2016年12月30日金曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第4番ニ短調(Vn:ギドン・クレーメル、リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

このヴァイオリン協奏曲第4番もまた、数奇な運命をたどって演奏された作品である。その経緯は以下の通り。


「パガニーニの死後、楽譜は息子アキリーノのもとに保管されたが、やがて処分されてしまった。1936年にも同じことが繰り返されたが、その時、パルマのくず屋が買い取った紙束の中から、アキリーノの署名がある本作のオーケストラ譜が発見され、そのオーケストラ譜を買い取ったイタリアの蒐集家ナターレ・ガルリーニがその後、北イタリアのコントラバス奏者ジョヴァンニ・ボッテジーニ(1821年-1889年)の遺品の中にヴァイオリンの独奏パート譜を発見した。

その後、1954年11月7日に、アルテュール・グリュミオーの独奏ヴァイオリン、ラムルー管弦楽団、フランコ・ガルリーニ指揮(ナターレの息子)によって、パガニーニの死後、初めて演奏された。」(Wikipediaより)


この作品を何とギドン・クレーメルが演奏している。しかも伴奏はウィーン・フィルである。巨匠ムーティが指揮をしている!このCDを見つけた時、即刻買うことを決意した。録音は1995年。

第4番の協奏曲もまた、いつものパガニーニ節が全編にわたって繰り広げられる。冒頭の序奏はそれまでの曲に比べてむしろロマンチックだと言えようか。聞き進むうちにこの曲が、ウィーン・フィルによる演奏であることに何かとても新鮮なものを感じる。ヴァイオリンだけが突出している演奏が多く、伴奏はまあ付け足し。極端に下手なのも困るが、そこそこの安定した伴奏なら聞けるし、それにそんなに難しくはない。だから無難に・・・という演奏が多い中で、ここでのムーティは真面目である。ウィーン・フィルは独特の音色が魅力だが、その艶というか微妙な厚さ(完璧に揃わないからか)が独奏の、やや神経質で線の細いクレーメルと奇妙なマッチングを示している。

その状況が象徴的に表れるのが、第1楽章のカデンツァではないだろうか。ここでクレーメルはまるで現代音楽を思わせる技巧的な独奏で、もしパガニーニが現代に生きていたらこういう曲を書いたのではないか、とクレーメルが考えたかどうかはわからないが、とにかくここはクレーメルならではの、ややスラブっぽい音楽が魅力的である。

第3楽章の第2部での、いつものパガニーニ節もまた素晴らしい。クレーメルは少し余裕のあるような力でここを含む全体を弾きこなす。演奏が決して安易なものにはならず緊張感を保っているものの、客観的にパガニーニという作曲家を弾きこなしている。ムーティはそのような真摯なソリストに対し、誠意をもって伴奏を務めているように感じられる。

クレーメルとパガニーニという取り合わせは、しかしながら意外なものではない。なぜならクレーメルはアッカルドなどと同じパガニーニ国際ヴァイオリン。コンクールの覇者であるからだ。意外なことにクレーメルのパガニーニ演奏は、それほど珍しいわけではない。だがクレーメルはパガニーニの圧倒的な技巧に敬意を払いつつも、ヴァイオリンの持つ表現の可能性をさらに押し進めている。だからここで聞くクレーメルのパガニーニは、独特の魅力を持っているように思われる。

なお本CDには珍しい「ソナタ・ヴァルサヴィア(ワルシャワ・ソナタ)」が並録されている。旋律の綺麗な曲だが、次第に独奏の技巧が目立つようになり、第3楽章の「ポーランドのテーマ」に至っては、管楽器との掛け合いや小鳥が飛び立つように消え入る部分など、唖然とするものがある。もちろんクレーメルは、そんな部分を超絶技巧と緊張を両立させながら、余裕を持って弾ききっている。


2016年12月29日木曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第3番ホ長調(Vn:サルヴァトーレ・アッカルド、シャルル・デュトワ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)

オーケストラ・パートのピツィカートが印象的なヴァイオリン協奏曲第3番は、1828年に作曲されたらしい。パガニーニは自らの演奏技巧を披露するためにこのような曲を書いたので、作品の芸術的価値は乏しく、内容に深みがないとされてきた。しかし音楽が芸術のためにだけあるわけはなく、その境界が曖昧だった時代に、このような作品が作曲されていることを無価値だと決めつけるのは味気ない話だとも思う。ポピュラー音楽だと思えばそれでいいし、それにそういう音楽を楽しむことは、聞き手の自由である。ヨハン・シュトラウスの円舞曲と同様に、私はパガニーニの作品が好きだ。

もっともパガニーニのヴァイオリン協奏曲については、知られている情報があまりに乏しい。最も有名な第1番ニ長調作品6だけが突出していて、次によく演奏されるのが最近では第4番ニ短調だろうか。標題が付き、後にリストが編曲した第2番は、メロディーこそ有名なものの演奏される機会が少ない。それでもこの3曲は、比較的録音されている。それにくらべるとこの第3番ホ長調は、めったに演奏されることもなければ、録音を探すのも難しい。

私が所有する第3番の協奏曲は、そういうわけで全集として録音され、この曲の草分け的な存在でもるサルヴァトーレ・アッカルドによるものだけである。もっともこの曲を蘇演したのはシェリングで、何と1953年のことである。作曲から百年以上が経過している。私もシェリングのCDを探した。かつて出ていたことはあるようだが、中古屋を含めこれまでに発見できてはいない(単独で収録されているものがあるが、コストパフォーマンスが悪い)。

さてその曲は、他の協奏曲と同様、ヴァイオリンの輝かしい音色が横溢する素敵な協奏曲だった。長い序奏のあと、まるでソプラノ歌手がアリアを歌うようにオペラ風の曲が聞こえてくる。時にヴァイオリンをなびかせて、うなるように低音を振り上げるさまは、演歌のようでもある。そうかと思うと小鳥がじゃれあって舞うように上昇・下降を繰り返した後、パチンと弦が弾ける。第1楽章終盤に挟まれているカデンツァは、この様子をさらに極限化して伴奏なしで聞かせる。もう食傷気味だと言うのに。

それでも続く第2楽章の、まるでヴィヴァルディの明るさを思わせる、うららかな小春日和の風情はまた格別である。冬に咲く南国の花と青い地中海を思わせる、イタリアそのものの風景を私はここで想像する。第3楽章もピツィカートで始まり、親しみに満ちた歌が聞こえる。このメロディーは一度聞いたら忘れられないくらいに魅力的だ。もちろん後半に挿入される長い第2部も、他の作品同様圧倒的である。

私が入手したこの作品のCDは、ドイツ・グラモフォンが西ドイツ時代にリリースし、台湾で発売されたものだった。CDの帯には中国語で曲名が書かれている。パガニーニは「●格尼尼」と書くようだが、この●に相当する文字が、巾というへんに、白という字のようである。だがこの字を私のPCで入力することはできなかった。ちなみにアッカルドは「阿卡多」、デュトワは「杜特華」のようである。本CDで聞くことのできる杜特華はまだ、モントリオールの指揮者となる前、1970年代前半の若い頃。教科書的なきびきびした指揮は、隅々まで明確で安定的。テンポも絶妙なら、独奏を際立たせるところでは音量をぐっと抑え、脇役に徹する。協奏曲の伴奏をしたらこれほどうまい指揮者はいないのではないか。倫敦愛楽交響楽団も健康的で透明な音色で、明るいイタリアの光が程よく差し込んでいる。

2016年11月19日土曜日

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(The MET Livein HD 2016-2017)

今シーズンのメトロポリタン歌劇場は、「トリスタンとイゾルデ」で開幕した。いきなりワーグナーの大作である。なぜこのような企画にしたか、総裁のゲルブ氏はインタビューで、リンカーンセンターに移転して50年目の節目に相応しいゴージャスな幕開けにしたかったという趣旨の発言をしている。

50年前というのは実は丁度私が生まれた年にあたる。そこで急きょ、何月何日に50年前のシーズンが開幕したか、検索してみた。するとそれは何と9月16日、すなわち私が誕生したわずか1週間後のことであった。

メトロポリタン歌劇場は私がもっとも多くの作品に接したオペラハウスで、その最初は1990年3月19日のことである。この時点でリンカーンセンター移転後24年が経過していることになるから、それからもう26年もの歳月が過ぎていることになる。初めて見た作品がヴェルディの「オテロ」で、何とカルロス・クライバーの最終公演だった。その時のことはすでにブログに書いたが、これは旅行中の偶然であった。

1995年にニューヨークでの生活を始めた際には、もちろん何度も通ったが、その中にはやはり「オテロ」のモシンスキーによる新演出プレミア公演(プラシド・ドミンゴとルネ・フレミング)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でいぶし銀のベクメッサーを歌ったヘルマン・プライ、「トゥーランドット」で驚異の歌声をあげたゲオルギューなど、今でも興奮する公演が含まれていた。

2000年代に入り、その公演の何作品かが、ハイ・ヴィジョンによって生中継されるという企画に接した時、私は子育てと闘病の合間を縫って映画館に通いつめ、毎日のようにリバイバルを含む公演を「踏破」していった。そのときの鑑賞メモが、このブログを書くきっかけでもあった。私はこの企画によって、字幕付きのオペラを集中して鑑賞するという機会に恵まれ、さらに舞台裏のエピソードや作品の簡単にして奥深い解説に、オペラの醍醐味を教わったと言っても大袈裟ではない。

ワーグナーの主要な作品は、ほぼこのMET Liveシリーズで接している。「トリスタン」もそのひとつで、これまでにレヴァインの指揮したものが取り上げられたが、今回はその次の新演出である。しかも指揮者は何とサイモン・ラトルである。

「トリスタンとイゾルデ」に初めて触れた時(それはやはりクライバーのレコードだった)、この作品はいつも同じ光景のまま進行する捉えがたい作品という想像を覆して、何かとても力強い作品だと思った。管弦楽はよく鳴るし、歌も大声を張り上げる。「前奏曲」と「愛の死」しか聞いたことがなかった私は、ちょっと驚いた。しかもその状態が4時間以上も続くのだ。

今回マウリシュ・トレリンスキの演出で見る「トリスタン」も、舞台を少し現代に変えているとはいえ、基本的には原作をおろそかにしないもので好感が持てることに加え、ラトルの音楽がむしろ筋肉質で無駄がない。それはむしろ健康的なくらいで、アイルランドを行く北海の荒れた船内という暗さがちょっと足りない。前奏曲の時から丸いレーダーの画面のような円が光り、その中央に様々な情景が映し出される。

イゾルデを歌ったニーナ・ステンメは、昨シーズンに見た「エレクトラ」で驚異的な歌声だったが、その彼女の当たり役でもあるイゾルデには一層磨きがかかり、フランゲーネを歌うエカテリーナ・グバノヴァとの丁々発止のやりとりも落ち着いている。一方、トリスタン役を演じたスチュアート・スケルトンは、今回が初めてというから凄いと思う。テノール殺しといわれる本作品にほとんど出ずっぱりの彼は、第3幕まで全力投球である。見ている方がドキドキする。

あまり多くは歌わないが、重要な役を与えられたクルヴェナールのエフゲニー・ニキティンは、もしかするとこの日もっとも調子が良かったのではないだろうか。特に第3幕の献身的な従僕の歌は、トリスタンを一層引き立てるばかりか、もしかすると彼の方がいい出来でさえあると思った。インタビューでは落ち着かない若者のような受け答えだったが、ここで聞くニキティンの声には、艶と張りがあった。一方、マルケ王はルネ・パーペで、これがまた品が良く、まさにうってつけである。その彼はベルリン在住ながらラトルとの共演が初めてだというのは驚きである。

第2幕の二重唱シーンこそ、このオペラ最大のみどころであることを初めて知った。そこでのラトルの演奏は集中力が絶えることはなく、鮮やかにクライマックスを築く。私は長い間、このオペラ史上に燦然と輝く作品を、なかなか楽しめないでいた。実を言えばそれはまだ少し続いている。このように言うことがむしろ恥ずかしいために、なかなか本作品に触れることが苦しい。それでも今回、ラトルにより引き締まった名演に接し、とても嬉しい。時折聞こえてくる愛の死のテーマは、第3幕の最終シーンに向け、再び最高潮に達する。生きるということは、もしかしたら死ぬことよりも苦しいのかも知れない。「愛の死」とは、「愛」イコール「死」ということだ。愛するために死ぬという風に言うこともできるだろう。だから「トリスタンとイゾルデ」の最後のシーンは、しみじみと喜びに満ちている。

2016年11月1日火曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネルラ」(Vn:ジャン=ジャック・カントロフ、オーヴェルニュ室内管弦楽団)

パガニーニの一連のヴァイオリン協奏曲を聞いて思うことは、これらが歌声をヴァイオリンに変えたオペラではないか、ということだ。特にこの第2番は、出だしからまるでアリアの挿入部分のようである。ただすぐには独奏が入らない。少しの間は、いわば導入のための伴奏が続く。良く聞いていると、それはまるで「セヴィリャの理髪師」の序曲を思わせる節である。パガニーニが活躍した頃のイタリアは、すなわちロッシーニやベッリーニが活躍したベルカントの時代である。

ベルカント唱法が人声の技巧を凝らした歌唱を特徴とするのと同様に、パガニーニのヴァイオリンも超技巧的である。第1楽章の最初から第3楽章の最後まで、そのテクニックは物凄い水準を要求される。音楽とは技術であり、技術こそが芸術である、と言わんばかりである。

第2楽章のしみじみとした風情は、ここがまるでソプラノ歌う伸びやかなアリアと重なる。健康的で歌謡的なメロディーは、聞いているものをひととき幸せな気分にさせるが、少々飽きる。驚くほどの練習を積んで、満を持して演奏するヴァイオリニストには恐縮だが、聞き手は勝手に音楽以外のことを想像したりする。集中力を途切れないようにすることもまた、巧みな演奏家に要求される。ベルカント・オペラが、そういった名人的歌手がそろわないと、なかなか聞きごたえのあるものにならないのと同様に、パガニーニの音楽もまた大変難物だと思う。

ジャン=ジャック・カントロフはパガニーニ国際コンクール出身のフランス人ヴァイオリニストである。だからパガニーニの協奏曲第1番と第2番をカップリングしたCDが発売された。このCDに収められている第1番の演奏も大変見事である。その素晴らしさは、この曲の演奏の第1位を争うレベルであると思う。けれども第1番の演奏はすこぶる多いので、ここでは第2番を一生懸命聞いてみた。日本コロンビアのデジタルな録音が、演奏の隅々にまで光を当てる。オーヴェルニュ室内管弦楽団という、フランスの片田舎にあるオーケストラの響きも、透明ですがすがしい。

第3楽章の有名なメロディーは、「ラ・カンパネルラ」すなわち鐘の意味である。このメロディーはリストがピアノ曲に編曲しているので、その点でも有名である。リストはピアノのパガニーニのような存在で技巧を凝らした作品が多い。彼はパガニーニの存在を意識していただろうし、このメロディーを聞いて、ピアノならもっと魅力的な作品が書けると思ったのかも知れない。実際、鐘の印象はピアノのほうがしっくりくる(と私は思う)。

その第3楽章の後半部分は、この曲最大の聞かせどころだろうと思う。ヴァイオリンの技術上の極限を行くその様は、録音された媒体で何度聞いても鳥肌が立つようだ。パガニーニの底抜けに明るいイタリアの陽射しが、どんなに細く小さな音の隅にまでもしっかりと到達している。

2016年10月31日月曜日

「From Yesterday to Penny Lane」(G:イェラン・セルシェル)

マッサージ屋などに行くとヒーリングのための音楽が静かに流れている。バリ島やアマゾンの鳥の鳴き声なども混じった自然の音であることも多い。これらはおおよそ有線放送のチャンネルをそのまま流しているケースがほとんどである。先日行った歯科でも、同じようなものが流れていた。

けれどもこのような「環境音楽」は、どことなく不自然で、しかもあまりムードがいいとは思えない。流している方はそう考えていないのだろうけれど、私の場合、間に合わせの音楽をテキトーに聞かされている感じがして好きになれないのだ。ある鉄道の駅で聞いた小鳥のさえずりも録音だった。どうせなら何も流さなければいいのに、などと思ってしまう。

さてこのような「癒し系」の音楽も、プロがちゃんと演奏すると一変する。もちろん演奏だけではない。そもそもいい曲でなければならないし、それらはきっちりと編曲され、十分に考えられた順序に並べられている必要がある。売られているCDなども、いいものになればちゃんと順序だって考えられている。耳に心地よいような音程とリズムの変化、楽器の選択などがそれに加わる重要な要素である。

前置きが長くなったが、「From Yesterday to Penny Lane」と銘打たれたタイトルのCDは、そのものずばりビートルズの曲が並ぶものである。手に取るとそれはすぐにわかる。ドイツ・グラモフォンの黄色いロゴ・マークに、ビートルズの曲となると、これは編曲ものである。大変珍しいCDではないか、と思いながら演奏者の欄に目をやると、スウェーデン生まれの世界的ギターリスト、イェラン・セルシェルとなっている。ジャケットの白黒の写真には、4つの姿勢でギターを抱えるセルシェルの姿。これはギターで聞くビートルズ、面白い、ということになって買い物かごに入れることとなる。

最初の曲「ノルウェイの森」を聞くだけで、いいCDを買ったと思った。静かに語りかけるような演奏は、これがしっとりと美しく、味わい深いものであることを示している。ゆったりとした時間が流れる。そのようにしてしばし何曲かに耳を傾ける。すべてお馴染みの曲だけど、メロディーがかなり深く変化して、透明な気品が漂う。

第6曲「カム・トゥゲザー」からは、そこにバンドネオンが加わるではないか。そのリズムは前衛的なタンゴである。第7曲「抱きしめたい」に入ると、さらにメロディックな感じがして何とも嬉しくなる。こういう曲にもなるのだな、と思う。

第9曲目から第11曲目までは、さらにヴァイオリンが加わる。マーティンの「Three American Sketches」という曲だそうだ。でも曲が賑やかになるわけではない。オリジナルで聞くビートルズはやかましい曲だが、ここで流れる上品な時間は、聞くものをしばしリラックスさせる。最高のヒーリング・ミュージックである。

もうどの音楽がどう、などということはどうでもいいことのように思えてくるが、第12曲目から始まる「ビートルズ・コンチェルト」というのがまたなかなかいいではないか。聞きなれた曲が弦楽合奏とギターの協奏曲形式となって全7曲も演奏されるのだ。ここに「イエスタデイ」も「ペニー・レーン」も含まれている。

なぜ私がこのような曲を必要としたのか。それはこの秋、指の骨折や目の異常な乾きにさいなまれる日々が続いているからだ。ある日私は、このままではいけないと思い、夜になって散歩に出かけた。ベンチに腰かけて、痛い目を閉じながら、気分を落ち着かせようと必死だった。いつも持ち歩くWalkmanに、たまたまこのCDのコピーが入っていた。私は時々間をあけて、夜の灯が運河の水面に反射する光景を眺めながら、静かにひとりこれらの曲を聞いて行った。何も考えたくない時間を、私はこの曲と演奏で過ごした。いいCDを持っていたものだと、嬉しくなった。遠くで汽笛が鳴った。


【収録曲】
1. Lennon: Norwegian Wood (The Bird Has Flown)
2. Lennon: In My Life
3. Lennon: Can't Buy Me Love
4. Lennon: The Long And Winding Road
5. Lennon: I will
6. Lennon: Come together
7. Lennon: I Want To Hold You Hand
8. Lennon: Help!
9. Martin: Three American Sketches - Westward Look
10. Martin: Three American Sketches - Old Boston
11. Martin: Three American Sketches - New York
12. Brouwer: Beatles Concerto
    1. She's Leaving Home
    2. A Ticket To Ride
    3. Here, There & Everywhere
    4. Yesterday
    5. Got To Get You Into My Life
    6. Eleanor Rigby
    7. Penny Lane


