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2020年3月8日日曜日

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(2020年3月7, 8日びわ湖ホール、オンライン配信)

新型コロナウィルスの流行がいよいよ世界的なパンデミックの様相を呈しつつある中で、数多くのイベントが中止や延期を余儀なくされている。クラシック音楽の公演も例外ではなく、3月に予定されていたびわ湖ホールにおける楽劇「神々の黄昏」も影響を受けることになった。4年前から順に「ニーベルングの指環」を上演してきた同ホールでは、いよいよその最終公演となる今回のチケットも早々に完売、世界から集まった歌手や地元の合唱団も加わって練習に余念はなかったことだろう。

ところがこの騒動である。 政府の場当たり的な中止要請のあおりをくらい、ホールの公演は中止される方向となった。しかし総工費1億6000万円をかけた本公演は、すでにリハーサルも終えており、中止するにはあまりに忍びない。毎日新聞によれば、館長は滋賀県庁にもかけあったそうだ。その結果実現したのは、無観客で上演するというもの。そして舞台の模様はビデオに録画して編集し、字幕付きDVDで発売することになった。ここまでなら、わかる話だろう。だが、それに加えて本公演は何とYouTubeでライブ配信することにしたというのである。

私は大阪の生まれだから、関西で行われるオペラ公演、しかも空前の規模を誇る「指環」となると東京からでかけてでも見たいという思いはあった。一時期住んでいた三鷹出身の沼尻竜典が指揮をする。彼は私と同い年でもあるので、日ごろから活躍を期待している。数年前、横浜で上演された彼の「ワルキューレ」を見たことがある。がなかなか良かった。しかし2万円以上する席を購入し、かつ期日を合わせて大津にまででかける予定を立てることは、あまりに敷居が高かったのも事実である。それが無料で同時に見られるというのだから、見逃す手はない。

連日の「自宅隔離」状態である上に、この週末は天気が悪く寒い。こんな時は自宅でワーグナーに浸るにはもってこいである。さっそくChromecastでPCを自宅のテレビに接続し、さらに音声のみアンプで増幅してスピーカーに接続、13時の開始を待った。すると何とすでに3000人以上が待機しているではないか。びわ湖ホールの客席数は1800だから、すでにそれを上回る人数が配信を待ち構えている。その数は次第に増え、幕が上がる頃には1万人を突破、これは「ジークフリーのラインへの旅」を過ぎても減らず、とうとう6時間にも及ぶ巻き切れまで続いた。

私はクラシック音楽を愛する一人の人間として、このような試みは大歓迎だし、不運にも中止となりかけた本公演のストリーミング配信の様子を書き記すことによって、ほんのわずかでもその試みへの賛意を示すことができればと考え、ここに感想文を残すことにした次第である。

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公演は2日連続行われ、1日目と2日目ですべてのキャストが入れ替わる。指揮は沼尻竜典指揮京都市交響楽団。演出はミヒャエル・ハンペ。キャストを書き記す代わりに、公演のチラシをコピーして貼らせていただいた。なお、今回のビデオは発売される予定のDVDとは別のテイクとされ、字幕もない。カメラは舞台を固定して映すだけで、歌手の細かい表情を見ることはできなかった。だが、ワーグナーの楽劇にそれ以上の演出は不要だろう。なぜなら最上級の音楽がそこに存在するからだ。歌と音楽、それに舞台全体を見渡す視点さえあれば、ワーグナーの舞台は十分楽しめる。

13時になると映像配信が始まった。えんじ色の幕が全体に映し出され、舞台下に指揮者が登場。こちらに向いて会釈する。やがてタクトが振り下ろされると、オーケストラの第1音がなった。変ホ長調の和音。舞台には満点の星空が映し出される。幕が上がるとそこは炎に燃える岩山。3人のノルンが登場して一気に「指環」の世界に入ってゆく。この時の感慨は、前3作を見てこなかった時でも深いものがある。いまからワーグナーを聞くのだという期待は、3重唱によって30分かけて次第に高まり、やがて感動的なジークフリートとブリュンヒルデの出会い。そして別れ。愛の二重唱はもはやこれが最後。そしてジークフリートは、指環をブリュンヒルデに託しライン川へと旅立ってゆく。

最初の舞台転回のシーン。ライン川が現れ、そこに船で漕ぎ出す映像が舞台いっぱいに広がる。やがてギービヒの館が現れる。窓の外はライン川と山々。この風景が次第に暮れ、夜となる。アルベリヒを父とするハーゲンの、指環略奪の策略が話し合われるシーンは、不吉にして重い。再び舞台は転回。タイムリーに登場したジークフリートは忘れ薬を飲まされてしまう。ブリュンヒルデの愛を忘れたジークフリートは、グートルーネに一目惚れ。グンターのためにブリュンヒルデを誘拐する謀略に乗せられる。このようにして指環を奪おうとするのだ。

舞台はまたもや転回し、草木も眠る丑三つ時。満月があたりを照らす中、再び岩山へ。ここに登場するのはブリュンヒルデと妹のヴァルトライデである。丁々発止のやり取りにも耳を貸さないブリュンヒルデ。指環は渡されない。そこにグンターに扮したジークフリート。指環は彼によって、ブリュンヒルデから奪われる。

休憩は30分。静かにカメラは休憩時間の表示を映すだけで、簡素にして無音。この感じがとてもいい。ワーグナーの劇に、他の要素はまったく必要がないことを制作者はわかっている。

再び幕が開き、第2幕が始まった。ギービヒの館の前で、舞台はオペラティックに展開する。「指環」の中では少し浮いているが、これはちょっとしたアクセントになっているといつも思う。長大な2つの幕に挟まれて、物語は一気に進行する。男声合唱も混じりホイホー、ホイホー、ホホー。二組の結婚式。ジークフリートの急所は背中だとわかると、今や復讐を誓うブリュンヒルデも加わって、ジークフリート暗殺が計画される。壮絶な三重唱からドラマチックな緊張をはらんだ音楽は、一気に終わる。

ここで興奮の坩堝と化した観客は、ブラボーの嵐となるところだが、無観客のびわ湖ホールは静かなままだ。だが私は、バイロイトで収録されたブーレーズの「指環」を見たときと同じ感覚を抱いた。無観客だと音楽も集中力を増す。京響もなかなか好演しているし、沼尻の指揮も緊張感を失わない。個々の歌手にいついては、もはやこのような公演にコメントをしなくてもよいだろう。どの歌手も迫力があって、欠点を感じないのは驚異的なことだ。私はまったく不満はなかった。にわか作りと思われたストリーミング配信の音声も、うまく歌手とオーケストラが混ざっていて、これはなかなかいける、というのが正直な感想。日本人歌手が多いので、顔がアップで映るとやや興醒めだが、常に固定されたカメラからは細かい表情を窺うことはできない。そのことがかえって見る者を落ち着かせ、物語に集中させる。

カメラが切り替わることもなく、字幕もない上演は好感が持てる。ただこのようなストリーミング配信のひとつの欠点は、家庭のリビングルームを長時間占拠してしまうことだ。30分以上たっても配置が変わらない舞台を熱心に見続ける私に、ワーグナー嫌いの妻はあきれ顔だし、息子は紙芝居かモノクロの時代劇を見ているようだと漏らす。この状態が夕食の時間にまで続く。しかも2日間も!でも2日目の舞台は、1日目に比較して、より良い感じがする。カメラも若干近め。キャストはすべて異なるにもかかわらず、舞台はさらに緊張を増し、オーケストラも次第に巧くなっていったように感じた。

さて第3幕である。雨模様の窓の外は暮れてゆく。電灯もつけず暗い中でテレビだけを観ている。舞台に映し出されたのは森の中を行く映像。やがてライン川の畔になったところで幕が開き、3人のラインの乙女の重唱が始まる。とうとう第3幕まで来たという感慨がわいてくる瞬間である。

ハーゲンの計略にひっかかり、弱点の背中を刺され、不慮の死を遂げるジークフリート。ここのシーンは「指環」の中での最大の見どころである。音楽に加えて演出も見せどころだ。ハンペの演出は全体的に典型的でわかりやすい。葬送行進曲に乗って葬儀の列が続くというもの。やがてブリュンヒルデは自己犠牲を歌い、ヴァルハラ城に火を放つとすべてが崩れ落ちる。炎が舞台に燃え広がり、やがてそれはラインの川底へ。壮大な物語は、滔々と流れる音楽の中に消えてゆく。このシーンについては、もはや何も語ることを必要としないだろう。

上演が終わると、無観客の中でカーテンコールが始まった。ちょっと寂しいが、ビデオの向こうにいる1万人以上の視聴者に対し、何度もお辞儀をする出演陣。その顔には充実した表情が感じられた。

これで本公演は幻の「指環」にならずに済んだ。いやそれどころか、無料で全世界にライブ配信を敢行した功績は讃えられるべきだろう。力演の出演陣には最大限の拍手を送りたいし、こういう試みは今後、新しい形でのオペラ公演の先駆けとなるかも知れない。ライブ配信すれば、それなりの数の聴衆がいる可能性があるということだ。会場で見る客のチケットに加え、少ない金額を払えばライブ配信を観たいと思う人も多いだろう。やる価値はある。難解なワーグナーの地方公演の緊急予告でも評判だったのだから、事前予告すれば、もっと多くの人が見るかも知れない。

感染症の蔓延という異常事態の中で上演された「指環」。世界の終焉を描いた舞台は、尋常ではない緊張感をもたらし、我が国の音楽史上に名を残す試みとなったことは疑いがない。それが成功だったとすれば、一筋の光明ではないかと思う。このような時にこそ、芸術が価値を持つということも。丁度ヴァルハラ城が沈んだラインの川底に、あの救済の動機が流れるように。

2020年2月11日火曜日

ロッシーニ:歌劇「セヴィリャの理髪師」(2020年2月8日、新国立劇場)

