2018年2月24日土曜日

NHK交響楽団第1879回定期公演(2018年2月10日、NHKホール)

マーラーの交響曲第7番は何度聞いても、作曲者のアイロニーが炸裂している、と思う。ゆるやかで沈痛な表情を持つ第1楽章を聞けば、これはやはりあのマーラーの、闇深く孤独で死の淵を彷徨うような表情、神経質で完璧主義、起伏のある精神状態と子をも失う悲劇に見舞われた極限の悲しさ・・・そのようなものが反映されているのだと思うだろう。

だって副題に「夜の歌」などとなっており、「亡き子を偲ぶ歌」や「悲劇的」な第6番を経てマーラーは、とうとう気が狂ったのではないか、というわけだ。しかも主題はホ短調。チャイコフスキーが第5交響曲を書いた調性である。

聞き進むと、その思いは一層強くなる。第2楽章の夜の闇、第3楽章に至ってはグロテスクなスケルツォで、「優雅に踊る男女の姿は」やがて「魑魅魍魎が跋扈する光景に置き換えられる」(公演のブックレットより)。

だが本当にそうだろうか?ちょっと冷静に考えてみると、第4楽章あたりから雰囲気が変わって来る。「セレナーデ」と題された夜の音楽は、珍しいマンドリンの音色に合わせて室内楽的な精緻さと、優美な表情を併せ持つ音楽に変化している。

この思いは第5楽章の気違いじみた狂乱の音楽で確信に変わる。これはもしかしたら、マーラーが書いたおそらく唯一の楽天的な音楽ではないか?そう考えるとこの曲がわかってくるような気がする。絶頂期にあったマーラーが、短期間のうちに仕上げた第7番は、10曲ほどある交響曲のなかでも、異彩を放っている。聞き手を翻弄し、混乱させ、それがパロディだと気付くまで、少々時間がかかる。第6番から第8番に至る一連の作品は、マーラーの個人的な3つの悲劇とは真逆の、音楽的には極めて充実した作品群である。

この時期のマーラーは、少なくとも音楽家としては絶頂期にあった。一リスナーとして想像すると、やはり年齢を重ねることで、自信がついてきたのだろう、などと下世話なことを考えてしまう。だがそうでもしないかぎり、この第7番は理解しづらい。

NHK交響楽団が2月の定期公演でこの曲を取り上げるとわかったのは数日前であった。首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィのマーラーとなれば、これを聞かない手はない。私はここ半月ほど、心理的には腑抜けの状態になっていて、何か新しいことをする気になれない状態が続いていた。それは仕事上のいざこざが極限に達し、新しい担当を約束されながらも、公にはそのことが明確されないもどかしさに起因しているのは明白であった。お正月から年度末までのシーズンは、新しい生活に生まれ変わる不安定な移行の時期で、それはまた別れ、そして出会いのシーズンでもある。

私はこの曲に関する3つの個人的エピソードを交えながら、何をしたらいいのかわからない、やや混乱したの状況にあるときに聞くには丁度良いと以前に書いた。数年に一度あるかないかのような、このような状況が、再び私を襲っていた。 まだ寒い2月の陽気の中で、私は「夜の歌」がまさに相応しい曲に思えてきた。そうなったら聞くしかない。しかも今回は奮発してS席を確保。2階席の前の方で、久しぶりのコンサートを味わった。

定期公演の解説書にはヤルヴィ自信が次のように書いている。「私自身、当初『夜の歌』を分かりにくいと感じていました。しかし、風変わりで意外性に満ちたこの曲に整合性を求めることをやめ、音楽そのものに耳を傾けた途端、作品が自然と語りかけてくれるようになりました。」これはまさに私が経験してきたことと同じである。そして余裕を持ってこの曲を聞くと、もしかしたらそれこそがマーラーの皮肉を込めた現代社会への思いだったのではないかと思えてきたのである。

ヤルヴィとNHK交響楽団によるこの日の演奏は、唖然とするような見事さで一気にこの曲を弾き切った。テンポは総じて速く、第1楽章ではやや緊張感が見られたが、引き締まった筋肉質の音楽が姿を現すと、夜のセレナーデから饗宴の終楽章まで興奮の坩堝と化した。数年前、デイヴィッド・ジンマンによる指揮でN響の本作品を聞いたが、その時とは圧倒的に違う指揮者とオーケストラの信頼関係に根差した表現が、聞き手を心の底から圧倒した。捉えにくい曲が、ひとつの完成された曲として鳴っていた。

