2014年9月28日日曜日

ハイドン:交響曲第90番ハ長調(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

「ドニ交響曲」と呼ばれている第90番から第92番までの3曲で、ようやく「ザロモン・セット」の手前に至る。思えばここまで長い道のりであった。「ドニ交響曲」の名称の由来は、「パリ交響曲」の作曲を依頼したドニ公爵にちなむもので、すなわちこれは「パリ交響曲」の続編とも言うべきもの?である(ただし楽譜はエッティンゲン=ヴァラーシュタイン伯爵に献呈された)。

それにもかかわらずこの3曲は「パリ」と「ロンドン」の間に挟まれて、いささか存在感が弱い。録音の数もここだけちょっと少ないような気がする。そういう中でサイモン・ラトルはこの作品を2回も録音しているのが注目される。最初はバーミンガム市交響楽団を指揮したもので、1990年のスタジオ録音。もう一つはベルリン・フィルを指揮した2007年のコンサート録音である。後者のCDは、その「陽の当たらない」第88番から第92番までを収録しているというユニークなもので、さらに面白いことにラトルは、まだ「パリ」も「ロンドン」も通しでは収録していない。

そのベルリン・フィルとのCDには、もうひとつ別のトラックが入っていてそれは何とこの曲の終楽章を拍手入りで演奏しているのだ。いや正確に言えば拍手入りのほかに、拍手なし版がボーナスとして収録されているというべきか。これについてラトルは、拍手も音楽の一部であるからだと述べている。ここには拍手だけでなく、聴衆の笑い声や熱狂的な最後の拍手も収録されている。もしかしたらこの曲のライブ収録をしたかったため、2枚ものCDが存在することになったのかも知れない。

第1楽章の序奏からハイドンらしい幸せな雰囲気に満たされる。印象的な主題は一度聞いたら忘れないほど完成度が高い。わかりやすいソナタ形式に乗って時折顔を出すトランペットも気持ちがいい。第2主題はフルートが、続いてオーボエがソロを吹く。それ自体も小鳥のように愛らしいが、ベルリン・フィルの方ではそこに装飾音が混じっていて、あっと思わせる。

第2楽章の高貴な味わいもまたいい。6分以上もあるが長くは感じない。ここでもフルートの独奏が光る。主題がさりげなく変奏されていくさまは、ここへきて風格を感じさせる。そして第3楽章のメヌエットもまたしかりで、ハイドンの典型的な音楽と言うべきだろうか。

さて第4楽章である。ここの諧謔的効果は何と言っても長い休符である。それは4小節の全休符で、しかも2度登場する。これによって終わると思われた曲が続く、ということがおこる。拍手が起こるのはその2回ということになる。だが第1回目はあまりに短いんじゃないの?という感じがしないでもない。それで観客もためらいがちはある。そこでラトルは、拍手が始まるとその休符を十分に取り、拍手が鳴り止むと音楽を再開。観客から笑い声が漏れる。

2回目は本当に終わったかのように休符に突入。これで本当に終わったと思った客がひとしきり拍手をし終わるのを待つと、本当にコーダに突入する。爆発期な拍手は本当の最後に起こる。まるでアンコールを聞いたような、得をした気分にさせられる不思議な曲であるが、それにはこの楽章の音楽が2拍子のアレグロで、移調され変奏されていく様子が大変素晴らしいからだろうと思う。

2014年9月23日火曜日

グノー:歌劇「ロメオとジュリエット」(The MET Live in HD Series 2007-2008)

いわゆる「愛の二重唱」というのはオペラの中での最大の見せ場であることが多い。いろいろな形で男女が運命的に出会い、たがいの境遇をも越えて愛しあう。そこでそれぞれのアリアに続き、大規模な二重唱が高らかに歌われる。女性はこれでもかと高音を張り上げ、男声は無理な姿勢を維持しつつ声量は大きくなるばかり。照明はかれらを浮き上がらせ、舞台の脇役はいつのまにか袖へ去ってしまっている・・・。

だがこのようなデュエットも、1つのオペラに4回も登場するとどうだろうか。しかも同じ男女が、時とところを変え(女性は衣装も変え)、何度も抱擁を繰り返す。いくらなんでもこう何度も続けられては、と辟易するか、それともたまらなく感動するか、それは見てみないとわからない。それがグノーの名作「ロメオとジュリエット」である。全5幕、約3時間だが今回のMETの2007年の公演では、休憩は1回だけであった。

この公演の指揮は何とプラシド・ドミンゴで、前夜にはグルックのオペラに出演していたというから驚きである。ドミンゴは結構前から指揮もしているが、さほど評判にはなっていないし、私もこれまで聞いたことがなかった。だからドミンゴの指揮と聞いても、さほど食指が動かなかったのだが、それを差し置いてもこのフランス・ロマン派オペラに足を運ばせた原因は、主役の二人が今をときめく世界一のカップルと思われたからである。

まずモンターギュ家のロメオにはテノールのロベルト・アラーニャで、この役といえばアラーニャと決まっているほど評判が高い。それにはフランス語に堪能ということがあることに加え、歌い方が情熱的でしかも容姿が決まっている(だが髪には白髪も交じる)。数ある録音もほとんどアラーニャが歌っている。今回もアラーニャの歌は、ピカイチであったと思う。

