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2026年2月20日金曜日

R・シュトラウス:歌劇「アラベラ」(The MET Live in HD Series 2025~26)

 かつて NHK-BS 放送がまだ生き生きとしていた頃、クラシック音楽の番組は今よりもはるかに多かった。日本の演奏会の映像だけでなく、海外のオペラ公演を記録したものや映像作品なども放映されていたから、私はそれらを VHS テープに録画してラベルを貼り、大切に保管していた。

その中に、ゲオルク・ショルティがウィーン・フィルを指揮した R. シュトラウスの歌劇「アラベラ」(グンドゥラ・ヤノヴィッツほか)があった。これは Unitel が制作した映像作品で、今でも同曲の代表的なものである。ショルティは 1959 年に「アラベラ」をウィーン・フィルと録音しており(ルチア・ポップほか)、その評価はいまもって色褪せることがない。ショルティ/ウィーン・フィルの《アラベラ》は、録音盤も映像盤も決定盤のひとつといってよい。

NHK が「アラベラ」を放送したのは深夜だったので、私はその冒頭だけを見ただけで眠ってしまった。続きは録画したものを見るつもりだった。大学生の頃である。ところが、手元にあると、いつでも良いなどと考えて、なかなか見ることがない。とうとう私は、その録画してあったショルティの「アラベラ」を一度も見ることがなかった。その後 DVD 化されるなどしたようだが、未だに見ていないのは恥ずかしい限りだが事実である。

あれから 40 年が経過し、ついに Met LIVE で「アラベラ」の上演が取り上げられた。そして何ということか、2025 年秋にニューヨークで上演されたこの公演が、かつてショルティのビデオにもなったものと同じ、伝説的なオットー・シェンクによる演出なのである。METではなんと半世紀もの間、同じ演出が延々と続いていることになる。それはあのフランコ・ゼッフィレッリの「ラ・ボエーム」と並んで、いや、もしかするとそれ以上に長い間上演され続けているプロダクションではないかと思う。

今回、東劇で見た 2025 年上演の「アラベラ」は、今となってはちょっと考えられないくらい古めかしいが、3つの幕に合わせて少しずつ異なる、古風で典雅な時代のウィーンの香りをきちんと再現している。指揮はニコラス・カーターで、まだ 40 代と若いが、その切れ味は鋭く、ショルティを思い起こさせるメリハリのある音楽づくりで全体を引っ張ってゆく。音楽は、他愛のない会話にゴージャスなメロディーをふんだんに盛り込んだ、全編これシュトラウス節である。「ばらの騎士」ほどの華やかさはなく、「影のない女」ほどの衝撃もないが、ホフマンスタールの台本による計6つの共同制作のうち「アラベラ」が最後で、ヒトラー政権が誕生した1933年に初演された。二人の仲たがいなど数々の逸話が残されているが、ホフマンスタールは、息子の自殺に打ちひしがれ、とうとうこの作品の完成を見ることなく没した。

落ちぶれた貴族で貧窮生活を余儀なくされながらもホテル住まいをしているヴァルトナー伯爵(バスのブリンドリー・シュラット)とその夫人(メゾ・ソプラノのカレン・カーギル)は、美貌の長女アラベラ(ソプラノのレイチェル・ウィリス=ソレンセン)を富豪に嫁がせようとし、逆に次女ズテンカ(ソプラノのルイーズ・アルダー)は生活費節約のため男として育てられる。ここで、表題役アラベラを歌うには相当なドイツ語能力が要求されるが、ウィリス=ソレンセンは米国人ながらドイツ語が堪能である。もちろんソプラノ歌手として一級の歌声を有しており、その気品に満ち、かつ十分に芯のある声量は、言い寄る多くの男性の中でも、わざわざ遠くから訪ねてきた真摯な大金持ちマンドリカ(バス・バリトンのトマス・コニエチュニ)を選ぶ。ひそかにアラベラを好いていたマッテオ(テノールのルイーズ・アルダー)は、男友達だと思っていたズテンカが、実は何と女性であり、しかも自分を好いていたことを知って、こちらもめでたく結ばれる。

このようにストーリーは紆余曲折が多く、しかも荒唐無稽。間違えばオペレッタになりかねない台本に、シュトラウスは大真面目な音楽をこれでもかとばかりに注ぎ込む。作曲を楽しんでいるような光景が目に浮かぶのは私だけだろうか。聴きどころはいくつもあり、第1幕の姉妹による二重唱と迫力のある幕切れ、第2幕のマンドリカとアラベラの二重唱、そして何と言っても第3幕の最後のシーンである。そしてもう一人、重要な役がある。舞台でたびたび登場し、見事なコロラトゥーラを披露するフィアッカーミリ(ソプラノのジュリー・ロゼ)である。各幕には時折ワルツが自然に挿入され、音楽に華を添える。特に第2幕は舞踏会のシーンである。

正直に告白すると、私はこの上映のうち第1幕を、睡魔に襲われてほとんど覚えていない。しかしこれは映画館だからこそできる贅沢である。ワイン片手に豊穣で美しい音楽を身を沈めながら、しばしうたた寝気分を味わうのは極上である。そのためだけに映画館に足を運んでもよい。ちゃんと見たくなったらもう一度見ればいいのだし、いや、そうでなくても第2幕、第3幕と、ずっと絢爛な音楽が続くので、十分に作品を味わい尽くすことができる。

2025年12月3日水曜日

R・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」作品40(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、1985年)

私の育った家庭は決して教育熱心でなかったわけではないが、かといって受験などは放任主義で、CDが出始めた時も受験直前になってプレイヤーを買った。私の部屋は、ステレオ装置の置いてあるリビングの真向いにあって、ドアを閉めていても音が聞こえてくる。夏はクーラーもなかったから、音が筒抜けだった。

まだCDが出始めた頃で、タイトルは輸入盤が中心でごく僅か。値段はそれでも一枚3500円した。LPにない魅力をうたったCDは、まだ高嶺の花だった。私が小遣いで買うことはできないし、したくない。むしろ安くなる一方のLPにこそ、手を出していた。

そんな私が初めて自分のお金で買おうとしたCDが、カラヤンの「英雄の生涯」だった。もっともカラヤンの新盤くらいしか、レコード屋に置かれていない。それも隅っこの方に申し訳程度。これでは、選択肢がほとんどない。そのような中で、カラヤンの「英雄の生涯」は、自身のCD第1号に相応しいと思った(思うことにした)。1986年、40年前にことである。そして受験がすべて終わったその日が、ついにやってきた。

私は試験会場を後にして、大阪ミナミの道頓堀に近くを彷徨しながら、レコード屋を探した。普段はキタのレコード屋(ワルツ堂や大月楽器)に行くことにしていたが、堺市の大学を受験したので、難波界隈での買い物を試みたのだ。ようやく訪れた解放感に浸りながら、ゆったりと人混みの中を気分良く歩いていると、長かった受験生活の間に硬直して固まった緊張が、ゆるゆると解けていくような錯覚に見舞われた。

心斎橋近くに小さなレコード屋を見つけ、中に入った。ところがCDなど置かれているようには見えない。ましてクラシックのコーナーなど片手のてのひらで厚さを計れるほど小さいスペースである。これではCDなど買えるはずがない。しかし、CDは今日買って今日聞きたい。何せ、受験が終わった記念の日の、自分へのささやかなご褒美なのだから。

そのレコード屋には、それでも数枚のクラシック音楽CDが並んでいた。店員に頼んで見せてもらうほど高い位置にあって、どんなタイトルかわかりにくい。もっともジャケットが黄色いので、ドイツ・グラモフォンのCDであることはすぐにわかった。となれば、カラヤンのCDもあるに違いない。私はリリースされたばかりの「英雄の生涯」を探した。しかしあいにく「英雄の生涯」は売られていなかった。仕方なく、私は代わりにカラヤンが指揮するチャイコフスキーの交響曲第4番(ウィーン・フィル)のものを買って帰った。音楽の性質は、まったく違う。「英雄の生涯」が自尊心に溢れた若きエネルギーを感じる陽性の曲なのに対し、チャイコフスキーの方は、自身を失って挫折状態から、空虚な勝利妄想に至る神経症のような曲だ(と当時の私は考えていた)。

帰宅してさっそくチャイコフスキーのCDをかけていると、もしかすると自分の今の気分に合っているのは、むしろこちらではないか、と思うようになった。受験の出来栄えが、あまり芳しくなかったからである。しかし2週間後には合格が発表された。私はその学校が第2志望だったので、進学こそしなかったが、そのような受験の日々を懐かしく思い出す。

前置きが長くなった。ではその時買おうとしたカラヤンの新盤「英雄の生涯」はどうなったか。それから十年近くも経過してCDの値段も落ち着き、私は上京してサラリーマン生活を送っていたから、あるとき池袋のHMVで思い出したようにこのCDを買った。45分程度の曲なのに、CDにはこの1曲しか収められていない。西ドイツ製。もっともカラヤンには、59年の録音もある。晩年のデジタル録音がいいとは限らないので、これは私の個人的な思いの入った選曲であることをお断りしておく。

若いリヒャルト・シュトラウスが書いた交響詩の中では最後に位置するのが、この「英雄の生涯」である。正式には「大オーケストラのための交響詩」となっていて、105名のプレイヤーを要する大曲である。ここで「英雄」とは、歴史上の人物でもなければ、ナチスの党首でもなく、作曲家自身を指すと言われている。なんとも自惚れた曲だが、そのあたりが面白いと思った。ということは第3部の「英雄の伴侶」は、恐妻家で知られるシュトラウスの妻が描かれているということになる。ここで登場するヴァイオリン・ソロ(コンサートマスターが弾く)は、最初めっぽう粗くて起伏に満ち、時に高音を発するヒステリックな音楽である。

音楽で表現できないものはない、と語ったシュトラウスは、このような方法で妻へのささやかな攻撃を試みた。なんともいじらしく、微笑ましい話のように思える。いや切羽詰まった思いの吐露か。ただ大作曲家にはほかにも多くの敵がいた。それは批評家である。ただシュトラウスのために言っておくと、「英雄」が自身を指すということは公式には述べられていない。従って余計な雑念を配して聴くのが良い、とされている。

さて、「英雄の生涯」は以下の6つの部分から構成されている。ただし、音楽は続けて演奏される。

  1. Der Held (英雄)
  2. Des Helden Widersacher (英雄の敵)
  3. Des Helden Gefährtin (英雄の伴侶)
  4. Des Helden Walstatt (英雄の戦場)
  5. Des Helden Friedenswerke (英雄の業績)
  6. Des Helden Weltflucht und Vollendung der Wissenschaft (英雄の隠遁と完成)

大音量のゴージャスな響き、親しみやすい旋律、数多くの楽器やソロパートを聞く楽しみ、そしてそれらが重なり合い、うねりとなって進行するさまは、まさにオーケストラを聞く醍醐味といっていい。人気があるからだろう。毎年数多くの演奏会でこの曲が取り上げられる。録音の数も多い。演奏会に行くと、有名なフレーズの練習に余念がない団員が、早くも舞台上で直前のおさらいをしている。

勇壮な冒頭から一気に引き込まれ、気が付いたら第2部になっているという感じで音楽はスタートする。この冒頭は一度聞いたら忘れられないが、主題のメロディーは何度かあとにも登場する。力強くて威勢が良く、若きエネルギーを感じさせる。

それに対し第2部は、「英雄」敵が登場する。彼らは批評家なのか無理解な聴衆なのか。いずれにせよ、ここは暗く焦燥感に満ち、心が安定しない。

第3部になって女性が登場。この女性、キンキンと声を張り上げて奔放に振舞うが、芸術家である英雄は煮え切らない態度である。そのやりとりが比較的長く続くが、ここはソロ・ヴァイオリンの腕の見せ所となっている。私の所有するカラヤンの新盤では、レオン・シュピーラーが弾いている。

この第3部は結構長い。そして後半になると芸術家の心も解けて相愛となり、ロマンチックな愛の情景が描かれる。このような音楽はシュトラウスの十八番であって、ヴァイオリンを絡めながら壮大な情景が繰り広げられてうっとりする。

舞台裏からトランペットが鳴り、小太鼓の音が聞こえてくると第4部に入る。3拍子。戦場。ということは、作曲家は芸術に邁進し、新しい境地を次々と切り開く時期ということか。格闘するのは敵なのか、それとも芸術的理想なのか。いずれにせよ最終的には大勝利を収め、音楽はクライマックスを形成する。人生の絶頂期。だがこの曲を作曲したシュトラウスはまだ30代である。

第5部。「ドン・ファン」のメロディーが聞こえてきて驚くが、それ以外にも数々の交響詩の音楽がちりばめられているようだ。やはりこれはシュトラウス自身の業績とその回想である。成功した英雄は、心穏やかな平和な日々を送る。現代に置き換えれば、さながら引退直後の60代といった感じだろうか。一仕事を終えてなおまだ健康を害してはいない。だから、この時期にこそ人生は謳歌すべきである(と私は思うことにしている)。

第6部は、高齢者となった英雄の最期である。イングリッシュ・ホルンが印象的。体が弱り、穏やかな隠居生活に入るのだろう。過去を振り返りつつ、伴侶に看取られて世を去る。壮大なコーダとなって、音楽は感動的に終わる。

この音楽を演奏するのに、カラヤンの右に出る者はいない、と思った。その考えは今でも変わっていない。何度も録音しても良さそうな曲だが、59年の古い録音と、74年のEMI盤、そしてデジタル時代の85年盤が良く知られている。ここで取り上げたのは84年版。久しぶりに聞いて、やはりいいな、と感じる。CDの時代が去って久しいが、このCDは最後まで手元に置いておきたい。

この新しい録音が再度リリースされた時には、「死と変容」が収められていた。一方、59年盤を聞くと演奏自体はさほど変わらないが、より引き締まった感じがする。ヴァイオリン・ソロのミシェル・シュヴァルヴェが素晴らしい。そして余白にはワーグナーの「ジークフリート牧歌」が収録されている。音楽配信が主流の今では、まあどうでもよいことなのだけれど。

2025年11月24日月曜日

NHK交響楽団第2050回定期公演(2025年11月21日サントリーホール、ラファエル・パヤーレ指揮)

もともとN響のB定期は、やや玄人好みの選曲だと思っていた。従来からN響では、同じ指揮者が約1か月間滞在して、3つのプログラム計6回の公演を指揮する。公式には記されているわけではないが、Aプロは指揮者の十八番、Cプロはポピュラー作品が中心に組まれているものと思われる。しかしN響もいまや世界的指揮者を多く招聘することによって、長い期間マエストロを、極東の島国に拘束しておくことは困難になったように思われる。今シーズンで言えば、移動に伴う疲労が心配な超高齢のヘルベルト・ブロムシュテット、首席指揮者のファビオ・ルイージ、それにウクライナ戦争であらゆるポストを辞任したロシア人、トゥガン・ソヒエフを除けば、毎回指揮者が入れ替わる。11月はAとCが名誉音楽監督のシャルル・デュトワで、Bのみベネズエラ人のラファエル・パヤーレとなっていた。