ちょうど14年前に息子が生まれたときも、このような抜けるような快晴だった。立春を過ぎたとはいえ強い北風の吹く寒い日で、そのことが陽射しの多さを私の記憶の中で印象的なものにしている。暖冬と言われる今年の冬も、ここへきて寒気団が南下し、東京も真冬の寒さを取り戻した。そんななか、私は妻と共に一年ぶりとなるオペラの鑑賞に向かった。

歌劇「セヴィリャの理髪師」は我が国でも人気のある演目で、毎年どこかの団体が公演しているようだし、新国立劇場でも1998年以来数年おきに、この作品が上演されている。今回のヨーゼフ・E・ケップリンガーによるプロダクションも、2006年、2012年、2016年に続く4度目の上演ということのようである。

今回の上演の目玉は、何といってもロジーナを歌う脇園彩(メゾ・ソプラノ)で、ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル出身の彼女はすでにミラノ・スカラ座でこの役を演じているというから、たいしたものである。そして標題役フィガロには フランス人のフローリアン・センペイ(バリトン)、アルマヴィーヴァ伯爵にはアメリカ人のルネ・バルベラ(テノール)、ドン・バジリオにはイタリア人のマルコ・スポッティ(バス)、バルトロには同じくイタリア人のパオロ・ボルデョーニャ(バリトン)が務める。この4人はいずれも、新国立劇場には初登場らしいが、現在この作品を上演するとしたら、もっとも旬に乗ったキャストであるとの触れ込みである。

余裕を持って出かけたはずが、気が付いてみると開演5分前だった。2階の左脇最前列のA席は、発売と同時に確保していた。4人の人の前を通って自席につくと、早くも指揮者のアントレッロ・アッレマンディが登壇。ピットに入った東京交響楽団が有名な序曲を演奏し始めた。

最初の一音を聞くと、それは適度に抑制され、ああこれはあのアバドがヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したような感じだと思った。テンポを少し速く取り、窮屈にならない緊張感を維持しながら、木管やホルンを歌わせていく。音を大きくしないが、2階席からはオーケストラの音が直接響いて良く聞える。これが歌とどう調和するか、聞きものである。

舞台は早くも幕が上がり、回転台に乗せられたセヴィリャのアパートの内部断面となったり、表になったり、慌ただしい。右脇にはネオンを伴った娼館があって、ここを経営してるのが小間使いベルタ(ソプラノの加納悦子)だという設定らしい。ブックレットによれば、設定はフランコ政権下のスペインで、みな意味ありげな服装をしている。つまり、ロッシーニの音楽なのに舞台は垢ぬけない。なのに、とてもカラフルではある。

序曲の間から登場人物が舞台に揃い、それぞれ何やら象徴的な仕草を見せてはいるが、これがどうも舞台の大きさに比して小賢しく、興がそがれる。以降、この舞台での欠点は、それぞれの登場人物がする仕草が細かすぎて、何かを主張するには説得力がなく、全体の流れにうまく乗り切れない印象を残した。音楽が素晴らしいのに、演技が小さいと思ったのは私だけだろうか。

テレビ画面で見るオペラは、小道具に至るまで細かく演出され、それをアップで写す。だがこのような大舞台で見る場合には、観客の視線を象徴的な一点に集める工夫が必要だ。饒舌すぎる演出は散漫となる。加えて我々は、字幕を追う必要がある。この字幕が大変で、長すぎると読みづらく、短すぎると心情が伝わりにくい。視線を切り替える回数を減らす工夫から、複数の人物の会話を一度に表示するから、読み終えると実際の会話よりも先に理解してしまう。ロッシーニのような会話の多い舞台では、これはもう避けられないと言うべきか。

以上、批判的なことを多く書いたが、これは以下に述べるこの舞台の素晴らしさを語る上で妨げにならないようにするためで、音楽的にはこれほど見事なロッシーニの舞台を見たことがない。今回の上演の特筆すべき点は、高水準の歌手が揃ったことによる歌の饗宴ということになる。

特にロジーナの脇園彩は、オペラの中でも最も有名なアリア「今の歌声は」で、自信に満ちた声と演技を披露した。彼女が出てきた瞬間に、何か舞台が急に変わった。このオペラでは脇役を除き、女性は彼女ひとりである。そのことが一層、彼女の存在感を際立たせた。オーケストラがピタリと寄り添いながらも、音楽の道筋を弛緩することなく進めてゆく。いわば理想的な伴奏に彩られて、彼女は一階と二階を行ったり来たり。運命に逆らってでも意志を通す新しい人間像は、モーツァルトから受け継がれている。

脇園は第2幕でも再びアリア「愛の燃える心に」を歌うが、ここでの彼女も実に堂に入ったもの。会場から間髪を入れずブラーヴァが飛び盛り上がる。これを受けるアルマヴィーヴァ伯爵のルネ・バルベラが、私には印象深い。彼の歌は何といっても第2幕終盤で歌う超技巧アリア「もう逆らうのをやめろ」につきる。あまりにも難しいため省略されるのが慣例だったこのアリアが復活したのは、ロッシーニ・ルネッサンスが定着した1970年代に入ってからだったという。ここの部分を聞くと、フローレスがMETで歌った圧巻の歌唱を思い出す。

この日の公演でもっとも大きな歓声に包まれたのは、ドン・バジリオを歌ったマルコ・スポッティだったかも知れない。ただ、フィガロのフローリアン・センペイといいバルトロのパオロ・ボルデョーニャといい、すべて歌手の水準が高く、しかも安定していた。男声がオーケストラの音と混じって早口で歌うと、どこどなく音が籠ってしまう。もしかすると1階席で聞いていたら、そういうことも少なかったのかも知れない。だが、絶妙なタイミングで飛ぶブラボーは、3階席から多く聞かれた。

オーケストラから聞こえるべきギターやチェンバロの音は、少し小さすぎて物足りなかった。嵐のシーンなどは、舞台がくるくる回転しながら、非常に饒舌にいろいろな動作があったが、この部分でコーダに向かう物語の転回もまた、こういった物語の特徴のはずだ。だが、今回の演出はあまりに何もかも詰め込み過ぎで、ストーリーにメリハリが欠ける。このことに最大の不満が残るのが惜しい。それはあの有名なフィガロのアリア「私は町の何でも屋」の歯切れの悪さでも見て取れた。

少なくとも音楽に関しては、非常に高水準の「セヴィリャの理髪師」であったことには違いない。さすがに2階の席で聞くと、あの早口の重唱も音楽に乗って、ちゃんとロッシーニ・クレッシェンドになって聞こえてくる。カーテンコールに何度も応える歌手やオーケストラの横顔を見ていると、今回の公演も満足の出来栄えだったのだろうと思った。

2020年1月27日月曜日

NHK交響楽団第1932回定期公演(2020年1月23日サントリーホール、指揮:ファビオ・ルイージ)

ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲の冒頭が鳴り響いた時、いつもとは違う一気呵成のN響の響きに驚いた。まるで一筆書きのような引き締まった演奏は、「英雄の生涯」の最後まで続いた。ファビオ・ルイージとN響の相性は大層良好なように思われた。演奏が終わった時の楽団の表情が、それを表していたように思う。ソヒエフとルイージは、現在N響に客演する指揮者の中では、群を抜いていい演奏になる確率が高いような気がした。

ルイージが客演したのは1月の定期公演のうち、サントリーホールで行われるB定期のみである。多忙な指揮者だからだろう。だがその演目は注目に値するものだった。ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲を先頭に、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノはクリスティーネ・オポライス)、そして交響詩「英雄の生涯」である。これらの曲目のいついては、ブックレットに掲載された岡田暁生氏の解説が興味深い。シュトラウスが得意とした「1オクターヴ以上の音域を一気に駆け上がるような電光石火の主題、ウェーバーにも頻繁に見られるものだ」というのである。

ただ実際のプログラムでは、シュトラウスの最後の作品である「4つの最後の歌」が前半に置かれていた。ここでN響との初共演となるオポライスは、プッチーニを得意とするイメージがあるラトビア生まれの美貌のソプラノ歌手である。彼女を生で聞いてみたいと思った客も多かったに違いない。私もまたその一人だったが、彼女が歌ったシュトラウスの晩年の諦観を、果たしてどこまで表現できるのかが今回の一つの聞きどころであった。

オポライスの歌唱はドラマチックな歌で真価を発揮するもので、そういう意味ではドイツ・リートをベースとするシュトラウスの歌とは性質がやや異なる。だが私は事前の懸念とは逆に、そこそこ良かったのではないかと思っている。生で聞くコンサートを、再生装置で聞く録音されたものと比較することはナンセンスだが、それでも私は十分楽しむ事ができた。それは声が非常に美しかったからだと思う。

ただもし、この演奏が私を打ち震える感動に導かなかったとしたら、その原因は二つ考えられる。ひとつは私の曲に対する理解が、まだ十分に及んでいないからだ。歌詞を追いながら聞けるCDと生演奏では違う。たとえそれができたとしても。特に死というものを意識する歌詞を自分がどこまで理解し得るのか、それはまた別問題だ。私は2度余命宣告を受け、死の際まで行った身だが、「夕映えの中で」で歌われる境地には達しなかった。lこれはもしかしたら、「死」をまだ観念的に捉えることができる余裕がある時の心境なのかもしれない。

もう一つの可能性は、オポライスの歌唱が十分美しくはあるものの、総合的にはシュトラウスの晩年の心境を語るにはちょっと明るすぎるのではないかという、主観的とも客観的ともつかない判断である。だが、これはライブという性格のコンサートで、どこまで正確に評価できるのかわからない。私には少なくともその能力がない。事実として言えるのは、上記のいずれか、または両方の理由によって、私は今回の演奏を大変素晴らしいと思いながらも感動することはなかったという事実である。

休憩を挟んだ演目「英雄の生涯」は、「4つの最後の歌」とは異なり、シュトラウスの若い頃の作品である。作曲されたのは飛ぶ鳥を落とす勢いだった1898年は、まだ19世紀ということになる。ここで「英雄」とは伝説上の神でも、ナチスのヒトラーでもなく、彼自身である。この曲で聞ける大規模で迫力ある音楽によって、私はシュトラウスの虜になった。どこまでも続くロマンチックで豊穣な音楽が、他の作品でも体験できることを知るのはそのあとだった。

