2023年12月31日日曜日

プロコフィエフ:交響曲第1番ニ長調作品25「古典」(クラウディオ・アバド指揮ヨーロッパ室内管弦楽団)

クラシック音楽の演奏にも流行というのがあるようで、近年頻繁に演奏されるようになった曲がある一方で、かつては良く演奏された曲が滅多に聞かれない、といったことが起こっている。プロコフィエフの「古典交響曲」もまたそのような作品ではないかと思う。最近は大規模な難しい曲ばかり聞いていたので、年末のちょっとした時間に息抜きになるような作品はないかと思いを巡らしていたところ、そうだ「古典交響曲」があると思ったので取り上げることにした。もっとも大晦日の今日は午後7時20分から11時40分まで、今年恒例のバイロイト音楽祭収録演奏のトリを飾る「パルジファル」の放送があるから、その前にあまり重い曲は聞きたくはない。

「ハイドンがもし今生きていたらこういう作品を書いたのではないか」という風に考えた若きロシアの作曲家は、まったく独自にわずか15分の交響曲を作曲した。愛すべきこの先品は2管編成、第1楽章アレグロ、第2楽章ラルゲット、第3楽章ガヴォッタ、第4楽章フィナーレの4つの楽章から成っている。溌剌としてメロディーも印象的な作品は、ストラヴィンスキーらのいわゆる「新古典主義」のさきがけとも言えるような時期に作曲された。

私が初めてこの曲を聞いた時、もう一つの条件があるように思った。それは「もしハイドンがロシア人だったら」というもので、この作品は少なくともプロコフィエフならではの作風がみなぎっており、それはまさしくロシア音楽の流れに基づくものであろうと思ったからである。ただそういうことはどうはでもよく、かわいらしく親しみやすい音楽は、短いながらもクラシック音楽を聞く楽しみを存分に味わわせてくれる作品である。

私の家にはエルネスト・アンセルメによる演奏のレコードがあったのだが、記憶が正しければこのレコードはちょっと変わった大きさで、LPよりも小さくいわゆる「ドーナツ盤」よりは大きなものだった。かなり再生回数が多かったのだろう、このレコードは擦り切れつつあった。その後私は「カラヤン・デジタル名演集」というタイトルの1500円の新譜レコードが発売された時、このレコードを買った。その中に「古典交響曲」が入っていた。

しかしカラヤンによる「古典交響曲」の演奏は、より後になってベルリン・フィル恒例の「ジルヴェスター・コンサート」で演奏されたものが、鮮烈な印象を残すものだった。この時のプログラムはこのあとにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番で、独奏はまだ10代だったエフゲニー・キーシン。祖父と孫以上の年齢の開きのある演奏に興味津々聞き入った。カラヤンはもう満足に歩くことができず、ゆっくりと舞台そでを進む老人と彼を気遣う若者が登場する長い時間、カメラはズームを最大に引いてこのシーンをカムフラージュした。

そのプログラムの前半に演奏された「古典交響曲」は(ピアノ協奏曲第1番でもそうだったが)、もう体のコントロールがきかなくなりつつあったカラヤンを知り尽くしたベルリン・フィルが力で押し切ったような演奏で、重厚で十分なエコーもあり、そこそこ切れもある不思議な演奏だった。映し出される各奏者は、いつものように向こうからライトで照らされて体をゆするとそれが見え隠れする。元旦早朝の生放送をVHSのビデオに録って何度も見た。見ていて楽しい演奏というのが、カラヤンのビデオだった。

それに比べると、CDで発売された80年代初頭の演奏は無理なく整理された演奏である。悪くはないのだが、どことなく醒めた感じがする。私の印象により残っているのはアンセルメの後を継ぐシャルル・デュトワの演奏以外では、クラウディオ・アバドがヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したもので、これには「ピーターと狼」の余白に収録されたものである。アバドのぜい肉をそぎ落とした指揮はプロコフィエフ作品によくマッチしており、ピアノ協奏曲を始めとして名演奏が目白押しである。この「古典交響曲」でもリズム感に溢れて刺激的であり、さらっとラルゲットやガヴォッタを通り抜けると、目一杯の速い速度で一気に快走するフィナーレに唖然とする。アバドの楽し気な指揮姿が目に浮かぶようだ。ヨーロッパ室内管弦楽団の巧さも特筆すべきものだと思う。

今年も残りあと7時間余りとなった。歳を取ると毎年新しい正月を迎えるたびに、よくここまで来れたものだという思いが強くなる。そういえば今年は飯守泰次郎の「ロマンティック交響曲」を聞いた。今年逝去したこの指揮者の最後の演奏会となったものだった。一方、オペラ「紫苑物語」で瞠目させられた作曲家西村朗も、若くして急逝してしまった。そのほかにはソプラノ歌手のレナータ・スコット、坂本龍一、そして谷村新司といった人も帰らぬ人となった。久しぶりに明るい年の瀬ではあるが、淋しい気分でもある。合掌。 

2023年12月13日水曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第756回東京定期演奏家(2023年12月8日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

カーチュン・ウォンが日フィルの首席指揮者に就任してから、彼のコンサートが目白押しである。私も初めて演奏を聞き(マーラーの交響曲第3番)、にわかにファンになってしまった。どんな名曲であっても常に新鮮な発見をさせてくれそうな予感がする。極めて微細な部分までを体全体を駆使して表現する様は、見ているだけでも楽しい。そして12月の東京定期公演なる演奏会も、若きマエストロの独断場であった。私は数日前に日フィルからメールが来て、まだ多くの席が残っていることをたまたま知り、8日(金)のコンサートのチケットを買った。今回はその表情豊かな指揮姿を真正面から見てみたいという思いに駆られ、普段はまず買わない舞台裏のP席を取った。だが客席は4割にも満たない状況。ちょっとショッキングだったが、それは見事な演奏会だった。

プログラムはウォンが精力的に取り上げていきたいと語ったアジアの作曲家、特に今回は我が国の代表的な作曲家である外山雄三と伊福部昭の作品が前半に並んだ。まず外山の交響詩「まつら」。この曲を聞くのは初めてだが、ウォンは15分足らずのこの作品を、丁寧に演奏した。1982年に日フィルによって初演されたこの作品は、佐賀県松浦地方に伝わる音楽をベースにしているという。夜明けの静かで厳かな情景に始まり、祭囃子も聞こえてくる日本的情緒を前面に表現した作品で、あの有名な「管弦楽のためのラプソディー」を思わせるようなところがある。P席から見ると打楽器がすぐ下に陣取って、残念ことに一部が見えない。

実のところ外山雄三は私が初めて聞いた指揮者で、それは親に連れられて行った大阪フィルの「第九」であった。小学生だった。古い大阪フェスティバルホールの3階席後方で、ティンパニの音が視覚とずれて聞こえたのを覚えている。その外山も今年逝ける音楽家となった。指揮者はカーテンコールに応えながら、楽譜を高らかに持ち上げ、作曲家の死を悼んだ。

舞台は長い時間、準備のための小休止となった。ピアノの次に大きな楽器が、アップダウンするサントリーホールの左奥から舞台中央に移動されたのだった。マリンバは小学生の頃、音楽室に置かれていた楽器だった。私の通っていた小学校は普通の地元の公立学校だったが、音楽の先生が大変ユニークな方で、通常の授業は一切行わずただ学生に楽器を触らせた。その中に大きなマリンバ(といってもプロが使う大きなものではなかったが、それでも当時80万円はすると言っていたような気がする)、ザイロフォン、パーカッション、ベースなどまで揃っていた。小学生は毎日、昼休みになるとこれらの楽器の争奪戦が行われ、勝者が順にこれらを演奏するのだった。

そのマリンバである。マリンバがオーケストラと共演する曲は珍しい。プロは畳以上の大きさのある広い鍵盤を右に左に移動しながら、4本のバチを持って演奏する。そのバチも曲の途中で様々な長さのものに交換する。指揮者がやや横にずれ、舞台正面に陣取ったマリンバを演奏するのは、「日本を代表する打楽器奏者」池上英樹である。指揮者とともに舞台に現れると、伊福部昭の名曲「オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ」が始まった。P席から見る奏者は、向こうを向いてはいるがそのバチさばきが良く見えてなかなか面白い。

この30分程度の曲は、よくあるように急=緩=急の3つの部分から成っている。北海道生まれの作曲家は、外山のような伝統的な日本風情緒を押し出すようなことはしない。むしろ北方の大地を思わせる広がりと、そこから湧き出すような土俗的リズムが顕著である。その中から「ゴジラ」の音楽が生まれた。それが音楽的にどういう意味を持つか、詳しく説明するだけの知識はないが聞いていて面白いことは確かである。カーチュン・ウォンはこの曲に前半の重心を置いていたのは明らかで、時に野蛮とも思われるようなリズムを軽快に刻む。私はマリンバの演奏の良し悪しを評価する知見を持たないが、よくもあんなに複雑なバチを暗唱した上で間違わずに弾けるものだと思った。この大きな楽器を演奏するには、楽譜を見ている余裕はないのである。

コーダの部分は長く続くリズムに合わせて聴衆が体中が揺さぶられた。その興奮の様子は録画され、早くもテレビマンユニオンのサイトで観ることができる(https://members.tvuch.com/member/)。ただ視聴には一つの公演につき1000円もかかる(しかも90日しか見ることはできない)。私は実演を見たわけだし、ビデオで観る音楽は所詮その時の感動を超えることはない。音楽はライブにこそ意味があるのだ。だからビデオ視聴はもう少し安くてもいいのではないかと思う。なお、マリンバ独奏のアンコールは、マリンバ用にたいそう味付けされた「星に願いを」だった。

休憩を挟んで演奏されたのは、本来この公演を指揮するはずだったアレクサンドル・ラザレフの十八番、ショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。ショスタコーヴィチの全15曲に及ぶ交響曲の中で最も有名であり、かつ明快な音楽である。かつてショスタコーヴィチの音楽などまだ珍しかった頃でも、この第5番だけは良く演奏された。私の実家にもレナード・バーンスタインが雪解け時代のモスクワに凱旋した際に録音された公演のライブ盤があったし、コンサートでもマリス・ヤンソンスの演奏を聞いている。親しみやすい音楽なのだが、その意味するところは複雑だ。結局何が真実かよくわからないまま、批判の矢面に立たされていたショスタコーヴィチの名誉が、ソビエト社会で回復する。

ただカーチュン・ウォンの解釈はプログラム・ノートに書かれているように、共産主義体制によって人間性が圧迫され、政治との軋轢と絶望の中で聞こえる悲痛な叫びや恐怖、絶望、その果ての孤独といったものに覆われている音楽だという。舞台上のマリンバに代わりピアノ、チェレスタ、鉄筋など打楽器が所せましと並び、2台のハープも加えた様は壮観である。私は普段見えないピアノの鍵盤を見下ろす位置に座っている。このオーケストラの中の鍵盤楽器奏者は、チェレスタも演奏する。ここから見る一番奥に、コントラバス奏者が10人以上いる。

演奏はほぼ完璧と言ってもいいものだった。オーケストラの技術的な観点だけではない。加えて音楽的な完成度という意味で、これ以上望めないレベルだった。カーチュン・ウォンの表現が恐ろしく明確で、それに応えるオーケストラ。日フィルに望みうる最高レベルの演奏だった。そして先日のマーラーいい、今回のショスタコーヴィチといい、このコンビで聞く音楽の充実度は、聞いていて歓喜の声を上げたくなるほどだ。第1楽章の冒頭だけで何十回と練習を繰り返したとか、弦楽器のボウイングを分けて演奏したとかといった技術的な噂も聞こえてくるが、そういったことを感じさせないほどにこなれている。余裕さえ感じられたと思う。それでいて白熱の名演、なかなかできるものではない。

このゆとりある完璧な演奏スタイルが、上記のようなショスタコーヴィチ音楽の暗く非人間的な負の側面をどれほど十全に表現しえたかはわからない。むしろ明快で単純な勝利への音楽と感じることもできるような気もする。このあたりは聞く側の主観にも依存するのでいい加減なことは言えないのだが、音楽の持つ多様な側面を感じるのも技術的完成度ゆえのことだろうとも思う。

第1楽章の何かが始まるような戦慄、第2楽章の無機的な舞踏を経て第3楽章の孤独の極限がこれほどまでに明確に聞こえてことはなかった。終楽章の沸き立つ行進は、精緻な中間部を経て大きく再現され、コーダでの打楽器を含むトゥッティへと導かれる。一気に自然な形で進むので、あっけにとられているうちに終わってしまった。アーカイブのビデオで再度見てみたいと思う。客席こそ空席が目立ったが、熱心なファンが止まってしまった拍手をパラパラと再開し、それが何分も続くうちに次第に増えていった。オーケストラが退場しても指揮者だけが呼びもどされた時、やはりこの演奏は多くの人の心を打ったのだと合点した。

カーチュン・ウォンの演奏会はこれからも多く組まれている。その中にはマーラーの交響曲第9番も含まれる。有名曲であっても何か新しい発見のある演奏に、来年も触れ続けていきたいと思った演奏会、ついに私は来春から始まるシーズン前半の定期会員チケットを購入してしまった。

2023年12月5日火曜日

ラフマニノフ:交響曲第1番ニ短調作品13(ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団)

白内障を患ってから活字に触れる機会がめっきり減ってしまった。それでもここ数日の未読の新聞をこの機会に読もうとして、何部かを旅行に持ってきた。福島へと向かう東北新幹線の満員の車内で書評などを読む。新しい小説との出会いはこのようにして得られることも多い。勿論耳の方は、スマホから流れるクラシック。冬景色のみちのくは私をロシア音楽、とりわけラフマニノフへと誘う。

雲が低く垂れ込み、そのわずかな隙間から青空が映える。進行方向左手の二人席は朝日も当たらず、北向きのクリアーな景色が好きだ。北関東の山々が次第に近づき、その山麓が少し色づいている。そんな景色を眺めながら、今日はラフマニノフの最初の交響曲第1番を聞いている。演奏はカナダ人ヤニック・ネゼ=セガンが指揮するフィラデルフィア管弦楽団、演奏は2019年(ドイツ・グラモフォン)。

ある作品が初演されたものの大きな不評を買い、後になって評価されるようになることはよくあることで、この作品もまたそのような経緯を辿った。後に有名となる才能ある作曲家にはほぼ一般的な経過とも言える。その洗礼をラフマニノフも受けた。ただ彼が受けた酷評は、あまりにもひどいものであったようだ。その後作曲の筆は途絶え、4年以上に亘ってそれは続いた。だがこの作品への思いは大きく、晩年の最後の作品「交響的舞曲」にも引用されている。このCDは、この「交響的舞曲」をカップリングしており、こちらの方も名演である。

今日乗っている列車は「なすの」郡山行きだから、新幹線の各駅に停車する。小山や那須塩原といった駅に停車する列車は1時間に1本しかないから、10両編成の車両は出張のサラリーマンでいっぱいである。埼京線と並走する大宮までの間、私は第1楽章を聞く。大宮で結構な人数の客が乗ってくるまでのこの区間は比較的空いている。

これほどにまで酷評された音楽を一度聞いてみたいと思った。ラフマニノフの交響曲は第2番が断トツに有名だが、今年生誕150年を迎えて、何度かは演奏されているようだ。

第1楽章の冒頭は3連符を含むおどろおどろしい出だしである。このメロディーは、実は続く以降の各楽章の冒頭でも繰り返される。これがこの曲の統一的なモチーフというわけだが、各楽章の性格は実に異なっていて、様々な要素がてんこ盛りである。第1楽章はフーガを伴う推進力のある部分が登場するかと思えば、木管のソロだけの静かな部分もやってくる。互い違いに進みながらも、まあこの楽章は聞けると思った。寂寥感を湛えたロシア風のメロディーは、あのラフマニノフならではのものである。

列車はかつて住んでいた大宮市(現、さいたま市)を抜けていく。住宅街が途切れ、田園風景が広がってくる。演奏は第2楽章に入っている。第2楽章はスケルツォ風で、目だった変化こそ少ないが、3拍子の駆け足の音楽がずっと続く。続く第3楽章は緩徐楽章。ここはしっとりと味わい深いので、何度も聞いてみるとだんだんその良さがわかってくる。

第4楽章が始まって再び主題が現れると、今度はファンファーレを伴った行進曲になる。祝祭的なムードと性急で不安定な和音を織り交ぜながら進む。木管ソロと打楽器が組み合わさるラフマニノフの真骨頂である。これが後年ジャズの要素にも結び付く。45分にも及ぶ曲がようやく終わろうとする頃、派手に銅鑼なども打ち鳴らされていったん静かなムードに戻って溜を打ち、最後はティンパニが鳴って突如終わる。

一般にある曲を「わかる」ようになるためには、そうなるまで聞き続けるしかない。クラシック音楽は最初から誰でも簡単に親しめるわけではないので、そういう努力をしなければならない。なぜそういうことをしてまで音楽を聞き続けるか?それは「わかった」時の嬉しさが大きいからである。ただここで「わかる」というのは、大いに主観的かつ曖昧なことであって、そのレベルには実際限りがない。だから一愛好家としては「わかる」イコール「楽しめる」とでも捉えておくのが良いだろう。そういうわけで、私もラフマニノフの交響曲第1番を何度も聞いてみたところ、これは大変カッコいい曲に思えてきたから不思議である。最初は支離滅裂で、それこそ初演時に評論家がこき下ろしたものを読んで納得したのだから、当の作曲家にしてみればいい加減なものであろう。

だが、よくよく考えてみるとこれは若き天才作曲家の野心作なのである。いくら最初の交響曲とはいえ、初演時の指揮は何とグラズノフである。注目されないはずはない。そもそもまだ駆け出しの若者の作品を、サンクトペテルブルクの音楽界は満を持して迎えたことになる。そこで歴史的な不評を買った。だがこれを額面通りに受け取ってはいけない。私見だが、これは当時の重鎮たちの嫉妬ではないか、と思うようになった。才能ある若者は、それを臆せず見せびらかしたからかもしれない。このことが原因でラフマニノフはうつ病にかかり、しばらく作曲から遠ざかったにもかかわらず、チャイコフスキーに並ぶロシア最大の作曲家のひとりになった。

ラフマニノフ生誕150年の今年、ラフマニノフの曲が数多く演奏された。私もいくつかに出かけようと思っていたのだが、プログラムに上ったのは昨年の終わりから今年前半にかけてが多く、私は迷っているうちに行きそびれてしまった。今シーズンのプログラムの中心は、来年生誕200周年を迎えるブルックナーへとすでに移っている。

ラフマニノフの交響曲第1番はユージン・オーマンディによって西側に紹介された。オーマンディと言えばフィラデルフィア管弦楽団から豪華絢爛な音色を引き出した指揮者として有名である。その後「フィラデルフィア・サウンド」はヤニック・ネゼ=セガンに引き継がれた。

間近に迫った寒い冬を前に、つかの間の落ち着きを楽しんでいるような陽気の中で、宇都宮を出た列車は、那須連山を遠くに仰ぎながら快走している。今年の秋はひときわ暑かった夏のおかげで、さぞ紅葉が見事だろうと思っていたら、気温の高い日が長く続いたせいで色づきが遅れ、しかも急に寒くなったことで葉が散ってしまった。山々はいくぶん赤い感じがするが、その奥の山々は山頂付近がすでに冠雪している。いつのまにか雲は消え、その連山に光があたってまぶしい。

東京からわずか1時間。今回の旅の最初の目的地、新白河も間もなくである。

南湖公園(白河市)

2023年11月16日木曜日

シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105(パーヴォ・ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団)

シベリウス最後の交響曲第7番は、短いながらも味わいに満ち、様々な要素が凝縮された愛すべき作品である。シベリウスのすべてがここに詰まっているような気がする。この第7番こそシベリウスの交響曲の最高峰だという人が多いが、私もそれに同意したい。1924年に初演されたが、シベリウスはこのあと20年以上もの残りの生涯に、次なる交響曲を残すことはなかった。