NHKホールにヤルヴィが登場して何年かがたったが、NHK交響楽団は最近特に素晴らしい演奏をする。ヤルヴィの第8番「一千人の交響曲」が演奏されたら聞きに行こうと思っていたが、これはもうすでに終わっていたようである。そして次週のフォーレ「レクエム」などは売り切れとなっている。むべなるかな、と感心した一夜。興奮冷めやらぬまま渋谷駅へと向かう聴衆の列に、再び冬の風が吹きつけて来た。


2018年2月15日木曜日

武満徹:ギター曲集(G: 鈴木大介)

大きな山場を越えた後の、安堵感とも喪失感ともつかない茫然とした日々を過ごしている。それまで続けてきた習慣をやめるわけにもいかず、毎日寒い夜道を散歩する傍ら、いつものように音楽を聞いている。ここ数日聞いているのは、特に何かのこだわりで選んだわけではないが、たまたまWalkmanに入れて持ち歩いていて、どういうわけかこれまで聞くことのなかった曲などである。そして今日は、その中から武満徹のギター独奏曲集ということになった。

武満の音楽を聞いて思うのは、どうしても日本的なるものの様式、あるいは情景である。例えば、少し積もった雪が風で飛ばされ、残った部分に模様ができる。その動と静の感覚。あるいは木々の梢が風に揺れ、規則的ではない規則とでもいうような動き。そこに出来るリズムやメロディーは、自然に崩れつつも、また別の形を偶然つくり、美的で繊細な平衡を保つ。俳句、草書、枯山水。どれも自然に逆らわず、かといって整合するのでもない。いわば自然の中での調合。そんな感覚を音楽で追及したのではないか、ということだ。

「ギターのための12の歌」をまず聞くと、そこには慣れ親しんだポピュラーな曲が、ギターの静かな音に編曲されて「鳴っている」。「ロンドンデリーの歌」、「オーバー・ザ・レインボー」、「サマータイム」といった欧米の曲に続いて「早春賦」が現れるかと思いきや「ヘイ・ジュード」、「イエスタデー」のようなビートルズ・ナンバーまでが登場する。脈略はないが、どの曲もメロディーが途切れる。メロディーの途切れは、西洋音楽に親しんだ聞き手を裏切る。だが、ここに提示されているのは、音の持つより根源的な感覚である。

形而上的に日本文化を論じるのは学者に任せておこう。このCDには、家族が寝静まった深夜に、ひとり聞く音楽に相応しい何かがある。すべてから解放されて自由になれる時間は、聞き手に無限の楽しみを与えてくれる。だから「時々、むしょうに武満徹の音楽を聴きたくなる。その強い気持ちは、ちょうど都会生活に疲れて、森や海に行きたくなる衝動に似ている」のだ(細川俊夫、CD解説書より)。私がここ数日、武満徹のギター曲を聞いている理由が、まさにそのように解説されているのを読んで、妙に納得してしまった。

収録されている最初の曲「森の中で」は、北米の各地の名前が付けられている。だがここでもやはり、静と動、陽と陰、といったものを感じてしまう。いやそういうのはよそう。都会生まれ、都会育ちの私にとって、すぐに思い浮かぶ「森」の情景は、旅行時のものくらいしかない。例えば、沖縄の国頭村。3月に出かけたとき、もう初夏の陽気の中で飲んだコーヒーが忘れられない。

この「森の中で」は、収録された中では最後の作品で、その最初の曲の初演が何と1996年2月29日となている。この日は武満の死亡した日ではなかっただろうか?そう思ったのは、まさにこの日、私は当時住んでいたニューヨークで小澤征爾の指揮するウィーン・フィルの公演を聞いたからだ。直前に友人の訃報に接した小澤は、聴衆に断ったうえでバッハの「G線上のアリア」を指揮した。プログラムになかったこの演奏は、指揮者の希望で拍手を断り、長い黙とうが捧げられた。直後に演奏されたマーラーの「復活」は、大変な名演奏であった。