デュトワのC定期は世紀の名演だったと聞いている。ここで演奏されたラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)には、私もできれば行きたった。しかしあの広いNHKホールで、演奏を堪能しようと思えば1階席の中央に座る必要があり、それには座席の確保が困難な上、席自体がやや狭く視界も良くない(端の席はほぼ絶望的)。しかも夜の渋谷の雑踏、もしくは休日の代々木公園のお祭り騒ぎの中を会場に向かうのは、私にとってもはや苦行である。そういうわけで、最近NHKホールに出向くのは避けている。

そのデュトワがB定期も振るかと思いきや、そうではなかった。年間会員としてはちょっと残念だったが、こればかりは仕方がない。そういうわけで今月は、パヤーレの登場である。パヤーレを私はかつて一度聞いている(2017年)。ところが今回配布されたプログラム・ノートによれば、彼のN響への初登場は2020年2月と記されている。これはどういうことかと思ったら、定期公演の話であった。私が出かけたのは「N響『夏』」と呼ばれるコンサートで、ここはいわば若手指揮者による名曲プログラム。実はほとんど印象は残っていないが、聞いたという事実は覚えていたので、まだましな方である。

そのパヤーレも、今やモントリオール交響楽団のシェフに抜擢されたようだ。ベネズエラ生まれと聞けばドュダメルを思い出すが、独自の音楽教育プログラム「エル・システマ」のホルン奏者出身とのことである。しかし今回のプログラムは、新大陸の音楽ではなくドイツ音楽、それもシューマン、モーツァルト、それにリヒャルト・シュトラウス。言わば王道の選曲と言うべきか。だから曲は名曲ばかりでも、これは指揮者にとっての意欲的プログラムであると思われた。B定期としてのこだわりは、そういうところだろうか。

さて、シューマンの「マンフレッド」序曲は、かつてフルトヴェングラーのCDで聞いたくらいで、ほとんど知らない。シューマン独特の、あのくすんだ音色がN響から聞こえてくる。指揮はこの曲だけ完全な暗譜で、指揮台は置かれていなかった。特に心に残るようなわけでもない平凡な演奏が終わって、舞台左奥に置かれていたピアノを、どうやって舞台中央に運ぶのか、私はこれまで何度もサントリーホールに通っているが、ちゃんと見るのはこれが初めてである。

舞台は階段状になった半円形の台が設えてあり、指揮者を中心に後方の奏者ほど高い位置に並んでいる。この階段を乗り越えるため、何と舞台の一部の段差が電動装置によって切り取れたように沈み、そこの部分だけがフラットになったのだった。その作業のため、第1及び第2ヴァイオリンのセクションは一時退場を余儀なくされた。このような舞台の準備作業を、私は興味深く見ながら、次のプログラム、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を待った。

再び舞台の階段が正常位置に戻り、ヴァイオリン奏者の椅子が並べられると、団員たちの一部が再登場。ピアノのC音を合図にチューニングが開始された。程なくしてソリストを務めるエマニュエル・アックスと指揮者が登場した。

アックスと言えば、私は子供のころから録音で知られているアメリカ人のピアニストで、ヨーヨー・マと競演した録音などで良く知られているが、実演で聞くのは実はこれが初めてである。そしてモーツァルトのピアノ協奏曲第25番もまた、実演で初めて聞く曲である。この曲はハ長調で書かれており、モーツァルトのハ長調と言えば、「リンツ」や「ジュピター」などが思い浮かぶ。いずれも壮大でストレートな華やかさを持った曲で、誤解を恐れずに言えば、奏者を選ぶというか、なかなか難しい曲に思われる。

だからかどうかはわからないが、この25番のピアノ協奏曲は、いい曲と思うのだが演奏されることは少ない方だ。パヤーレはその最初音を、ふわっとしてスッキリとした音色で始めたのは印象的だった。アックスのピアノがまた、モーツァルトに相応しく、雑味なく響く。全体に好感の持てる演奏ではあったのだが、それ以上でもそれ以下でもない。もしかするとパヤーレの音作りは、やや雑なところがあって、細やかな音の表情や音色の変化に乏しく、N響はうまく取り繕ってはいるがちょっと平凡な演奏に終始したように感じた。しかしアックスのピアノは何とも素敵で、その真骨頂はアンコール曲(ショパンのノクターン第15番)で示されたと言って良いだろう。

休憩を挟んでオーケストラが倍増され、舞台上にずらりと並んだ姿は壮観だった。リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」と言えば、毎年数多くの公演がなされる名曲中の名曲だが、たしかにこの曲ほどオーケストラの醍醐味を味わわせてくれる曲もない。にもかかわらず、私はかつて2回しか聞いていないのは意外であり、しかもそのうちの1回は、すでに忘却の彼方にあった。今回検索してみると、2020年1月にN響で聞いている。しかもこの時の会場もサントリーホール、指揮はファビオ・ルイージ、ゲスト・コンサートマスターはライナー・キュッヘルとなっている。

私が聞いた位置が悪かったのか、それとも体調が悪かったのか、あるいはこの曲についてまだあまり多くを知らなかったのか、そのあたりはよくわからないが、その前に初めて「英雄の生涯」を聞いた時の読売日本交響楽団による演奏会(2015年3月のサントリーホール、指揮はジェラール・コルステン)はよく覚えているので、ルイージの演奏はどこか物足りなかったのかも知れない。

さてその「英雄の生涯」のパヤーレだが、これは前半のプログラムにおけるやや精彩を欠いた演奏に比べると、少なくとも私の個人的な印象としては悪くなかった。というよりも、結構よかったんじゃないかと思っている。もしかするとパヤーレの音は、どこかフランス風のオーケストラのように平べったく、しかしながら色彩感は豊かであった。この結果、何とも言えないようなムードを醸し出していた。全体として見た場合に、ずっとうっとりとして自然に身を任せておけばいいような気分が私を被い、それは最後まで続いた。

なぜかとても心地が良く、聞いているだけで気持ちが満たされるような感覚は、オーケストラの技量によって作り出されたのか、指揮者の意図するところだったかのかはよくわからない。しかしこの丸で韓国ドラマを見る時のような、魔法のようにしっとりとした演奏は、まぎれもなくオーケストラを聞くことの喜びを感じさせてくれた。饒舌なヴァイオリン・ソロを弾いたコンサートマスターは、長原幸太だった。そしてファゴットもホルンも小太鼓も、十分に巧く、そつがない。そのことが演奏に余裕を与え、指揮者が大きな身振りでドライブする姿が上滑りすることもなかった。

客席全体がこの演奏を良いと感じたかどうかは、正直なところわからない。N響の定期となるとほぼ会員で埋まっているから、皆相当耳の肥えた人たちである。そしてこの演奏にはブラボーはなかった。感動しているのは私だけかとおもった。ところが、消えかけていた拍手がわずか数人に減ったにもかかわらず、それを熱心に続けている人がいる。そしてその拍手は、あろうことか次第に大きくなってゆき、オーケストラが退場してしばらくしても絶えることはなかった。よく見ると、私の隣の席のいつもの夫婦も、珍しく退場せずにずっと拍手している。

「一般参賀」などと揶揄されるコロナ禍後の指揮者に対するちょっと大げさな反応には、少し辟易している。この若手指揮者に対し、東京のリスナーは良い印象を持って帰ることを土産に、今後の成長を見守りたいという老婆心に導かれている要素がないとも言えないかも知れない。しかし、私はまた自分がそうであったように、この演奏には(すくなくとも後半の「英雄の生涯」に限れば)、実にいいものだったと素直に思った人が、一定数いたということだ。それを証明するかのように、長い時間の後、再び舞台に指揮者が登場した時には、多くのブラボーが叫ばれたのだ。

そもそも我が国には、クリスマスを祝う伝統はない。にもかかわらず、いやだからこそというべきか、東京では早くもクリスマス・ムードになっていた。サントリーホール前の噴水にもクリスマスツリーがお目見えし、階上には赤と緑の垂れ幕が下がっている。一層華やいで見えるこの頃、いつのまにか11月も後半になって師走の足音が聞こえてきている。長く夏が続いた今年は、もう少し秋を楽しみたかった、という本音を言い出すまもなく、来る年の準備に追われるのだろうか。そいうえば、在京オーケストラの来シーズンのプログラムが出そろった。会場前で配布される大量のチラシの束を繰りながら、早くもカレンダーに注目のコンサート情報を書き込んでいる。

2024年6月27日木曜日

R・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」作品30(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団[72年])

クラシック音楽作品には文語体での表現が多い。ヴェルディの歌劇「椿姫」もタイトルからして古風だが(最近では「トラヴィアータ」と原語の名称で表しているのを見かける)、その中のヴィオレッタのアリア「ああ、そはかの人か」というのには私は驚いた。これはあまりにわかりにくいので「あら、あなたなのね?」という表現に変わりつつある。でも、古くから慣れ親しんだ言い方は、そう簡単に変えられるものではない。「タンホイザー」の「夕星のうた」やモーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」なども有名だが、もともと聖書と同様、宗教的作品、たとえばバッハのカンタータなどはその宝庫と言える。

でもさすがに20世紀の作曲家シュトラウスともなると、もうこういった古風な表現は似合わないと思うのだが、何と交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」は、いまだにこの表現のままである(ひと頃、「ツァラトゥストラはこう語った」という表現に改まった時期もあったが、最近では再び文語調に戻っている)。ニーチェの原作がそのままだからだろうか、それとも文語調で表現した方が格調高く、より厳粛な感じになるからだろうか。明治維新以来、西洋音楽を崇高なものとして輸入したわが国では、このような表現の方が愛好家の自尊心をくすぐるものとして、もてはやされる傾向にあるのが真意かも知れない(ついでながら通はこの曲を「ツァラ」と略して呼ぶ。同様に「ティル」というのもあるが、「ドン・キホーテ」を「ドンキ」とは言わない)。

というわけで交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」は、難解なムードと大袈裟なオーケストレーションによってさらに神がかり的になり(もっともニーチェは「神は死んだ」と言ったのだが)、聞いてみると明るい感じがする曲である。実際にはこの作品は、シュトラウスの若い頃、20代の後半に作曲された。当時まだブラームスは健在だったことを考えると、その表現の豊かさ、大胆さには驚かされる。

「ツァラトゥストラかく語りき」はオルガンの低音が静かに鳴り響く中、ファンファーレが勇壮に飛び出し、ティンパニの強打がそれに続く。これを何度か繰り返したあと、爆発的に開始されるのが「導入部」である。この曲はSF映画「2001年宇宙の旅」で使われて大変有名になったため、クラシック音楽に縁のない人でも知らない人はほとんどいない。ところが驚くべきことに、その後の音楽になると有名どころか、まずほとんど知られていないのである。同じシュトラウスの管弦楽曲では、「ドンファン」や「英雄の生涯」のほうが有名であるくらいである。

だがコンサートでまさか「導入部」だけ演奏して終わり、というわけにもいかないので、通常は通して演奏される。30分強の長さの作品は切れ目がなく、「導入部」を含め9つの部分から成っている。オーケストラの編成は大規模で、オルガンのほかにハープや数多くの打楽器、管楽器が使われる。シュトラウスの管弦楽作品の醍醐味が味わえるので人気もあり、録音も多い。

ツァラトゥストラとは「ゾロアスター」のドイツ語読みである。ゾロアスターとは「ゾロアスター教」すなわち古代ペルシャにおける拝火教の始祖である。ゾロアスター教の教義がどういうものであるかは、それだけで大掛かりな読み物になるレベルだが、哲学者のニーチェはこの中に「神の死、超人、そして永劫回帰の思想」を発見し、この書物を書いた。この作品を読んだシュトラウスは、その内容にいたく感動しインスピレーションを得たようだ。おおよそ音楽で表現できないものはない、と豪語していたシュトラウスは、山にこもって知覚したその教えを説くツァラトゥストラの教義のいくつかを選び、それを音楽にした。以上が、もっとも簡潔なこの作品の解説である。

さて。音楽はこの人間主義の賛歌、神からの開放といった近代思想の核とも言うべきものが、音楽で表現されてゆく。様々な要素(調性や楽器、あるいは音型など)が何を意味し、それがどのように展開されてゆくかがこの音楽を解く鍵だが、それには音楽的知識が不可欠である。これは難解であるため、私のような素人はそのレベルに達していない。以下は私の解釈メモであり、間違いや欠陥が存在するかも知れないことをお断りしておく。

1.導入部(Einleitung)または、日の出(Sonnenaufgang)
2.世界の背後を説く者について(Von den Hinterweltlern)
3.大いなる憧憬について(Von der großen Sehnsucht)
4.喜びと苦しみという情熱について(Von den Freuden und Leidenschaften)
5.墓場の歌(Das Grablied)
6.学問について(Von der Wissenschaft)
7.病より癒え行く者(Der Genesende)
8.舞踏の歌(Das Tanzlied)
9.夜のさすらい人の歌(Nachtwandlerlied) 

導入部(日の出)は「自然」、その摂理である宇宙の営みが端的に示されている。これがいかに輝かしいものであるかは、以降の音楽がかすんでしまうほどに圧巻であることから明らかである。すべてに超越したような音楽を冒頭に置いているのは、この作品がバランスを欠いているからではなく、おそらく意図的であると思っている。短い導入部が終わって、オルガンが通奏低音として残る。

続く「世界の背後を説く者について」は意外にも明るい曲で、私は結婚式に似合いそうだと思っていたくらいだが、弦楽器が次第に増してゆくコラールのメロディーである。これはすなわち、キリスト教を意味している。「世界の背後」すなわち「自然の摂理」を支配するのは、キリスト教の神であると皆が信じた。しかし神はは所詮人間が考え出したものだ。自然を支配するのは神ではなく、人間であるという近代の思想が暗示されている。

輝かしい太陽(ハープ示される)に「大いなる憧憬」を抱くのは人間である。この作品では、様々な感情や概念が音楽上の動機(モチーフ)として表現されるというとても野心的な試みがなされている。人間は自然を前に慟哭の情さえ禁じ得ない。「喜び」すなわち「苦しみの情熱」を抱き、それを悪としてきた神に対し、人間の徳がこれに代わると説くのである。

「墓」とはこういう神を創造した旧い人間たちの墓場のことだろう。この墓へ赴き、死んだ人間を蘇らせよう。自然に対する憧れ、恐怖が昇華し最良の形で知性化されたのが「学問」である。学問は人間に勇気を与えた。この学問が病い、すなわち神の思想に支配された人々を目覚めさせる。

学問によって神からの呪縛から逃れようとする近代の人間、すなわち「病より癒え行く者」がたどり着いた泉のほとりで少女たちが踊る。シュトラウス音楽の聴かせ所である。踊りは動きのあるテンポに乗ってやがてワルツとなる。これは「生」の喜びを象徴している。それまでに登場したモチーフが次々に登場し、音楽はクライマックスを築く。様々な楽器が飛び交い、ヴァイオリンやチェロのソロが印象的である。