単一楽章だが4つの部分に分けて聞くことができる(いくつかのCDでは、この4つの部分を別のトラックに分けている)。演奏はシベリウスの第一人者とされるパーヴォ・ベルグルンドによるものを聞いている。ベルグルンドの演奏を絶賛・評価する人は多い。私もどこかで取り上げようと思っていたが、とうとう最後の交響曲になってしまった。ベルグルンドには、3種類の交響曲全集が残されているが、私が聞いてるのはそのうちの2番目、ヘルシンキ・フィルを指揮したEMI盤である。録音は1984年。

ヘルシンキ・フィルは、私が初めて聞いた外国のオーケストラである。オッコ・カムという指揮者がこのオーケストラと来日し、全国各地を回りながらシベリウスの作品を演奏した。当時中学生だった私は、学生席というのをプレイガイドで購入し、友人とともに大阪フェスティバルホールへ出かけた。交響詩「フィンランディア」に始まり、第2番、そして第5番という有名曲の日だった。シベリウスの交響曲を聞くのはほとんど初めてで、家にあったカラヤンのLP(フィルハーモニア管)を慌てて聞いてメロディーを頭に入れたが、何か素気ない演奏に聞こえたのは録音が古かったからだろう。

ヘルシンキ・フィルというのも初来日で、1982年2月のことであった。この時の記憶は今でも残っている。しかし演奏についてはよく覚えていない。ただこの演奏の模様は民放FMで放送され、のちにCDにもなっている。おそらく名演だったのだろう。しかしヘルシンキ・フィルという団体は、北欧では最も長い歴史を誇るらしいが、当時はほとんど無名だった。技術的にも日本のオーケストラとあまり変わらないレベルに思えた。少なくとも私がその翌年に聞いたイスラエル・フィルなどとは大きな落差があった。特に弦楽器の厚みは当時の日本のオーケストラと同様やや薄かった。だがシベリウスの交響曲に関する限り、それはそれでフィンランド独特のムードを表現するに遜色はなく、それがゆえに私には不満はないどころか、初めて聞く来日オーケストラに随分と興奮した。思えば当時は、1回1回のコンサートが一大事で、私はそれこそ前日、いやそれ以前からそわそわとしていたほどだった。

そんな思い出のあるヘルシンキ・フィルと、ベルグルンドはシベリウスの交響曲全集をデジタル録音した。ここで聞ける温かく、ふくよかな表情に満ちた演奏は幸せな気持ちにさせてくれる。他の表現も可能だと思うが(実際、カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏は、ロマンチックなうねりが終始続いて圧巻である)、これはシベリウスの演奏のひとつの標準ではないかと思う(1回目の全集は聞いたことがなく、3回目のヨーロッパ室内管弦楽団との演奏は、より新しい録音でシャープに聞こえる点が好ましいと思うかどうか)。

さて、交響曲第7番は次第にクレッシェンドする上昇音程から始まる。良く聞くと後ろでティンパニが鳴っており、ここを大袈裟にドラマチックに表現する指揮者もいるが、ベルグルンドはさほどでもない。静かで厳かな最初の部分が続いて、緊張が頂点に達すると、まるで分水嶺を超えたようにピチカートで音程が下降する。ここの表現をいかに印象的にやるかが私のひそかな聞き所なのだが、ベルグルンドは目立たない。やがてスケルツォ風とも言える次の部分へと入ってゆく。

この交響曲で終始活躍し、かつ印象を残すのはトロンボーンの演奏である。時に厳かで、時に広い空間を想起させるこの金管楽器の響きは、ベルグルンドの演奏で聞くと(録音のせいもあるが)どこか温もりがあって、北欧の厳しい自然がほっこりとしていることに安堵する。ハ長調というのが大地の広がりを見せるが、例のごとくそこに色はない。このようにこの作品を北欧の自然と結び付けて聞くのは勝手だが(シベリウスはいつもそうしたくなる)、かといってこの曲は標題音楽ではない。様々な要素が混じりあっているため、短いながらも単純な想像の域を超えてしまうところが、この曲の魅力だと気付く。わずか20分余りに長さの中に、多くの音楽的要素を内在させつつ非常にシンプルで無駄がないところが、この曲の凄いところだ。

シベリウスの交響曲について書くことは、大変労力のいる作業だった。どの作品もその魅力を文章にするのがとても難しいと思った。これが標題音楽だったら、その具体的事物について理解し、そこから音楽に入って行ける。だが交響曲だとそうはいかない。しかもその作品はいずれも骨格ある形式を有してはいないどころか、極めて自由な筆致で書かれている。演奏もどういうものを基準にするとよいのかよくわからない。シベリウスを得意とする指揮者がいる一方で、まったく演奏しない指揮者も多い。シベリウスは演奏者を選ぶ作曲家だと思う。

2023年11月11日土曜日

シベリウス:交響曲第6番ニ短調作品104(サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ロシア周辺に位置する国々は様々な形でこの大国の干渉を受け、時には戦火を交えている。フィンランドもまたその例外ではなく、1918年にロシアから独立するまではロシアの一部だった。交響曲第6番はこのような時期に作曲された。シベリウスという作曲家は、フィンランド独立の歴史と切り離して語ることはできない。しかし音楽自体からはそうした背景を感じるようなものではなく、むしろ他の多くの作品と同様に北欧の自然を映したような、純粋で透明感の漂う作品である。私はこの作品こそ、親しみやすく音楽的にも充実した作品として認識を新たにした。

第1楽章は清涼感の漂う静かな序奏で始まる。この感覚が非常に美しい。一気にシベリウスの世界に入ってゆく。やがて木管楽器が孤独感を醸し出すメロディーを吹き始める。寂しいのだが湿度は感じられない。その中から速い主題が現れて疾走するような部分に転じる。この変化していく部分が大変きれいで素敵だと、初めて聞いた時に思った(それはカラヤンの演奏だった)。この主題こそが第1主題で、それまでは前奏だと思っていたのだが、実は第2主題だそうである。

細かくリズムを刻みつつ、大空の中に太陽が昇っていくような雰囲気は、真っ青な大空を眺めているようなイメージを私に抱かせる。この作品にはハープが使われている。飛び立つ白鳥のようなアクセントを加えながら、速い音楽はやがてゆっくりと落ち着きを取り戻し、あっけにとられるような終わり方をする。

第2楽章に入ると木管楽器がゆったりとしたメロディーを吹き始め、氷上の白鳥はしばし一休み。物憂い表情も見せるが、後半小刻みなミニマル音楽風メロディーに速度を上げたかと思うと、次第に明るいメロディーへと移っていく緩徐楽章である。この楽章もあっけなく終わる。

3分余りと短いが凝縮されたようなスケルツォ風第3楽章を経て終楽章へと入ると、同様に速いがより深刻で切羽詰まったような感じになる。ここで頭角するのがコラール風のメロディーで、途中から次第に明るさも垣間見えるあたりは祈りのような部分でもある。この作品は、すべての楽章で静かに終わるのが特徴だ。

イギリス人指揮者にシベリウスを得意とする人は多いが、サイモン・ラトルもまたその一人だろう。私はまだ彼が30歳の若手だった頃、フィルハーモニア管弦楽団と来日した際にシベリウスを聞いている。この時は第2番の交響曲だったが、あっけにとらわれるような高速の演奏だった。あれから40年近くが経過したが、この間に2組の交響曲全集をリリースしている。私がこのたび聞いたのは、このうちの後の方でオーケストラはベルリン・フィルである。

ベルリン・フィルの機能性を最大限に生かしつつ、ラトルらしい集中力と迫力を感じさせながらオーケストラをドライブしている。この作品の作風に、ラトルの演奏がとても合っているように感じた。

2023年11月7日火曜日

辻本玲チェロ・リサイタル(2023年11月4日、Hakujuホール)

NHK交響楽団の首席チェロ奏者を務める辻本玲のチェロ・リサイタルを代々木にあるHakujuホールで聞いた。オーケストラ作品やオペラが専らの私が室内楽のコンサートに出かけるのは珍しいので、そのことから書き始めなければならない。

今から5年余り前の2018年4月、私はピエタリ・インキネン指揮日本フィルの演奏会に出かけた(https://diaryofjerry.blogspot.com/2018/05/6992018427.html)。その時私はワーグナーの「指環」をオーケストラのみによるダイジェストに編曲した「言葉のない指環」(ロリン・マゼール編)を聞いたのだが、その中に大変印象的にチェロ弾く人を見つけた。普段はそのうようなことをしないのだが、私はそれが誰であるかをプログラム冊子で確かめたほどだった。ほどなくして私の高校の同窓会が東京で開かれ、何とそのチェリストが卒業生のゲストとして招待されていることを発見した。それが辻本玲だったのだ。

急に身近に思えてきた彼の演奏を、同じように素晴らしいと感じた人も多いのではないかと思う。そして2020年には何と、日フィルからNHK交響楽団に移り、今ではテレビ中継もされる定期公演などで良く見かける。高校の同窓会誌に彼を応援する会のことが掲載されていたのを発見したのは今年。私の親の世代が中心の会だが、私もさっそく会員になった。その会報(メルマガ)には、彼の出演する演奏会がリストアップされている。そして一度、リサイタルでもと思っていたところ今回のコンサートを発見、急いで席を確保した次第である。

毎年何度か、リサイタルを開いているようだが、今回の会場はHakujuホールというところで、私も初めて出かけた。原宿や渋谷から歩くこともできるが、最寄りは代々木公園駅である。休日ともなると人通りが多いこの界隈には、お洒落な飲食店が立ち並び、外国人の姿も多い。11月とはいえ、季節外れの暑さが続く今年は、晴天が続いている。私は原宿のカフェで時間を調整し、遅れないように会場に入った。以下、その時の感想文で会報に投稿したものを転記することとしたい。

私は辻本さんのリサイタルも、Hakujuホールに行くのが初めてでしたので、行き先を間違えることもなく、出口で迷うこともないように万全の準備をして出かけました。ところが会場へ着くとその入口に張り紙が掲示されており、何とピアニストが沼沢淑音さんから大伏啓太さんに交代、それにともなってプログラムの一部が変更になるとのことでした。

もともとのプログラムは、ハイドン(古典派)からシューベルト(ロマン派前期)を経てラフマニノフ(ロマン派後期)に至る素敵なプログラムを期待していたのですが、お怪我をされてとのことで、繊細な楽器を操る芸術家にはこういうこともあろうかと思った次第です。

シューベルトのアルペジオーネ・ソナタの代わりに演奏されるのが、しかしグリーグのチェロ・ソナタイ短調と書かれており、同じ国民学派の音楽を堪能することもできるということで、それはそれで期待が高まりました。 
ハイドンのディヴェルティメントニ長調という曲を聞くのは初めてでしたが、私は全交響曲を聞きとおしたこともある大好きな作曲家で、骨格のあるかっちりとした中にも、それとなく技巧的な部分もある作風に惹かれています。短い作品でしたが、たっぷりとした辻本さんのチェロに聞きほれました。マイクを持って大阪弁の辻本さんが、ピアニスト交代に至った経緯などを説明し下さりました。直前のことだったので、短い期間にプログラムをやりくりしたのは大変なことだったと推察します。しかし次のグリーグはまるでブラームスのように濃い作品で、北欧のリリシズムを期待していると裏切られる結果となりました。 
Hakujuホールは私にとって、ちょっと残響が多く、特にピアノの音がダブって聞こえるようなところがああるような気がしますが、次の「ヴォカリース」とチェロ・ソナタト短調に関しては、私は作品と演奏に没頭し、そこで展開されるロシアの響きにうっとりとする時間でした。 
晩秋(といっても今年は暑いですが)ほどラフマニノフが似合う作曲家はないように思います。それは私がかつて岩手県をドライブしていた時、紫波町にあるレコード収集家の「野村あらゑびす記念館」に向かっていた時でした。11月の寒い日ににわか雨が降り、そのあと見事な虹が現れたとき、ラジオからラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れてきたのでした。濡れて鮮やかに蘇った紅葉に青空と途切れる雲、晴れたと思ったら小雨が交じるその向こうに、広大な平野と山々が見えました。岩手はラフマニノフ、というのが私の思い出です。演奏会の2日前の日経コラムに、その岩手出身の宮沢賢治とクラシックに関する記事が載っていたのを思い出しました。
辻本さんも出かけたことがないところを想像しながら音楽を演奏する、というようなことを話されましたが、私はチェロと岩手とラフマニノフが結びついており、なんかそんな変なことを考えながら、演奏を聞きました。
アンコールには、今回演奏されなかったシューベルトから「アヴェマリア」を、さらには定番のピアソラ作曲「オブリヴィオン」を演奏されました。いずれも思いに満ち深々としたた演奏で、秋の快晴の昼下がりを堪能した一日でした。そのあと妻と伴に渋谷まで歩き、日本シリーズ観戦のお供に夜の総菜を買って帰ることができました。 
2023年11月2日 日本経済新聞夕刊

2023年11月4日土曜日

東京都交響楽団第985回定期演奏会(2023年10月30日東京文化会館、オスモ・ヴァンスカ指揮)

今年はシベリウスの作品を重点的に聞いてきた。7曲ある交響曲(「クレルヴォ」を入れると8曲)のううち、前半の2(3)曲はまだ若い頃の作品で本当のシベリウスらしさに欠け、第3番は過渡的とされている。第4番は暗く陰鬱な作品だ。交響曲作曲家としてのシベリウスの真価が発揮されるのが第5番からとされている。シベリウスの後期の交響曲第5番、第6番、第7番はほぼ同時に着手された。

この3つの交響曲を同日に演奏するコンサートがあることを知ったのは、直前のことだった。シベリウスを得意とする第1人者のひとり、オスモ・ヴァンスカが都響の定期に登場するのである。コンサートは1回限り。しかも月曜日の夜で場所は東京文化会館。こんな玄人好みの演奏会は、さぞ閑散としているのだろうと思った。実際、当日券を含めチケットは全席種発売中。東京文化会館というのはトイレや席が狭く、あまり快適とは言えないが、アクセスが良い(改札口から30秒!)ことと、音響がさほど嫌いなほうではない(ただし前の方)。そういうわけで1階席脇後方のB席を買い求め、仕事が終わってから上野に駆けつけた。

驚いたことに会場には沢山の人が詰めかけていた。そして9割以上の席が埋まっていたと思う。我が国ではシベリウス・ファンが結構多いが、それにしてもヴァンスカは人気があるということだろうか。何でもこの日のプログラムは、コロナ禍で2度も延期になったものだそうだ。そしてヴァンスカは都響にこそ初登場だが、これまでに東京でシベリウスの名演を成し遂げてきている。ただ私は縁がなかった。10年以上前の2008年に読響の定期演奏会で聞いたことがあったが、その時はベートーヴェンの作品ばかりで、それはそれで大いに評価が高かったものだが、実演にはさほど心を動かされなかった記憶がある。得意のシベリウスではどうか、と期待が高まる。

7時になってメンバーが舞台に登場し、最初のプログラムである交響曲第5番の冒頭が鳴り響いた時、これはちょっと怪しいなと感じた。いつもの都響の切れがなく、音色にも彩がない(もともとシベリウスに色はないのだが)。練習不足か、それとも過度の緊張によるものか。この曲の間中、弦楽器は惰性的で管楽器はしばしば不安定。2つの楽章を合わせて改訂された第1楽章は失望のうちに通り過ぎ、ピチカートが印象的な第2楽章が少し心に残る程度。もっとも第3楽章は少しダイナミックになって、音色の微妙な変化が味わえる演奏になった。

東京文化会館のトイレはひどく、いつも長蛇の列ができる。しかもそれが二手に分かれて階段を何階分も上ることになる。再開されたバーカウンターに行くと、何とワイン1杯が800円もする。かつてはそんなに高かったかと思う。だから閑散としている。この会場には傘置きもないので、雨が降ると大変である。傘を席の下に置くと(そうするしかない)、通るときつまずきそうになるからだ。まあ今日は快晴で、傘の心配はなかった。

期待外れの前半を終えて後半が始まった。すると何と、見違えるような音色に変化したオーケストラからは次の交響曲第6番の冒頭から、一糸乱れぬアンサンブルが聞こえてきたのだ。第1楽章冒頭の静謐な音色が微妙な変化を重ねつつ、やがてトレモロが姿を現し、速いメロディーになってゆくところが私は好きだ。それにしても何という変貌ぶりなのだろうか。前半とはまるで違うオーケストラのように聞こえる。いや、前半が酷かった。都響の本領がここへきて発揮されたということだろう。

交響曲第6番は、そういうことで実に素晴らしい演奏だった。おそらくこの曲に、今回の演奏会の力点が置かれていたのだろう。私はシベリウスの魅力に改めて感動した。第2楽章に至っては、第1楽章でパッとしなかった木管楽器も腕を振るう。私は最近スウェーデンの作家、ヘニング・マンケルの小説を読んだばかりなのだが、そこで随処に語られる北欧の寂寞の表情を想像した。この作品でのみ登場するハープの音色が、色のついた温かみを感じる。

スケルツォ風の第3楽章を経て宗教感さえ漂うとされる第4楽章。それでも曲はあっけなく終わる。全体を通して同じように静かな調子は、初めて聞くと戸惑いも多く印象に残らないのだが、いい演奏で聞くと味わい深い作品だと改めて思った。勿論、会場の拍手は前半よりも多かったと思う。

続けて演奏された交響曲第7番もまた、実にいい演奏。私はこの曲の魅力に初めて気づいた。わずか20分余りの曲は、交響曲と呼ぶにはあまりに自由な形式である。ヴァンスカはこの曲もまた、大いに思いを入れて指揮していたように思う。都響のアンサンブルの美しさは、私の好みから言っても、このデッドなホールによく合っていた。配られたプログラムの解説には「重大なハ長調の大地の上で神秘的にきらめくオーロラのようである」と書かれているが、まさにそのような演奏だった。

様々に変化する曲の構成も、白く幻想的なシベリウス独特のキャンバスの上で繰り広げられる。時に室内楽的な佇まいも、あっけにとられたように終わる。指揮者は随分長い間タクトを下ろさない。静まり返った客席は、その瞬間を楽しんでさえいる。満足したのだろう。次第に湧き上がる拍手とブラボーの中を、ヴァンスカはソリストたちを順に立たせてゆく。おそらく3割ほどの人が、熱心なシベリウスのファンだったのだろう。そして今宵の演奏の良さがわかったと見える。オーケストラが退席してもなお、鳴りやまぬ拍手に応えて舞台にマエストロが登場すると、より一層大きな歓声が沸き起こった。

もうすぐ寒い冬が来ると思いたいが、ここのところの日本列島は季節が逆戻りしたかのような暑さである。来年春の上野の音楽祭のブックレットが出来上がって、会場に配置されていた。これを取って行く人が多いところを見ると、上野におけるクラシック音楽のファンも、それなりに固定的に存在するのだろうと思う。だからこのホールは、客席やトイレを改装して欲しいと思う。まあそんなことを考えながら、家路についた。

2023年10月20日金曜日

リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」(サッシャ・ゲッツェル指揮ボルサン・イスタンブール・フィルハーモニー管弦楽団)

趣味の街道歩きのため、新幹線で各地へと向かう車内で音楽を聞き、このブログのための文章を書きたくなることは前にも書いた。前回(8月)私は北陸新幹線で金沢に向かい、リストの「前奏曲」を聞いた。そして今回、一気に秋めいた信濃路を軽井沢から佐久方面へと歩くために、快晴の関東平野を北上する「あさま」の車内で、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」を聞いている。

なぜか。この作品の演奏の中で、とりわけ注目に値する新しい演奏に出会ったからだ。それはオーストリアの若手、サッシャ・ゲッツェルがイスタンブールのオーケストラを指揮して録音したもので、Onxyというレーベルから発売されている。もっとも発売されたのは2014年ということだから、もう10年近く前のことではある。私は時々聞くロンドンの「Classic FM」でたまたまこの演奏を聞いた。その時は確か第3楽章だけだったような気がするが、そのあまりにもエキゾチック(というのはあくまで西欧から見てのことだ)なムードに驚いたからである。