ルイージはその細身の体を目一杯振り上げながら、N響からとてつもなくダイナミックでドラマチックな音楽を弾きだした。イタリア人ではあるもののドイツ音楽を得意とし、数々のオペラの名演奏でも知られる彼は、ドレスデンやウィーンのオーケストラを指揮することでキャリアを積んできた。N響がこの熱い指揮に導かれ、すべての楽器が躍動的で、大きな広がりを持っていた。サントリーホールで聞く残響の多い音は、時に私を疲れさせさえした。1階席で聞くと、それぞれの楽器が混じり合い、ダイレクトに届く。だからもしかしたら2階席や脇の席の方が適度に分離していいのかも知れない。

「英雄の生涯」(そして「4つの最後の歌」でも)大活躍するヴァイオリン・ソロはコンサートマスターが受け持つが、今回のコンサートマスターはライナー・キュッヘルだった。彼がオーケストラに加わるだけで、ヴァイオリンの音が大層良く聞える。コンサートマスターによるオーケストラの音の違いを実感する。

切れ味の鋭い、ダイナミックな演奏は、一糸乱れることなく最後まで一気に聞かせたといってよい。N響の実力を弾きだしたルイージには、静かに音楽が終わると(そう、今回の「英雄の生涯」は初稿版が採用されていた)、しばしの静寂が訪れた。丸でそうしなければならないかのように、客席は拍手をこらえていた。そして大喝采に混じり、普段は大人しい敬老会のようなN響の客席も大いに沸いた。花束が贈呈され、わずか1度だけのプログラム(ただし公演は定期を含め何公演か行われる)が終了した。この曲は彼の十八番だったのかも知れない。得意なプログラムで客演をこなしたルイージには、次回是非ゆっくりと客演し、他の曲も指揮してもらいたいと願いながら家路についた。

2020年1月18日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第717回定期演奏会(2020年1月17日サントリーホール、指揮:小林研一郎)

ここ数年は、冬に東北旅行を楽しんでいる。今年もいま、仙台へ向かう列車の中で昨日のコンサートのことを書こうとしている。朝7時過ぎに東京駅を出発した新幹線はやぶさは、東海道新幹線のぞみなどと違い、乗客も少ない。今日は3人席を一人で占有することになった。大宮を出ると仙台までは止まらないから、この状態はずっと続く。持参したパソコンの電源を入れ、みぞれ交じりの冷たい雨が降る車窓風景を眺めながら北を目指す。

小林研一郎は福島県いわきの出身で、温厚な人柄が音楽にも表れる、好感度の高い指揮者である。その真面目な音楽作りは厳しいことでも有名で、パンフレットには「炎の〇〇」などと印刷され、有名曲をひたすら情熱的に指揮をする写真が掲載されてはいるが、その中身は堅実で破たんすることはない。熱い指揮は人気もあるらしく、桂冠名誉指揮者をつとめる日フィルは「コバケン・ワールド」と銘打ったシリーズの演奏会を開いているくらいだ。だがこのたびの1月17日のコンサートは、それとは異なり定期演奏会だった。演目はコバケンの十八番、スメタナの「わが祖国」で、彼はあの「プラハの春」オープニングコンサートを指揮した初めての非チェコ人として歴史に残る成果をあげたことはよく知られている。

コバケンが「わが祖国」を指揮することを知って聞きたくなった。過去3度目となるコバケンの演奏会のチケットを買うため、かなり前から予約して席を押さえたが、いざサントリーホールに出かけてみると拍子抜けがするくらいに空席が目立つ。今回はひとりでもあり、指揮者の見える右手後方のB席からオーケストラを見下ろす。前から2列目なので、まるでテレビ中継を見ているような視線の位置である。

「わが祖国」は「高い城(ヴィシェフラド)」「モルダウ(ヴルタヴァ)」「シャルカ」「ボヘミアの森と草原から」「タボール」「ブラーニク」の6つの交響詩から成る作品で、コンサートでは3曲目が終わった時点で休憩が入る。「モルダウ」が飛びぬけて有名だが、実際には後半になるほど音楽は充実し、演奏は熱を帯びてくる。私は特に「ボヘミアの森と草原から」が好きである。「高い城」や「モルダウ」あたりはまあ序奏といった感じがする演奏も多い。だがこの日の演奏は、さすがというか最初から熱のこもったものだった。

「高い城」の冒頭で2台のハープが妖精のメロディーを奏でると、その響きがサントリーホールにこだました。いつも聞くNHKホールではこういう響きにはならない。やはりいいホールで聞くのがいいな、などと感動していたが「モルダウ」になると流れるような豊穣なメロディーと、沸き立つようなリズム、静謐で神秘的な森の妖精に聞き惚れていくうち、あっという間に「シャルカ」になった。ここからボヘミアへの旅行に出かけるような気分になってくる。そういえば列車はいつのまにか那須塩原を通過した。この「シャルカ」ではクラリネットのソロが聞きものだが、今日の日フィルのクラリネットは、空を飛ぶひばりのように歌い、静まり返った聴衆の中に、丸でそこにだけスポットライトが当たっているかのようだった。

小林研一郎は、休憩前の拍手でもオーケストラをパートごとに立たせるなど、観客に応えていたが、休憩を挟んで登場する際にはオーケストラに混じって登場するなど、長年このオーケストラと一体であることを主張しているようなシーンもあった。チューニングの間も指揮台の手前で音色に耳を澄ませ、やがて「ボヘミアの森」が始めると、その音楽は厚みを持って会場に響き渡った。オーケストラを聞くことの楽しみが、満喫できる演奏会だった。スメタナのフルートとオーボエ、そしてホルンといった楽器が溶け合う様は、中欧の風景をいつも思い出させてくれる。今年はベートーヴェンの生誕250周年だが、スメタナもまた耳の不自由な作曲家だったことを思い出す。彼の聞いた心の音は、実際の音となって我々に100年以上を経て届いている!

「タボール」でのおどろおどろしいメロディーは緊張に満ち、迫力を維持したまま続けて「ブラーニク」に移る。弦楽器はそれ自体がひとつの楽器となったように波を打ち、そうかと思うと沸き立つような民族調の調べが顔を覗かせる。そういう音楽に身を浸すうちコーダを迎えた。全体に安心して聞いていられるコンサートだったが、その音楽にはいつも指揮者の暖かい心情が素直に表現されていたようだ。客席もおそらく同じような暖かさを感じたことだろう。タクトを降ろして一瞬の静寂が訪れ、その後に大きなブラボーが飛んだ。ほぼすべての楽団員を紹介しつつ立たせていくコバケンは、パートを声を出して指し示していた。今年最初の定期演奏会は、コバケンの年頭の挨拶も出て盛況のうちに幕を閉じた。炎の指揮者も、情熱が表に出るというよりは円熟して手慣れた風貌だった。オーケストラとの長年の信頼関係があってこそ、このような演奏ができるのだろうと思った。それから若いプレイヤーが増えて来た日フィルも、過去に比べると上手くなったと思った。個々のプレイヤーが歌心をさらに持ち、楽器が安っぽくなければ、第一級の演奏が可能なオーケストラという気がする。

2020年1月14日火曜日

第1930回NHK交響楽団定期公演(2020年1月12日NHKホール、指揮:クリストフ・エッシェンバッハ)

今年最初のコンサートは、クリストフ・エッシェンバッハの指揮するN響定期である。曲目はマーラーの「復活」。「復活」とはキリストの復活のことだが、マーラーの「復活」は、かつてのベートーヴェンの「第九」がそうであったように、宗教の枠を超えた意味を持っている。終楽章に至って到達する「生きるために死ぬ」という死生観は、悲観的というよりは肯定的で、高らかに生への賛歌が歌われる合唱入りの90分にも及ぶ野心作である。ハンブルクでハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際に、丸で雷に打たれたかのような啓示を得て作曲が進められたという逸話はつとに有名である。

一体自分は、どこからきてどこへ向かうのか。先行きが見えない現代社会において、この曲が与える感銘は、今もって新鮮かつ圧倒的である。何人もの人が、この曲を聞いて音楽家になろうと思ったと話している。

私も初めてこの曲を実演で聞いて心を揺さぶられた一人だ。1996年2月のニューヨークでウィーン・フィルの公演があった時、カーネギーホールの2階右脇からオーケストラを見下ろすバルコニー席でこの曲を聞いた。指揮は小澤征爾だった。直前に作曲家、武満徹が亡くなったこともあり、バッハの「G線上のアリア」を拍手なしで演奏した直後だった。第1楽章冒頭の弦の轟きと、その後に続くトゥッティに圧倒された。その後は舞台に釘付けとなったが、この主題が再現されると、ふたたび心を打ちぬかれた。

第2楽章の丸で天国にいるようなアンダンテは深い愛情に満ちたもので、小澤のなみなみならぬ集中力が、オーケストラを丸でひとつの楽器のように操り、珍しく静まり返ったニューヨークの聴衆の中で、ウィーン・フィルの弦楽器を陶酔させるほどに美しく響かせる雄弁なものだった。

ところがこの時の演奏の記憶は、そのあとの3つの楽章についてはほとんど残っていない。圧倒的な規模に私の心がついて行かれなかったからなのだろう。最後まで続く感銘をもう一度経験したくて、小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮してこの曲を演奏した時、私は東京文化会館の3階席を買って出かけた。この時の演奏はライブ収録されてCDでも売り出され、ディスク大賞にも輝いたから、非常な名演だったのだろうと思う。私はここでやっと第3楽章の静かに流れて行くスケルツォ(それは「子供の不思議な角笛」の一節でもある)の特徴あるリズムに触れ、それに続くアルトの歌「原光」(この時のソロはナタリー・シュトゥッツマン)が、会場を金縛りにするほど見事で身の毛が立つほどの硬直した感動を覚えたのを記憶している。