しかし終曲「夜のさすらい人の歌」は、やや悲観的なムードの曲である。結局、超越的な思想は世間に受け入れられることは難しい。諦めの境地を彷徨いつつ、静かに曲を閉じる。おそらくこの部分こそが、シュトラウスがニーチェに抱いた着想の本質なのだろう(永劫回帰)。

古今東西の様々な演奏がひしめくなかで、ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮した3つの録音が極めてこの作品に合っていると思う。この曲はカラヤンのためにあるのではと思うくらいである。3種類のどれがいいかは難しいが、もっとも古いウィーン・フィル盤が映画に使われたものだそうだ。それに対し、最新のデジタル盤は音質に関する限り最高であるには違いないが、カラヤン晩年の演奏でやや統率力を欠いているという向きが多い。結局のところ70年代の絶世期の演奏は、もっともバランスよくこの曲の魅力を最大限に表現している。

2024年6月14日金曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第761回定期演奏会(2024年6月7日サントリーホール、大植英次指揮)

日フィルの定期会員になった今年のプログラムは、いくつか「目玉の」コンサートがあった。この761回目の定期演奏会もそのひとつで、指揮は秋山和慶となっていた。ところが事前に到着したメールを見てびっくり。指揮が大植英次となってるではないか!私の間違いだったかも知れない、といろいろ検索すると、秋山は骨折して療養を余儀なくさせられ、代わって大植が指揮することになったのだという記載にたどりついた。そのうち一枚のはがきが送られてきて、正式にその経緯がわかった次第。

私は大植の最近の演奏をきいておらず、久しぶりに聞いてみたいと思っていた。5月の神奈川フィルの定期を考えたが、こちらは別の演奏会とかぶってしまい断念。またそのうちに、と思っていたらその日が急に訪れた。これはこれで嬉しい。というわけで、梅雨入りが遅れている暑い東京の人混みをかわしながらサントリーホールへと急ぐ。

プログラムは当初と同じだった。前半にまず、ベルクの「管弦楽のための3つの小品」で、これをリーアという人が室内オーケストラ用に編曲した版。これが日本初演だという。大植はこの曲を、楽譜を見ながら非常に丁寧に演奏したと思う。舞台のプレイヤーの人数は、もともとのこの曲の大編成から大幅に減らされているが、それでもそこそこの規模である。20世紀の音楽によくあるように、数多くの種類の打楽器が並んでいる。

どうも私はベルクが苦手である。新ウィーン学派の中ではシェーンベルクが最もとっつきやすく、次がウェーベルン。ベルクは「ヴオツェック」「ルル」といった歌劇作品もあって、この3人の中では音楽のジャンルに幅もあり、もしかすると取り上げられる機会は最も多いのではないだろうか。だが私はこれまで、楽しんで聞いた記憶がない。その前衛性(といっても1世紀も前の話だが)をいまだに理解できていないのだろう。

この日のコンサートのもっとも注目に値する曲は、次のリヒャルト・シュトラウスによるホルン協奏曲第2番だったと思う。ホルン協奏曲と言えば、モーツァルトによる素敵な4つの作品だけがとりわけ有名だが、それから100年以上が経って誕生したシュトラウスのものこそ、その最高峰と言っていいだろう。だがこの曲が演奏される機会は非常に少ない。それはおそらく、この曲が極めて難しいことから、ソリストとして弾ききるだけの(しかもライブで)実力を兼ね備えた人があまりいないからではないだろうかと思っている。このたびソリストとして登場したのは、日フィルの首席ホルン奏者の信末碩才という方。このお名前、「のぶすえさきとし」と読むらしい。プロフィールによれば栃木県小山市の出身で、まだ若いが今や我が国を代表するホルン奏者とのことである。

さてホルンの響きの素晴らしさは当然のこととして、まず私が聞き惚れたのはバックを務める大植指揮のオーケストラであった。このシュトラウスの音楽が、何ともビロードのような響きであったのだ。各楽器が絶妙に重なり合い、調和的な残響を残しながら、あのシュトラウスの豊穣な音楽に艶のある一体感を与えている。中欧の響き、というのはこういう音楽なんだろうか、などと考えた。大植は大フィルの音楽監督を務めていた頃に、あのバイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」を指揮して、この音楽祭に登場した最初の日本人となったが、もしかするとワーグナーの響きを体現する指揮ということで注目されたのではないかとさえ思った次第。大植のバイロイトへの出演はこの時限りとなったが、この響きはその表情を創出する術があるように思えてならない。

ホルン協奏曲はまた、シュトラウスの磨きのかかったメロディーがアルプスの自然を思わせる美しいもので、演奏上のミスがなかったわけではないが、それでも良くこのような曲を人前で弾くなと感心させるに十分なものであった。オーケストラの曲、たとえばワーグナーの楽劇などでホルンの超重要なソロが出てくるときは、聴衆としても大いに緊張するのだが、それはごく短いものである。しかしこの曲では、そのようなシーンが延々と続く。20分足らずの間に、3つの楽章があり、オーケストラの中にも2台のホルンがいて掛け合う。必死に弾く、というわけにはいかず、あくまで難なく演奏しているように流麗に、かつ自然に演奏しなければならないのは超絶的であるとさえ言えるだろう。曲が終わって大拍手に見舞われ、幾度となく舞台に呼び戻されたソリストにとって、この日は忘れられない節目となったに違いなく、だからこそ日フィルの好意的な定期会員は、みな拍手を惜しまなかった。

休憩の後、後半のプログラムであるドヴォルジャークの交響曲第7番が始まった。大植の指揮は、このような中欧の音楽に相応しく、丸で今回のプログラムは彼のために編まれたのではないか、とさえ思った。昨今、ドヴォルジャークであれブルックナーであれ、音型のはっきりとした、鮮明で明瞭な演奏が主流になっている。これはイタリア人指揮者がドイツの名門オーケストラに着任して、その傾向を変えたとも言える。アバドやシャイーといった指揮者の演奏するこれらドイツ伝統音楽に、新しい息吹を吹きかけ、新鮮な側面を打ち立てた功績は大きい。ここにいわゆる古楽器奏法が登場し、ビブラートを抑えたすっきり系の演奏が持てはやされるようになった。

だが大植の目指す音楽は、その対極にあるような気がする。強いて言えば、どこか懐かしい響きなのである。かといってドイツ的なずっしりしたものでもなく、ちょっと軽めのアンサンブルを感じる。今回の演奏では、その様子がよくわかった。ドイツのオーケストラにフランス人の指揮者登場したときの演奏のように、ちょっと艶があり、残響が重なる。残響などは聞いているホールに依存するパラメータであると思っていたが、必ずしもそうではないのかも知れない。

今では独特の演奏とも思えるような大植の音楽は、これはこれで大いに楽しく、そして聞きごたえがあったと思う。もともとブラームスの影響が強かったドヴォルジャークの交響曲である。秋山だっからもう少しメリハリがあって、若々しい演奏になっていたかも知れない。これはおそらく指向する音楽が違うのではないかと思った。大植の指揮で、私はかつて一度だけ、ブルックナーを聞いているのだが、ブルックナーだけでなくブラームスやマーラーの曲も聞いてみたい。そんなことを考えた。

2024年4月24日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「エレクトラ」(2024年4月21日東京文化会館、セバスティアン・ヴァイグレ指揮)

ちょうど桜が咲く頃の上野公園で開催される「東京・春・音楽祭」も今年20周年を迎えた。IIJの鈴木会長が主体となって始まったこのコンサートも、すっかり春の風物詩として定着、昨今は世界的なオペラ公演が目白押しで目が離せない。今年は何と「トリスタンとイゾルデ」「ラ・ボエーム」「アイーダ」それに「エレクトラ」の4つが上演された。

いずれの演目も大いなる名演だったようだが、その中で私は「エレクトラ」の公演に出かけることになったのは、いつものように前日のことだった。一連の音楽祭の最終日にあたる4月21日は、すっかり桜は散りはててはいるものの、多くの人出でいつものように大混雑。少し早く家を出て、東京国立博物館などにも足を運びつつ、15時の開演を待つ。休日午後の演奏会が14時に始まるものが多い中で、15時開演というのは大いに好ましい。14時だとお昼が慌ただしく、夜には早すぎるからだ。

R・シュトラウスの歌劇「エレクトラ」は、単一幕のオペラで休憩がない。100分もの間中、切れ目なく音楽が鳴り響くのは前作「サロメ」同様である。ただストーリーはより陰惨で救いようがなく、しかも主人公のエレクトラは終始舞台にでずっぱりであるばかりか、大音量で大声を張り上げる必要がある。そればかりか、その妹クリソテミスもまた、大変な声量が必要とされる難曲である。

私はこの「エレクトラ」に長年馴染めないでいた。数年前にMet Liveシリーズで映像を真剣に見たときも、不協和音だらけのとっつきにくいオペラで、それはシェーンベルクの「ヴォツェック」のような作品ではないか、とさえ思った。なぜか「サロメ」や「影のない女」のようにはいかなかった。そういうことがあって、ワーグナーにおける「トリスタンとイゾルデ」同様、この作品が私の前に立ちはだかっていた。

今年、オペラ体験の集大成として「トリスタンとイゾルデ」をとうとう実演を見たことは先日ここに書いたが、考えてみるとまだ「エレクトラ」が残っている。この作品はR・シュトラウスの作品の中で、唯一実演に接していない主要作品となっている。丁度いい機会が訪れた。「エレクトラ」はさほど人気がないのか、それともチケットが高すぎるのか、前評判がいいにもかかわらず多くの席が売れ残っていることがわかった。これは行かない手はない。いやここで行っておかなければ、後悔するとさえ思った。なぜなら「エレクトラ」の公演は、我が国ではまだ数回しか行われていないからだ(その数少ない上演史の中で、20年前の小澤征爾指揮による「エレクトラ」が「東京・春・音楽祭」の幕開けであった)。

開演時刻が来てオーケストラの団員が自席に着くと、その規模の大きさに圧倒される。管楽器のセクションだけでも6列。バイオリンは4パートもあり、さらにビオラから持ち替えて6パートにもなる。左端にはハープと打楽器が陣取っているが、3階席最左翼の私の位置からは見えない。やがて舞台には侍女たち6人がずらり勢ぞろい。指揮者のクリスティアン・ヴァイグレがタクトを振り下ろすと、いやそれはもう聞いたことがないようなすさまじい大音量が会場に鳴り響いた。

ベルリン生まれのヴァイグレは、2019年から読売日本交響楽団の常任指揮者に就任しており、もう5年目ということになろうか。お互い知れつくした間柄から見事というほかない音楽が、怒涛の如く流れ出すのは驚くべきことだ。そしてそれに負けじと歌う侍女たちは、いずれも我が国を代表する女性歌手たちで、みな奮闘している。この最初の数分だけで、興奮のるつぼと化した会場に、早くもエレクトラ(ソプラノのエレーナ・パンクラトヴァ)が登場した。

エレクトラはここでいきなり長いモノローグを歌う。その声量たるや、舞台上に陣取った大規模なオーケストラが大音量で鳴り響いても、なおそれは3階席までも十分届くもので、さらに驚異的なことには、そのボリュームを幕切れまで維持するという離れ業である。パンクラトヴァはロシア生まれの歌手で、世界各地の歌劇場で主役を歌うディーヴァだが、プログラム・ノートが配布されておらず、そのような記載はオンライン検索しないとわからない。音楽祭の全公演を網羅した分厚いプログラムを購入すれば、少しは掲載されているのだろうけれど、それでは興味ない公演のものも掲載されていてちょっと冗長である。

続けよう。次に登場したのがエレクトラの妹、クリソテミス(ソプラノのアリソン・オークス)である。英国人の彼女は、さらに驚くべきことにパンクラトヴァ以上の大音量で、聞くものを圧倒した。その声量は、まるでもうひとりエレクトラがいるのでは、と思わせるほどだったが、彼女は姉と違い、あくまで女性としての幸福を願ってやまない。姉から母への復讐を持ちかけられても、頑なに拒否する。

この劇の前半はすべて女声である。続いて登場するのが母親のクリテムネストラ(メゾ・ソプラノの藤村美穂子)である。彼女も何年もバイロイトで歌ってきた我が国を代表する女性歌手で、その歌声はお墨付きだが、夫を殺害し娘から復讐を企てられている悪役としては、ちょっと物足りない。いや、何というか、悪役になりきれない上品さが、ここではちょっと役柄に合わない、というか。ただそれは極めて贅沢な話で、歌唱そのものは圧巻であり、二人の娘に交じって壮絶なドイツ語の歌唱を披露する。

3人の主役級の女声陣が登場して、丁々発止の会話に巨大なオーケストラが盛り立てる。クリスティアン・ヴァイグレという指揮者を聞くのはわずかに2回目で、あとはMETライブで「ボリス・ゴドゥノフ」を見たくらいだが、この指揮者はこうも身振りの激しい指揮者だったかと思った。全身全霊を傾けて100人以上はいるだろうオーケストラをドライブする様は、それだけで見とれるのだが、歌手の見事さに耳を奪われ、さらには字幕を追わなければならないので非常に疲れる。シュトラウスの音楽が聴衆にもドッと押し寄せて、こちらの体力を試すかのようだ。まさに会場と舞台ががっぷりに組む真剣勝負である。

音楽が切れない。登場人物が入れ替わるわずかの時間に、オーケストラにスポットライトが当たる。シュトラウスの音楽は、この作品ではいつにも増して豊穣で急進的、緻密にして描写的である。歌詞のひとつひとつに合わせて、楽器がその事物を即物的に表現する。だから陰惨な話がよりヴィヴィッドに展開される。演奏会形式ではあるものの、歌詞を追うだけのであるにもかかわらず想像力が掻き立てられる結果、かえってそのおぞましさが強調されているようにも感じる。オーケストラが舞台上にいる、というのもある。

姉が復讐殺人の実行犯にと考えていた弟のオレストは、馬に惹かれ死亡したと告げられる。なら妹と二人で実行するしかない。しかしここでも妹はあくまで拒否。失望するエレクトラは、もはやひとりで実行するしかないと腹をくくる。そこに見知らぬ男が現れる。それこそ友人に扮した弟オレスト(バスのルネ・パーペ)だった!