2016年10月27日木曜日

プーケットへの旅(2015)ー⑥付近のレストラン

2回目のプーケット滞在も残りあと1日となって、私たち家族は、最後のディナーとショッピングに出かけた。行先はカタ・ビーチから少し北のカロン・ビーチ。そこの土産物屋などを物色しながら南下する。トゥクトゥクに乗って数十分で、私たちはカロン・ビーチの中心部にある時計台のロータリーに到着した。ここのホテルが沢山並んでいるエリアでチキンなどを食べたのだが、これが非常に西洋風。ここで触れることのできるタイの文化は、どこまでも西洋化されている。それもまたオリジナルだとは思うが、オーセンティックなタイ文化ではない。

カタ・ビーチのホテルそばにあるレストランもまた、タイであってタイでない、という独特のものだ。例えば私たちはある日、TripAdvisorで高評価のタイ・レストランが、ホテルから歩いてわずが10分の距離にあることを知り、予約もせずに出かけた。予約がない客としては最後の一席が、そこのイギリス人のオーナーによって私たちに割り当てられたが、この小さなレストランは山へと向かう狭い通りの脇にあって、景色が良いわけでもなければ交通が便利でもない。ところがここに大勢の客(西洋人だ)が押し寄せるのだ。

同様のレストランがその向かいあたりにある。このレストランは何とトルコ料理店で、見た感じではさびれたレストランである。倉庫を改造したような小さな店は、連日満員で私たちは予約がないため、諦めざるを得なかった。口コミで最高評価という触れ込みからは想像できない、小さくてぼろいレストランであった。

ホテルの隣にはイタリア人の経営する小さなホテルがあって、ここの1階がイタリアン・レストランである。そこでピザやスパゲッティなどを注文し、ビールとともにひとときを過ごしたが、このとき食べたカルボナーラの味が忘れられない。

タイであってタイでない、というのがプーケットだが、その中でもカタ、カロンの界隈は、その西洋化のレベルにおいて他を抜いている。それが好きならそれでも良いが、タイらしさを求める向きには拍子抜けである。物価も高い。

カタより南のビーチもおそらくは、似たような側面があるのだろう。だがそれらはもっと静かで、そして自然が豊かである。ところがこれらのビーチは、どこに行くに不便である。空港からも遠い。

パトンがプーケットのもっとも猥雑な街であって、その光景は私にとってもはや南国のリゾート感を味わわせてはくれないと思われる。ホテルが繁華街に近く、そういう意味では便利だが、海は混んでいてリラックスできないことは容易に想像がつく。

バンタオ・ビーチは私の感覚では、おそらくもっとも素敵なところで、人は少なく海岸は広い。けれどもそこはそこで、パトンのような猥雑さを嫌う向きが多いというだけで、タイの味わいを残しているようには見えるが、物価は一流である。そしてラグーナ地区こそその最たるもので、ここに泊まると静かでのんびりとした時間を味わうことはできるだろうが、近くには何もない。

残るはスリンとカマラの2つである。私は次回プーケットに出かけるときには、このエリアに滞在しようと思った。西海岸のラインに沿って空港から南へと再び目を走らせてみる。どこも素敵なビーチに見えるが、開発され過ぎて素朴な味わいがないところが多い。プーケットをよく知る外国人は、いまやクラビーやカオラックに向かい、ピピ島にまで高級リゾートができてしまった。東南アジアのリゾート化の流れはいつの間にかミャンマーやカンボジアにまで及び、ベトナムのニャチャンなどはタイと引けを取らないほどに高級な場所となっている。ロシア人は言うに及ばず、中国やシンガポールなどに住むリッチな人々がこれらのリゾートを席巻してしまったので、今や日本人はあまり見かけない。いや日本人は今でも、短期滞在、アクティビティを欠かさない多忙な観光に明け暮れている。快適さとサーヴィスへのこだわりが強すぎて、かえって楽しめないにもかかわらず、安いというだけの理由で雨季に滞在したたりする。

日本へ戻る日の夕方を、カタ・ビーチで過ごしながら、そこで催されるビーチ・バレーを眺めていた。タイ人もいれば、ヨーロッパ人もいる。みな楽しそうに歓声を聞きながら、暮れてゆく海を眺めていた。静かな時間がゆっくりと過ぎること。これが最大の楽しみである。いかに西洋化されようと、その時間感覚と明るく暖かい気候、それに静けさは、日本の都会にないものだ。そうである限り、私はまたプーケットに来たいと思う。さわやかな風がそうっと吹いてきて、木々を揺らした。一番星が山の頂にあるブッダのそばで瞬き始める頃、新しい年の静かな一日が今日も終わろうとしていた。

2016年10月20日木曜日

プーケットへの旅(2015)ー⑤ピピ島クルーズ

正月2日の朝は6時に起床し、迎えの車に乗り込んだ。ピピ島へのツアーに参加するためだ。ツアー会社が手配するマイクロバスが、我々を含む何組かの客ホテルに迎えに来たのだ。ピピ島への船が出る島南部の港までは30分程度、ホテルからはそう遠くはない。ホテルを出て山の方向へ向かうと、すぐに峠にさしかかる。島の東部とはここのカタ付近が最も近い。プーケットタウン方面へは開けているので、交通の便は結構いいのである。

一方パトン・ビーチ方向やクロンテープ岬へと続く海沿いの道路は、交通量が多い上に狭く曲がりくねっており、しばしば渋滞も発生する。このため各ビーチから遠方へと急ぐ場合には、島中央部を縦断する幹線道路を利用する。例えば空港からカタ・ビーチへはこの幹線道路経由となる。幹線道路の両側には大型ショッピングセンターやガソリン・スタンドがあり、ワット・シャロンなどの見どころもある。今回もその縦貫道路を南端まで走る。峠からは東部の海も見渡せた。プーケットは海沿いの村や町が開発され過ぎ、国際的な高級リゾートと化しているが、島の東側では普通のタイの生活を見ることが出来る。もっともこの島全体はタイの中でも特殊であり、物価も高く、生活水準は並外れている。

ピピ島へのクルーズはホテルのフロント脇にあるデスクで申し込んだ。同様のツアーは街中いたるところのレストランやバイク屋などで扱われているが、結局はいくつかのボート会社に集約される。それぞれの会社は、概ねピピ島を中心としたいくつかの島々をめぐり、夕方には港に戻る。訪れる島の種類や順番が若干異なる。そしていくつかのボートはい高速船である。この高速船は通常のフェリーに比べると結構速いので、一日にいくつもの島をめぐることが可能となるわけである。朝には一斉に船が出て、無人島を含むシュノーケリング・スポットで一時停泊したりする。数十人程度の、国籍もバラバラな集団がひとつのボートに乗り合わせる格好となる。

途中、団体専用のレストランでの昼食もついている。私たち一家は、そのあまりに美しいパンフレットの写真に刺激され、3つの島を欲張りに回る会社に申し込んだ。港の入り口に着くと、各地から集まってきた人々が屋根のついたお庭に通され、そこで説明を受けることとなった。ガイドの女性は独特の訛りのある英語でジョークを交えながら、船酔いの対策や集合に遅れないよう注意することなど、一通りの説明のあと、私たちの乗る船の方向に向かって約5分の距離を歩き始めた。

船着き場には波止場がない。プーケット南部の海岸はあまりきれいではないが、そこに大量のクルーズ船が泊まっている。それらは海岸にズラリ停泊しているが、その船に乗るには海の中をじゃぶじゃぶと歩かなければならない。つまり私たちは裸足になり、裾をたくし上げて、ぬめる石などにつまずかないように注意しながら、荷物を頭上にあげて海を歩いて行くのだ。

私たちが乗るボートはそれほど大きくはなく、釣り船のようなものである。進行方向前方の、船が波を切って進む時には、激しく上下にジャンプする突端部分の両側の椅子に十数人がぎっちりと座り、残りの客は船の後方部に座る。ライフジャケットを着て出発である。静かに進むプーケットの海は波も静かで、雲一つない青空と海は明るく深い。きれいな島々を眺めながら、1時間半程度の行程に期待と興奮が高まる。ところが船が湾を出たとたんに、激しく揺れ始めた。

船は波を切りながら進むのだが、その波はインド洋をベンガル湾からやってくる外洋の波である。青々と深いその海には白波が立ち、時折大きな横波が小さな船にぶつかる。船長はその波を上手にかわしながら進むのだが、時折打ち付けるような衝撃が船を襲う。常にどこかを掴んでいないと飛ばされそうで危ない。立ち歩くなどもってのほかで、むち打ち症にならないか心配しながら緊張の時間が続く。時に頭を打ちそうになるが、この揺れは先端部だからで、後方ではさほどでもなかったと妻が言っていた。

こんなところで遭難したら大変だろうな、などと多いながら無人島の断崖絶壁のそばを通る。そしてとうとう私たちはピピ・レイ島に到着した。ピピ・レイ島のほぼ唯一の海岸、すなわちマヤ・ビーチは入り江が特徴的で、左右の丸く高い山が門のように湾を取り囲み、その間を分け入ってゆく。湾の内側から見るエメラルド・グリーンの海と、切り立った崖の風景は映画にも登場する絶景である。島は特別な自然保護下にあるため、人工的なものは何一つない。すなわちお店も日よけも、そして波止場も。船は沖に停泊し、そこから胸までつかりそうな中を歩いて上陸する。遠浅でしかも透明度が高いから、歩いて行くのも楽しいが、問題なのは船の数があまりに多いことである。どの船も良く似ているので、自分が乗った船がどこにあるのかわからなくなるのだ。船会社の名前と船体番号を記憶するのだが、頻繁に出入りするためどのあたりにあったか見当がつかなくなる、これは多くの客に共通であって、私たちは同乗してきた人々から離れないようにしながら、写真を撮ったり魚を見たり。思い思いに過ごす時間は30分もあれば十分である。とにかく日差しが強いのだ。

小一時間の休憩をはさんで再び何とか船に乗り込むと、今度は島の西部にあるシュノーケリング・ポイントで一時停泊。ガイドによるとその日は波が高く、本来停泊するはずだった場所ではないという。それでも珊瑚礁のあるところに熱帯魚が泳いでいるのが、水上からも確認できる。息子と私は恐る恐る船から飛び込んでみたが、深い上に流れが急でとても怖い。しかも近くの船でタイ人の船長が大声で怒鳴った。「海蛇がいるから気を付けろ!」結局20分程停船したあと船はピピ・レイ島を一周することとなり、途中野生のサルがいる狭い入り江に立ち寄ったあと、めでたくピピ・ドン島に到着した。ここはリゾートホテルが集中する島で、ピピ島と言えばここを指すもっとも大きい島だが、それでも小さく静かである。ピピ・ドン島のくびれた部分の南側にある港に我々は上陸し、そこの巨大なツーリスト用レストランで昼食となった。

お昼の休憩をそこで過ごしたあとは、最後の島、カイ島へと向かう。ボートの揺れにも慣れて、私たちは少しうとうとするうち、プーケット島の南の沖に異あるカイ島の突端部に到着した。

カイ島はまた、何もないとてもきれいな島で、突き出た部分は綺麗な海が270度広がる。海には小魚が泳ぎ、上からでも良く見える。海岸はレストランになっており、そこでパイナップルやスイカなどがふるまわれる。チェアに座ってじっと佇んでもいいし、シュノーケリングに興じてもいい。ここも次々にボートがやってきては客を下し、そしてまた去っていく。太陽が西に傾きかけた頃、私たちを乗せた船は再びプーケット島に到着した。約7時間くらいだっただろうか。私たちは多くのガイドブックが紹介し、バックパッカーがほれ込むピピ島というところに、ついに出かけたという感慨でいっぱいだった。

私は駆け足のツアーは忙しなく、もう少しゆっくりと時間をかけて行くべきだったか、と自問した。だが私のさしあたりの答は、案外そういうものではなかった。周りを海に囲まれた日本人にとって、美しく小さな海岸はいくらでもあると思ったからだ。何もないタイの孤島に、白人を中心とした観光客が大勢いる。よく考えると何か不思議な空間だが、それも何か変に溶け合っているので、まあいいのかとも思う。長く寒い冬のヨーロッパや、緑が少なく殺風景なオーストラリアからは、こういうところがいいのだろう。でもまあ、日本もよく探でば、こういう素敵なところはいくらでもある。自然景観だけなら沖縄だってひけをとらないはずだ。欠けている要素があるとすれば、規制が少ない享楽的な雰囲気ではないかと思う。

太陽がアンダマン海に沈むころ、私たちはホテルに帰り着いた。プーケットから見る乾季の夕陽は、ここが単に高級なリゾートということだけでない何かを感じさせてくれる。それは自由にして外国文化に寛容なタイの光景が、自然景観と溶け合っているからだろう。この雰囲気は他の東南アジアではなかなか得られない独特なものだと、つくずく思った。

2016年10月18日火曜日

プーケットへの旅(2015)ー④カウントダウン2016

お正月を迎える場所がどこであれ、大晦日夜のカウントダウンは滞在中一番のイベントである。大晦日の一日をホテルのプールで過ごした私は、(NHKワールドの「紅白歌合戦」中継などを聞きながら)その日も普通と変わらない美しい夕暮れ時を迎え、そして日付が変わる頃にはビーチへ繰り出した。ビーチにはすでに大勢の人が所せましと押しかけており、無秩序に光るリングを回したり、灯篭を放ったりしている。コンサート会場のように大音量で流れるロックの方向に進めば、そこは昨日寝そべった海岸である。

この灯篭はごく薄いビニールでできた袋をさかさまにして広げ、中に灯を点す。蝋燭によって温めらた空気は灯篭の中に満ちてゆき、静かに手を放すとそれが空中に上がっていくという仕組みである。これをあちらこちらで売っている。ヨーロッパからの観光客もこれを買い求め、その場で火を点けるのだが、これがなかなかうまくいかない。特に風にあおられて火がついたまま落ちてくることがある。そこに人が立っていたりすると、おじさんの頭が燃えそうになるのだ。危ない。慌てて消そうとすると、今度はビニールそのものが燃えてしまう。これをまるで混雑した電車内のようなところでやるのだから、大変危険である。ここの灯篭(コムローイという)はそんな感じである。それでもうまくいく灯篭があちこちにあって、他のビーチでも同じことをやっているから、空中が灯篭でいっぱいになる。この様は見ていてとても幻想的である。

花火もまたあまたの場所から打ち上げられる。その数は大変多く、こちらが終わったと思えばまたあちら、それが終わるとまたこちら、という風に、海岸の東西南北で一斉に打ちあがる。カウントダウンがゼロになったその瞬間を最高潮に、大晦日のイベントが終わると、人々は少しずつ減り始め、私たちもまたホテルへと帰った。ホテルはビーチから10分程度奥にはいったところにあるので、まったく静かである。カエルの鳴き声を聞きながら寝床に着いたのは、午前2時近くだったと思う。また新しい年を迎えることができたことを感謝しつつ、私は部屋から見えるブッダの方向を眺めた。南国で迎えるお正月は、乾いた涼しい風の中で私に心地よい一年の始まりをもたらしてくれた。

2016年10月14日金曜日

プーケットへの旅(2015)ー③カタ・ビーチ

TripAdvisorが選ぶアジアの人気ビーチ第3位に、カタ・ノイ・ビーチがランクされている。カタ・ノイはカタ・ビーチの南北に分けた南側を差し、小高い丘を超えて行くことができる。一体どんなに素敵なところだろうか。私は到着した翌日の午後には、早くもここへ向かおうとした。リゾート地で長期滞在する最大のコツは、できるだけ早く現地に溶け込むことだ。だから午後一のホテルのバス(と言っても改造したトラックの荷台に座るだけだ)に乗って、まずはカタ・ヤニ・ビーチの中心地へ向かった。ここから丘を越えて徒歩で15分程度歩くとカタ・ノイ・ビーチに到着することができる。

カタ・ヤニ・ビーチは中央にClubMedが居座っており、その北側はカロン・ビーチへと続いている。一方南側はいくつかのホテルが海に面して建っており、レストランも多い。どういうわけかここにはイタリア人が多い。ただビーチそのものは少し混雑しており、素朴な味わいはない。レストラン脇の急坂を登る。途中フルーツを売る店があって、そこでパイナップルやランブータンなどを買い込む。ジュースを作ってもらうのもいい。そしてバイクやタクシーが行きかう自動車道を歩くこと10分ほどで、カタ・ノイ・ビーチへと下る階段に到着した。ここから足元に注意しながら、ビーチを目指して下りてゆく。サンダルに砂が入り痛いが、そんなことよりこれを帰りに上らないといけないかと思うと、ややうんざりする。

ここのホテルに泊まっている場合には、カタ・ノイ・ビーチはそばである。だがビーチにはホテルしかないように感じられ、あの田舎の風情を醸し出すタイの海岸風景は見られない。ビーチの波は高く、少し危険なほどである。総じていえば、広々としたバンタオ・ビーチには劣るだろうか。少なくとも私にはそう思われた。

強い日差しを避けるためのビーチ・パラソルは安価で借りることができるのだが、どういうわけかデッキ・チェアがない。貸してくれるのは日よけのパラソルと大きなバスタオルだけである。砂の上にタオルを敷いて、その上に寝なければならない。これはアジア的であるとも言えるが、世界中どこのリゾートへ行っても共通のデッキ・チェアがないのはどうしてなのか。そして驚くべくことにカタ・ビーチのすべて、いやあのパトン・ビーチを含むすべてのプーケットのビーチからデッキ・チェアが消えてしまったというのである。

2015年に始まった軍政による統制の強化で、デッキ・チェアなどを貸し出す土産物屋などの業者の既得権益を締め出そうとした、というのが噂である。だがそんなことによって、あのプーケットのビーチを訪れる世界中の観光客は、今や絶望感にとらわれているような気がした。このような愚策はいつまで続くのかわからない。だがタイのことである。いつか急に再開されるのではないかと思っている。

カタ・ビーチからカロン・ビーチに続くエリアの方が私には気に入っている。確かに海は遠浅で広く、特にClub Medあたりが最も素晴らしいようには思う。だが安いタイ・レストランやマッサージ店は見当たらない。時折アイスクリームなどを売りに来る物売りを眺めながら、ビーチ・バレーに興じる世界各国の若者の歓声に耳を傾けている。4年前と違い、2016年の新年は快晴の天候が続いた。どこかヨーロッパのリゾートにいるような雰囲気がここの特長である。けれどもタイの風情を求めている向きには若干期待外れであることも事実だ。数多くあるプーケットの西海岸に、そのような落ち着いた風情を求めることはできないのかも知れない。バンタオ・ビーチのそれは、一見地元風ではあったが、実際のところはそれ自体が観光客向けであった。でもまだそのほうが、私にとっては有難かった。

まだ滞在したことのないスリンあたりのビーチなら、もう少し良いのかも知れないのかなあ、などと想像しながら、私は暮れてゆく南国の夕暮れを楽しんだ。実用的な話をひとつ。ここには訪問客向けの施設、すなわち「海の家」に相当するものはない。シャワーやトイレは1か所、駐車場の中にあった(有料)。だからビーチに面したホテルに限る、と思った。それなら水着のまま海へ行ける。そしてシャワーはホテルのものを使えばいいし、プールに飛び込んでもいい。カタやカロンのビーチは、ホテルが大通りを隔てて建っている。バンタオのラグーナ地区のビーチでは、ほとんどゲスト専用のビーチのようになっており、混雑もない。ただバンタオ・ビーチの問題は、街に遠いことだろう。屋台や土産物屋の類は、たとえ同じものしか売っていないとしても、長い夜の楽しみである。カタにはそれが、まだあるにはある。

2016年10月12日水曜日

プーケットへの旅(2015)ー②Kata Lucky Villas & Pool Access

お正月に1週間滞在しようとしたら、オフ・シーズンの3倍以上の料金を覚悟しなければならない。このため私は、仕方なく3つ星クラスのホテルを探した。パトン・ビーチは候補から外し、大きなプールという条件は譲れない。いつも利用するAgodaというホテル予約サイトやTripAdvisorの評価を手掛かりに、まだ空室のあるホテルを探し始めたのは8月下旬だった。けれどもそのころにはすでに、お正月をまたぐ期間のホテルは多くが満室であった。あってもスイートルームの非常に高い部屋(1部屋1泊5万円以上!)しかないところも多く、しかも大晦日の夜には、ホテルが主催するディナーへの参加が義務付けられていたりする。このような馬鹿げたことのない実質的かつ良心的なところで、しかも大きなプールがあり海も近いところ。こういう条件のホテルも探せばあるもので、今回私はKata Luck Villa & Pool Accessという、カタ・ビーチの外れにあるホテルを予約することにした。