これで第4楽章までのこの曲を、何とか知り得た感じがしたのだが、「復活」は第5楽章に全体の半分近くの時間を要する曲で、ここに最大のエネルギーが注がれている。合唱団は第1楽章から舞台奥にスタンバイしているが、最後の何度も押し寄せる爆発的なエネルギーと、繊細で心の奥を覗くような部分とが交互に現れるマーラーの世界が存分に味わえる。バンダとの掛け合い、二人の独唱、オルガンも加わったその規模は、会場を超えて鳴り響くかの如くである。バーンスタインがエジンバラで振ったロンドン響との記念碑的映像では、教会の天井などが何度も映し出されるのが印象的だった。

エッシェンバッハという指揮者は、このバーンスタイン系に属する指揮者だと思う。ヤルヴィやルイージのように、きっちりとメリハリをつけて職人的に演奏する指揮者ではなく、むしろ情念が音楽を語ることへ重心が置かれている。彼のピアノでもそうなのだが、それは外面的な美しさなどは期待できない。オーケストラにあっては、個々のプレイヤーが持つ音楽への理解が、総合的な力によって自発的に統合され表現されるのを助けるといった感じだ。だから、演奏するのはなかなか大変だろうと思うし、今回のような1回限りの客演では、なかなかその真価が表れにくいのではないか。

前置きが長くなったが、私は今回のN響の演奏で、再びこの曲に新たな発見を数多くしたと言って良い。一階席前方に着席した私はオーケストラの音をおそらくは理想的な形で把握することができた。後半、とりわけ第4楽章の冒頭で藤村美穂子が「赤い小さな薔薇よ」と歌い始めると会場の空気が一変した。その瞬間から私は、時にこみ上げてくるものをこらえきれなった。第5楽章で繰り広げられる新国立劇場合唱団の深い祈りは言うに及ばず、代役だったソプラノのマリソル・モルタルヴォも悪くはなかったと思う。前方の席で聞くと時折舞台裏から響くバンダと、舞台上の楽器が重なる微妙なバランスも手に取るようにわかった。

いつのまにか80歳にもなるエッシェンバッハは、決して派手な指揮でもなければオーケストラを煽るようなこともしない。けれども時にテンポをぐっと落とし、オーケストラの自発的な曲への理解が、総体として奏でるハーモニーに寄り添う。楽団員に芸術家としての素養を問う真剣な作業でもあるかのようだ。前半の楽章を聞く限り、これはやはり短期間に成し遂げるにはいささか不十分な結果だったと思わないこともない。弦楽器、とりわけヴァイオリンの音が、いつになく貧弱に聞こえたのは気のせいだったのだろうか。上手く弾いているのだが、共感が伝わってこない。

エッシェンバッハが求めるのは、深いところでの音楽の理解と、それを個々人が表現することによって成し遂げられる総体的な情念の昇華。それがたとえ失敗し、暗く、陰鬱なものであっても、それはそれでかまわない、と言う冷徹な諦観があるようにも思えてくる。ただ、かつてラン・ランを迎えたパリ管とのベートーヴェンでは、そういう意味で高度な音楽的結実が見て取れた。第1協奏曲の第2楽章が、これほど美しいと思ったことは、先にも後にもないのだ。

久しぶりにゆったりとした「復活」を聞いた気がした。エッシェンバッハとマーラーが、どこかで融合する奇跡を期待したが、残念ながらそういうことはなく安全運転に終始したと言って良い。第5楽章において、満員にも関わらず静寂を保つ中で、オーボエが、フルートが、そしてメゾ・ソプラノが、丸でそこだけに光を浴びている風景のように心の内面を照らした。大きなブラボーが繰り返される中、私はまた「復活」の演奏を聞き終えて、さらにまたマーラーの音楽が聞きたくなる思いだった。

帰宅してメールを読むと、早くも来シーズンの演目が速報されてきた。マーラーはヤルヴィとの第3番がある。その前に、今シーズンの最後にはケント・ナガノによる第9番が控えている。今年も楽しみなコンサートが目白押しである。

2019年11月24日日曜日

NHK交響楽団第1926回定期公演(2018年11月22日NHKホール、指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット)

ブロムシュテットがN響の指揮台に立つたびに、失礼ながらもうこれが最後なのだろうか、と思ったものだった。だが今年も巨匠は東京へやってきた。A/B/Cの3つのプログラムをそれぞれ二日ずつこなし、しかも台風被害の爪痕が残る北関東各地への演奏旅行にも同行して指揮したのだ。しかしいくらなんでも93歳ともなれば、現役指揮者としての制約が感じられるのが普通である。ところが指揮台に手助けも必要とせず歩いて向かい、立ったまま指揮をするというのだから、それだけでもう神に感謝するしかない。矍鑠というのでもなく、ごく自然なのである。そこが凄い。

勿論、演奏される音楽が悪かろうはずがない。ブロムシュテットほど若い頃から音楽が毅然と、劣化することなく流れてくる指揮者はない。今回聞いた最後の演奏会も、堂々たるモーツァルトに聞き入った記録をここに書いておこうと思う。プログラムの前半は交響曲第36番ハ長調K425「リンツ」で、後半はミサ曲ハ短調K427である。いずれもモーツァルトがザルツブルクへの帰郷に際して作曲された同じ時期の作品ということになる。

「リンツ」を実演で聞くのは、実は初めてである(と思ったら一度だけ、南西ドイツ交響楽団の演奏で聞いている!記憶に全くないのだが)。モーツァルトの交響曲作品を聞くことも最近ではめっきり少なくなり、一体何年ぶりだろうと思いながら、冷たい雨の降りしきる渋谷をNHKホールへ向かう。今日土曜日のマチネーは、最安値のE席(自由席)が早々と売りきれてしまったようだ。数あるN響の定期公演でも、巨大なNHKホールに関していえば極めてまれで、私の聞く限りでも、一昨年のピレシュの引退演奏会以来だったのではにだろうか(この時の指揮もブロムシュテットだった)。

今回はC席で3階の左端である。ここは3階ではあるものの比較的舞台に近く、値段の割には音響は悪くないという印象である。今回も、それは例外ではなかった。「リンツ」の小編成のオーケストラからは、実にきれいなモーツァルトの音が引き出された。冒頭の序奏から、この曲はさほど楽しくない雰囲気に満たされている。冊子「フィルハーモニー」の解説によれば、それはモーツァルトのザルツブルク帰郷が、いかに憂鬱なものだったかを示しているということだ。

だが私はこの「リンツ」が、かつては最も好きな交響曲だった。それはブルーノ・ワルターによる演奏が大変に優れていたからだ。ワルターの演奏で聞く限り、この曲はとても優雅である。それに比べるとクライバーの映像など、神経質すぎて聞く気にもなれない。だが、モーツァルトの心の内はクライバーの方に近かったのかも知れない。クライバーの方が、曲に込められた作曲者の心象風景をより的確に反映しているのだろうか。

ハ長調ということもあると思っている。「ジュピター」や他の作品がそうであるように、ハ長調のモーツァルトは、あの抜けるような明るさや、乾いた淋しさが感じられない。わずか4日で作曲されたという事情もあるのかも知れない。だが今回のブロムシュテットの演奏は、そういったモーツァルトの憂鬱な旋律を覆い隠す方の演奏だった。昔の(例えばドレスデン時代のブロムシュテットを私は好むのだが)演奏からほとんど変わらない幸福感が演奏から感じられる。90歳を過ぎてこんなにもスキッとした演奏を聞かせるのだから、神業である。N響が実にうまく、二つ以上の楽器の重なりも、まるでひとつの楽器のように聞こえてくる。

その「リンツ」で私がもっとも愛するのは第2楽章である。ここのメロディーはいつまでも聞いていたい。そして嬉しいことに今回の演奏は、第1楽章から最後まで、繰り返しを一切省略しないバージョンで演奏された。いつもはもう終わってしまうのか、と思うようなところがことごとく繰り返され、そのたびに私は幸せな気分になったのだった。決して主張するのではない、曲そのものの魅力をそのまま表現することに徹する真摯な姿勢は、モーツァルトのような純度の高い音楽でこそ真価を発揮したと言うべきだろう。

だとすれば休憩を挟んでの大ミサ曲が、悪かろうはずがない。ソプラノのクリツティーナ・ランツハマーの澄んだ声が、最初のキリエで鳴り響いた時、それはまるで歌声が天から舞い降りてくるような美しさだった。

新国立合唱団は、曲の途中で何度もポジションを変えるという珍しい光景にも出会った。そのパート、パートで求める音響が異なるということなのだろう。そしてトロンボーンは合唱団を挟んだ高い位置に分かれて配置されていた。チェロとコントラバスが左に配置され、ティンパニと他の金管は右、オルガンは左、というように左右で高低の音がまじりあうような配置は、この曲に限ったことではなく最近よく見られるのだが、ミサ曲においては、残響の多い教会のように常に会場をまんべんなく満たし、その広がりを表現するという見事な効果を生み出していた。広すぎるNHKホールにおいても、比較的ムラなく音楽が鳴ったと思う。

だが、私はこのような優れたミサ曲は、やはりより狭い空間で聞いてみたい。モーツァルトが作曲した短調のミサは、「自身の内面の苦悩が反映されている」(「フィルハーモニー」11月号)らしい 。例えば私は今、ヘレヴェッヘの指揮するシャンゼリゼ管弦楽団による演奏を聞きながらこのブログを書いているのだが、ここで聞かれる小編成の古楽器演奏などは、透き通った中に細かい部分まできっちりと聞こえてくる。ライブならでは良さも、身近に聞いてこそ感じられるのだろう。とくにモーツァルトのような音楽では。

もう一人のソプラノ、アンナ・ルチア・リヒターは昨年、ヤルヴィの指揮するマーラーの交響曲第4番で、非常に美しい歌声を聞かせた歌手で私は大いに期待した。その歌声は、やはり同様に素晴らしいものだったが、もしかすると同じソプラノでも、ランツハマーとは声の質が少し違う。むしろメゾ・ソプラノに近い翳りの声がまた、曲の中でうまく溶け合っていたような気がする。なお、テノールはティルマン・リヒディ、バリトンは最後にやっと登場するが、日本人の甲斐栄次郎。

