2012年12月26日水曜日

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第3番変ホ長調(P:ペテル・ヤブロンスキー、シャルル・デュトワ指揮フィルハーモニー管弦楽団)

珍しいチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番が何とか聞ける程度にまで聞き込んだ後でさえ、この第3番はさらに根気がいる。長いことに加えて、3つの楽章にまとまりがなく、全体としては散漫で、何となく「ピアノ付きの交響組曲」といった感じだからである。それもそのはずで、チャイコフスキー自身がすべてを作曲したのは第1楽章のみで、残りの2つの楽章は友人であるタネーエフによって、彼の死後に完成されたものである、とのことである。

チャイコフスキーの意志と、音楽的スケッチをベースにしているとはいえ、別の作風の音楽が混じっていることは明らかである。そして第1楽章についてもチャイコフスキー自身、ピアノ協奏曲として作曲したわけでは、最初はなかった。彼は大変な苦闘に耐えながら、自身の作品を改善していった。にもかかわらず、この曲は成功しなかった。その理由について語るほど、私はチャイコフスキーについても、また音楽そのものについても詳しくない。

そのような素人でも、それだけで完全な交響詩のような第1楽章をきけば、もう十分であるように思う。それぐらいこの楽章は気合十分な曲である。もちろん第1番ほど印象的な主題があるわけではないので、聴き終わってもあまり心に残らない。随分派手な曲だなあ、などと思う。そしてこのデュトワを伴奏としたヤブロンスキーの演奏は、このような曲でも手を抜かずに一定の完成度で聞くことができる。

そういうわけだから、第2楽章以降の、あまり気乗りしない音楽についても、それなりに十分に響いているので、音楽そのものの良い点も悪い点も映し出すようなところがある。できればこれらの音楽は、単独で聞くのがいいのではないかとさえ思う。特に第2楽章の長大なカデンツァなどは、これがピアノ協奏曲の一部とはもはや思えないくらいだ。純粋にこれがチャイコフスキーの作品ではないのだから、もうこの曲は第1楽章だけでいいと諦めるのもひとつの考えである。そして実際いくつかの過去の演奏では、この第3番は第1楽章のみ録音されるケースがある。

チャイコフスキーはこの作品を交響曲第5番のあとに交響曲として着手したようだ。結局納得がいかず没となり、交響曲としては「悲愴」に至るのだが、そう考えるとチャイコフスキーは、特に晩年は何をどのように作曲して良いのかわからなかったようだ。彼はあまりにいい曲を、それまでに完成させてしまった。その過去の成功に苦しんでしまうこととなった。

2012年12月24日月曜日

ブリテン:「シンプル・シンフォニー」作品4(ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団)

シンプル・シンフォニー、すなわち「単純な交響曲」というタイトルのこの作品は作品番号が4番ということからもわかるように、ブリテンの初期の作品である。しかも1934年の初演の時からさらに10年以上も遡る習作ピアノ曲からの改編ということである。ブリテンは1913年生まれだから、十代の頃の作品ということになる。そのために、ブリテンの作風からすれば随分と違っている。

まずこの曲は弦楽合奏で演奏されることから、交響曲とはいうものの弦楽セレナーデのような趣きで、しかも第1楽章はメロディーがバロックを感じさせることから、この当時はやりの新古典派主義の傾向を示しているように思われる。とても素敵で私は自作自演で聞くこの演奏が好きである。

第2楽章はピチカートで、どことなく民謡風である。ブリテンの早熟ぶりを感じさせる。ピチカートの楽章と言えばチャイコフスキーの第4交響曲の第3楽章を思い出す。ここの楽章も軽快で、大変素晴らしい。

これまでと打って変わって第3楽章は随分と長い。けれどもセンチメンタルで哀しい感じがする美しいメロディーはなかなかのものだ。ブリテンも少年の頃はこのような曲も書いていたのだと思う。サラバンドとなっているが、シチリアーノと呼ばれる哀愁のこもった曲がレスピーギなどにあるのを連想するのは私だけだろうか。このあと、プレスティッシモ、すなわち急速な曲の第4楽章が続き、あっという間に終わる。