私はSpotifyのPremium会員となっているので、このような場合には即座に検索、自宅のネットオーディオ機器で再生したり、スマホにダウンロードして持ち歩くことができる。今回もちろんそのようにしたのだが、それにしても聞いたことのない指揮者、オーケストラによる珍しいCDも、このようにして新しく出会うことになる。そしてさらにわかったことには、このCDには、同様の傾向を持つ(すなわち東洋的な)作品であるイッポリトフ=イヴァノフの有名な組曲「コーカサスの風景」から、最も有名な「酋長の行列」なども収録されていること、さらには何と、その「シェヘラザード」の楽章の合間に、聞いたこともない楽器による中東風の短いインテルメッツォが挟まれていることだ。

昔わが家にもあったストコフスキーの名盤以来、この曲を様々な形で提供する魅力的な試みが時を隔ててなされてきた。時には原曲を逸脱する演奏が注目を集めることもあるが、私は一介のリスナーに過ぎないのでこのようなものは大歓迎である。このたびの演奏はまさに、イスタンブールという、まさにヨーロッパとアジアの境を本拠地とするオーケストラだからこそうって付けの試みだ言えよう。なお、ゲッツェルはウィーン・フィルの元ヴァイオリン奏者で、指揮者に転じてからは神奈川フィルやN響も指揮しており、我が国ではそれなりに知られた存在であるようだ。

「音の魔術師」という愛称はフランスの作曲家ラヴェルに付けられるが、私はまた「ロシア五人組」のひとりであるリムスキー=コルサコフに対しても相応しいものだと思う(そのラヴェルにも「シェヘラザード」という曲がある)。後年の作曲家に与えた影響は大きく、例えばレスピーギがリムスキー=コルサコフの弟子だった。そのリムスキー=コルサコフはベルリオーズの管弦楽法を学び、自ら「管弦楽法」という著作を残している。

海軍学校の兵士だったリムスキー=コルサコフは、海や航海に関する音楽を残す。交響組曲「シェヘラザード」もその一つである。この作品は有名な「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」を題材としており、次の4つの部分から成っている。

  • 第1楽章「海とシンドバッドの冒険」
  • 第2楽章「カランダール王子の物語」
  • 第3楽章「若い王子と王女」
  • 第4楽章「バグダッドの祭り、海、青銅の騎士のある岩にての難破、終曲」

ヴァイオリンの独奏が冒頭と終結部だけでなく随処でソロを聞かせることから、この作品の録音には担当したソロ・ヴァイオリン奏者の名前が記載されている。この録音では、指揮者のゲッツェルが自ら弾いているのではと想像したが、どうもそうではないらしい。ヴァイオリンのソロは、この話の主人公で毎晩シャリアール王に物語を語っては聞かせるシェヘラザードのテーマである。第1楽章「海とシンドバッドの冒険」では、波打つ海の情景に乗って、この2人の主題が絡み合う。全体の構成から見ると前奏曲といった感じの曲である。

ゲッツェル指揮ボルサン・イスタンブール・フィルハーモニー管弦楽団による演奏では、この第1楽章と第2楽章の間に1分足らずの即興演奏が差しはさまれている。ここで演奏されるのはウードという弦楽器で、中東の雰囲気を醸し出している。

やがて演奏は第2楽章に入るが、ここで活躍するのは木管楽器の独奏である。そしてリズムも様々に変化し、聞いていてもっとも面白い楽章だと思う。オーケストラ音楽として聴きどころが満載。もっとも有名な第3楽章は緩徐楽章で、美しいメロディーによって最高のムード音楽となっている。この第2楽章と第3楽章は、全体を聞く時に強い力を聞き手に与える。「シェヘラザード」を聞いたという充実感は、この2つの音楽を聞いていくことで醸成されるような気がする。各楽器の特徴を良くとらえたソロが頻繁に現れては消える。そのすべてがロシア発の中東ムードに嫌味なくブレンドされている。

第4楽章の力強い音楽は、ここまで聞いてきた音楽ですでに酔いしれている聞き手をさらに延長して楽しませるに十分な効果を持つのだが、この演奏ではここに2回目の「間奏曲」が入る。そして再び活躍するシェヘラザードのテーマ。いっそう技巧的になったこのメロディーのあとで、速いテンポに転じ進行するオーケストラによって、それまでに登場した様々なテーマを交互に奏でては次第に緊張度を上げてゆく。船が難破するのだ。そして曲は最後に再びシェヘラザードのテーマを繰り返して静かに終わる。オーケストレーションの極みを堪能する充実感を味わうことができる。全体で約45分。

多くの演奏家がこの曲の魅力を捉え、様々な表現をディスクに残してきた。有名なコンドラシンの演奏(コンセルトヘボウ管)は私にとって相性が悪く、どこがいいのかよくわからないままだった。極めつきとの定評もあるゲルギエフ盤は、あまりに巧妙にこの曲を操って見せるが、私は少し戸惑うほどでちょっとついていけない。結局、平凡で保守的なオリエンタリズム主体の演奏を求めているのかな、などと思ってみたり、要はこの曲に対する自分の立場がこれまで定まっていなかったのである。このたびイスタンブールのオーケストラによる演奏に出会って、ようやくこの曲の記述をする気持ちになった。

なお、このディスクには東洋風の曲がさらに3曲も収録されている。リズム感があってそれぞれ面白い。特にイッポリトフ=イヴァノフの組曲「コーカサスの風景」から「酋長の行列」は有名である。かつて「ロシア名曲集」のようなコンピレーション・アルバムが発売されるときには、たまにお目にかかった懐かしい曲である。私はバーンスタインが指揮するニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で良く聞いたものだった。一方、トルコの作曲家エルキンの「キョチュケ」なる珍しい舞踊曲も収録されている。

そしてさらに!ボーナス・トラックに収録された2つの曲は、民族楽器を取り入れた編曲による「カランダール王子の物語」と「コーカサスの風景」より「村で」の別バージョンである。これらのおまけ特典を含め、聞き所満載のこのディスク、今ではもはやCD媒体を購入することはほぼなくなったが、売られていることは売られている。もちろん数あるダウンロードもしくはストリーミングサイトで聞くことができる。


【収録曲】
1. リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」作品35
2. バラキレフ(リャプノフ編):東洋風幻想曲「イスラメイ」
3. イッポリトフ=イヴァノフ:組曲「コーカサスの風景」より
      第2曲「村にて」
4.   第4曲「酋長の行列」
5. エルキン:舞踏組曲「キョチェケ」

(ボーナス特典)
6. 「カレンダー王子の物語」(民族楽器との競演による別バージョン)
7. 組曲「コーカサスの風景」より第2曲「村にて」(民族楽器との競演による別バージョン)

2023年10月16日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第754回定期演奏会(2023年10月13日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

終演後の拍手が20分近くも続く演奏会など、そう滅多にあるものではない。来日した世界的オーケストラの演奏会ではない。日フィルの新しい首席指揮者に就任したシンガポール生まれの若手、カーチュン・ウォンの就任披露を兼ねた定期演奏会である。プログラムは、マーラーの交響曲第3番。音楽史における最も長い交響曲の部類に入る休憩なしの1時間40分。ホルン8人、シンバル7台を含むフル・オーケストラに加え、一人の独唱(アルト)、女声合唱団、少年合唱団が加わる。

採算に合わないのだろう。何かの記念となる名目でもない限り本番の演奏に出会うことはない。私は昨年3月京都で、広上淳一の京都市交響楽団の常任指揮者の最後の演奏会にて、この曲を聞くはずだった。そのために藤村美穂子をドイツから招聘し、万全の体制でこの公演が行われるものと思っていた。ところがコロナの影響で合唱団の練習ができなくなり、あえなく別のプログラムに入れ替わってしまったのだった。過去に私がこの曲を実演で聞いたのは、シャルル・デュトワがNHK交響楽団を指揮した2015年の定期公演ただ1回のみ。この時に演奏はもちろん素晴らしかったが、NHKホールというところは広すぎるせいか、集中力が続かないことが多い。前の方で聞いていないと、なかなか印象的なものにならないのだ。

自然の描写を主体とした比較的静かな部分が多く、マーラーの交響曲の中ではもっとも明るい音楽だと思う。多数の楽器が様々に絡み合い、バンダを含む各楽器の音色の微妙な変化を聞き分ける必要がある。なかなかオーケストラ泣かせの曲なのだろうと想像がつく。それが100分も続くわけだから、間違うととてつもなく退屈なものになってしまうだろう。指揮者もよほど自信がないと、この大曲を指揮しきれないのではないか。これが第2番「復活」だと、「終わりよければすべてよし」となるのだが。

日フィルの定期は同じプログラムが2回あって、今回は金曜夜と翌土曜のマチネであった。土曜の演奏会は完売していた。私の聞いた金曜の演奏会もほぼ満席だったから、前評判は極めて良かったのだろう。それも彼が、これまでに積み上げてきたこのオーケストラとの実績によるものだ。

2016年にマーラー国際指揮者コンクールで優勝した若きアジアの俊英は、破竹の勢いで世界中のオーケストラの演奏会に出場しているが、その彼が我が国のオーケストラ演奏を数多くこなしてくれることに喜びを感じている。何でもそのコンクールの前から日本にも住んでいるようであるから、日本での活動に支障はないものと思われる(我が国に住居を持つ有名な外国人は結構多い)。私はコロナ禍に見舞われる少し前、兵庫県の芸術文化センターのオーケストラを彼が指揮する演奏会のチケットを両親にプレゼントしたことがある。だが私は、この指揮者にこれまで縁がなかった。それが今回かなったというわけである。

実際いつにも増して期待が高まった。前もってマーラの第3交響曲の演奏をいくつか聞いてみた。ドゥダメル指揮ベルリン・フィル、アバド指揮ウィーン・フィルなどである(本ブログで過去に取り上げたのは、ブーレーズ指揮ウィーン・フィル、初めて聞いたのはショルティ指揮ロンドン交響楽団だった)。そして今は、バーンスタインの演奏に耳を傾けながら、この文章を書いている(ニューヨーク・フィルハーモニック)。

さてその演奏だが、これは圧倒的な大成功だったと言えるだろう。日フィルがこれほど巧く演奏した例を私は知らない。特に弦楽器のアンサンブルは精緻を極めた。第6楽章は特に、極上のビロードのように深みのある色艶と光沢感が絶妙だった。終始集中力を欠かさず、いつまでも永遠に続くように思われた。何度も訪れるホルンの重奏も、時に不安定な時もあったが致命的な物ではなく、トランペットも舞台裏から聞こえるポストホルンも、さらには2台のハープや木管楽器と良く溶け合った。

シュタインバッハにある別荘でわずか2年のうちに書きあげられた交響曲第3番は、明るい雰囲気に満ち溢れた、ハンブルク時代の最後を飾る、マーラーの作品の中では自由で希望に満ちた作品である。それは彼の自然賛歌であり、美しい情景描写と心理描写に彩られている。冒頭こそファンファーレの大音量が鳴り響くがそれも最初だけで、あとは全6楽章、耳を澄まして聞く微弱音や弱音機を伴った金管ソロなどが続き、大音量の爆発を期待すると裏切られ続く。終楽章のコーダでクライマックスが築かれるものの、マーラーにしてはむしろ控えめで、その感動も長い道のりを経た後に底から湧き上がる精神的高揚感が勝っている。その意味でブルックナーやワーグナーのような作品に接する時のような気持ちになる。他のマーラー作品では、「大地の歌」が音楽的にこの部類に入ろうか。

カーチュン・ウォンの演奏は冒頭から気合の入ったものだった。オーケストラを含め少し緊張していたのだろう、雄弁に両手を駆使し、時には大きなゼスチャーで体を揺らして細かく指示する割には、オーケストラが大人しく思われた。だが、実際の演奏会ではいつもこのようなものである。それがどこかで化学変化を起こし、奇跡のような時間に突入することが稀にある。今回それがやってきたのは、第1楽章のコーダに向かう手前、チェロの重奏からだった。私の見立てでは、この数小節を境にオーケストラの音色が変わった。自信をつけた各楽団員が、それまでに見せたことがないようなレベルのアンサンブルを奏で始めたのである。

実演を聞く楽しみは、まさにこのような一期一会の時間に立ち会えることである。紛れもなくそれが起こった。長い第1楽章が終わって一旦指揮台を降りた時、オーケストラは再度チューニングを行った。合唱団とソリストは最初から舞台に登場し、微動だにせず出番を待っている。まるで赤ん坊を抱くような慈しみを持って、静かな音楽は進む。

カーチュン・ウォンの指揮はあらゆる指示を細かく出す。それが好みの分かれるところだろう。陶酔しすぎず、あくまで理性的な側面を残すことに、この指揮姿が貢献しているのかも知れない、と思った。だがかといってロマンチックな側面が犠牲になっておらず、若々しくて情熱的でもある。交通整理のような指揮姿で有名なロリン・マゼールの指揮を思い出させたが、決して無味乾燥で醒めた演奏にはなっていない。むしろオーケストラとの関係が今後深まったら、よく反応する個性的な演奏が生まれるのではないかと期待している。

1時間程が経過して3度目のチューニングを終えると、山下牧子(メゾ・ソプラノ)の歌唱が、舞台右側の壇上から聞こえてきた。第5楽章ではそこに、女声のハーモニア・アンサンブルと東京少年少女合唱隊が加わる。特に東京少年少女合唱隊の透き通った一糸乱れぬ歌声は、「ビムバム」という印象的な歌詞が何度も登場して独特の印象を残す。この歌唱が入る2つの楽章と最終楽章は、通して演奏される。

第6楽章は第1楽章と対照をなすものだが、自然描写が心理描写に置き換わってより高く、昇華されてゆく感を味わう。大野和士は解説で、この部分を天井に開かれた扉が開き、そこに入ってゆくような感じだと話しているが、そのような高まりは30分近くをかけて徐々に、確実に進んでいく。弦楽器のアンサンブルが例えようもなく美しいが、それを見事にやってのけた今回の日フィルは、圧巻の出来栄えであった。会場の誰もがその演奏に心を打たれた。この曲の最上の演奏のひとつが、今、示されているという感覚。消えては去っていく実際の音楽を、その時にだけ居合わせた人たちとだけ共有している感覚。演奏者と聴衆が一体となって、マーラーの音楽に酔いしれた。

指揮者が長いポーズをとって指揮棒を下ろさない。その間中、雷に打たれたように静まり返った。おそらく最も行儀のいい聴衆が、何も乱すことなく、この長い時間を静寂の中に留めた。やがて沸き起こる拍手と歓声が会場を覆ったとき、指揮者はまず歌手に走り寄り、続いて金管セクションに赴いた。これから長い拍手の時間だった。2つの合唱団と指揮者、さらにバンダで活躍したプレイヤーが何度も舞台に呼び出される。続いてセクションごとに立たせ、それを会場の各方向を向いてお辞儀を繰り返す。指揮者が去っても楽団員は残り、起立を拒む。そして楽団員と合唱団が全員引き上げるまでの長い時間、拍手が絶えることはなく、むしろそれは大きくさえなった。しばらくして指揮者がひとり舞台に登場すると、さらに大きな歓声が沸き起こった。

これほど満足した演奏会は、なかなかないものだ。そして今後、カーチュン・ウォンの演奏会が多く組まれているのも嬉しい。彼はアジアの作曲家の作品を多く取り上げたいと話しており、それと有名曲を組み合わせたプログラムが予告されている。チャイコフスキーのような聞きなれた作品でも、彼の演奏で聞いてみたいと思う。だから、やはり健康を維持して時間と経済力をつけないと、と前向きに誓った一日だった。

2023年10月9日月曜日

finalのBruetoothイヤホンZE3000

新しいオーディオ機器を購入するたびに、音楽の新しい発見を楽しむことができる。アンプやスピーカーだけでなく、それは数千円のイヤホンにも言える。聞き古した音楽も新しい機器で再生すると、丸で別の演奏であるかのように感じることが多い。気に入った機器で久しぶりに聞く音楽は、とても新鮮である。そういう嬉しさがあるものだから、私はたまにオーディオ機器の記事を書いてきた。もっとも私はあまりお金をかけない主義だから、高級なものとは無縁である。飽きたり、失くしたり(ポータブル機器の場合)、気に入らないものを間違って買ってしまうリスクを低減するために、できるだけ安価な機種でそこそこの効果が期待できるという場合にのみ、オーディオ機器を買い替えている。

このようにして数年に一度は記事を書いてきたが、コロナ禍に見舞われたここ数年は、イヤホンを始めとするポータブル機器の視聴にも支障があった。加えて最近は機器を店頭で試す場合、いろいろとややこしい設定を行う必要があり、なかなか簡単に行えない。こういうことから、それまでのように手軽に、様々な音源で視聴を繰り返すことが難しくなってしまったのである。

イヤホンは従来の有線タイプに加え、ワイヤレス型のものが出回って久しい。私も発売当初からBruetooth型のイヤホンを試したきた。ところがまだ技術が未熟だったせいだろうか、これがちっとも良くなかったのである。同期(ペアリングという)に手間取ることがしばしば。当初のものは、耳にのみ装着するタイプはなく、途切れた有線タイプか首に巻くタイプのものであった。しかも全くもって音質の点で満足が行くことはなかった。

ところが私のスマートフォンを買い替える時期が到来し、とうとうステレオ・ミニジャック付きのものでなくなってしまったのである。それまでは音がいいという触れ込みで買わされたSONYのスマートフォン(Xperia)を使おうとしたが、イヤホンはおろかスピーカーで聞く音もあまりに酷かった。それでも中クラスの機種で、それなりの値段がしたにもかかわらずだ。結局、前に買って持っていた中国製(本命はHuaweiだったがこれが買えなくなり、仕方なくOPPOというメーカーのものだった)にSIMカードを差し戻した。満足するには程遠いものではあっが、それでもXperiaよりはましだった。端末の分割支払い契約は最低でも2年あり、私はその間我慢を強いられた。

スマートフォンで聞く音楽には限界があると思った。そもそもイヤホン用のアンプにさほどこだわって作られていないのではないか。そこでBruitooth型のイヤホンの登場となるのだが、これは実のところ有線でのイヤホンに勝るということはない、というのが今もって通説だ。スマホの音質設計の悪さは、DA変換とアンプを耳元に移すことで解決すると思われたのだが、満足の行く音質を辛うじて確保するには、3万円以上の費用が必要と判明した。

もっともSONYは同様の音質重視ユーザーの意見を取り上げるだけの器量は、いまでも健在であるかのように思う。Walkmanの新型モデルはネット対応で、私のようなSpotify会員なら専用機で高音質のストリーミングが楽しめるという謳い文句である。旧機種に比べると電池の持ちがいいとも評判で、これを買おうかと悩んだ。しかしXperiaの経験があるせいで私はSONYにいささか懐疑的であり、スマホとは別に専用機を持つ面倒と、ネット対応とは言え音源はいったんダウンロードする必要があること、それだけのためにAndroidを搭載するというのもいかにも大袈裟であることなどから購入に躊躇したのである。

結局Xperiaの2年契約が終わる今月になって、ようやく私のスマホ生活に変化が訪れた。新しい機種をSONYとOPPO以外のメーカーから選択する必要があった。そして私の契約する通信会社において比較的有利な条件で手に入る機種は、SAMSUNG製(Galaxy)の古いモデルに限られた。Galaxyは初めてである。しかも店員に聞くと今もって音はSONYがいいと言ってくる。ついでにいえばカメラもXperiaがいいと言う人が多いが、これにも私はまったく同意しない。そういう経緯により、私の新しいスマホは韓国製となった。そこにはもはやステレオ・ミニジャックは付いていない。Type-Cのインターフェースから有線接続のイヤホンを使うには、2つの方法がある。ひとつはType-Cのプラグを持つ有線イヤホンを購入すること。しかしこれは選択肢が非常に狭い。今一つの方法は、Type-Cをステレオ・ミニプラグに変換するコードを介して接続する方法である。しかしこのようにつなぐと充電しながら聞くことができない。iPhoneと同じ悩みである。