それにしてもブロムシュテットのミサ曲は自然ななかにも敬虔さに満ちており、何か幸福な気分に満たされた。曲が終わらないうちに拍手が始まったのには閉口し、聴衆が興醒めにさせられたのだが、その拍手も次第に大きくなり、最後にはオーケストラが立ち去っても成り止むことはなかった。指揮者はひとり舞台の袖に登場し、軽く手を振っていたが、それも老人のそれではなく、まるで普通の日常の光景のように振る舞っていたのが印象的だった。

前日の朝から降り出した雨は止むことを知らず、明日まで降り続くという。この寒い雨は、羽田空港に降り立ったローマ教皇にも降り付けていたようだ。丁度演奏会の途中の出来事だった。

2019年11月9日土曜日

アンドラーシュ・シフ/カペラ・アンドレア・バルカ演奏会(2019年11月8日東京オペラシティ・コンサートホール)

かつて私をときめかせたハンガリーの若いピアニストも、もう六十代の後半にさしかかっていた。それでもまだ十分聞き手を魅了して止まないシフの演奏を、私も生きているうちにライブで聞くことのできる機会が訪れたことは、今年最大の出来事であった。

東京にようやく晴天の続く本格的な秋空が戻り、街路樹も次第に紅葉しはじめたここ数日の間、私はもう何日も前から臨戦態勢で仕事をやりくりし、体調を整えてきた。11月8日は金曜日で翌日は会社が休み。そういうベストな状態で、この日を迎えた。私は最初に誘った妻が所用で行けなくなり、急遽、高校時代の友人に声をかけた。とても嬉しいことに、一緒に出掛けてくれることになった。

今宵のプログラムは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の全曲演奏会のうちの2日目で、第1番ハ長調と第5番変ホ長調「皇帝」である。伴奏は、彼がソリスト・クラスの演奏家を集めて結成した室内オーケストラ「カペラ・アンドレア・バルカ」である(その中にはベルリン・フィルなどで活躍し、今ではシフの妻となった塩川悠子もいる)。シフは今回、この仲間たちとともにアジア各国を回るツアーの途上にあり、特に大阪と東京ではベートーヴェンのピアノ協奏曲ツィクルスを開催するようだ。

満員のホールに現れたシフは、ゆったりとした足取りでピアノに到達し、手を広げてオーケストラを指揮し始めた。ベートーヴェンがかつてそうしたように、今日のコンサートは弾き振りで、編成は初演当時のように小さく、弦楽器にも独特の渋みが加わっている。これはビブラートを抑えた効果によるものだろう。コントラバスは二人しかおらず、両翼に分かれてシンメトリックな配置を構成している。その中央にピアノ。上から見るとやや斜めに置かれている。ピアノは反射板を開け放たず、聴衆の方に向けられている。

ピアノ協奏曲第1番は、ベートーヴェンのデビューを飾る曲の一つだ。瑞々しい感性と若々しいエネルギーが溢れている。ボンの片田舎からウィーンに出て、技巧派のピアニストとして名を馳せてゆく。まだ耳もよく聞えていた頃のことだ。けれどもこの曲を聞いていると、ベートーヴェンが晩年にまで持ち続けた実直な心と、飾り気のないロマン性といった個性を早くも感じる。その趣向は、後年深化することはあっても、決して消えなかったベートーヴェンそのものの感性である。

ハ長調、聞いてよくわかるソナタ形式、長大なカデンツァはそれ自体がまるでソナタの一楽章に匹敵するような規模を誇るのも異例だ。第2楽章の歌うようなメロディーは一度聞いたら忘れることはない。第1番からすでに、結構な規模とロマンチシズムを湛えた曲を書いていたのだと驚く。この時点でまだシンフォニーは一曲も作曲されていない。

シフは、ときおり立ち上がってオーケストラの方に向かって手を振り上げる(それもベートーヴェンがやっていたことだ)だけでなく、しばしば左手が空いているときなどは、右手では旋律を弾きながら、左手で細かい表情を伝えて行く。そういったやりとりもみどころだったが、驚くべきことは、この有機的な室内オーケストラが、まるでひとつのクァルテットのような自立性を持っていることだ。シフのピアノが常に同じ表情なのかどうかは、他の演奏を聞いていないのでわからない。だが、少なくともどんなピアノのフレーズになったとしても、それを受けるオーケストラは、即興的にその細かい表情を見逃すことがない。

齢50も過ぎると、この先何年音楽を聞き続けることができるのだろう、などと考える。音楽は書物と違って、読み飛ばすことができない。演奏される速度でしか、聞くことができない。私は特に、過去に2度の大きな病気をしているから、なおさらである。この曲をあと何回、じっくりと聞くことができるのだろうか、と考える。

もしかしたら、これは演奏家も同じではないだろうか?演奏家の場合、練習を重ねて弾きこなせるようになる必要があり、その意味では、もっと事態は深刻である。音楽は一度限りのものだから、同じ時間を再現することもできない。だとすると、一度一度の演奏が、演奏家にも聞き手にも、時間という制約を意識させ、限られた時間を共有することの大切さを思い知らせる。この時間は二度と味わえないのだという共通意識が、そこに無意識に存在する。音楽の、いや命の儚さを潜在意識の中に持ちながら。

第5番「皇帝」の、これまで何度聞いたかわからない有名曲を、第1番以上に堂々と、溌剌と演奏する。華麗で、幸福感に満ち、淋しく、そして儚い。私自身、一体何度実演でこのわずか5曲の名曲を聴いたことがあっただろうか。第1番、第3番ではわずかに一回、有名な第4番や「皇帝」でも片手の指が余る。第2番に至っては、おそらくゼロ。そして、今後もこの調子だと、あと一回がせいぜい・・・。

「皇帝」のまるで天国にいるような第2楽章から、一気に突入する第3楽章への移行部分は、圧巻であった。シフのピアノは、確かに若い頃に比べると少し衰えているようにみえるものの、その分円熟した雰囲気があった。どの音もおろそかにせず、綺麗に聞こえてくる。ハンガリー人特有の、クリアで情に溺れないモダン性は、ディスクで聞く演奏と同じだった。 もしかしたら私は、あまりにシューベルトの印象が強いでいか、ベートーヴェンにもシューベルトのような、一瞬の内面を垣間見せるメロディーの変化を意識して聞いていたのかも知れない。

そう、私がシフに親しむきっかけとなったのは、デッカから発売されていたシューベルトだった。その演奏は今でも色あせないばかりか、未完成作品の多い作品を含め、ほぼすべての曲を網羅した全集は同曲のスタンダードとして広く聞かれている。

「皇帝」の第3楽章にける変奏の妙は、ゆったりと、そしてたっぷりと私を魅了した。これまで聞いてきたベルナルト・ハイティンクの指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、ドレスデンのオーケストラのいぶし銀の響きと、テルデックの優秀録音によって、限りない魅力を湛え、名盤のひしめく同曲中のディスクの中では、最高位にランクされるものだが、たとえそれがシフ最高時の演奏を記録したものであったとしても、今日、コンサートホールで聞いたシフの生演奏は、私に様々なことを考えさせた。それは同じように年を重ねて行く私も、また音楽を楽しんで行きたいと思う共感にも似たものだった。

「皇帝」が終わっても冷めやらぬ拍手に応えて、何曲ものアンコールが演奏された。ここにその曲を順に書いていくが、驚くべきことはその最初が、何と協奏曲第4番ト長調の後半、すなわち第2、3楽章だったことだ。そしておそらくその演奏が、全体の中での白眉だった。第2楽章の例えようもないような静寂と緊張。その一音一音に神経が行き届いている。オーケストラとの阿吽の呼吸によって、この奇跡的なトランジションは、最高潮に達した。まるでそうと意図したように、コンサートの全体の最高点がそこにあった。なだれ込むような第3楽章。けれども老巨匠は今や、一音一音を大切にしながら悠然と音符を進めてゆく。

アンコールの2番目はピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調「テレーゼ」全曲だった!この10分程度の曲を、聴衆は聞き入った。何かとても個人的なプレゼントをもらったような時間だった。何度も舞台に呼び戻され、オーケストラが去っても消えない拍手にひとり舞台に現れる。こういうシーンは、常にあるものではない。コンサートの模様はNHKによって録画され、来年にはオンエアされると掲示されていた。

会場を出るとビルの間を秋の風が吹いていた。早くもクリスマスツリーが広場に飾られ、そのそばのパブで、しばし友人とのひとときを過ごした。たっぷりと時間を過ごしたコンサートだったが、その音色のように湿度は低く、さわやかなコンサートだった。

2019年10月26日土曜日

NHK交響楽団第1923回定期公演(2019年10月25日サントリーホール、指揮:トゥガン・ソヒエフ)

ビゼーが若干16歳にして交響曲ハ長調を作曲したことを、神に感謝しなければならない。なぜならこんなに瑞々しい音楽を、今私たちは聞くことができるのだから。たとえ若書きの習作とは言え、この交響曲には他の作品にない魅力に溢れている。全編にみなぎる若々しい感性とエネルギー、そしてまるで春の南仏を思わせるような憂いに満ちたメロディー。その作品をビゼーは生前聞くことなく世を去った。

特に第2楽章のオーボエが歌謡性に満ちたソロを吹き、それをバイオリンが繰り返すときの、時がまるで止まったかのような世界は、何と例えるべきだろう?そんな音楽を、一度生の演奏で聞いてみたいと随分前から思っていた。そうしたら、いま私がもっとも贔屓にしているロシア・北オセチア出身の指揮者、トゥガン・ソヒエフがN響定期で演奏することがわかり、私は迷わずチケットを買った。嬉しいことに、ベルリオーズの作品(「ファウストの劫罰」から「鬼火のメヌエット」「ラコッツィ行進曲」、それに交響曲「ロメオとジュリエット」からの抜粋)、さらにはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」までもが演奏されるというお得で豪華なオール・フレンチ・プログラム。場所はサントリーホール。