ブリテンはデッカに自作自演の録音を多数残している。これもそのひとつ。必ずしも自作自演が名演とは限らない中で、ブリテンの一連の演奏は長い間、決定的なものとされてきた。録音も良好でこの曲などは、これで十分であると思う。

2012年12月21日金曜日

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第2番ト長調作品44(P:ペテル・ヤブロンスキー、シャルル・デュトワ指揮フィルハーモニア管弦楽団)

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲がわざわざ「ホ短調」などというのは、ホ短調でないヴァイオリン協奏曲があるからだが、これと同様にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番がある以上、第2番、そして第3番というのが存在する。だがそれはほとんど演奏されることがなく、従ってあまり知られていない。私はただ1回だけ、実演で聞いたことがあるだけだった。

そもそもピアノ協奏曲というジャンルは、ベートーヴェンがあの「皇帝」で華々しい冒頭を作曲してから、どの作曲家にとってもインパクトのある出だしの腕の見せ所といった感じで、大変に力の入った曲が多い。その中でもとりわけ大成功したのはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ではないかと思う。想定外の長さを誇る序奏は、一度聞いたら忘れられないが、その序奏の後半がまた大変ダイナミックで、これを聞いただけで満足し、何度も何度もそこの部分だけを聞いていた中学生時代を思い出す。

その序奏の素晴らしさをそれだけで終わらせないところが、第1番のまたいいところである。第2楽章を経て第3楽章のコーダまで、ピアノの聞かせどころが続く。さて、第2番はどうか。音楽の長さは第1番に引けを取らない。けれども冒頭の平凡なメロディーは、何か気の抜けたシャンパンのように虚しい。それだけで、あのチャイコフスキーは手を抜いたのか、などと思ってしまう。それでこの曲は恐ろしく人気がない。第2主題以降は少し持ち直すのだが。長い第1楽章を聞き続けるのが少し億劫だが、それでも紛れもなくチャイコフスキーのメロディーである。

第2楽章に入るとチェロの独奏が続いて、これはピアノ協奏曲ではなかったの?と思い始める。チェロ協奏曲ではないかと思いきや次に登場するのはヴァイオリン独奏で、ピアノも絡むのでこれは「ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲」という感じだ。つまりピアノ・トリオの協奏曲の趣きである。ピアノはむしろ控えめでさえある。美しいメロディーで、ここの部分だけならいい曲だと思った。

第3楽章はそれなりに華やかで、長い曲はやっと終わるのだが、BGMのように聞く音楽としては悪くない。リストやラフマニノフの目立たないピアノ協奏曲に比べればむしろ好感の持てる曲も、やはり第1番の圧倒的な完成度に比べると分が悪い。これで演奏が平凡だと、ちょっとつらいかも知れない。私が聞いた実演は、チェルカスキーのピアノ、NHK交響楽団の伴奏で、なかなかの名演だった。今日聞いたCDはヤブロンスキーのピアノ。伴奏のデュトワは手を抜かない堅実な演奏で、この曲の魅力を知るには十分な演奏であると思う。

2012年12月20日木曜日

ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)

ブリテンがわずか26歳の頃に作曲した「シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」は、我が国と関係の深い曲である。戦前の大日本帝国政府によって委譲され、ブリテンはその楽譜を東京に送った。彼はそれで報酬をもらい、その音楽は皇紀2600年(1940年)の記念式典で演奏されるはずだった。だがそれはなされなかった。死者のためのミサ曲が、このような式典にふさわしくないというのがその理由だったようだ。ブリテンは落胆したが、彼はアメリカでの生活に困窮していた。