いよいよ世の中は、携帯音楽プレイヤー(それはすなわちスマホのことだ)で聞くイヤホンがBruetooth型に集約されつつある。この間に技術が向上し、少しは音質が良くなったと信じて何かを購入することに決め、いつもの量販店へ赴いたのはスマホ購入の翌日であった。まずはType-Cからステレオ・ミニジャックに変換する短いコード(1700円もする)を購入し、同じ売り場でいくつかの機種を試すことにした。予め選択肢に入れた機種を小さい紙に書き写して持参し、外見や装着感などをみてから気に入ったものを買うつもりだった。予算は1万5千円以下。どれを選んで良いかわからない時には、Galaxy Buds2というものが丁度予算いっぱいの値段で売られているから、これにすることとした。言うまでもなくスマホとの相性を想定した結果である。

Bruitoothのバージョンは5.0以上であることが重要だが、これは今発売のものは満たしているだろう。問題はコーデックで、Androidの場合aptX対応であることが望ましい。こうなると機種が限られてくる。私がリストアップしたのは、以下のイヤホンである。

  • Galaxy Buds2
  • YAMAHA TW-E3C
  • final ag COTSUBU
  • Technics EAH-AZ40

客がいっぱいいても話しかけてこない暇そうにしている店員は、概ね知識に乏しく愛想が悪い。しかし休日の午後の売り場は客でごった返しているから、店員を捕まえることができればラッキーである。仕方がないから私は、同じ年代と思われる暇そうな店員にGalaxyのBuds2を見せてほしいと頼んだ。Buds2はショーケースの中にあって、出してもらえないと触ることもできない。その前に在庫はあるのはと聞いたら全色ありとのことだった。「試してみますか?」というので喜んでそのようにしたいと伝え、買ったばかりのGalaxyを取り出した。店員がショーケースの中から取り出して蓋を開けたとたん、私のスマホにペアリングのポップアップが表示されたのには驚いた。今ではとても簡単にペアリングできるらしい。

実際に聞いてみたGalaxy Buds2は悪い印象はなかったが、比較するものがない。ただ少し音量が小さいと感じた。Xperiaでもう懲りているから、音量の大きさは必須である。店員は比較のためにSONYの中級クラスとTechnicsの最新モデルEAH-AZ40M2を出してきた。私はSpotifyで今年のニューイヤーコンサートとモーツァルトのハイドン・セットなどを再生しながら、これらの機種を比較試聴した。そしてSONYのイヤホンは、いわゆるドンシャリで聞くに堪えないこと、さらにTechnicsはそこそこいい機種であることを発見した。ただ私の視聴したTechnicsのものはaptXに対応していなかった。

私が逐一所感を述べると、店員は次にCOTSUBUという機種を試すよう促し私もそれに従った。COTSUBUというのはその名の示す通り小さな筐体だった。おそらく耳の小さな女性向けといった印象で、丸みを帯びたやさしい音は6000円にしては悪くないのだが、高くてもいいからクラシック音楽に向いたもう少しいい音のするものが欲しい。YAMAHAも試してはみたがどこか決め手に欠ける。結局、再度Galaxy Busd2を聞いてそれに妥協しようとしたとき、店員はfinalというメーカーのZE3000という機種はどうですか、と聞いてきた。finelなどというメーカーは初めてである。聞くところによれば、日本のメーカーとのことである。なかなか親切な店員だったから、信じてそれを視聴させてもらうことになった。そして音楽が聞こえた瞬間、文字通り耳を疑ったのである。

finelのZE3000で聞く音楽は、それまでのどのイヤホンよりも安定感があってしかも適度な広がりがある洗練された音だった。中音域の伸びも非常に良く、ボーカルやバイオリンの音が惚れ惚れするし、音を大きくしても歪まないところが素晴らしい。私は驚嘆の意見を述べ、値段を聞いたら予算内の税込み1万5千円強とのことである(実際には10%のポイントもつく)。見るとその隣にはZE2000という同じラインナップの低位機種も並んでいてこちらは1万円。形状など見た目は同じでいったい何が違うのかと尋ねたら、聞いてみますか、ということになった。ZE2000もいい音がしたが、こちらはよりナチュラルな感じで、言い換えれば特徴がない。1万円もかけて買うイヤホンとしては、ZE3000の方がより立体感があって鳴りっぷりがいいと感じた。

さらに素晴らしいのは装着感が見事なことと、ボリュームが小さくても大きな音がすること。音の遮蔽性を確保して、その分ノイズキャンセリング機能が付いていないのは一種の見識だろうと思う(この機能は、使うと確実に音がおかしくなる)。イコライザーも専用アプリもないから、まさしく「この音を聞け」ということである。だが、その音たるや従来のBruitooth型イヤホンの限界を見事に突破していると言わざるを得ない。結局、私は1時間かけて何種類かを試した結果として、迷うことなくZE3000を選択した。帰宅していろいろ検索してみると、これは賞を受賞した優れもので多くの高評価を得ていることがわかった。

いま私はGalaxy A54 5Gにfinal ZE3000を接続してSpotifyを聞いている。これまでSpotifyのストリーミングの音質に限界を感じ妥協していたが、それはまだイヤホンとスマホの高度化によって改善の余地があったことが判明した。これまで聞いていた音楽が、旧い歌謡曲であっても素晴らしい再生音で蘇ってきた。アナログのレコードを聞いているかのようである。

そしてわかったことは、何と有線接続した従来の安物のイヤホンでも、なかなかいい音がすることである。これはスマホに搭載されたアンプが悪くないことを意味している。結局、4年前に不本意ながら買ったOPPOも、2年前に買うことを余儀なくされたSONYも、まったくもって酷い音質だったことは明らかだ。少なくともこのたび買ったSAMSUNGは、私を裏切らないばかりか、スマホ登場以前のごく普通の音のレベルを保証してくれた。そこにfinalのイヤホンを接続することで、これまで有線接続で聞いていた音楽プレイヤーの音に到達した。この4年間、私はスマホによる低レベルの音質を我慢する生活を余儀なくされていた。だが、ようやくそのトンネルから抜け出すことができたのだ。

2023年10月1日日曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(The MET Line in HD Series 2008-2009)

こういうことは軽々に書くべきではないと思いつつも、このたび札幌で起きた親子3人による殺人事件は「サロメ」に酷似していると言わざるを得ない。「サロメ」はオスカー・ワイルドによる戯曲だが、その原作は新約聖書「マタイ伝」である。リヒャルト・シュトラウスはまだ野心に燃えていたころにこの作品に出合い、出世作となる「サロメ」を書きあげた。わずか1幕の作品だが、凝縮された音楽が息をつかせぬほど緊張感に満ち、ただでさえ異様なストーリーをさらに際立たせ、見るものを圧倒する。

「サロメ」の主な登場人物は4人である。表題役サロメは、預言者ヨカナーンに一方的な性愛の情を抱いている。執拗とも言えるその欲情は、異様と言っていい。囚われて井戸に閉じ込められているヨカナーンに口づけを迫るが、拒絶されて実現しない。わずか16歳ほどの少女は、自分にこれもまた執拗な好意を抱くヘロデ王から、「踊りを踊ってくれたらなんでもやる」を言って少女に迫る。有名な「7つのヴェールの踊り」は、オペラの舞台で繰り広げられる、極上の音楽付きストリップ・ショーだが、このシーンが物議を醸したことは想像に難くない。だがそれも今では昔の話である。

サロメは約束した通り、ヘロデ王に褒美を迫る。斬首したヨカナーンの生首を銀の皿に載せて欲しい、と。ヘロデ王は役人を井戸に遣わせ、首をはねる。その生首が舞台に登場するシーンはショッキングである。実はサロメに殺人を持ちかけたのは、母親のヘロディアスだった。生首に接吻することを夢見ていたサロメは、最後のシーンで圧倒的な歌とともにヨカナーンの首を愛撫。猟奇的な最後のシーンは、演出と歌唱の見せ所である。不吉なことが起こると恐れたヘロデ王は、ついにサロメを殺すよう命じるところで幕となる。

始まって15年以上が経過したMET Line in HDシリーズ(日本では「METライブ・ビューイング」と言われる)では、たった一度だけ「サロメ」が取り上げられている。それは3年目だった2008年のことで、この年はメトロポリタン歌劇場創立125周年。その記念の年のトリに「サロメ」が取り上げられたのだ。私はすでに80作品以上鑑賞してきたが、この「サロメ」はまだ見ていない。もう見る機会はないと諦めていたが、今年のアンコール上映の演目に登場し、ついに私は接することができた次第である。9月末の平日というのに、結構な人数が映画館に来ていた。私も仕事を終えてから駆け付けた。1幕しなかいので特典映像は少なく、たった2時間で終わる。

サロメを歌ったのはカティア・マッティラ(ソプラノ)である。この作品は1にも2にもサロメなので、その緊張感は例えようもない。終始声を張り上げるサロメを野球の投手に例えると、1回から飛ばすと9回まで持たない。一方、そのほかの役、例えばヘロディアスを歌ったイルディコ・コムロージ(メゾソプラノ)は、一見、サロメより安定した素晴らしい歌唱に思えるのだが、これは登場する時間がそもそも違うのである。言ってみれば、数回投げればいい中継ぎ投手のようなものだ。ヨカナーン役はユーハ・ウーシタロ(バス・バリトン)で、この役は囚人として井戸に閉じ込められているという悲惨な状況から、醜悪でみすぼらしい容姿と決まっている。そのことが強調されればされるほど、サロメの異常な性欲が強調される。

サロメに次いで歌の多いのが、ヘロデ王である。この役はテノールでありながら、美男でもなければ軽薄でもない、という珍しい役。キム・べグリー(テノール)は、透き通るような声であるが、なかなか良く似合っていると思った。サロメは、やはり後半、特に「7つのヴェールの踊り」の後に重心を置いて歌ったのだろう。この踊りだけでも、相当な見せ場であることに違いはない。歌手はまず声だが、踊りのシーンで失敗を許されるわけではないのだから、このシーンの後では歌に全力投球ができる。出来栄え云々というよりも、全力投球の演技に見ている方も鳥肌が立ってくる。

生首は吊り下げられて井戸から登場する。それを銀の皿に乗せて弄ぶ常軌を逸した少女の異常性愛に、狂気と戦慄を覚える。サロメの陶酔を強調する音楽は、長大なモノローグの間中、鳴り止むことはない。

物語は2000年前のパレスチナでる。通常は暗い居間で繰り広げられるが、このたびのユルゲン・フリムによる演出では、何か現代風のサロンである。中央に螺旋階段があって、全体的に明るく、おどろおどろしい感じがしない。またパトリック・サマーズによる指揮も、なぜか控えめで音楽が前面に出てくる感じではない。そういうことから、残念ながらこの舞台は、私の中ではあまり感心した方ではないのが正直なところである。なかなかサロメを歌うことのできる歌手はいないのかも知れないが、そろそろ新しい演出、歌手での舞台が待ち望まれるところではないだろうか?

2023年9月18日月曜日

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」(The MET Live in HD Series 2022-2023)

METで今年3月に上演された「ローエングリン」があまりに素晴らしいというので、私はLive in HDシリーズのアンコール上映の機会に見ることにした。大型連休前に上映された際には時間がなく、しぶしぶ断念したから、今回ようやく接することができた次第である。その感想を一言で言うと「圧巻」に尽きる。音楽が終始大音量で鳴り響き、その熱量は物凄い。見ている方は体力を消耗し、5時間後にはへとへとになった。そして「ローエングリン」という作品は、こうも聞き所の多い作品だったかのかということを改めて思い知った。

私は2016年に実演を見ている。この時新国立劇場で表題役を歌ったのは、クラウス・フロリアン・フォークトだった。指揮は先日逝去した飯守泰次郎。現在望みうる最高の舞台のひとつではなかったか、などと興奮に満ちた文章を書いている(https://diaryofjerry.blogspot.com/2016/05/2016523.html)。しかし音楽を精密に聞き込んだかと言えば、実演だとなかなかそうはいかない。初めて実演で接するオペラだったということもある。それに比較して、映画館での上映となると見る側にもゆとりができて、より客観的に見ることができる。字幕も追いやすいし、5.1ch音響効果も抜群である。

特定映像でのインタビューで、ヤニック・ネゼ=セガンが語っているように、この作品はワーグナーの作品の中で、丁度過渡期に位置付けられるだろう。ドレスデン時代の最後を飾る作品として、それ以降の作品は「楽劇」と言われているのに対し「歌劇」と分類されている。古い様式、たとえばアリアのような部分が目立つ一方で、ライトモチーフにも似た要素が垣間見れる。第1幕への前奏曲で奏でられる冒頭のメロディーは、聖杯グラールに触れられる場面で幾度となく登場する。

その第1幕への前奏曲は、静謐なメロディーで始まるのだが、映画館では早くも大音量である。実演だとこうは聞こえないのではないか、などと少々違和感があるのは確かだが、CDやDVDで聞く音楽もそのような傾向が定着しているので、それはそれで良いかとも思う。以降、歌手の音量はしっかりと大きい。この作品には終始合唱団が活躍するが、これと歌手との対比すると、そのイコライザー効果はやや不自然だとも言える。ワーグナーの作品ではとりわけそうだが、舞台下に隠れているはずのオーケストラも、くっきりと収録されている。

合唱団はマントをまとっており、その裏打ちの色が赤だったり、緑だったりと変化する。ローエングリンとエルザは白、テルラムントとオルトルートとは赤で印象付けられる。面白いのは指揮者のジャケットもこれに合わせて、第1幕では黒、第2幕では赤、第3幕では白と変化した。この衣装デザインは、ティム・イップというデザイナーが担当、演出のフランソワ・ジラールとともにカーテンコールにも登場した。

演出がジラールであることもこの舞台に注目した大きな理由だった。というのは彼の演出した「パルジファル」の舞台が、あまりにも素晴らしかったからだ(https://diaryofjerry.blogspot.com/2013/04/the-met-live-in-hd-2012-2013.html)。もう10年以上前の話ではあるが、ここで舞台全体に写しだされた巨大な月が極めて印象的で、今でも鮮烈に記憶に残っている。それはニューヨークでも大いに評判だったようだが、ローエングリンはパルジファルの息子であり、その関係性において衣装も白を基調としたとのことである。

開演前からその月が舞台上部に映し出されていた。この月の満ち欠けが巨大な穴を通して表現される。舞台は終始、その穴の下で展開され、時折月が出てくるのだが、パルジファルに比べると控えめで特筆すべきものはなく、むしろ歌手たちの活躍こそが本公演の主役だったことに尽きるだろう。

まずローエングリンを歌ったのは、ポーランド人のピョートル・ベチャワ(テノール)で、彼はもう十年以上メトの常連だが、そのレパートリーはフランス物、イタリア物と幅が広い。ヴェルディのリリカルなテノールも歌う彼の綺麗な声は、ローエングリンにも相応しいものだったが、衣装が白いシャツということもあってビジネスマンのような感じ。一方、エルザを歌ったのはタマラ・ウィルソン(ソプラノ)で、彼女もアイーダなども歌うメトの常連だが、この役はデビューだそうである。

今回の出演歌手の中で、誰か一人を挙げるとすればオルトルートのクリスティーン・カーギー(ソプラノ)に尽きる。彼女の悪女ぶりは舞台で見ていても吐き気を催すほどの嫌悪感むき出しだが、インタビューに答える彼女ほど既知に富み、自信に満ちたものはないだろう。その相手、すなわちテルラムント伯爵はエフゲニー・ニキティン(バス・バリトン)だった。そのほか、国王ハインリヒを歌ったギュンター・グロイスベック(バス)は貫禄ある重厚な歌声を会場に轟かせた。

作品を何度か見て冷静になると、難しい話が随所にちりばめられてはいるがこのオペラは結局、女性同士の男性を巻き込んだ争いに思えてくる。丁度「ワルキューレ」が父と娘の和解の話に集約されるのと似ている。このあたりがワーグナーの下世話なところで、まあブラームスが嫌っていたのは何となくわかる。エルザに弟殺しの濡れ衣を着せ、騎士に素性を明かすよう気迫迫る部分などは、女性版イヤーゴ(「オテロ」)であるとさえ思った。

オルトルートの夫、テルラムントは殺害される。絶対に問うてはならない問いを発してしまうことでエルザの夫となったローエングリンは去って行く(「夕鶴」を思い出す)。いやそのエルザとオルトルートも最後にはあっけなく命を落とす。つまり主役級の登場人物が全員死亡する(「トスカ」と同じだ)。そういった不気味さを暗示させるように、あの「結婚行進曲」もどこか暗い。騎士が白鳥に乗って王女を助けに来るというのは第1幕の話でしかない。つまり物語に救いがないのである。ただ思いっきりロマンチックな音楽が、この物語を彩っている。時にヴェルディの作品を思わせるようなア・カペラになる部分も多い。

総じて音楽的要素の醍醐味を味わった舞台だった。だが先にも述べたように、いささか音響を大きく押し出した結果、息つく間もないほどの緊張感の連続に少々疲れた。この作品はももっと静かな作品であり、その方が作品の味わいが表現され得るのではないか。朝10時半に始まった上映は、2度の休憩をはさみつつ15時半に終了した。特典映像が多い割に休憩時間が短く、昼食を取る時間がない。5時間もの間、ずっとスクリーンを見続けるのはなかなか大変で、厳しい残暑が続く中、昼間は涼しい映画館で過ごすのも悪くはないと思ったが、最近体調の悪い私は、もうワーグナー作品を観るのはよそうとさえ思った。

それもこのシリーズで毎回述べられるように、「大画面での体験も素晴らしいが、実演に勝るものはありません」ということかも知れない。私よりも年老いた人々が、これだけ長くの時間、大画面を見続けているのも驚異的だが、このあと16時からは10年前の同じジラール演出の「パルジファル」が上演される。この超大作をはしごして観る強者もいるようで、これはもはや超人的と言わざるを得ない。

2023年9月16日土曜日

NHK交響楽団第1990回定期公演(2023年9月15日NHKホール、ファビオ・ルイージ指揮)

2023-2024シーズンの最初となる演奏会に、久しぶりとなるN響C定期を選んだのが大きな誤算だったのではないか、とヤキモキしていた。まさかこんなに早く「あれ」に近づくとは思ってもいなかったからである。ところが9月に入り、チームは負けなしの10連勝。おまけに相手のカープが連敗し、気が付いてみるとマジックが1に!もしコンサートと野球が重なってしまったらどうしよう、短いC定期は9時前には終わっているから、何とかその瞬間には間に合うかも知れない、などと前向きに考えていると何と、前日に悲願達成と相成ってしまったのである!


