2020年10月29日木曜日

ベルリオーズ:「死者のための大ミサ曲」ト短調作品5(T: キース・イカイア=パーディ、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン他)

シャルル・ミュンシュに代表される熱狂的ベルリオーズ演奏の系譜を主流と見る人がいる一方で(我が国にはその傾向が強いし、もしかするとベルリオーズ自身もそう期待していたかも知れないが)、このフランス人作曲家を客観的に再評価し、その管弦楽曲をすべて演奏し録音したコリン・デイヴィスの演奏は、沈着冷静でバランスが良く、丸でお手本のような演奏ながらベルリオーズの魅力を伝えて止まない。デイヴィスの演奏を聞いていると、ベルリオーズが単に情動的な音楽の作り手ではなく、むしろ精緻で繊細な音が魅力の作曲家と思えてくる。この2つの傾向は対照的である。

そのデイヴィスのベルリオーズ録音の中で、どれがもっとも優れているか、というのは愚かな問いではあるが、経済的に制限のあるコレクターにとっては深刻な問題だった。2000年代になってデイヴィスは、ロンドン交響楽団と主要な作品を再録音している。だが一般的には、古い60年代から70年代にかけての演奏の方が、いまだ色あせることがなく新鮮である。新しいロンドン響との演奏には、古い演奏を超える魅力に乏しいように私には思える。

いまでこそ全集が超廉価ボックス・セットで投げ売りされ、YouTubeなどによって無料映像を無制限に見ることができる時代になったが、それまでは「レクイエム」などの、長大な作品に投資することは大変勇気のいることだった。にもかかわらず、気楽に安価に聴ける時代になった今の方が音楽に耳を傾けることが多いかと言えば、必ずしもそうではない。一体何人の人がベルリオーズの「レクイエム」を音楽配信サイトで聞いているのかはわからない。熱心な聞き手はむしろ、生の演奏会場へと足を運ぶ。たとえ何倍もの金額を払ったとしても、その方が得られる感動が大きいことを知っているからである。ただベルリオーズの「レクイエム」のような作品は、演奏される機会がそもそも少ない。それはこの曲の演奏が、時に1000人にも届くような人数を必要とするからだ。

当時としては桁違いに大規模な作品ではあるが、その中身は純粋にして静かな部分が多い。そのギャップもまた激しいのが本作品の特徴である。これは一方で高い録音技術を必要とする。オーディオ・ファンに好まれる作品である。演奏時間は90分に及ぶ(全10部)。テノール独唱と東西南北に配置された4つのバンダを含むオーケストラには、8台のティンパニも含まれる。合唱は混声6部で、場合によっては800人規模になるという。これだけの規模の作品は、ロマン派のワーグナーやマーラーの時代になって作曲されるに至ったのではなく、すでにベルリオーズによって実現されていた。1837年のことであった。ワーグナーがベルリオーズから影響を受け、それがマーラーに受け継がれた。

ベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」は、一般的なレクイエムの曲順とは異なっているのも特徴だ。劇的作品を数多く作曲したベルリオーズの自由奔放な創作意欲は、このような宗教的分野にも及んでいる。曲は通常通り「キリエ」で始まるが、その後は「ディレス・イレ」。「ベネディクトゥス」が登場しない一方で「サンクトゥス」が随所に現れる、といった具合。堅苦しいことは考えず、純音楽的に楽しむというのがこの作品に対するアプローチの一つの方法だろう。できればゆったりと時間の流れる静かな空間がある時に、ひとり静かに耳を傾けてみたい。そんな時間は私の場合、すでになくなって久しいが、幸いデバイスの進化のおかげで、家族とは離れることのできる早朝か夜間の散歩時に、少しずつ聞き進めることができる。

10月になってようやく秋めいて来たこの時期。さわやかな風が吹き抜けていく都会の朝に、私はこの曲を持っていった。冒頭の「レクイエム」の静かな合唱が厳かに流れてくると、丸で吟醸酒を飲んでいるかのような陶酔感が全身を覆った。現代社会に生きる我々でも、一度このようなメロディーを聞くと雑事を忘れ、心が落ち着いてくるのが自覚できる。静寂のうちに10分を超える清々しい時間が過ぎてゆく。