解説書によれば、武満はギターをこよなく愛した作曲家で、生涯にわたってギター音楽を作り続けた。このCDに収められた作品を辿ることで、武満の音楽の「深い源泉」に触れることができる。それは、構造化され発展する音楽とは対極にある、不規則で断片的な音の不安定な重なり、その中から紡ぎだされる直感的なかさなりリズムと時間進行を持つ独特のハーモニーである。


【収録曲】
1. 森のなかで
2. ギターのための12の歌
3. フォリオス
4. 不良少年
5. ヒロシマという名の少年
6. エキノクス
7. すべては薄明の中で
8. ラスト・ワルツ

2018年2月4日日曜日

ジュリアーニ:ギター協奏曲第1番ハ長調作品30、第3番ヘ長調作品70(G:ペペ・ロメロ、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

今年は1月末から特に寒い日が続いていて、関東地方でも凍てつく寒さである。毎日朝の気温は氷点下となり、おまけに20センチもの大雪が降った。半世紀ぶりの低温記録は2月に入っても続き、1日にはまたもや雪が降り出す始末。この悪天候の中、受験生を抱える我が家では連日早朝から、試験、帰宅、合格発表という緊張した毎日が続いていた。

けれども耐えに耐え、ひたすら信じ続ける丸で闘病生活のような日々にも、ようやく一つの光が見え始めたのは、天候が少し回復した3日のことだった。まだ気温は低く空も曇ってはいたが、薄日が差し、風も少し穏やかだ。道端に残った雪の塊も、もう2週間もの間溶けずに固まっているが、それでも少しずつは小さくなっているように思える。

気が付けば節分、そして立春である。朝久しぶりに音楽を聞きながら、運河沿いの街を散歩した。雲の合間から差し込む白い光が水面に反射し、その上をカルガモが散らばってのんびりと浮かんでいる。風の強い夜などは、身動き一つしないで縮こまっているのとはずいぶん違う光景だ。まだ吹く風は寒いが、何かゆったりとした光景に、この寒さも峠を越えた感がある。

ウィークマンでたまたまジュリアーニのギター協奏曲第1番を聞いていた。伸びやかな伴奏と古典派の形式に合わせて進むギターのコードが、吹く風と合わさって心地よい。第1楽章のアレグロ・マエストーゾに合わせ歩みを進めながら、今年の冬を振り返っていた。例年にない寒さも、よっやくここにきて春の香りがかすかに感じられるのではないか。それに合うような、穏やかで落ち着いた曲である。

第2楽章のシチリアーノは、後年のレスピーギが書いた「リュートのための古風なアリア」を思わせるが、あのような憂愁を帯びた感じはなく、あくまで古典的である。そして第3楽章はうきうきとしたポロネーズとなっている。

マウロ・ジュリアーニはベートーヴェンと同じ時代に活躍したギターの名手であり作曲家である。 ナポリ生まれだがウィーンで活躍し、いまでは3つのギター協奏曲が知られている。リュートの流れを組むギターは、せいぜいこの時代までは協奏曲にも使われたが、音楽の規模が大きくなるにつれて、オーケストラとの競演の舞台からは姿を消していった。ギター協奏曲は、私も長年、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」を除けば、ヴィヴァルディの珍しい作品くらいしか思い浮かばなかった。

ギター協奏曲第3番は規模もやや大きく、いろいろ聞きどころの多い曲である。第1楽章はなぜかブラームスのハンガリー舞曲第7番などを思い出す。少しおかしみを込めたような表現は、独奏楽器が登場するまでの間、一通り主題を奏でる。ティンパニの堂々とした響きが奏でる壮大な部分と、室内楽的に精緻な部分がミックスするギター協奏曲の面白さが体験できる。

第2楽章はモーツァルトのピアノ・ソナタK311を思わせる旋律に驚くが、考えてみるとモーツァルトもジュリアーニも、同じ時期にイタリアとウィーンを行き来しながら活躍した作曲家である。そして第3楽章もどこかで聞いたことのあるような音楽で、親しみやすい旋律が続く。ポロネーズ。

ヘンデルやモーツァルトのようにドイツの作曲家がイタリアで音楽を学び、同時にイタリア生まれのロッシーニなどがウィーンで活躍した時代。ウィーン古典派がその隆盛を誇る19世紀の初頭の音楽は、私の場合、春を待つこの時期に聞きたくなる音楽でもある。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...