャークの第6交響曲においてもまた、SACDのクリアーな響きが耳に新鮮だ。 まさにドアを開けて、さわやかな朝の風を受け、広がる明るい風景を眺めたくなるような気持になる。小規模なオーケストラながらも迫力を持ち、この曲の魅力を十全に引き出している。

ドヴォルジャークの交響曲第6番は、最初に出版された作品であることは先に触れたが、作曲順ではこの前に、交響曲第3番として発表された第5番がある。一般にドヴォルジャークがボヘミアのメロディーを作品に取り入れだすのは、交響曲第5番からだと言われている。であれば、第5番を聞いてみたくなる。 ただ、その前に交響曲第2番として発表された交響曲第7番に、先に触れておきたいと思う。

2019年11月9日土曜日

アンドラーシュ・シフ/カペラ・アンドレア・バルカ演奏会(2019年11月8日東京オペラシティ・コンサートホール)

かつて私をときめかせたハンガリーの若いピアニストも、もう六十代の後半にさしかかっていた。それでもまだ十分聞き手を魅了して止まないシフの演奏を、私も生きているうちにライブで聞くことのできる機会が訪れたことは、今年最大の出来事であった。

東京にようやく晴天の続く本格的な秋空が戻り、街路樹も次第に紅葉しはじめたここ数日の間、私はもう何日も前から臨戦態勢で仕事をやりくりし、体調を整えてきた。11月8日は金曜日で翌日は会社が休み。そういうベストな状態で、この日を迎えた。私は最初に誘った妻が所用で行けなくなり、急遽、高校時代の友人に声をかけた。とても嬉しいことに、一緒に出掛けてくれることになった。

今宵のプログラムは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の全曲演奏会のうちの2日目で、第1番ハ長調と第5番変ホ長調「皇帝」である。伴奏は、彼がソリスト・クラスの演奏家を集めて結成した室内オーケストラ「カペラ・アンドレア・バルカ」である(その中にはベルリン・フィルなどで活躍し、今ではシフの妻となった塩川悠子もいる)。シフは今回、この仲間たちとともにアジア各国を回るツアーの途上にあり、特に大阪と東京ではベートーヴェンのピアノ協奏曲ツィクルスを開催するようだ。

満員のホールに現れたシフは、ゆったりとした足取りでピアノに到達し、手を広げてオーケストラを指揮し始めた。ベートーヴェンがかつてそうしたように、今日のコンサートは弾き振りで、編成は初演当時のように小さく、弦楽器にも独特の渋みが加わっている。これはビブラートを抑えた効果によるものだろう。コントラバスは二人しかおらず、両翼に分かれてシンメトリックな配置を構成している。その中央にピアノ。上から見るとやや斜めに置かれている。ピアノは反射板を開け放たず、聴衆の方に向けられている。

ピアノ協奏曲第1番は、ベートーヴェンのデビューを飾る曲の一つだ。瑞々しい感性と若々しいエネルギーが溢れている。ボンの片田舎からウィーンに出て、技巧派のピアニストとして名を馳せてゆく。まだ耳もよく聞えていた頃のことだ。けれどもこの曲を聞いていると、ベートーヴェンが晩年にまで持ち続けた実直な心と、飾り気のないロマン性といった個性を早くも感じる。その趣向は、後年深化することはあっても、決して消えなかったベートーヴェンそのものの感性である。

ハ長調、聞いてよくわかるソナタ形式、長大なカデンツァはそれ自体がまるでソナタの一楽章に匹敵するような規模を誇るのも異例だ。第2楽章の歌うようなメロディーは一度聞いたら忘れることはない。第1番からすでに、結構な規模とロマンチシズムを湛えた曲を書いていたのだと驚く。この時点でまだシンフォニーは一曲も作曲されていない。

シフは、ときおり立ち上がってオーケストラの方に向かって手を振り上げる(それもベートーヴェンがやっていたことだ)だけでなく、しばしば左手が空いているときなどは、右手では旋律を弾きながら、左手で細かい表情を伝えて行く。そういったやりとりもみどころだったが、驚くべきことは、この有機的な室内オーケストラが、まるでひとつのクァルテットのような自立性を持っていることだ。シフのピアノが常に同じ表情なのかどうかは、他の演奏を聞いていないのでわからない。だが、少なくともどんなピアノのフレーズになったとしても、それを受けるオーケストラは、即興的にその細かい表情を見逃すことがない。