4人で滞在するには広い部屋を1つか、またはツインの部屋を2つ確保する必要がある。そしてこのホテルにはVillaタイプの部屋(キッチンもついたバンガロータイプ)とプールへ直接部屋から出られる部屋の2種類があり、後者が若干高いものの、そのほかのホテルにあるプール・アクセスの部屋に比べると安い。2つのタイプの部屋は若干離れてはいるものの、1部屋ずつ予約し、双方を行き来しながら使うとことにした。プールアクセスはちょっとした楽しみだったし、それにこのプールは長くて広く、子供は喜ぶのではないかという予想もあった。

このホテルにはヴィラ滞在者向けの比較的小さな曲線型のプールが1つと、プール・アクセスに滞在するモダンで白塗りの客室が並んで面する長方形をつなぎ合わせたようなプールがあり、後者はコの字型に折れ曲がっていて、泳いで行けば他の部屋の正面を横切って先のほうまで行くことができる。二種類の客室とプールのデザインには一貫性がなく、丸で違うホテルのように隔てられている。だがフロントやレストランは共通である。それぞれの建物を行き来する人はいないが、プール・アクセスの部屋の滞在客が、わざわざ小さなプールで泳ぐこともないだろうし、逆にヴィラの住民がプール・アクセスの建物の方へ行くこともないだろうと思われる。つまりそれぞれ特徴があって、しかも独立性が高い。

私はヴィラ・タイプの広い客室のバルコニーから見える庭園の色とりどりの植物がとても美しいと思ったし、丸型のプールは小さいながらもそれなりにリラックスができるように思えた。一方、プール・アクセスの建物はまるでカリフォルニアを思わせるようなデザインが美しいとは思う。だが少し人工的でもある。いずれにせよ風にそよぐヤシの木やその向こうに広がる青い空、そして山の頂の大仏が見渡せ、風が吹き抜けると静かなプールの水面がさざ波立つ様は、南国のリゾートならではである。ホテルが街の喧騒から少し離れていることが最大の利点であると同時に、海へも歩いていくことができる。もっとも1時間に1本の無料バスを利用すれば、毎日カタ・ビーチに行って帰ってくることも容易にできる。

レストランはホテルの玄関に面した小屋にあって、朝6時半ころから質素ながら不足感のない料理を提供する。豪華なブッフェでは決してない。だが私は、豪華ホテルの朝食がしばしばバカンス客の体重増加に少なからぬ悪影響をもたらすことを知っている。朝食がおいしすぎると昼食が食べられない。だから朝食は実質的で少なくすべきと考えると、こういう質素なほうが合理的である。なおこの界隈はヨーロッパ人が多いせいか、コーヒーが好まれる。卵料理とサラダ、それに日替わりのタイ料理。これが当ホテルの朝食である。

ホテルにはジムもある。それからマッサージの小屋もある。これらを利用するのも良いが、ホテルのすぐ前には洗濯屋、旅行会社、貸バイク、フルーツ屋、それに複数のレストランが立っている。これらを日替わりで利用することになる。ただ旅行とタクシーについてはホテルのフロントが経済的で便利である。彼・彼女らは多くがミャンマー人で片言の英語を話すが、みな親切で良心的である。プール・アクセスの部屋にはバスタブもついているが、シャワーが基本だろう。そして各部屋には快適なデッキ・チェアーが備え付けられており、そこに座ってコーヒーを飲みながら本でも読んでいると、他に何もしたくなくなる。ただし虫よけのスプレーを持っていくこと(そばのファミリー・マートでも買える)。

3つ星だと割り切る限りホテルに関して大きな不満はない。特にシーズンオフであれば大変リーズナブルな料金で滞在できるだろうと思う。ただ部屋のエアコンが少しうるさいように感じた。乾季は消したまま寝ることもできるが、雨季だとちょっと辛いかもしれない。


2016年10月10日月曜日

プーケットへの旅(2015)ー①どのビーチへ行くか

「もうこれが最後の海外旅行になるかも知れない」と思ったのは、丁度4年前のことである。2011年末、香港を経由したタイ・プーケットへの旅は12日間に及んだ。私はもう二度と来れなくてもいい、というつもりで滞在を満喫した。5つ星ホテルに泊まり、毎日豪華な朝食を楽しんだ後、広大なプールや夕日の美しいアンダマン海で泳ぐ。合間には長いうたたねと風そよぐビーチでのマッサージ、それにおいしい工夫をこらしたタイ料理。夜になればホテルのバーでバンドの演奏に耳を傾けながら、消えてゆく夜空の星を愛おしむかのように、何時間もの間、家族とともに過ごしたのだ。
最初にして最後の海外リゾート地でのバカンス(とその時は思った)、その行先にプーケットを選んだのは、お正月に乾期という最良のコンディションに加え、タイの刹那的で享楽的な雰囲気と、魅力的なタイ料理にあこがれてのことだ。子供をプールで泳がせることも重要な目的だった。そしてあのバンコクの前代未聞の洪水によってか、シーズン中だというに航空運賃は思いのほか安く、名前が変わったばかりの5つ星ホテルは簡単に予約が取れた。当時日本円は高く、したがってあの悪名高いプーケットの物価も少しは安く感じられた。

もっとも当時、すでに日本人にとって、プーケットは評判のいい目的地ではなくなっていた。いつのまにか直行便はなくなり、2004年末に発生したスマトラ島沖を震源とする大地震の津波で大きな被害が出たこともあって、リゾート滞在先としてはバリやハワイには到底及ばない状況になっていたのである。ホテルで見かけるのは、代わって中国人とロシア人。町中にキリル文字があふれ、プーケットのケーブルテレビには滞在中のロシア人向けチャネルがあるほどだった。

あれから4年がたち、子供も少しは大きくなって、私は再びプーケットへの旅行を計画した。今回は妻の母親も連れていく。そして観光はせず一日中プールと海でずっと泳ぐ。疲れたら休み、休んだらまた泳ぐ。スイカのシェイクを飲みながらパッタイに舌鼓を打ち、時折やってくる物売りからアイスクリームなどを買って過ごすうち、やがて夕日は傾き、夜のとばりが下り始める。バーが大音量でディスコ音楽を流し始め、軒に色とりどりの魚を並べた観光客向けシーフード・レストランが呼び込みを始めるころ、一日のもう半分が始まる。トラックを改造した乗り合いタクシーに乗って買い物に出かけ、夜の屋台をめぐる。若干風紀は悪いが、それがプーケットで過ごすバカンスである。そのようにして毎日が過ぎてゆく。
あの眩い常夏のプーケットでの生活に、一体どこのビーチが最適だろうか。前回は何もわからず予約したホテルは、バンタオ・ビーチというところにあった。およそプーケットの喧騒とは隔絶された地域ではあったが、潟湖に囲まれたホテルはとても静かで海岸も広く、リラックスするにはうってつけの豪華リゾートだった。それに比べると最大のパトン・ビーチの猥雑さは家族向けには少々つらい。海ならもっとほかのビーチの方が綺麗でゆったりとできるだろう。

地図を見ながら私は、手元の地図で空港から南下する方向にビーチを手繰ってみた。プーケット島の西海岸は、北から順にいくつもの入り江に沿って細い道が続き、バンタオ・ビーチ、スリン/カマラ・ビーチ、パトン・ビーチ、カロン/カタ・ビーチの順に並んでいる。もちろんこのほかにもあるし、東海岸や離島も合わせるとプーケットの滞在場所の選択肢は、近年拡大するばかりである。かつてはバックパッカーの隠家だった南国の海岸は、もう何十年も前から俗化され、大型ホテルが林立する大都会へと変貌して久しい。それを嫌って観光客はさらに四方八方へと広がった。あちこちで道は渋滞し、狭い空港はさらに混雑する。物価は高騰し、海が汚れた。

それでもまだこの島は観光客を惹きつける。今回行ったビーチには大勢のヨーロッパ人、それもどういうわけかイタリア人とフランス人が大勢いた。彼らの行くイタリアン・レストランは、私がかつて食したもっともおいしいクラスのスパゲッティとピザを提供したし、予約が取れないほど人気のトルコ料理レストランまでもが、何の変哲もない道沿いにひっそりと建っている。ここはタイであってタイではなく、道行く人は外国人ばかり。でもタイというところはこれだけ多くの人々や文化を受け入れていながら、どこかしらタイらしさを失っていない。そこがすごいと思うのだ。

カタ・ビーチ。これが今回の滞在先である。空港から幹線道路を経由して1時間、チャーターしたミニバスで1200バーツ~1500バーツの距離である。私たちはその中でも少し内陸に入ったところにあるホテルに滞在することにした。もっと景色のいい便利なホテルが海沿いに所狭しと並んでいるが、そういうところは、騒々しい上に結構値段が高い。もっと言えば、カタ・ビーチの最上級ホテルはClub Medであり、カタ・ビーチ=Club Medということになっている。特にここに滞在するのでなければ、ホテルはむしろ少し離れた方がいい。カタ・ビーチのメインであるカタ・ヤニ・ビーチとその北のカロン・ビーチ、南のカタ・ノイ・ビーチは峠を越えてもほとんどつながっていて、大きなショッピングセンターはないものの、それぞれ小さな土産物屋やレストランが多数並んでいる。

プーケットのビーチは、それぞれ趣が少しずつ異なる。カタとカロンのビーチはヨーロッパ人が多く、そういう意味で他のビーチとは違う味わいがあるように思う。コーヒーやクレープ、それにアイスクリーム屋の美味しいところ(したがってえらく高い)があり、スターバックス・コーヒーもある。静かなプールではしゃぐ人もほとんどおらず、時折吹いてくる涼しい風が、さわやかに吹き抜けて体を冷やしてくれる。快晴の空にヤシの木は揺れ、その向こうの山の上に大仏の姿を仰ぐ。ホテルは質素でいて、かつ静かであり、日が傾くとタイ人の家族連れが今日もヴィラの窓を開け放ち、夜遅くまでバルコニーで話している。そばで子供たちが遊んでいる。カエルが池で鳴いている。あけ放たれたホテルのフロントで警備員がテレビを見ている。今日着いたばかりの宿泊客は吹き抜けのロビーで、笑顔の従業員に何かを聞いている。

何時間ものフライトで疲れた私たちは、朝日とともに一斉に鳴き始めた鳥の声で目を覚ました。私が海外旅行で最初の朝にすることは、近所の散歩である。今回もカメラを片手に海のそばまで歩こうと思った。真冬の東京から来た身には日差しがとても強く感じた。半年ぶりのTシャツに半ズボンという軽装が心地よく、私は何時間でも歩いていたい気分であった。

2016年9月30日金曜日

「不滅の日本行進曲傑作集」(𠮷永雅弘指揮陸上自衛隊第1音楽隊)

まだ王や長嶋や江夏や田淵が現役で、横綱といえば北の湖の時代、テレビのスポーツ中継は今とは比べ物にならないほどの国民的関心事だった。そのころ、プロレスのジャイアント馬場は黛敏郎の作曲した「スポーツ行進曲」に乗ってリングに登場するのが慣例で、この行進曲は、日本テレビ系列のスポーツ中継、すなわち後楽園の巨人戦でも使われており、同様に各放送局がスポーツ中継に使用する音楽は、ほぼ1つに決まっていた。今では中継大会毎に、けばけばしい歌手の騒々しい歌が放送されているが、昔はシンプルだったのだ。

クラシック音楽が好きになる前、小学生の頃は行進曲が気に入っていた。気に入っていたと言っても手元にレコードがあるわけでもなく、ただ単に、スポーツ中継で流れるテーマ音楽などが好きだっただけである。その各局の音楽は何という行進曲か、いまならWebでサッと検索できるが、当時は何年たってもわからないまま。そんなある日、当時まだあった民放FM局のクラシック番組「新日鐵アワー・音楽の森」を聞いていたら(午後4時から30分間の放送である。私は早くもラジオ少年だった)、作曲家の山本直純氏が古今東西の行進曲特集を放送しているではないか。

一週間続けての特集で、ここでもやはりスーザ、そしてヨーロッパの行進曲が流れたと思う。そこで面白かったのは、地域による行進曲の違いである。山本直純は様々なレコードをかけながら、曰くアメリカの行進曲は早く勇ましい、それに比べるとヨーロッパは少し遅い、などと解説した。その翌日にはとうとう我が国の行進曲について、何曲かが紹介された。

最初の曲は・・・「宮さん宮さん」(明治元年)という曲であった。日本の近代化は明治維新より始まるとされているが、早くもその最初の年に、我が国最初の軍歌が作曲されたのである。

軍歌と行進曲の区別は難しい。オスマントルコがヨーロッパへ進出し、太鼓やシンバルなどを用いた二拍子のリズムが流行した、モーツァルトやベートーヴェンがトルコ行進曲を作曲しているのはこの影響である。それから100年を経て日本でも西洋音階による行進曲が作曲されていく。

明治の近代化は富国強兵の時代でもあり、そしてそれはまた植民地主義の時代でもあった。戦争によるアジア諸国への侵略は、欧米の列強文明をいかに早く取り入れるか・・・つまり近代化をいかに早く達成するか、という戦いでもあった。音楽の側面においても、戦前の行進曲は軍歌の色合いが濃い。その中で今でも特に有名なのは、私の家にもかつてSPレコードがあった「愛国行進曲」と、パチンコ屋で流れる「軍艦マーチ」であろう。

「愛国行進曲」は次のような歌詞で始まる。「見よ東海の空あけて、旭日高く輝けば、・・・」この歌詞を私はSPレコードを聞きながら覚えたのだから殊勝な小学生である(だが私が右翼の活動家になることはなく、むしろ今ではかなり確信的なリベラルかつ護憲主義者である。念のため。)

この曲が作曲されたのはWikipediaによれば昭和12年のことである。公募によって元海軍軍楽長、瀬戸口藤吉の作品が選ばれた。その経緯は上記に詳しいが、驚くべきことはその応募数の多さである。何とこの時代に6万弱の応募があったというのだ。 そしてその瀬戸口が作曲したのが行進曲「軍艦」である。ただし時代は明治30年に遡り、今でもおそらく小学生にも有名だが、歌詞は古めかしく、文語調である。「守るも攻むるも黒鐵の、浮かべる城ぞ頼みなる・・・」

我が国の代表的な行進曲を、戦前のものまでも含めて一枚に集約したCDが発売されたとき、私は迷わずこれを買った。2004年ことである。演奏は三等陸佐𠮷永雅弘指揮の陸上自衛隊第1音楽隊。ジャケット写真には制服姿のブラスバンド。これで私の行進曲のコレクション全4点は完結したわけだが、ここの後半部分には、あのスポーツ中継のテーマ音楽が多く収録されている。それらは、以下のとおりである。
  • 毎日系・・・「コバルトの空」
  • 朝日系・・・「ウィーンはウィーン」(このCDにはないが、カラヤンのCDで)
  • 関西TV系・・・「ライツ・アウト」(このCDにはないが、フェネルのCDで)
  • よみうりテレビ系・・・「スポーツ行進曲」
  • NHK・・・「スポーツ・ショー行進曲」
ここで関西系のテレビネットで記述したのは、テレビ朝日について別の曲(「朝日に栄光あれ」)であるからだ。またこれらのテーマ曲はNHKを除き、今ではほとんど耳にしなくなった。

オリンピックの開会式でもまだ規則正しく行進することが常識だった時代、東京大会の入場行進は、このCDにも入っている古関祐而の名曲「オリンピック・マーチ」により始まった。我が国初めてのカラー放送は、国立競技場の先頭を行進するギリシャ選手団を捉える。曲に乗せて鈴木文弥アナの名調子「行進の先頭はギリシャであります。群地に白のギリシャ国旗が、レンガ色のトラックに映えます。白く高い南ヨーロッパの太陽、青く深いエーゲ海の海を象徴するかのような国旗を先頭に、ギリシャ選手団の入場であります・・・。」

いまどき整列行進するのは、自衛隊の観艦式を除けば、高校野球の入場行進と北朝鮮のパレードくらいだが、このCDには「若い力」(国体のテーマ曲)、「栄光は君に輝く」(全国高校野球選手権大会のテーマ曲)なども収録されている。ところが、これほどにまで国民的なマーチを集めておきながら、そして古関祐而の曲が3曲も入っていながら、誠に残念なことに「六甲おろし」が入っていない。


【収録曲】
1.須磨洋朔:行進曲「大空」
2.江口源吾:連合艦隊行進曲
3.吉本光蔵:君が代行進曲
4.江口源吾:行進曲「千代田城を仰いで」
5.小原政治:行進曲「偉大なる武人」
6.江口源吾:観艦式行進曲
7.斉藤丑松:行進曲「愛国」
8.陸軍戸山学校軍楽隊:行進曲「威風堂々」
9.水島数雄:行進曲「希望に燃えて」
10.斉藤丑松:行進曲「太平洋」
11.瀬戸口藤吉:行進曲「軍艦」
12.古関裕而:スポーツ・ショー行進曲
13.黛敏郎:スポーツ行進曲
14.レイモンド服部:行進曲「コバルトの空」
15.高田信一:行進曲「若い力」
16.古関裕而:オリンピック・マーチ
17.古関裕而:行進曲「栄冠は君に輝く」
18.堀滝比呂:行進曲「凱旋」
19.𠮷永雅弘:行進曲「勇敢なるらっぱ手」
20.團伊玖磨:祝典行進曲

2016年9月29日木曜日

ドイツ行進曲集(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管楽アンサンブル)

バーンスタインが豪華絢爛なアメリカを中心としたマーチ集を録音していたと思ったら、カラヤンもまた行進曲集をリリースしていたことを知った。こちらは天下のベルリン・フィル管楽器セクションを用いたもので、曲もドイツの行進曲に限定されている。それぞれの曲をあくまで純音楽的に響かせようというので、古くから親しまれているものを中心にしたアルバム。

ベートーヴェンの「ヨルク行進曲」で始まるブラスの響きに耳を傾けながら、カラヤンはまた真面目にこのような音楽を演奏しているのだなあ、と思う。知っている曲は少ないが、「双頭の鷲の旗のもとに」とか「旧友」のような定番曲も収録されている。そして「ウィーンはウィーン」に来て、とうとうテレビ局のスポーツテーマ音楽を踏破した。この曲は朝日系の野球中継等で使われてきた曲である。大阪ではABCラジオのナイトゲーム中継でもおなじみの、あの曲である。それをカラヤンが演奏している。

他の放送局はどうしたのか、と思うかも知れない。他の放送曲のテーマ音楽は主に日本の行進曲が使われている。それにつては次回に触れる。

それにしてもこのCD、聞いたことのある曲は少ないし、同じような曲がずっと続くにもかかわらず、聞いているうちに管楽器だけのアンサンブルが次第に耳に馴染んできて、とても幸せな気分になるのは不思議である。個人的な感想なのだが、スーザの行進曲だとこうはいかず、飽きるのに。

ドイツの行進曲は2拍目にアクセントがある。その結果少し重い感じがする。重い靴を履いた行進である。また第1の主題が繰り返されたあとに、比較的メロディアスな中間部が置かれているのも特徴である。このA-B-Aの形式が我が国の明治以降の行進曲にも適用されている。

2拍目のアクセントは、小学校の時に習った「左ー右」の順序で言えば、右足の部分である。マーチが2拍子で作られていることを考えれば、「強ー弱」のうちの弱の方。すなわち「弱音ー2拍目ー右足」ということになる。果たしてそうであろうか?

