2015年4月30日木曜日

モーツァルト:ピアノ協奏曲第8番ハ長調K246「リュッツォウ」(P:アンジェラ・ヒューイット、マントヴァ室内管弦楽団)

モーツァルトがザルツブルク時代に書いたピアノ協奏曲第8番は、目立たないがかわいい作品だと思った。もっともピアノのパートは献呈されたリュッツォウ夫人のために平易に書かれているということだ。だがモーツァルトはこの曲をしばしば演奏旅行で取り上げているという。

バッハで次々と名演奏をリリースしたカナダ人の女性ピアニスト、アンジェラ・ヒューイットがイタリアの室内管弦楽団を弾き振りしたCDをある日見つけ、そのカップリングもユニークだったこともあって私は衝動的に買い求めた。これがそのCDで、第6番、第9番とともに収録されている。第6番はすでに取り上げたし、第9番「ジュノーム」は名盤が数多くあるので、ここでは比較的に目立たない第8番に登場してもらうことにした。

ところがこの曲の第2楽章「アンダンテ」の美しさは、初めて聞いた私の心をキャッチしてしまった。 飾り気ないモーツァルトのもっとも自然で、しかも品を失わない姿がそこにひっそりと存在していたのを発見したからだ。ハ長調のピアノ協奏曲は、このあと13番、21番、25番と続く。第3楽章になっても、丸でソナタ作品を聞くようなそこはかとない雰囲気が心地よい。後年の、音楽史に名を残すようなきら星のごとき作品群ではない素朴なモーツァルトもまた、私は愛してやまない。


2015年4月29日水曜日

モーツァルト:3台のピアノのための協奏曲ヘ長調K242(P:ダニエル・バレンボイム、アンドラーシュ・シフ、ゲオルク・ショルティ、イギリス室内管弦楽団)

モーツァルトのピアノ協奏曲第7番は3台のピアノのために書かれている。そのことによってなかなか実演で接する機会はない作品である。何せピアノが舞台に3台、ピアニストが3人も要るのだから。だから私もCDでしか聞いたことがないのだが、その演奏も2台のピアノ用に編曲されているものが多く、この場合を含め「2台のピアノのための協奏曲」(第10番)とカップリングされることが多い。

3人ものピアニストが要るとはいえ、3人目のピアノ・パートは比較的平易であると言われている。私は聞いていても、どこがどのピアノなのかよくわからないのだが、その違いを感じる名演が、バレンボイム、シフを独奏に迎えた演奏である(というかこの演奏しか知らない)。ここで3台目のピアノは著名なピアニストであるゲオルク・ショルティで、彼はオーケストラの指揮もしている。

第2楽章のアダージョがとりわけ美しい。このフレーズを聞いていると、どこか未熟な感じを持っていたこの曲の魅力がここに隠れているような気がしてくる。そこから第3楽章の終わりまで、何ともうっとりするような演奏である。聞き終えると、続く第20番のピアノ協奏曲K.466(ニ短調)の出だしがかえって鬱陶しいような気持ちになるから不思議である。

第2楽章の美しさは、丁度この時期、春から夏に向かう暖かい季節にピッタリである。オーケストラの序奏に続いて主題が展示されたあと展開される時に、装飾的な音を伴って2台のピアノが溶け合っていく。派手さはないがしっとりとした落ち着きがあり、高貴である。おそらく3台目のピアノもどこからか登場する。すなわち3人の名ピアニストが独自の主張をすることを控え、むしろ協力的に音楽へ奉仕している。さりげないにもかかわらず見事な調和を見せるので、何かとても成熟したものを感じる。

なおこの演奏はジャックリーヌ・デュ・プレ基金のためのコンサートだったようだ。カップリングは2台のピアノのための協奏曲とピアノ協奏曲第20番で、後者ではショルティが引き振りをしている。

2015年4月11日土曜日

ロッシーニ:歌劇「湖上の美人」(The MET Live in HD 2014-2015)

