2019年6月26日水曜日

ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」(アンネ=ゾフィー・ムター(vn)、ジェームズ・レヴァイン指揮シカゴ交響楽団)

ベルクのヴァイオリン協奏曲は「ある天使の思い出に」という副題が付けられる。「ある天使」というのはマーラー未亡人のアルマが設けた娘マノンのことで、若干18歳で死亡している。50歳で亡くなるベルクの、これは最後の作品(1935年)である。

副題の示すように音楽自体が、何らかの動機を示すのかどうかはわからない。そもそも副題は、作曲家自身が標題として何らかの意味を与える場合を除けば、解釈の妨げとなる。作曲家が書いたもとの抽象的な音楽が、一人歩きをしてしまう危険性をはらむ。注意してそのイメージを払拭し、ただ純粋に音楽に耳を傾ける。けれども無調音楽を経て十二音技法へと進んだベルクのこの作品は、30分足らずの作品だが、絶対的な音のつながりとしてのみ楽しむのには、大変な努力が要るのもまた事実である。

十二音技法、すなわち十二平均律のすべての音を均等に使用して音列を作り、それをこわさないように作曲する方法について、私は音楽の専門家でもないし、特段この音楽のマニアでもないのでよくわからないのだが、私が思う限りでは、これらの音楽は、積極的に調性を回避し、従ってどの調性にも属さない音楽を「人工的に」作ろうとしている。一方、伝統的な調性音楽は、バッハによって体系化されたが、その元になっているのは人間の耳に馴染みやすく、聞いていて心地よい音楽だと言うことである。

もしろん世界各地には様々な音楽があって、西洋音楽のカテゴリーに属さないものも存在するが、西洋音楽は西洋文化の一つとして、この絶対的な調性、和音、あるいはリズムの「あるべき姿」を模索し、それから絡み合って対位法や転調などを生み出してゆく。この営みの中に、ハイドンもベートーヴェンのいるし、続くロマン派の作曲家たちも存在する。

マーラー亡きあとの西洋音楽が向かった先は、このような営みの破壊だったともいわれるが、それは同時に、その延長上でもあった。従って調性音楽がなければ、無調音楽も十二音技法もなかったと言えるのではないか。伝統的な「心地よい」音楽の対極にあって、あえてそれを否定する音楽が、心地よいわけがない。無理に、そういう音楽を作るとすれば、こうなりますよ、となる。ここで、音楽はあくまで音楽であり、雑音とは違う。あえて作曲された心地よくない音楽を、どう演奏したところで、それは耳に馴染んで来ないのは当然である。

だからベルクの音楽は(私は「ルル」も「ヴォツェック」も見たが)、一向に好きになれない。たまにこれは聞けるかな、と思う音楽は、初期のシェーンベルクの音楽だったりする。十二音技法がその後続かなかったのは、当然と言えば当然で、これは一種の音楽の試みにすぎなかったのではないか。

ベルクのヴァイオリン協奏曲は、2つの楽章から成っている。第1楽章はアンダンテに始まりスケルツォ風に展開する。よく聞くと確かに、基本的な音列がオーケストラとヴァイオリンによって示されている。

また、第2楽章はアレグロで始まるが、やがてアダージョの部分へと移行し、様々な民謡やバッハのパッセージなどが利用されているようだが、その意味は、亡きマノンへのレクイエムとしてのメッセージが込められているらしい。

アンネ=ゾフィー・ムターが演奏したCDを私はなぜか持っている。この演奏の一つの典型とでも言うべき演奏で、録音も秀逸であり、今もって色あせることはない。

2019年6月23日日曜日

NHK交響楽団第1916回定期公演(2019年6月15日、NHKホール)

梅雨に入っている。今年は例年のように、6月初旬に入梅し、そこそこ天気の悪い日が続いたあと、少々の中休みがあるという、まあここまでは普通の陽気で、6月下旬にはすでに猛暑となった昨年とは違う。そして今日、NHKホールでの定期公演へと急ぐ私にも、結構な量の雨が吹き付けて来た。NHKホールは、山手線の原宿から歩くにせよ、渋谷から歩くにせよ、結構な距離だからこういう日はつらい。いつもは原宿から、代々木公園の並木の中を歩く私も、今回は迷わずバスの利用を検討した。「アレグロ号」などと名付けられているがいたって普通の都営バスで、途中の停留所には止まらない。井の頭線の改札を出て1階へと降りたところから出るので、雨に濡れる心配もない。

ところが、このバスにコンサートの観客が殺到したのは、当然と言えば当然である。「みなさまのNHK」のことだ。コンサートに合わせて適宜増便されるのかと思いきや、バスは時刻表通り30分に1本しか出ない。つまりこのバスに乗らなければ、コンサートに間に合わない、という人が大量に取り残された状態で、満員のバスは出てしまった!