次の「怒りの日」で早くもクライマックスを迎える。四角に設えられたバンダとともに、8台ものティンパニが金管和音と共に鳴り響く。凄まじいまでの音楽的立体効果は、優秀なレコーディング・エンジニアを悩ませてきたことだろう。ここの録音を、他の部分とどう対照づけるかが、ひとつの聞きどころではある。この曲のクライマックスが前半に置かれていることによって、この曲を最初に聞いた時には何か煮え切らないものが残ったような気がした。だがそれも最初だけである。なぜならベルリオーズの真骨頂は、後半の静かな部分にこそたっぷりと用意されているからだ。

続く第3曲あたりからは、静かな部分と派手な部分が交互に現れる。比較的短い第3曲「クィド・スム・ミセル(そのとき憐れなる我)」のあと、管弦楽主体の部分(第4曲「レクス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)」)や、逆に合唱のみの部分(第5曲「クェレンス・メ(我を探し求め)」)が続く。このあたりは、実際の演奏で聞いてみたい。それぞれの楽章の色付けの違いや、聞こえてくる音の多彩さを実感すると思うからだ。

続く第6曲「ラクリモサ(涙の日)」は、今一つのクライマックスと言える。再び四角のブラスバンドと合唱が、「最後の審判」を描く。大音量が鳴り響くときでさえ、ベルリオーズの音楽は純粋で透明感を失わない。そのあたりが情動的でありながら天国的な美しさを併せ持つという、独特の離れ業とも言うべきものの実体である。

各楽章が10分程度とたっぷりなのも嬉しいが、第7曲「ドミネ・イエズ(主イエス・キリストよ)」は再び管弦楽主体の部分で、しかも極めてロマンチック。ベルリオーズの音楽の魅力を簡単に言えば、フランス風バロックの手法を残しながらも、ロマンチックなことだと気付く。以降の音楽で、もはや大音量の効果は登場しない。精緻で純音楽的な魅力こそが、この大規模な曲の真骨頂なのだと気付かされてゆく。

第9曲「サンクトゥス(聖なるかな)」で活躍するのは、テノールの独唱である。天国的に美しい天使の歌声は、できれば少年合唱で聞きたいと思うのだが、これを採用しているのはコリン・デイヴィスの古い録音である。そしていよいよ終曲「アニュス・デイ」では、冒頭の第1曲「レクイエム」のメロディーが再び登場する。まるで魔法にかかったかのように、心が洗われてゆく。90分にも及ぶ大曲は、静かに染み入るように終わる。ベルリオーズはこの曲をたった数ヶ月で作曲したが、その初演を依頼された政府からキャンセルされるという逸話が残っている。彼はそれでも諦めず、同じ年の暮れに初演にこぎつけた。生前、ベルリオーズは「もし自作で一つの作品を残すだけとするならば、《死者のためのミサ曲》を残してもらうだろう」と語ったという。

この大規模な曲を記録した演奏にはいくつかあるが、ベルリオーズの第1人者コリン・デイヴィスに関して、古いフィリップス録音の方が新しいLSO Live盤よりも、おしなべていいとすでに書いた。ところがこの「レクイエム」に関しては、いくつかのことがわかっている。まず古いフィリップスの録音は、かならずしも録音の観点で満足できるものではないということである。少し聞いてみれば、それはわかる。そこでフィリップスを退社したエンジニアが満を持してリリースしたのが、この録音のリマスター盤(Pentatone)である。Pentatoneは、リリースするすべてのディスクがSACD仕様となっている。どのようにして2chを5.1ch仕様に仕立て上げるのか、細かいことはわからない。しかも私はSACDの聞けるプレイヤーを持っていない。このことから、たとえこのディスクを入手したところで、聞くことができるのはCD層ということになってしまう。一方、LSO Live盤もまたSACDとのハイブリッド盤で、もしかするとSACDでならこの曲の持つ破格の広がりを捉えているのかも知れない。しかし上記の理由で、私はこの演奏も諦めるしかない。