ここの音楽は全体のクライマックスのひとつだろう。陶酔に浸るエレクトラ。この時点でもう舞台は半分以上が経過している。ひとり譜面台を観ながら歌ったパーペだが、彼の活躍を知らない人はいないほど有名な歌手だ。数々のビデオ、CDあるいは各地の公演で私もその存在をよく知っているが、実際に聞くのは初めてである。舞台に初めて男声が響く。うっとりするほど綺麗な低音である。脇役にもこれだけの大歌手が揃っているのは、見事というほかない。

とうとう復讐を実行するときが来た。このシーン、あまりに凄惨である上、オペラでないと見てはいられない話(もとはギリシャ悲劇だが)である。おそらく虐待されて育ったであろう長女が、父親を殺されたその場面を見ていたというくだりだけでもおぞましいが、それを殺った母親とその情夫エギスト(テノールのシュテファン・リューガマー)に復讐するというのは現代でもある話である。そのようなニュースを聞くことはつらく怖いが、そういう話は大昔からあって、それが舞台になっている。それに生々しい音楽が付いている。

ただ実際の舞台でもさすがにこのシーンは場外で行われることになっていて、その状況が逐一告げられ、それを聞きながらエレクトラが舞台上で歌う。断末魔の叫び声が舞台裏から響き、歓呼の声を上げるエレクトラとクリソテミス。ここから歓喜の踊りに狂う最後のシーンは、興奮を通り越し、もう何が何やらわからないようなだった。舞台が一層あかるくなり、指揮者の身振りがさらに大きくなって、ぐいぐいと音楽が進む。そしてそれが頂点に達したところで舞台の照明が一気に消され、幕切れとなった。

圧倒的な歓声に包まれた会場は、早くもスタンディングオベーション。最前列から5階席後方に至るまで、ブラボーの嵐となった。順に舞台に登場する歌手陣、指揮者、合唱団、それが何度も繰り返され、カーテンコールは20分近くに及んだ。出演した人はみな会心の出来ではなかっただろうか。満面の笑みをうかべて喝采に応えているその表情は、この音楽祭の最終公演に相応しい素晴らしい瞬間であった。

全身が硬直していた。外に出ると小雨が降りだしており、火照った頬に当たるのがわかった。

2024年1月17日水曜日

読売日本交響楽団第634回定期演奏会(2024年1月17日サントリーホール、セバスティアン・ヴァイグレ指揮)

セバスティアン・ヴァイグレという東ドイツ出身の指揮者は、2019年から読売日本交響楽団の常任指揮者を務めており、しばしば定期演奏会に出演している。しかし私はここのところ読響の演奏会からは遠ざかっており、一度聞いてみたいと思いつつも、これまでヴァイグレの演奏に触れる機会はなかった。

そこで、いいプログラムがあればと思っていたところ、1月の定期が丁度私のスケジュールにも合い、好都合であることが判明した。直前ではあったものの、席はまだ埋まっておらず、私は2階左手のS席を押さえることができた。オール・ドイツ・プログラムで、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、それにリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」である。ここでベートーヴェンの独奏は、若きスウェーデンのエース、ダニエル・ロザコヴッチが登場する。ロザコヴッチは初来日というわけではないが、若干22歳で、すでに数枚のディスクをリリースしており、その中には本日の演目、ベートーヴェンも含まれている(伴奏はゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィル)。

そのロザコヴッチの経歴は神がかり的でさえある。かつてアンネ=ゾフィー・ムターが15歳でカラヤンと共演したとき衝撃を抱いたものだったが、彼は9歳でデビュー、15歳でドイツ・グラモフォンと専属契約を結んでいるそうだ。すでにリリースされている協奏曲のCDにベートーヴェンが含まれているのは驚きである。

このたびの演奏会の目玉は、プログラム前半に置かれたこのベートーヴェンであることには疑いがなかった。まだワーグナーらしい曲調に乏しい「リエンツィ」序曲が威勢よく演奏されたあと、舞台の椅子が若干並び変えられ、指揮者とともに長身のロザコヴッチが登場した。舞台上部にはいつになく多くのマイクロフォンが垂れ下がっており、これは何らかの収録が行われるであろうと思われた。

ヴァイオリン協奏曲の序奏と主題が始まってもごく平凡に振舞っていたヴァイオリニストが最初の音を出した時、意外にも線が細く、音にさほど特徴があるわけでもないなと思った。それでもオーケストラと指揮者は淡々と演奏を続け、長い第1楽章も終わりかけた時、急に音楽が変質した。それは有名なヨアヒムのカデンツァに入った時だった。繊細ながらも集中力を保つヴァイオリンは、ひとつひとつのフレーズに精神を注ぎ込み、満員の聴衆を長い間釘付けにした。微動だにせず独奏に耳を傾ける指揮者とオーケストラを真横に見る絶好の位置からは、その迫力が手に取るようにわかる。

第2楽章は、その神秘的な競演の場であった。この曲がこれほどにまで説得力を持ち、美しく思ったことはなかった。ただ残念なことに、ホルンの音が外れた。ヴァイグレはホルン奏者出身だから、ここは残念に思ったのではなかろうか。以降、ホルンの不安定さは、この演奏に玉にキズだったことは隠しようがないが、まあ実演ではそれは仕方がないことで、そういうハプニングも含め、静まり返った聴衆と演奏家の筋書きのない相互作用が、実演に接するときの楽しさでもある。

第2楽章の後半から、そっと第3楽章に入るまでの数分間は、音楽が永遠に続くとさえ思われた。おそらくここに生じたケミストリーは、実演でしか作用することがない驚異的な美しさだった。繊細に、静かに、丁寧に、音楽の集中力とその持続。そこから醸し出される繊細で強靭な音楽。そして第3楽章に至ってのすばらしいロンドは、そのカデンツァを含め、天国的な瞬間の連続と化した。オーケストラの中ではファゴットが秀逸で身震いがするほど。

演奏が終わって多くのブラボーが飛び交ったのは当然のことであった。情動的な演奏ではなく、かといって円熟味があるわけではない。若々しいと言えばそうなのだが、品があって落ち着いている。まさにベートーヴェンがうってつけだと思ったが、チャイコフスキーも聞いてみたい。そう思っていたら、すでにリリースされているようで、ロビーでCDが売られていた。何度も舞台に呼び戻されたロザコヴッチは、アンコールにバッハのソナタを演奏した。

これだけで満足感いっぱいのコンサートだったが、休憩時間のあとはシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の演奏となった。舞台には100名を超える団員が所狭しと居並び、P席上部のオルガンにも光が当たる。有名な序奏に引き続いて、まるで結婚式に相応しいようなメロディー。そこから続く音の饗宴は、若干支離滅裂気味ながらこの作曲家を聞くときの醍醐味であるオーケストレーションが堪能できる。

ベートーヴェンでは異音のしたホルンも6名に増員されていたが無難にこなし、チェロをはじめとする弦楽器最前列奏者の複雑なソロも決まって、耳の機能がフルに試されるような時間。約30分程度だが、オーケストラの機能が十分引き出されたことによって、豊穣で起伏に富む表現が手に取るように伝わってくる。やはりオーケストラは近くで聞くのが良い。特にサントリーホールの脇の2階席はオーケストラ全体が見渡せ、指揮者と奏者のやり取りが見て取れるのでお気に入りだ(ただ音は分裂気味)。

久ぶりに聞く読響の演奏も、かつてに比べると上手くなったと思った。若いプレイヤーも多く、今後の演奏が楽しみである。読響の聴衆もまた独特の雰囲気があるのだが、次回はどの演奏会にでかけようかと、配られた年間プログラムの冊子を見ながら思い悩んでいる。

2023年10月1日日曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(The MET Line in HD Series 2008-2009)

こういうことは軽々に書くべきではないと思いつつも、このたび札幌で起きた親子3人による殺人事件は「サロメ」に酷似していると言わざるを得ない。「サロメ」はオスカー・ワイルドによる戯曲だが、その原作は新約聖書「マタイ伝」である。リヒャルト・シュトラウスはまだ野心に燃えていたころにこの作品に出合い、出世作となる「サロメ」を書きあげた。わずか1幕の作品だが、凝縮された音楽が息をつかせぬほど緊張感に満ち、ただでさえ異様なストーリーをさらに際立たせ、見るものを圧倒する。

「サロメ」の主な登場人物は4人である。表題役サロメは、預言者ヨカナーンに一方的な性愛の情を抱いている。執拗とも言えるその欲情は、異様と言っていい。囚われて井戸に閉じ込められているヨカナーンに口づけを迫るが、拒絶されて実現しない。わずか16歳ほどの少女は、自分にこれもまた執拗な好意を抱くヘロデ王から、「踊りを踊ってくれたらなんでもやる」を言って少女に迫る。有名な「7つのヴェールの踊り」は、オペラの舞台で繰り広げられる、極上の音楽付きストリップ・ショーだが、このシーンが物議を醸したことは想像に難くない。だがそれも今では昔の話である。

サロメは約束した通り、ヘロデ王に褒美を迫る。斬首したヨカナーンの生首を銀の皿に載せて欲しい、と。ヘロデ王は役人を井戸に遣わせ、首をはねる。その生首が舞台に登場するシーンはショッキングである。実はサロメに殺人を持ちかけたのは、母親のヘロディアスだった。生首に接吻することを夢見ていたサロメは、最後のシーンで圧倒的な歌とともにヨカナーンの首を愛撫。猟奇的な最後のシーンは、演出と歌唱の見せ所である。不吉なことが起こると恐れたヘロデ王は、ついにサロメを殺すよう命じるところで幕となる。

始まって15年以上が経過したMET Line in HDシリーズ(日本では「METライブ・ビューイング」と言われる)では、たった一度だけ「サロメ」が取り上げられている。それは3年目だった2008年のことで、この年はメトロポリタン歌劇場創立125周年。その記念の年のトリに「サロメ」が取り上げられたのだ。私はすでに80作品以上鑑賞してきたが、この「サロメ」はまだ見ていない。もう見る機会はないと諦めていたが、今年のアンコール上映の演目に登場し、ついに私は接することができた次第である。9月末の平日というのに、結構な人数が映画館に来ていた。私も仕事を終えてから駆け付けた。1幕しなかいので特典映像は少なく、たった2時間で終わる。

サロメを歌ったのはカティア・マッティラ(ソプラノ)である。この作品は1にも2にもサロメなので、その緊張感は例えようもない。終始声を張り上げるサロメを野球の投手に例えると、1回から飛ばすと9回まで持たない。一方、そのほかの役、例えばヘロディアスを歌ったイルディコ・コムロージ(メゾソプラノ)は、一見、サロメより安定した素晴らしい歌唱に思えるのだが、これは登場する時間がそもそも違うのである。言ってみれば、数回投げればいい中継ぎ投手のようなものだ。ヨカナーン役はユーハ・ウーシタロ(バス・バリトン)で、この役は囚人として井戸に閉じ込められているという悲惨な状況から、醜悪でみすぼらしい容姿と決まっている。そのことが強調されればされるほど、サロメの異常な性欲が強調される。

サロメに次いで歌の多いのが、ヘロデ王である。この役はテノールでありながら、美男でもなければ軽薄でもない、という珍しい役。キム・べグリー(テノール)は、透き通るような声であるが、なかなか良く似合っていると思った。サロメは、やはり後半、特に「7つのヴェールの踊り」の後に重心を置いて歌ったのだろう。この踊りだけでも、相当な見せ場であることに違いはない。歌手はまず声だが、踊りのシーンで失敗を許されるわけではないのだから、このシーンの後では歌に全力投球ができる。出来栄え云々というよりも、全力投球の演技に見ている方も鳥肌が立ってくる。

生首は吊り下げられて井戸から登場する。それを銀の皿に乗せて弄ぶ常軌を逸した少女の異常性愛に、狂気と戦慄を覚える。サロメの陶酔を強調する音楽は、長大なモノローグの間中、鳴り止むことはない。

物語は2000年前のパレスチナでる。通常は暗い居間で繰り広げられるが、このたびのユルゲン・フリムによる演出では、何か現代風のサロンである。中央に螺旋階段があって、全体的に明るく、おどろおどろしい感じがしない。またパトリック・サマーズによる指揮も、なぜか控えめで音楽が前面に出てくる感じではない。そういうことから、残念ながらこの舞台は、私の中ではあまり感心した方ではないのが正直なところである。なかなかサロメを歌うことのできる歌手はいないのかも知れないが、そろそろ新しい演出、歌手での舞台が待ち望まれるところではないだろうか?

2022年11月21日月曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(2022年11月20日サントリーホール、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団)

クラシック音楽のコンサートにおける日本の聴衆は、礼儀正しく大人しい。特にコロナ禍に見舞われてからは、正しくマスクを装着し、ブラボーを叫ぶ人はいない。しかし、今回のコンサートは違った。我慢しきれず、自粛が呼びかけられたブラボーを発する人が少なくなかっただけでなく、終演と同時に立ち上がる人が多数。会場が興奮に満ち溢れ、会心の出来と思われた指揮者、オーケストラ、それに歌手たちが満面の笑みを湛える。東京交響楽団が音楽監督ジョナサン・ノットとともに上演したリヒャルト・シュトラウスの歌劇「サロメ」(演奏会形式)の類稀な大成功は、伝説的な名演として長く語り継がれるであろう。

その様子をここに書き記すことは、大変な労力である。全編に亘って交感神経が張り詰め、近代のドイツ文化が到達したある種の頂点は、丁度サッカーのドイツチームが超攻撃的な攻めを見せるように、私たちを圧倒する。だがそれだけではない。シュトラウスの音楽は精緻で、セリフのすべての物にそのモチーフが付けられている。丁寧にそのひとつひとつを押さえながらも、全体としては一つの流れを終始維持し、緊張が途切れることはない。全一幕の約100分は、そうだとわかっていてもあっというまに経過し、舞台に出入りする歌手の一挙手一頭側に目を凝らしながら、時折字幕を追う。

表題役はリトアニア人のソプラノ、アスミク・グリゴリアンである。彼女は細身の美貌でありながら、強靭な声を終始絶やさず、まさにサロメの当たり役と言える。登場したときは、確かに上手いと思う程度だったが、その声量と歌唱は次第に完成度を増し、さらにはそれを超えてどこまでも圧倒的に聴衆を引き付けた。「7つヴェールの踊り」に至るまでのヘロデとの丁々発止のやり取りは、聞いていても興奮する。踊りのシーンはオーケストラのみの演奏だったが、そこから終演までの歌唱は、鳥肌が立つほどだった。真っ赤な布をヨカナーンの頭部に見立て、その布をスカーフのように身にまとう演出は、猟奇的な生々しさを緩和する一方で、真の愛情に飢えた少女の心情を際立たせるに十分だった。

グリゴリアンの圧倒的な歌唱を支えたのは、他の3人の主役級歌手が、それに劣らず素晴らしかったからだ。すなわち、ヨカナーンを歌ったバスバリトンのトマス・トマソン、サロメの母ヘロディアスを歌ったメゾソプラノのターニャ・アリアーネ・パウムガルトナー、そして巨漢ヘロデ王を歌ったテノールのミカエル・ヴェイニウスである。ヨカナーンは井戸の中から歌うシーンでは、P席上段のオルガンの横にいて神々しく歌い、舞台に上がった時には人間味のある演技である。彼は頑なにサロメの欲求を退ける。