一方、キャピュレット家のジュリエット役はロシアのソプラノ、アンナ・ネトレプコである。彼女はここずっとMETの舞台に立ち続けているが、その精力的な活躍は私達を驚かせる。どんな難役も見事にこなし、次々と新しい役に挑戦しているからだ。ジュリエット役も彼女としては重要なレパートリーだということだろう。そしてロメオとの呼吸も合っているので、見ていて違和感がない。先日見たマスネのマノン役よりもこちらのほうが、彼女の役には合っているように感じられた。第1幕の有名なワルツ「私は夢に行きたい」では少し緊張も見られたが、その後は安定した歌と演技であった。

この二人が主役なので常に焦点が当たるのは当然だが、このオペラには他にも結構多くの歌手が登場する。そのような中でロメオの従者でズボン役の少年ステファーノを歌ったイザベル・レオナールは、第3幕でアリアを1回だけ歌うが、その見事なこと!ほかにジュリエットの父、ローラン神父、ジュリエットの従兄弟ティボーもしっかり脇を固めていた。第3幕の殺陣(たて)のシーンでは、舞台中央の丸い台が回転して、縦横にカメラが動き、ライブ映像で見るのは圧巻である。

それにしてもこのオペラは、一見娯楽性の高いメロドラマにしか過ぎないような感じだが、それを救っているのは原作がシェークスピアである、という事実かも知れない。誰もがよく知るストーリーは理解するのが容易である。和解できない両家の宿命的な対立によって、若い恋人は一度は結婚の約束をしたものの、ロメオは決闘でメルキューシオを殺してしまい追放されてしまう。ジュリエットはロメオと駆け落ちして逃げようとするが、その際に飲んだ麻酔薬によって眠ってしまったところを、ロメオに死んだと勘違いされてしまう。ジュリエットが息を取り戻した時には、ロメオは自殺しようとして毒を飲み干した直後だった!

冒頭の合唱でこの二人の悲劇が予告される。だが幕切れの舞台では二人だけの演技が続く。ジュリエットはロメオが死んでしまうことに耐え切れず、自ら短剣で腹を切る。左右対称に横たわった二人は、最後の口づけをして息絶える。演出はギイ・ヨーステン。

この上演は2006年に始まったこの企画の2年目第1作だったが、2014年の今年のアンコール上映を見ていると、この企画は着実にオペラを趣味とする層を掘り起こしているように思う。日曜日ということもあって客席は7割程度埋まっていたようだ。このようなことは初めてである。ティーンエイジャーの恋の物語を中年の男女が演じ、それを高齢のファンが熱心に見入る。オペラというのは実に変なものだ。


2014年9月21日日曜日

マーラー:歌曲集「少年の不思議な角笛」(S:エリザベート・シュワルツコップ、Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団)

俗にマーラーの交響曲第2番から第4番までは、「角笛交響曲」と呼ばれている。これら3曲にはいずれも、「少年の不思議な角笛」の歌曲の一部が歌われるため独唱が加わる。それでマーラーの交響曲のこれらの作品を聞くに際し、避けて通るわけにも行かないと思い、歌曲集「少年の不思議な角笛」について少し聞いておこうと思う。

歌曲集「少年の不思議な角笛」における私の唯一の愛聴盤は、いまもってソプラノがシュワルツコップ、バリトンがF=ディースカウによって歌われるセルのEMI盤である。この演奏は孤高の名盤のひとつで、他の追随を許さないほど完成度が高く、もし「歴史に残る名盤100」などといった企画があったら間違いなくその一枚に入るだろうと思われるほど、評価が高い。そして私の場合、他の演奏を聞こうと思わないほどこの演奏が気に入っている(別に避けているわけではないが、CDの購入には幾ばくかの出費を伴うため、必然的にこうなるのである)。

さてそのセルによる演奏に収められているのは、収録順に以下の曲である。

  1. Revelge(死んだ鼓手/起床ラッパ)★
  2. Das irdische Leben(この世の暮らし)
  3. Verlorne müh'(無駄な骨折り)
  4. Rheinlegendchen(ラインの伝説)
  5. Der Tambourgesell(少年鼓手)★
  6. Der Schildwache Nachtlied(歩哨の夜の歌)
  7. Wer hat dies Liedlein erdacht? (この歌をひねり出したのはだれ?)
  8. Lob des hohen Verstands(高遠なる知性への賛美)
  9. Des Antonius von Padua(魚に説教するパドゥアのアントニウス)
 10. Lied des Verfolgten im Turm(塔の中の囚人の歌)
 11. Trost im Unglück(不幸の中の慰め)
 12. Wo die schönen Trompeten blasen (美しくトランペットの鳴り響くところ)

さてここでややこしい問題が生じる。この演奏順は一定ではない上に、しばしば差し替えられたいくつかの歌が、CDによって入っていたりいなかったり(上記の★は単独の曲だが「角笛」に含まれたり、「リュッケルト歌曲集」にも含まれることがある)。さらにその日本語訳にも微妙な違いが存在し、そのうちのいくつかはをイメージ上の誤解を生じるものがある。結局全体像がなかなかつかみにくいのである。ただ私は上記のセル盤の演奏順に親しんできたし、その順序は全曲を通して聞くにはとてもいい感じであると思っている(そういうこともこの録音の高評価に寄与していると思う)。