こうなったらもう何も支障はない。ところが、寝不足のお昼を怠惰に過ごす予定が、思わぬ仕事の展開によって狂ってしまうという悲劇に見舞われた。何とか他人に引き継いだり、来週に回したりしてやりくりし、家を出る18時までには集中豪雨も止み、蒸し暑い中を鈴虫がやかましいくらいに鳴いている代々木公園を急ぐ。翌日のマチネにすればよかったと後悔しかけたが、この時ばかりはいつもより30分遅く始まるC定期で良かった、と胸をなでおろした次第である。

NHK交響楽団の定期公演には3つのシリーズがある。通常のA定期、サントリーホールでのB定期、そして名曲中心のC定期である。このC定期は通常より短いプログラムで、休憩はなく、チケットもその分安い。が、しかし、これは他の定期のチケットがいつのまにか値上がりしている中で、C定期は値段を据え置いてプログラムを減らしたのではないか、と思っている。まあ私も給料が上がらないので、勝手に仕事量を減らしているくらいだから、偉そうなことは言えないのだが。

そのC定期では、開演前に室内楽が演奏される。今シーズン最初の室内楽ではN響メンバー6人が登場し、ベールマン、ブラームスのそれぞれのクラリネット5重奏曲の一部を演奏した。私は今回3階席脇で聞いたのだが、音も良く届きなかなかいい演奏だった。しばらくNHKホールからは遠ざかっていたが、悪くないなとさえ思った。舞台には100名を超える楽団員の椅子が配備されている。チケットは沢山余っていて、4割ほどしか埋まっていない。それでもFM中継とテレビ収録があり、カメラもスタンバイ。指揮は昨シーズンから首席指揮者となったファビオ・ルイージ。プログラムは、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」をデ・フリーヘルが短く編集した「オーケストラル・アドベンチャー」のみ。同様の取り組みは、マゼールの「言葉のない指環」などいくつか存在するが、この編曲は初めて聞く。1時間余りに凝縮された「指環」は聞き所が満載、楽しいコンサートになると思いを馳せた。

いつのまにかN響の演奏会でも、楽団員が登場すると拍手が起こるようになっていた。カーテンコールでの撮影もOKとアナウンスが入る。コンサート・マスターはゲストの西山尚也。室内楽にも登場した各ソリストも交じっている。左手にハープが4人。ホルンやトランペットがずらりと並ぶ奥にティンパニが2台。やはり壮観である。今シーズンの幕開きに相応しい。

さて、ルイージという指揮者はイタリア人ではあるもののワーグナーの演奏に定評がある。記憶に新しいのはメトロポリタン歌劇場での「指環」で、この様子はMET Live in HDシリーズでも見た。また私はシュターツカペレ・ドレスデンの来日演奏会で、「ワルキューレ」の第1幕を聞いている。もっとも「聞いた」というだけで印象は特にないのだが、聞いたこと自体を忘れる演奏会も多い中で、ルイージだけはよく印象に残っている。N響との「巨人」は大名演だった。その容姿同様、スタイリッシュで速め。緊張感を保ちつつ一気に聞かせる感じ。それは今回の演奏会でも同様だった。

一筆書きのような「指環」だった。あまりにも次々と有名なメロディーが出てくるので、スポーツニュースを見ているような心境である。本当はそこに至るまでの長い物語があるのに、それをすっ飛ばして要所要所だけをつないでゆく。そうとはわかっていても、ちょっと戸惑う。編曲の腕の見せ所は、こういう時に発揮されるのだろうか、などと思った。というのは同様の曲であるマゼールの方が、優れていると思ったからだ。例えば、有名なモチーフは「指環」に何度も登場するが、長い時間を聞き続けた果てにここぞとばかりに登場するものは、巧妙にこれが前もって登場してしまうのを避け、かつその前にはあえて静かな部分を挿入するなど、工夫が欲しいのである。それが少し甘いような気がした。

N響の音は3階席で聞いても迫力は十分だった。これはあらためて認識した次第なのだが、聞き終わってみると何かが足りない気がしてならない。やはりオーケストラの音に艶がないのである。これは音響効果がおかしいからではないかと思う。反射音がないのか、あっても脆弱なのか、そのあたりはよくわからない。だから直接波が届く割合の多い1階席正面のみでしか、私は心の底から感動した演奏に出会ったことがない。が、それも指揮者次第のような気もする。ルイージは今後、客席における音響について考慮することを心掛けてほしいと思う。ただサントリーホールになると、同じというわけにもいかないわけで、こういうあたりも指揮者の腕の見せ所だと言える。

曲は順番に聞き所がつながっていく。休止はない。ボリュームの大きな部分の連続である。指揮も集中力が強く、緊張感が高い。故にたいそう疲れるのだが、それも「神々の黄昏」になると、どこか急に雰囲気が変わったような気がした。長いホルンのソロが会場にこだまする。「ジークフリートのラインへの旅」に始まる「神々の黄昏」は、マゼールの編曲でもそうなのだが、全体の半分近くを占める。「ジークフリートの死」とそれから最後までの音楽が最大の聞かせ所であることは疑いなく、それが近づくにつれて、知らず知らずのうちに気持ちが高ぶってゆく。このワーグナーならではの高揚感は、例えようがない。だからこそ、「ラインへの旅」と「死」の間にもう少し「溜め」があってもいいと思うのだ。

1時間半以上かけていいから、休憩を挟んでもう少し長い曲に編集しなおしてくれないものかといつも思う。この時、「ラインの黄金」から「ジークフリート」までを前半に配置し、休憩の後に「黄昏」を十分長く取るといいだろう。ルイージは一気に最後までオーケストラを鳴らし、それに見事に応えたN響の技量は、ますます堅調である。

3階席を中心に、大きなブラボーが飛び交った。観客の少なさを感じさせない大きな拍手に、指揮者もオーケストラのメンバーも満足したのだろうと思う。何度も何度もカーテンコールに応え、各パートを順に立たせてゆく間中、ブラボーの嵐は絶えることがなかった。

今シーズンのN響のプログラムは、このルイージが12月にも登場して、2000回記念となる「一千人の交響曲」などが演奏される。来月は96歳のブロムシュテット、1月にはソヒエフなど聞きたい演奏会が多い。長かった今年の夏は今もしつこく残暑が続いているが、10月にもなれば少しは落ち着いて、コンサート・シーズン真っ盛りとなる。私も10月にブロムシュテットのブルックナー、日フィルのマーラーなど大曲のチケットを購入し、今からスケジュールに組み込んでいる。もちろんクライマックス・シリーズと日本シリーズの日程を加味しながら。。

2023年9月6日水曜日

クープラン:クラヴサン作品集「tic tok choc」(P:アレクサンドル・タロー)

お盆の休みに、溜まった古新聞を読んでいたらクープランの作品集を取り上げた記事に出会った(日経新聞8月13日朝刊)。フランス人のピアニスト、アレクサンドル・タローが、フランス・バロックの作曲家クープランのクラヴサンのための作品を扱ったCDである。オンライン配信が当たり前の時代になってCDの紹介記事というのも面白いが、この「tic toc choc」と題されたCDが発売されたのは2008年だから(ハルモニア・ムンディ)、もうかれこれ15年も前のことになる。こんな古いCDを、何をいまさら紹介するのだろうかとも思ったが、よく考えてみると私は、フランスのバロック音楽にほとんど縁がない。リュリやラモーの作品の入ったCDを持っているには持っているが、それは沢山の「バロック音楽集」の一部を構成しているに過ぎない。

真夏のうだるような暑さが続く毎日、クープランも悪くない。そこでSpotifyで検索したところ、一発で結果が表示された。さっそく我が家のネット・チューナーに接続し、朝から大リーグ中継を見たがる息子がテレビをつける前にオーディオ装置を鳴らす。妻はまだ寝ているから、起こさないようにと気をつけながら、熱いミルクティーを入れる。すると、聞いたこともないような音楽が聞こえてくるではないか。

このCDを紹介している音楽評論家の文章は、私が書く素人のブログとは甚だ異なり、人に音楽を聞かせようとする力が備わった、いわばプロの文章だ。200年以上も前に作られた独奏曲について、短くも説得力のある表現が続く。例えば、こんな風だ。

「感傷的な伴奏の上に、やさしげな旋律が繰り返される。神秘的と言われれば、そんな感じがしないでもない。たとえば、男女のあいだを隔てる感情のすれ違い。その見えない壁のような作用とか?」

こんな感想が相応しいのは、この演奏がとてもロマンチックに聞こえるからだろう。例えば収録された最初の曲、「神秘的な防塞(第6組曲)」はシューマンのようだ。バロック音楽が何か意味ありげな顔を見せるのは、その演奏ゆえである。だが具体的にどうすればそうなるのか、そのあたりの秘密を解読することは、私にはできない。音楽を楽しむのにその知識が不可欠というわけではないが、このような従来のイメージを刷新する演奏に出会うには、何らかの助けがいる。上記の文章は、クープランのようなバロック音楽でも、新しい演奏が可能であること、そのような演奏が存在することを具体的に紹介してくれている。だから新聞のCD紹介記事は貴重である。

タロー自身ピアノでの演奏に相応しい曲を選んだそうである。それがどういうことかはわからないが、これまでクープラン、あるいはチェンバロでしか縁のなかったフランス・バロックの新しい魅力をこの演奏で感じることができる。一気に、全20曲を聞きとおすようなことは、他の演奏では望めないだろう。それほどに変化に富み、また時にはいささか過激に、現代人の心を揺さぶろうとする。例えば、第8番目の「居酒屋のミュゼット」は、まるで2台のピアノによって演奏されているように感じる。ずっと通奏低音のようなものが鳴っているからだ。ピアノによるピアノのための通奏低音は、結果的にミニマル音楽にも通じる前衛的なムードを呼び起こす。多重録音と思われる効果は、第14番目の「戦いのどよめき」が極めつけだ。何とここではタンブランが鳴っている!

上記の新聞の紹介記事によれば、タイトルの「tic toc choc」が示すように、このCDには「リズムを前面に出した音楽」が並んでいる。「切れが良くシャープである」。それは「旋律を彩る装飾音」を「音楽の推進力へと変えてしまう」ことによって、ピアノによるバロック演奏にありがち「野暮ったい感じにならずに済んでいる」とのことである。その結果、「バロック音楽であることを忘れそうになる」くらいに「クープランの曲が持つ様々な可能性を自在に引き出」すことに成功している。

具体的にどの曲がどうの、という解説はここではしない(転記もしない)。たまにはこのようなバロックの器楽作品に耳を傾けてみるのも良いものだ、と普段はオペラやオーケストラ曲ばかり聞いている私は思った。今年の夏が例年になく暑かったこともあって、少々夏バテ気味だったからかも知れない。

今年の夏は30年以上も隔てて「青春18きっぷ」を購入し、まだ出かけたことのない関東地方のローカル線の旅を楽しんだ。車窓から見える濃い青空。そこに容赦なく降り注ぐ真夏の日差しに照らされた田畑や家々を眺めながら、このCDに耳を傾けていた。暦はもう9月。いささか日差しにも陰りが感じられる今日この頃。長かった残暑も、あと少しで終わりを告げる。


【収録曲】
F.クープラン:クラヴサン組曲より
1. 神秘的な防塞(第6組曲第5番)
2. ティック・トック・ショック、あるいはオリーブ搾り機(第18組曲第6番)
3. クープラン(第21組曲第3番)
4. 信心女たち(第19組曲第1番)
5. さまよう亡霊たち(第25組曲第5番)
6. 編物をする女たち(第23組曲第2番)
7. キテラ島の鐘(第14組曲第6番)
8. 居酒屋のミュゼット(第15組曲第5番)
9. 葦(第13組曲第2番)
10. アタランテ(第12組曲第8番)
11. パッサカリア(第8組曲第8番)
12. ミューズ・プラティヌ(第19組曲第5番)
13. 奇術(第22組曲第7番)
14. 戦いのどよめき(第10組曲第1番)
15. 子守歌、あるいは揺籠の中のいとし子(第15組曲第2番)
16. 空想にふける女(第25組曲第1番)
17. ラ・ロジヴィエール(アルマンド)(第5組曲第1番)
18. 双生児(第12組曲第1番)
19. かわいい子供たち、あるいは愛らしいラジュール(第20組曲第3番)

デュフリ:クラヴサン組曲より
20. ラ・ポトゥアン(第4巻第5番)


2023年8月11日金曜日

リスト:管弦楽曲集(ジュゼッペ・シノーポリ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

猛暑の中を金沢へと向かう北陸新幹線「かがやき」の車窓からは、早くも妙高高原の美しい景色が広がっている。上信越の山々は木々も青く、高い山の稜線はくっきりと快晴の空と見事なコントラストを描いている。トンネルまたトンネルの線路が、かつては何時間もかかった山越えルートを一瞬のうちに北陸へと運んでいく。今日は金沢で、旧い友人と落ち合い、その後、五箇山を経て富山まで行く。予約してある居酒屋で味わう日本海の幸とお酒に舌鼓を打ちことを想像していると、早くも唾液が出てきそうである。

中部山岳地帯の雄大な光景を目にしてリストの「前奏曲」が聞きたくなった。Spotifyで検索したら、ジュゼッペ・シノーポリがウィーン・フィルを振った演奏のアルバムが先頭に表示された。満員の列車は早くも上越市内を快走している。リストは、ピアノの名手として超絶技巧を駆使した作品を数多く作曲し、その多くは自ら演奏することによってテクニックを披露することを目指した。ちょうどバイオリンにおけるパガニーニのように。しかし、リストはまた管弦楽曲において交響詩の分野を確立した作曲家でもある。その代表的な作品として「前奏曲」をあげることができる。

さらにリストは、ピアノ連弾用に作曲した19曲からなるハンガリー狂詩曲の一部を管弦楽曲に編曲している。最も有名なのは第2番で、千変万化するリズムが特徴の民族音楽をベースにしているから、数々の個性的演奏が目白押しである。カラヤンのねっとりとした演奏に舌を巻いていたが、晩年のショルティがいともすっきりと鮮やかにオーケストラをドライブして見せてくれたことは記憶に新しい。曲は交響詩「オルフェウス」に移っているが、その間に列車は日本海岸に出て西進している。早くも糸魚川を通過した。紺碧の海を眺めていると、ここはスペイン北部とフランスにまたがるバスク地方のように見えて来た。

地形的に日本を東西に分ける中央地溝帯がこの辺りを通っている。もっとも険しい日本列島の難所を、何事もなかったように新幹線は走る。関西の奥座敷である北日本地方は、このようにして今や東京文化圏に入りつつある。交響詩「オルフェウス」が静かに曲を閉じたとき、列車は富山平野へと入った。続く曲は交響詩「マゼッパ」。いきなり不気味な和音がさく裂する。富山湾の向こうに能登半島が見える。新幹線はあまりに早いので、音楽が終わるまでに終点に着いてしまいそうである。

シノーポリの演奏は、古くから定評あるカラヤンやショルティの演奏を更新して、リストの管弦楽曲に新しい風を引き込んでいる。イタリア風の流れるメロディーを加味し、しかもメリハリのある迫力を失っていないどころか、最新録音に支えられて低弦の響きも十分に厚く、オーケストラ音楽の魅力を最大限に引き出している。ウィーン・フィルのふくよかな響きも堪能でき、満足の行く一枚。高くそびえる北アルプスの山々を眺めていると、この曲がナチスによって利用されたことも納得できる。

収められた最後の「ハンガリー狂詩曲第2番」は、私が初めて聞いたクラシック音楽の一つで大変懐かしいのだが、何度聞いても飽きない曲である。久しぶりではあるが、しみじみと音楽に浸っているうちに、列車は倶利伽羅峠を超え、金沢市内をゆっくり走っている。金沢が東京からわずか2時間半で行けることに驚きを隠せないが、その新幹線も来年には敦賀まで延伸される。これでとうとう福井県までもが首都圏からの日帰り圏内となるのは時間の問題である。ただし能登半島となると今でも奥地である。私は富山で友人と別れた後、ひとり輪島まで足を延ばす予定である。金沢からさらに2時間以上の道のりである。

立山連峰

【収録曲】
1. 交響詩「前奏曲」
2. 交響詩「オルフェウス」
3. 交響詩「マゼッパ」
4. 「ハンガリー狂詩曲」第2番

2023年8月2日水曜日

PMFオーケストラ東京公演(2023年8月1日サントリーホール、トマス・ダウスゴー指揮)

半月も続いた猛暑が、突然の落雷と驟雨によって中断された。午前中に34℃にも達した気温は、22℃まで急降下。けれども秋の気配というには早すぎる。まだ8月になったばかりだというのだから。

パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル(PMF)がレナード・バーンスタインの提唱で始まってから、もう33年目だそうである。夏の暑い時期に、北の大地札幌で開催されるアカデミーでは、その期間だけ編成される若者のオーケストラが連日コンサートを開く。私は札幌での公演こそ聞いたことはないのだが、その最終公演を東京で行うようになってから、一度だけ聞いた。それは2019年のことで、ワレリー・ゲルギエフが指揮するショスタコーヴィチの交響曲第4番などであった。この公演には上皇夫妻もお見えになり、大変感動的な演奏会だった。

そういうことがあったので、このたびコロナ禍を経て催される公演に、私はいそいそとでかけた。プログラムは前半がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、後半がブルックナーの交響曲第9番である。メンデルスゾーンの独奏を務める金川真弓も初めてだが、デンマーク人指揮者のトマス・ダウスゴーの演奏を一度聞いてみたいと思っていたことが大きい。

プロフィールを読んでわかったことには、ダウスゴーはバーンスタインの弟子の一人であり、そして小澤征爾のアシスタントとしてボストン交響楽団を指揮していたそうである。またこれまでには単身、都響や新日フィルにも客演しているようだから、我が国に馴染みがないわけではない。しかし私はこれまで彼の演奏に接したことはなく、輸入盤のベートーヴェンやシューマンのCDを良く聞いていた。かつて「レコード芸術」という音楽雑誌があった(と、過去形で書かなければならないのは、とうとうこの雑誌が休刊に追い込まれたからだ)が、その数少ない魅力的なコーナーに、輸入盤の紹介欄があった。ダウスゴーはメジャーなレーベルの録音こそないが、ここで紹介されるBISレーベルからのリリースは、けっこう評判が良かった。

そのダウスゴーが今回初めてPMFに参加し、ブルックナーの交響曲第9番を指揮するということがわかった。ブルックナーの交響曲第9番は遺作で、完成された第3楽章(アダージョ)で終わることが多い。しかし今回演奏されるのは、第4楽章を補筆した完成版だという。補筆に参加したのは4名の作曲家で、サマーレ、フィリップス、コールス、そしてマッツーカという人だそうだ。その頭文字をとって「SPCM補筆完成版」と呼ばれるらしいが、それは1986年のことである。有名なサイモン・ラトルの演奏は、この補筆完成版の最初の録音である。

それから30年以上が経過し、この校訂版第4楽章は何度か改訂されている。今回の演奏は2012年改訂版と紹介されているが、ならば我が国で初演のようなものではないだろうか?また第1楽章から第3楽章までは、コールス校訂版ということになっている(2000年)。そういうわけで、今回注目したもう一つの理由は、この第4楽章付きの最新の「ブル9」というわけである。

さて、8割程度客席の埋まったサントリーホールの2階席奥に座った私は、随分若い人が多いという印象を受けた。静かに始まったメンデルスゾーンは、とても丁寧に、時にテンポを抑えてじっくり聞かせる今流行りの演奏で、かつてのようにさらさらと流れていくだけの音楽にはなっていない。メンデルスゾーン特有の中音域の甘いメロディーが、独奏ヴァイオリンと溶け合う様子は、私を久しぶりに音楽を聞く喜びへと誘った。

メンデルスゾーンは私の好きな作曲家の一人ではあるにもかかわらず、そう言うことが何故か恥ずかしかった。けれどもある時、池辺晋一郎氏がテレビでメンデルスゾーンが好きだと言ったのを見て以降、私も堂々とそういうことにした。すこし涼しくなった今日の東京で、このメンコンの音とリズムは、とても私の耳に馴染んだ。同様に感じた客も多かったに違いない。何度もカーテンコールに呼び出された金川は、アンコールにガーシュインの「サマータイム」(ハイフェッツ編)を演奏した。

短期間のうちに、オーケストラ経験の乏しい若手の編成から、そこそこの音色を出すものに仕立て上げるのは並大抵のことではないだろう、と思った。メンデルスゾーンといいブルックナーといい、中音域を重心とする中欧独特の重厚感に加え、特にブルックナーでは金管楽器のアンサンブルが決定的に重要である。それを若いオーケストラが挑戦するというのだから、こういうことはすでに当たり前になって久しいとはいえ、驚きである。

さてそのブルックナーだが、私はこの第9番の交響曲の魅力を、まだよくわかっていないと思っている。実演で聞くのはこれで3回目。同じ作曲家のの交響曲と比べても、少し変わった曲のような気がしている。演奏も難しいのではないかと思うのだが、この曲の名演奏は数多い。オーケストラは前半よりもメンバーが大きく増え、特にティンパニのそばにはなぜか3名のプレイヤーが座っている。どういうことかと思っていたら、曲の途中で交代した。