ところがデイヴィスの「レクイエム」には、これらのほかのシュターツカペレ・ドレスデンとライブ収録したディスクが存在するのである。これは1994年2月のことで、ドレスデン爆撃戦没者追悼演奏会として極寒の中、演奏された。いわば特別な演奏会を収録したこのディスクは、静謐な部分でさえ何か熱いものを感じるもので、その様子が良く捉えられている。

一連のベルリオーズの作品を、コロナ禍で不自由な今年、順に聞いてきた。そのあとで感じるのは、この作曲家が持つ美しい調べと、限りない魅力を讃えているにもかかわらず、あまり評価されていないことである。私は特に、どんな作品でも実演で聞いてみたいと思った。「キリストの幼時」や「レクイエム」は、しなしながら演奏される機会が極めて少ない。新型コロナウィルスの蔓延によって変わってしまった世の中から演奏会が消えてしまった。一部は再開の動きも見られるが、小規模な音楽が中心である。大人数が大声で歌うベルリオーズの作品は、それが再びステージに上がるまで長い年月を要するに違いない。私は生きている間に、これらの作品に触れる機会は、もうないだろうと思う。いや今年は、ベートーヴェンの記念の年であるにもかかわらず、あのお祭り騒ぎのような「第九」もすべて流れてしまったようだ。

【収録情報】
第1曲 入祭唱とキリエ
第2曲 ディエス・イレ(怒りの日)
第3曲 クィド・スム・ミセル(そのとき憐れなる我)
第4曲 レクス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)
第5曲 クェレンス・メ(我を探し求め)
第6曲 ラクリモサ(涙の日)
第7曲 ドミネ・イエズ(主イエス・キリストよ)
第8曲 ホスティアス(賛美の生贄)
第9曲 サンクトゥス(聖なるかな)
第10曲 アニュス・デイ

キース・イカイア=パーディ(T)
ドレスデン国立歌劇場合唱団
ジンフォニーコール・ドレスデン
ジングアカデミー・ドレスデン
シュターツカペレ・ドレスデン
コリン・デイヴィス(指揮)

2020年10月20日火曜日

サルスエラ名曲集(イーゴリ・マルケヴィチ指揮スペイン放送交響楽団)

ロシア生まれの巨匠、イーゴリ・マルケヴィチは、1960年代にスペイン、マドリッドにある国立放送局(RTVE)のオーケストラを指揮していたことは、あまり知られていない。この頃スペインは独裁政権の時代である。そして、そのような中で、スペインの民族舞台劇であるサルスエラの名曲集をフィリップスに録音している。このような珍しいCDは、掘り出し物の類であろう。私は池袋のHMVに毎週のように出かけては、数枚のCDを買うという生活を繰り返していた時期があるが、ある日このCDが目に留まり、サルスエラとは何かもしらないままレジへ向かったのを覚えている。

サルスエラとは、スペイン語によるオペレッタのような音楽劇で、様々な歌や踊りが入れ替わり立ち代わり登場する賑やかなもの。そのごちゃまぜな様子は魚介スープ「サルスエラ」にも転用されている。あの名歌手プラシド・ドミンゴは、両親がサルスエラの歌手だったこともあり、サルスエラに対する思いはことのほか強いようだ。「サルスエラのロマンス」という歌曲集もリリースしている。また「三角帽子」や「恋は魔術師」で有名なファリャも、若い頃はサルスエラの作曲をしていたようだ。

そのサルスエラの名曲集を、マルケヴィチが演奏しているというのが面白い。マルケヴィチと言えば、我がNHK交響楽団を指揮していた頃の晩年の姿が目に浮かぶ。「展覧会の絵」や「悲愴」などの映像を見ると、ロシアの大地を思わせるような動じない指揮ぶりは、丸で剛速球を投げ込む投手のような感じで、CDで聞く「春の祭典」のハイ・テンションな「爆演」はあたかも戦車が行くがごとくであった。