齢50も過ぎると、この先何年音楽を聞き続けることができるのだろう、などと考える。音楽は書物と違って、読み飛ばすことができない。演奏される速度でしか、聞くことができない。私は特に、過去に2度の大きな病気をしているから、なおさらである。この曲をあと何回、じっくりと聞くことができるのだろうか、と考える。

もしかしたら、これは演奏家も同じではないだろうか?演奏家の場合、練習を重ねて弾きこなせるようになる必要があり、その意味では、もっと事態は深刻である。音楽は一度限りのものだから、同じ時間を再現することもできない。だとすると、一度一度の演奏が、演奏家にも聞き手にも、時間という制約を意識させ、限られた時間を共有することの大切さを思い知らせる。この時間は二度と味わえないのだという共通意識が、そこに無意識に存在する。音楽の、いや命の儚さを潜在意識の中に持ちながら。

第5番「皇帝」の、これまで何度聞いたかわからない有名曲を、第1番以上に堂々と、溌剌と演奏する。華麗で、幸福感に満ち、淋しく、そして儚い。私自身、一体何度実演でこのわずか5曲の名曲を聴いたことがあっただろうか。第1番、第3番ではわずかに一回、有名な第4番や「皇帝」でも片手の指が余る。第2番に至っては、おそらくゼロ。そして、今後もこの調子だと、あと一回がせいぜい・・・。

「皇帝」のまるで天国にいるような第2楽章から、一気に突入する第3楽章への移行部分は、圧巻であった。シフのピアノは、確かに若い頃に比べると少し衰えているようにみえるものの、その分円熟した雰囲気があった。どの音もおろそかにせず、綺麗に聞こえてくる。ハンガリー人特有の、クリアで情に溺れないモダン性は、ディスクで聞く演奏と同じだった。 もしかしたら私は、あまりにシューベルトの印象が強いでいか、ベートーヴェンにもシューベルトのような、一瞬の内面を垣間見せるメロディーの変化を意識して聞いていたのかも知れない。

そう、私がシフに親しむきっかけとなったのは、デッカから発売されていたシューベルトだった。その演奏は今でも色あせないばかりか、未完成作品の多い作品を含め、ほぼすべての曲を網羅した全集は同曲のスタンダードとして広く聞かれている。

「皇帝」の第3楽章にける変奏の妙は、ゆったりと、そしてたっぷりと私を魅了した。これまで聞いてきたベルナルト・ハイティンクの指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、ドレスデンのオーケストラのいぶし銀の響きと、テルデックの優秀録音によって、限りない魅力を湛え、名盤のひしめく同曲中のディスクの中では、最高位にランクされるものだが、たとえそれがシフ最高時の演奏を記録したものであったとしても、今日、コンサートホールで聞いたシフの生演奏は、私に様々なことを考えさせた。それは同じように年を重ねて行く私も、また音楽を楽しんで行きたいと思う共感にも似たものだった。

「皇帝」が終わっても冷めやらぬ拍手に応えて、何曲ものアンコールが演奏された。ここにその曲を順に書いていくが、驚くべきことはその最初が、何と協奏曲第4番ト長調の後半、すなわち第2、3楽章だったことだ。そしておそらくその演奏が、全体の中での白眉だった。第2楽章の例えようもないような静寂と緊張。その一音一音に神経が行き届いている。オーケストラとの阿吽の呼吸によって、この奇跡的なトランジションは、最高潮に達した。まるでそうと意図したように、コンサートの全体の最高点がそこにあった。なだれ込むような第3楽章。けれども老巨匠は今や、一音一音を大切にしながら悠然と音符を進めてゆく。

アンコールの2番目はピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調「テレーゼ」全曲だった!この10分程度の曲を、聴衆は聞き入った。何かとても個人的なプレゼントをもらったような時間だった。何度も舞台に呼び戻され、オーケストラが去っても消えない拍手にひとり舞台に現れる。こういうシーンは、常にあるものではない。コンサートの模様はNHKによって録画され、来年にはオンエアされると掲示されていた。

会場を出るとビルの間を秋の風が吹いていた。早くもクリスマスツリーが広場に飾られ、そのそばのパブで、しばし友人とのひとときを過ごした。たっぷりと時間を過ごしたコンサートだったが、その音色のように湿度は低く、さわやかなコンサートだった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...