一方、ヘロデとヘロディアスの会話は、この二人の歌手が素晴らしいだけに圧倒的で、激しい夫婦喧嘩もシュトラウスの音楽で聴くと迫力満点。サロメの意地っ張りな態度は、母親譲りということだろうか。真の愛情を知らない親子は、ナラボートを自殺に追いやり、預言者ヨカナーンを処刑し、自らも死刑になる。近親相関と異常性欲が凄まじいエネルギーの中で交錯するオスカー・ワイルドの台本も、その前衛性が物議を醸し、長らく出版が禁じられた。だがシュトラウスは、さらに「エレクトラ」で前衛的手法を押し進めていく。

今回はコンサート形式による演奏だったが、このような演奏は予算の低減につながるため、昨今の流行りではある。オーケストラが舞台上にいるため、音楽の構造がよくわかり、よく聞こえる。半面、歌手の歌声がかき消されることも多いが、今回の上演ではその心配は吹き飛んだ。1階席前方で聞いていたこともあるのだろう。すべての声は直接耳に届く。歌手はむしろ演技を最小限に抑えることで、歌により集中することもできるという効果も生まれる。最近は舞台演出でもごく最低限のものしか置かないような、バジェット的演出が多いため、結局は想像力がいる。そう考えると、コンサート形式でのオペラも悪くはない。とにかく安いのがいい。ただ、「サロメ」は視覚的要素の強い作品だから、一度は舞台で見たいとも思った。

ブックレットによれば今回の上演には演出監修がいて、それは何とトーマス・アレン。彼はモーツァルトのドン・ジョヴァンニを歌っていたバリトン歌手で、私もよくビデオで見たが、何と彼は来日をしており、カーテンコールに登場した。カーテンコールの最中、指揮者ノットは終始興奮した笑顔で、今回のコンサートに大いに満足した様子である。何度も呼びもどされ、それはオーケストラが舞台から去ってもなお続いた。客席が総立ちのまま、何枚もの写真をスマートフォンに収めるのに忙しい。長いオベイジョンが終わって会場を出ると、雨が降っていた。気が付くともう11月も後半である。今年も残すところ、あと1ヶ月余り。コロナウィルスの非日常生活も、3年になろうとしている。

2020年1月27日月曜日

NHK交響楽団第1932回定期公演(2020年1月23日サントリーホール、指揮:ファビオ・ルイージ)

ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲の冒頭が鳴り響いた時、いつもとは違う一気呵成のN響の響きに驚いた。まるで一筆書きのような引き締まった演奏は、「英雄の生涯」の最後まで続いた。ファビオ・ルイージとN響の相性は大層良好なように思われた。演奏が終わった時の楽団の表情が、それを表していたように思う。ソヒエフとルイージは、現在N響に客演する指揮者の中では、群を抜いていい演奏になる確率が高いような気がした。

ルイージが客演したのは1月の定期公演のうち、サントリーホールで行われるB定期のみである。多忙な指揮者だからだろう。だがその演目は注目に値するものだった。ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲を先頭に、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノはクリスティーネ・オポライス)、そして交響詩「英雄の生涯」である。これらの曲目のいついては、ブックレットに掲載された岡田暁生氏の解説が興味深い。シュトラウスが得意とした「1オクターヴ以上の音域を一気に駆け上がるような電光石火の主題、ウェーバーにも頻繁に見られるものだ」というのである。

ただ実際のプログラムでは、シュトラウスの最後の作品である「4つの最後の歌」が前半に置かれていた。ここでN響との初共演となるオポライスは、プッチーニを得意とするイメージがあるラトビア生まれの美貌のソプラノ歌手である。彼女を生で聞いてみたいと思った客も多かったに違いない。私もまたその一人だったが、彼女が歌ったシュトラウスの晩年の諦観を、果たしてどこまで表現できるのかが今回の一つの聞きどころであった。

オポライスの歌唱はドラマチックな歌で真価を発揮するもので、そういう意味ではドイツ・リートをベースとするシュトラウスの歌とは性質がやや異なる。だが私は事前の懸念とは逆に、そこそこ良かったのではないかと思っている。生で聞くコンサートを、再生装置で聞く録音されたものと比較することはナンセンスだが、それでも私は十分楽しむ事ができた。それは声が非常に美しかったからだと思う。

ただもし、この演奏が私を打ち震える感動に導かなかったとしたら、その原因は二つ考えられる。ひとつは私の曲に対する理解が、まだ十分に及んでいないからだ。歌詞を追いながら聞けるCDと生演奏では違う。たとえそれができたとしても。特に死というものを意識する歌詞を自分がどこまで理解し得るのか、それはまた別問題だ。私は2度余命宣告を受け、死の際まで行った身だが、「夕映えの中で」で歌われる境地には達しなかった。lこれはもしかしたら、「死」をまだ観念的に捉えることができる余裕がある時の心境なのかもしれない。

もう一つの可能性は、オポライスの歌唱が十分美しくはあるものの、総合的にはシュトラウスの晩年の心境を語るにはちょっと明るすぎるのではないかという、主観的とも客観的ともつかない判断である。だが、これはライブという性格のコンサートで、どこまで正確に評価できるのかわからない。私には少なくともその能力がない。事実として言えるのは、上記のいずれか、または両方の理由によって、私は今回の演奏を大変素晴らしいと思いながらも感動することはなかったという事実である。

休憩を挟んだ演目「英雄の生涯」は、「4つの最後の歌」とは異なり、シュトラウスの若い頃の作品である。作曲されたのは飛ぶ鳥を落とす勢いだった1898年は、まだ19世紀ということになる。ここで「英雄」とは伝説上の神でも、ナチスのヒトラーでもなく、彼自身である。この曲で聞ける大規模で迫力ある音楽によって、私はシュトラウスの虜になった。どこまでも続くロマンチックで豊穣な音楽が、他の作品でも体験できることを知るのはそのあとだった。

ルイージはその細身の体を目一杯振り上げながら、N響からとてつもなくダイナミックでドラマチックな音楽を弾きだした。イタリア人ではあるもののドイツ音楽を得意とし、数々のオペラの名演奏でも知られる彼は、ドレスデンやウィーンのオーケストラを指揮することでキャリアを積んできた。N響がこの熱い指揮に導かれ、すべての楽器が躍動的で、大きな広がりを持っていた。サントリーホールで聞く残響の多い音は、時に私を疲れさせさえした。1階席で聞くと、それぞれの楽器が混じり合い、ダイレクトに届く。だからもしかしたら2階席や脇の席の方が適度に分離していいのかも知れない。

「英雄の生涯」(そして「4つの最後の歌」でも)大活躍するヴァイオリン・ソロはコンサートマスターが受け持つが、今回のコンサートマスターはライナー・キュッヘルだった。彼がオーケストラに加わるだけで、ヴァイオリンの音が大層良く聞える。コンサートマスターによるオーケストラの音の違いを実感する。

切れ味の鋭い、ダイナミックな演奏は、一糸乱れることなく最後まで一気に聞かせたといってよい。N響の実力を弾きだしたルイージには、静かに音楽が終わると(そう、今回の「英雄の生涯」は初稿版が採用されていた)、しばしの静寂が訪れた。丸でそうしなければならないかのように、客席は拍手をこらえていた。そして大喝采に混じり、普段は大人しい敬老会のようなN響の客席も大いに沸いた。花束が贈呈され、わずか1度だけのプログラム(ただし公演は定期を含め何公演か行われる)が終了した。この曲は彼の十八番だったのかも知れない。得意なプログラムで客演をこなしたルイージには、次回是非ゆっくりと客演し、他の曲も指揮してもらいたいと願いながら家路についた。

2019年9月23日月曜日

NHK交響楽団第1919回定期公演(2019年9月21日NHKホール、指揮:パーヴォ・ヤルヴィ)

マーラーはとりわけ好きな作曲家だが、かといってマーラーばかり聞くわけではない。演奏会でも交響曲第5番のようなポピュラーな曲であっても、これまでに聞いた実演はたった2回だったと思う。ディスクではもう少し聞いてはいるが、それでもこのヤルヴィの演奏を聞いて、初めて聞く曲のような気持がしたのは実に不思議なことだ。

思うにこれまで聞いたヤルヴィ/N響による数々の演奏では、その曲の魅力を再発見することが多かった。マーラーで言えば、第1番「巨人」、第4番、ブルックナーの第3番などである。今回のマーラーの第5番もまた、全編それまで聞いたことのないような体験の連続で、それだけでこの演奏が類稀な名演奏であったことがわかる。会場を覆った聴衆からは、私がかつてN響で聞いたことのないような大きなブラボーが鳴り渡ったことからも、それは証明できる。

そのマーラーに行く前に、プログラムの前半に演奏されたリヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から「最後の場」について。シュトラウス最後のオペラとして名高い「カプリッチョ」は、上演に2時間余りを要する作品だが、室内楽的な精緻さを持つフランス風の作品である。私はまだ見たことはないのだが、ソプラノの聞かせどころの多い作品のようだ。シュトラウスはこの作品を自らの総決算と位置付けた。

その最後の場では、間奏曲「月光の音楽」から始まって、主人公マドレーヌ伯爵令嬢が歌うソネットにより締めくくられる。約20分のこの部分を、ルーマニア生まれのヴァレンティーナ・ファルカシュが歌った本公演で、私は見事に睡魔に襲われた。それは音楽が始まってすぐのことだった。隣の熱心な聞き手(背の高い彼はとりわけ大きな拍手をした)には申し訳ないのだが、もう片方の隣では、私よりも先に居眠りが始まっていたから、私はまだましな方だった。

おそらくその原因は、歌い手の少し物足りない歌唱にあったのではないかと思っている。1階席の最後尾ではあったが、音楽は直接響く位置にあって、そのことは歴然だった。ホルンを始めとするN響の音色は、とても繊細かつ饒舌だったことを考えると、この演奏は少し物足りなさを残したと思う。けれどもそれは、後半のマーラーと比較しての話かも知れない。実際、平均点は出ていたように思う。このマーラーは、現在聞き得る中で最高の演奏だったとさえ思うからだ。

そのマーラーの交響曲第5番は、やはりホルンが大活躍する。特に第3楽章の長大なスケルツォでは、第一奏者をわざわざ別の特別な位置に移動させ、その演奏を目立たせた。このホルンの上手さは、シュトラウスから始まって交響曲の序奏でも顕著だった。ホルンの音色が舞台のあらゆる壁に反射して増幅され(ホルンは聴衆とは逆の方向に音を出す)、それが耳元へ届く。ホルンがこんなにも印象深く聞えることはまれであり、しかもそのテクニックが冴えわたる様子は、我が国のオーケストラで聞くことはまずない。ところが今日のN響は全く違っていた。これはもう本場の演奏そのものである。

そればかりではない。金管のセクションの完璧な演奏は、トロンボーンやトランペットを含め、圧巻の出来栄えだった。木管楽器の、先を宙に浮かせて吹くシーンの多いこの曲で、その木管楽器の上手ささえも目立たなくさせてしまうような技術的水準は、楽器の弾けない私がいくら形容詞を並べたところで表現できるものではないだろう。そしてティンパニ!音の強さでつける表現の見事さ、そして第4楽章における印象的なハープ!

弦楽器のアンサンブルが最高度において合わされていたことはもやは言うまでもない。N響の中低音の素晴らしさは、それがまるで単独の楽器であるかの如くであり、ヤルヴィの、ややもするとケレン味の多い指揮に呼応して、見事な瞬間を作り出してゆく。そのライヴ感はちょっと興奮する。オーケストラを乗せてゆく感覚は、私の乏しい音楽経験で言えば、マゼールのような芸術的センスを思い出させるが、音楽はそれほどクールではない。とはいえマーラーの世界にどっぷりと分け入っていくタイプではないところが、好みとしての評価が分かれるところかも知れないが。

そういうわけで技術的な観点では申し分のない演奏は、随所に聞かせどころを多く捉えた見事なものだった。第1楽章から第4楽章まで、この曲はともすればただやかましい曲に聞こえるのだが、決してそうではない、十分に注意が払われ、音楽的な部分が見て取れた。まるで吹く風がすーぅと吹き抜け行くように鮮やかさなパッセージ、過去の記憶を蘇らせる一瞬の淋しさ、適度に緊張感を強めたり弱めたり、丸で魔法にかかったように音楽が変化するのを目の当たりにして、これは緩急自在な、どこか能や歌舞伎の世界にでも通じるような静と動の交わり。

このように第1楽章から第3楽章までは発見の連続だったが、有名な第4楽章アダージエットでも、その表現はため息がでる。そして圧巻の第5楽章。コーダでピタリと決まった時の興奮は最高潮に達した。もし私がこの日のコンサートについて、たったひとつ難点を言うとすれば、それはもはや音楽家についてでもなければ、聴衆についてでもない。1階席の構造上の問題である。N響のS席は1階と2階の中央にあるが、ここの席は前の方に行けば行くほど見えにくい。また席の傾斜が緩く、ただでさえ狭い隣との間隔が、前後においても同様になる。これを回避するためには、通路沿いの席に座ることだが、これはなかなかむつかしい。結果的に、背筋を伸ばして前の席の人の頭の間から舞台を窺うしかないのである。

後方の席は、音が目立って衰弱するから、結局どこで聞いても満足な達成感を得ることは難しい。サントリーホールであれば、おそらくこの問題は生じないだろう。けれどもN響のデッドな音は、むしろNHKホールの方が合っているというのが最近の私の印象だ。だが、それも前方の席に限られるのではないか。

私の2019~20年のシーズンは、このようにして始まった。N響の今シーズンの目玉は、10月のソヒエフ、12月のブロムシュテットと盛沢山。1月にはマーラーの「復活」(指揮はエッシェンバッハ)が、6月には第9番(同、ナガノ)がある。シュトラウスも1月には「4つの最後の歌」(ソプラノはオポライス)と「英雄の生涯」(指揮はルイージ)、5月に「アルプス交響曲」(同、ヤルヴィ)が控えている。とても待ち遠しい。

猛暑続きだった夏が去って、台風シーズンが到来。まだまだ不順な天候の続く今年の9月に、次第につらくなっていく我が身の健康を案じながら、渋谷へと続く並木道を歩いた。吹く風が木立をわすかに揺らし、湿気のある風が私の頬を撫でた。

2019年2月15日金曜日

NHK交響楽団第1906回定期公演(2019年2月10日、NHKホール)

珍しいリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲の冒頭が3階席の奥まで響いてきたとき、私はぞくぞくとした感覚に見舞われた。ソロのヴァイオリンがこんなにも豊穣な響きを聞かせることは、そう多くはない。カザフスタン生まれの若手女流ヴァイオリニスト、アリョーナ・バーエワはN響との初共演だそうである。彼女は野太い音色を豊穣に響かせながら、体を大きく揺する。

それにしてもリヒャルト・シュトラウスがヴァイオリン協奏曲を作曲していたことを、私は恥ずかしながら知らなかった。シュトラウスの作品はどれも有名で、しかもいずれの曲も名曲だから、演奏されている曲がすべてだと思っていたのである。ヴァイオリン協奏曲と言えば、古今東西の作曲家が手掛けているから、何もシュトラウスのものを聞く必要はないということだろうか。だが今回、バーエワの演奏で聞いたこの曲を初めて聞いて、何かとてもいい作品に触れた気がした。