ロッシーニのオペラ「湖上の美人」は1819年にナポリで初演されている。それから2世紀近くの時間がたって初めてMETで初演されたこの作品は、表題役エレナにアメリカ人ジョイス・ディドナート、スコットランド王(またはウベルト)にペルー生まれのフアン・ディエゴ・フローレスを起用している。この二人は私の記憶する限り、METライブシリーズでも数々のロッシーニ作品を共演してきており、「オリー伯爵」、「セヴィリャの理髪師」、「チェネレントラ」など一連のオペラ・ブッファで圧倒的に素晴らしい歌を楽しんできた。

このコンビが出るとなれば、その作品に触れたことがなくても観てみたくなる。しかも今回、松竹のホームページに掲載された音楽評論家、加藤浩子氏の現地レポートを事前に読んでしまったので、その期待は高まるばかりであった。上演が始まった初日に東劇で、さっそくこの上演を観たのだが、その印象は「まだこんな作品があったのか」というくらいに素晴らしく、圧巻の一言につきる。私がどう表現したところでプロの評論家にはかなわないので、ここではその表現を一部引用させていただく。


『それは、奇跡のような数分間だった。

静まりかえった劇場を浸す、光を浴びてきらめく金細工のような声。その声のゆくえを見守り、絶妙のサポートを続けるオーケストラ。恋人への想いを歌い上げる声は、時に熱を帯び、時に静まりながらもますます輝きを増し、その声に呼応して指揮者のしなやかな背中が、繊細な手先が、オーケストラピットの薄闇に舞う。声と指揮が完璧に手を取り合い、楽譜から最高の音楽を引き出す奇跡のような瞬間。
 
ケミストリー。

その言葉が思い浮かんだ。恋する2人が共有する天からの授かり物のような、奇跡的な瞬間。目の前の歌手と指揮者は、音楽を介してそれを体現していたのだ。これ以上完璧なコラボレーションがあるだろうか。』(METライブビューイングのホームページより)


評論家の文章には二種類ある。仕事のために仕方なく記述した文章と、心から感動した文章である。そしてこれはその後者に属するものであると私は信じている。彼女の表現がすべてを物語っている。


『作品の本質を理解した演出と指揮に支えられ、名歌手たちが繰り出すめくるめく歌の数々は、客席を陶酔の渦に巻き込んだ。幕切れのアリアが終わった瞬間の沈黙と、直後に爆発した喝采の熱気の凄まじかったこと!』(METライブビューイングのホームページより)


私にとってのこのオペラ体験の意味は、最初のロッシーニのオペラ・セリアであったことだ。つまりあのロッシーニ・クレッシェンドは少し控えめとなり、笑いがこみ上げるようなシーンはほとんどない。舞台は中世のスコットランド。スコットランドを舞台にしたイタリア・オペラと言えば、ドニゼッティの「マリア・ストゥアルダ」やヴェルディの「マクベス」などが思い浮かぶが、共通しているのは舞台が暗く、政争に左右される悲恋の物語というものである。この作品もその例に漏れず、舞台はスコットランドの陰影に富んだ湖のほとり。そこに迷い込んだスコットランド王ウベルト(変装している)はエレナに一目惚れ。彼女はウベルトを狩猟小屋に案内するが、そこで彼女が反乱軍の貴族ダグラス卿の娘であることを知る。

ややこしいのは彼女をめぐる男性が3人もいることだ。三角関係ならぬ四角関係。しかもその一人、エレナと愛を誓いあった仲であるマルコムは、メゾ・ソプラノによって歌われる。話はややこしいが、結局結ばれるのはこの二人である。それに至るまでの紆余曲折がこのオペラのあらすじではあるが、そんなことよりもベルカントの歌のめくるめく饗宴を楽しむのが醍醐味である。

第1幕の最初から合唱も活躍する数々の歌は、間違いなくロッシーニの世界へと誘ってくれる。それに欠かすことのできない歌手たちが、誰をとっても素晴らしいのだ。すなわちマルコムを歌うダニエラ・バルチェローナ(メゾソプラノ)、もうひとり 、父親が嫁にしようとしている反乱軍の首領、ロドリーゴのジョン・オズボーン(テノール)、それからエレナの父親ダグラス卿のオレン・グラドゥスである。