バス停に並んでいた皆さんは、N響のコンサートへと向かう老人たちで、運転手に食って掛かるようなことはしない。諦めて歩き出す人もいたが、私は後に並んだおばさんと、タクシーに乗り合って行くことになった。「いつもは歩くのですけど」というおばさんは土曜日の定期会員で、こんな雨は久しぶりだと言う。「あの大雪の日以来ですね」という私に、「そうそう!」などと頷いてくれる。

だが、こういう雨の日にはタクシーも来ない。渋谷駅のタクシー乗り場は、道路を渡って向かい側にあるのだが、それでは逆方向である。しかもJapan Taxiのアプリを初めて使おうとしてみたものの、そこに表示された空車の情報はゼロ。私たちは途方に暮れていたところ、偶然にも1台の客を乗せたタクシーが、私たちの目の前に停まって客を降ろした。私は一目散に駆け寄り、同様の状況にある方々を差し置いて、幸運にも車上の人となったのだ。

公園通りを駆け抜ける車の中で、「ヤルヴィさんになってからは、何か、とても上手くなったわね。」などと話していると、あっという間にNHKに到着した。前方に乗り損ねたバスが停まっている。タクシーはその横を通りすぎて、ホールの前に停まった。料金は600円そこそこ(割り勘で300円)。これは値打ちのあるタクシーだった。着いてみるとまだ30分前。けれども今日は、3階席の奥までぎっしりと埋まっており、その期待の高さがうかがえる。

プログラムの最初はバッハのリチェルカータ(ウェーベルン編)という10分足らずの曲で、「音楽の捧げもの」の中の一曲をアレンジしたものである。透明な中に独特の十二音技法とフーガの混じる静かな曲だった。

もしかしたら今日の聴衆は、続くベルクのヴァイオリン協奏曲の独奏と務めるイスラエルのヴァイオリニスト、ジョシュア・ベルがお目当てだったかも知れない。N響ともしばしば競演しているようだが、実は私の初めてである。たしかデビューCDだったモーツァルトの協奏曲で私は十代のベルを知ったのだが、その彼ももう47歳である。早くから流麗でテクニックも十分だった彼は、世界でも有数のヴィルテュオーゾとなり、もう円熟に域に達しているとも言える。ゆるぎない解釈と、それを体現するテクニックは説得力があり、しかも耳に心地よい。

そのベルクである。ところがこの曲、何とも形容しがたい作品だ。私はムターのCDを持っており、それを今回幾度となく聞いているのだが、どうもよくわからないというのが正直なところ。ベルクの作品は(オペラなどもそうだが)、何度も聞くうちに次第に馴染んでくる、などとどこかの歌手が言っていたのだが、どうやら私はまだその域に達してない。

2つの楽章から成るのだが、どちらの楽章のどの部分を聞いていても、同じ曲を聞いているような感じがしてくる。でもベルはこの曲を、完全に暗譜していた。彼は時折指揮者だけでなくオーケストラの奏者にも目を配りながら、この難解な曲を一定の緊張感を絶やすことなく弾き切った。それは見事と言うほかなかった。

アンコールはバッハのパルティータ第3番ホ長調BWV1006から「ガヴォット」だった!この演奏は胸のすくような名演で、圧倒的にさえ渡るテクニックが満員の聴衆を魅了した。独奏のアンコールにこれほど大きなブラボーも珍しい。

今日のN響のコンサートマスターには、ミュンヘン・フィルなどで活躍したロレンツ・ナステュリカ・ヘルシュコヴィッチという人が招かれていた。プロフィールによればあのチェリビダッケとも共演している。そういうヴァイオリニストがコンサートマスターを務めるブルックナーの交響曲第3番は、聞きものだと思った。私にとっての今日のお目当ては、何といってもブルックナーだった。