この30分ほどの曲の半分を占めるのが、第1楽章である。全体に ブラームスやメンデルスゾーンを思わせるドイツ風のロマンチックなメロディーが鳴っている。特に親しみやすいと言うわけでもなく、印象的なフレーズがあるわけでもないのだが、安心して身を委ねることができる作品である。音楽的な見通しの良さというのが感じられ、大作曲家17歳にしての作品は、それだけでバックグラウンド・ミュージックのようでもあり、もっと演奏されても良いのではないかと思われた。

第2楽章のレントも印象的だが、第3楽章になって軽やかな響きになる。ヴァイオリンの特性を良く生かしていると思う。私は第2楽章の途中で少し眠くなりかけたが、どういうわけかやはり第2楽章の途中でハッと目が覚め、そのあとは第3楽章の最後まで、一気に集中して聞けたような気がする。

大きな拍手に何度も応える彼女は、それだけで全力投球だったのか、アンコールはなかった。それにしてもN響の響きといいヴァイオリンといい、今日の演奏会では音が良く聞えてくる。3階席自由席の常連である私でも、その後半分の席に座るのは、もしかするとこれが初めてである。しかし今日のNHKホールは、こんな珍しい作品であるのも関わらず、結構な客の入りである。シュトラウスのヴァイオリン協奏曲は、真冬の寒い午後のひとときを、少し暖かくしてくれた。

プログラムの後半がハンス・ロットの交響曲第1番という作品だから、今日のプログラムはすこぶる玄人好みであると言える。ロットの作品を実演で聞けると言うのは、これまた大変貴重なことだ。わずか26歳でこの世を去ったウィーンの若き作曲家は、丁度ブルックナーとマーラーの間に位置し、その重なる作風が奇妙な魅力でもある。いやマーラーはロットの影響を受けた。コンクールに敗れ、精神異常を来して失意のうちに亡くなったこの音楽家がもう少し長生きしていたら、音楽史はまた変わっていたのではないか、とさえ思えてくる。

今日のコンサートのテーマは、世紀末のウィーンで活躍した作曲家の若い頃の作品ということになる。もっともロットは、この作品以外に知られているものはない。交響曲第1番でさえも、その録音は極めて少ない。ヤルヴィは、その中の数少ない指揮者のひとりで、この作品をすでに何度も演奏している。だからN響との定期でも、というわけである。

これまで何度か録音では聞いているが、改めてその第1楽章の重厚で壮大な作品に、ちょっとした戸惑いをも覚えてしまう。 冒頭で高らかにトランペットがファンファーレを奏でるとき、この作品に対する若き作曲家の意気込みのようなものを感じる。やがて静かに、歌うようにクレッシェンドしていく様や、その後に訪れる休止など、ブルックナーの音楽そのものだと思う。とても親しみやすく、そしてまるでアルプスの夜明けのような音楽である。

第2楽章のアダージョは、演奏によっては静かな曲だが、ヤルヴィの演奏は何か全体的にとても賑やかであった。第3楽章に至っては、これはマーラー節全開である。そうだ、この曲の魅力は、わずか1時間の間に、ブルックナーとマーラーが交錯する時間を体験できることである。全体の半分近くを占める終楽章の、長い長いコーダを聞いているとウォルトンのような作曲家を思い浮かべることもあるし、延々と鳴るトライアングルを目で追っていたりする。ヤルヴィはコントラバスを左奥に配し、中間部を奏でるチェロとヴィオラを浮き立たせる。ヤルヴィでブルックナーを聞いた時に感じる同じような印象を、思わずにはいられない。もう少し強弱と緩急をつけた落ち着いた演奏でも良かったと思っている。

今年の冬は暖冬と言われたが、ここへ来て凍てつくような寒い日が続いている。私もとうとうインフルエンザを罹患してしまった。 コンサートの間中もマフラーとコートを着込み、静かに座って音楽に耳を傾けていた。

2017年6月14日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」(The MET Livein HD 2016-2017)

午後4時半に会社を早退し、東劇への道を急いだ。MET live in HDシリーズ今シーズン最後の演目、シュトラウスの「ばらの騎士」を見るためである。豊穣な音楽が始まると、さっそくマルシャリンとオクタヴィアンが登場し、後朝(きぬぎぬ)の歌を歌う。前奏曲に小鳥の鳴き声が混じる頃、前部の幕が開き、奥に広がる寝室に拍手が漏れる。絵画が所狭しと掲げられた広間に赤いベッド。部屋の扉が幾重にも開くと、その奥から登場する何人もの従者たち。舞台は18世紀後半のウィーンを19世紀に移し、豪華絢爛な世紀末の貴族社会はややモダンな感じ。ロバート・カーセンによる新しい演出に期待が高まる。

この公演の注目は、しかしながらこの舞台を最後に引退を表明した二人のソプラノ歌手、ルネ・フレミング(元帥婦人)とエレーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)による歴史に残る贅沢な競演である。もちろんこの二人は、それぞれの役を引退するだけで、歌手生活を辞めるわけではない。だがフレミングの長年この役を歌ってきた貫禄と、ガランチャの理想的とも言えるズボン役が見事に折り重なるシーンは、美しく官能的である。

一方、オックス男爵も負けてはいない。というか、この隠れた主役は道化役としての最高ランクを必要とする難役だろう。バスのギュンター・グロイスベックは、スケベ心満載の田舎貴族を、丸で地で行くような印象すら醸し出す当たり役で、歌と言い役回りと言い、申し分のない出来栄え。シュトラウスは当初、このオペラを「オックス男爵」としようと考えていたようだが、もしそうなっていたら間違いなくこの歌手は、その標題役をこなす第一人者として歴史に名を残すだろう、とさえ思われた。だがバスの歌手が、いくら低音を響かせても、「ばらの騎士」は女性主体のオペラである。何せ3人もの実力派ソプラノを必要とするのだから。

3人目のソプラノ、すなわち成金貴族のファーニナル家の娘で、オックス男爵(は元帥婦人の叔父でもある)の許嫁ゾフィーは、数か月前に出産したばかりのエリン・モーリーによって歌われた。16歳からこの役の当たり役だったと言う彼女は、清楚で真面目な父親思いの女性である。ファーニナル家の行く末を案じ、経済的な困窮を何とかしたいと思っている一途な側面も隠そうとはしない。そのファーニナルはバリトンのマーカス・ブリュックで、2度も心臓発作に見舞われる滑稽な演技が実に面白い。

ロバート・カーセンの演出はいつも見どころが多く、時に天才的である。私はかつて「ホフマン物語」で心底そう思ったが、そのためにも本公演をぜひとも見ておきたかった。彼は舞台設定を1世紀進め、この作品が作られた頃に移した。第1次世界大戦が忍び寄る世紀末の影は、出演者がみな軍隊と関係があるという設定をも読み解き、第2幕では大砲が登場するという大胆さ。それは第3幕にも引き継がれ、娼館、あるいは売春宿の雰囲気をあからさまに表現する。出演者に細かな演技を求め、一挙手一投足にまでつけられた絢爛豪華な音楽と相まって、舞台は大変に賑やかである。

だが、そのことがこの作品の持つ保守的な美しさを減じてしまったのは否めない。饒舌でしかも複雑な解釈は、そもそもこの物語が18世紀を舞台としているにもかかわらずウィンナ・ワルツが横溢することや、婚約者に「銀の薔薇」を届ける風習といった完全な作り話というような、矛盾を設けてまで表現される、ひたすら華やかで滑稽な、つまりは娯楽性の極致ともいえる退廃性、白痴なまでの美しさを覆い隠す。真面目で考えすぎた結果、見どころは多いが主義主張も大きいという、一見中途半端な結果に陥ったのではないか。

私はこの上演がつまらないと言いたいわけではない。歌手は全員素晴らしいし、指揮者のセバスティアン・ヴァイグレと合唱団、それにイタリア人歌手として客演出場したメトの実力派、マシュー・ポレンザーニは言うことがない。だが、私ははまた、時間とともに老いていく人間のペーソスは、何もこれだけのお金をかけなくても表現できたのではないかと思う。このオペラの舞台は、いつも捕らわれたように貴族社会の贅沢を表現するものが多いが、テーマにしていることの普遍性とわかりやすさを考えれば、むしろ極限にまで表現を絞り込んだ演出(それはデッカーの「椿姫」やワーグナーの楽劇でみられるような簡素な舞台表現)があってもいいのではと思う。特に今回のような実力派の歌手が揃えば、それで十分ではないかと思うのだが、いかがだろう。

「ばらの騎士」は不思議な作品である。ちょっとシュトラウスのマジックに、そして下心に乗せられているような気がしないでもないのだが、それにしても音楽の魔法というのは恐ろしい。第3幕で舞台にゾフィーとオクタヴィアンだけが残り、最後の二重唱を歌う時、私は久しぶりに泣きそうになった。こんな美しい音楽があるかといつも思うのだが、それは3時間余りに亘ったどんでん返しと喜劇の果ての急展開になぜか馴染む。それも自然に。この感覚はやはりモーツァルト的である。今回の上演では、このオペラの持つ前衛的な響きが十分に表現され、演技にも個人の近代性が表現されていた。もはや古めかしいだけの「ばらの騎士」ではない舞台に接した印象ではなぜか、「時の移ろい」あるいは「老いの哀しみ」というよりも「若さへの憧憬」「過ぎ去ったものへの懐かしさ」が前面に出た舞台だったと思う。

2016年6月11日土曜日

R・シュトラウス:楽劇「エレクトラ」(The MET Live in HD 2015-2016)

ホフマンスタールが台本を務めた最初のリヒャルト・シュトラウスのオペラ「エレクトラ」は、古代ギリシャを舞台にしたソフォクレスの悲劇に基づいている。音楽は最大級の編成でありながら1幕しかなく、登場人物は多いが、ほとんど出ずっぱりの主題役エレクトラが、陰惨で壮絶な歌唱を一貫して繰り広げる。音楽はこれ以上にないほどにまで凝縮され、集中力を必要とするので、聞く方の覚悟も必要となる。いや眠気など吹っ飛んで舞台に釘付けになる、というべきか。もっそもそれは歌手とオーケストラがそろっているという条件の下でだが。

METライブシリーズも10年が経ち、その最新の演目である「エレクトラ」は、故パトリス・シェローの演出、エサ=ペッカ・サロネンの指揮により上演された。主題役エレクトラはワーグナーを歌うニーナ・ステンメ(ソプラノ)、エレクトラの母クリソテミスに何と往年の名歌手ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ)、エレクトラの妹クリソテミスにエイドリアン・ピエチョンカ(ソプラノ)、エレクトラの弟オレストにエリック・オーウェンズ(バス・バリトン)などの配役である。

トロイア戦争から帰国した王アガメムノンは、妻であるクリソテミスに殺されてしまう。入浴中に斧で頭をかち割られたというのだ。その光景を目にしていた長女エレクトラは、母親を憎んでいる。いやそれどころか彼女は母親から虐待を受けながら育つ。エレクトラは復讐に燃え、母親を殺そうと計画しているのだ。そのために弟のオレストを遠くに逃がし、彼をして母を暗殺しようというのである。

エレクトラの妹クリソテミスはそんな姉に同情しつつも、女性としての幸福を追求したい。ここでの姉妹の生き方に対する対比は興味深い。だが私は復讐に燃える姉に同情的でもある。

そんなある日、弟のオレストが死んだとの知らせが入る。音楽が大きくうねり、動揺するエレクトラを表現するあたりから話は一直線である。シュトラウスの音楽は、どんな作品でもそうだが、すべての動作や物事を饒舌に表現する。天才的で魔法のような音楽である。この作品は前作「サロメ」をさらに一歩進め、後年の「ばらの騎士」などとも異なる前衛的な作品だが、シュトラウスにしか表現できないであろう世界が全面に展開し、緊張と興奮が途切れることはない。

オレストの訃報に戸惑ったエレクトラは、いよいよ妹と共謀して母を殺そうと、父の殺人で使われた斧を探し出すが(何と恐ろしいことか!)、妹は同意しない。とうとう彼女は自ら計画を実行することを決意する。そこへオレストが現れ、彼は生きていたことが判明する。実はオレストの死は、オレスト自身が仕組んだものだったのだ。姉の決意を確証したオレストはいよいよ暗殺計画を実行し、まず母のクリソテミスを殺す。舞台裏から叫び声が聞こえ、歓喜するエレクトラ。そこへ情夫のエギストも現れ、彼もまたオレストに刺殺される。感極まるエレクトラが踊り狂いながら、1時間余りの壮絶な舞台は幕となる。

短時間ながら無駄のない音楽には、ものすごい集中力を必要とするのだろう。それは見ている側も同じである。だからこのような作品を見るには覚悟がいる。舞台はまず、ひたすら階段を掃き掃除する下女たちのシーンから始まる。階段を下段まで掃き終るまで音楽はなかなか始まらない。客席はその間に、一気に噴き出す音楽への集中力を高めていくという趣向である。

ニーナ・ステンメの気迫に満ちた舞台は、見るものを終始舞台に釘付けにしたが、それにしても高音と低音を行ったり来たりしながら大声を張り上げる歌と演技は相当なもので、彼女は秋にイゾルデを歌うそうだが、声をつぶさないかと心配になる。舞台が終わるまでの迫真の演技に、会場からどっと沸きあがるブラボーの嵐は、この公演の水準の歴史的とも言える高さを示している。METでもなかなかこれほどの熱狂的な拍手は見たことがない。そしてそれを支える歌手たちとの息の合った見事な呼吸も素晴らしいの一言につきる。

妹のクリソテミスを歌ったピエチョンカは、また一つのソプラノの大役だが、心理的な対比を表現する歌唱力は見事だと思ったし、それに暗殺を実行するオレスト役のオーウェンも、長年METで歌い続けている貫禄を感じさせながら、このピッタリな役を嬉しそうにこなしていたように思える。個人的にはまた、母クリソテミスを歌ったマイヤーがまだ、これだけの大声を張り上げるだけの力量を持ち続けていることに驚いたが、彼女はまた実に気品があって、この悪役を歌うには少々上品すぎるという贅沢な悩みもまた感じたのは事実である。

この公演の成功の理由は、サロネンの指揮するオーケストラにも求めなければならない。彼がMETの舞台にどれほど登場しているのかは知らないが、第1級のオーケストラ指揮者がピットに登場するというのは、それだけで期待が高まるし、それにこの作品を指揮するだけの体力と瞬発力のようなものを求めるには、サロネンのような指揮者こそ相応しいと感じたからだ。その期待を彼は裏切らなかったばかりか、オペラ指揮の世界でもまた彼はまた存在感を示す結果となったのではないだろうか。すべての歌手とオーケストラは圧倒的で、興奮に満ち満ちた1時間40分はあっというまに終わった。

虐待された娘による母親の暗殺は、最近のニュースでも耳にした。このような話は古代ギリシャ、すなわち人類が小説を書き残し始めた頃から存在したのである。

2015年6月19日金曜日

R.シュトラウス:歌劇「影のない女」(新国立劇場、2010年5月20日)


