2016年4月12日火曜日

ワーグナー:楽劇「ジークフリート」(2016年4月7日、東京文化会館)

今やワーグナーは世界中で上演されている。ワーグナーを歌うことができる歌手たちは、世界中のオペラ・ハウスを飛び回り競演を重ねているのだろう。その歌手の一部が、春になると東京に集まる。ここ3年に亘って上演されてきた「東京・春・音楽祭」の楽劇「ニーベルングの指環」もいよいよ「ジークフリート」の番となった。思えば3年前、いったいどんなものかと何も考えず出かけた「ラインの黄金」が思いのほか良く、昨年の「ワルキューレ」では、おそらく本場でもそうそう出会うことのできないほどの名演奏に度肝を抜かれた。だから今年の「ジークフリート」では、その3日前から興奮してどうしようもないような状態に。私はこの演目を実演で見るのは初めてだし、それにワーグナーばかりを聞いて生活する、いわゆるワグネリアンとも違うのだが。

雨のふりしきる上野は、満開の桜が散り始めている。それでも東京文化会館の前には平日にもかかわらず大勢の人出である。開園の1時間も前から、私は席に座り、開演を待った。今回は1階席の右奥(B席)である。これだけの歌手を揃えながら1万円強という値段設定は良心的である。もっとも演奏会形式である上に、地元のオーケストラ(NHK交響楽団)ということもあるだろう。でもN響は今や世界でもトップランクに引けを取らない上手さを誇るし、演奏会形式であることのメリット、すなわち歌手は歌うことに集中し、オーケストラは舞台の上から直接演奏することで、音楽的には有利な条件が揃うということもある。

開演の15時になるとオーケストラのメンバーが三々五々席に着き始めたが、どういうわけか1階席には空席も目立つ。平日とは言え間違いなく満席を覚悟していた私は、少し拍子抜けした感じであったが、座席には飯森泰次郎氏の姿も見える。今回もこれまで同様、ゲスト・コンサート・マスターのライナー・キュッヘル氏に合わせチューニングが始まった。ここから私は最大級の驚きをもって、この日の公演の素晴らしさについて語ろうと思う。もしかしたらそう思わない向きがいるかも知れないが、私がこの公演を、本場でも触れることの難しいくらいのレベルであると確信しているのは事実である。

まずミーメ。狡猾で小心者の鍛冶屋の役を、テノールのゲルハルト・シーゲルが歌う。特にどのシーンが、という形では思い出せないのだが、彼は今回の主演者の中ではもっとも存在感が際立っていた。透き通るようで、それでいてどことなく裏がありそうな声質。それが5階席まであるホールの全体を満たし、存在感が抜群であった。第1幕はほとんど彼と、そしてすぐに登場した若きジークフリートだけのためのようなものである。

ジークフリートがつまらなければ、この作品は失敗に終わるだろう。ほぼずっと出ずっぱりで、何をおいてもこの作品は、ジークフリートの成長物語なのだから。そのジークフリート役は当初、「ワルキューレ」で昨年ジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスだと発表されていた。ところがいつのまにかこの役は、テノールのアンドレアス・シャーガーに交代されていた。この歌手の魅力は、まず何と言ってもその若々しさにあると思う。演奏会形式であるとはいえ、まるで役を演じるかのように走って登場する。役と歌が彼の中で一体となっているからであろう。第1幕のノートゥンクを鍛えていくシーンでは、息を飲むほどの迫力で会場を圧倒した。

それにしても若い声というのは魅力的なものである。しかも強い。このシャーガーの歌うジークフリートは、バレンボイムによって見出されたとプロフィールには書かれているが、むべなるかなである。私たちは往年の名演奏でヴィントガッセンやコロといった伝説的ヘルデン・テノールの声を知っているが、若きパワーのあふれる声というのを初めて感じた次第。ジークフリートの声は、普通のテノールではなく、やはり特長があるのだろう。ティーレマンの演奏などは(誰が歌ったかは忘れたが)、さすらい人やミーメと区別がつきにくくあまり感心しなかった。

ジークフリートは第2幕においても、大蛇となったファーフナーを倒してリングを手に入れ、小鳥に導かれてブリュンヒルデの眠る洞窟にやってくる。ブリュンヒルデとの熱き二重唱が第3幕の。そして全体の最大の見せどころである。そのブリュンヒルデ役は、昨年のキャサリン・フォスターからスウェーデン系アメリカ人のソプラノ、エリカ・ズンネガルトに変わった。この二人の声は対照的である。ズンネガルトは細く、しなやかでりながら芯はしっかりしている。この男声主流の作品にあって、主役級の女性はブリュンヒルデだけである。けれども彼女の歌声はヤノフスキの流れるように都会的な音楽によく合っていた。ブリュンヒルデはジークフリートが洞穴に到着した時には、すでに舞台に登場している。だがなかなか歌いだすことができない。もう男声に聞き飽きていたと感じてくるそのタイミングで彼女の声は、会場に高らかとこだましなければならない。何という難しい役だろうかと思う。ジークフリートと声をそろえて歌う愛の二重唱は、オペラ作品としての性格をこの作品が持っていることをよくわからせてくれる。