アメリカで友人ピアーズと生活をしていたのは、第二次世界大戦に突入していた本国イギリスにいると兵役を免れることができないためだったようだ。反戦主義者のブリテンは、本国に帰国することもできなくなっていた。だが、この曲に込められた内容は、当時の日本を結果的には皮肉ったことになる。戦後になってブリテンは日本を訪れ、この曲の日本初演をしている(NHK交響楽団)。彼の日本に対する思いはどのようなものだったのだろうか。

歌劇「ピーター・グライムズ」の上演時に購入した新国立劇場のブックレットに、彼の1956年の来日時のエピソードがわずかだが、綴られている。少し引用してみよう。

「日本の文化との出会いは、風習の違いから生じた多少の困惑とともに、作曲家の側にも大きな影響を与えることとなる。特に彼の琴線に触れたのは、『能』だった。(中略)それは『人生においてもっとも素晴らしい演劇体験のひとつ』となった。(中略)この体験は、後に『隅田川』を原作とする教会オペラ『カーリュー・リヴァー』(1964年)へと結実する。」

この文章は、むしろピアーズとの関係、あるいは彼の米国での創作活動に関するものである。しかしブリテンはここで、日本という国から新たな創作のヒントを得ることになったことは興味深い。

来年はブリテンの生誕100周年で、いろいろな催しも開催されると思われるが、その年を控えてブリテンの音楽を聴いてきた。このシンフォニア・ダ・レクイエムは、上記の経緯に触れないわけには行かず、日本人としては避けて通れない曲である。

サイモン・ラトルがバーミンガム市交響楽団と来日して、この曲を演奏したいるようだが(1987年)、この時に自筆譜を見たそうである。ラトルはこの当時から数多くの演奏を録音しているが、私はその2前年の1985年3月にラトルの演奏で「青少年のための管弦楽入門」を聞いている(フィルハーモニア管弦楽団)。 29歳のマエストロの演奏は、あっという間に終わってしまう演奏で、そのことだけが印象に残っている。

今回聞いたラトルのシンフォニア・ダ・レクイエムも1984年の録音で、真面目で迫力のある演奏。茶目っ気は全くないが、まさに正攻法の演奏は、イギリス音楽には効果的だ。

音楽は3つの部分(楽章)から成っているが、続けて演奏され、時間は20分程度である。タイトルの難しさに反して、若いブリテンの早熟ぶりが伺えると同時に、すでに作風は確立されていることに驚く。冒頭からティンパニが不吉な予感のする連打を始め、厳かに演奏が始まる。どこかドラマのシーンのようである。レクイエムである以上、ミサの一節からテーマが採用されている。ここはLacrimosa(涙の日)ということになっている。

音楽は続いて演奏されるが、楽章の切れ目は明確である。第2楽章は一転して馬が駆けるがごとくのリズムで、ブリテンらしい面白さに溢れている。「怒りの日」である。続く第3楽章は、透明な感じで始まり、ヴァイオリンが凍てつくような 雰囲気を出しているが、それもパッと明るくなって春のようなメロディーに変わり、静かに終わる。「久遠なる平和よ」

なお、このCDには続いてBBC第3放送テーマ用に作曲された楽しい曲「Occasional Overture」(何と訳せばいいのだろう)と、10分程度の親しみやすい「アメリカ序曲」、それにイギリス民謡による組曲「過ぎ去りし時」といった初期の管弦楽作品が収録されている。「過ぎ去りし時」はハープやタンブラン?のような小太鼓、それにバグパイプなどが出てきて実に面白い。ブリテンの作風はここではむしろ脇役となっているが、かと言ってこれは民謡そのものではむろんない。そのあたりの交わり具合が、とても興味深かった。

2012年12月9日日曜日

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23(P:ヴァン・クライバーン、キリル・コンドラシン指揮RCA交響楽団)

ここにもう一枚、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のディスクがある。アメリカ・テキサス出身の23歳の若者が、チャイコフスキー・コンクールで優勝して凱旋公演をした際の演奏で、録音は優勝の年1958年5月30日となっている。記録では4月にコンクールが開かれているようなので、まさにその直後ということになる。伴奏は後に亡命を果たすソビエトの若手キリル・コンドラシン指揮のRCA交響楽団である。