交響曲への流用を考えるとさらにややこしい。まず、当初存在したが後に削除された曲があり、それらはセル盤には含まれていない(CDによっては含まれている)。

 ①Urlich(現光):交響曲第2番「復活」の第4楽章
 ②Es sungen drei Engel einen süßen Gesang(三人の天使が歌った):交響曲第3番第5楽章
 ③Das himmlische Lebe(あの世の暮らし):交響曲第4番第4楽章

そして交響曲第2番「復活」の第3楽章には、上記の9「魚に説教するパドヴァのアントニウス」のメロディーが使われていることは言うに及ばず、さらには交響曲第5番第5楽章には8「高遠なる知性への賛美」のメロディーが流れる。ついでに調べると、交響曲第3番第3楽章は、同じ「少年の不思議な角笛」を原作にした「若き日の歌」の中の「夏に小鳥はかわり」に基づくものだという。

さらに付け足すと、この曲は「子供の不思議な角笛」と呼ぶことが多い。だが私はその歌詞の内容から、ドイツの古い民謡に対するマーラーの思いを重ねあわせるとき、「子供」といったあどけなさを感じる名称よりもむしろ「少年」としたようがしっくりくるという気持ちを抱いている。本節のタイトルを「少年の不思議な角笛」としたのはそのためである。

前置きが長くなったが、そういう曲の数々をセルの指揮するこのCDで聞いていると、マーラーの音楽がセルの指揮で綺麗に蘇っている姿を目の当たりにすることができ、一種の爽快な気分さえしてくる。加えて戦後の一時期を代表する二人の歌手が、これほど見事な歌いっぷりを見せるのもまた心地良い。正確に発音されたドイツ語が、楷書風の伴奏に乗って、クリアに聞こえる。

最初の曲「起床ラッパ」では、太鼓のリズムに乗って「トララレイ」と歌う男声が印象的で、私はその段階でこの演奏を好きになってしまった(曲の順序というのは案外重要だ)。「高遠なる知性への賛美」でのカッコウやナイチンゲールの鳴き声も、一度聞いたら忘れられない。マーラーはこれらの古くから伝わる民謡に、19世紀の時代的背景を重ね、おそらくは自らが少年時代に聞いたであろう軍楽隊のリズムやメロディーをも取り入れて、独特の現実的な世界を表現した。それはセルの演奏で聞いていると、極めて冷徹で客観的に自分を見つめているようだ。と同時に、そこに広がる内省的な世界が不思議と浮き彫りにされていく。「角笛」に限らずマーラーの歌曲集の魅力は、そういう超越した世界であるような気がする。


2014年9月19日金曜日

マスネ:歌劇「マノン」(The MET Live in HD Series 2011-2012)

オペラを見なければ触れることのできない作曲家というのがいる。ヴェルディやワーグナーはまだ良いほうで、ヴェルディなら「レクイエム」だけでも十分感動的だし、ワーグナーなら前奏曲集や「ジークフリート牧歌」といった名曲を楽しむことは容易である。だが、プッチーニやベッリーニといったあたりになると、これはもうオペラしか作曲しなかったような作曲家だから、音楽に触れるにはオペラを聞くしかない。マスネも、どちらかと言えばそんな作曲家の一人である。

ジュール・マスネは19世紀後半に活躍したフランス人である。そして「マノン」は円熟期の最初を飾るオペラと言われるが、他の有名作、例えば「タイース」も「ウェルテル」も、それぞれエジプト、ドイツを舞台にしているのと異なり、フランスを舞台にしたオペラである。つまりフランス人によるフランスのオペラである。

そう思いながら聞くと、ビゼーの「カルメン」も、オッフェンバックの「ホフマン物語」もフランスを舞台にしているわけではないし、逆にパリを舞台にした叙情的なオペラ「ボエーム」も「椿姫」も、イタリア人の作品である。作曲家の活躍した場所と作品の舞台が一致する作品は、意外にも少ないことに気付く(プッチーニの「トスカ」、ヴェルディの「リゴレット」、あるいはワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などが思い浮かぶ)。

だからフランスでしばしば上演され、その音楽も極めてフランス的。オペラ・コミックとしての性格も兼ね備えて時折セリフが語られるかと思えば、全5幕の中盤でバレエも登場する。けれども私にとっての「マノン」初体験は、それまでに見た「タイース」や「ウェルテル」の感銘を上回る程ではなかった、というのが正直な感想である。たとえマノン(ソプラノ)に絶頂のアンナ・ネトレプコ、その相手である騎士デ・グリュー(テノール)にピョートル・ベチャワという当たり役を配した、おそらくは極めつけの舞台であっても、である。それはやはり、音楽に原因があるのではないか、というのが偽らざる心境である。指揮はファビオ・ルイージ、演出はロラン・ペリーで、時代設定を少しかえているとはいえ、ほぼオーソドックスな演出。