終結の場面でブリュンヒルデはおもむろに、ジークフリート牧歌で知られるメロディーを朗々と歌う。「恐れ」を知ったジークフリートと結ばれるこの最後のシーンまで来たら、大きな拍手をするほかはない。 ワーグナーは第1・2幕と第3幕と間に「指環」の製作を12年にも亘って中断する。音楽的な充実は第3幕で明らかである。

登場するどの歌手もみな、悪いところがない。それどころか声の魅力というものを堪能する。このほかの役は、本作品では出番こそ少ないが、第1級の歌手によって歌われている。すなわちさすらい人のエギルス・シリンス(彼は「ラインの黄金」からずっとヴォータンを演じてきた)、アルベリヒのトマス・コニエチュニー、ファーフナーのシム・インスン(共に「ラインの黄金」と同じ)、エルダのヴィーブケ・レームクール(初登場)である。この中ではシリンスが比較においてやや弱く感じられるものの、エルダのレームクールはまた存在感が抜群であった。また唯一?の脇役、小鳥の声は日本人ソプラノ、 清水理恵によって5階席から歌われた。

さて今回の「ジークフリート」は、昨年の「ワルキューレ」を上回る感動だったと言わなければならないが、その理由は上記のジークフリートを柱とする圧倒的な歌手陣を支えるマレク・ヤノフスキとNHK交響楽団にも求めなければならない。私がこの公演で涙がでるほど感動したシーンは、2か所ある。ひとつは「森のささやき」(第2幕)。ゲスト・コンサートマスターのライナー・キュッヘル氏が見事なソロによって、丸で小鳥が宙を舞うかの如く木管楽器に溶け合った。本当にN響はうまいと思った。

もう一か所はホルンのソロである。独奏を受け持った奏者は、単身舞台袖に登場し、ソロ・パートだけを弾く。これが失敗したら一貫の終わりである。ホール全体が固唾をのんで聞き入る中、このホルンは完璧であった。

ヤノフスキのさっぱりとして無駄のない音楽づくりには、好感を持っている。そりゃ一生に何度あるかわからないジークフリートを観る機会に、一度は恐るべきロマンチックな演奏で聞いてみたいと思わないわけではない。だがそれが名演となるか、また全体を統制され引き締まった作品として楽しめるかは別問題である。私は新バイロイト様式から続くスッキリ系ワーグナーは、ブーレーズやシュタインなどを経てヤノフスキにたどり着くのではとさえ感じている(彼は70年代から往年の東欧系歌手を率いた「リング」を完成させている。だが今年と来年、いよいよバイロイト音楽祭に登場することが決まっているのだから、このような表現もまた許されよう)。

オーケストラが舞台に上がることにって音量が増し、歌手の声を圧倒してしまわないよう細心の注意を払ってコントロールされていたと思う。そのことによってN響からは室内楽的な精緻さが引き出されたし、歌手の声はさえぎられることなくホールに轟いた。だがそれは何度も言うように、技術的な技量が、オーケストラにも歌手にも備わっていることの証明でもあった。舞台を損ねないように注意を払ったもう一つの演出は、舞台上部に掲げられたアニメーションである。まあこれはこれでひとつの表現だろうし、何もないよりは絶対にいい。だが毎年言うように舞台を転回するシーンでは、もう少し饒舌な演出もあり得るのではないか、どうせやるなら、と思う。

満場の拍手は20分以上は続いたと思う。何度も舞台に登場した歌手やオーケストラは、満足した様子に見えた。5時間以上続いた公演がこのようにして終わった。東京でこんな素晴らしいワーグナーが聞けるのは、人生における喜びである。だから私は来年も、会社を休んでも出かけようと思っている。いよいよ「神々の黄昏」なのだから。

2016年4月3日日曜日

プッチーニ:歌劇「マノン・レスコー」(The MET Live in HD 2015-2016)

力強い前奏曲に次いで大勢の人物が舞台に登場し、「マノン・レスコー」の幕が開いた。ここの音楽はどこかフランス風?と言いたくなるようなものを感じたが、それもそのはずでここはフランスの街アミアンの広場。けれどもその音楽は、やはりどこか違う。プッチーニの出世作と知ったのは、このオペラを初めて聞いた時である。「ボエーム」の第2幕、カフェのシーンを思わせるような群衆のシーンと、そこに流れる複雑な楽器の重なり。やはり次作「ボエーム」へと受け継がれていくプッチーニの作風が、ここで確立されたとみるべきなのだろうか。