この疑問に答えてくれたのが、「西洋音楽論」(森本恭正著、光文社新書)である。この瞠目すべき音楽論はヨーロッパで活躍する指揮者によって書かれている。それによれば、欧米では実際には上記と若干異なり、あくまで2拍目が強い、というのである!これをアップビートという。おおよそロックであれクラシックであれ、西洋の音楽はアップビートである、というのだ。すなわち「強音ー2拍目ー右足」。多くの人が利き手である側、すなわち右足で強く蹴りだすのは生理的な現象で、日本人はそれを誤解して西洋音楽を導入した。したがって現在でも、J-POPであれクラシックであれ、 日本人の演奏というのは聞いて直ぐにわかる、と筆者は言う。

なるほど、と思った。音楽をするときのコツ、それはアップビートで演奏することである。このような指摘は、これまで他にはない。どうしてなのはわからない(わが国ではアップビートのことをアフタービートと呼ぶらしい)。

カラヤンの行進曲集を楽しく聞きながら、行進という人間の持つ基本動作に基づく音楽としての、一定の規律と厳正なるものを感じ、そして何かきちっとしてければいかないような気持になった。3拍子が踊りから派生しているのと同様に、大勢の人が合わせて歩くさまは、お祭りのような「ハレ」の状態であり、華やいだフェスティバルで聞かれるファンファーレや行進曲は、そういった共同体生活の中での特別な意識を表している。私が子供の頃にスポーツ中継を通じ行進曲が好きになったのも、そのような生活上のわくわくするような感覚によるものだったと思う。

ついでながら、私の好きな曲は、前述の「ウィーンはウィーン」に加え、「チロルの木こりの誇り」、「旧友」、それにヨハン・シュトラウスの作曲した喜歌劇「ジプシー男爵」から「入場行進曲」などである。最後の曲「ニーベルンゲン行進曲」はワーグナーの楽劇のメロディーがちりばめられている。カラヤンがこんな曲を入れているのは、やはりドイツを感じるというか、何というか。


【収録曲】
1.ヨルク行進曲(ベートーヴェン/シャーデ編)
2.トルガウアー行進曲(フリードリヒ大王)
3.我がオーストリア(スッペ/プライス/ドブリンガー編)
4.はためく軍旗の下に(リンデマン/シュミット編)
5.大公騎兵隊行進曲(モルトケ伯爵)
6.双頭の鷲の旗の下に(J.F.ワーグナー/モスハイマー編)
7.我ら皇帝親衛隊(ミュールベルガー/デボロ/タンツァー編)
8.フローレンス行進曲(フチーク)
9.ケーニヒスグレッツ行進曲(ピーフケ)
10.連隊の子供たち(フチーク/ブラーハ編)
11.ウィーンはウィーン(シュランメル/シュミット=ペテルセン編)
12.十字軍騎士ファンファーレ(ヘンリオン/メネケ編)
13.ペテルブルク行進曲(作曲者不詳)
14.フェールベリン騎兵隊行進曲(ヘンリオン/メネケ編)
15.ホッホ・ウント・ドイッチュマイスター行進曲(エアトル)
16.ヴィンドボナ行進曲(コムツァーク/マーダー編)
17.ホーエンフリートベルク行進曲(フリードリヒ大王)
18.アルブレヒト大公行進曲(コムツァーク/ヴィリンガー編)
19.チロルの木こりの誇り(J.F.ワーグナー/タンツァー編)
20.プロイセンの栄光(ピーフケ)
21.ケルンテンのリーダー行進曲(ザイフェルト)
22.ボスニア人たち(ヴァグネス)
23.フリードリヒ近衛連隊行進曲(ラーデック)
24.旧友(タイケ)
25.ジプシー男爵』から入場行進曲(J.シュトラウス2世)
26.ニーベルンゲン行進曲(ゾンターク)

2016年9月28日水曜日

行進曲集(レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

小学生の頃、行進曲を集めたレコードが聞きたくて近所のレコード屋に出かけたが、なかなかいいものはなかった、と述べた。暫くしてCBSソニーからレナード・バーンスタインが指揮する行進曲集が発売されていることがわかった。鼓笛隊のイラストがジャケットのこのLPには、スーザを始めとするアメリカの有名な曲を中心に10曲あまり収められていた。私はあのバーンスタインが、しかも天下のニューヨーク・フィルを指揮して録音した何と贅沢なレコードだろうと思った。

だがこのLPは、収録時間が短いにも関わらず店頭にはなかった。仕方なく私はカセット売り場を覗いてみた。するとそこにはフェリクロームタイプの高級テープに録音されたものが売られているではないか!ジャケットに相当するカセットテープのケースにも同じイラストが描かれていたように思う。私はこのカセットが欲しくなった。でも驚くべきことにその値段は異常に高く、3500円だったかと思う。つまり小学生の私には手が出ない。仕方がないので私はあきらめ、以来、この演奏に触れるまでにはさらに十数年の歳月を要することとなった。

CDの時代になって収録時間が長くなり、LPでリリースされていた録音は古いものなら関連性の高い2枚を一枚に収めたCDが安く売りだされることとなった。当初はLPそのままの収録時間を、大したリマスターもせずに売り出されたものだが、それは次第に安値を争う競争にさらされ、そして輸入盤の普及も手伝って、CDの安売りが常態化していった。

バーンスタインのニューヨーク時代の録音も次々とCD化されていったが、その中で私の欲しかった行進曲集は、別に録音されたクラシカルな行進曲集とカップリングされ、いまでは全部で20曲収録されたCDとして発売されている。もっともこんな古い録音は誰も買わないから、価格はさらに安くなり、中古で買えば数百円にまで下落した。かつて3500円した10曲入りのスーザ行進曲集が、いまではほとんどタダで(図書館等に行けば)聞くことが出来る。

バーンスタインはこの一連の行進曲集を、大いに楽しそうに指揮しているように見える。驚くのはそのスピードで、これは歩くには少し早すぎる。そして特徴的なのは、弦楽器も加わるオーケストラ向けに、凝ったアレンジがなされていることだ。つまりこの演奏は、実用的なものではなく鑑賞用ということである。もっともスーザの行進曲をそう何回も、何曲も続けて聞くことはないし、演奏会で取り上げられることもない(アンコールなら私は、ズビン・メータの指揮するニューヨーク・フィルハーモニックで聞いたことがある)。

録音は60年代後半で、いまとなては古くなったが、その生き生きとした演奏はバーンスタインのサービス精神とスポーティな棒さばきは聞くものを無条件に浮き立たせる。後半のクラシカル・マーチの数々は、これが聞きたかったという曲のオン・パレードで、「酋長の行列」などは私は大好きだが、スーザの各曲こそこの組み合わせの真骨頂である。軍隊や愛国心の香りはあまりせず、純粋に音楽的であり、人が持っている活動への感覚を本能的に刺激する。特に「星条旗よ永遠なれ」は文句なく素晴らしい。


【収録曲】
1. スーザ:「ワシントン・ポスト」
2. スーザ:「忠誠」
3. スーザ:「雷神」
4. J.F.ワーグナー:「双頭の鷲の旗の下に」
5. スーザ:「海を越える握手」
6. スーザ:「星条旗よ永遠なれ」
7. J.シュトラウス一世:「ラデツキー行進曲」
8. ステッフ:「リパブリック讃歌」
9. ツィンマーマン:「錨を上げて」
10. アルフォード:「ボギー大佐」
11. ド・リール:「ラ・マルセイエーズ」
12. バーグレイ:「国民の象徴」
13. ビゼー:「カルメン組曲第1番」より「闘牛士の行進」
14. エルガー:「威風堂々」 第1番
15. メンデルスゾーン:劇音楽「アタリー」より「僧侶の戦争行進曲」
16. ヴェルディ:歌劇「アイーダ」より大行進曲
17. ワーグナー:歌劇「タンホイザー」より大行進曲
18. マイアベーア:歌劇「預言者」より戴冠式行進曲
19. イッポリトフ=イヴァーノフ:組曲「コーカサスの風景」より「酋長の行列」
20. ベルリオーズ」:劇的物語「ファウストの劫罰」より「ラコッツィ行進曲」

2016年9月27日火曜日

行進曲集(フレデリック・フェネル指揮イーストマン管楽アンサンブル)

息子とのキャッチボールで指を怪我し落ち込む毎日に、子供の頃に親しんだ行進曲集のCDをいくつか聞いてみることにした。最初の一枚は古い1960年代の録音から、フレデリック・フェネル指揮イーストマン管楽アンサンブルのもの。マーキュリーのアナログ録音をCDリマスターした一枚だが、実際に録音の古さは隠せない。LP2枚分の曲がずっしりと収められている。

まだクラシックに親しむ前、私は行進曲が好きだった。おそらくテレビの野球中継で流れるマーチが好きだったのだろう。今ではスポーツ中継のテーマ音楽は、様々な歌手の歌が使われているが、かつてはオリンピック中継も含め、スポーツ中継といえば放送局ごとに音楽が決まっており、プロ野球であれプロレスであれ、同じ行進曲が使われていた。それらのテーマ曲が何という曲なのかは、放送局に手紙を書かなくてはわからないし、そんなことをしてもそれが収録されたレコードを探すというのは大変なことだった。

学校でタイケ作曲の「旧友」という行進曲を鑑賞したのはその頃だった。この曲はどこかの放送局のスポーツ・テーマ音楽だと級友の誰かが言った。そして私のクラスではこの曲が流れると、みんな教室の後方で行進の真似をして遊んでいた。思えば無邪気な小学生時代である。私は各放送局のテーマ音楽に使われる行進曲の名前が知りたくなった。だがそれを知るのはもっと後になってからだ。

いろいろな行進曲が聞いてみたいと思っていたので、私は父にそういう音楽の収録されたLPレコードを所望した。だが校外の小さなレコード屋には、申し訳程度にクラシック売り場があるだけで、その続きのセクションにも軍歌や民謡のレコードがあるだけだった。西城秀樹などのアイドル歌手や都はるみのような演歌歌手のLPならいくらでも置いてあるのに。仕方なく父は、アーサー・フィードラー指揮のよるボストン・ポップス管弦楽団の2枚組LPレコードを買ってくれた。これが私のクラシック音楽との出会いとなった。

スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲が収録されていた、というのがこのLPを買ってくれた理由である。この曲も学校の音楽鑑賞に使われていたし、その他のポピュラーな名曲は私を魅了した。けれども行進曲については一向にわからない。そんなある日、NHK-FM午後のクラシック番組で、行進曲特集が放送された。

私はトランジスタラジオにテープレコーダーを接続し、SONYの安いカセットテープに、可能な限りの曲を録音した。その時の曲目は、これらを紹介したアナウンサーの声とともに鮮明に覚えている。その演奏こそが、このフェネル指揮の演奏の数々だった。スーザという作曲家の存在もこの時知った。アメリカの有名な行進曲の多くはスーザにいおるものである。私は毎日カセットを聞きながら、「ワシントン・ポスト」「雷神」「エル・カピタン」「キング・コットン」「海を越える握手」(この曲は「海を越えた握手」という訳もあるが、この時のNHKのアナウンサーは「海を越える握手」と言った)「星条旗よ永遠なれ」などを覚えていった。

この時の放送では、スーザの曲に加え「ボギー大佐」「アメリカン・パトロール」などの吹奏楽の名曲が合わせて紹介された。「ボギー大佐」は「クワイ河マーチ」としても有名であり、また「アメリカン・パトロール」は弟が幼稚園で合奏していたのを覚えている。最後にはVOA(「アメリカの声」放送局)でお馴染みの「ヤンキー・ドゥードゥル」の一部が聞こえてくる。

さてフェネルのこのCDを私は二十代になって購入したのだが、フェネルと言えば管弦楽の父ともいえる存在である。彼の率いるイーストマン管楽アンサンブルは、イーストマン・コダック社のあるニューヨーク州ロチェスターにあるイーストマン音楽院所属のブラスバンドである。アメリカの文化が世界を席巻したベトナム戦争までの時代こそ、アメリカの黄金時代ではないかと思う。このキビキビとした演奏には、その強かったアメリカの勢いを感じる。フェネルはその後我が国でも長く活躍し、ブラス好きには有名な音楽家だが、私はこの古い時代の演奏を一枚だけ持っている。


【収録曲】
1.スーザ:「海を越える握手」    
2.ガンヌ:「勝利の父」    
3.サン・ミゲル:「ゴールデン・イアー」    
4.タイケ:「旧友」    
5.プロコフィエフ:行進曲作品88    
6.ハンセン:「ヴァルドレス・マーチ」    
7.デレ・セーゼ:「イングレジナ」
8.コーツ:「ナイツブリッジ・マーチ」    
9.スーザ:「合衆国野戦砲兵隊」
10.スーザ:「雷神」
11.スーザ:「ワシントン・ポスト」
12.スーザ:「キング・コットン」
13.スーザ:「エル・カピタン」
14.スーザ:「星条旗よ永遠なれ」
15.ミーチャム:「アメリカン・パトロール」
16.ゴールドマン:「オン・ザ・モール」
17.マッコイ:「ライツ・アウト」
18.キング:「バーナムとベイリー」
19.アルフォード:「ボギー大佐」
20.クローア:「ビルボード」

2016年9月25日日曜日

ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」(2016年9月24日、サントリーホール)

久しぶりにサントリーホールへ出かけた。このホールは私が大阪で学生だった頃(1986年)にオープンした。まだ東京にクラシック音楽専用のホールがなかった頃だが、どうして大阪の会社が東京にホールを作るのかと思った。その頃大阪には、すでにザ・シンフォニーホールがあったから、東京にも必要だと考えたのだろう、などと思った。

1992年に上京して社会人となり、さっそくNHK交響楽団の定期会員になったが、N響は当時NHKホールでしか定期公演を行っておらず、私が初めてサントリーホールに行ったのは、確かその年の秋の日フィル定期だったかと思う。コダーイの合唱曲とドヴォルザークのチェロ協奏曲がその日のプログラムで、私はそのコンサートに大阪から来ていた母を招待した。

それ以降私は数々のコンサートでサントリーホールに出かけ、読売日本交響楽団の定期会員にもなって毎月武蔵野から足を運んだし、結婚してからは夫婦でラトルの第九も聞いた。病気で倒れた後も何年かぶりに聞いたブルックナーは忘れることが出来ず、ベルリン・フィルの圧倒的なブラームスに度肝を抜いたこともあった。そしてそのサントリーホールのある港区に引っ越したのが10年前のことである。何と今では息子が小学校の音楽鑑賞会でドビュッシーを聞き、ホール前の広場では相撲大会に出場したりしている。

思えば長いつきあいのこのホールは、今でも大変新しくきれいである。今日のコンサート、東京交響楽団の創立70周年記念となる第644回定期演奏会に向かいながら、それまでのこのホールに足を運ぶ日々を回想していた。

ユベール・スダーンというオランダ生まれの指揮者を一度は聞いてみたいとずっと思っていた。10年以上もこのオーケストラを率いてきた指揮者だったが、私はいつもスケジュールが合わず、チケットを買って待ち望んでいたコンサートは、緊急の入院で行けなかったりした。そして今回ついにベルリオーズの大作「ファウストの劫罰」を聞くことができたのである。その印象をここに書いておきたい。

読売新聞の記事にスダーン氏は「美しい映画を見ているかのような作品」であり「耳に美があふれる作品」と紹介している。そして今回の演奏はまさにその通りであり、私はこれ以上美しい音楽の連続する時間を過ごした経験はないのでは、と思うほどに感動した2時間半であった。

それは第1部の冒頭でハンガリーの田園風景を表現するオーケストラの音色から始まった。まさに耳が洗われるような感じであった。有名な「ハンガリー行進曲」も程よく抑制が効いていながら、音のパノラマを楽しんだ。このオーケストラは上手いと思う。特にオーボエのソロなどが中音域主体の弦楽器に溶け合うところなど、至福の瞬間である。

ファウスト役を歌うアメリカ人テノールのマイケル・スパイアーズは、まさにこの役のためにいるかのような美しい声の持ち主で、2階席後方で聞いていても透き通るような声が会場にこだまする。それに加えてバス(といってもバリトンのように聞こえる)のミハイル・ペトレンコは、時に大きな身振りをみせつつこの悪役を歌いつくす。初めてこの役を歌うとインタビューで答えているが、そんな感じが全くしない、板についた歌いっぷりである。この二人の歌手に、スダーンの魔法のような音楽が乗っていく。合唱団は後方P席にずらりと陣取った東響コーラスで、これがフランス語の難しいと思われる歌詞もものともしない見事さ!私は合唱の美しい曲にハマっているが、この作品こそ、まさしく合唱がつまらなければ聞くことのできない作品である。

合唱のついでに、最後のマルグリートが天に召されて登ってゆく部分で天使を歌うのが、東京少年少女合唱隊である。彼らは後半の冒頭から登場し舞台右側後方に座っていたが、まだ小学生であろうこのメンバーたちは、体を微動だにせず行儀がいい。そしてついにそのコーラスが始まると、どこが少年合唱でどこが大人の合唱か、はたまたオーケストラはどの楽器が鳴っているのかの区別がつかないほどに合わさっている。あまりに美しい音楽に会場が陶酔したのは当然のことである。私は目を閉じていたからわからないが、指揮棒が振り下ろされ音楽が消えても、しばらくは誰一人拍手も物音も立てない静寂が続いた。待ち切れず一人がブラボーと叫び、そして割れんばかりの拍手が始まった。2階席全体がこれほどにまでブラボーを叫んだ日本人のコンサートを私は知らない。

何とも言えない、いいコンサートだった。音楽は、いつもCDなどで聞くのとは違い、すべての細部にまで集中力が絶えないからだろう、この曲はこんなにも美しかったのかと改めて思った。何度か電車に揺られながら聞いてもみたが、途中で眠ってしまうこともしばしばだったし、DVDやTVで放映された映像を、長い時間見続けることは結構大変だった。だから生のコンサートはいいな、と今回も思った。音が生き生きと響く上に、残らないその瞬間瞬間を何千人もで共有しているというその事実が奇蹟だと思うのだ。

「ファウストの劫罰」の音楽はそれぞれがみな素晴らしいが、かといって口ずさむような覚えやすいメロディーが頭に残るわけでもない。ベルリオーズはいつも不思議な音楽だが、この作曲家がフランス音楽に与えた、いやヨーロッパ音楽全体に与えた影響は計り知れない、とスダーン氏は書いている。

すでに名声を確立したベルリオーズが、文豪ゲーテの作品を音楽化したという野心作にして自信作であったにも関わらず、パリの聴衆はこの作品に冷たかったようだ。思えば現代のように、音楽が収録されることなどあり得なかった時代、消えてしまう音楽は印象が残らなければ、誰も思い出すことなどできなかっただろう。ハンガリーに舞台を移し、断片的な音楽を組み合わせたこの作品は、オペラとして上演されることもあるが、その舞台は物語を進行するというよりは抽象的であることが多く、ファンタジックである。

この作品は、後年に大きな影響を及ぼす斬新的な要素を持っているとはいえ、まだロマン派前期の作風でもある。よって音楽が親しみやすくないわけがなく、多彩な楽器や奏法(バンダも使われる)と美しい合唱も入って、まさに絵画のような作品である。一人ずつ舞台に登場した拍手の中で、マルグリートを歌ったソプラノのソフィー・コッシュやブランデルを歌った北川辰彦にも大きな拍手が送られたが、私はコッシュの歌声が、やや精彩を欠いていたように思える。

家路につきながら、最近身の回りに生じたいろいろなことを考えた。今日のコンサートの聴衆は、ワーグナーのオペラを見に来る団塊世代の風変わりな客層と違って、随分身なりがいいように思えた。20代の聴衆は、私が初めてこのコンサートホールに来た四半世紀前にはまだ生まれていなかったであろう。そう思うと、いつも変わらない表情のサントリーホール及びその界隈も、実はそこを行き交う人と同様、年輪を重ねている。私はもう、この曲をこれほどの完成度と感銘を持って聞くことは一生ないだろうと思った。だから、機会があればもう一度聞きたいとは思うが、どうしても今日のコンサートを比べてしまうだろうと思うと躊躇するかも知れない。やはり、音楽は一期一会の瞬間を生で楽しむに限る、と思う。


2016年9月8日木曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品6(Vn:ヘンリク・シェリング、アレグザンダー・ギブソン指揮ロンドン交響楽団)

ある日、インターネット・ラジオを聞いていたら私の好きなパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番の第3楽章が聞こえてきた。その悠然でしかも気品に溢れたヴァイオリンの響きと、きびきびした伴奏のテンポ感にしびれ、いったい誰の演奏だろうと思った。急いでWebでチェックしてみたら何とシェリングの演奏だったのだ。