R.シュトラウスの歌劇「影のない女」を「ばらの騎士」よりも前に見たことはひそかな自慢である。それも退屈しっぱなしであったわけではない。3時間余りの全体をかなりの興奮と感動を持って味わったのだ。しかもストーリーなどあまり知らなかったというのに。

ほとんど衝動的に買い求めた新製作のプレミア公演を新国立劇場に見に行った。その結果発見したことが3つある。まず音楽。R.シュトラウスの管弦楽の見事さはいつどこでも語られているし、それが数多くのオペラ作品にも充分に現れていることはよくわかっていたつもりだが、このオペラでもまたその通りで、しかも初めて聞く者にさえ大きな感動をもたらすと言う事実である。

次に新国立劇場の照明の美しさ。それによって動きの多い演出が、大変に見栄えがすることになった。結果的に初心者でも飽きないばかりか、結構わかりやすい舞台となったものと思われる。

3つ目は、この作品のようにあらすじを読むだけで辟易するような作品は、むしろ音楽や実際の舞台から入るのがいいのではないか、ということ。オペラのあらすじを、ここで記憶を蘇らせる意味を含めて書き記そうと思ったが、なにせ複雑なのだ。だが参考になるものはある。このオペラはシュトラウス版の「魔笛」だという事実である(「ばらの騎士」が「フィガロの結婚」、「アラベラ」が「コジ・ファン・トゥッテ」である)。ホフマンスタールとの共同制作第4番目の作品は、様々な苦悩を持つ2組のカップル、という設定である。

ただ「魔笛」の時代には男女はただ試練に耐え、結ばれればよかった。けれど100年以上が経過し第1次世界大戦の時代になって世の中は複雑なものになった。「影のない女」の時代、そのカップルに存在する問題は子供ができないこと(いや、作らないこと)である。生まれるはずの子供は中絶され、天からの声となって響く。そして2組のカップルが最後に至る結末では、ひとつの解決にはなっている。だがそれはめでたく子供ができるというわけではないのだ。

Wikipediaの助けを借りて簡単にあらすじを引用しておく。

「東洋の島々に住む皇帝は、霊界の王(カイコバート)の娘と結婚している。皇后となった彼女には影がなく、子供ができない。影をもたぬ呪いで皇帝が石になるのを嘆き、皇后は貧しい染物屋の女房から影をもらい受けようと図る。しかし、結局彼女は他人を犠牲にしてまで、影の入手を望まない。その精神の尊さゆえに奇跡が起こり、皇帝は石から甦り彼女も影を得て人間になる。愛と自己犠牲による救済の可能性を暗示する。」

以下は当時の文章だが、これだけでは舞台の様子も伝わりにくいので、日経新聞に掲載された新聞評の切り抜きも掲載しておきたい。書こうとすると難解な作品なのだが、実際に聞いていると心が洗われるような美しさが充満しているし、舞台展開の面白さが見るものを楽しませてくれる。長いが不思議な作品。

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平日の夕方5時開演、というほとんどの勤労者にとっては見に行くことの不可能な時間帯に、いったいどのような、そしてどれくらいの客が来るのか、という点も興味をそそった。2万円近いチケットは売り切れている様子もなく、毎年多くのヨーロッパ系歌劇場が引っ越し公演を行う我が国で、はたしてどれほどの公演なのか期待半分、あきらめ半分だったことは正直に告白しておこう。

さてその公演を聞いて、いや見て、私はこの「魔笛」の20世紀版とも言われる豊饒にして大規模な、従って長い長い(休憩を除いても3時間)オペラに興奮しっぱなしであった。演出の見事さもさすがで、長い縦板を組み合わせて様々な「壁」を組み立て、それが美しい照明に照らされながら様々に組み合わされる様子は、歌唱が途切れて管弦楽のみが鳴り響く時間と上手く組み合わされていた。

ワーグナー以降に作曲されたオペラの中でも屈指の作品であると思われるこの作品の解釈の多様さ(芸術的価値)、歌唱やオーケストラの出来栄えなどについて、初めて聞く私がここに述べるには、もう少し準備が要るであろう。新聞に掲載された評論は辛口でそれを鵜呑みにするのもしっくりこない。だから、取り急ぎ素人の感想を率直に書いておこう。

まず、オペラはやはり「見るもの」だと思ったこと。次に20世紀の音楽作品も、集中して聞けば官能的でなかなか「聞ける」と思ったこと。そして、ドイツ語のオペラ界に屹立するワーグナーの作品を、やはり「生で見たい」と思ったこと、である。複雑な現代に生きる夫婦に生じる問題は、モーツァルトの時代の価値観では乗り切れない課題を呈している。

カーテンコールを経るにつれて熱心なファンからはブラボーが鳴り響いた。心の中で何かとても充実したものを感じながら帰路についた。

   皇帝:ミヒャエル・パーパ
   皇后:エミリー・マギー
   乳母:ジェーン・ヘンシェル
   バラク:ラルフ・ルーカス
   バラクの妻:ステファニー・フリーデ
   演奏:東京交響楽団
      (指揮:エーリッヒ・ヴェヒター)
   演出:ドニ・クリエフ

2015年6月6日土曜日

R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」(2015年6月4日、新国立劇場)

梅雨入り前の快晴の青空を惜しむかのような気持ちで私は初台まで歩いた。今日は思い立って仕事を午前で切り上げ、西新宿のオフィスを抜け出したのだ。ここから新国立劇場までは徒歩で10分ほどの距離である。まだ十分チケットがあるとわかると、最後の公演にどうしても出かけたくなった。演目はシュトラウスの「ばらの騎士」。オペラの中で最も好きだと言う人が多い作品、と私は思っている。

そのような作品であっても、いざ実演となるとなかなか触れる機会などないのが我が国のオペラ事情である。最近では数多くの引っ越し公演もあって以前ほどではないものの、チケット代はやたら高いし、それがいい公演になるとは限らない。「ばらの騎士」のような人気作品であっても前回の我が国での公演は(ブックレットによると)2011年の大震災直後の4月、同じジョナサン・ミラー演出の公演だったということのようだ。いくらカラヤンやクライバーの伝説的名演を論じてみたところで、実際に一度も見たことのない作品だとしたらやはり説得力に欠けるだろうし、第一何か大きな穴のあいた服を着ているような滑稽な感じである。

私が大学生だった頃、ウィーン国立歌劇場の来日公演があり、カルロス・クライバーによる上演が東京で見られた。私の知り合いはかなりの出費とものすごい努力の末このチケットを手に入れ、わざわざ大阪から出かけて行ったのだが、その経験は圧巻の一言であったと聞かされた。実際は大学生の見るこのオペラがどのような印象をもたらしたかはよくわからない。中学生でも最後の二重唱の美しさを語るのがいるが(その美しさは私も高校生の特に知ったのだが)、それでもこれは純粋に音楽的な要素によるものであろうと思う。シュトラウスの精緻にして現代的な響きは、少年の私にはちょっと敷居が高すぎた。

このオペラの良さはやはりある程度歳をとってからでないと味わえないのではないか。だがそうやって実演はおろか、CDでさえ真剣に聞くことのなかったこのオペラを一生の間に何度見ることができるのだろうか、と最近は真剣に思う。それでこの公演がどういうものであるかはさておき、まずはお金を払って時間を割いて、実際に見る機会があれば行こうと思っていた。何も「ばらの騎士」に限ったことではないのだが。

今回の公演では元帥夫人(マルシャリン)にアンネ・シュヴァーネヴィルムス(ソプラノ)、オクタヴィアンにステファニー・アナタソフ(メゾ・ソプラノ)、ゾフィーにアンケ・ブリーゲル(ソプラノ)、オックス男爵にユルゲン・リン(バリトン)、ファーニナルにクレメンス・ウンターライナー(バリトン)という布陣であった。この5人はいずれもドイツ語圏の出身である。それに指揮者のシュテファン・ショルテスを加えれば、ウィーンゆかりの音楽家が勢ぞろいといったところだろうか。実際、オクタヴィアンとゾフィーによる最後の二重唱は、極めつけといってもいいほどの出来栄えで、ここのわずか10分程度だけで私は結構満足であった。4階席一番奥で聞いていても、音楽は天井をつたって会場を満たしたし、その歌声はオーケストラと見事に溶け合って極上の時間をもたらした。

今回、東京フィルハーモニー交響楽団は、満足すべき水準の響きであった。これくらいなら充分である。そして歌手たちはみな良かったと思う。ただ私は残念なことに、誕生日祝いに家族にもらったオペラ・グラスを持参するのを忘れてしまった。このことでバルコニーからはほとんど歌手や指揮者の表情を見ることができなかった。一挙手一投足にまで見事な音楽が付けられているはずの舞台が、いつも遠くにしか見えない。加えて私は最近白内障ではないかと診断され、ただでさえ遠くがかすんで見えるのである。オクタヴィアンのアナタソフは、とても素敵な「美男子」ぶりだったようで、その仕草の美しさは何となくわかったのだが、それが精いっぱいであった。

オックス男爵の女性を軽蔑した振る舞いは見るものの気持ちを高ぶらせるほど見事だったし、元帥夫人のむしろ威厳を感じさせるような高貴な振る舞いも素晴らしかったと思う。一方、ファーニナルは何かボケた感じに思われ、ゾフィーは歌唱こそ見事だったが、何か田舎のおばさんのような衣裳?に思えた。舞台の照明は奇麗で、窓から差し込む光(もう少しやわらかくてもいい)は新しすぎる道具と、さほご豪華でもない調度品に照らされて、あまり気品を感じさせない。第3幕のレストランに至っては、そこだけがほの暗くて薄汚れた屋根裏部屋のようでもあり、いっそ第1幕や第2幕と同じ部屋の作りにしておけばよかったのではないか、と私には思えた。

本当にこのオペラに今回感動したかと言われたら、実はそうではない。正直に言えば、私は最終幕のあとで結構な長さのカーテンコールや多くのブラボーが起こったことに少し違和感があった。なぜだろうか。それはよくわからない。ただ言えることは、私の体調が万全ではなかった。仕事に追われて寝不足気味の日々が何週間も続いている。そして仕方なく睡眠導入剤を服用し、毎日辛うじて体力を維持している。そういう身に1時間×3幕のオペラを最後列で見るのはやや苦痛だった。

その日も朝から猛烈な勢いで仕事を片付けてきたところだ。睡魔に襲われそうになったのはむしろ当然だった。いつもシュトラウスの音楽を聞くと、想像していたのとははるかに違う世界に自分が浸るのを発見するのだが、今回は、そういう瞬間は最終幕の最後まで来なかった。そのことが残念でならない。もっと体調が良ければ楽しめたのかも知れない。でもだからと言って、この公演に出かけたのが失敗だったとは決して思わない。それどころか私は初めて見た「ばらの騎士」を、これでやっと少しは語ることができる。そしてできれば次回は・・・それがもう一生来ないかも知れないが・・・別のプロダクションで見てみたい。

個人的には残念な今回の上演でも、最後の二重唱の時だけは、私を恍惚の中に連れて行ったことを繰り返しておきたいと思う。音楽が2人の女声と完全に溶け合って会場を満たしたその時間が、過ぎて行ってしまうともう消えてなくなるという、そのことの悲しさの中に宿る最上の瞬間。それはまさに「ばらの騎士」のテーマそのものである。それから舞台の袖へと消える2人の若い男女・・・若いということはいいな・・・と、おそらく会場にいた多くの大人がそう思ったに違いない。あっ、それから私がもし人生をやりなおせるのなら、映画監督になってこの物語をベースにした恋愛映画を撮ってみたいと思った。世紀末のウィーンではなく、バブル崩壊後の日本を舞台にして。

2015年3月30日月曜日

読売日本交響楽団第546回定期演奏会(2015年3月27日、サントリーホール)

大阪から遊びに来た甥の進学祝いとして何かコンサートにでも誘おうかと思い、探してみたところこの演奏会が丁度手ごろであるということがわかり、日程も好都合だったので出かけたのが何とも素晴らしい演奏会で、私がこれまでに聞いた読響定期の中でも最高峰のひとつ、過去のあらゆるコンサートの中でも上位の一割に入るだろうと思うくらい印象的なコンサートだった。期待に胸を膨らませて出かけたにもかかわらず失望に終わるコンサートも多いが、何も期待せずに行くとこれがめっぽう素敵なものとなるコンサートも同じくらいある。そして今宵は後者のそれであった。

私は甥に音楽を実演で聞く良さについて3つのことを挙げた。まず自由に視線を動かして見たい楽器を見られるということ。CDでは奏者の表情は想像するしかなく、ビデオで見るオーケストラもサッカーの試合でボールばかりを追いかけるようなもので、 全体を見渡すことが難しい。主旋律が必ずしも明確でないクラシックの場合、これは結構重要なポイントだろう。

次にかなりの技術的水準にある人たちが何十人も集まって一生懸命練習した後一斉に音を鳴らすという限りない贅沢な瞬間。落語家の独演会でも何千円もする中、これほどコストパフォーマンスのいい興行はちょっと考えられない。もしかするとオーケストラはもっとも「安い」芸術なのかも知れない。

そして第3に、音楽と言うものの特性である一期一会という宿命・・・空気の振動は時とともに減衰する物理的法則に逆らうことはできない。どれほど素敵な音楽も、消えていく花火のように再現することはできないはかなさ。その場に居合わせた人にしかその体験を持つことはできないのだ。どんな音楽でも。

私はこの3つのことを今回ほど実感することはなかった。もしかすると私も興奮していたのかも知れない。だがこの日の指揮者、南アフリカ出身のジェラール・コルステンもオーケストラのメンバーも、満面の笑みをうかべて充実した演奏に満足した様子であった。そのことが手に取るようにわかった。もしかしたら客席が少し(いつも思うのだが読響の客は、N響の客よりも保守的で醒めている)乗りが悪い。いやそもそも満開の桜が咲く春休みの週末の東京で、7割程度の入りというのがショッキングである。こんなにポピュラーな演目なのに、である。

最初の歌劇「劇場支配人」序曲の生き生きとした出だしを聞いた瞬間から、私は今日のコンサートが「行ける」と思った。若い頃の小澤征爾を思い出すような軽やかで瑞々しい響き。それに少しビブラート控え目な解釈は、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」で真価を発揮した。すべての繰り返しを行い、人数を厳選したオーケストラからは、本場のオーケストラにも迫るような集中力とアンサンブルが実現された。第2楽章の小休止のたびにため息の出るような感覚にとらわれる。残響が空中に消えていくような感覚にしばし気を取られたかと思うと、第4楽章は一気にフーガで駆け抜ける。そう思えば中学生の頃何度この曲をレコードで聞いただろうかと思った。