このCDに収録されているのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家の、12種類のサルスエラである。情熱的な指揮、そして音楽は、冒頭からトランペットが鳴り響くことで始まる。カスタネットやトライアングルなどの打楽器も混じり、全編これスペインの音楽を満喫させてくれる。終始ブンチャ・ブンチャのリズムが続く。アリアや合唱が入る曲もあるが、どちらかというと管弦楽が主体の場面が多い。例えば、有名なペネーリャの「山猫」からは、舞踊音楽「パソドブレ」が取り上げられている。

闘牛とフラメンコ。このいずれにも実際には接したことはないのだが、その光景が目に浮かぶようである。マドリッドを始めとするスペイン各地の大変有名な曲ばかりを集めているようだが、詳細はよくわからない。そこでいろいろ検索していると、東京に日本サルスエラ協会(Asociación de la Zarzuela de Japón)というのがあることがわかった。何と東京で、日本人により、有名なサルスエラの舞台を制作、上演しているようなのである。だから私かここに下手くそな解説を書くよりも、専門家に任せようと思う。サルスエラの魅力について、ホームページに詳しく書かれている(https://www.zarzuelajp.com/)。

この珍しいCDは、サルスエラとはどういう音楽か、ということを知る手掛かりとなることに加え、それをロシアの巨匠が大変生々しく指揮しているという風変わりな魅力に溢れた一枚である。1967年の録音。


【収録曲】(ジャケット裏面を参照)
1. ビーベス: サルスエラ「ドニャ・フランシスキータ」より
2. ヒメネス: サルスエラ「早咲きの娘」より
3. ヒメネス: サルスエラ「ルイス・アロンソの踊りの宴」より
4. ブレトン: サルスエラ「ラ・パロマの夜祭」より「セギディージャ」ほか
5. ルーナ: サルスエラ「ユダヤの子」より「インドの踊り」ほか
6. ペネーリャ: サルスエラ「山猫」より「パソドブレ」
7. アロンソ: サルスエラ「ラ・カレセーラ」より
8. チャピ: サルスエラ「榴弾隊の鼓手」より
9. チャピ: サルスエラ「人さわがせな女」より
10. チュエカ: サルスエラ「水、カルメラ、焼酎」より
11. バルビエリ: サルスエラ「ラバピエスの理髪師」より
12. カバリェーロ: サルスエラ「巨人と大頭」より

2020年10月19日月曜日

サラサーテ:「ツィゴイネルワイゼン」他(Vn: ユリア・フィッシャー、P: ミラナ・チェルニャフスカ)

 スペインの名ヴァイオリニスト、パブロ・デ・サラサーテが作曲した名曲「ツィゴイネルワイゼン」とは、「ジプシーの旋律」という意味である。タイトルがドイツ語なので、どこか中欧の雰囲気のする曲だと勘違いしていたが、これはれっきとしたスペインの曲、ということになる。サラサーテは、自らが学んだパリのほか、ヨーロッパ各地を旅してヴァイオリンの演奏を披露した。従って、ヴァイオリンの技巧を凝らした曲ばかりである。

「ツィゴイネルワイゼン」は、確か中学校の音楽の教科書で取り上げられていたから、私は音楽の授業時間に聞いた。ここでの演奏は、オリジナルの管弦楽を伴奏にしたものだった。私はキーキーとなるヴァイオリンの音が当時は苦手で、特に中間部などはそのゆるゆるした部分が長く続くので、あまり楽しめないと思っていた。ところが母が、この曲のレコードを聞きたいと言い出した。我が家には当時、「ツィゴイネルワイゼン」のレコードがなかったのである。

私は大阪のニュータウンに住んでいたが、近所の駅にあるレコード屋に出かけた。もっとも畳2畳ほどの狭い店である。そこにクラシックのレコードなど数える程しか置かれていない。けれども一枚一枚探してみると、ドーナツ盤の中に「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを発見した。これは当然45回転である。そしてその演奏は、誰のものだったかは忘れたが、ピアノを伴奏にしたものだった。そして中間部の退屈さは、管弦楽版以上だった。大阪では吉本新喜劇にも「ツィゴイネルワイゼン」は使われているから、それなりに有名だったのだろう?