交響曲第3番ニ短調は、ブルックナーが作曲家として名声を博するようになってからの(それは結構な年齢に達してからのことだが) 最初の交響曲である。私はこの交響曲のCDを、ブルックナーの作品の中では最初に買った(ハイティンク指揮ウィーン・フィル)。つまりは最初にきっちり聞いた作品ということになるのだが、当時第3番の録音は多くはなく、それは何といっても第4番「ロマンチック」だけが突出して有名だったことからも当然で、そんな中での第3番は、私のとっても冒険的支出であった。

ところが今回、演奏会のチラシを見ていると、指揮者のヤルヴィがまたこの曲を最初に聞いたブルックナーとして挙げていることがわかった。私は急にコンサートに行きたくなった。かつて第5番の演奏会にも出かけたが、聞いた席が悪かったのか、ちょっと失望に終わったのを覚えている。確かに第5番は難しい曲のような気がする。それに比べれば、第3番はもう少しわかりやすい。

私の第3番のコンサートにおける経験は2年前の、ミンコフスキ指揮都響によるものである。だがこの時の演奏は(大変な名演であることはこのブログにも書いた)、原典版という珍しいものだった。晩年、自作の改定を重ねていくことで有名なブルックナーの初期の作品である第3番は、その初稿(1846年)と第3稿(1877年)とでは聞いた時の印象が随分異なる。そのことも今回の演奏の聞きどころだったのだが、結論から言うと、より完成度の高い第3稿のほうが、聞きどころがわかりやすいものの、よくまとまり過ぎているような気がして(第1楽章などは初稿版は非常に長い)、初稿版の魅力というのもまああるのかな、というものだ。どちらもそれなりに面白いということか。

さてヤルヴィのブルックナーは、その弾むようなアクセントで、ブルックナーの新たな魅力を開拓しようとししている。丁度ベートーヴェンやシューマンがそうであったように。例えば第3楽章のトリオの部分などにそのことが顕著に表れていた。主題が終わって一息つくと、さあいよいよ聞かせどころですよ、という感じである。コンサートマスターがちょっと大げさに体を揺すってみたりして、ヴィオラのセクションなどもいつもより大きな身振り。チェロは左右に揺れる。

私の聞いていた位置は今回、1階席右横のA席で、ここはホルンを除く金管楽器が直接響き、音のバランスが良くないようだ。できれば向かって左側を押さえたかったのだが、土曜日の公演は既に満席であった。ヤルヴィはチェロやコントラバスなど、低音の弦楽器を左奥に配置する。第5番の時にも書いたのだが、そのことがもしかすると音色を濁らせる結果になっているような気がする。ソヒエフで聞くN響は、きれいな音がする(通常の配置)のだが。でもこれは、聞く位置によって異なるのかも知れない。

演奏は第2楽章の後半から徐々に良くなっていった。第1楽章では細かいミスもあった金管楽器も次第に溶け合い、特に第4楽章では金管と弦の見事なハーモニーが会場を満たした。一気に進む最後のコーダ部分に至っては、まさにブックナー節が満開で、この音を死ぬまで聞いていたいとさえ思った。

かつての老指揮者なら、テンポをぐっと抑えて大時代がかった演奏をするところも、若々しく現代的に颯爽と駆け抜けてゆく。ブルックナーにおける邪道だと思っている人もいるけれど、いつまでも古いスタイルがいいとも思わないし、世界の最先端を行く指揮者となると、そういう昔のコピーではいけないわけで、聴衆と演奏家の思いに乖離があるのがいつも心苦しいのだが、次第に世代交代も進み、演奏者も聴衆も若い人が増えてくれば、そのあたりの部分もゆっくりと変わってゆく。そのゆっくりさがまた、クラシック音楽の古風なところではあるが。

そんなことを考えながら、Spotifyでいくつかの第3番の演奏を立て続けに聞いてみた。新しいネルソンズやゲルギエフの演奏や、古くはヨッフム、チェリビダッケの演奏も簡単に再生できる。そんな中で、今回のヤルヴィの演奏に似て今なおモダンな演奏は、何といってもカラヤンだった。もしかしたらこの演奏をモデルにしているかも知れない。そこにもう少し現代風のメリハリとテンポ感をくっつけている。まあ私の力では、そのようなことしか分からないし、書けないというのもまた事実なのだけれども。