ソヒエフは先週ロシア・プログラムを聞いたばかりだが、いずれも細部にまで神経を行き届かせ、曲の持つ魅力を最大限に引き出しながら組み立てる構成力の天才的な才能に唖然とするばかりである。タクトを使わない、一見わかりにくそうに見える指揮姿からは、想像できないような音楽が聞こえてくる。あたかも初めて聞くかのような錯覚を随所で経験することになる夢のような時間は、どんな曲についても当てはまる。その様子から「魔術師」といった声まで聞かれるが、今回の4つの作品の演奏もまたそのようなものだった。

「ファウストの劫罰」からいつもとは違う輝きを放つN響の音色に満ちていたが、私にとっての最大の白眉はビゼーの交響曲で、この曲の魅力がいかに引き出されてゆくのか、別に引き出されなくても十分魅力的なのだが、さてその演奏はいかに?期待が高まった時に流れ始めた音楽は、丁寧でしかも新鮮さを十分に保ち、ほれぼれするような半時間だった。

ビゼーの交響曲の演奏には、簡単に言って速い演奏と遅い(標準的な)演奏があるように思う。アバドやオルフェウス管弦楽団、古くはマルティノンによる颯爽とした(速い方の)演奏が、従来の私の好みだった。泉から湧き上がるような第1楽章こそ理想的だと考えていた。ところが最近は歳をとったせいからか、もう少しゆったりした演奏がむしろ好ましいとも思い始めていた。そしてソヒエフはまだ若い指揮者だが、むやみに速くしたりはしない演奏だった。実際これまでに聞いた他の曲でも、テンポに関する限り常に中庸であり、どこかのフレーズを強調したりといった外連味を示すこともほとんどなく、むしろ極めて標準的とも言える。

にもかかわらずソヒエフの指揮する音楽は、すべてが新鮮で音楽的である。演奏家もどう操られていくのか、まるで魂が乗り移ったようにいい塩梅となる。そのアンサンブルの素晴らしさがサントリーホールだと2階席でも非常によくわかる。音に濁りがなく、綺麗なことも特徴だ。特にフランス音楽の明晰な音色には威力を発揮する。そしてビゼーの交響曲の第2楽章の美しさといったら!私はうっとりとオーボエのソロに聞き入り、白内障でそもそもよく見えない舞台も、さらにかすんで夢のように見える。もしかしたら涙さえ出て来たのかも知れなかった。体を揺らすソリストに合わせて、こちらも体がくねる。

このようにして第3楽章のトリオを含む印象的な部分も夢心地のまま進み、第4楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェに至ってはもう魔法のような時間だった。どの音も他の音と違っているのは見事と言うほかはない。弦楽器が主題を再現する時、音色は明らかに変わっていた。その微妙な違いは調性によるものだろうか。私にはよくわからないが、いずれにせよ非常に細かい部分にまで神経を行き届かせ、短時間で自分の音楽にオーケストラを染め上げてゆくのは、並大抵のことではないはずだ。N響との長いつきあい、相性にもよるのだろう。それに比べると過去の名演奏とされるものでも、よく聞けばフレーズが曖昧なままにされているものは多い。

このような演奏だから、休憩を挟んで演奏されたドビュッシーの短い曲「牧神の午後への前奏曲」が、精緻に満ちた素晴らしい演奏であったことは言うまでもない。様々なソロの中でもとりわけ活躍するのは、この曲ではフルートである。様々な音色の楽器が組み合わせを変えて千変万化するフランス音楽を、これだけの集中力と余裕を持って聞かせるのは並大抵のことではないとも思う。前半ではやや不安の残ったホルンなども、ドビュッシーでは見事であり、鉄琴やハープも入って静かで美しい時間が過ぎて行った。

プログラムの最後は35分間にわたって、ベルリオーズの交響曲「ロメオとジュリエット」からの抜粋が演奏された。この曲はそもそも歌入りの長い作品だが、ここでは管弦楽のみの部分が演奏されたようだ。私は原曲を一度しか聞いたことがないので、どの部分がどうだったかを記すのは難しい。ただここでのN響の音は、この曲の間中ずっと、大変に見事であった。どの音のどの瞬間も、これ以上ないくらいに磨かれ、そしてブレンドされていた。前半に打楽器も活躍する派手な部分があり、後半にもあるのかと思っていたが、何か曲が尻切れて終わったかのような印象を残した。これは抜粋プログラムの宿命だとは思われるが、ちょっと残念でもあった。

非常に大きな拍手に何度も呼び戻されるソヒエフとオーケストラは大変満足そうな表情で、もっとずっとこの音に浸っていたいと思わせる演奏会も、気が付けば9時を過ぎており、足早に会場を後にした。ここのところの東京はずっと気候が悪く、今日も冷たい雨が降っていた。ソヒエフには指揮してほしい曲がいくつもある。思い浮かぶだけでも「展覧会の絵」「ペトルーシュカ」「ハンガリー狂詩曲」「スラブ舞曲」あるいはレスピーギ…。できればN響の音楽監督、あるいは次期首席指揮者に、という思いを持つリスナーは多いだろう。だが今や彼はあまりに有名で、スケジュールを拘束するのは大変な指揮者になりつつある。大指揮者になったときに、かつて若い頃よくN響で聞いたなあ、などと話すのが楽しみである。もっともその頃まで、私が生きていればの話なのだが。

2019年10月20日日曜日

NHK交響楽団第1922回定期公演(2019年10月19日NHKホール、指揮:トゥガン・ソヒエフ)

ロシアの若手指揮者トゥガン・ソヒエフは、N響と最も相性の良い指揮者のひとりであり、もう5年も連続で指揮台に立っているらしい。私もあるときテレビで一目見て、これは良い指揮者に違いないと直感してから、もう4年連続で定期公演に通っている。手兵のトゥールーズ・キャピトル管弦楽団との公演を合わせると、もう6回目である。どの公演も、まるで初めてその曲を聞くような新鮮さに溢れ、細かい音符の隅々にまで神経を行き渡らせた音楽は、いっときも飽きることなく引き付けられ、深い感動と音楽を聞く喜びに溢れた好演であった。最近ではベルリン・フィルを始めとするメジャー・オーケストラへの客演もしばしばのようで、その躍進ぶりが納得できる。

今シーズンの客演は10月の2公演で、両公演とも魅力的であり、どちらに行こうかと迷っていたところ、サントリーホールのB公演にもチケットがあることがわかり、結局、両方とも出かけることにした。A公演の井上道義の分を含め、今月は3公演とも聞きに行く予定である。N響を聞き始めて四半世紀以上になるが、こういうことは初めてではないか。

しかもオーケストラはやはり前方で聞くに限る。NHKホールの場合、これがなかなかむつかしく、両翼はやはり音が悪いし、正面になると奥まって来る。唯一、1階正面がいいとは思うが、ここは傾斜が緩く、幅も狭いので少し窮屈である。来年度にはNHKホールの改装が予定されているから、少し改善するならいいのだが(この間の定期公演A,Cプログラムは、東京芸術劇場で行われるようだ)。

さて、台風19号が猛威を振るって東日本を駆け抜け、大きな被害を出してから1週間が経過した。さすがに10月ともなると少し秋めいては来たが、まだどこか天候が不順である。天候が定まらない雨季と乾季の入れ替わる時期に、なぜかチャイコフスキーの音楽がよく取り上げられる。悲愴交響曲などは6月によく聞いたものだった。今回のソヒエフによるロシア・プログラムでは、第4番の交響曲が取り上げられた。この曲は、チャイコフスキーが作曲した7曲の交響曲の中では、比較的良く取り上げられる方だと思う。その内容は、抒情的な第1楽章と第2楽章、ピチカートと管楽器のみによる第3楽章、そして爆発的な第4楽章と言った風に特徴があり、親しみやすい側面がある。だが私は、何かチャイコフスキーの不安定な情緒が反映している感じがして、あまり好きになれない。CDで通して聞くことなどほとんどない。

実演なら、とは思ったが、実はコンサートでもほとんど初めてである(一度、アマチュアのオーケストラで聞いている)。そして、2管編成のオーケストラから出てくる音楽もどことなくくすんでおり、チャイコフスキーの他の色彩的な音楽(例えば「白鳥の湖」は私が最も好きな作品だ)に比べると、どうしても見劣りがしてしまう。そういった面をはねのけ、ソヒエフがどうこの曲を料理してくれるか、そこがポイントである。

ソヒエフによるチャイコフスキーの交響曲第4番の印象は、曲のどうしようもない不安定さを克服し、非常に明快でしかも聞きどころを押さえた演奏だったということだ。演奏の観点では、これ以上の巧さを望むのは難しいと思う反面、そのことが曲の持つ味わいの浅さを露呈したような気がする。そしてNHKホールの音響空間的限界もまた、その結論に貢献してしまっている。もっとも大きなブラボーが沸き起こったのが3階席であることが、もしかしたらこのことを示している。これらの安い席では、最初から音の悪さ覚悟して聞いているからだ。

ソヒエフの指揮するN響のアンサンブルについては、もう何も言うことはないであろう。冒頭の金管楽器のハーモニーも無難にこなし、時折覗かせるオーボエやファゴット、あるいはフルートの印象的なフレーズにもあっけにとられる。指揮にメリハリがあって、特に終楽章のコーダなどは、技ありの圧倒的な迫力だった。

多くの人がより感銘を受けたと語るチャイコフスキーの第4番だが、私はむしろ前半のラフマニノフにより感銘を受けた。ピアノにアメリカ生まれのニコラ・アンゲリッシュを迎えての「パガニーニの主題による狂詩曲」である。この曲をこれほどにまで味わったことはなかった。第18演奏の甘美なカンタービレが突出して印象的なこの曲は、1934年、ストコフスキーが指揮するフィラデルフィア管弦楽団によって初演されている。