演奏は終始速めで、しかも熱い。ブルックナーの演奏には大きく分けて2つの傾向があると思っている。1つは統制を効かせて豪快に鳴らすタイプで、もう1つは流れに任せるかのように自然体を装うタイプ。コアなブルックナー・ファンには、後者を好むように思うが、この日の演奏(そしてかつて私が聞いたすべての第9番の演奏)は、前者である。PMFを創設したバーンスタインもこの曲を録音しているが、やはり前者。問題はにわか編成のオーケストラが、その豪快な金管アンサンブルと、重厚な弦楽をミックスさせ、かつ安定した響きを維持する音楽を実現できるか、ということであったが、第1楽章の冒頭を聞いた時からこれは杞憂に終わった。

崇高なブルックナー休止を含むどの楽章も、念入りに仕上げているだけでなく、聞き所満点だった。特に第2楽章のスケルツォは、息もつかせないような集中力で、唖然とするほどだった。一方、第3楽章のアダージョは、私がいまだに本気で感動した演奏に巡り合っていない曲で、今回も大変な熱演だったとは思うが、どうにも酔わないものに終始した。

本来ならここで終わるのが慣例である。それでも1時間かかるこの曲に、さらに続きを付け足したのが今回の演奏だった。しかしこの説明は誤解を招くだろう。なぜならブルックナーは死の当日まで、最終楽章の推敲を重ね、すでに多くの部分を作曲し終えていたからだ。そういうことがあるので、最近は補筆版の演奏が増えているようだ。今回の演奏もそういうわけで、続きがあって、全曲は80分にも及ぶものとなった。

初めて聞く「第4楽章」は、しかしながらちょっとブルックナーの音楽とも異なっているようにも聞こえた。いやもともとこの曲には、第8番までのブルックナーの作品とは若干異なったムードがあると思っているので、それはそれでいいのだろう。私は学者でも音楽家でもないから、こういう機会は大いに嬉しい。第4楽章が聞けるなんて、何か得をした気分であった。

20分にも及ぶ長大な終楽章のコーダが終わっても、タクトは長く振り下ろされなかったのだが、その長い「休止」の間、満場の観客の誰一人として拍手をしなかったことが印象的だった。やがて耐えきれなくなって、だれかがブラボーを叫ぶと、堰を切ったかのように嵐の拍手が沸き起こった。2階席の後方からは、各セクションが起立するたびに歓声が沸き起こり、ロック・コンサートのようでさえあった。何度も舞台に登場するダウスゴーは、とうとうオーケストラが引き上げてからも舞台に現れ、総立ちの客席から大きな歓声を浴びた。気が付いてみると、時計は9時半を回っていた。

コロナ禍による変則的な公演は姿を消し、コンサート会場はすっかりもとの光景を取り戻したように見える。私にとっての今シーズン(2022-2023)のコンサート通いも、これで終わりを告げた。会場入り口でもらった大量のチラシを自宅に持ち帰り、来シーズンのプログラムを眺めている。健康状態が持ちこたえる限り、月1回は会場へ足を運びたいと、今から心待ちにしている。

2023年7月31日月曜日

シベリウス:管弦楽曲集(ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団)

シベリウスは疑いなく北欧最大の作曲家で、そのレパートリーは歌劇から室内楽曲にまで及ぶ。とりわけ7つの交響曲とヴァイオリン協奏曲が有名だが、それ以外にも数多くの管弦楽曲がある。最も有名にして、祖国フィンランドの第2の国歌ともいうべき交響詩「フィンランディア」を筆頭に、たくさんあるこれらを一つのディスクに集めたものがよく売られていた。私も楽しい「カレリア」組曲が聞きたくて、シベリウスの管弦楽作品集をコレクションに加えた。といっても新譜は高くて買えないから、いわゆる「ベスト100」の類の廉価版の中から、最も注目していたやつを物色した。それは私の生まれた年に録音された英国の指揮者ジョン・バルビローリのもので、マンチェスターにあるハレ管弦楽団を指揮した一枚だった。

EMIから発売されていたそのCDは録音がややぎこちなく、田舎のオーケストラをのせいか、とてもローカルな雰囲気が漂っていた。「カレリア組曲」の行進曲などは、丸でチンチン電車に揺られるかの如き趣である。だが、そこが私のお気に入りとなった。このディスクには、「フィンランディア」「カレリア」組曲のほかに、劇付随音楽「死」から改編された有名な「悲しきワルツ」、「ポホヨラの娘」、それに組曲「レミンカイネン」から「レミンカイネンの帰還」が収録されていた。特に「レミンカイネンの帰還」は有名な「トゥオネラの白鳥」を含む一時間近くある全曲の最後の曲で、その後私はこの作品を通しで聴いて感動し、全曲盤を購入するきっかけとなった。

このCDにはシベリウス作品の、いわば王道とも言うべき作品群が収められているのだが、もちろん、これ以外にもたくさんの作品がある。それらに実演で触れる機会は、残念ながら皆無に等しい。しかし私と同様、いつも同じ曲ばかり聴いていたのではつまらないと感じるリスナーが、全世界に一定数いるのだろう。新たに目にした一枚は、私が持っている唯一のシベリウス管弦楽曲集の選曲を巧妙に避けていた。特に私は、バルビローリのCDにはなかった「エン・サガ(伝説)」という。20分あまりの曲が聞きたかった。シベリウスの管弦楽作品は、この曲のように北欧の伝説を題材に取ったものが多いが、その中でも最初期のものである。この曲を初めて聞いた時は、何かドラマの主題歌のように感じられた。

この曲を最初に収録したCDが目に留まって聞いてみたら、なんと「悲しきワルツ」以外はバルビローリ盤との重複がないのである。このようにして私はまた新しいシベリウス作品集を手に入れた。これはシベリウスのスペシャリストとして2度も交響曲全集を録音しているリトアニア生まれの重鎮ネーメ・ヤルヴィが、スウェーデンの地方都市にあるエーテボリ交響楽団を指揮したドイツ・グラモフォン盤である。定評のあるヤルヴィだからこそ、こういった企画が可能だったのかもしれない。初めて触れる曲、例えば「ロマンチックなワルツ」や「春の歌」のような親しみやすい曲の魅力もさることながら、このディスクの最大の聞かせどころは「タピオラ」である。

「レミンカイネン」も「ポホヨラ」も「クレルヴォ」も、いずれもフィンランド最大の民族叙事詩「カレワラ」から採られている。この叙事詩からの作曲は、シベリウスのいわばライフワークと言っても良かったのではないか。それらの中でも、晩年に作曲された「タピオラ」は1925年の作品で、これ以降には主要な作品は作られていない。「最高傑作」とも言われるこの20分足らずの作品を、今回私は初めて聞いた。凝縮された、濃厚な音楽は時に荘厳で格調高いが、決して楽しい感じのする作品ではなく、交響曲の一部を聞いているようである。それでも北欧の自然を見るようなシーンの連続で、飽きることはない。交響曲第6番や第7番と並行して作曲されたようで、いわばシベリウス音楽の最高地点のような作品である。

今年も長かった梅雨がようやく明けた。梅雨末期から早くも続く猛暑、酷暑の中で、私はシベリウスに耳を傾けている。夏でも爽やかな北欧の作品を聞けば、少しは涼しく感じられるからというわけではない。むしろヤルヴィの厚ぼったい演奏は、まるでセーターを着ているようである。一方、バルビローリの素朴な演奏は、北部イングランドの湖水地方のイメージしながら聞いている。


【収録曲(バルビローリ盤)】
1. 交響詩「フィンランディア」作品26
2. 「カレリア」組曲作品11
3. 交響詩「ポヒヨラの娘」作品49
4. 「悲しきワルツ」作品44-1
5. レンミンカイネンの帰郷

【収録曲(ヤルヴィ盤)】
1. 交響詩「エン・サガ(伝説)」作品9
2. 交響詩「春の歌」作品16
3. 「悲しきワルツ」作品44-1
4. 「鶴のいる情景」 作品44-2
5. 「カンツォネッタ」作品62a
6. 「ロマンティックなワルツ」作品62b
7. 交響詩「吟遊詩人」作品64
8. 交響詩「タピオラ」作品112

2023年7月25日火曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(The MET Live in HD Series 2022-2023)

モーツァルトは、いわゆる「ダ・ポンテ三部作」において、それまでの常識を覆し人間性あふれるドラマとしてのオペラ作品を世に問うた。しばしばいわれているように、これらの作品(「フィガロの結婚」、「コジ・ファン・トゥッテ」、「ドン・ジョヴァンニ」)は、極めて下世話な内容ですらある。ちょうどフランス革命が起きて、その影響がウィーンへの波及しようとしている頃、音楽は一部上流階級のものから一般市民のものへと移りつつあった。しかし、そのモーツァルトが作曲したひとつの頂点とも言うべき作品「魔笛」については、再び古い世界に回帰しているように見える。

例えば、この物語は時代設定も場所も不確かである(紀元前のエチオピアと言われたりする)。確かに、キリスト教的価値観はさほど感じられず、それまでヨーロッパが規範としてきたモラルからかなり逸脱しているように見える。しかし、それに代わって登場するのは、秘密結社フリーメーソンの何とも形容しがたい教条主義である。特に第2幕で繰り広げられる数々の試練をカップルに課す集団は、ザラストロを頂点として密会を催し、しばしば意味不明の儀式を繰り返す。

このような効果を薄めるかのように、パパゲーノという非常に庶民的かつ魅力的なキャラクターがアンチテーゼとして登場し、モーツァルトは彼にこそ魅力的なアリアを数多く作曲している。「魔笛」のテーマは、いわば二つの世界の対比であり、時に価値の逆転が試みられる。オペラ先進国イタリアの言葉で書かれた、ありのままの人間性を表現する新しい趣向は、ドイツ語圏では時期尚早だった。だがこの作品は、ウィーンの庶民のための劇場で、数多くの効果音をふんだんに盛り込み上演された。メルヘンの仮面まとった「魔笛」も、そのときどきの時代に通じるヒューマンなドラマ性を表現することは可能であり、その余地は充分にある、と現代の演出家も考えたのであろう。このたびMETで、長らく続いたテイモアのファンタジックな演出の後を受け、新しいサイモン・マクバーニーの舞台が、このようにして出来上がった。

ここではいくつかの斬新な演出が試みられた。まず、驚くべきことに広大なオーケストラピットは、通常の深い場所から舞台のすぐ近くの高さにまで吊り上げられ、客席からもよく見える。役者に変わって演奏されるフルートやグロッケンシュピールを担当する奏者と歌手が、しばしば交流する。幕間のインタビューでマクバーニーが語っているように、初演当時、オーケストラは舞台にもっと近かったのだ。それだけではない。舞台正面に映し出されるプロジェクションへの投影と様々な効果音が、舞台で生で演じられるのである。

その様子は、旧来の演出と最新鋭の演出が混在するという面白いもの。例えば序曲が始まり、スタッフが黒板に「AKT1」などと書いていくと、それがそのままカメラを通して、紙芝居のように、筆跡と共に舞台のスクリーンに映し出される。一方、パパゲーノが鳥を追いかけるとき、その鳥の姿と音を表現するのはノートの切れ端を持った黒子たちで、これをパタパタと揺らすことで鳥を表現している。また、パパゲーノがボトルに入った水をごくごくと飲むときの音は、舞台右横の効果音担当者によって、演技と同時にマイクを通して拡声される。このような斬新な取り組みによって、舞台は台詞のシーンにおいてさえ集中力を切らすことができない。

集中力を維持するだけの推進力を与えるのは、この演出だけではない。コントラルト歌手だったナタリー・シュトゥッツマンによる指揮がまた見事の一言に尽きる。彼女の音楽は古楽奏法も踏まえたもので、私はあの素晴らしいクラウディオ・アバドの演奏を思い出した(このアバドの「魔笛」は、私が入院中に病室で聴いた当時の新譜で、一気に流れるように音楽が進む様子がとりわけ印象に残っている)。

モーツァルトとシカネーダーが試みた価値の転換は、「ダポンテ三部作」だけでなく「魔笛」の隠れたテーマでもあったのだろう。そのことを強調するように、この舞台は現代における価値の大転換を推し進めてみせる。まず登場するタミーノ演じるのは小柄な黒人ローレンス・ブラウンリー(テノール)である。美しく透き通った声の持ち主である彼を、この舞台の主人公に抜擢した、ということだが、そもそもタミーノを黒人歌手が演じることなど、少し前までは考えられなかった。蛇に襲われた彼は3人の侍女によって服をはぎ取られ、下着姿となる。その3人の侍女は、大変失礼ながら美人ぞろいという風貌ではない。

一方、悪の象徴であるモノスタトスを、スーツを着た白人ブレントン・ライアン(テノール)が演じる。さらに過激なことに、3人の童子に至っては、まるでストリート・チルドレンのようにみすぼらしくやせ細り、ぼろ布をまとっている。極めつけは夜の女王で、彼女は腹黒い側面をことに強調して醜悪な容姿の上、車椅子に座って「夜の女王のアリア」を歌い切る。ここまでくると、もはや少し悪趣味ではないかとさえ思えてくる。高貴なはずの役が醜く、悪の権化はさらに低俗な様相を放つ。だから、まるで地獄絵のように暗く惨めなのだが、そこに流れるのはまぎれもなく、モーツァルトの清らかなメロディーに他ならない。ダークサイドが思う存分強調されているにもかかわらず舞台を観て辛くないのは、新しい効果満載の演出と絶え間ない美しい音楽の故である。

私がもっとも感心したのは、パミーナを初めて通しで歌ったというエリン・モーリー(ソプラノ)。登場人物の中で彼女が一番「普通」である。パミーナに登場人物の標準ラインが引かれている。夜の女王役のキャスリン・ルイック(ソプラノ)は、定評ある驚異的な歌声だが、その頂点すなわち第2幕「復讐の炎は地獄のように燃え」で超絶技巧が炸裂し、演技を含め圧巻である。彼女はカーテンコールでもひときわ大きな声援を得ていたが、自身も感極まって涙をこらえていたところを見ると、会心の出来だったのだろう。ザラストロを歌うスティーヴン・ミリング(バス)は貫禄のある歌声を会場に響かせる。

一方、大活躍のパパゲーノはピアノも得意とするトーマス・オーリマンス(バリトン)。有名なアリア「娘か可愛い女房が一人」でグロッケンシュピールを自ら引いて歌いこなす。パパゲーノは要所要所で愛すべきキャラクターを演じるが、オーケストラの前にも設けられた細い通路(いわば「花道」)で演じ、さらに彼はそこから観客席にまで降りて歌うのだ。見慣れた「魔笛」の演出にはこれまで数々のものに接してきたが、まだこのような演出が可能だったのかと感心しきりであった。

最近、私はコンサートに出かけてもあまり感動することはなく、同じプログラムを聞いた人がtwitterなどで「涙を流した」などという表現に接するたびに、自分は今や心のゆとりを失い、ついには感動する心を持たなくなってしまったのだろうかと思っていた。しかし、この「魔笛」の映像を見ながら、私は久しぶりに聞くモーツァルトに耳を洗われ、次々と現れる斬新な演出に釘付けとなり、体は硬直、目頭が何度も熱くなった。これほど心を動かされたMETライブは久しぶりである。

モノスタトスと怪獣たちが魔法の音色によって次第に融和されていくシーンは輪になって踊るダンスとなるなど、ことごとく新しい試みが施され発見の連続である。そして最大の特徴は、最後のシーンで夜の女王が地獄に堕ちることはなく、パミーナと和解することだ。パミーナは、自分の母親である夜の女王と熱く抱擁を交わす。これこそが新しい創造で価値の逆転である。感動的でマジカルな舞台、モーツァルト、そして暑い休日の午後の銀座だというのに、客席はそれまでの公演に比べてもまばらだったのはなぜだろうか?おそらく原因は二つある。一つはチケットが高額だからだ。いつの間にか値上げされている。もう一つは、新調された客席の椅子が中途半端に心地悪く、腰を痛めかねない角度になっているからだ。

とは言え、それらを覚悟してでもこの公演を見る価値はある。「魔笛」の直前に演じられた新演出の「ドン・ジョヴァンニ」(ここでも指揮はナタリー・シュトゥッツマンである)を見逃したことを後悔した。だが、東劇ではまもなく夏休み恒例のアンコール上映が始まる。このシーズンに見逃した作品を、このチャンスに見ることができる。今から楽しみである。

2023年7月9日日曜日

東京交響楽団第189回名曲全集(2023年7月8日ミューザ川崎シンフォニーホール、下野竜也指揮)

様々なブログを検索していると、東京中で開催される数多のクラシック音楽コンサートを、実に頻繁に出かけては感想を記しているものに出会う。夏休みに読書感想文を書くような思いで、聞いた音楽を逐一文章化するという努力を、自分も時々やっていて思うのだが、相当な労力がいる。そういうことを趣味にして居る人が他にもいるというのも驚きだが、それ以上に驚くのは、それだけ多くのコンサートに出かけるだけの経済的、時間的なゆとりと、そして関心の継続である。

普通にサラリーマンをやっていると、これらを維持するのは非常に難しい。だから行けるコンサートは週末のものに絞るとか、来日オーケストラやオペラのような高価なものは、行きたいと思っていても断念する決断が必要だ。そのようにしてやりくりした演奏会を、月に1度か2度のペースで行こうと思ってきたし、実際行っている。だがここへきて、音楽への興味・関心が、かつてほど高次元で維持できなくなってきているのは、歳のせいかも知れない。特に数年前に腰を痛め、しばらくは座席に座っていることさえも困難だった。また同じ時期に白内障にかかり、目がかすんで見えなくなった。プログラム・ノートも読めず、字幕を追うのも困難になった。

だが、クラシック音楽の会場には今日も多くの人が詰めかけ、中には杖がないと歩行が困難な老人が大勢いる。彼らは音楽を生で聞くことの喜びのためには、不自由な体に鞭打ってでも出かけたい意欲をお持ちなのだろうと思う。自分には音楽に対する情熱が不足しているのではないか、とさえ思う。特に休憩のない長い曲(マーラーやブルックナー)、あるいはオペラの公演において、そう感じることが多い。こんなにも沢山の人が、お金や時間を惜しまないだけでなく、体調までも必死に維持しながら来場している!