妖女マノンと言えば、まずはマスネの「マノン」である。この作品はフランス・オペラの代表的なもので、私も一度見ているが、ここで描かれるマノンは、貧乏生活を送る田舎の純朴な女性が、その美貌ゆえにか金持ちのパトロンを得てパリの社交界に登りつめるも、これまた純情な青年デ・グリューを修道院にまで追いかけて駆け落ちし、流刑となってしまうという悲劇のヒロインである。マノンの魔性とそれに翻弄され転落してゆく男の人生。だがマノンにはさほど悪気もなく、それはそれで痛ましい。ここでのマノンは、奔放で魅惑的な女性として描かれている。

プッチーニはこの作品を、自分流に仕上げることに苦心した。同じ原作のオペラを作るというのだから比較の対象になるのは最初から分かっていただろうし、その相手がマスネの作品となると、これはもうプッチーニの野心というしかない。まだ30代前半の若き作曲家は、しなしながらこの作品で成功を掴み、ヴェルディの後を継ぐイタリア・オペラ界の音楽史に残る後継者となった。しかもこの作品にはすでに、ミュージカルへの橋渡しともいうべき要素をすでに備えていると、歌手はインタビューに答えている。

プッチーニの描くマノン像は、より内面的でシリアスである。そのことで女性の一生の物語として、現代人にもわかりやすい要素を備えている。ストーリーは非凡でもテーマは現実的であるということだ。これはヴェルディの「椿姫」にも通じる要素がある。しかもパリの社交界と純朴な青年の転落、ヒロインの死といった共通点も多い。第4幕で流刑地ルイジアナへと向かう船に乗り込む囚人たちの中に、ヴィオレッタという娼婦がいるのは面白い。

第3幕の前奏曲を頂点にプッチーニ書いた音楽は斬新で迫力に満ち、そしてあのルバートを多用した綺麗なメロディーと抒情的な歌が全編を覆う。迫真の演技と見事な歌によってメトの広い空間を圧倒したのは、美人のソプラノ歌手で、丸でマリリン・モンローのような衣装をまとったクリスティーヌ・オポライス(マノン)、ヨナス・カウフマンの代役を急きょ引き受けた世界一のテノール、ロベルト・アラーニャ(デ・グリュー)である。この二人の歌うプッチーニは、おそらく最高の素晴らしさだたと思う。特にアラーニャはさすがと言うべきか、第2幕の途中でマノンの住むジェロントの館に忍び込んで現れるシーンで、舞台の様子が一変する。その存在感!それまでの平凡な舞台(はマドリガルだの踊りだのと、少しフランス・オペラを意識したかのようなシーン)は、台本の平凡さが飽き飽きしたマノンの生活という筋書きにマッチしていたが、ここを境にしてマノンの心理とともに大転換を起こす。

第3幕での聞かせどころはデ・グリューが、マノンとの同行を泣いて船長に懇願するシーンだが、このようなものはマスネのマノンにはない(代わりに修道院に忍び込むマノンのシーンなどがある)。また第4幕の荒れ果てた野原は、この演出では廃墟の中となる。熱病に侵され自らの死を悟ったマノンは、かつての面影もなく人生を振り返って「死にたくない」と嘆く(「一人寂しく捨てられて」)。舞台を二人だけで30分近くも演じるプレッシャーは相当なものだと思うが、この少し受け狙いの要素も濃いシーンで、プッチーニの音楽がこれでもかと続く。

本公演を成功に導いた立役者はもう一人、指揮者のファビオ・ルイージである。引き締まった音楽と流され過ぎないリズムは集中力を絶やさない。彼はルバートの仕組みについて、より感情に対して自由な表現だと答えている。だが単に流されるのではだめで、そこに出演者間の相互作用と呼吸が必要だと言うのはとても興味深い。

一方、リチャード・エアの演出はどうだったか。舞台はナチス占領下のフランスに移されている。その狙いを聞かれ彼は、もっともらしい理由をインタビューで述べているがあまりよくわからない。もともとの台本が持っているシーンの繋がりの悪さのせいなのか、それとも演出のせいなのかはわからないが、どことなく中途半端な感を否めない。大胆な音楽を十分に表現する指揮と歌がこの公演を素晴らしい「マノン・レスコー」にしているのは確かである。その他の配役は、バスのブンドリー・シェラット(銀行家ジェロント)、バリトンのマッシモ・カヴァレッティ(マノンの兄で警察官のレコー)。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...