たとえ第1幕で気分がのらない個人的な理由(寝不足とか仕事のストレスとか)があっても、歌の力は偉大である。第2幕は冒頭から息もつかせないほどの圧倒的なレベルで見るものを興奮させる。冒頭ではフローレスが再登場し、極めて美しいアリア「おお甘き炎よ」を歌うと、そこにもう一人のテノール、オズボーンが登場してディドナートを加えた三重唱へと続く。会場は興奮のるつぼと化すのはこのあたりだ。

第2場で国王はエレナの願いを聞き入れ、捉えられた反乱軍の人たち、すなわちエレナの父、マルコムらを解放する。しかも二人が結ばれることをも彼は許すのだ。そのさりげない、べたべたしたところのない展開は、このオペラの主題とも言うべき和解というものを嬉しいくらいにしみじみと味わわせてくれる。これほど感じのいい幕切れもない。最後にはエレナは超絶技巧を駆使してアリア「胸の思いは満ち溢れ」を歌うと舞台は最高潮に達する。炸裂する歌にぴたりと寄り添い、歌手たちとの見事な呼吸の溶け合いを可能にしたのは、ミケーレ・マリオッティの指揮の功績である。目立ち過ぎず、品のある舞台を作るポール・カランの演出と合わせ、この公演を類まれな成功に導いたと思われる。

2015年4月7日火曜日

ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」(2015年4月4日、東京文化会館)

昨年の秋、「ワルキューレ」のチケットを手に入れた時には、この4月に「指輪」の続きが1年ぶりに開催されるということが、ずっと後のことのように思っていた。ところが今年に入って、公私ともにめまぐるしく生活の変化が起きると、いつの間にか桜が咲いていた。春は出会いと別れの季節だが、今年の春ほどそのことを実感することはなかった。だからだろう。まったく昨年の同じような満開の上野公演で、丸で昨日に引き続くような感じで、何事もなかったかのように同じような人々による演奏が始まった時、私は感無量であった。思えば昨年、退院直後に重い体を引きずって出かけた「ラインの黄金」にしばし心を打たれ、私ははるか北欧の原始世界へ連れて行かれたように感じた。

そして今年。ジークムントとジークリンデが出会うそのシーンから、またもや私は音楽に釘付けとなった。東京文化会館の4階席で聞くNHK交響楽団のややデッドな響きには、ちょっと違和感も覚えた。歌手を考慮して音量を一定の振幅の中に抑えようとするようなマレク・ヤノフスキの指揮は、いつも理性が感情に勝っており、程よい緊張感を維持するものの早くてあっというまに通り過ぎてゆく高速道路の景色のようである。

だが不満と言えばそれだけであった。歌手の素晴らしさ、そしてそれを固唾をのんで聞き入る観客の、ワーグナーに対する熱い思い入れは、このまたとない公演を世界水準に押し上げていた。第一、バイロイト級の歌手が揃っているのだ。以下にその配役を記そうと思う。

ロバート・ディーン・スミス(T、ジークムント)、シム・インスン(Bs、フンディング)、エギリス・シリンス(Bs-Br、ヴォータン)、ワルトラウ ト・マイヤー(Ms、ジークリンデ)、キャサリン・フォスター(S、ブリュンヒルデ)、エリーザベト・クールマン(Ms、フリッカ) 、その他8人のワルキューレたち。ゲスト・コンサートマスターは昨年同様、ウィーン・フィルのライナー・キュッヘル氏。

ワルトラウト・マイヤーは往年の名歌手で、その名は数々の録音でも知られている。マイヤーがジークリンデを歌う、というだけで「凄い」と思った。それからヴォータンは、昨年の新国立劇場でアンフォルタスを歌ったエギリス・シリンスで、その時は他の歌手がまたあまりに素晴らしく、ちょっと目立たなかったようにも思ったのだが、いや今回のヴォータンの美しい歌声は、最後の幕で真価を発揮した。

シム・インスンのフンディングなどは登場箇所が少ないのが残念なくらいに上手かったし、それに何と言ってもフリッカを歌ったエリーザベト・クールマンの見事な歌いっぷりは、ヴォータンを罵り「正しい」愛の道を語る正妻の役にピッタリじゃなかったか。ぞくぞくするような歌い方である。

