2016年12月30日金曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第4番ニ短調(Vn:ギドン・クレーメル、リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

このヴァイオリン協奏曲第4番もまた、数奇な運命をたどって演奏された作品である。その経緯は以下の通り。


「パガニーニの死後、楽譜は息子アキリーノのもとに保管されたが、やがて処分されてしまった。1936年にも同じことが繰り返されたが、その時、パルマのくず屋が買い取った紙束の中から、アキリーノの署名がある本作のオーケストラ譜が発見され、そのオーケストラ譜を買い取ったイタリアの蒐集家ナターレ・ガルリーニがその後、北イタリアのコントラバス奏者ジョヴァンニ・ボッテジーニ(1821年-1889年)の遺品の中にヴァイオリンの独奏パート譜を発見した。

その後、1954年11月7日に、アルテュール・グリュミオーの独奏ヴァイオリン、ラムルー管弦楽団、フランコ・ガルリーニ指揮(ナターレの息子)によって、パガニーニの死後、初めて演奏された。」(Wikipediaより)


この作品を何とギドン・クレーメルが演奏している。しかも伴奏はウィーン・フィルである。巨匠ムーティが指揮をしている!このCDを見つけた時、即刻買うことを決意した。録音は1995年。

第4番の協奏曲もまた、いつものパガニーニ節が全編にわたって繰り広げられる。冒頭の序奏はそれまでの曲に比べてむしろロマンチックだと言えようか。聞き進むうちにこの曲が、ウィーン・フィルによる演奏であることに何かとても新鮮なものを感じる。ヴァイオリンだけが突出している演奏が多く、伴奏はまあ付け足し。極端に下手なのも困るが、そこそこの安定した伴奏なら聞けるし、それにそんなに難しくはない。だから無難に・・・という演奏が多い中で、ここでのムーティは真面目である。ウィーン・フィルは独特の音色が魅力だが、その艶というか微妙な厚さ(完璧に揃わないからか)が独奏の、やや神経質で線の細いクレーメルと奇妙なマッチングを示している。

その状況が象徴的に表れるのが、第1楽章のカデンツァではないだろうか。ここでクレーメルはまるで現代音楽を思わせる技巧的な独奏で、もしパガニーニが現代に生きていたらこういう曲を書いたのではないか、とクレーメルが考えたかどうかはわからないが、とにかくここはクレーメルならではの、ややスラブっぽい音楽が魅力的である。

第3楽章の第2部での、いつものパガニーニ節もまた素晴らしい。クレーメルは少し余裕のあるような力でここを含む全体を弾きこなす。演奏が決して安易なものにはならず緊張感を保っているものの、客観的にパガニーニという作曲家を弾きこなしている。ムーティはそのような真摯なソリストに対し、誠意をもって伴奏を務めているように感じられる。

クレーメルとパガニーニという取り合わせは、しかしながら意外なものではない。なぜならクレーメルはアッカルドなどと同じパガニーニ国際ヴァイオリン。コンクールの覇者であるからだ。意外なことにクレーメルのパガニーニ演奏は、それほど珍しいわけではない。だがクレーメルはパガニーニの圧倒的な技巧に敬意を払いつつも、ヴァイオリンの持つ表現の可能性をさらに押し進めている。だからここで聞くクレーメルのパガニーニは、独特の魅力を持っているように思われる。

なお本CDには珍しい「ソナタ・ヴァルサヴィア(ワルシャワ・ソナタ)」が並録されている。旋律の綺麗な曲だが、次第に独奏の技巧が目立つようになり、第3楽章の「ポーランドのテーマ」に至っては、管楽器との掛け合いや小鳥が飛び立つように消え入る部分など、唖然とするものがある。もちろんクレーメルは、そんな部分を超絶技巧と緊張を両立させながら、余裕を持って弾ききっている。


2016年12月29日木曜日

パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第3番ホ長調(Vn:サルヴァトーレ・アッカルド、シャルル・デュトワ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)

オーケストラ・パートのピツィカートが印象的なヴァイオリン協奏曲第3番は、1828年に作曲されたらしい。パガニーニは自らの演奏技巧を披露するためにこのような曲を書いたので、作品の芸術的価値は乏しく、内容に深みがないとされてきた。しかし音楽が芸術のためにだけあるわけはなく、その境界が曖昧だった時代に、このような作品が作曲されていることを無価値だと決めつけるのは味気ない話だとも思う。ポピュラー音楽だと思えばそれでいいし、それにそういう音楽を楽しむことは、聞き手の自由である。ヨハン・シュトラウスの円舞曲と同様に、私はパガニーニの作品が好きだ。

もっともパガニーニのヴァイオリン協奏曲については、知られている情報があまりに乏しい。最も有名な第1番ニ長調作品6だけが突出していて、次によく演奏されるのが最近では第4番ニ短調だろうか。標題が付き、後にリストが編曲した第2番は、メロディーこそ有名なものの演奏される機会が少ない。それでもこの3曲は、比較的録音されている。それにくらべるとこの第3番ホ長調は、めったに演奏されることもなければ、録音を探すのも難しい。

私が所有する第3番の協奏曲は、そういうわけで全集として録音され、この曲の草分け的な存在でもるサルヴァトーレ・アッカルドによるものだけである。もっともこの曲を蘇演したのはシェリングで、何と1953年のことである。作曲から百年以上が経過している。私もシェリングのCDを探した。かつて出ていたことはあるようだが、中古屋を含めこれまでに発見できてはいない(単独で収録されているものがあるが、コストパフォーマンスが悪い)。

さてその曲は、他の協奏曲と同様、ヴァイオリンの輝かしい音色が横溢する素敵な協奏曲だった。長い序奏のあと、まるでソプラノ歌手がアリアを歌うようにオペラ風の曲が聞こえてくる。時にヴァイオリンをなびかせて、うなるように低音を振り上げるさまは、演歌のようでもある。そうかと思うと小鳥がじゃれあって舞うように上昇・下降を繰り返した後、パチンと弦が弾ける。第1楽章終盤に挟まれているカデンツァは、この様子をさらに極限化して伴奏なしで聞かせる。もう食傷気味だと言うのに。

それでも続く第2楽章の、まるでヴィヴァルディの明るさを思わせる、うららかな小春日和の風情はまた格別である。冬に咲く南国の花と青い地中海を思わせる、イタリアそのものの風景を私はここで想像する。第3楽章もピツィカートで始まり、親しみに満ちた歌が聞こえる。このメロディーは一度聞いたら忘れられないくらいに魅力的だ。もちろん後半に挿入される長い第2部も、他の作品同様圧倒的である。

私が入手したこの作品のCDは、ドイツ・グラモフォンが西ドイツ時代にリリースし、台湾で発売されたものだった。CDの帯には中国語で曲名が書かれている。パガニーニは「●格尼尼」と書くようだが、この●に相当する文字が、巾というへんに、白という字のようである。だがこの字を私のPCで入力することはできなかった。ちなみにアッカルドは「阿卡多」、デュトワは「杜特華」のようである。本CDで聞くことのできる杜特華はまだ、モントリオールの指揮者となる前、1970年代前半の若い頃。教科書的なきびきびした指揮は、隅々まで明確で安定的。テンポも絶妙なら、独奏を際立たせるところでは音量をぐっと抑え、脇役に徹する。協奏曲の伴奏をしたらこれほどうまい指揮者はいないのではないか。倫敦愛楽交響楽団も健康的で透明な音色で、明るいイタリアの光が程よく差し込んでいる。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...