クラシック音楽のコンサートにも、珍しい曲や難解な曲にチャレンジする定期演奏会のようなコンサート(は、質の高い真剣勝負となることが多い)とは別に、いわゆる名曲プログラムもあって、親しみやすいポピュラーな曲をプログラムに乗せるものもある。各オーケストラもそのような構成になっていて、東京交響楽団も「名曲全集」というシリーズがある。私は滅多に行かないのだが、今回のプログラムはちょっと変わっていた。夏休みということもあるのだろう。我が国を代表するアニメ・特撮の類である「ウルトラマン」と「宇宙戦艦ヤマト」の音楽を、それぞれ交響曲に仕立てた作品を並べたのだ。これらの曲は、滅多に演奏されているわけではないのだから、「名曲」と言って良いのかどうかわからないが、それでもたまにはこんなコンサートも面白いかな、と思って席を予約した。会場はミューザ川崎シンフォニーホール。

プログラムの前半は、特撮テレビ番組「ウルトラマン」の作品で音楽を担当した冬木透が、シリーズの音楽を用いて4楽章構成の交響曲にした2009年の作品である。この作品を初演したのも東京交響楽団なので、今回が2回目ということになる。初演は作曲者自身の指揮だったとのことだが、今日の指揮は下野竜也である。

さて、私はその年齢から「ウルトラマン世代」ということができる。特に小学校に上がるか上がらないかの頃、毎日家に帰ってきてはテレビにくぎ付けになっていたのは「帰って来たウルトラマン」だった。この時のことは以前にも書いたが、この「帰って来たウルトラマン」の主題歌は、すぎやまこういちの作曲である。一方、「ウルトラセブン」のような他の多くの作品は、その劇中で用いられる音楽を含め、冬木のものがほとんどである。それらの音楽が次から次へと登場し、フル・オーケストラによって演奏されるのか、と思っていたらそれは第1楽章のみで、緩徐楽章になるとトランペットのソロが美しいメロディーを吹くムード音楽のようなものになったのは驚いた。この音楽はハープやオルガンの伴奏にも乗ってうっとりするほど綺麗なメロディーで、第2楽章が終わった時点で拍手が沸き起こりそうになったほどである。

第3楽章のスケルツォ風の音楽と、第4楽章でのコーダ(フルートで「帰ってきた」のメロディーが聞こえた)の音楽は、できればもう一度聞いてみたいと思っているが、そのような機会はないし手段もない。全体に、ちゃんとしたシンフォニー・オーケストラによって演奏される耳に心地よい音楽の美しさもさることななら、この作品は単に有名なメロディーをつなぎ合わせただけの陳腐なものではないということである。確かに冬木透という作曲家は、蒔田尚晃という名で数々の純音楽作品を作曲しているそうだ。

休憩をはさんで演奏されたのは、交響曲「宇宙戦艦ヤマト」である。松本零士のよるこのアニメ作品のテーマ音楽は、大阪生まれの作曲家、宮川奏が作曲したことで知られている。テレビで放映され、日本中のファンをくぎ付けにした世代は、私よりは少し後になるのだが、丁度3つ歳下の弟がテレビで見ていた影響で、音楽も含め私も良く覚えている。この音楽を交響組曲にしたものをラジオで聞いたことがあって、それは有名なメロディーが次々と出てくるものだったが、30分もなかったように思った。今回演奏されたのは、それとは異なるものだった。

作曲したのは羽田健太郎で、1984年にN響によって初演されているというから、もう40年近く前の作品ということになる。第1楽章「誕生」、第2楽章「闘い(スケルツォ)」、第3楽章「祈り(アダージョ)」、第4楽章「明日への希望(二重協奏曲)」という構成。交響曲という体裁を取りながら、何やらてんこ盛りのような作品で、最終楽章にはソロ・ヴァイオリン、ピアノ、それにヴォーカルまでもが登場する。

今回の演奏に参加するこのソリスト人は、なかなか豪華である。まずヴァイオリニストには三浦文彰、ピアノは高木竜馬という若い2人。オルガン横の客席最上段にはソプラノの隠岐彩夏があの有名なヴォカリースを突如歌いだす。このシーンを初演時にテレビで見ていたという指揮者の下野は、震えるほど感動したと述べているが、やはり幼少の頃の経験は例えようもなく新鮮なのだろう。

下野の指揮は大変充実したもので迫力があり、オーケストラもそれに応えてなかなかの力演だった。特に終楽章のコンチェルトになってからは、ショパンまでも弾きこなした羽田健太郎ならではの難しい旋律も数多く、まるでラフマニノフでも聞いているかのような部分もあったが、そこにヴァイオリンも絡んで聞きごたえ十分であった。だが音楽は区切られており、やはり交響組曲とでもした方がしっくりいくような気がした。また第2楽章と第3楽章は、まるでミュージカルのような音楽だった。

ミューザ川崎シンフォニーホールでは暑い夏になると、サマー・フェスティヴァルが開催される。今年も東京中のオーケストラが登場し、魅力的なプログラムが組まれている。そのいくつかには来てみたいと思いつつ、何となく気が滅入るのも事実である。それはあの川崎駅の雑踏を避けることができないことと、螺旋状になった会場が好きになれないことだ。縦に長い分、サントリーホールなどよりは音が拡散する。従って近くで聞くのと、少し離れるのとでは随分印象が異なると感じた。

2023年7月2日日曜日

シベリウス:交響曲第5番変ホ長調作品82(コリン・デイヴィス指揮ボストン交響楽団)

新幹線に乗って日本各地へと向かいながら、このブログの下書きをすることが多い。今日も、朝6時12分発山形新幹線つばさ121号の車内で、この文章を書いている。小雨の降る梅雨空の向こうに、安達太良山が見える。丁度福島県内を通過中である。今日は月山の麓を通って鶴岡まで行く。

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シベリウスの7曲の交響曲のうち、もっとも完成度が高い(と私が思う)第5番といえども、さほど詳しく知っているわけではない。初めて外国のオーケストラを聞いたのは、オッコ・カムの指揮するヘルシンキ・フィルの来日公演で、大阪でも演奏された交響曲全曲演奏会の中から、交響曲第2番と第5番、それに「フィンランディア」という名曲プログラムの初日を、当時中学生だった私は友人と聞きに出かけた。このとき、第5番の曲を初めて聞いたのだが、当時、我が家にこの曲のレコードはなく、他に聞くことのできるメディアと言えばNHKのFM放送くらいだが、運よくこの曲が流れることもないわけで、それはつまり、まったく初めて演奏会で聞いたということになる。だから、というわけではなのだが、曲のことをほとんど覚えていない。ただ最終楽章のコーダで、長い休止を伴う6回もの連打が印象に残った。

緊張感を持って一気に演奏される、まるで一筆書きのような曲である。演奏時間は長くもなく短くもない。3楽章構成。第1楽章はもともとの初稿での第1楽章と第2楽章を合わせた構成となっているらしく、前半と後半で趣がやや異なる。だが続けて聞いても違和感はなく、これはこういう曲なのだと思っていた。もともとシベリウスの交響曲は、形式が自由である。長い序奏が続き、何かとりとめのない音楽がもやもやと続く中で、やがて輪郭が見え、はっきりとしたモチーフが形成されてゆく。季節が次第に移り変わり、長かった冬がようやく終わると、そこからは陽気な音楽だ。陽気と言ってもそこは北欧である。陽光まぶしい南欧のそれとは違い、清涼感ただよう乾いた青空の冷たい空気。

コリン・デイヴィスのような骨格のはっきりとした、重厚感のある演奏が好みである。しかしこのほかの演奏をあまり聞いたことはない。第2楽章は緩徐楽章となっているが、ここでは独特のリズムが全体を支配している。この主題は何度も変奏されてゆくが、最終部ではとても幸せな気分になる。この曲は前作の交響曲第4番とは対照的に、シベリウスの生誕50周年を記念して演奏されるために作曲されたことを思い出す。第1次世界大戦中に作曲された交響曲としては、異例の陽気な曲である。

交響曲では、終楽章への間を置かずに演奏される例が最近は目立つ。シベリウスの交響曲第5番などはそのように演奏すると効果的である。まるで一筆書きのような、と私は書いたが、そのスタイルはこの第3楽章にこそ当てはまる。直線的で、シベリウス独特のメロディーが緊張感を保ってコーダへと走る。トレモロ、低弦の響き、そして金管楽器のぞくぞくするようなアンサンブル。良く考えてみると、第2楽章と第3楽章はいずれも3拍子の曲である。このことが曲に躍動感と緊張感の持続を与えているのかも知れない。終楽章の次第に高揚しながらコーダに向かう様子は、短いながらも鮮やかである。

コリン・デイヴィスのシベリウスは何種類かあるが、ここでは珍しくボストン交響楽団を指揮している。記憶が正しければ、デイヴィスのシベリウス録音の最初のものがこれで、このあとRCAに録音したロンドン響との演奏、さらにはLSO Liveのレーベルから出ている晩年の全集もある。円熟の演奏にも捨てがたいい魅力があるが、若い頃の演奏が好きである。

2023年6月7日水曜日

ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団))

韓国・ソウルにある梨泰院と言えば、先日は混雑による大事故の発生した若者の街であるが、ここはかつてから米軍基地のそばにあるところで、今では珍しくもない西洋風のお洒落なお店やレストラン、それに大量の(偽物の)カバンや靴などを売る商店が立ち並ぶ一角だった。私はまだ韓国旅行にビザの必要だった1986年にここを訪れた。ソウル・オリンピックの2年前のことである。

当時の韓国は物価が安かった。私はここへ行けば、安い輸入物のCD(それは私にとって、ヨーロッパから直輸入のクラシック物に限られる)が手に入るのでは、などと考えた。靴やリュックサックなど一通り買い物を済ませて、私は一軒のレコード屋に入った。当時CDは発売されてまだ月日がたっておらず、韓国では皆無の状況だった。代わりに目にしたのは、大量のカセットテープである。ヨーロッパで録音されたカセットテープに、ハングルで書かれたカバーを付けて売られていて、メジャーなレーベル(ドイツ・グラモフォンやデッカなど)は英語でも表記されているから、何の曲の誰の演奏かは簡単にわかった。ステレオ録音のカセットは、1つあたり数百円程度だったと思う。

そこで私は、いくつかのカセットを買った。ひとつはヨーゼフ・クリップスがウィーン・フィルを指揮したベートーヴェンの「田園交響曲」で、これは無名のレーベルのものだったが音がひずんで聞けたものではなかった。もう一つはフィリップスから発売されていたベルナルト・ハイティンクによるブルックナーの「ロマンティック交響曲」だった。我が家にはブルックナーのレコードが一枚もなく、一度は聞いてみたいと思っていたのかも知れない。ハイティンクのブルックナーは、全集として完結したロイヤル・コンセルトヘボウ管とのものであった。このカセットは音質が良く、私は初めて聞いたブルックナー作品の録音となった。

交響曲の一部のみということであれば、ブルーノ・ワルターが指揮した「ロマンティック交響曲」の第1楽章のさわりの部分(第1主題)が「音のカタログ」と称される非売品のカセットテープ(CBSソニー)に、わずか40秒ほど録音されていたものを聞いている。この演奏はふくよかで味わいがあり、とてもいい曲のように感じていた。そういうことがあって、ソウルでハイティンクのものを買ったのかも知れない。

当時ブルックナーの聞き始めに相応しい交響曲は、圧倒的に第4番だった。実際これ以外の曲にお目にかかることは、ほとんどなかった。初心者にハードルが高いブルックナーの音楽は、マーラー以上に遠い存在だった。そして多くの聞き手がそうであるように、どこがどういいのか皆目わからない日々が続いた。散漫で冗長な音楽。これが私のブルックナーの第一印象だった。

それでも「ロマンティック」という愛称を持つ交響曲第4番だけは、我慢して聞き続けた。最初に買ったブルックナーのCDは、やはり第4番だった。演奏はリリースされたばかりのクラウディオ・アバドが指揮するもの。オーケストラは何とウィーン・フィル。アバドはウィーン・フィルとベートーヴェンをはじめとする全集を録音していたので、驚くことはないのかも知れないが、アバドのブルックナーというのは意外だった。何もアバドまで、と思った。ウィーン・フィルはブルックナーのこの曲を初演したオーケストラでもある。だから誰でもいいというわけではない。最晩年のカラヤンがウィーン・フィルとブルックナーを演奏したのはわかるが、何もアバドが指揮することはないだろうと思ったのである。

ところがこの演奏はなかなかいい。特に第3楽章と第4楽章はちょっとした印象を残す。前半は録音レベルが少し低いもののウィーン・フィルの流れるような美音によって、アルプスを越えて到達するイタリア半島の、比較的なだらかな山々を連想するように、角が取れたいい雰囲気に仕上がっている。これだとBGMにしてもいいな、などと適当なことを考えた。その後忘れ去られ、誰にも注目されないCDかと思っていたが、いまでもこの録音は、ちょっとは取り上げられる。けれども全集に発展することはなかった。

ブルックナーの交響曲全集をリリースする指揮者は限られている。カラヤンやハイティンク、それにヨッフムなどは例外中の例外で、ジュリーニでも後半の3つのみ、そもそも録音のない有名指揮者も多い。そして何とあの歴史的名盤と言われるカール・ベームによるこの曲の録音も、たった1回切り、しかもベームの他のブルックナーの録音には出会ったこともない。そのベームのレジェンドを買い求めたのは、90年代のことだった。

だが私はどういうわけかこの演奏にあまり感動しなかった。そもそもデッカの当時の録音には、何か過大評価されているようなところがあったかも知れない。いやそもそもベームという指揮者は、ブルックナーの指揮者なのだろうか、とも思った。いまでも時々取り出して聞いてはいるが、完成度が高く欠点のない演奏ながら、酔うというところがない。音楽が即物的でリアリスティックな指揮者のベームは、シュトラウスやモーツァルトで発揮した威力をブルックナーで発揮することはないのかも知れない。それ以降、私は実演でブロムシュテット指揮による大名演を接した以外は、この曲からしばらく遠ざかってしまった。ハイティンクのブルックナーの再録音は、ウィーン・フィルとなされつつあったが、全集に発展することはなかった。私はしかし第3番を買った。そして第7番や第8番の魅力に取りつかれた。気が付いてみると第4番は、なかなかいい演奏に巡り合えない曲になっていた。

転機が訪れたのは、ギュンター・ヴァントが最晩年に至ってベルリン・フィルにしばしば呼ばれ、いくつかの交響曲を録音し始めた時だった。私は来日公演(北ドイツ響)のチケットを取りたくて、発売日の午前10時に一生懸命電話をかけ続けたが、つながるまえにすべての座席は売り切れてしまった。健康問題で公演がキャンセルされたチェリビダッケに次ぐ失望だった。プログラムはチェリビダッケと同じブルックナーだった。テレビで見たその第9番の演奏は、客席に異様な雰囲気が漂う歴史的演奏だった。そのヴァントがベルリン・フィルとライヴ収録したCDが発売された。そしてこのCDこそ、望みうる最高の「ロマンティック交響曲」の演奏ではないかと確信したのである。

第1楽章はウィーンの朝もやの中にホルンがこだまする。この「ブルックナー開始」の印象的な冒頭は、すぐに神々しく朝日が昇るかのような第1主題へと発展するが、そこに至るまでの精緻な音色が、これほど多彩で印象深く刻まれたことはないのではないか、と思った。すべてのフレーズに推敲の跡が聞き取れる。技量は申し分のないベルリン・フィルだが、相当入念な練習を繰り返したに違いない。妥協を許さないその姿勢は、時に厳しすぎて息苦しいとさえ感じられるのも事実である。だが、この曲に関する限りその心配は無用だ。むしろ改訂を繰り返したこの曲の欠点をすべて覆いつくしている。

第1楽章ですでに、いくつかの聞き所が訪れる。ヨーロッパ中央部の音は、中音域の弦楽器に象徴されると思っているのだが、その音色がとにかく素晴らしいのである。そこに絡むホルンと木管楽器のブレンドは、組み合わせが変わるたびに表情を変える。そして音色だけでなく、音の大きさやテンポまでもが、考えに考え抜かれている。ソナタ形式と言われても、演奏に感心しているうちにどの主題がどうの、などと考えていくことがどうでもいいことに思えてくる。通俗的でやや軽薄に感じる第1楽章も、ぐっと引き締まっていい塩梅となっている。

第2楽章のアンダンテは、小さな音の変化が巧妙で聞き飽きることがない。このあたりアバドの水のような演奏で聞くのとは様子が違う。そして私がもっとも好きな短いフレーズは、第2楽章が始まって数分後に訪れる。弦楽器が突如そしてアンサンブルを奏でる、わずか1分足らずの、ここのフレーズを聞き分けるのが、私のちょっとしたこだわりである。ハイティンクもいいが、このヴァントの演奏が悪かろうはずがない。以降、消え行っては静かに沸き起こる第2楽章の何回かのクライマックスも、ベルリン・フィルの技術に支えられて申し分がない。

狩の音楽である第3楽章の明るく躍動的なスケルツォは、極めて平凡なトリオの部分などが、素直に演奏すると噴飯ものになる恐れすらあるのだが、ここでもヴァントは丁寧にその欠点を補うことに成功している。金管楽器の美しさを感じるこの楽章のアンサンブルは、何度聞いても飽きることはない。これほど印象に残るブルックナーの曲はないとも言える。改訂に次ぐ改訂ですべて書き換えたという第3楽章は、ポピュラーな名曲である。

さてもっとも長大な第4楽章が始まった。この楽章は冒頭から聞きものである。だがどことなく捉えどころがなく、尻切れトンボのように終わるのでちょっと拍子抜けするときがある。この楽章は稿によって随分異なっているらしい。ヴァントの演奏は1878/80年稿ということだが、細かいことはよくわからない。クレッシェンドが何の濁りもなく聞こえてくるブルックナー交響曲の真骨頂を堪能できる。録音されたメディアで聞く演奏は、間違いを犯す心配がないので、安心して酔うことができる。ワーグナーのように、できれば音響装置を贅沢に投資して、大音量で聞いてみたい。だが家族のいる都心のマンション暮らしでは、それも将来にとっておかなくてはならない。そう思ってもう何十年もが経つ。ヘッドフォンで聞くしかないが、最近は実演で聞くことのほうが楽しい。

ブルックナーの交響曲はプログラムに上ることも少なくない。かつてはブルックナーと言えば「ロマンティック」だったが、最近はどうも様子が違う。それでもこの曲の魅力は、明るさと親しみやすさにあると言える。私はこの曲が好きだ。だが好きな曲であればあるほど、演奏について書くのが難しい。どの演奏がいいのかも、なかなか難しい。だが、どんな演奏であっても曲の魅力を超えることはできないだろう。実演については、それが1回限りのものであるからこそ、常に聴いてみたいと思う。

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(追記)上記で述べたディスクのうち、クラウディオ・アバドによるものはノヴァーク版、ギュンター・ヴァントはハース版である。

2023年5月31日水曜日

シベリウス:交響曲第4番イ短調作品63(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

シベリウスの交響曲は、指揮者によってずいぶん印象が異なると感じている。定評あるパーヴォ・ベルグルンドで聞く時の印象は、無駄なものがなく素朴でありながら、何か真摯に訴えかけてくるようなところがある。シンプルで品のある北欧の清潔感が漂うイメージ。しかしシベリウスはベルグルンドだけではない。この難解とされる交響曲第4番を初めて聞いた時(それが誰の演奏だったかの記憶はすでに失われているのだが)、カラヤンの演奏で聞いたみたい、と直感的に思った。

カラヤンは、シベリウスを得意とした指揮者であった。特にドイツ・グラモフォンから発売されている何回目かの交響曲集では、第1番から第3番までの初期の作品を「スルー」して、第4番以降のみを取り上げる玄人好みの趣向となっている。その第4番の演奏は、私が期待した通り大変充実した演奏である。カラヤンは、この第4番を特に得意としていたらしいのだが、一般に言われているのは難解で暗く、人気がないというものである。確かにコンサートで取り上げられることはほとんどない(ただし、今シーズンのN響はパーヴォ・ヤルヴィがこの曲を振った。プログラムの前半であるが)。

私は、フィンランドを除く北欧をたった一度だけ旅したことがあるが、夏には夜中まで明るい天候と、冬になればほとんど光に恵まれない寒い生活が、この地域の人々の生活に重大な問題を引き起こす引き金になっているのではないかと思った。おそらく規則正しい(と中緯度地域に住む私は思っている)生活が困難で、時に発狂したくなるような陰鬱な気分や陽気で馬鹿に楽しい気分になったりするのではないかと思う。すでに名声を確立していたシベリウスも、暴飲暴食に明け暮れ、アルコールやタバコといったものに毒されていったようだ。

この第4交響曲を作曲したのは丁度そのころ、咽頭がんの疑いが持たれた時のことである。しかし結果的に腫瘍は悪性ではなく、シベリウスも闘病生活から癒えて、体力を回復することになる。郊外に移り住んで作曲に専念していたシベリウスが、死への恐怖と、そこから回復した後のほのかに安らいだ気持ちが複雑に交錯する作品となっている。不摂生な生活を改めたからかも知れないが、シベリウスは90代まで生きることのできた稀な作曲家である。

第1楽章の冒頭からチェロが暗い旋律を奏でる。このメロディーはその後も続き、自由な形式によって反復されるのか発展されるのかもわからないまま、ひたすら暗い海の中を行く。しかし私は、特にカラヤンの演奏で聞く時、この曲が単に暗いだけの曲ではなく、決して抑うつ的ではないと思った。演奏によって、このあたりの印象は違うのかも知れないが、息苦しくはならないのである。それはもしかしたら、こちらの体調がいい時にだけ聞いているからかも知れないが。誤解を恐れず言えば、この第1楽章は時にブルックナーのように聞こえる。

第3楽章は第1楽章よりも内面的ではある。しかし私はここでもドラマか映画の音楽のように聞くことができる。中間部では丸で救急車が近づいてくるような部分があったりする。一方、第2楽章と第4楽章は明るい雰囲気も併せ持つ。第2楽章は北欧の自然を描写したようなシベリウスらしさが現れて、ちょっとした気分転換になっていると思うし、第4楽章はグロッケンシュピールの印象的な音色も加わって、安らぎさえも感じられる。