この時の記憶があるからだろうか、私は「ツィゴイネルワイゼン」を聞くと、昭和の初期の喫茶店などで蓄音機から流れてくる、ノイズ混じりの演奏を想起してしまう。特に長い中間部のゆったりとした旋律は、セピア色の背景に揺れ動き、時にノイズに埋もれるような噛みしめるような静かな演奏。その演奏はピアノをバックにしたものがいい。というわけで、私もこの曲は、ピアノ伴奏版の中から選ぶことにした。もちろん管弦楽版では、あのムターの立派な演奏や、パールマンの素晴らしい名演奏などが目白押しである。

そのような中で、ユリア・フィッシャーが2014年にリリースした一枚が目に留まった。このCDは、珍しい曲を含めサラサーテの曲ばかりが収められている。そのような中で私は「バスク奇想曲」や「アンダルシアのセレナード」といった曲を聞いてみたいと思ったからだ。特にバスク地方を題材にした作品は、あまり記憶にないことから大変興味深い。サラサーテ自身、バスク人だということからだろうか。

このCDには「スペイン舞曲集」という全8曲から成る代表作が収録されている。様々な地方の様々な音楽を用いた作品で興味深い。いすれもヴァイオリンの技術を駆使した作品である。このCDの収録順は変わっていて、このスペイン舞曲の第7番、第8番が先頭である。そして「アラゴンのホタ」、「アンダルシアのセレナード」と続くのだが、この曲順がなかなかいいと思う。第8番のスペイン舞曲「ハバネラ」は、どこかで聞いたことがあるような気がした。「アンダルシアのセレナード」は、静かな曲かと思いきや、リズムの変化の激しい曲である。全体に何か懐かしいムードがあって、ヴァイオリンによるスペイン紀行といった感じである。

一方「ナイチンゲールの歌」はロマンチックな少し変わった作品で、この曲が丁度真ん中に収められている。後半はスペイン舞曲に戻るが、ここからは一気に最後までさわやかな演奏が続く。中でも第5番「プラジェーラ(哀しみ)」で物思いに沈んだあと、第6番「サパテアード」で一気に駆け抜ける爽快な気分は、聞けば聞くほど味わい深い。だがダウンロードやストリーミング配信が中心となった現在、かつてのような曲の収録順は、さして意味を持たないものになってしまったのは、ちょっと残念ではある。

フィッシャーの演奏は、サラサーテについて私がいつも想像する、古色蒼然とするセピア色の演奏からはかけ離れた、完全に現代のフレッシュな演奏である。彼女の驚くべき技巧が、そのように感じさせてくれる。「ツィゴイネルワイゼン」などはそれゆえに、若干思い外れのような部分がないわけではない。洗練され過ぎているとでも言おうか。だがそれも、彼女の類稀な技巧ゆえのことなのだろうと思う。

管弦楽版の演奏は、アンネ・ゾフィー・ムターの演奏とパールマンによるものが優れていると思う。特に後者は、この曲の持つムードをよく表現している。サラサーテの名曲「カルメン幻想曲」は、ビゼーの作品を元にした曲だが、アンコール・ピースとして有名である。やはりムターの演奏が、ウィーン・フィルというゴージャスなバックを得て非の打ち所がない。


【収録曲】(曲順は入れ替え)
1. スペイン舞曲集
  第1曲: マラゲーニャ
  第2曲: ハバネラ
  第3曲: アンダルシアのロマンス
  第4曲: ナバラのホタ
  第5曲: プラジェーラ(哀しみ)
  第6曲: サパテアード
  第7曲: エル・ビト
  第8曲: ハバネラ
2. 「アラゴンのホタ」作品27
3. 「アンダルシアのセレナード」作品28
4. 「ナイチンゲールの歌」作品29
5. 「バスク奇想曲」作品24
6. 「ツィゴイネルワイゼン」作品20