この時の感激が忘れられず、長い間この曲のシェリングのCDを買おうと思っていた。できれば自ら蘇演した第3番とのカップリングがいい。そのCDもどこかで見たので、確か出ていたはずである。ところが廃盤になって久しく、手に入るのは第4番とのカップリングばかり。そうこうしているうちにすべての録音がCD屋から姿を消してしまった。近所の図書館にもない。

月日が経ってある時中古屋を覗いていたら、第4番とのカップリングが売られていた。 もうこれを買うしかない。そういうわけでやっとのことで、この演奏を聞くことができたのだ。もっとも今ではYouTubeやiTunesなどを見れば、もっと容易く聞くことはできるはずだが・・・。

さてパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番で、私のもっともお気に入りは、サラ・チャンの演奏である。この演奏はとても素晴らしいので、未だに文章化をためらっている。その前にひとまずパールマンの演奏に触れた。そして今回がシェリングである。演奏は1975年と少し古いが、伴奏の方は安定した響きでうまく独奏に溶け合っており、まずその魅力に憑かれる(だって冒頭の伴奏部分など、オーケストラだけで完結してしまうのだから)。そのあともテンポが動き、時にヴァイオリンはつらそうにも聞こえるが、決してヴァイオリン主導になり過ぎず、かといってオーケストラが出しゃばってもいない。

ヴァイオリン独奏は、今では聞かれなくなった古風な演奏であると言うべきか。まだヴァイオリンの技巧がいまほど当たり前でなかった頃(思えばパールマンが登場してくるあたりから変わった)、巨匠風のヴァイオリニストが多く健在で、ヴァイオリンの演奏というのはテクニックよりも音色と表情こそが重要だった。古い録音で聞く陰りを帯びた響きにも、古色蒼然とした得も言われぬ味わいがあって、言わばレトロな雰囲気をも醸し出していた。だがパガニーニは、そもそもテクニックがすべての曲である。

悪魔の化身とさえ言われたパガニーニの曲などというものは、すべてのヴァイオリニストが取り上げる作品ではなかったのだ。相当なテクニックが要求されるにも関わらず、曲の評価はいまひとつ・・・二流の曲を一流の演奏家がわざわざ演奏することもない、というわけである。パガニーニ国際音楽コンクールというのがあるが、そこで入賞したソリストが披露するのは例外で、つまりパガニーニの曲は若手の演奏家の一部が取り上げるだけの作品・・・でもこれが演奏できるのは凄いこと・・・。

ところがテクニックが重要な時代が来て、何と若い演奏家が軽々とパガニーニを演奏し、デビュー作として演奏してしまう事態が生じた。そんな中で、比較的昔から好んでパガニーニを演奏してきたのがシェリングである。彼は美しい音色の持ち主であった。輝かしいヴァイオリンの響きは、この作曲家にとても似合う。アッカルドというパガニーニの大御所がいて、デュトワと録音した決定的な全集があるが、アッカルドと違いシェリングはベートーヴェンやチャイコフスキーも得意である。

シェリングは技巧的な部分・・・私はあまり詳しくないので、二重のファルジョレットなどと言われてもピンと来ないのだが・・・になると速度を落とし、ゆっくりと聞かせるようにする(もしかしたらそのままのテンポで演奏するのがきついのかも知れない)。ここをそのまま切り抜けるのは今風の演奏で、それを可能とするだけのテクニックが備わっているということだから、まあ今から思えばちょっと変てこな演奏ということになるのだが。

つまり今の時代にわざわざシェリングの演奏を聞く必要などない・・・と言い切ってしまうのは簡単だけれど、何でもサラサラと進んでしまう方が、最初は違和感があった。曰く表情付けに乏しい、などと言う風に。何が原因でどちらが好ましいか、という問題ではなく、そういう風に演奏のスタイルが変化した。その変化を感じる演奏である。ただし伴奏の方は、今と同じようなスタイルで溌剌としている・・・そこがこの演奏の面白いところかも知れない。

シェリングの奏でるヴァイオリンには、どこか気品を感じる部分があって、それはそれで大変好ましいし、あまりにテクニックの全開な演奏で聞くと聞き逃してしまうフレーズにも、時折立ち止まるようになりながら注意して進んでいく。だからこちらも耳をそばだててしまうのだが、第3楽章のソロの部分などは大丈夫だろうか、などという丸でライヴ演奏を聞くときのようなスリルを感じる。私はこの演奏に感じるぎこちない部分を好意的にとらえているのだが、あばたもえくぼ、それはつまりこの演奏がそこそこ気に入っているからだと思う。

ドニゼッティ:歌劇「連隊の娘」(The MET Live in HD 2007-2008)

ペルー生まれのテノール歌手、ファン・ディエゴ・フローレスは、かつてパヴァロッティがそうであったように、ドニゼッティの歌劇「連隊の娘」のトニオ役で輝かしいハイCを轟かせ、一躍脚光を浴びた。各地のオペラ・ハウスから声がかかり、デッカから遂にDVDが発売された。2005年、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場での収録である。私もどういうわけか、他にドニゼッティなどほとんど聞いてこなかったにも関わらずこのビデオを購入し、得体も知れぬオペラを見た。

ドニゼッティと言えば「ランメルモールのルチア」や「愛の妙薬」 などでよく知られているイタリアの作曲家だが、この「連隊の娘」は"La fille du regiment"すなわちフランス語のオペラである。ドニゼッティはイタリアで名声を博した後フランスに移住した。「連隊の娘」はフランスに対しての風刺をきかせながらも、オペラ・コミークとしての形式、すなわち台詞入りで書かれている。

初めてビデオを見て思ったことは、ベルカント時代の作品にありがちな実に荒唐無稽なストーリーだということである。孤児としてフランスの軍隊で育てられたマリーに対し恋心を抱くスイスの若者トニオ。彼はマリーと結婚するために、敵であるフランス軍の兵士となる決意をする。だが間もなくマリーを身内の子だと言うベルケンフィールド公爵夫人が現れ、マリーは貴族のお城へ、トニオは兵士として赴く羽目となる。

今回METライヴのアンコール上演で2008年の公演のリバイバル上映が行われた。私は十年も続くこの企画の作品を70タイトルも見てきたが、この「連隊の娘」は見逃しており、今回初めて見ることになった。しかもそれまでに見た経験では、上述のビデオだけだから、ほとんど初めてのようなものである。ベルカント時代のブッファとなれば楽しくないはずがなく、まさに捧腹絶倒のオペラであったが、ここでトニオを歌ったのは、やはりフローレスだった。

だが私が見た印象ではビデオに比べ随分落ち着いてこなれており、そして歌が実にしっかりと身についているということだ。何か所もの難所、すなわち超高音連発のオペラを、軽々と歌っているように見えるのだ。加えて相手役で標題役のナタリー・デセイの見事な役者ぶりが、それに輪をかけて素晴らしい。いや私はアップの画面で見る彼女の演技にこそ、見とれてしまったほどだ。ヘンデルのクレオパトラ(「ジュリオ・チェーザレ」)でも明らかなように、彼女の多様な動きを加えた演技力はちょっとしたミュージカルの役者レベルである。しかもその彼女が踊りに合わせて声を発すると、その声は見事なまでに大ホールにこだまする。高い音も難なく歌ってしまう。

つまりフローレスのトニオとデセイのマリーは、歌唱力の点でもかつてのパヴァロッティ、サザランド級、すなわち世界最高峰であることに加えて、ヴィジュアルな点でも現代屈指のカップルということになる。そして驚くべきことに、そのストーリーが無理なく進み、しかも少しの皮肉やユーモアを存分に味わわせるレベルの演出(ローレン・ペリー)、特に今回新たに書き改められた台詞が実に素晴らしいと思えた。

歌、演技、そして演出の3拍子がそろった屈指の「連隊の娘」は、マルコ・アルミリアートの引き締まった指揮も手伝って、歴史的な成功だったのではないか。だから10年近くも経つというのにリバイバル上映が行われ、しかもそこそこの入りである。私は台風が近づく鬱陶しい東京の昼下がりに、久しぶりにオペラの楽しさを味わった。

ベルゲンフィールド公爵夫人(フェリシティ・パルマー、彼女はまたなかなか味わいのある演技で観客を魅了した)の居間では、今日も退屈な貴族の生活が営まれている。マリーはそのような生活に嫌気がさし、軍曹のシェルピス(バスのアレッサンドロ・コルベリ)が訪ねてくると、軍隊生活が思い出されて仕方がない(ラタプランの歌)。そこに大尉となったトニオが現れ再び結婚を誓うのだが、公爵夫人はそれを許さない。ところがマリーは実は公爵夫人の子だった!最後には結婚を認めて幸福のうちに幕となる。

総合的な完成度において最高ランクの本公演は、セリフの面白さ(それはまるで松竹新喜劇のようだ)も手伝って客席を笑いの渦に巻き込む。そうでないときにはデセイが動きのある演技(アイロンをたたみながら歌う冒頭から、第2幕の歌のレッスンシーンなどそれは全開状態)、そしてハイCが連続するアリア(第1幕の「友よ今日は楽しい日」)と見どころが尽きない。

この公演の面白さのひとつは、それぞれの歌手が話す会話(フランス語)だと思う。デセイは母国語なので流暢であることを利用して、表現力に幅を加える。一方ベルゲンフィールド公爵夫人役のパルマーはイギリス人で、彼女はそのことを逆手にとって、むしろたどたどしく話すことで貴族の身分におかしみを加えることに成功している。時に発せられる決め台詞が英語だったりするあたりは、アメリカの聴衆を意識したサービスでもある。

METライブの71公演目を見終わって、ドニゼッティに関する限り、主要作品を一度はすべて見たことになった。チューダー朝三部作(「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」「ロベルト・デヴェリュー」)、それに喜劇の3作品(「愛の妙薬」「ドン・パスクアーレ」「連隊の娘」)、さらに「ランメルモールのルチア」である。そのどれもが圧巻の素晴らしさだった。私のMETライブとの出会いは、ドニゼッティとの出会いでもあった。

2016年9月6日火曜日

マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調(ダニエレ・ガッティ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

私は長年、マーラーの交響曲第5番が苦手であった。もっとも頻繁に演奏され人気も高い曲、と言われているだけに、どうしてこの曲が好きになれないのか自分も不思議だった。演奏会で聞いたときも、それは変わらなかった。この曲はズビン・メータの指揮するイスラエル・フィル、あるいはダニエル・ハーディングの指揮する新日本交響楽団などで聞いたことがある。

録音ではどうか。カラヤン、バルビローリ、ショルティ。DVDでバーンスタイン。でもどこか入り込めない。唯一あの映画で有名になった第4楽章「アダジエット」だけは、まるでそこだけ時間が止まったような、とても不思議な瞬間が来る。でもこの曲はこの部分が有名であることだけが恐ろしいほど突出していて、それ以外の部分となると、初めて聞いた時などは結構やかましい曲だな、などと思ったものだ。

それもそうである。この第5交響曲はマーラーの後年の作品群、すなわち第6番「悲劇的」、第7番「夜の歌」などと並ぶ作品への入り口なのだ。「巨人」や「復活」のような親しみやすさがないのは、もうマーラーの作品が年代とともに変容していくからである。ではその変容、あるいは深化とはどのようなものか?

これを語るのは多分に音楽的知識を有し、世紀末に象徴されるドイツの近現代史に通じている必要がある。マーラーの伝記のいくつかを読み込むことはもちろん、その妻となるアルマの伝記、そして女性の自由化の社会史にも詳しくなければならない。残念ながら私はそのすべてにおいて素人だから、このような作品を楽しむのは非常に骨の折れる作業である。もしかしたらマーラーの後半の交響曲は理解できないかも知れない。でもそれが真実なら、この曲がこんなに人気がある理由が説明できない。もしかしたら一発で感動できる演奏に出会うことはできないだろうか。

こういうとき、とにかくいろいろな演奏を聞いて自分にフィットする演奏を探し求めるしかない。そういうわけで、私はさらにハイティンク、シノーポリなどの演奏を聞けるものから聞いて行った。そうしてある日、私の感覚にフィットした演奏が出現したのだ!比較的最近の演奏、ダニエレ・ガッティによる演奏であった。

ダニエレ・ガッティといえば今を時めく指揮者のひとりだが、METライヴの上演で「パルジファル」を見るまでは知らなかった。この「パルジファル」は暗譜によって指揮され、その見事さは比類ないものとして語られているし、私も(まあ映像で見る場合、どうしても演出の素晴らしさに見とれたところもあるし、歌手の出来・不出来というのもあるから、純粋に指揮者だけを評価するのは難しいのだが)その安定的で聞きどころを押さえた指揮にとても心を打たれたのは確かである。

ガッティは今年(2016年)からコンセルトヘボウ管弦楽団の主席指揮者となるようだが、この演奏はロイヤル・フィルのシェフ時代の1996年頃で36歳の時の演奏というから、私と同年代の指揮者ということになる。

まず冒頭のトランペットがとても印象的である。ベートーヴェンの第5交響曲を意識したであろうこのパッセージを、ガッティはわずかな休止を入れながら進む。このことだけで、何かいつもと違う演奏に感じられる。そしてそう感じるのは表層的な仕掛けによるだけではないように思う。例えば第2楽章や第3楽章の後半の、凄まじいまでのエネルギーを放出しながらも、音楽の形式を壊すことのない演奏。白熱したライヴのような演奏だが、スタイリッシュで遅く十分な時間を取って進むところもある。緩急をつけながらも自然でこなれた感じ。こういう演奏がなかなかなかったのだ。もしかしたら、ただこれまで出会わなかっただけかも知れないが。

マーラーの第5交響曲は、ベートーヴェンの第5交響曲がそうであったように、苦悩から喜びへの進化をモチーフとしているように思える。だがベートーヴェンのように単純なものではなく、マーラーのそれはより複雑であり、聞く人にとってはちょっと不愉快なくらいに大袈裟であるばかりか、時に冷笑的でさえある。皮肉に込められたパロディーは、第7交響曲に至るまでの、もっともマーラーっぽい部分であろう。好きな人にはたまらないのかも知れないが、マーラーの嫌いな人にとってはとてつもなく苦痛である。この嬰ハ短調交響曲は、その中ではむしろまだましである。何せもっとも短い(70分)のだから!

第1楽章は葬送行進曲。冒頭のフォルティッシモにマーラーの音楽が始まる感激が沸くが長くは続かない。つまりとてつもなく、暗い。

第2楽章「嵐のように荒々しく動きをもって。最大の激烈さを持って」。激情的で切羽詰まった曲である。弛緩した古い演奏よりも、引き締まった現代風の演奏がいい。もちろんそれは技術的な進歩に負うところが大きい。一時静かになって音楽が終わってしまったのか、と思うところもあるが、再びより強烈に悲壮な音楽となる。

第3楽章スケルツォ。三拍子のリズムでホッとする。室内楽的な落ち着きが聞くものを少し和ませはするが、かといって安定しているわけではない。この20分近くにも及ぶスケルツォが私は好きだ。とても長いが、どういうわけか飽きない。それどころか変化に富んで楽しいと思う。もっとも第1楽章から聞いてゆくと、いつまでも終わらないので、演奏によっては退屈であろう。

第4楽章は有名なアダジエット。カラヤンの死後にベストセラーとなったコンピレーションCD「アダージョ・カラヤン」はこの曲から始まる。だがこの曲は「アダージョ」ではない。それよりも少し速いということだ。この速さというのが、この曲の核心を現している。つまりどこか性急な感情が一時的には落ち着いているという要素があって、冷静に自分を見つめている。私は冬の日本海を列車に乗って通り過ぎるシーンを何故か思い浮かべる。そして車窓には自分の顔が映っている。

第5楽章は快活なフィナーレ。でも快活どころか狂気じみている。オーケストラの機能美が発揮される。いい演奏で聞くと次第に高潮してゆき、最後は一気に終わる。マーラーの交響曲はいつもその傾向があるが、この第5番では若々しいエネルギーを感じる。ガッティの演奏はまた唖然とするような上手い。

マーラーがウィーン・フィルの音楽監督を辞し、作曲に専念し始めるのはこの頃である。アルマとの結婚も彼に精神的な糧を与えたであろう。これは遅咲きのマーラーの、最後の十年間の最初を飾る、絶頂期の曲と言えるかも知れない。だがこの暗さ、そしてハチャメチャなまでの不安定さといったらない。時代背景、ユダヤ人としての生い立ちなど、その理由をいくつも求めることはできる。特にこの第5番は幾分散漫な印象を与えるため、なかなか馴染めなかった。今でも、何か集中力が続かない。でもそのような時に印象的な部分が突如として現れると、その瞬間からは少し引き込まれる。ガッティの演奏はそういった工夫がところどころに見られる演奏である。録音も広がりがあって良いし、オーケストラも上手い。

そういえば若い指揮者の一気果敢なマーラーと言えば、70年代のレヴァインである。私も持っていたはずだ。もう一度聞いてみよう。もしかしたらガッティの演奏に通じるものがあるかも知れない。そう思ったらやはりそうだった。いやこのレヴァインの演奏は、録音の古さをさておいてもトップクラスの演奏ではなかったか!だがレヴァインは第6番で取り上げることにしようと思う。第6番はレヴァインで実演を聞いているのだから。

2016年9月4日日曜日

「わが故郷の歌~ギリシャを歌う(Songs My Country Taught Me)」(Ms:アグネス・バルツァ、スタヴロス・ザルハコス指揮アテネ・エクスペリメンタル・オーケストラ)

真っ白に塗りこめられた小路の前で、近所のおばさんたちが井戸端会議に興じている。重いリュックを担いだ私がそばを通りがかると、「今日はどこに泊まるんだい?」「うちに寄っていかないか」と話しかけられた。ミコノス島にフェリーが着くと、街はにわかに活気づく。民宿を営むおばさんたちが、こぞって船着場に集結するのだ。

私が紹介されたその部屋は、中心部から少し離れたオルノスという街のはずれの小高い丘に建っていた。見渡す限り紺碧の空と海以外、何もない。さらに丘を越えて歩いて行くと、その向こうに広がるエーゲ海の、眩いばかりの光の中に、かつて栄華を誇ったデロス同盟の中心地、デロス島が浮かんでいた。吹き付ける風は激しくも暖かい。でも風の音以外に聞こえるものは何もない。青く深い海と真っ白な太陽。それはギリシャ国旗の色である。ここの島々こそ私がかつて訪れた中で最も美しく、そして天国に近いところだと思った。

夕暮れ時になるとミコノスの街は生き返ったように賑やかになる。宝石や土産物を売るお店、入り江のヨットが波で揺れるのをいつまでも眺めながらタヴェルナやレストランで食事をする観光客。放たれた犬や鳥までもが狭い路地を徘徊し、バーから漏れてくるロックの歌声が夜遅くまで途切れることはない。

夏のギリシャの夜はこうして更けてゆく。ある日アテネの狭い通りを歩いていると、どこからかマンドリンの響きに似た曲が聞こえてきた。音楽は次第にスピードを上げたかと思うと、情熱を鎮めるかのようにまたもとに戻る。民謡とも歌謡曲とも判別のつかない歌に、私はしばし心を打たれて足を止め、そしてそのような曲を集めたカセット・テープを買ってみた。帰国後聞いてみると、そこに収められていたのは哀愁的で情熱的なギリシャの流行歌の数々。かつての栄光を惜しむような淋しさを、あの光の中に溶け合わせる歌声は、古代遺跡が青空に映えるギリシャの光景そのものではないか。

私が初めてギリシャを旅したのは1988年、21歳の時だった。ちょうどこの頃、ギリシャ出身のメゾ・ソプラノ歌手アグネス・バルツァは、カラヤンの指揮する歌劇「カルメン」や「ドン・ジョヴァンニ」に登場し、その妖艶で情熱的な歌唱を轟かせていた。そしてなんとその合間に、生まれ故郷のギリシャを訪れ、十代の頃に親しんだフォークソングの代表的な作品を、指揮者で作曲家のスタヴロス・ザルハコスとともに録音したのだ。その演奏はCDとしてドイツ・グラモフォンから発売され、我が国でも評論家の黒田恭一氏の激賞もあって大変評判となった。