ブリュンヒルデのキャサリン・フォスターが登場すると、その大柄な体がいかにもワルキューレ風で、神々の長である父親を超えていく理知的な娘としての存在感は圧倒的に思えた。そうそう、勿論拍手はジークムントを歌ったロバート・ディーン・スミスにこそ盛大に送られた。いやこの辺の歌手はみな、もちろんすべて歌詞を暗記しているし、演じないのがちょっと残念でならない。演奏会形式というのはオーケストラが舞台に居座って歌手も歌に集中しているから、いい部分もある。でもドラマと音楽がもうちょっと融合してほしいのである。そのことが、どうしても、どうしても、惜しい。

ワーグナー随一の完成度を誇る第1幕が終わっただけで、会場は割れんばかりの拍手とブラボーに沸いた。こういうコンサートはちょっとない。この幕はそれだけでオペラを一作品見たくらいの長さと見ごたえがある。だがこれで三分の一である。興奮した観客は30分の休憩時間を、こみ上げる嬉しさをこらえながら過ごす。第2幕の、あの長いモノローグもこれは十分に楽しめる、そう思ったに違いない。そしてそれは実際にそうだったのだ。

前半のフリッカの怒りにも似たような歌い方で緊張感は途切れない。それどころか第2幕になって登場する歌手たちがみな、第1幕の3人にも勝るとも劣らぬ出来栄えだったのだから嬉しかろうはずがない。あっという間に第2幕が終わるのも不思議ではなかった。再び30分の休憩時間をワイン片手に過ごす。

舞台上部には昨年同様、映像が映し出された。第1幕ではさまよう森の中を、第2幕では荒れ地と崖の風景が、ほとんど変化することなく映し出される。いっそもう少しいろいろ写して、できれば照明効果ももう少し取り入れてもいいのに、と私は思ったのだが、できるだけ音楽そのものを邪魔しないように配慮して脇役に徹した感がある。特に第1幕でノートゥンクを抜くシーンなど、実際の舞台ではなかなか演出が難しいのだが、映像を交えればちょっとしたシーンになったんじゃないの、などと思ったりした。わかりにくかったのである。

それでも第3幕の最後で、ローゲが打ち放った炎が山の上から次第に降りてきて山全体を覆うところだけは非常に見ごたえがあった。その前にヴォータンとワルキューレは長い対話の末、別れを惜しむ親子の深い愛情に満たされてゆくのであるが、ここの、涙をそそらずにはいられないシーンは、もはや舞台を想像するしかない。そう考えれば抱擁のシーンなどで結構歌以外の要素にも私たち聴衆は見とれていたのだな、と気づく。だとしたら歌と音楽だけでこのシーンをやることの難しさというのもわかる。でも今日の公演は、シーンのないハンディを補うだけの歌唱力が充分であった。

ローゲの火が舞台を赤く染め、音楽が消え入るようにこだましたとき、私はめったにない感覚にとらわれた。舞台上のオーケストラと歌手がただ動かない映像のように、完全なものとしてそこにあるように感じられたのである。ずっとこのままでいてほしい、と思うのはこのような恍惚感に満たされる時である。そしておそらくそのことは会場に居合わせたすべての聴衆と楽団員にも共通したものだったに違いない。ほとんど奇跡的な音楽の情景がしばし続いた。それは永遠に続いてほしいと願わずにはいられなかった。だから音楽が鳴り止んだ時、大多数の聴衆は拍手をすることをためらった。

不遜にも若干、拍手をしかけた人がいたが、それは当然そうなるべきであるかのように、一旦鳴り止んだ。会場がまだ陶酔を楽しむべきであるという空気に支配されていたからである。そしてしばらくたって誰かが「ブラボー」と叫ぶと、今度は割れんばかりの拍手がとどろいた。幾度となく繰り返される「ブラボー」の中で、会場の多くがスタンディング状態で拍手を送り続けた。5時間以上が経過したあとでも、疲れはなかった。それどころか、春の夜の夢のように爽やかであった。