それでも見せ場はあった。特に印象的だったのは第3幕後半の教会内部のシーンである。マノンに一目惚れして駆け落ちまでした青年デ・グリューは、同棲生活の途中に横槍が入り、マノンもお金に目が眩んでデ・グリューを裏切る。デ・グリューは教会に入る決心をして修道士として祈りを捧げる毎日である。そこへマノンが登場し復縁を迫る。忘れようとしていた元恋人を思い出し、その感情に抗しきれない二人は、教会の中で二重唱を歌い、最後には熱い抱擁を交わすのだ。ストーリーはこのあたりから急速に下降していく。つまりこれは墜落の物語、というわけである。

けれども第4幕になって賭博のシーンになると、私は「椿姫」の第2幕後半を思い出さずにはいられないかった。マノンにそそのかされ、半ば自暴自棄になったデ・グリューは、金持ちのギヨー(テノールのクリストフ・モルターニュ)に賭けを挑む。そこに現れるのは一度勘当した息子を訪ねてくる父、デ・グリュー伯爵(バス・バリトンのデイヴィッド・ピッツィンガー)である。その登場の仕方など、あの社交界に復帰して伯爵に賭けを挑み、借金を返済するという自暴自棄なアルフレードそっくりなのである。けれども音楽は・・・あえて素人根性をむき出しにして言うと・・・遠くヴェルディには及ばない。「椿姫」の作曲は1853年で「マノン」よりも30年程前である。

いずれも原作があるのだから、これは流行りのストーリーだったのかも知れないが、マスネは明らかに「椿姫」を意識して作曲したのではないだろうか。だが「椿姫」を越えることはなかった。それどころかこのオペラには、ほかに印象的なアリアや合唱があるわけではなく、重唱も少ない。全体に散漫でさえある。最終幕でアメリカへ売られていこうとするマノンを、従兄弟のレスコー(バリトンのパウロ・ジョット)の協力で助けだしたデ・グリューではあったが、とうとう力尽きて彼の手の中で死んでいく。「これがマノン・レスコーの物語」とモノローグ風に語るマノンのセリフには、あのヴィオレッタの「パリを離れて」を思い出させるのだが・・・。

プッチーニもオペラ化した「マノン・レスコー」とは少し結末が異なっているが、これはこれで十分にドラマチックな物語である。だがそれにしては物語のメリハリに欠け、感動に乏しいと感じた。もっと違った演出で見ていたら、また違った印象だったかも知れない。あるいはもしかしたら、台本が良くなかったか。マスネの他の作品の完成度を思うと、そういう気もしないではない。

実にマノンは若干まだ十代の少女である。大変な美女であるとはいえ、世間知らずでもあるだろう。ネトレプコはそのような美しく、そして最終的には憎めない女性としてマノンを演じた。6回も衣装を変えての演技は素晴らしかった。だが、妖艶にして魔性を感じさせるような(ある人に言わせると、カルメンも遠く及ばないそうだ)女性の姿ではなかった。もしかしたらその「毒性」の少なさが私を白けさせたのかも知れない。全体に中途半端な印象を消し去ることはできなかった。

2014年9月17日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(1994年10月25日、サントリー・ホール)

かつて大阪で暮らしていた頃は、実際にオペラを見る機会などなかった。夏休みに海外へ出かけた時などに、ローマやヴェローナで見た野外オペラと、伯父の住むニューヨークに居候してMETで見た「オテロ」が僅かな体験だったことは先に書いた(それでもこれらは一生の思い出となる公演だった)。

1992年に東京へ移り住んでからは毎年十数回ずつコンサートに出かけるようになった。その中には演奏会形式による歌劇もあった。プログラムが大阪のように、有名曲ばかりでないことが、私の興味の対象を大きくさせた。そのような中のひとつが、若杉弘によるR・シュトラウスの「町人喜劇」であり、休憩を挟んで「ナクソス島のアリアドネ」が上演された。

「ナクソス島のアリアドネ」は短いオペラで1時間半ほどであった。それもそのはずで、このオペラはモリエールを原作とする戯曲「町人貴族」作品60の劇中劇として書かれたのである。シュトラウスのオペラといえば、「サロメ」や「エレクトラ」のような野心作や「ばらの騎士」「影のない女」のような豊穣な作品を思い浮かべるが、いずれにしても規模は大きい。それに比べるとこの作品は、室内楽のような規模のオーケストラである。

この日の都響の第397回定期演奏会は、サントリー・ホールでありながら小道具も用意され、オペラだけでなく「町人貴族」から演奏するという、最初の原作により忠実なものである。当時のプログラムが残っていたので、この機会に当時のキャストを書き写しておこうと思う。


  ・ジュールダン氏/バッカス:田代誠
  ・ジュールダン夫人/アリアドネ:岩永圭子
  ・歌手/山彦:三縄みどり
  ・羊飼いの少女/ナイアーデ(水の精):菅英三子
  ・羊飼いの少年/ドリアーデ(木の精):白土理香
  ・ツェルビネッタ:釜洞祐子
  ・ハルレキン:大島幾雄
  ・ブリゲルラ:錦織健
  ・トゥルファルディーノ:高橋啓三
  ・スカラムッチョ:吉田浩之

第1部「町人貴族」と第2部「ナクソス島のアリアドネ」で一人二役を演じる歌手が多く、何が何かわからなくなってしまうので、このオペラのあらすじは押さえておく必要があるのだが、当時の私は何も知らずに出かけた。今思えば、我が国の有名な若手歌手が出ており、華やかな舞台だったようだ。登場人物が多いにもかかわらず結構な頻度で上演され、若手歌手が総出で演じるということも多い。