いまから半世紀以上も前の録音ながら、いわゆる「Living Stereoシリーズ」という名録音の復刻である。SACD層もあるハイブリッド・フォーマット。当然DSDによるリマスタリングである。聞いた感じでは古い録音ながら大変良く、CD層でもSACD層でもあまり変わらない感じである。ヴィヴィッドで新鮮、オーケストラの音色が古いステレオとは思えないのは大変好ましい。

さて私はここのところ、この曲ばかりを聞いている。今日も朝からチャイコフスキーのピアノ曲ばかりを立て続けに聞いていて、やや食傷気味ではある。それでも飽きないのは曲が素晴らしいからだろう。東京の空は寒く、晴れ渡っているが、風があって運河の波が太陽光に反射してとても綺麗である。南向きの部屋は窓を閉めているととてもあたたかく、暑くさえなってくるがそういう時には窓を少し開けると乾いた風が吹き込んできてとてもすがすがしい。それで遠くには東京湾なども眺められる。

再び窓を閉めてCDの音量を上げると、古風な響きが部屋を満たした。残響を少し押さえているから、オーケストラがパンと音を切り刻む。ピアノの若々しい響きは、オーケストラとうま合わさっていて、どちらかが不足ということもない。演奏だが、一躍有名になったアメリカ人が、コンクール時の時の指揮者コンドラシンと共に、手に汗握る競演を行う。クラシックで唯一ビルボードのチャート第1位にランクインした唯一の演奏ということだが、そこまで気合が入っていたという事実を含めても、歴史的な出来事として感じる。この時期、東西の冷戦は雪解けの時期だった。フルシチョフがアメリカを訪問するのは翌1959年である。

このコンクールは政治的に利用されたのだろうか。思えばクライバーンは、その後数年間は米国で数々の録音を残すが、その後足取りは聞こえなくなった。私が音楽を聴き始めた頃にはすでに、クライバーンとは「伝説のピアニスト」であった。舞台から消えたグールドのように。 最近では久しぶりに演奏に復帰したようだし、クライバーン国際ピアノコンクールというのも開かれているから、活躍はしているのだろう。けれども彼をしてコンクールの光と陰を論じる人は多い。そのクライバーンは、今年8月に末期がんであることを告白している。

そういうわけでこの演奏を聞きながらいろいろなことを考えた。この演奏が録音されたニューヨークのカーネギー・ホールは、そのこけら落としにロシアの作曲家を指揮者として招いた。それこそ当時51際のチャイコフスキーだった。

眩しかった太陽があっという間に西の空に消えていった。ビルの隙間に萌える丹沢方面をわずかに赤く染めたようだが、すぐに冬の雲に覆われてしまったようだ。2012年ももうすぐ暮れようとしている。

2012年12月8日土曜日

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23(P:マルタ・アリゲリッチ)

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴いていると、どうしても避けて通ることのできないディスクがある。それがマルタ・アルゲリッチによる3種類の演奏である。あまりに何度も聴いてきたし、これらのディスクについては多くのことが語られているので、わざわざ取り上げる必要はないのかも知れない。けれどもこういう機会でもなければ、まとめて聴く機会もそうはない。幸い手元には、メジャー・レーベルから発売されているこれらのCDが揃っている。そこで、意を決して聴き比べて見ることにした。