2015年4月1日水曜日

バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」(The MET Live in HD 2014-2015))

兄弟も両親も、さらには婚約者までも捨てて殺人魔の住む古い城に嫁いだ謎の女性ユディットは、執拗にも暗い闇の中で7つの扉を開けるようにと要求する。「愛しているから」とせがまれてしぶしぶその要求を一つずつ飲み、開けていくその扉の中には・・・。

「イオランタ」から一変、この不気味で異様なまでに陰湿なオペラを見ているうちに気分が悪くなったのであろう。METライブの上演中に席を立つ人が何人かいたのは、その対比があまりに残酷で耐えられないほどだったことを意味しているように思えた。だとすればこの二つの対立的な作品を続けて上演することを提案した演出家マリウシュ・トレリンスキという人の才気あふれる解釈は、見事のその効果を発揮したというべきかもしれない。

彼は幕間のインタビューで、この二つの作品の共通点について触れている。いずれも寓話のような作品ながら、一方では娘を溺愛する以上に監禁してしまう父親の心理を、他方では理由も定かでないながら不気味な男の心理に憑かれていく女性の心理を、まるでホラー映画のように仕立てることにしたというのである。指揮は同じくワレリー・ゲルギエフ。謎の女性ユディットにソプラノのナディア・ミカエル、青ひげ公にはバスのミハイル・ペトレンコ。緊張感を失わず一気にモノクロ世界の中に展開する光を印象的に表現する。

7つの扉の中に現れた光景を、私は何の予習もなしに見た。そしてそれらが人間の男性の深層心理を表していることに疑いはなかった。第1の扉は拷問部屋で、そこの壁は血だらけであった。第2の扉は武器庫で、その武器は血で染まっている。第3の扉の中には宝が戦利品の如く溢れる。勿論血のついた宝物である。

それにしてもこのようにしてまで男性の深層心理を知ろうとする女性は、どういう存在なのだろう。だが確かにそういう人はいる。丁度娘を所有して離さない父親がいるように(「イオランタ」の父レネ王のことである)。音楽は特に印象的な旋律があるわけでもなく、強烈な不協和音の連続で聞く人をも混乱させる。そして二人だけが常に登場する舞台で歌われる歌は、重苦しく時に劇的でもある。

第4の扉の中は秘密の花園で、やっと一息つけるかと思いきやその土には血が染み込んでいる。優しさにも犠牲が潜んでいるのだ。第5の扉。広大な領土。征服欲を表している。ユディットはここまで来ると、残る二つの扉も開けるようにと迫るのだ。青ひげ公は、自分を愛しているのなら扉をあけないようにと願う。そうしておけばよかったのだろう。だが彼女は開けてみたくてたまらず、とうとう彼女に根負けしてしまうのだ。

第6の扉の中には涙の湖があって、孤独で悲しい心の一面を覗いてしまった彼女は、いよいよ最後の扉をも開けるようにと迫る。青ひげ公は過去の女を次々と殺してきた。その噂をユディットは感づいていたからだ。音楽がどのようだったかはよく思い出せない。CDを持っていれば聞くところだが、持っていないし持っていてもあまり聞く気はしないだろう。でもこの文章を書きながら、機会があればもう一度見てみたいとも思った。

第7の扉を開けると3人の女が生きたまま現れ、そしてついにユディットもその中の一人になってしまう。彼女がどうなったかは語られない。そのまま消えてしまうのだ。彼女が最も美しい、と言う青ひげ公は「これで完全に闇の中」と言って城の生活に戻る。

1時間が非常に長く感じられた。この日の上演は聖バレンタインの日にあたり、このような公演を見たカップルはどうなるの、などとインタビューのジョイス・ディドナートは嘆く。「イオランタ」とともに深い人間心理に挑んだ二作品だったが、美しい旋律の「イオランタ」よりは「青ひげ公の城」のほうが何かずっしりと心に残っている。でもはやり歳をとると、こういう作品は見るのがつらいような気がする。ファンタジーの世界も一歩違えば恐ろしい側面を見せる、いや確信犯的に見せつけられた今日の上演だった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...