アンゲリッシュというピアニストを聞くのは初めてだったが、聞いた最初の印象は、ピアノの音がとても大きくてはっきりと聞こえるということ。もしかしたら聞いた位置によるからではないかとも思うが、まずとても音がよく届き、オーケストラとうまく合わさっている。そしてオーケストラのリズムと溶け合って、ロシア的でありながらしばしば都会的な雰囲気を持つラフマニノフの面白さが味わえたことだ。もしかしたら少し物足りないと感じた人もいるだろうか。70パーセントくらいの力でこの曲を弾いていたのかも知れないし、まあ素人が変な詮索をするのは良くないことだ。ただ私はそういう演奏にも関わらず、私は非常にこの曲を楽しみ、そして感動した。

ソヒエフの指揮するオーケストラの、時に深く立ち止まって目いっぱい静かに奏でるメロディーに、私は深くため息をついた。そこにピアノもうまく合わされていたのかも知れない。どの変奏も味わい深く、このな部分もあったのかなあという発見に満ちていた。もちろん第18演奏も。待ってましたと固唾を飲む聴衆に、しっとりと甘いメロディーが押し寄せてくる。意外にあっさりとした演奏には、よりロマンチックなものを期待する人もいたとは思う。アンゲリッシュはまだ50歳にも達していないとは思われないような老練な足取りで何度も現れ、ショパンのマズルカからの1曲をアンコールした。

ソヒエフの音作りが冴える演奏会。冒頭のバラキレフによる「イスメライ」(リャブノーフ編)という10分足らずの曲については、私は初めて触れる曲だったのでよくわからないのだが、ラフマニノフの音楽に酔い、チャイコフスキーの演奏に納得した今日のコンサートだった。

来週はBプログラムをサントリーホールに聞きに行く。私にとってはこちらが本命で、大好きなビゼーの交響曲ハ長調や、ソヒエフの精緻な音色がこだまするドビュッシー、それに生誕150周年のベルリオーズの作品が取り上げられる。路面の濡れた公園通りを下って渋谷へと向かう。いつもの雑踏の中に緑のシャツを着た外国人が多いのは、ラグビー・ワールドカップの準々決勝(アイルランド対ニュージーランド戦)が行われているからだ。

2019年10月19日土曜日

NHK交響楽団第1921回定期公演(2019年10月6日NHKホール、指揮:井上道義)

ほとんどの曲をレコードやCDで最初に聞いていた若い頃とは違い、最近でははじめて聞く曲も実演から、ということが多くなった。音楽の聴き方が多様化し、どのような音楽でも手軽に聞けるようになった時代にもかかわらず、私のようなこの傾向は、音楽の伝統的な聴き方に回帰している現象である。皮肉なことに、実演で聞かなければ、おそらく二度と聞く機会を持たなかったであろうと思うことがよくある。実演で聞くことがその曲を知るきっかけとなり、そこでストリーミング配信などの新しい聞き方が加わって、音楽生活がより楽しくなる、というのが続いている。聞き古した曲でも、ライブ演奏によってはじめてその魅力に接するようなことが、実のところ多い。音楽とはやはり生に限ると思う所以である。

フィリップ・グラスの「2つのティンパニ奏者と管弦楽のための協奏的幻想曲」という、わずか20年前に初演された作品も、そして、この日の後半のプログラムで演奏されたショスタコーヴィチの交響曲第11番ト短調「1905年」という作品も、私にとって初めて触れる作品だった。後者、すなわちショスタコーヴィチの交響曲は、今ではかなり演奏され、名演とされるディスクも数多く存在する。かつては第5番しか話題に上らなかったこのソビエトの作曲家も、そのソ連邦の崩壊に伴って「解放」された数々の作品が、普通に演奏されるようになって久しい。にもかかわらず、私は今日、コンサートで聞くまでちゃんと聞いたことはなかった。

フィリップ・グラスは、難解な曲の多い現代音楽においてひときわ異彩を放ち、しかも親しみやすい作曲家だと思う。これまでヴァイオリン協奏曲やいくつかの管弦楽作品を聞いて来たが、そのどれもが親しみやすくて興奮に満ち、一種の陶酔的な感覚にも染まっていくような、まるでスポーツのような音楽である。「ミニマル音楽」と呼ばれる領域の代表でもあるグラスは、ティンパニ協奏曲というのを書いた。ここで使われるティンパニは2台。今回のN響の定期公演では、N響の2人のティンパニスト、植松透と久保昌一が舞台の最前面、指揮者を挟んで左右に並んでいた。

通常オーケストラの最上段にいて、4つ程度の太鼓を叩いているのは通常の光景だが、今回二人が叩く太鼓は、それぞれ6種類から8種類もあって、奏者のまわりをぐるりと囲んでいる。私は生まれて初めてストラヴィンスキーの「春の祭典」を聞いた時、ティンパニ奏者が二人もいることに興奮を覚えたが、いまではそんな作品は珍しくない。たった一人の奏者が叩くティンパニでも、「第九」や「幻想」のような作品では、ここぞとばかりにティンパニの切れ味鋭く、目いっぱいその音を轟かせるとき、ただならぬ緊張と予感を感じざるを得ないのだが、そのようなティンパニ奏者が二人もいて、しかも曲の最初から最後までリズミカルに掛け合い、360度あらゆる方向からこの楽器を鳴らしまくる音楽の、その楽しさと言ったら何だろう。

一種のラテン的なリズムにも通じるようなメロディーで始まる第1楽章は、見とれているうちにあったいうまに過ぎ去り、緩徐楽章へと進んでもその面白さは失われない。オーケストラの中の数多くの打楽器群、あるいは金管楽器との溶け合いも面白いが、ティンパニ協奏曲となると普段は管楽器に集中する耳も打楽器を中心に聞いているから面白い。そのティンパニ2台によるカデンツァは、第2楽章の終わりに位置している。

叩いているだけとはいえ、打楽器奏者の職人技が堪能できるが、これだけ多くの太鼓を、何種類ものバチを取り換えつつ一気に聞かせる技も圧巻である。指揮者の井上道義が楽しそうに合わせている様子は、3階席からもよく見える。

カデンツァから続く第3楽章は一気に早いリズム(♩=176となっている)による4拍子と7拍子が交錯したアジア的祝祭感に満たされた曲(解説による)。そういえばそう聞こえるが、私は初めて聞いた時は、どこかラテン的な感じがした。私はこの興奮に満ちた曲をもう一度聞いてみたくて、Spotifyへアクセスした。すると、NAXOSから発売されているカンザス大学管楽アンサンブルによる演奏がみつかったので、それを聞いている。YouTubeでも見られるので、映像のほうが楽しいだろう。やはり実演で接した演奏に、ネットであとからフォローする、というのが専ら私の最近の聴き方である。

さて。井上道義という指揮者は、私にとって少し不思議な指揮者だった。これまでの実演は3回。いずれも悪くはないのだが、かといって心に残らない。最初に聞いた東フィル定期でも、そのモーツァルトの音色の綺麗なことには驚いたが、それだけ。2回目のマーラー(一千人の交響曲)では、圧倒的な熱演ではあったがどこか心に響かない。それはつまりどういうことかと自問自答するのだが、よくわからない。けれども今回、ショスタコーヴィチの交響曲を聞いて、もしかしたらこれは指揮者の音楽を体現するオーケストラの力量に問題があったのではなかったのだろうか、と思った。このたびのN響との演奏は、N響の過去の名演奏と比較しても十指に入るような驚くべき名演奏で、それは個々人のソロだけでなく、アンサンブル、そしてそれを統率する指揮者の並々ならぬ集中力によってもたらされた神がかり的なものだった。歴史的演奏と言っても過言ではない。

その様子をここに記すことは、たやすいことではない。私の文章力と、それに何といってもショスタコーヴィチの交響曲に対する浅い理解では、とうてい太刀打ちできないものだからだ。ただそういった予備知識なしでも、今回の演奏の尋常ではない興奮ぶりは伝わって来たと思う。会場にいた聴衆の、普段は醒めた拍手を常態とする、年配者中心の日常が、どういうわけかあっけにとられて、そこに沸き起こる最大級のブラボーの嵐に大きく凌駕されてしまったのだ。

コンサート・マスターはライナー・キュッヘル氏だった。前半のプログラムに合わせてやや奥まった場所に位置するオーケストラが、広大なNHKホールでは少し小さく見える。「1905年」の第1楽章は、静かでゆっくりとしたイントロダクションで始まる。これは冬のサンクトペテルブルクの宮殿を意味しているのだ。弱音器を付けた不気味なトランペットのファンファーレ。このモチーフは今後しばしば登場する。

「1905年」とはロシア革命の発端となった「血の日曜日事件」を意味する。ここで平和的なデモ行進を行う民衆に向かって銃口を向ける皇帝軍。それは後のロシア革命へと続く皇帝の権力の失墜を意味していた。革命はデモによって開かれ、成し遂げられた。6万人とも10万人とも言われるデモ参加者のうち、何千人が死亡したかはわからないようだ。ロシア革命はソビエトを樹立させ、以降、半世紀にわたって社会主義諸国のリーダとして君臨することとなる。

だがこの曲は、1957年に初演されている。この頃のソビエトは、スターリン死後フルシチョフが登場し、東西の「雪解け」が叫ばれた時代だった。だがそのような中、ハンガリー動乱を鎮めるべく出兵した事件は、私も教科書で習った。ショスタコービッチがこの交響曲に込めた思いは、今一度革命の原点を振り返り、スターリン以前の社会主義理念へと立ち返ろうとしたからだ(それがたまたまハンガリー動乱重なって予期せぬ政治的含意そ示唆することとなった)という(コンサート解説書「Philharmony 10月号」より要約)。

従ってこの標題音楽には数々の革命歌が引用されている。その具体的な曲名は、数々の解説書に詳しいのでここでは割愛するが、中学生の頃、モスクワ放送などを趣味で聞いていた私でもなじみのあるものはない(むしろこの当時のモスクワ放送ではショスタコーヴィチのような音楽はあまり流れず、チャイコフスキーやロシア民謡が多かった)。