難解なギリシャ語を解することは難しく、このCDのブックレットにも歌詞の大意しか掲載されていない。それでもこの歌曲集が心を打つのは、その音楽そのものが持つセンチメンタルな雰囲気によるものだろうと思う。だが私の場合、あのアテネの街角で聞いた歌そのものが、ここに収録されていたのだ(その歌は「オットーが国王だったとき」である)。

歌手は男性から女性に変わっているし、そもそも通俗的な歌をオペラ歌手が歌うことにも賛否がある。けれどもバルツァは、これらの歌を心の底から愛しており、歌うことを楽しんでいる…と想像することができる。祖国への思いは彼女のやや低い歌声によって重くこころを打ち付ける。それはギリシャが背負ってきた過酷な歴史を思い起こさせる。小アジア、特にトルコの影響が音楽の側面でも感じられる。そこで何百年もの間、隷属的な生活を強いられてきたギリシャ人にとって、そう簡単に忘れることのできないもの、いや生活にも文化にも染みついてしまった宿命ともいうべきもの、人生観が縮図となって歌詞にも反映されている。タイトルを追うだけで、その歌がどんな内容か想像できる。

「彼がたった17歳のとき、私の愛する郵便屋さんは亡くなってしまった。一体誰が私の手紙を運んでくれるの?」

「私の息子よ、お前は5月のある日に家を出て行ってしまった。あんなにも好きだった春に…私の灯も消えてしまったよ」

「カテリーニ行きの汽車は8時に発つのよ。11月はあなたの思い出にいつまでも残るでしょう。でももうあなたは、夜こっそりと来ることもないのね。・・・」

マンドリンのような楽器、ブーズキーについても触れておかなくてはならない。これらのギリシャ民謡の魅力の多くは、この哀愁的なリュート楽器の旋律によるものである。このCDではコスタス・パパドルーロスという奏者によって演奏されている。私は2度目のギリシャ旅行で、この楽器が安ければ買って帰ろうか、などと考えたこともあった。ギリシャのフォークを聞くことなど、当時は困難であった。ある時ソウルの街角で売られていたテレビドラマを集めたCDに、ギリシャのフォークを使った主題歌が収録されていた。それもこのような曲だった。そういう曲も今ではiTunesさえあれば、いとも簡単に聞くことが出来る。

だがバルツァがこの他にギリシャの流行歌を収録した話は聞かないし、他の歌手がこれらの歌を歌って国際的なリリースをした話も聞かない。音楽というものは、世界中どこにでもあって、どこで聞くことが出来たとしても、個々の経験は個人的であり、そしてローカルなものだ。でも、このCDが好きだと言う人が多くいて、2004年、アテネ・オリンピックの際には東京でもコンサートが開かれたようだ。

私はあの夏のギリシャが忘れられず、2000年、2001年と連続してギリシャを旅行した。この時には新しい国際空港が誕生したアテネの街も垢抜け、物価は高騰し、あのミコノスの街外れにまで高級リゾートが誕生していた。まだ経済危機がやってくる前のことである。私は毎日ビーチにでかけ、一日中そこで過ごした。ただ海を眺め、何もしていないのにこれほど満足感を味わったことはないくらいに幸せな日々だった。何もしない日が1週間続き、もう最後という日になるととても淋しくつらい気持ちになった。それ以降私にギリシャを思い出させてくれるのは、たまたまアテネで出会った曲を収録したこのCDだけである。真っ青なエーゲ海から絶え間なく風が吹き付ける。青い、というのがこういう色のことだったのか、と思う。その青は海の青、そして空の青。世界がどう変わっても、ここの風景だけはいつまでもそのままであると思う。ただそれを見ている人の心が変わるのだ。

「僕の塩辛い涙で時を薄めよう。僕たちにだっていい日が来るさ」

「風よ、帆を干しておくれ。僕の涙を拭っておくれ。僕に勇気を出させておくれ」


【収録曲】
1. 君の耳のうしろのカーネーション
2. 都会の子供たちの夢
3. 若い郵便屋さん
4. 五月のある日
5. 汽車は8時に発つ
6. わたしは飲めるバラ水をあげたのに
7. オットーが国王だったとき
8. ぼくたちにだって、いい日がくるさ
9. バルカローラ(舟歌)
10. 夜汽車は恋人を乗せて
11. わが心の女王


2016年8月29日月曜日

ヴィヴァルディ:多楽器のための協奏曲集(ファビオ・ビオンディ指揮エウローパ・ガランテ)

ウィーンに「音楽の都」が移るまで、ヴェネツィアこそが音楽の都であった。ルネサンスからバロックに至る流れの中で、ヴェネツィア楽派と呼ばれる作曲家たちがいた。ガブリエリやモンテヴェルディがそうである。協奏曲の形式はこの時代に発展した。そしてその集大成ともいうべき作曲家が、アントニオ・ヴィヴァルディである。ヴィヴァルディは、500曲を超える協奏曲や多数のオペラを作曲した。特に自身がヴァイオリニストであったことから、ヴァイオリンの活躍する協奏曲が多い。

「四季」という、ほとんどこの作曲家の代表とも言うべき作品は、4つのヴァイオリン協奏曲を並べたちょっと異色の作品である。けれどもこの他にも多数の名作があるはずで、それらを少しずつ紹介してくれるのが、ファビオ・ビオンディによる一連の録音であった。ヴァージン・クラシックスからリリースされるたびに、私もレコード屋の店頭で試聴し、そのうちの何枚かを買った。この「多楽器のための協奏曲集」もそのひとつである。中でも先頭と最後に収録されたマンドリンの協奏曲に惹かれた。

ヴェネツィアはおそらく世界一美しい街だと思う。私がこのCDを含むヴィヴァルディの作品を聞くとき思い浮かべるのは、これまで2度、日数にしてわずか3日ほど旅行したこの美しい「水の都」の、快晴の風景である(1989年夏、1994年冬)。サンマルコ広場に至るまでの順路のすべてが絵になるように印象的であるばかりか、その街角を少し離れて裏通りに入っると、静かさの中に生活の香りも感じられる。もちろん迷路のように水路が入り組んでいるので、その上の橋を渡ったり、客を乗せて進んでいくゴンドラを眺めながらあてもなく歩いて行くと、モーツァルトがかつて泊まったアパートが忽然と姿を現し、その向こうの教会では今日もコンサート・・・もちろんここで聞くのはヴィヴァルディの合唱曲であったりするのは当然のことで、観光客の喧騒を少し離れるだけで静かに音楽が漂ってきそうな感じがする。中世から続く街並みの中に身を浸していると、昔にタイムスリップしたように感じられ、時間が止まったような錯覚にとらわれるのだった。

快速のアレグロ楽章も楽しいが、第二楽章の静かなヴァイオリンの響きは、けだるい夏の午後にぴったりである。それは私の場合、真夏の死ぬように暑い午後の時間にイメージが重なるからである。そして古楽奏法によって蘇った弦楽器のビブラートを抑えた奏法によって聞こえてくるのは、ポリフォニーの響きである。

そういうわけで毎年夏になると聞いているのがこの協奏曲集である。どういう楽器が使われるのかは曲によってそれぞれ異なるし、そのうちのいくつかはその後の時代の協奏曲では使われなくなる 音の小さな楽器、すなわちリコーダーやマンドリンなどである。これらの楽器が、あるときは快活に重なって駆け巡り、あるときは止まりそうになりながらピアニッシモの寂しい表情に変化する。真夏の最高のBGMのひとつは、ヴィヴァルディの協奏曲である。そして厚ぼったい演奏よりは、古楽器の爽快な風が耳に心地よい。

それにしてもヴァネツィアの美しさといったら例えようがない。89年に初めてヴェネツィアを旅行した時の写真があったので、それを張り付けておこうと思う。「ヴェニスに死す」は私には合わない。ここは綺麗で美しく、そして明るい日差しがさんさんと降り注ぐ街である。あまりに日差しがきつくて、その影とのコントラストがどこか寂しげであるのものもまた、私の北イタリアの印象でもある。ちょうどヴィヴァルディの音楽がそうであるように。



 【収録曲】
1.2つのマンドリンのための協奏曲ト長調RV532
2.協奏曲ハ長調RV558
3.協奏曲ト短調「ザクセン公のために」RV576
4.協奏曲ニ長調RV564(2つのヴァイオリン、2つのチェロのための)
5.ヴァイオリン協奏曲「ピゼンデル氏のために」RV319(ドレスデン版)
6.マンドリン協奏曲ハ長調RV425
7.協奏曲ハ長調RV555

2016年7月30日土曜日

ハイドン:オラトリオ「四季」(2016年7月16日、川口リリアホール)

8年前に大病を患って入院する際、もしものことがあったら後悔するだろうな、と思ったことがハイドンのオラトリオ「四季」をちゃんと聞いたことがない、というものだった。死ぬ前に聞いておきたい曲、それが「四季」だったというわけだ。106曲の交響曲をすべて聞いてきて、さらにその先にある金字塔。ハイドンが晩年の精力を注入した大曲「天地創造」と「四季」は、この古典派の膨大な作品の中でも最高峰の作品であるとの評価が高い。だが私はまだ聞いたことがなかったのである。

もちろんCDがあれば、現代では簡単に作品に触れることが出来る。なので入院前のわずかな時間を割いて、私は当時売られていたカラヤンの「四季」(1972年録音、クンドラ・ヤノヴィッツ他、ベルリン・フィル)を購入しiPodにコピーした。入院中の初期に私はこの曲を何度か聞くことができたし、何かとても心のこもった演奏に思えた。この演奏はカラヤンの美学がハイドンに融合し、不思議な魅力のある演奏として今も名高い。

けれども病状が悪化するにつてれ増してゆく不安にさいなまれると、私は自然と音楽から遠ざかっていった。 健康な体を鞭打って、数多くの作曲家や演奏家は音楽を続けた・・・と伝記などではよく紹介されるけど、マーラーだってベートーヴェンだって、本当に体調が悪い時には作曲をしていない。これは考えてみれば当然のことで、中にはモーツァルトのような例外もいるが、それは生活費を稼ぐためであって、芸術がそういう状況で生まれると思っていたわけではない。

私がイヤホンで聞いた「四季」には対訳が表示されるわけもなく、ドイツ語の歌は皆目理解不能、かつその聴取は看護師の検診や同室患者の話し声などによってしばしば中断されるという最悪のコンディションの中でのことであった。私はいくつかの印象的なメロディーを除き、到底楽しめるという状況ではない中での「四季」のリスニングを、残念に、そして仕方なく思った。

退院した2009年は、丁度ハイドン没後200年の記念イヤーで、私はとうとう秋に「天地創造」をライブで聞くことができ、その感激はひとしおだったのだが、その後「四季」についてはなかなか実演に巡り合うことができないでいた。注意深くチェックしていれば、年に1回くらいは東京のどこかで演奏されているのかも知れないが、スケジュールが合わなかったりして巡り合うことが出来ないまま何年もの歳月が過ぎて行った。

今年の7月16日、たまたま家族が留守という土曜日の午後の数時間だけ、自分の時間が生まれた。久しぶりに中古CD屋巡りでもしようかと思っていた矢先、音楽情報サイト「ぶらあぼ」で検索してみたところ、14時から「四季」の演奏があることがわかった。場所は川口。私の家からなら京浜東北線で直行できる。今から行けばぎりぎり間に合うではないか。演奏はバッハ協会とかいうところのもので、そんな団体は今までは知らなかったし有名でもない。でも当日券はありそうだし、それに「四季」の実演に触れることなど一生にそう何度もあるわけではない。そう思った私は、とにかく行ってみることにしたのだ。

ホールはJR川口駅から徒歩わずか、ということだったが入り口がわからない。開演前だというのに人影も少なく、みんなどこにいるのだろうかと案内で聞くと、入り口が4階だと言われた。エレベータで上がると当日券を売っているおばちゃんが机でチケットを裁いており、そこで6000円也を払って開演前にホールへ駆け込んだ。こんなところにパイプオルガンまで備えた立派なホールがあることにまずは驚いたが、そこの登場したバッハ・アカデミーなる合唱団は、結構高齢の方も多く、それにどういうわけか女性が圧倒的に多い(だが3名しかいない男声合唱パートの素晴らしさも書き添えておきたい)。

オーケストラは最低人数。チェロやコントラバスはわずかにひとり。歌唱はドイツ語だが、丁寧に字幕までつけられる。アマチュア的なコンサートかもしれないけれど、一生懸命練習に励んでこられたのだろうということは想像できるし、知り合いばかりの聴衆も6割程度の入りとちょっとさびしいが、ヨーロッパではこんな演奏会は、それこそ小さな町や村の教会では頻繁に行われている。だからたまにはこんなコンサートもいいのでは、と思い直し席についた。

前置きが長くなったが、この演奏会ではある種の奇跡のようなものを感じた。ハイドンの没後200年以上がたって、こんな埼玉の端っこで、「四季」の原語上演がなされるという事実! しかもそこにはヨーロッパ顔負けのホールまであるのだ。大曲とはいえハイドンのオラトリオを、梅雨空の昼下がりに聞きに行くのも奇特だが、それをたまたま知った私が、何の予備知識もなくそこに居合わせるというのもまた、とても不思議な巡りあわせだ。こんなところに、真面目にハイドンを歌おうとする人々がいて、そしてそれをたまたま知って駆け付けるちょっと風変わりなハイドン・ファン、すなわち私のようなリスナーがいることも知ってほしい。

最初の曲が鳴り響いて、少しよろめきながらも、これは紛れもなくハイドンの音楽だと知ったときには、私はとても幸せな気分であった。音楽は上手い、下手といった直線的な概念で測ることはできず、演奏する側と聞く側の相互作用、それも一期一会の瞬間の連続としてのそれ以上でも以下でもない。だから面白いのだが、事実、この力不足に思えた演奏も調子を上げると力のこもったものとなり、最後の「冬」の終盤に至ってはなかなか感動的でさえあった。ソリスト、オーケストラ、それに合唱団が一体となって、四季の美しさ、それぞれの季節を迎える喜びを讃えたのだ。クライマックスのひとつでもある「秋」の終盤では、ここだけに登場するタンバリンとトライアングルを独唱者が鳴らしたのには驚いた。一体どこから聞こえるのかと思ったら、バリトンとソプラノ歌手が鳴らしているのだ。

この演奏会で大変うれしかったのは、指揮者である山田康弘氏自らの翻訳による字幕が舞台上部に付けられたことだ。そのことによって、各場面でどういうことが歌われているのかを手に取るように知ることが出来た。それはこの作品が、単に自然への賛歌、つまりは神の賛美といった型どおりの歌詞にとどまらないことを知ることが出来る格好の機会であったと言える。たとえばそれぞれのパート(春、夏、秋、冬)の中間部で、ソリストが歌う独唱の合間、合間に、歌詞と呼応するような具体的なモチーフが現れるからだ。ハイドンの音楽は古典派そのものなので、鳥の声だといっても基本的な和音の枠組みをはみ出すことはない。あくまで音楽の型を維持しながらも、そこには鳥が鳴き、虫が飛び跳ね、あるいは嵐が来ては過ぎ去るといったような、まるで標題音楽を思わせるような部分が数多く登場する。それは歌詞を追いながら聞いて行かないと、気付くことはできても楽しむことはできない。CDで「四季」を聞くときの限界は、このようなところにある。だからこの演奏会は、こだわってでも字幕をつけたのだろう。そのことが嬉しい。

私はとうとう「四季」とはどういう作品かを知ることができ、そしてこの作品、他にわが国で演奏される機会があったら、ぜひまた出かけてみたいと思った。そしてやはり音楽はライブに限るとも思った。それぞれの季節に30分近くを要する大曲を、途中休憩をはさんで2時間余り。私はあきるどころかとても幸せな気分に浸りながら過ごすことが出来た。演奏が終わって、独唱者がまだ1度しか呼ばれていないのに早々と解散するオーケストラに、もう少し拍手をして余韻に浸っていたかったのは私だけではないだろう。

これでまたハイドン体験が一歩進んだような気がしている。1年にそう何度もでかけることができない演奏会で、私はまたうまくスケジュールが合えば、再度「四季」を、そして「天地創造」を聞いてみたい。だがそれもそう簡単にはかなうことがないので、しばらくはCDを聞きなおしながら過ごそうと思う。幸いなことにこの2作品には録音がひしめいており、名演奏の類も数多い。私もいつのまにか「天地創造」を2組、それに「四季」は3組のCDを所有している。曲に関する詳細は、それらを聞いた後で書こうと思う。いつのことになるのかわからないのだが・・・。

2016年7月9日土曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K459(P:マレイ・ペライア、イギリス室内管弦楽団)

最近は良くないニュースばかり耳にする。地域紛争に多くの難民。テロや不正、貧困を苦にした自殺など、まさに世界は混迷の時代へと向かう中、それに先んじるかのように英国がEU離脱を決め、アメリカでも国民的な分裂が大統領選挙を歴史的な混乱に引き込んでいる。暗い毎日に嫌気がさし、テレビのニュースどころか新聞も読みたくない日が続く。だがわが国では、憲法改正を影の争点にしながら、経済問題は空前の先送りで誤魔化し、原子力問題はおろか、有権者からすべての関心をそらし、問題点を何ら鮮明に示さないような選挙が行われようとしている。

大きな不安を前にしながら、落ち込むこともできないような閉塞感にも慣れっこになりつつある日々の中で、たまたま耳にしたモーツァルトの、何と美しく可憐なことか。そのような表現はもう陳腐どころか、吐き気を催すと言われても、事実だから仕方がない。ある日、私はいつものような何か月かに一度、栃木県へと向かう東北本線の列車内で、今日もWalkmanから流れる音楽(それは私が意図して持ち出したものではあるのだが)を聞いている。

ピアノ協奏曲第19番は第14番から続く6曲の作品群の最後の作品であり、それぞれ味わいのある作品だが、第20番以降の、音楽史に燦然と輝くスーパーな曲に比較されると、どうしても地味な存在であると言わねばならない。とうてい他の作曲に見ることはできない、モーツァルトの孤独な心の淵をこれでもか、これでもかと表現するような晩年の作品群の中でも、特にピアノ協奏曲の分野はその真骨頂とも言えるだろう。

この第19番に関しては、第3楽章は主題が示された後いきなり始まるフーガに、その特徴を見出すことができる。一通りオーケストラによる音楽が続いた後、今度はピアノが登場して音楽に絡んでいく。相当複雑な音楽なのだろうが、そう感じさせないところがモーツァルトの凄いところだ。第1、2楽章はとても心が落ち着く音楽である。私はこの第2楽章がとても好きだ。この音楽はその後に続く20番以降のピアノ協奏曲の第2楽章に見られるような、何か底抜けのするような寂寥感に襲われることはない。20番以降では唯一そういう音楽である第26番に近い。そうしているからというわけではないのだが、メロディーがきれいなので、車窓風景を眺めながら聞く音楽に相応しい。

ところで第26番を引き合いに出した理由はもうひとつある。この第19番は「小戴冠式」と呼ばれることがあるからだ。第19番と第26番は1970年のレオポルト2世の戴冠式のために、モーツァルト自身によって演奏された。

マレイ・ペライアはアシュケナージやバレンボイムと同時期に、丸で競うようにモーツァルトのピアノ協奏曲全集を録音した。丁度アナログ録音からデジタル録音に移行する70年代から80年代の初め頃だったと思う。これらの演奏に共通するのは、弾き振りであるということだ。そしてペライア盤はその中でももっとも完成度が高く、曲による出来不出来のムラも少ないと思っていた。私はだから、この全集がボックス・セットで安売りされたとき、迷わずこれを購入した。信じられないくらい安かった。

だが今ではもう、録音から30年以上が経過した。演奏の方はまったく色あせることはなく、今でも「戴冠式」などはベストな演奏の一つだと思うが、このCDの最大の欠点はその録音にある。少し大人しく、そして硬いのである。CDが発売され始めた頃に言われた最大の欠点が、この硬さではないかと思う。もしかするとリマスターすることによって、その欠点が補われる可能性がある。だが今のところ、SONYから発売されたボックス・セット以降、再発売されたという話は聞かない。