今シーズンのN響はこれで終わり。来シーズンのプログラムも発表されて、行きたい演目が並んでいる。9月には早くもヤルヴィの再登場で、マーラーの第5番となっている。それからエッシェンバッハの第2番「復活」、来年6月にはナガノの第9番とマーラーが盛沢山。ヨーロッパ公演にも挙げられるブルックナーの第7番(ヤルヴィ)やシュトラウスの「英雄の生涯」(ルイージ) 、勿論ソヒエフ(10月)やスラットキン(4月)も登場し、早くも目が離せない。

2019年6月16日日曜日

ニコラス・ナモラーゼ(p)・リサイタル(2019年6月9日、東京文化会館小ホール)

思いがけず妻がニコラス・ナモラーゼなるピアニストのリサイタルに行きたいと言うので、小雨模様の中、東京文化会館へ出かけた。会場に着いてみると数多くの人がロビーにいる。その理由は、大ホールで二期会公演「サロメ」(リヒャルト・シュトラウス)が開かれていたからだ。「サロメ」は私も注目していたけれど、ここのところ体調がすぐれない中、たとえ1幕物とは言え、物凄い集中力を必要とするオペラを見るだけの気持ちになれないでいた。だがピアノのリサイタルであれば、もう少し気軽に足を運ぶことができる。

ナモラーゼという若いピアニストの名前など聞いたことがない。それもそのはずで本公演が日本でのデビューとなる。もっとも世界的に見ても、まだデビューして間もない新星である。プロフィールによれば1992年ジョージア生まれとある。若干27歳ということか。CUNY(ニューヨーク市立大)に在籍しており、昨年カナダのホーネンス国際コンクールに優勝、今年2月にカーネギーホールでリサイタルを開いたらしい。「桁外れの芸術家」などと各種の批評が掲載されているが、日本でのコンサートは名古屋と東京のみだ。

東京文化会館の小ホールは、正方形を45度傾けたような形をしていて、その建築は若干古めかしいもののモダンで、なかなかいい音質だと私は思った。ロビーは広く、広い窓から見える上野駅前の雑踏からはかけ離れた空間である。やがて舞台を照らす照明の中に現れた青年は、まずスクリャービンのソナタ 第9番作品68「黒ミサ」という曲を弾き始めた。タッチの確かさと、揺らぎのない音感は、とても好感が持てる。あっという間の曲だった。

続くバッハのシンフォニア第9番へ短調BWV795を、続けて弾き始めたとき、私ははっと息を飲んで、椅子に座りなおした。少し眠くなっていたからかも知れない。ところが前半の最後の曲、バッハのパルティータ 第6番ホ短調BWV830を聞いている間中、それはそれは心地よい睡魔に襲われ続けた。演奏がつまらないからではない。何とも心地よい睡眠を誘うのは、その音楽か醸し出す音の波が、絶え間なく私の脳に一種の陶酔の状態をもたらしたからだ。安定した集中力と、その中に調和する繊細で確固たる音波のゆるぎない繰り返しは、バッハの構造的で夢幻的な面を十分に表現していた。

休憩時間にコーヒーを飲むと、頭がさえ渡り、後半のプログラムへ。まずシューマンの「アラベスケ」が聞こえてくる。私はここで、ロマン派はいいな、などと思っていたのだが、この曲が私の今日のお気に入りだったと思う。続く「晩の歌」もシューマンである。バッハとシューマン、それにスクリャービンに混じって、後半のプログラムは彼自身が作曲した「アラベスク」と練習曲第1番、第2番、第3番と立て続けに演奏した。自身の作品は、どこで切れ目があるのか(ないのか)もわからないので、拍手を挟む余地もなく一気に弾き終えた。

まだ始まって1時間半しか経過していない。そこでここからはアンコールということになる。何度か出てきてはお辞儀をすると、やおらピアノの前に座り、まずは「荒城の月」をアレンジした静かな曲でスタート。その後はオール・スクリャービンであった。それらは以下の通り。練習曲嬰ハ短調(作品42-5)、同嬰ニ短調(作品8-12)、同変ホ長調(作品48-8)、同嬰ハ短調(作品2-1)、同嬰へ長調(作品42-4)。アンコールは計6曲もあった。終わって会場を出ると、サイン会に並ぶご婦人方に混じって掲示されたアンコール曲を控えた。どこか間の抜けたロビーに向かうと、大ホールの「サロメ」はすでに終了していたことに気が付いた。

ナモラーゼというこのピアニストは、音の歯切れの良さが私の相性に合っているように思った。日曜午後のひと時を過ごすには、たまにはリサイタルもいい、と思った。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...