なぜこの演奏会に行ったかと言えば、直前に見た若杉弘の「幻想交響曲」の実演が素晴らしかったからだが、若杉はこの曲を日本で初演している(1971年)ので、十八番といったところだろうと思う。だがこの日の上演は、初演時の状況を再現しようとする野心的なものだったようだ。だからプログラムも「町人貴族」(オペラ「ナクソス島のアリアドネ」付き)となっているが、「町人貴族」の方では8曲が抜粋されている。そして若杉は「町人貴族」の台詞を自ら編纂しているという力の入れようである。

「町人貴族」における小金持ちの舞台裏に続き、茶番劇とギリシャ悲劇が交互に上演されるという奇抜な発想に基づいたオペラは、私をはじめてシュトラウスの世界に導いたと言って良い。あらすじを理解するよりも前に、音楽の絢爛な重なりに魅了されてしまったからだ。特に「アリアドネ」の終盤では、唖然とするほどに美しい音楽だと思った。そしてP席という舞台裏で見ることになった私は、歌手や金管楽器がすべて向こうを向いて歌うというハンディを乗り越えて、生で聞くシュトラウスに聞き入った。

できればもう一度見てみたいと思いながら果たせていないが、そう言えばシュトラウスのオペラは、このホフマンスタールとのコンビで作られたものだけで7つもある。この上演を見た時に、これからまだまだ見る機会があると思っていた若い私は、その思いの半分も果たせていないまま年を取ってしまった。生誕150年の今年は、そのオペラのボックスCDも売り出されているから、買って揃えておこうと思ってはいるが、それを聞くだけの時間的なゆとりは、悲しすぎるほどない、というのが現実である。

2014年9月15日月曜日

ショスタコーヴィチ:歌劇「鼻」(The MET Live in HD Series 2013-2014)

ショスタコーヴィチが生まれたのは1906年、ロシア革命が1917年、ソビエト連邦の創立が1922年。「鼻」は1927年から作曲され、1930年に初演された。彼が24歳の時で、日本では昭和5年ということになる。私が生まれた頃まだ存命だった社会主義国最大の作曲家は、1975年に亡くなっている。そしてソビエトが消滅したのは1991年である。これは今から23年前ということになる。

前衛的とされたショスタコーヴィチの音楽は、私が小さい時に聞いた時には、これより先の音楽などあるのだろうかと思ったものだった。まるで機械のように無機的で、何の音楽的共感も感じなかったが、それこそがショスタコーヴィチの、いや共産主義国の音楽だと理解していた。だがソ連の崩壊から20年以上が過ぎ去り、このようなオペラもニューヨークで上演されるのを見ていると、やはり時代というのは移り変わり、新しものも徐々に古くなっていくものだと思った。社会主義リアリズムも、「古典的」とさえ思えるような、つまりはこの時期の作風はこうでした、と解説書に書かれてしまうような「古さ」を感じてしまう。そしてその「古典」を巧みに料理して、「現代」の劇として新鮮に上演する・・・今回のMETの上演はまさにそのようなものだった。

舞台上に現れるスクリーンに展開されたのは、時折キリル文字の中に英語も交じるアニメーションで、そこに「鼻」が登場する。「鼻」は舞台の歌手たち(その数はすこぶる大勢だったが)の歌(はもちろんロシア語である)に絶妙に呼応して、影絵のようなものになり動き回る。踊りだすかと思えば、時折ショスタコーヴィチのモノクロ写真や古いタイプライター、あるいは新聞の切り抜きといったものに変わったりと、その変化を見ているだけで楽しい。合わせて音楽が賑やかにチャカチャカと鳴り、歌も上下に行ったり来たり。ショスタコーヴィチの音楽を堪能できると言えば、その通りなのでが、では果たしてそれが楽しいのか、と問われれば答に窮してしまうのは私だけだろうか。

ゴーゴリの原作を台本化したストーリーは大変複雑で、そこに何らかの意味を見出そうとする聴衆を嘲笑っているようでもあり、そのような皮肉やパロイディを見つけようと思えば見つけられるとも思うが、かといってそれにそんな意味などない、と思えばそうすることも可能である。その難解そうで難解でない、というのがこのオペラの真骨頂なのではないかと思う。

何の事はない。ある日起きてみたら自分の鼻がなくなっていた下級官吏のコワリョフ(バリトンのパウロ・ジョット)は、そのことに気づくと嘆き悲しみ、警察署に行っても新聞社に行ってもにわかに取り合ってくれない。ところがひょんなことからその「鼻」が発見され、いろいろあって最後にはもとの顔に戻る、という奇天烈なストーリーである。2時間程の作品ながら登場人物は非常に多いので、これだけ数多くのロシア語役者を揃えるのは大変だっただろうと思う。指揮はパヴェル・スメルコフのエネルギッシュなもので不足感はないが、何と言っても見せものは南アフリカ人ウィリアム・ケントリッジの斬新かつ機知に富む演出だったろう。