十分に音楽を楽しんだと思った後で、シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」が始まる。舞台に勢ぞろいしたオーケストラは百人を優に超えているのだろうと思う。シュトラウスとマーラーはどんな時でも出かけてみたくなるが、今回の「英雄の生涯」は何とも気合いの入った演奏に思えた。プログラムによればこの演目は、東日本大震災の時にキャンセルを余儀なくされた時のものだそうだ。だから指揮者にも相当な思い入れがあったのだろうと想像すると胸が熱くなる。

管楽器やソロ・バイオリンの困難なメロディーが横溢するこの曲を演奏する我が国のオーケストラで、これほどにまで磨き抜かれ目立ったミスのない演奏もそう出会えるものではないだろう。 それどころが微に入り際に亘って音楽は精彩に溢れた表情を見せた。力強さと精密さを兼ね備えたその演奏は、できることならもう一度見てみたいと思ったが、それはできないというのが生のコンサートの宿命である。最後の管楽器のアンサンブルも見事に決まって、指揮者のタクトが下されるまでの数十秒を、誰一人として音を立てない静謐な時間が覆った。それはどこまでも続いていくように感じられた。

凡そ百年の時を隔てて音楽史に名を残す二人の偉大な作曲家の、さらにはその最も充実した才能を感じさせるふたつの偉大な名曲・・・「ジュピター」と「英雄の生涯」は、続けて演奏されたことでその時間的な隔たりを感じさせることとなった。おそらくそのことがこのコンサートのプログラムに込められたひとつの視点なんだろう、などということを話した。流行音楽とは違いどちらかと言えば頭で聞くクラシック音楽も、音楽である以上は感覚的なものに支配される。その理性と感情のはざまで、音楽を見ながら考える・・・その時間こそが生の演奏会の魅力である。そして「英雄の生涯」をはじめとするシュトラウスの限りなく豊穣で耽美的な時間は、現在聞くことのできるあらゆる音楽の中でも最高の美的感覚を持っている。モーツァルトの時代とはまた違った形の完璧な美というものとの対比、それはやはりこういうクラシック音楽の演奏会でしか聞けないレベルのものでもある。

2014年12月2日火曜日

R.シュトラウス:管弦楽曲集(ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

今年亡くなった音楽家の一人にロリン・マゼールがいる。私はマゼールの演奏を特に好んでいるわけではないが、悪くはないと思っている。そして過去に4回、生演奏を聞いているがそのいずれもが大変感動的で、こういう指揮者は他にいない。だからマゼールの死を知った時は、これでもう彼の演奏を聞くことはできないのか、と残念に思った。8歳の時に初めてオーケストラの指揮をしたという天才指揮者は、最近でも健康に見えたのだが、それでも老いには勝つことはできなかった。

マゼールの指揮したCDを、コレクションの中から取り出して聞いてみることにした。何枚か候補はあったが、リヒャルト・シュトラウス没後150年ということもあり、管弦楽曲集を取り上げることにした。このCDは米国でのみ発売されたドイツ・グラモフォンのDG Concetsシリーズの2005/2006年版で、ライヴ録音。ジャケットにはエイヴリー・フィッシャー・ホールの正面写真が使われており、演奏の後には熱狂的な拍手も収録されている。ニューヨーク・フィルの定期演奏会は通常、4回程度同じプログラムで演奏され、前日には公開のゲネプロまであるから、それらから組み合わせて収録したのだろうと思う。

 「ドン・ファン」の冒頭からマゼールならではの芸術的官能美が堪能できるが、生演奏ということもあって徐々に熱を帯びてくる。決して醒めた演奏に終始しないのは、この指揮者が実は実演向きであることを示している。けれども発売されるCDはスタジオ録音が多かった。しかも作為的とも思えるようなフレージングに人工的だと批判されたり、計算されすぎたアンサンブルに優等生的で教条主義的と言う人もいたが、そうだとしても私はマゼールのそのようなところが好きである。その真価が良く現れているのが、やはりリヒャルト・シュトラウスの演奏ではないかと思う。「七つのヴェールの踊り」でも「ばらの騎士」組曲でも、いろいろな意味でこれはマゼールらしい演奏であると言える。

そのマゼールを初めて聞いたのは、カーネギー・ホールにおいてフランス国立管弦楽団を指揮したときのことだったと記憶している。このときのメイン・プログラムはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」で、やはりアーティスティックな演奏。アンコールが二曲もあって、最後の「アルルの女」から「ファランドール」が聞こえ始めると、満面に笑みを浮かべたご婦人の客が印象に残っている。

2回目は大阪で聞いたフィルハーモニア管弦楽団のベートーヴェン・チクルスの一つで、交響曲第6番「田園」と第7番の組合せ。この「田園」の第2楽章以降の演奏は、舌を巻くほど見事で、私はすこぶる興奮したのだが、続く第7番がこれ以上ないような名演になったことは言うまでもない。アンコールの「エグモント」序曲に至っては、会場が割れんばかりの拍手に包まれた。今思い出しても体温が上昇しそうだ。

3回目は再びニューヨーク。ピッツバーグ交響楽団の音楽監督の最後を飾る演奏会にジェームズ・ゴールウェイを招き、彼にささげられた自作の曲「フルートとオーケストラのための音楽」を披露した。ゴールウェイはさすがで、マゼールの曲もアーティスティックで面白かった。「バルトークは名演奏だがやや生真面目か。この演奏会でこのコンビの有終の美を飾った」とメモに残している。

第4回目は昨年の東京でNHK交響楽団の定期公演。ワーグナーの「指輪」の音楽を自らが編曲し、70分を超える長大な音楽絵巻「言葉のない『指輪』」を披露した。このときの印象は以前にブログにも書いた。

このように見てみると、マゼールの演奏はいつも最高水準を維持し、しかもそれを実に多くのオーケストラと実現させている。売られているCDを検索してもマゼールほど多くの管弦楽団と録音を残した指揮者はいないのではいか。これはそれ自体、マゼールの才能のなせる技だと思う。マゼールはこのような指揮活動に加えパフォーマンスもうまい指揮者で、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは80年代とそれ以降にもいくつもの名演奏が残っている(1994年など)し、ニューヨーク・フィルの平壌公演などは記憶に新しい(この公演がハイビジョンで中継されたのには驚いた)。

さらに個人的にCDで忘れられないのはヨー・ヨー・マと共演したドヴォルジャークのチェロ協奏曲だが、この「オフレコではないか」と揶揄された完璧に計算的な演奏は、別の機会に取り上げようと思う。また戦後の巨匠が一人亡くなった。享年84歳。


【収録曲】
・ドン・ファン
・死と変容
・七つのヴェールの踊り
・「ばらの騎士」組曲


2014年9月17日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(1994年10月25日、サントリー・ホール)

かつて大阪で暮らしていた頃は、実際にオペラを見る機会などなかった。夏休みに海外へ出かけた時などに、ローマやヴェローナで見た野外オペラと、伯父の住むニューヨークに居候してMETで見た「オテロ」が僅かな体験だったことは先に書いた(それでもこれらは一生の思い出となる公演だった)。

1992年に東京へ移り住んでからは毎年十数回ずつコンサートに出かけるようになった。その中には演奏会形式による歌劇もあった。プログラムが大阪のように、有名曲ばかりでないことが、私の興味の対象を大きくさせた。そのような中のひとつが、若杉弘によるR・シュトラウスの「町人喜劇」であり、休憩を挟んで「ナクソス島のアリアドネ」が上演された。

「ナクソス島のアリアドネ」は短いオペラで1時間半ほどであった。それもそのはずで、このオペラはモリエールを原作とする戯曲「町人貴族」作品60の劇中劇として書かれたのである。シュトラウスのオペラといえば、「サロメ」や「エレクトラ」のような野心作や「ばらの騎士」「影のない女」のような豊穣な作品を思い浮かべるが、いずれにしても規模は大きい。それに比べるとこの作品は、室内楽のような規模のオーケストラである。

この日の都響の第397回定期演奏会は、サントリー・ホールでありながら小道具も用意され、オペラだけでなく「町人貴族」から演奏するという、最初の原作により忠実なものである。当時のプログラムが残っていたので、この機会に当時のキャストを書き写しておこうと思う。


  ・ジュールダン氏/バッカス:田代誠
  ・ジュールダン夫人/アリアドネ:岩永圭子
  ・歌手/山彦:三縄みどり
  ・羊飼いの少女/ナイアーデ(水の精):菅英三子
  ・羊飼いの少年/ドリアーデ(木の精):白土理香
  ・ツェルビネッタ:釜洞祐子
  ・ハルレキン:大島幾雄
  ・ブリゲルラ:錦織健
  ・トゥルファルディーノ:高橋啓三
  ・スカラムッチョ:吉田浩之

第1部「町人貴族」と第2部「ナクソス島のアリアドネ」で一人二役を演じる歌手が多く、何が何かわからなくなってしまうので、このオペラのあらすじは押さえておく必要があるのだが、当時の私は何も知らずに出かけた。今思えば、我が国の有名な若手歌手が出ており、華やかな舞台だったようだ。登場人物が多いにもかかわらず結構な頻度で上演され、若手歌手が総出で演じるということも多い。

なぜこの演奏会に行ったかと言えば、直前に見た若杉弘の「幻想交響曲」の実演が素晴らしかったからだが、若杉はこの曲を日本で初演している(1971年)ので、十八番といったところだろうと思う。だがこの日の上演は、初演時の状況を再現しようとする野心的なものだったようだ。だからプログラムも「町人貴族」(オペラ「ナクソス島のアリアドネ」付き)となっているが、「町人貴族」の方では8曲が抜粋されている。そして若杉は「町人貴族」の台詞を自ら編纂しているという力の入れようである。

「町人貴族」における小金持ちの舞台裏に続き、茶番劇とギリシャ悲劇が交互に上演されるという奇抜な発想に基づいたオペラは、私をはじめてシュトラウスの世界に導いたと言って良い。あらすじを理解するよりも前に、音楽の絢爛な重なりに魅了されてしまったからだ。特に「アリアドネ」の終盤では、唖然とするほどに美しい音楽だと思った。そしてP席という舞台裏で見ることになった私は、歌手や金管楽器がすべて向こうを向いて歌うというハンディを乗り越えて、生で聞くシュトラウスに聞き入った。

できればもう一度見てみたいと思いながら果たせていないが、そう言えばシュトラウスのオペラは、このホフマンスタールとのコンビで作られたものだけで7つもある。この上演を見た時に、これからまだまだ見る機会があると思っていた若い私は、その思いの半分も果たせていないまま年を取ってしまった。生誕150年の今年は、そのオペラのボックスCDも売り出されているから、買って揃えておこうと思ってはいるが、それを聞くだけの時間的なゆとりは、悲しすぎるほどない、というのが現実である。

2012年8月29日水曜日

R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」(The MET Live in HD 2009-2010)

ドタバタ劇に最高の音楽が一貫して寄り添い、生き生きとした人間模様が描かれる。それはまさにモーツァルトの再現と呼ばれるに相応しいと思った。R.シュトラウスの代表的な作品である歌劇(と言うよりは楽劇)「ばらの騎士」は、私にとって何故か遠い存在の作品で、これまでに実演でも接した「陰のない女」や「ナクソス島のアリアドネ」、あるいはビデオで見た「サロメ」よりも後に触れる作品となった。いやこれまで見たことのない作品であったことがむしろ不思議である。

その理由はこのオペラの魅力が、誰かによって語られてもなかなかその面白さが伝わってこないことになるのではないか。つまり音楽がどのような文章を持ってしても、それを超える様な表現にならない。そのくらいこの作品は、その音楽によって印象づけられる。優れて音楽的な作品と思う。

それは序奏とそれに続く元帥夫人とオクタヴィアンのベッド・シーンから、最後はオクタヴィアンとゾフィーが結ばれる最後まで途絶えることがない。台本を読めば荒唐無稽な会話にしかならない劇も、音楽に乗って語られただけで、ドラマチックになったり、ペーソス溢れる気分になったりと、それは丸で魔法のように自分を襲う。シュトラウスの術中にはまったようなところが、また何とも言えず心憎い。聞き慣れたワルツの音楽も、第3幕になって一気に盛り上がり、そのまま三重唱に雪崩れ込むあたりは、この作曲家の真骨頂である。

The MET Line in HDシリーズの夏のリバイバル上演も、すっかり私の年中行事となった。今年も2012-2013シーズンが始まるまでの残暑の東京で、これまでに見落としていた作品を見て行く事にする。その最初が、2010年1月に上演された「ばらの騎士」で、元帥夫人はもちろんルネ・フレミング、その恋人のオクタヴィアンにスーザン・グラハムという配役は定番である。原作では17歳と32歳の関係だそうだが、実際は歳の差があまりなく、しかもゾフィーのクリスティーネ・シャーファーを加えるともう「タカラヅカ」の世界になりかねない。

だから客席には女性が多いのかと思いきや、中年以降の男性が目立つ(相変わらず客席は20人くらいと少ない)。女性のオペラ・ファンは、「タカラヅカ」とは違い、むしろテノールの男性歌手を好むから、主役3人が女性、しかも唯一の主役級男性はスケベなオックス男爵ただひとりということになれば、これはそういう女性ファンを惹きつけない。しかし、主題は女性の老いということになっているし(または男性の存在の浅さか)、音楽が女性の重唱を聴かせるために書かれたと思うようなメロディーの連続なので、これはそうとう意図されて作曲されたと思われる。

実際、オクタヴィアンがもし男声によって歌われたら(あるいはバロックオペラのように、すべてが男声によって演じられたら)、またそれは全く違った世界になっていたと思われる。だが幕間のインタビューでプラシド・ドミンゴが語っているように、このオペラのタイトルは、「オックス男爵」になる予定だったそうだ(シュトラウスの妻に反対され「ばらの騎士」になったらしい)。

指揮はオランダ人のエド・デ・ワールトで堅実な運び。演出はナサニエル・メリル。このふたりはめずらしくどちらもインタビューに取り上げられない。もし指揮がレヴァインだったら、などと思って聞いていたが、そう言えば「ばらの騎士」にはあの伝説的なカルロス・クライバーが2つもの映像を残している。私はそのいずれもまだ見たことがないので、これはやっとそれを見る準備が整ったというべきだろう。

カルロスのリズム感に溢れ、メリハリの聞いた指揮は、この音楽にきっと素晴らしくマッチしている。シュワルツコップを元帥夫人に迎えたカラヤンのビデオも見てみたい。そしておそらくMETのこのシリーズで、私の経験上、5本の指に入るであろうレベルの感激であったことも指摘しておきたい。歌もさることながら、とにかく音楽に酔いしれた4時間が、あっという間に終わった。「百聞は一見に如かず」ということを実感した今回の「ばらの騎士」で、久しぶりにMetの感激を味わった。

映画:「シラート」(2025年、スペイン・フランス)

「大統領のケーキ」を見た翌日、またもや救いようのない映画を見てしまった。作品のタイトルは「シラート」。アラビア語で「審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋」を意味するらしい。つまり、死んだ人が集う場所から、それぞれが天国に行くか地獄に行くか、いったいどうやって決まるのか。それ...