1時間にも及ぶ音楽は続けて演奏されるから、静かな第1楽章が言わるといつのまにかアレグロの第2楽章へと入っている。井上は一糸乱れぬアンサンブルでここの巨大な音楽的描写を進ませる。それは民衆の請願行進を意味する行進曲であり、そして一斉射撃、壮絶な死へと転落してゆく。

音楽は切れ目なく第3楽章のアダージョへと続く。ここは死者を追悼するレクイエム。そしてやがて革命への音楽へと変わっていく。怒涛のような音楽、打楽器を多用した賛歌と行進曲、圧倒的なクライマックス、高らかに歌われる社会主義賛歌。これらが混然一体となってアンサンブルを形作る。井上の集中力は、神がかり的と言ってもいい程に研ぎ澄まされ、オーケストラがそこに食らいついていく様は、3階席にも怒涛のように押し寄せてゆく。見ていて、何か目のくらむような錯覚と、そしてそれに負けまいとする精神力がこちらにも必要となる。

だがこれで曲が終わるわけではない。第4楽章はこういった賛歌であると同時に、同時に帝政ロシアに対する警鐘を意味しているという。そのメロディーは後半に登場するイングリッシュ・ホルンのソロによって明確に表されている。N響のオーボエ主席が持ち替えて奏でるイングリッシュ・ホルンの響きは、何と印象的なことか。いやそれだけでない。この日のN響の、時に不安定さを見せる金管がほぼ完ぺきと言っていい出来栄え。私はこんな演奏を聞いたことはない。弦楽器のN響が、重厚でいまやヨーロッパの第一級のオケに引けを取らない水準にあることは、だれも疑わない事実である。

コーダで再び行進曲がクライマックスを築き、途切れるように音楽が終わると、会場からどっとブラボーの声が噴き出した。私はこんな興奮に満ちたN響定期を知らない。楽団員も指揮者も、そして客席も、疲れ果てたと同時に何かをやり切った充実感のようなものが感じられた。何度も呼び出される指揮者は、長い手を振りながらバレエダンサーのように客席を振り返った。彼はまたオーケストラの楽団員の中に分け入って各奏者と握手を繰り返し、その時間は10分以上は続いただろう。私はこの演奏を、テレビで見てみたい。細かい部分まではさすがに3階席ではよくわからないからだ。だが、このような興奮は、おそらくテレビでは伝えきることはできないと確信する。ショスタコーヴィチが自分自身だと語る井上の面目を見た今日のコンサートは、定期としては1回限りだった。だが、他の作品においても同様な演奏が期待できる井上に、是非、他の曲も振ってもらいたい。おそらく同じ思いを、その場に居合わせた聴衆は感じただろう。

蛇足ながら一言。私はこの演奏を聞きながら、あの「天安門事件」を思い出した。人民解放軍が、歴史上はじめて民衆に発砲をしたのだ。あれから30年が経過したが、不安な世界情勢は変わっていない。共産主義と資本主義が「1国2制度」というまやかしのもとに存在する中国では、香港で民主デモが毎日のように行われ、そに向けた当局の締め付けは一層激しさを増しているようだ。社会主義の誕生からまだ1世紀を経てもいない世界で、社会主義運動そのものが博物館入りを果たしたのだろうか。ショスタコーヴィチを聞きながら、格差のますます拡大する今の世界に照らして考える時、その複雑な情勢は私の心を一層暗鬱なものにさせてる。

2019年9月23日月曜日

NHK交響楽団第1919回定期公演(2019年9月21日NHKホール、指揮:パーヴォ・ヤルヴィ)

マーラーはとりわけ好きな作曲家だが、かといってマーラーばかり聞くわけではない。演奏会でも交響曲第5番のようなポピュラーな曲であっても、これまでに聞いた実演はたった2回だったと思う。ディスクではもう少し聞いてはいるが、それでもこのヤルヴィの演奏を聞いて、初めて聞く曲のような気持がしたのは実に不思議なことだ。

思うにこれまで聞いたヤルヴィ/N響による数々の演奏では、その曲の魅力を再発見することが多かった。マーラーで言えば、第1番「巨人」、第4番、ブルックナーの第3番などである。今回のマーラーの第5番もまた、全編それまで聞いたことのないような体験の連続で、それだけでこの演奏が類稀な名演奏であったことがわかる。会場を覆った聴衆からは、私がかつてN響で聞いたことのないような大きなブラボーが鳴り渡ったことからも、それは証明できる。

そのマーラーに行く前に、プログラムの前半に演奏されたリヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から「最後の場」について。シュトラウス最後のオペラとして名高い「カプリッチョ」は、上演に2時間余りを要する作品だが、室内楽的な精緻さを持つフランス風の作品である。私はまだ見たことはないのだが、ソプラノの聞かせどころの多い作品のようだ。シュトラウスはこの作品を自らの総決算と位置付けた。

その最後の場では、間奏曲「月光の音楽」から始まって、主人公マドレーヌ伯爵令嬢が歌うソネットにより締めくくられる。約20分のこの部分を、ルーマニア生まれのヴァレンティーナ・ファルカシュが歌った本公演で、私は見事に睡魔に襲われた。それは音楽が始まってすぐのことだった。隣の熱心な聞き手(背の高い彼はとりわけ大きな拍手をした)には申し訳ないのだが、もう片方の隣では、私よりも先に居眠りが始まっていたから、私はまだましな方だった。

おそらくその原因は、歌い手の少し物足りない歌唱にあったのではないかと思っている。1階席の最後尾ではあったが、音楽は直接響く位置にあって、そのことは歴然だった。ホルンを始めとするN響の音色は、とても繊細かつ饒舌だったことを考えると、この演奏は少し物足りなさを残したと思う。けれどもそれは、後半のマーラーと比較しての話かも知れない。実際、平均点は出ていたように思う。このマーラーは、現在聞き得る中で最高の演奏だったとさえ思うからだ。

そのマーラーの交響曲第5番は、やはりホルンが大活躍する。特に第3楽章の長大なスケルツォでは、第一奏者をわざわざ別の特別な位置に移動させ、その演奏を目立たせた。このホルンの上手さは、シュトラウスから始まって交響曲の序奏でも顕著だった。ホルンの音色が舞台のあらゆる壁に反射して増幅され(ホルンは聴衆とは逆の方向に音を出す)、それが耳元へ届く。ホルンがこんなにも印象深く聞えることはまれであり、しかもそのテクニックが冴えわたる様子は、我が国のオーケストラで聞くことはまずない。ところが今日のN響は全く違っていた。これはもう本場の演奏そのものである。

そればかりではない。金管のセクションの完璧な演奏は、トロンボーンやトランペットを含め、圧巻の出来栄えだった。木管楽器の、先を宙に浮かせて吹くシーンの多いこの曲で、その木管楽器の上手ささえも目立たなくさせてしまうような技術的水準は、楽器の弾けない私がいくら形容詞を並べたところで表現できるものではないだろう。そしてティンパニ!音の強さでつける表現の見事さ、そして第4楽章における印象的なハープ!

弦楽器のアンサンブルが最高度において合わされていたことはもやは言うまでもない。N響の中低音の素晴らしさは、それがまるで単独の楽器であるかの如くであり、ヤルヴィの、ややもするとケレン味の多い指揮に呼応して、見事な瞬間を作り出してゆく。そのライヴ感はちょっと興奮する。オーケストラを乗せてゆく感覚は、私の乏しい音楽経験で言えば、マゼールのような芸術的センスを思い出させるが、音楽はそれほどクールではない。とはいえマーラーの世界にどっぷりと分け入っていくタイプではないところが、好みとしての評価が分かれるところかも知れないが。

そういうわけで技術的な観点では申し分のない演奏は、随所に聞かせどころを多く捉えた見事なものだった。第1楽章から第4楽章まで、この曲はともすればただやかましい曲に聞こえるのだが、決してそうではない、十分に注意が払われ、音楽的な部分が見て取れた。まるで吹く風がすーぅと吹き抜け行くように鮮やかさなパッセージ、過去の記憶を蘇らせる一瞬の淋しさ、適度に緊張感を強めたり弱めたり、丸で魔法にかかったように音楽が変化するのを目の当たりにして、これは緩急自在な、どこか能や歌舞伎の世界にでも通じるような静と動の交わり。

このように第1楽章から第3楽章までは発見の連続だったが、有名な第4楽章アダージエットでも、その表現はため息がでる。そして圧巻の第5楽章。コーダでピタリと決まった時の興奮は最高潮に達した。もし私がこの日のコンサートについて、たったひとつ難点を言うとすれば、それはもはや音楽家についてでもなければ、聴衆についてでもない。1階席の構造上の問題である。N響のS席は1階と2階の中央にあるが、ここの席は前の方に行けば行くほど見えにくい。また席の傾斜が緩く、ただでさえ狭い隣との間隔が、前後においても同様になる。これを回避するためには、通路沿いの席に座ることだが、これはなかなかむつかしい。結果的に、背筋を伸ばして前の席の人の頭の間から舞台を窺うしかないのである。

後方の席は、音が目立って衰弱するから、結局どこで聞いても満足な達成感を得ることは難しい。サントリーホールであれば、おそらくこの問題は生じないだろう。けれどもN響のデッドな音は、むしろNHKホールの方が合っているというのが最近の私の印象だ。だが、それも前方の席に限られるのではないか。

私の2019~20年のシーズンは、このようにして始まった。N響の今シーズンの目玉は、10月のソヒエフ、12月のブロムシュテットと盛沢山。1月にはマーラーの「復活」(指揮はエッシェンバッハ)が、6月には第9番(同、ナガノ)がある。シュトラウスも1月には「4つの最後の歌」(ソプラノはオポライス)と「英雄の生涯」(指揮はルイージ)、5月に「アルプス交響曲」(同、ヤルヴィ)が控えている。とても待ち遠しい。

猛暑続きだった夏が去って、台風シーズンが到来。まだまだ不順な天候の続く今年の9月に、次第につらくなっていく我が身の健康を案じながら、渋谷へと続く並木道を歩いた。吹く風が木立をわすかに揺らし、湿気のある風が私の頬を撫でた。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...