観客は満員でブラボーも飛び交うあたりはさすが本場だと思わせるが、私自身はと言えば、こういうMET Liveのような機会がなければ見ることはなかっただろうと思う。それでけに貴重な経験だったとは思う。しかしスクリーンには、いつものようなインタビューや解説は、ゲルブ総裁のケントリッジ氏への短いインタビューを除けば何もなく、幕間の休憩時間もない。2時間を一気に見せたので、緊張感を維持するには役だったし、4時間にも及ぶ作品が多く、特に体力的にきつい身としては助かった、ということは言える。

今となっては歴史の教科書に載るだけとなったソビエト連邦も、私が中学生の頃は世界を二分する大勢力を誇り、その存在感はすごいものだった。私も運動会のような音楽を短波放送で聞いたものである。けれどもショスタコーヴィチは、少なくともその「証言」以後は、音楽に込められた寓意において、反社会的な思想だったという。そういうことが感じ取れる音楽・・・というのはやはり難解で想像の域をでないのだが・・・は、また別途書きたいと思う(いつのことになるかはわからない)。ただ、この「鼻」にも暗に込められた教会的、宗教的な潜在意識ともいうべきものは、やはり感じ取ることができる。彼はやはりロシア時代に生まれた作曲家だからであろうか。

2014年9月12日金曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調(P:内田光子、クルト・ザンデルリンク指揮ロイヤル・コンゼルトヘボウ管弦楽団)

興味深いことに村上春樹氏の対談集「小澤征爾さんと、音楽の話をする」(新潮社)では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のいくつかの演奏を二人が聴き比べる、というところから始まる。この曲の、これほど多くの聴き比べの文章を読んだことはない。そのこと自体が意外だが、その対話を通して小澤征爾の音楽観に、ごく自然に迫っていく感じがとても興味深い。

対談の第1章の最後のほうで村上が引き合いに出すのが、内田光子が奏でるこの曲の録音で、伴奏はザンデルリンク指揮のコンセルトヘボウ管弦楽団である。そして「あまり時間がないので」ということで第2楽章から聴き始めるのである。それまでグールドを始めとする数々の演奏について触れ、話もブラームスからマーラー、小澤の若い頃の話などにそれたりしながら、最後に「このへんでいよいよ」と取り出すのがこのフィリップスの録音というわけである。「僕はこの二楽章の演奏が何より好きなんです」。

ここの部分を読んで私は同感したと同時に、自分の好きな演奏が取り上げられてとても嬉しく思った。グールドの演奏こそ聞いたことはないのだが、私自身この演奏が気に入っているからである。内田光子が満を持してベートーヴェンの録音にとりかかった時、彼女は競演する指揮者をザンデルリンクに頼んだ。彼女が信頼を寄せる指揮者だったからだということだった。地味な選択がとても意外に思えたし、そして新鮮だった。だから買うとすればどの曲にしようか・・・全集での発売がまだの時点で、私は第3番と第4番をカップリングした一枚に目をつけた。

村上春樹が最後にこの演奏を取り上げているのは、何か意図してのことのようにも思う。そしてそこで聞かれるのが第2楽章・・・その部分を私はまた大変愛するのだが、その理由が初めてわかったような気がしたのである。いや本当のことを言うと、この対談を読んだことで、この演奏の、特に第2楽章について再発見をしたということだ。村上の注釈は「空間に墨絵を描くような、どこまでも美しいピアノの独奏。端正で、かつ勇気にあふれた音の連なり。ひとつひとつの音が思考している。」

この演奏は内田光子の個性がよく現れた演奏であると同時に、それがうまく曲にマッチしているのだろうと思う。小澤征爾は言う。「この二楽章というのはもう、これ自体特別な曲ですよね。ベートーヴェンの中でもほかにこういうものはないような気がする」。二人が「うーん」とうなるほど感銘を受ける演奏を、私も手元のCDで聞き直してみることにした。

まず冒頭で嬉しいのは、コンセルトヘボウの素晴らしいアンサンブルである。木管楽器やヴァイオリンが見事に融合しながら、端正な音楽を形作っていく。その様子を優秀な録音が良く捉えている。ピアノが入ってくると、内田光子のよく考えぬかれた演奏が手に取るように広がる。音楽があふれるような身持ちで、一音一音大切にしながら、かといって情に溺れることはない。

そういう調子で長大なカデンツァに至る。もちろんベートーヴェン作曲のカデンツァである。ピアノ・ソナタを感じさせるその作品は、ベートーヴェンがピアニストであると同時に作曲家であり、その2つの要素が不可分であったことを示している。彼は自分が演奏することを想定してこの曲を書いたのだと思う。第2楽章の素晴らしさは、大作家の表現する通りだから、私は何も書く必要はないだろう。なお、小澤征爾はこの曲を1回だけ、ルドルフ・ゼルキンと録音している。この演奏も素晴らしいが、感銘という点では内田光子の演奏に及ばないというのが正直なところだ。もちろんこの対談集にも少し取り上げられている。


2014年9月10日水曜日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調(P:ウィルヘルム・ケンプ、フェルディナント・ライトナー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、ここに何かを書くのが難しい曲である。他のピアノ協奏曲と較べても華やかさに欠けるが、かと言って平凡な曲ではない。十分にベートーヴェンらしいということは疑いようがないが、交響曲の有名作品と比べると、存在は地味である。もう若いころの作品と言うほどではないが、まだ耳は不自由ではなく、いわゆる「傑作の森」まではまだ時間がある。