  1. 1970年録音。伴奏:シャルル・デュトワ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ・グラモフォン)
  2. 1980年録音。伴奏:キリル・コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団(フィリップス)
  3. 1994年録音。伴奏:クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ・グラモフォン)
さて、これらの演奏は基本的に似たような解釈と考えるべきである。ただ、演奏の印象は少しずつ異なる。それは指揮者の違いと演奏がライブであるかという点である。特に演奏の速さは、随分と違う。CDのカバーを順に転記してみる。
  1. 第1楽章:21:08、第2楽章:7:28、第3楽章:6:48
  2. 第1楽章:19:07、第2楽章:6:20、第3楽章:6:54 ライブ録音
  3. 第1楽章:19:12、第2楽章:6:30、第3楽章:6:18 ライブ録音
もっとも遅いのが、いちばん古いデュトワとの演奏で、後の2つは前半がほぼ同じタイミングなのに対し、アバド盤では特に第3楽章がさらに大幅に早くなっている。これはおどろくべきことで、あの「白熱のライブ」(コンドラシン盤)をはるかに上回るのである。Allegro con fuocoのfuocoとは、イタリア語で「火」のことである。これはまた「花火」あるいは「情熱」という意味なので、この第3楽章はなりふりかまわず弾くのが良い、とされる所以である。しかしあまりに速く弾くには、テクニックがついてこないという問題点が生じる。ピアノならピアニストの問題だが、オーケストラもまたしかりで、しかもそれが上手く合わさるかという問題がある。

アバド盤は、ベルリン・フィルの力を得て大変に充実しているが、これがベルリンのベストかと言われると難しい。しかも録音が少し大人しい(この組合せにしては)。

これに比べるとデュトワ盤は安全運転の演奏と思えてくる。この時期このふたりは新婚時代だったので、まだ火花は散らしておらず、夫は大変協力的である。私がこの演奏を好むのは、伴奏がもっともいいと思うからで、特に聞かせどころではじっくりとテンポを落とす。しかもピアノの部分はアルゲリッチのセンチメントに溢れている。

コンドラシン盤はLPレコードが消えてしまう直前に、高価なライブ盤として緊急発売されたのを聴いた記憶がある。その時の印象では、随分荒削りで落ち着きが無いと思ったが、それをかき消すようなライブの高揚感はピカイチであった。コンドラシンがこの時期に急逝してしまうこともあって、この演奏は幻のライブと言われた。だが今ではシャイーの伴奏によるラフマニノフの第3番とカップリグされて安く手に入る。今回久しぶりにに聞き直してみると、なかなかいい演奏に聞こえてくる。挑発されて押され気味に聞こえたコンドラシンの伴奏も、ミュンヘンのオーケストラの協力的な関わりもあって、直線的でロシア的。演奏後に熱狂的な拍手も収録されている。ただ放送用の録音のせいか、やや平べったい。

再びアバド盤。この演奏には何もいうことがないのかも知れない。ここではアルゲリッチのすべてが凝縮されている。好む好まざるにかかわらず、これは彼女のひとつの頂点の演奏である。全体を通して技巧的なシーンの連続で聴くものを驚かせる。だが何度も聴いていると、新鮮さが失われていくのも事実で、音楽はそもそもその場限りの芸術ではなかったか、と思えてくる。アバドの指揮がピタリと寄り添い、音楽的完成度も高いので、評論家ならイチオシかも知れない。

何度も聴く演奏としては、やはりデュトワにつきる。けれどもこのような大人しい演奏は、3つの演奏の中からわざわか選んで買い求めるディスクとしては、古さ故のマイナスを感じざるを得ない。アルゲリッチを聴くならもっと彼女らしい2種類のどちらかがいいだろうし、じっくり聴くなら他のピアニストでもいいのだ。

コンドラシン盤はこの2つの巨峰の間にあって、やや損をしている。だが、この演奏にしかない魅力のようなものもある。それはライブ特有の高揚感である。アバド盤もライブだが、ここには拍手は収録されていない。そしてアルゲリッチとアバドのコンビは、これほど見事な演奏をしておきながらどこか余裕を感じさせるのである。それほどにまで彼らの息は合っている。そのためか、何度も聞きたくならないのだ。



3つの演奏でどれが一番好きかと問われると、私は第一にデュトワ盤を挙げる。次がコンドラシン盤ということだろうか。だが、第3楽章の興奮を味わうにはアバド盤をを置いて他にないだろう。