2016年6月11日土曜日

R・シュトラウス:楽劇「エレクトラ」(The MET Live in HD 2015-2016)

ホフマンスタールが台本を務めた最初のリヒャルト・シュトラウスのオペラ「エレクトラ」は、古代ギリシャを舞台にしたソフォクレスの悲劇に基づいている。音楽は最大級の編成でありながら1幕しかなく、登場人物は多いが、ほとんど出ずっぱりの主題役エレクトラが、陰惨で壮絶な歌唱を一貫して繰り広げる。音楽はこれ以上にないほどにまで凝縮され、集中力を必要とするので、聞く方の覚悟も必要となる。いや眠気など吹っ飛んで舞台に釘付けになる、というべきか。もっそもそれは歌手とオーケストラがそろっているという条件の下でだが。

METライブシリーズも10年が経ち、その最新の演目である「エレクトラ」は、故パトリス・シェローの演出、エサ=ペッカ・サロネンの指揮により上演された。主題役エレクトラはワーグナーを歌うニーナ・ステンメ(ソプラノ)、エレクトラの母クリソテミスに何と往年の名歌手ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ)、エレクトラの妹クリソテミスにエイドリアン・ピエチョンカ(ソプラノ)、エレクトラの弟オレストにエリック・オーウェンズ(バス・バリトン)などの配役である。

トロイア戦争から帰国した王アガメムノンは、妻であるクリソテミスに殺されてしまう。入浴中に斧で頭をかち割られたというのだ。その光景を目にしていた長女エレクトラは、母親を憎んでいる。いやそれどころか彼女は母親から虐待を受けながら育つ。エレクトラは復讐に燃え、母親を殺そうと計画しているのだ。そのために弟のオレストを遠くに逃がし、彼をして母を暗殺しようというのである。

エレクトラの妹クリソテミスはそんな姉に同情しつつも、女性としての幸福を追求したい。ここでの姉妹の生き方に対する対比は興味深い。だが私は復讐に燃える姉に同情的でもある。

そんなある日、弟のオレストが死んだとの知らせが入る。音楽が大きくうねり、動揺するエレクトラを表現するあたりから話は一直線である。シュトラウスの音楽は、どんな作品でもそうだが、すべての動作や物事を饒舌に表現する。天才的で魔法のような音楽である。この作品は前作「サロメ」をさらに一歩進め、後年の「ばらの騎士」などとも異なる前衛的な作品だが、シュトラウスにしか表現できないであろう世界が全面に展開し、緊張と興奮が途切れることはない。

オレストの訃報に戸惑ったエレクトラは、いよいよ妹と共謀して母を殺そうと、父の殺人で使われた斧を探し出すが(何と恐ろしいことか!)、妹は同意しない。とうとう彼女は自ら計画を実行することを決意する。そこへオレストが現れ、彼は生きていたことが判明する。実はオレストの死は、オレスト自身が仕組んだものだったのだ。姉の決意を確証したオレストはいよいよ暗殺計画を実行し、まず母のクリソテミスを殺す。舞台裏から叫び声が聞こえ、歓喜するエレクトラ。そこへ情夫のエギストも現れ、彼もまたオレストに刺殺される。感極まるエレクトラが踊り狂いながら、1時間余りの壮絶な舞台は幕となる。

短時間ながら無駄のない音楽には、ものすごい集中力を必要とするのだろう。それは見ている側も同じである。だからこのような作品を見るには覚悟がいる。舞台はまず、ひたすら階段を掃き掃除する下女たちのシーンから始まる。階段を下段まで掃き終るまで音楽はなかなか始まらない。客席はその間に、一気に噴き出す音楽への集中力を高めていくという趣向である。

ニーナ・ステンメの気迫に満ちた舞台は、見るものを終始舞台に釘付けにしたが、それにしても高音と低音を行ったり来たりしながら大声を張り上げる歌と演技は相当なもので、彼女は秋にイゾルデを歌うそうだが、声をつぶさないかと心配になる。舞台が終わるまでの迫真の演技に、会場からどっと沸きあがるブラボーの嵐は、この公演の水準の歴史的とも言える高さを示している。METでもなかなかこれほどの熱狂的な拍手は見たことがない。そしてそれを支える歌手たちとの息の合った見事な呼吸も素晴らしいの一言につきる。

妹のクリソテミスを歌ったピエチョンカは、また一つのソプラノの大役だが、心理的な対比を表現する歌唱力は見事だと思ったし、それに暗殺を実行するオレスト役のオーウェンも、長年METで歌い続けている貫禄を感じさせながら、このピッタリな役を嬉しそうにこなしていたように思える。個人的にはまた、母クリソテミスを歌ったマイヤーがまだ、これだけの大声を張り上げるだけの力量を持ち続けていることに驚いたが、彼女はまた実に気品があって、この悪役を歌うには少々上品すぎるという贅沢な悩みもまた感じたのは事実である。

この公演の成功の理由は、サロネンの指揮するオーケストラにも求めなければならない。彼がMETの舞台にどれほど登場しているのかは知らないが、第1級のオーケストラ指揮者がピットに登場するというのは、それだけで期待が高まるし、それにこの作品を指揮するだけの体力と瞬発力のようなものを求めるには、サロネンのような指揮者こそ相応しいと感じたからだ。その期待を彼は裏切らなかったばかりか、オペラ指揮の世界でもまた彼はまた存在感を示す結果となったのではないだろうか。すべての歌手とオーケストラは圧倒的で、興奮に満ち満ちた1時間40分はあっというまに終わった。

虐待された娘による母親の暗殺は、最近のニュースでも耳にした。このような話は古代ギリシャ、すなわち人類が小説を書き残し始めた頃から存在したのである。

2016年5月29日日曜日

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」(2016年5月23日、新国立劇場)

新国立劇場の最大の欠点は、初台という「辺境の地」にあることだが、ここは幸いにも私の会社のオフィスに近く、歩いていくこともできる。今日の公演は17時からなので、16時半に職場を後にしても、開演に十分間に合うという計算になる。だが私は今回に限り、さらに1時間前にはオフィスを出て近くのコーヒー店で初夏の午後のひとときを過ごした。仕事の頭を一端冷やす必要があるからだ。システム障害の緊張した頭を、中世ドイツの跡継ぎ問題にチェンジしなくてはならないのだから。

今日の演目はワーグナーのロマンチックな歌劇「ローエングリン」である。なかなかスケジュールが決まらず、朝になってチケットを買った時点でほとんどの席は売り切れており、最も高いS席の端っこが私の居場所となった。チケット代は2万7千円とベラボーに高く、これは新国立劇場の数ある公演でも最高位である。その理由はおそらく出演陣の豪華さによるのだろうと思う。何せ世界有数のヘルデン・テノールの一人、クラウス・フロリアン・フォークトが出演するという、知る人が聞いたら何をおいても出かけたいというくらいに信じられないことなのだから。

もっともフォークトは4年前にも同じ公演に出演しているから、今回はその再演ということなる。演出はマティアス・フォン・シュテークマン。指揮者はペーター・シュナイダーから飯森泰次郎に変わっている。あまりに素晴らしい公演だったので、その再演を待ち望んだ人も多かっただろうし、それはまたフォークト自身もそうだったようだ。彼のインタビュー記事が会場に掲載されており、そこに新国立劇場での仕事の素晴らしさに触れている。初登場だった「ホフマン物語」の時から、「いい思い出しかない」というのだから嬉しいものである。

2万7千円というと新幹線で大阪往復の値段に相当する。これを安いと見るか高いと見るかは意見が分かれるが、新幹線で大阪へ出かけたところで隣に変な人が座る確率は、新国の方が低いであろうし、「タンスにゴン」の広告以外見るものもない車窓風景よりは、音楽付きワーグナー舞台の方が圧倒的に素晴らしい。いや今回の「ローエングリン」もまた新国立劇場の素晴らしい照明を生かした、美しく見ごたえのある舞台だった。

歌劇「ローエングリン」を私はほとんど知らなかった。このオペラを最後にワーグナーの作品は、一度は鑑賞したことになる。今秋のMETライヴで見る予定のサイモン・ラトルの「トリスタンとイゾルデ」と、来春の東京・春・音楽祭で上演予定の「神々の黄昏」を最後に、私のワーグナーへの旅はひと段落を迎えることになる。歌劇「ローエングリン」は避けて通れる作品ではなく、機会があれば見てみたいと思っていたところである。そこにフォークト演じるローエングリンがやってきたのである。

我が国における「ローエングリン」上演史によれば、かくも有名な作品であるにもかかわらず、そう毎年上演されているわけでもない。もっとも初演はワーグナー作品の中でもっとも早く1942年だそうである(新国立劇場の上演ブックレットによる)。だが戦後散発的に上演される以外は、欧米のオペラハウスの引っ越し公演が中心で、これらはチケット代が法外に高く、とても庶民の手の出せる代物ではない。日本人による原語上演となると1979年ということになるようで、この時私はもうクラシック音楽に目覚めていた頃だから、学生がワーグナーの音楽を聞いて詳しく語れる世代(というのがあるのかわからないが)というのはもっと後ということになる。それでも新国立劇場ができた1997年以降だけでも1997年。2012年だけのわずかに2回。今回は2012年の上演の再演である。

白鳥の騎士が女性を救う。これが「ローエングリン」のストーリーである。それだけしか知らなかった私は第1幕を見て、最後に天井からつるされた白鳥?(巨大な蝶々にしか見えなかった)がゆっくり下りてきたとき、もう物語は終わりかと思ったのだった。めでたし、めでたし。アンドレアス・バウアー(バス)のハインリヒ国王も、マヌエラ・ウール(ソプラノ)が演じたエルザも、ユルゲン・リン(バリトン)が歌ったフリードリヒ・フォン・テルムラント伯爵もみな好演。そしてクラウス・フロリアン・フォークト(テノール)のローエングリンの声は、一層明瞭で気高く、若々しい艶のある声を会場に轟かせた。ああ、よかったねえ、と大きな拍手を起こった(もっともそれはすぐに鳴り止んだ)。

今日は再上演の初日であり、月曜日の夕方という中途半端な時間帯にもかかわらず大勢のお客さんがロビーに出て、ワイングラス片手に写真やポスターに見入っている。序奏で飯森泰次郎のタクトが振り下ろされると、東京フィルハーモニー交響楽団が静かに崇高な旋律を響かせ始めた。オーケストラの音色が歌手ととてもよく溶け合う。S席といういい席で聞いていると、それが特に素晴らしく、職人的な音楽の構成力が手に取るようにわかるのだ。現代人はラジオやCDで、技術的に非の打ちどころなく録音された音を聞いているが、かつて教会に行かなければ絵画作品に出合えなかったように、オペラハウスでしかこの音の融合の瞬間は聞くことができなかったであろう。ワーグナーが求めた100年以上前の音色が今目の前に再現されている。そう感じると目を閉じて聞き入るすべての音符が、とても神秘的で奇蹟のようにさえ感じられるのだった。

第2幕になるとワーグナー作品にみられる崇高なものと人間的なものとの対比が露わになる。つまり夫婦喧嘩が始まるのだ。ここで初めて歌を歌うテルムラント伯爵夫人、オルトルート(メゾソプラノ)が夫を奮い立たせ、再度エルザを落とし込めようと入れ知恵をするのである。手元のオペラグラスで見ると、どこかで見たような女性である。オルトルートを歌ったのはペトラ・ラングだが、彼女はすでに第1幕にも登場し、歌を歌わず群衆の中にいたのである。ゲルマン民族の血を引く異教徒のオルトルートは悪の象徴だが、よく考えてみるとこの作品は、オルトルートとローエングリンという二人の謎の人物の戦いである。そのモチーフには「ニーベルングの指環」と「パルジファル」の物語につながる要素が続出する。

「愛」には二つの側面がある。主として所有することによって得られるものと、それを超えたところに存在する「真の愛」。人間はおろかな存在で、前者を超えることができない。「ニーベルングの指環」は指環という世界征服が可能となる権力の象徴を奪い合う壮大な神々の物語だが、それを救うのは人間ブリュンヒルデの崇高な愛である。彼女はジークフリートを失うことによって、真の愛は物欲を超えたところに存在すると気付くのではないか。とすればこの「ローエングリン」もまた、身分を確かめずにはいられないエルザが、その正体(モンサルヴァート城で聖杯を見守る信徒)を知ったとたんに、彼の愛を失うのだ。彼女はブラバント公国の後継候補だから、国を救うためにはどうしても不可思議な存在を確かめる必要があった。

ワーグナーが終生モチーフとした真実の愛への道は、この「ローエングリン」でも見て取れるのは明らかである。であるとするとこのオペラは単に白鳥の騎士が乙女を救うという表面的な理解では済まされない。そしてそうであるように、第2幕の後半以降の心情的な葛藤やそこに展開される様々な音楽が、凄みをもって迫ってくることに気付く。新国立劇場の合唱団はここでも大変素晴らしかったが、かれらは一般民衆の移り気で依存的な体質(ポピュリズム)を表現している。

すべての歌手は最初、少し緊張も見られたが、みな尻上がりに調子を上げて行った。今思い出しても興奮するのは、どの歌手も甲乙が付けがたいほどに素晴らしかったことだ。音楽に負けることなく歌声は響き、オーケストラと見事にブレンドした。どちらかというとスリムな飯森の音楽も、シンプルな舞台によくマッチしていたと思う。舞台後方に設えられた壮大な格子状の壁には、200メートルにも及ぶ数のLEDが埋め込まれ、それが数々の色に変化する様は壮大である。視覚的にもこれほど素晴らしい劇に出会えることは珍しい。婚礼の時に一瞬ひざまずくエルザのシーンは、シュテークマンの演出の見どころだろう。そしてフォークト!彼の歌声の素晴らしさは、まさに奇蹟的にさえ聞こえたのだった。

第3幕はすべての登場人物が歌を披露する場面の連続だが、やはり何といってもここはローエングリンに尽きる。そしてフォークトの一等群を抜く歌唱によって、われわれすべての聴衆は圧倒されたと言ってよい。白鳥に化けていた黙役のゴットフリート(エルザの弟)が舞台の底から登場した時、背筋がぞくぞくするような感動に見舞われた。そして幕がおりると沸き起こるブラボーの嵐。私はこれほど熱狂的な拍手を知らない。全員が総立ちとなって何度もカーテンコールに答える歌手に混じって、演出のシュテークマン氏も登場し、成功を祝う姿に私は胸がこみ上げてくるほどの感動をこらえることができなかった。

17時に始まった公演が終わった時にはは、22時を過ぎていた。丁度5時間だったから、これもまた「のぞみ」での大阪往復に相当する時間が経過したことになる。

2016年5月28日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「ロベルト・デヴェリュー」(The MET Live in HD 2015-2016)

METライブシリーズも今年で10周年だそうだが、このシリーズの最大の良さは、それまでに触れたことのない作品に気軽に触れられることである。その中でもシリーズ最大と言ってもいいほど私にとって意味深かったのは、ドニゼッティの「チューダー朝女王三部作」と言われる作品を、圧倒的な感銘を持って味わうことができたことである。すなわち「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」そして今回見た「ロベルト・デヴェリュー」である。

おさらいをしておこう。比較的有名な「アンナ・ボレーナ」でもMET初演となったライブ映像を見たのは2011年だった。この時ヘンリー八世の王妃アンナを演じたのはアンナ・ネトレプコ。私はこの作品でドニゼッティの魅力を思い知ったと言ってよい。「連隊の娘」のように阿呆らしい荒唐無稽さはなく、「愛の妙薬」のようなほのぼぼとした明るさとも無縁である。

次の「マリア・ストゥアルア」はスコットランドが舞台の作品である。メアリー・ストゥアートを演じたのは、アメリカ人のソプラノ歌手ジョイス・ディドナートであった。2013年の公演はまたもや初演。女性同士の対決は手に汗握る迫力で、私はまたもや圧倒されたと言ってよい。これらの感想は、それぞれブログに書いた。「歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない」などと書いており、興奮したことを思い出す。3つとも演出はデイヴィッド・マクヴィカー。舞台装置は斬新というわけではなく、かといって保守的でもない。全体に暗いのはイギリスを舞台とした悲劇だから。ただ歌手の演技を引き出すことにかけては彼は天才的ではないか。指揮はメトのベルカント・オペラの第一人者、マウリッツィオ・ベニーニ。

今回の作品「ロベルト・デヴェリュー」の主役であるエリザベッタを演じたのは、シカゴ出身のソプラノ歌手、ソンドラ・ラドヴァノフスキーであった(このオペラの表題役はロベルトだが、彼女の存在感をなくしてこのオペラは語れない)。彼女は齢69歳にもなるエリザベス一世の役を、蒼白の顔面、こわばった表情、そして足元がふらつくという演技を続けながら、90%以上が怒っている状態の難役を見事に歌った。その様は「すごい」の一言につきる。ベルカントの歌声は高音と低音をいったりきたり。こんなに歌っていると声をつぶすのではないかと心配になる。

史実に基づくあらすじは至って簡単である。エリザベッタは自分を裏切った恋人(ロベルト)を死刑にしてしまうというものだ。 高齢であることもあり最後の心のよりどころであるロベルトを失うことに、彼女の心は揺れ動く。だが私はこのストーリーが早くも第1幕で展開されるとは知らなかった。

一体他に何を歌うのかしらん、などと思っていたが、ストーリーはベルカント時代の様式のように、ひとつひとつの心情が次から次へと美しい歌となって続く。これは見た人にしかわからない興奮だろう。ともすれば退屈極まりない作品も、音楽、特に歌手が素晴らしいと実に見ごたえのあるものとなる。今回もそのいい例だと思う。

エリザベッタの恋人で、彼女を裏切って親友ノッティンガム公爵の妻サラを愛してしまうのがロベルトである。この役はアメリカのテノール歌手マシュー・ポレンザーニによって歌われた。彼の歌声は甘くて柔らかく、素朴な風貌が例えば「椿姫」のアルフレードなど好適であろうと思わせる。彼の出番は数多いが、最高に素晴らしかったのは第3幕の長いアリアである。絞首刑になる直前、何をどう歌ったかは忘れたが(こういうところがベルカント・オペラである。歌に聞きほれているうちにストーリーなどどこかへ行ってしまうのだ!)、その歌声は頂点に達し、メトのすべての観客を心底魅了した。私はエリザベッタを歌ったラドヴァノフスキーよりも総合的な安定度において上回っていたと思う。

エリザベッタの恋敵で、ロベルトが恋に落ちるサラは、友人ノッティンガム公爵の妻である。サラはまたエリザベッタがただひとり心を許すことのできるだけの信頼を寄せている人物であるところが話を複雑にしている。だがそのことは最初ノッティンガム公爵は知らず、親友を死刑から救い出そうとする。恩赦を懇願されるエリザベッタもまた、サラこそが恋敵であったことを知るのは幕切れになってからである。ここでサラの役はメゾソプラノで、何と贅沢なことにエリーナ・ガランチャが歌い、その夫、ノッティンガム公爵は、これまた大バリトン歌手のマウリシュ・クヴィエチェンである。このようなところがメトらしく、何と4人が4人とも素晴らしい。主役二人はアメリカ人で固め、脇役を東欧の実力派が担うのだ。

ここでの登場人物は、すべて大切なものを失う。エリザベッタは最後の生きる望みを、ロベルトは自らの命を、ノッティンガム公爵は妻と親友を、サラは恋人と夫を、といった具合である。救いようもないストーリーは後の世代の作曲家ならもっと違う作風にしたであろう。イギリスを舞台にしているとはいえ、このオペラはイタリア・オペラらしく感情の動きが活発であり、それに合わせた音楽もドラマティックである。そしてそれはヴェルディの初期作品を彷彿とさせる。ヴェルディがここから学び発展させたドラマとの融合は、ドニゼッティのオペラ・セリアにその出発点を見出すことが出来る。

この時期の音楽は、たとえ各役柄の間に感情的、あるいは立場の違いがあっても、音楽は見事に調和している。まだ不協和音というものが目立つことはない。つまり殺人をほのめかすような罵り合いも、和音となって重唱となる。ドラマはまだ神の維持する世界の中に納まっている。だからエリザベッタは最終幕でロベルトを愛していることを告白し、彼を赦そうとさえする。高齢の自らの立場を嘆きつつも。この少し創作めいた、やや滑稽な心情の告白は、興業としてのオペラを意識させる。だからこそヴィッカーはこの上演を劇中劇という形でやや客観視しているように思える。

そのあまりに悲惨なストーリーがたとえ事実だとしても、これは演技と歌を楽しむ作品である。その限りにおいて、今回もMET初演となった「女王三部作」の最後、 「ロベルト・デヴェリュー」は、それが完全な形で上演されることによって、それまでに(おそらく)知られていたであろう魅力の何十倍もの可能性を示す結果となった。この素晴らしい経験が、METライブという気軽なもので味わうことの嬉しさを感じずにはいられない。今年のシリーズ中、いやこれまでのMETライブの中でも傑出した上演であったと信じて疑わない。3つの作品を再度見てみたいと思う。それはリバイバル上映で可能だろう。だが舞台でこのレベルの感動を味わうことは・・・経済的、空間的あるいは時間的制約に、字幕といった言語的障壁を考えると一生ないだろうと思う。

2016年5月14日土曜日

プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」(The MET Live in HD 2015-2016)

我が国を舞台にしたストーリーではあるものの、西洋人のステレオタイプな偏見に満ちているという点で、日本人として違和感を感じるために、このオペラが好きでないという人があるが、私はまったくその逆である。むしろ親近感を覚えるし、美しくも悲しい物語に心を打たれる。もしかしたらこれはプッチーニの最高傑作ではないかと思うほどだ。音楽の白眉は第2幕の間奏曲のシーンである。ただ待つだけのシーンは動きもなく歌もない。なのにどうしてこんなに美しいのだろう。音楽に耳を傾けているだけで、ゆっくりと時間が経過してゆくその様に涙さえ浮かぶほどだ。見ると蝶々さんを歌っているクリスティーヌ・オポライスも泣いている。こみ上げる感動に、幕が下りているというのに感極まるばかり。インタビューが始まると彼女は告白する。「早く泣き始めないように我慢していた」と。

蝶々夫人の舞台には、当然のことながら日本の家屋が登場する。長崎の港を見下ろす幕末の家には、障子、畳、あるいは日本式のお庭がセットさせるのが普通だ。だがこのオペラは心理の移り変わりを描いたオペラだ。下手な大道具が登場すると興ざめである。むしろ舞台はシンプルな方がいい。そしてカレル・マーク・シションの演出は、障子が左右にスライドする以外は至ってシンプルである。代わりに文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の要素がちりばめられている。黒子がまるで本当の子供であるかように3人がかりで人形を操るかと思えば、空を舞う鳥の群れが舞いながら飛び去る。その美しいこと!