この曲は交響曲第1番が初演された1800年に作曲され、作曲者自身のピアノにより1803年に初演された。ハ短調という調性が示すように、この作品の異色ぶりは第5交響曲と同様、古典的な骨格を有しながらも悲愴的である。つまり個性的で、野心的な作品。

私はこの曲を初めて聴いた時のことが未だに忘れられない。コリン・デイヴィスの指揮するBBC交響楽団は、何と無骨な演奏をするのだろうと思った。第1楽章の冒頭ほどいろいろな意味でベートーヴェン的な野暮ったさを持つ作品はないとさえ思った。長い間この曲を聞く時は、私はいつもベートーヴェン臭さとでも言うべきものを感じ、そしてそれを楽しんでいた。

けれども第2楽章に至るとそのロマンチックで、それでいてとても内省的な曲の雰囲気に、他の曲にはない美しさを感じることとなった。全体が二拍子で書かれているようだが、何度聞いても私には六拍子に聞こえる。ただ技巧的でもなければ、綺麗なだけでもない。不思議な感覚はこの楽章の終わりまで長く続き、この曲の最も大きな聞きどころだと思う。それに比べると、第3楽章がいつもちょっと不足感を感じてしまうのは私だけだろうか。もしこの曲が他のピアノ協奏曲に比べて人気の点で劣るとすれば、第3楽章に原因があるのではないかと思う。

かつてベートーヴェンのピアノ協奏曲といえば、音楽評論家が口を揃えて褒め称える3人の巨匠の演奏を避けて通るわけにはいかなかった。すなわち、バックハウス、ケンプ、それにルービンシュタインだろうか。だが百花繚乱のピアノ協奏曲にあっては、今でもなお次々と個性的な名演が現れる。いつのまにかこれらの演奏は、一部のオールド・ファンの胸の中にしまわれてしまったかのようだ。その一人、ケンプのベートーヴェンは、ひっそりと我がラックの片隅に眠っている。

ケンプのピアノ協奏曲には、モノラルの録音(ケンペン指揮だったか)があり、これはその後のステレオ盤である。ここで指揮はライトナーが受け持っており、彼はNHK交響楽団への客演でもよく知られた指揮者だが、さりとて後世の名を残す名演奏があるというわけでもない。

ライトナーは天下のベルリン・フィルを指揮しているが、その演奏は普通である。加えてケンプのピアノも、何かをひけらかすようでもなく、つまりは全体的に大人しい演奏である。私は長年なぜこの演奏がかくも評判が高いのかわからなかった。そう感じた人も多かったのだろう。その結果、今ではあまり顧みられない演奏となってしまった。だが時折、その色あせた演奏を聞くと、これが実に意外にも、堅実にこの難しい曲の魅力を巧みにしかもそこはかと表現しているように感じられた。

余裕ある人が、その範囲できっちりと固めている。指揮や伴奏もその傾向に合わせられており、目立った不満がないばかりか、ちょっとした渋い演奏に聞こえてきた。その体験はちょっと不思議だった。今では第4番とともに、お気に入りの演奏である。なおケンプは独自のカデンツァを用いている。

2014年9月7日日曜日

J. S. バッハ:ブランデンブルク協奏曲全集BWV1046-1051(クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団)

夏が終わったというのに秋がまだ来ない。毎年9月の上旬は私の誕生日が近いというのに、何とも憂鬱な季節である。そのような蒸し暑い季節の朝に合いそうな音楽はあまりないのだが、だからこそバロックの名曲を、ただ聞き流すという時間にうってつけとも言える。

J.S.バッハのおびただしい数の作品の中でもとりわけ有名な曲が、ブランデンブルク協奏曲である。その名前の由来はブランデンブルクの領主クリスティアン・ルートヴィッヒに献呈されたからとされている。それは1721年ということだが、作曲されたのはケーテン時代を中心とした頃全般に亘っており、作曲順も番号順とは違っている。

私はその中でも第6番、第3番、第1番、第2番という順に好きなのだが、実にこれがその作曲順と一致している(ただ今回改めて聞き直し、その好みの順も幾分修正が必要となっている。というか全てが甲乙つけがたい曲であることを発見したのである)。そして初期の第6番と第3番は、独奏楽器が特に区別されているわけではない。以下に各曲と、その独奏楽器群や特徴を列挙してみる。
  • 第1番ヘ長調:ホルン2、オーボエ3、ファゴット。第1ヴァイオリンにヴィオリーノ・ピッコロ。
  • 第2番ヘ長調:トランペット(F管)、リコーダー、オーボエ、ヴァイオリン。
  • 第3番ト長調:独奏楽器の指定なし。
  • 第4番ト長調:ヴァイオリン、リコーダー2
  • 第5番ニ長調:フルート、ヴァイオリン、チャンバロ。
  • 第6番変ロ長調:独奏楽器の指定なし。ヴィオラ・ダ・ブラッチョ、ヴィオラ・ダ・ガンバも活躍する一方でヴァイオリンが存在しない!
どの曲を取り上げても、楽器のオンパレードであり、合奏協奏曲のような色合いの第6番や第3番、超高音のトランペットが印象的な第2番、リコーダーが活躍する第4番、フルートとチェンバロが活躍する第5番、楽器の掛け合いの見事な第1番と、興味が尽きることがない。私は子供の頃、これがなぜ「協奏曲」と言われるのかよくわからなかったが、ピアノやヴァイオリンの独奏楽器とオーケストラという形態が定着するのは、もう少し後の時代である。