このようにちょっと不安定で、わかりにくい音楽ではあるが、カラヤンの手にかかると音楽的に充実したものに仕上がる。その妙味もまた職人的で、ベルリン・フィルの重厚な弦楽器に支えられてロマンチックなムードにもなっている。ベルグルンドなどに比べると味付けの濃いカラヤンの演奏が、どこまでシベリウスらしい表現なのかはわからない。だが、シベリウス自らがカラヤンのことを「自身の最高で唯一の解釈者」だと言ったことは、思い起こすべきだろうと思う。

2023年5月1日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第749回定期演奏会(2023年4月29日サントリーホール、ピエタリ・インキネン指揮)

シベリウス初期の大作「クレルヴォ交響曲」を日フィルが定期で取り上げることがわかった。ちょうどゴールデンウィークで、スケジュールは空いている。ここのところシベリウスの作品を聞いてきているので、ちょうどいい機会である。しかも、常任指揮者であるフィンランド人ピエタリ・インキネンは、2008年以前続けてきたそのポストを、この定期演奏会を最後に勇退するとアナウンスされている。十数年に亘る密接で良好な(と言っていいだろう)関係の集大成として、自国の作曲家シベリウスの大規模な作品を取り上げるということだろう。

この演奏会のために招聘した2人のソリストは、ともにこの曲を長年歌ってきたフィンランド人、ヨハンナ・ルネサン(ソプラノ)とヴィッレ・ルネサン(バリトン)。すべてフィンランド語で歌われる男声合唱には、東京音楽大学とともにヘルシンキ大学の男声合唱団が加わる。満を持しての演奏会は2日間に及び、長年シベリウスの名演奏繰り広げてきたこともあって、前評判も上々のようである。私は2日前にチケットを買い求め、連休初日の暖かい陽気の中、今週2度目のサントリーホールに向かった。

70分余り休憩なしで演奏される「クレルヴォ交響曲」は、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」から「クレルヴォ神話」を題材にしている。このストーリーはとても残酷で悲しいが、ここでは触れない。5つの楽章からなる音楽の第3曲と第5曲に男声コーラスが入る。前半、特に第1曲などは、まるでNHKの大河ドラマの主題曲のような曲で聞きやすい。ここで早くもシベリウスの作風が充満している。

今、昨日の名演奏のコンサートを思い出しながら京都へと向かう新幹線の中でこの文章を書いている。耳元ではコリン・デイヴィスによる演奏が流れている。私は、インキネンという指揮者を過去にたった一度しか聴いていない。だが、それは極めて印象に残る演奏会だった。私はそこで、ワーグナーのいくつかの管弦楽曲と「ニーベルングの指環」をマゼールが編曲した「言葉のない指環」を聞いたのだが、このオーケストラがあの滔々と流れるワーグナーの、一面は明るく一面は渋い見事なアンサンブルを引き出していたことに驚嘆したものである。今回のプログラム冊子によれば、そのインキネンは今やワーグナー指揮者としての地位を確立し、なんと今年(2023年)のバイロイト音楽祭で「指環」全曲を指揮するそうである。

私はそんなことなど知らず、数多くいるフィンランド人指揮者の一人、くらいにしか考えてなかったが、なるほどと合点がいった。そして今日のコンサートでも私は、このオーケストラがかくも自信に満ちた表情で、完成度がすこぶる高く、とても豊穣で緻密なアンサンブルを奏でることに驚きを禁じ得なかった。それまでに聞いた日フィルの中でトップクラスの巧さは、惚れ惚れするほどだった。これは指揮者の技量によるのだろう。もちろんそれに加えて、長年の信頼関係が決定的に貢献してることは言うまでもない。前半の2曲で充分にシベリウスの管弦楽曲に馴染んだ所で、いきなり低い男声合唱が聞こえてきた時には、会場全体が一気に引き締まった。私は今回、2階席の奥の端というところながら、ゾクゾクと体が凍りついたのである。

2人の独唱(クレルヴォとその妹)はストーリーテラーに徹する。全部で100名ほどの男声のみの合唱が、オーケストラの音に加わる様は興奮ものである。ここで全ての音が実にバランスよく聞こえてくる。息を切ってストーリーは進み、心拍数が上がる。緊迫感が続くのが第3曲である。できればもう一度聞いてみたい。この第3曲は全体のクライマックスで、25分弱と全体の40%を占める。

続く第4曲は再び管弦楽のみの曲で、なんとなく間奏曲風。前半が長く後半は舞曲風。そして終楽章は再び男声合唱が入る。大河ドラマの音楽も、終結部では大団円を迎える曲調が続く。長大なコーダが終わって、指揮者がまだタクトを振り上げているさなかに、フライングの拍手が起こったことは大いに残念だった。だが、この拍手はすぐに大歓声へと変わった。ブラボーはの声がこれほど、大きくかけられたことはない。久しぶりの熱狂的な拍手と歓声は、この演奏の満足度を示していた。

インキネン氏にとって定期演奏会としての最後の公演となったことを記念して、日フィルから花束が贈られとき、それはいっそう大きいものになった。合唱団と大編成のオーケストラをが立ち去っても続く拍手に応え、指揮者が再び登場。指揮台に上がって歓声に応える指揮者に対し、さらに熱い拍手がもたらされた。ただ、このコンビの演奏会は今後も続くようである。私は再びワーグナーを聞いてみたいと思いながら会場を後にした。

2023年4月27日木曜日

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団特別演奏会(2023年4月24日サントリーホール、飯守泰次郎指揮)

飯守泰次郎の指揮するブルックナーの演奏会に、一度出かけてみたいと思っていた。随分前から、一部のファンには熱烈に支持されていたが、私にはこれまで縁がなかったからだ。飯守泰次郎を知ったのは、新国立劇場の芸術監督に就任した2014年頃だった。私は彼がバイロイト時代の人脈を駆使して招聘するワーグナー歌手らとともに、「パルジファル」「神々の黄昏」「ローエングリン」「さまよえるオランダ人」を聞き、さらにはカタリーナ・ワーグナーの演出するベートーヴェンの「フィデリオ」の名演奏を聞いた。これらは私のワーグナー視聴史を飾る貴重な思い出である。

そのワーグナーを崇拝したブルックナーもまた飯守の得意とする演目で、彼自身が「挨拶」でそのことに触れている。ブルックナーとワーグナーには共通点が多く、「バイロイトでワーグナーの仕事をした経験が、ブルックナーのサウンドを構築する土台になっている」と語っている。飯守の指揮によるブルックナーは、先日4月7日にも交響曲第8番の演奏会が行われている。私はこの演奏会にしようかと迷ったが、直前に上岡指揮新日フィルによる同曲を聞いたばかりなので、24日に開催される第4番の方を選んだ。交響曲第4番「ロマンチック」はブルックナーの交響曲の中では最も有名で、明るいメロディーが全体を覆う私の好きな曲である。

シティフィルというオーケストラを聞くのは初めてであった。プロフィールを見ると創立が1975年だから、もう半世紀近くの歴史があるということになる。N響を筆頭に数多ある在京オーケストラの中で、どちらかというと目立たず次点といった感じのオーケストラという印象があったが、飯守の指揮する演奏会は評判がいい。彼自身解説のなかで、音楽は生きているものだと書いている。「楽譜に書ききれない自由さがある」以上、「常に聴きあいながら有機的に音楽を創っていく」営みが重要だと語っている。今回の演奏会も、演奏が進むにつれてどのように音楽が進(深)化するか、それが大いに注目するところだった。

第1音の弦楽器によるトレモロが響いた瞬間、私はこのオーケストラが発する得も言われぬ響きに驚かされた。音に艶があって生きている!その音はまさに中欧のそれであって、しかも明るいのだ。紛れもなくブルックナーの音を、飯守は作り出している。オーケストラが時に音を外しそうになったところで、この音色は揺るがない。2階席真横という席ながら、そのことを実感して嬉しくなった。

第1楽章の明るくて優雅な主題は、私が初めて聞いたブルックナー音楽の原点である。その時聞いたレコードの指揮はブルーノ・ワルターで、そこはやはりメロディーの歌わせ方の上手い演奏だった。最初のゾクゾクがこのメロディー、とこの曲を聞く時の相場は決まっている。その第1楽章はソナタ形式で書かれているが、そういう音楽の構造が何かとてもよくわかる。飯守はすっかり体が弱って、支えがないと指揮台まで歩けない状態だったが、音楽が始まってしばらくは用意されていた椅子に座ることもなく、むしろ早めのテンポで駆け抜けた。

第2楽章の美しさ、特に中間部の短いメロディーがこの曲最大の聞き所だと思っている。このメロディーを聞くために、実演の会場へと足を運んでいると言ってもいいくらいである。私にとってのこの曲の、2回目のゾクゾクは、実に自然な成り行きでやってきた。だが、私はここを境に、今日の演奏が化学変化を始めたように思う。ここからの音楽は、いっそう洗練されて聞こえてきたからだ。特に第2楽章ではヴィオラが活躍する。オーケストラを真横から見ていると、正面からではあまりよくわからない管楽器に注目が行くが、これが弦楽器とどう絡み合っているかが手に取るようにわかる。

第3楽章は狩の音楽だが、ここではホルンを始めとする金管楽器が活躍する。飯守は椅子に座りながらも、淡々と音楽を進める。ブルックナーの音楽には人間性が感じられない。だから、音楽は無為無策のように、むしろぶっきらぼうで素っ気なく指揮するのが良いようなところがある。しかし、そういう音楽がただひたすら繰り返されてゆくと、研がれた石が光沢を放ち始めるようになる。大改訂を繰り返した第3楽章の中間部は、素人が聞いても音楽的ではないが、繰り返されるスケルツォを聞いていると、ひたすら漂白される砂糖の結晶のように思われてくる。

長い休止の間、飯守は幾度となく楽譜のページをめくり、何かを確認しているようだった。今日のプログラムはこの曲ただ1曲のみ。その全力投入の演奏も、終楽章へと入る。そして3回目のゾクゾクは、第4楽章早々のクライマックスと決まっている。飯守の今回の演奏は、第2稿ノヴァーク版ということになっている。良く知られているように、この曲で通常演奏される第2稿の2つの版に、いずれもシンバルは登場しない。ところが舞台には第1楽章から、ずっとシンバル担当の打楽器奏者がいて、この人が第4楽章早々のクライマックスで、満を持してシンバルを叩いたのである。

この効果は抜群だった。そしてシンバルはこの1音だけ。そもそもシンバルが入る稿というのを良く知らないのだが、これはおそらく折衷版ということだろう。ややこしいことはともかく、ここから20分余りをかけてコーダに至るまでの演奏は、ブルックナー音楽のもっとも感動的なシーンの連続だった。

これだけの名演奏なのに、客席が3割程度しか埋まっていないことが残念でならない。月曜日ということもあるし、定期演奏会ではないという不利な点もある。しかしコロナの期間を含め、私が経験した中では最も少ない聴衆の数だった。だがその数少ないファンは、大いに熱狂的でもあった。歩くのがままならないマエストロは、係員に支えられながら舞台の袖で諸手を挙げ、順次各パートを立たせた後も再三にわたりブラボーの声援に応えた。もちろんオーケストラが去っても拍手は鳴りやまず、指揮者が再び会場に立った時には、再度割れんばかりの拍手に包まれた。

ブルックナーの名演奏は実演でしか得られないものがある。単純だか壊れやすいその音楽は、オーケストラの技術が良くなければならない上に、音楽の最中に一種の動的な変化がなされる必要がある。滅多におきないその変化が生じた際の、圧倒的な感動はこの作曲家の音楽の虜にさせるに十分である。そして今回の演奏もその水準に達した。オーケストラのアンサンブルが指揮者とのコラボレーションによって次第に高次元でまとまり、技量を超え神がかったような一体化が醸成されていった。まさに飯守が期待した成果だった。できれば他の作品も聞いてみたいと思っていたら、配布されたチラシの中に、来シーズンの定期でシューベルトの「グレイト」が掲載されているではないか!これは今から楽しみである。

2023年4月23日日曜日

紀尾井ホール室内管弦楽団第134回定期演奏会(2023年4月21日紀尾井ホール、トレヴァー・ピノック指揮)

プログラムに上ると可能ならすべて聞きに行きたいと思う曲がある。シューベルトの長大な交響曲第8番ハ長調、いわゆる「グレイト・シンフォニー」は私にとってそういう曲である。名曲だけに毎年何回かはどこかの団体によって演奏されているし、レコードの枚数も限りがない。実際、実演で聞くこの曲はその長さが気にならない。それどころかいい演奏で聞くと、いつまでも聞いていたいとさえ思う。

私がかつて実演でこの曲を聞いたのは4回ある。そのうち2回は鮮明に覚えているが、あと2回は記憶にない。鮮明な方は、サヴァリッシュ指揮NHK交響楽団とミンコフスキ指揮ルーブル宮音楽隊によるものである。サヴァリッシュのシューベルトは、それだけで間違いがないとも言えるが、ここで私は第3楽章トリオ部分の美しさに開眼した。ミンコフスキの方は、何といってもリズムの楽しさで、特に第4楽章の乗りに乗った演奏に舌を巻いた。そう考えると、記憶にない方の2つの演奏、すなわちノリントン指揮とパーヴォ・ヤルヴィ指揮のいずれもNHK交響楽団による演奏は、なぜ印象がないのかわからない。もしかすると聞いた座席の位置が良くなかったのかも知れない。

そのシューベルトの「グレイト・シンフォニー」を英国のピリオド奏法で名を馳せた指揮者、トレヴァー・ピノックが指揮する。この指揮者を聞くのは初めてである。プログラムの前半には定番のモーツァルトも用意されているから、これは「買い」だと思った。かつてドイツ・グラモフォンから発売されていたバロックからモーツァルトに至る一連の演奏は、一世を風靡したかのような感さえあった。ブリュッヘン、アーノンクールなどと並んで、80年代の古楽器ブームの最盛期に登場したピノックのCDを、私も何枚か持っている。

そのピノックも77歳だそうで、昨年(2022年)からは紀尾井ホール室内管弦楽団の第3代目の首席指揮者に就任したそうである。私は紀尾井ホール室内管弦楽団を聞くのは2回目である。もう5年前の丁度同じ日になるのだが、ハイドンの「十字架上のキリストの7つの言葉」を聞いており、紀尾井シンフォニエッタ東京から名称を変更した団体の技量の高さはすでに体験済みだから、きっといい演奏会になるに違いないと確信した。

ピノックはシューベルトの「グレイト」を指揮するの当たり、特にメッセージを寄せていて「シューベルトの交響曲第8番は、私にとって宝物のような作品であり、人生のあらゆる要素が詰まった体験と省察のための音楽です」と語っている。彼にとってこの曲を振ることは、特別なことなのだろう。だからこの日の演奏会は、とどのつまりは「グレイト」に集中し、そこにほとんどすべてエネルギーを傾けたと言っても過言ではないだろう。最初の曲「イタリア風序曲」の丁寧で明るいサウンドは、いわば「グレイト」のためのウォーミングアップといったところだが、一音一音の色付けにこだわりが感じられて大変好ましい演奏に仕上がっていた。

一方のモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は、ピノックの定番中の曲である。ところが何と、私はこの曲の実演を聞くのが初めてであった。ピノックは無難にこの曲を指揮したと思う。ただ私はどことなく、練習不足の感が否めなかった。オーケストラの音色、特に弦楽器のそれに、何となく洗練されたものが感じられなかったからである。音がやや艶を欠いていて、どこかアマチュアの団体が演奏しているような感じである。そう思ったのは、後半のプログラムではまったく違った素晴らしい音に変貌していたからである。

ただピノックはチェンバロの奏者でもある。チェンバロという楽器は、音が上部に「キン」と突き抜けるようなところがあって、もしかするとそういう音作りなのかも知れないと思った。シューベルトではむしろロマン派のアンサンブルになっていたがモーツァルトでは、敢えてもっと賑やかな古典派の音にしていたのかも知れない。

紀尾井ホールという会場を私は好ましく思っていない。その理由は最寄りの駅から遠いことに加えて、トイレが不思議なことに地階と2階にしかないというおかしな構造をしていることによる。このため大多数の1階席の聴衆は、階段を上り下りしないと用を足せないのだ。我が国におけるクラシック音楽のリスナーは近年、特に高齢化が著しく、この階段の上り下りには拒絶感を抱く人も多いのではないか。だからかどうかはわからないが、これだけ素敵なコンサートなのに、客席は6割程度しか埋まっていない。もったいない話である。

シューベルトの交響曲第8番について、音楽評論家の森朋平氏が大変素敵な文章を解説に記している。それによれば、若い頃はモーツァルトをモデルにしていたシューベルトも、病に侵されるようになるとベートーヴェンが目標となった。「治ったと思っても回帰してくる関節と頭の痛み」によって死を意識する若き作曲家は、それまでのような「”歌”や”抒情”に耽溺しない、古代の叙事詩を読み上げるごとき偉業」を成し遂げる。それは「4か月におよぶザルツブルク方面」への旅行を皮切りにゆっくりと形をなしていった。

病気と死の恐怖にさいなまれながら、彼は長大な作品を残す。その冗長なまでの(私はそうは思わないが)長さに「演奏不可能」とレッテルを張られたこの作品は、後年シューマンによって見いだされ、メンデルスゾーンによって初演されるまで日の目を見ることはなかった。私が衝撃を受けたのは、その頃のシューベルトがローマの友人に充てて書いた手紙の一節である。「もう二度と目覚めなければいいのに」と、彼は書いているのだ。私の患う病魔もこの状況に似ている。驚くべきことにシューベルトはそんな苦境の中でこの曲を作曲したのだ。そこにはシューベルトの並々ならぬ決意が感じられる。「未完成」とは対照的に、この曲はシューベルトのポジティブな側面が横溢している。しかしその中に時に垣間見せる内省的な瞬間が、この作品の奥深い魅力である。

さてピノックの「グレイト」だが、結論から言えば、大変感動的であった。オーケストラのアンサンブルの見事さは、前半とは異なって群を抜いていた。特に終楽章でのリズム感のよい集中力は、できればもう一度聞いてみたい。ただ、第2楽章ではもう少し表情付けがあっても良かったと思う。中間部で一気に静かになるところ。ここで吹く心の隙間風こそが、私がシューベルトを愛する理由なのだ。

同じことは第3楽章のトリオにも言える。あまりに健康的で明るい演奏なのだ。だがこの抒情的な部分の美しさは例えようがない。できればここはゆっくりとした演奏で聞いたみたいものだ。その前後は威勢が良くていい。このコントラストの妙をつける演奏に、私はまだ出会っていない。ただでさえ長いこの曲で、弛緩させることなく集中力を維持することに気を取られるあまり、この第3楽章のしっとりとしたメロディーが、いつも不完全なものに終わるように私は感じてしまう。

いくつかの不満はあるとはいえ、高い水準でこの曲を聞くことができた喜びは、何をおいても特筆すべきだろうと思う。そしてシューベルトの魅力を、またいつか実演で聞いてみたいと思う。生ある限り、私はシューベルトを愛し、そしてシューベルトの曲を聞き続けたい。あのピアノ・ソナタの全集を、私はそのために買い求め飾ってある。

長大な曲の最後の一音が鳴り終わったとき、フォルティッシモで終わる曲にしては珍しいことに長い静けさが保たれた。多くの聴衆の中に、音楽の一部とも言える静寂をぶち壊す人がいなかった。そのことで今日の演奏会の品の高さがうかがえようか。ブラボーこそわずかではあったが、これには指揮者も満足した様子だった。木管楽器を始めとする奏者の技量の高さにも驚かされた演奏会が終わると、何と小雨が降り始めていた。4月とは思えない暑さの中を、赤坂見附の交差点まで歩くと、紅潮した頬も次第に緩み、新橋の雑踏に塗れるころには深遠なシューベルトの心の闇も、どこかへと消えて行ってしまうようだった。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...