2020年10月13日火曜日

ファリャ:バレエ音楽「恋は魔術師」(カンタオーラ: マリーナ・エレディア、パブロ・エラス=カサド指揮マーラー室内管弦楽団)

 ファリャの「三角帽子」と並ぶもう一つの名作が、「恋は魔術師」である。演奏時間は25分程度と「三角帽子」に比べると少し短いが、より鮮烈な印象を残す名曲と言える。「三角帽子」と同様、女声の独唱が取り入れられているが、これは主人公のジプシー娘である。

私は「恋は魔術師」の中で踊られる「火祭りの踊り」を、クラシック音楽を聞き始めた最初の頃(つまり小学生の低学年の頃)に聞いた。モーツァルトやウィンナ・ワルツのような、いわゆる上品な作品とは異なって、何やら不気味な音楽が異質に聞こえ、あまり好きにはなれなかった記憶がある。だが印象には残った。

火を扱った描写音楽として、この「火祭りの踊り」は傑出したものであろう。そして火を祭るという、どこか異教徒めいているのが面白いところで、やはりスペインはイスラムの影響を受けた国だということを思い起こさせる。もっとも我が国には火を祀る伝統もあって、土着的で原始的な雰囲気がそこにはある。

「恋は魔術師」を全編聞いたのは、しなしながら比較的最近になってのことだった。「三角帽子」の後に収録されているディスクが多いから、この2つの作品はセットである。そしてアンセルメの歴史的名盤を取り上げたあとになって、私は「恋は魔術師」をもっとも最近の演奏から選ぼうとした。その結果、スペイン生まれの指揮者、パブロ・エラス=カサドが指揮するマーラー室内管弦楽団の演奏に出会った。聞いた瞬間、これだと思った。

わざわざ最新の演奏から名演奏を選ぼうとしなくても、この演奏はおそらくアンセルメ以来の代表的な演奏になるだろうと思われる。新古典的なラディカルさを持って耳に迫って来るリズムも情熱的で、それを最新の録音技術が良く捉えている。さらには起用された女性歌手が、フラメンコの歌い手だと知った時、この演奏がもたらす独特のムードの秘密がわかった。

マリーナ・エレディアという歌手(カンタオーラというらしい)が地声のような声で歌う箇所は、3か所ある。まず「悩ましい恋の歌」では、激しく刻まれたアンサンブルに乗って、叫びのような声が披露される。こういう歌を聞いていると中世の世俗音楽が、そのまま20世紀に残っているように思う。「恐怖の踊り」と「火祭りの踊り」を挟んで再び飾らない声が響くのは「きつね火の踊り」である。

「きつね火」とは何だろうか?この機会に調べて見ると、これは我が国で伝わる怪火のことで、火の気のないところに漂う不気味な火のことだとわかった。これはつまり、人魂のことではないだろうか。だがスペインに「きつね火」があるのだろうか?そこで原題を調べると「fuego fatuo」とある。これをスペイン語の辞書で調べて見ると、山野にともる不気味な青い炎の画像が沢山検索された。我が国であれスペインであれ、鬼火、人魂、あるいは死体などから発生する不可解な炎に関する伝承はあるようなのである。

「恋は魔術師」を聞いて感心するのは、ピアノがオーケストラの楽器と完全に同化して、実に効果的に使われていることだと思う。通常、オーケストラの中にピアノが混じると、協奏曲とはいかないまでも独奏主体の部分が目立ちがちである。しかしこの曲ではそういうことはなく、しかもオーケストラの中に埋没してもいない。

後半は静かな部分が続くが、これも幻想的である。そして簡素な終曲を迎える。亡霊を扱った作品に、魔術や呪術が登場し、音楽的な情景描写も極まった感がある優れた作品だと思った。2019年のリリース(ハルモニア・ムンディ)。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...