それにしてもブランデンブルク協奏曲の魅力は何と言えばいいのだろうか。「最新・名曲解説辞典」(音楽の友社)には次のように記載されている。「『ブランデンブルク協奏曲』はじつにバッハの技能が最も自由に発揮されている好適例であって、この音楽は純粋な楽しみ以外の何物も意図されていない。それにもかかわらず、この楽曲はロマン派の音楽にききなれ、音楽から何か啓示めいたものを受け入れようとする態度になれているわれわれの心をも強く動かす」(辻壮一)。

ブランデンブルク協奏曲の演奏は、かつてカール・リヒターがミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いていた時代に、モダン楽器による最高峰とも言える演奏が登場し未だに色褪せない。この演奏には映像もあり、YouTubeでも見ることができる。けれども70年代後半以降は完全にオリジナル楽器の全盛時代となった。その中では個人的には、ヘルベルト・ケーゲルが率いるムジカ・アンティクァ・ケルンによる瞠目すべき演奏と、我が国を代表するバロックの第1人者、鈴木雅明が率いるバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏が記憶に残っている。

だが今では、クラウディオ・アバドがモーツァルト管弦楽団のメンバーと収録したイタリアでのライブ映像こそ、現時点での最高の演奏のひとつではないかと確信している。この演奏は2007年のもので、録音で聞く音だけのものは、早めのテンポで駆け抜ける演奏が丸でジャズのように耳に心地よく爽やかで、映像で見ると名手たちの興に乗った笑顔やアイ・コンタクトがすこぶる興味深い。最後には第2番の第3楽章を、リコーダの代わりにピッコロに持ち替えて演奏しているなど、ライブ映像を見る楽しみが堪能できる。私はこの演奏で第6番を聞いていた時、なぜか涙がこみ上げてきた。

丁度この映像ディスクを手に入れた2009年に書いた文章が残っていたので、以下に書き写すことにしようと思う。

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知り合った元NHK局員の方から「これはいいですよ」と勧められたのは、クラウディ・アバドが2007年にイタリアで演奏したライヴ映像で、モーツァルト管弦楽団を指揮したバッハのブランデンブルク協奏曲だった。一度BSで放送された映像で、この人はブルーレイ録画機に収録して楽しんでいるとのことだった。

それにしてもバロック音楽が趣味とは、なかなか面白い人である。しかも彼は有名な私立高校の出身で、そこでは昔ドイツ語が必修科目だったらしい。今でも英語よりはわかるという。彼は年に一回、娘の住むハワイに出かけ、米国で発売されたクラシックCDを買い漁ってくる。そしてライナー・ノ-ツをドイツ語で読むのだ!

私がドイツ語を学ぼうというきっかけを与えてくれたこの老人は、テレマンやハイドンといった、バロックから古典派にかけての音楽を聞くことが趣味で、杉並の自宅にB&Wのスピーカーを起き、朝から音楽鑑賞三昧の日々を送っている。とても羨ましい生活も、度重なる入院生活に中断を余儀なくされた。病院のベッドでも彼はテレマンのCDを絶やさなかった。

アバドの指揮するこの映像はこれまで発売がされていなかったが、最近になってEuroArtsからリリースされ、しかもブルーレイ・ディスクの安売りが年末のHMVオンラインでなされた。この機会を逃すまいと購入に踏み切ったが、丁度その時に品切れになり、先日やっと届いたというわけである。

さて演奏だが、これが実に素晴らしい。名手揃いのプレイヤーが、軽快なテンポで次から次へと出てきては名人技を披露している。立って体をゆらしながら、楽しそうに演奏を続ける彼らをカメラはよくとらえている。アバドは指揮をしているが、カメラにはあまり登場しない。ここでの主役は各プレイヤーであって、指揮者ではないというビデオ・ディレクターの考えであろう。

ジュリアーノ・カルミニューラは別にヴェニス・バロック・オーケストラを指揮して素晴らしい演奏を残しているが、ここでは主席ヴァイオリンとして登場するのも見どころである。ドイツにこもったバッハの作品も、イタリアで演奏すると緩徐楽章の「愛情のこもった(affettuoso)」表現も、何やらシチリア島のように明るくも古雅な雰囲気である。そうバロックの都とドイツが連続していることがよくわかるかのようだ。

どの部分が、というわけではなく、全体を通じて文句のつけようがない。そして静かな熱気がだんだんと会場全体を包む様子が伝わり、見ている方も熱くなってくる。一気に、優雅に、そしてさりげなく名人技の見せどころが続く。立春も過ぎて春だというのに、今年の東京の冬は寒い。朝から雪が降り続いている。こういう日は休日でも家にいて、あたたかいコーヒーでも飲みながら、ゆっくり音楽でも聞くことにしようと思う。(2011年02月11日)

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...