この上演の素晴らしさは、定評あるロベルト・アラーニャやプッチーニ歌いとしての名声を確立したオポライスにあることは第一に評されるべきだろうが、まあそれは当然と言えば当然である。意外性に満ちたこのオペラの新鮮な発見は、やはりその演出にあると言えるだろう。和音階を随所に取り入れたプッチーニの音楽を十全に表現したアンソニー・ミンゲラの指揮の素晴らしさを讃えることを忘れるくらいに、演出の素晴らしさが際立つのだ。

最近METライヴもマンネリ化し、どうも感動する作品が少ないと感じ始めていた。正直なところこの上演を見る気力が失せていたのだ。歌手はいいし一定の水準であろうことは想像できる。ビデオ上映する以上、まるで失敗ということもないと思う。いつも案内役が言うように「実演で見るのに勝るものはありません。是非METか、もしくはお近くの歌劇場でお越しください」というのは事実である。もしかしたら大きな損失を被ることを覚悟してもなおチケットを買い求め、ハラハラしながらも歌を聞くときの期待と緊張感、そしてそれが良かった場合の感動は何物にも代えがたい。

でも今回のシション演出の「蝶々夫人」は、そんなあまりに当たり前のことを忘れさせてしまうほどに感動的であり、感情の移入に自分でも驚くほどである。精緻な演出は一挙種一挙動にまで及んでおり、洗練されているだけでなく細部に磨きがかかっている。もしかしたらビデオで見ることで、細かい動きにまで気付くのかも知れない。浄瑠璃で表現される3歳の男の子の仕草などは、その代表だろう。

第2幕で3年間を待ちわびた蝶々さんは今日も長崎の港を見下ろしながら暮らしている。そこでアメリカの戦艦が現れると、彼女はそこに夫であるピンカートンがいると信じ込むのだ。彼女はなんと結婚衣装に着替え、期待に胸を膨らませながら時間が過ぎるのを待つ。ここで彼女はあくまで待つのだ。女中のスズキ(マリア・ジフチャク、彼女は本当にいそうな旅館の女将のようないでたちである)と少年と3人で居間に正座する。暮れ行く長崎の空は赤みを増してゆくその中に、滔々と流れるきれいなメロディー。ただ待つというシーンを、こんなにも美しいオペラにしたプッチーニは天才的だと思った。

テレビも電話もない時代。港に現れた戦艦に夫がいるかどうかすら確かめようがない。彼女はじっと待ち、そして時間だけがゆっくりと過ぎ去る。まるで昔の松竹映画を見ているように、動きが少ない中にも落ち着いた時間である。彼女はそわそわと感情的になることはしない。そういったところにプッチーニは日本人の慎ましさを表現したのだろうか。だとするとそういう部分は何とも誇らしく、嬉しい。おそらく蝶々さんは、少し前に領事のシャープレス(ドゥウェイン・クロフト)が言いかけたように、夫に捨てられることを悟っていたのかも知れない。だがたった一人残された子供までを引き渡すよう言われることまでも想像していなかったと思う。

まだ十代で異国の妻となった元芸者の蝶々さんは、もはや元の生活に戻ることなど考えられない。すべてを失い、希望も消え失せた彼女に残されたのは、短剣で自らの命を絶つことだけだった。そのシーンを見られまいと子供に目隠しをし、遊ぶようにと促すそのシーンに至って、感興は一気に頂点に達する。流れた血の色が彼女の来ていた着物の帯の色であることを思い出すのはこの時である。劇的な音楽は一気に幕切れに向かう。音楽が鳴り止むのを待ち切れず盛大な拍手が沸き起こってもなお、私は物語の中に身を置いていた。この上演はもう一度見てみたいと思った。10年にも及ぶMETライヴの中で、感動的なものは数えきれないくらいあったが、もう一度見たいと思った作品は少ない。だが間違いなくこの上演は、私のオペラ経験の中でも特異なほどにランクインするものとなったのだった。

2016年4月12日火曜日

ワーグナー:楽劇「ジークフリート」(2016年4月7日、東京文化会館)

今やワーグナーは世界中で上演されている。ワーグナーを歌うことができる歌手たちは、世界中のオペラ・ハウスを飛び回り競演を重ねているのだろう。その歌手の一部が、春になると東京に集まる。ここ3年に亘って上演されてきた「東京・春・音楽祭」の楽劇「ニーベルングの指環」もいよいよ「ジークフリート」の番となった。思えば3年前、いったいどんなものかと何も考えず出かけた「ラインの黄金」が思いのほか良く、昨年の「ワルキューレ」では、おそらく本場でもそうそう出会うことのできないほどの名演奏に度肝を抜かれた。だから今年の「ジークフリート」では、その3日前から興奮してどうしようもないような状態に。私はこの演目を実演で見るのは初めてだし、それにワーグナーばかりを聞いて生活する、いわゆるワグネリアンとも違うのだが。

雨のふりしきる上野は、満開の桜が散り始めている。それでも東京文化会館の前には平日にもかかわらず大勢の人出である。開園の1時間も前から、私は席に座り、開演を待った。今回は1階席の右奥(B席)である。これだけの歌手を揃えながら1万円強という値段設定は良心的である。もっとも演奏会形式である上に、地元のオーケストラ(NHK交響楽団)ということもあるだろう。でもN響は今や世界でもトップランクに引けを取らない上手さを誇るし、演奏会形式であることのメリット、すなわち歌手は歌うことに集中し、オーケストラは舞台の上から直接演奏することで、音楽的には有利な条件が揃うということもある。

開演の15時になるとオーケストラのメンバーが三々五々席に着き始めたが、どういうわけか1階席には空席も目立つ。平日とは言え間違いなく満席を覚悟していた私は、少し拍子抜けした感じであったが、座席には飯森泰次郎氏の姿も見える。今回もこれまで同様、ゲスト・コンサート・マスターのライナー・キュッヘル氏に合わせチューニングが始まった。ここから私は最大級の驚きをもって、この日の公演の素晴らしさについて語ろうと思う。もしかしたらそう思わない向きがいるかも知れないが、私がこの公演を、本場でも触れることの難しいくらいのレベルであると確信しているのは事実である。

まずミーメ。狡猾で小心者の鍛冶屋の役を、テノールのゲルハルト・シーゲルが歌う。特にどのシーンが、という形では思い出せないのだが、彼は今回の主演者の中ではもっとも存在感が際立っていた。透き通るようで、それでいてどことなく裏がありそうな声質。それが5階席まであるホールの全体を満たし、存在感が抜群であった。第1幕はほとんど彼と、そしてすぐに登場した若きジークフリートだけのためのようなものである。

ジークフリートがつまらなければ、この作品は失敗に終わるだろう。ほぼずっと出ずっぱりで、何をおいてもこの作品は、ジークフリートの成長物語なのだから。そのジークフリート役は当初、「ワルキューレ」で昨年ジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスだと発表されていた。ところがいつのまにかこの役は、テノールのアンドレアス・シャーガーに交代されていた。この歌手の魅力は、まず何と言ってもその若々しさにあると思う。演奏会形式であるとはいえ、まるで役を演じるかのように走って登場する。役と歌が彼の中で一体となっているからであろう。第1幕のノートゥンクを鍛えていくシーンでは、息を飲むほどの迫力で会場を圧倒した。

それにしても若い声というのは魅力的なものである。しかも強い。このシャーガーの歌うジークフリートは、バレンボイムによって見出されたとプロフィールには書かれているが、むべなるかなである。私たちは往年の名演奏でヴィントガッセンやコロといった伝説的ヘルデン・テノールの声を知っているが、若きパワーのあふれる声というのを初めて感じた次第。ジークフリートの声は、普通のテノールではなく、やはり特長があるのだろう。ティーレマンの演奏などは(誰が歌ったかは忘れたが)、さすらい人やミーメと区別がつきにくくあまり感心しなかった。

ジークフリートは第2幕においても、大蛇となったファーフナーを倒してリングを手に入れ、小鳥に導かれてブリュンヒルデの眠る洞窟にやってくる。ブリュンヒルデとの熱き二重唱が第3幕の。そして全体の最大の見せどころである。そのブリュンヒルデ役は、昨年のキャサリン・フォスターからスウェーデン系アメリカ人のソプラノ、エリカ・ズンネガルトに変わった。この二人の声は対照的である。ズンネガルトは細く、しなやかでりながら芯はしっかりしている。この男声主流の作品にあって、主役級の女性はブリュンヒルデだけである。けれども彼女の歌声はヤノフスキの流れるように都会的な音楽によく合っていた。ブリュンヒルデはジークフリートが洞穴に到着した時には、すでに舞台に登場している。だがなかなか歌いだすことができない。もう男声に聞き飽きていたと感じてくるそのタイミングで彼女の声は、会場に高らかとこだましなければならない。何という難しい役だろうかと思う。ジークフリートと声をそろえて歌う愛の二重唱は、オペラ作品としての性格をこの作品が持っていることをよくわからせてくれる。

終結の場面でブリュンヒルデはおもむろに、ジークフリート牧歌で知られるメロディーを朗々と歌う。「恐れ」を知ったジークフリートと結ばれるこの最後のシーンまで来たら、大きな拍手をするほかはない。 ワーグナーは第1・2幕と第3幕と間に「指環」の製作を12年にも亘って中断する。音楽的な充実は第3幕で明らかである。

登場するどの歌手もみな、悪いところがない。それどころか声の魅力というものを堪能する。このほかの役は、本作品では出番こそ少ないが、第1級の歌手によって歌われている。すなわちさすらい人のエギルス・シリンス(彼は「ラインの黄金」からずっとヴォータンを演じてきた)、アルベリヒのトマス・コニエチュニー、ファーフナーのシム・インスン(共に「ラインの黄金」と同じ)、エルダのヴィーブケ・レームクール(初登場)である。この中ではシリンスが比較においてやや弱く感じられるものの、エルダのレームクールはまた存在感が抜群であった。また唯一?の脇役、小鳥の声は日本人ソプラノ、 清水理恵によって5階席から歌われた。

さて今回の「ジークフリート」は、昨年の「ワルキューレ」を上回る感動だったと言わなければならないが、その理由は上記のジークフリートを柱とする圧倒的な歌手陣を支えるマレク・ヤノフスキとNHK交響楽団にも求めなければならない。私がこの公演で涙がでるほど感動したシーンは、2か所ある。ひとつは「森のささやき」(第2幕)。ゲスト・コンサートマスターのライナー・キュッヘル氏が見事なソロによって、丸で小鳥が宙を舞うかの如く木管楽器に溶け合った。本当にN響はうまいと思った。

もう一か所はホルンのソロである。独奏を受け持った奏者は、単身舞台袖に登場し、ソロ・パートだけを弾く。これが失敗したら一貫の終わりである。ホール全体が固唾をのんで聞き入る中、このホルンは完璧であった。

ヤノフスキのさっぱりとして無駄のない音楽づくりには、好感を持っている。そりゃ一生に何度あるかわからないジークフリートを観る機会に、一度は恐るべきロマンチックな演奏で聞いてみたいと思わないわけではない。だがそれが名演となるか、また全体を統制され引き締まった作品として楽しめるかは別問題である。私は新バイロイト様式から続くスッキリ系ワーグナーは、ブーレーズやシュタインなどを経てヤノフスキにたどり着くのではとさえ感じている(彼は70年代から往年の東欧系歌手を率いた「リング」を完成させている。だが今年と来年、いよいよバイロイト音楽祭に登場することが決まっているのだから、このような表現もまた許されよう)。

オーケストラが舞台に上がることにって音量が増し、歌手の声を圧倒してしまわないよう細心の注意を払ってコントロールされていたと思う。そのことによってN響からは室内楽的な精緻さが引き出されたし、歌手の声はさえぎられることなくホールに轟いた。だがそれは何度も言うように、技術的な技量が、オーケストラにも歌手にも備わっていることの証明でもあった。舞台を損ねないように注意を払ったもう一つの演出は、舞台上部に掲げられたアニメーションである。まあこれはこれでひとつの表現だろうし、何もないよりは絶対にいい。だが毎年言うように舞台を転回するシーンでは、もう少し饒舌な演出もあり得るのではないか、どうせやるなら、と思う。

満場の拍手は20分以上は続いたと思う。何度も舞台に登場した歌手やオーケストラは、満足した様子に見えた。5時間以上続いた公演がこのようにして終わった。東京でこんな素晴らしいワーグナーが聞けるのは、人生における喜びである。だから私は来年も、会社を休んでも出かけようと思っている。いよいよ「神々の黄昏」なのだから。

2016年4月3日日曜日

プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」(The MET Live in HD 2015-2016)

力強い前奏曲に次いで大勢の人物が舞台に登場し、「マノン・レスコー」の幕が開いた。ここの音楽はどこかフランス風?と言いたくなるようなものを感じたが、それもそのはずでここはフランスの街アミアンの広場。けれどもその音楽は、やはりどこか違う。プッチーニの出世作と知ったのは、このオペラを初めて聞いた時である。「ボエーム」の第2幕、カフェのシーンを思わせるような群衆のシーンと、そこに流れる複雑な楽器の重なり。やはり次作「ボエーム」へと受け継がれていくプッチーニの作風が、ここで確立されたとみるべきなのだろうか。

妖女マノンと言えば、まずはマスネの「マノン」である。この作品はフランス・オペラの代表的なもので、私も一度見ているが、ここで描かれるマノンは、貧乏生活を送る田舎の純朴な女性が、その美貌ゆえにか金持ちのパトロンを得てパリの社交界に登りつめるも、これまた純情な青年デ・グリューを修道院にまで追いかけて駆け落ちし、流刑となってしまうという悲劇のヒロインである。マノンの魔性とそれに翻弄され転落してゆく男の人生。だがマノンにはさほど悪気もなく、それはそれで痛ましい。ここでのマノンは、奔放で魅惑的な女性として描かれている。

プッチーニはこの作品を、自分流に仕上げることに苦心した。同じ原作のオペラを作るというのだから比較の対象になるのは最初から分かっていただろうし、その相手がマスネの作品となると、これはもうプッチーニの野心というしかない。まだ30代前半の若き作曲家は、しなしながらこの作品で成功を掴み、ヴェルディの後を継ぐイタリア・オペラ界の音楽史に残る後継者となった。しかもこの作品にはすでに、ミュージカルへの橋渡しともいうべき要素をすでに備えていると、歌手はインタビューに答えている。

プッチーニの描くマノン像は、より内面的でシリアスである。そのことで女性の一生の物語として、現代人にもわかりやすい要素を備えている。ストーリーは非凡でもテーマは現実的であるということだ。これはヴェルディの「椿姫」にも通じる要素がある。しかもパリの社交界と純朴な青年の転落、ヒロインの死といった共通点も多い。第4幕で流刑地ルイジアナへと向かう船に乗り込む囚人たちの中に、ヴィオレッタという娼婦がいるのは面白い。

第3幕の前奏曲を頂点にプッチーニ書いた音楽は斬新で迫力に満ち、そしてあのルバートを多用した綺麗なメロディーと抒情的な歌が全編を覆う。迫真の演技と見事な歌によってメトの広い空間を圧倒したのは、美人のソプラノ歌手で、丸でマリリン・モンローのような衣装をまとったクリスティーヌ・オポライス(マノン)、ヨナス・カウフマンの代役を急きょ引き受けた世界一のテノール、ロベルト・アラーニャ(デ・グリュー)である。この二人の歌うプッチーニは、おそらく最高の素晴らしさだたと思う。特にアラーニャはさすがと言うべきか、第2幕の途中でマノンの住むジェロントの館に忍び込んで現れるシーンで、舞台の様子が一変する。その存在感!それまでの平凡な舞台(はマドリガルだの踊りだのと、少しフランス・オペラを意識したかのようなシーン)は、台本の平凡さが飽き飽きしたマノンの生活という筋書きにマッチしていたが、ここを境にしてマノンの心理とともに大転換を起こす。

第3幕での聞かせどころはデ・グリューが、マノンとの同行を泣いて船長に懇願するシーンだが、このようなものはマスネのマノンにはない(代わりに修道院に忍び込むマノンのシーンなどがある)。また第4幕の荒れ果てた野原は、この演出では廃墟の中となる。熱病に侵され自らの死を悟ったマノンは、かつての面影もなく人生を振り返って「死にたくない」と嘆く(「一人寂しく捨てられて」)。舞台を二人だけで30分近くも演じるプレッシャーは相当なものだと思うが、この少し受け狙いの要素も濃いシーンで、プッチーニの音楽がこれでもかと続く。

本公演を成功に導いた立役者はもう一人、指揮者のファビオ・ルイージである。引き締まった音楽と流され過ぎないリズムは集中力を絶やさない。彼はルバートの仕組みについて、より感情に対して自由な表現だと答えている。だが単に流されるのではだめで、そこに出演者間の相互作用と呼吸が必要だと言うのはとても興味深い。

一方、リチャード・エアの演出はどうだったか。舞台はナチス占領下のフランスに移されている。その狙いを聞かれ彼は、もっともらしい理由をインタビューで述べているがあまりよくわからない。もともとの台本が持っているシーンの繋がりの悪さのせいなのか、それとも演出のせいなのかはわからないが、どことなく中途半端な感を否めない。大胆な音楽を十分に表現する指揮と歌がこの公演を素晴らしい「マノン・レスコー」にしているのは確かである。その他の配役は、バスのブンドリー・シェラット(銀行家ジェロント)、バリトンのマッシモ・カヴァレッティ(マノンの兄で警察官のレコー)。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...