なおデュトワ盤はアナログ録音である。そして手元にある1985年リリースのCDは、アナ ログによるリマスタリングという、今となっては大変珍しいフォーマット(つまり「AAD」)である。そのことで私はこのCDを貴重に持っている。カップリ ングがアバドとのプロコフィエフで、これがまた大変素晴らしい。一方、コンドラシン盤は前述のラフマニノフ。カップリングを考慮すると、どのディスクがい いか、また悩みが深くなる。

2012年12月6日木曜日

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23(P:ペテル・ヤブロンスキー、ペーター・マーグ指揮フィルハーモニア管弦楽団)

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をいろいろな演奏で聞いてみたくなった。まことにきっかけというのは突然やってくるもので、もうほとんど聞くことはあるまい、などと勝手に思っていた自分が信じられない。十何年ぶりかの聴き比べである。一度惚れ込んだ演奏も、今では記憶が薄い。かと言って同じ曲をそう何種類もの演奏で聞けるほどコレクションはない。できるだけ同じ曲は重複しないように集めて来たからだ。

御茶ノ水のディスクユニオンに行って、どんな演奏が売られているか探って見ることにした。勿論中古である。私は原則輸入盤しか買わないから、選択肢は限られる。お目当ての演奏がないことも多いが、意外な演奏に出会うことも結構あって、だからこの買い物はやめられない。さて曲が曲だけに、売られている演奏は数多あった。その中から、私も知らなかったペーター・ヤブロンスキーのデッカ盤が目に止まった。

指揮はペーター・マーグである。ということはこのふたりは祖父と孫ほどの年齢差がある。マーグの指揮はモーツァルトやメンデルスゾーンで無駄のない、すきっとかっちりとした指揮が大変素晴らしく、好感が持てるものだ。それだけでこのCDに興味が湧いてくる。しかもデュトワを伴奏にピアノ協奏曲第2番と第3番もカップリングされている。2枚組なのにわずか480円、中古とは言え未開封の新品である。録音は90年台だし、デッカなので悪かろうはずはない。そういうわけで、このCDを手にレジへと向かうのに時間はかからなかった。第2番と第3番は初めての購入なので、重複が少ないことも嬉しい。

さてその演奏だが、なかなかいい。まずテンポがしっかりと地に足のついた感じで、比較的たっぷりとはしているが、決してダレないのは時おり適当に速いからだと思う。この曲は技巧を見せびらかすテクニカルな演奏、あるいはライブでの爆走の演奏が多いが、私はそのような演奏は、この曲の魅力を部分的に伝えてはいるものの、逆に伝え損なっている部分も少なからずあるのでは、と思っている。むしろ、時にゆっくりテンポ落とし、ピアノを中心としてダイナミックな曲の表情をつけるのが何よりの魅力である。チャイコフスキーの演奏は、強弱とテンポを適切に動かし、それでいて伴奏にすうっと融け合っていくところが聞きどころと言える。

古いロシア風の演奏が、まずその最右翼だろう。ところがこの演奏は90年台の演奏なので、音色はむしろモダンである。そのことに好感が持てる。第2楽章の冒頭のフルートは、私の理想の演奏だった!ここがそっけないと何ともつまらないのだ。そしてフィルハーモニア管弦楽団の管楽器の旨さは特筆に値する。特にオーボエのソロは、なんという事か、この曲の魅力を余すところ無く伝えている。ピアノはマーグの信頼感のある伴奏に乗って、決して派手ではないが、十分に迫力とメリハリのある演奏となっている!隠れた名盤ではないか、と思い始めた。

冒頭の序奏で一瞬曇った録音に驚く。これはデッカの音ではないと思うかも知れない。だが、もしかするとワンポイント収録風の、少し視点を後に引いた感じの録音にしたほうがいいというプロデューサーの判断によるものかも知れない、と思った。デッカの明快な音色は、あまりここでは期待できない。それだからと言って悪い録音とは言えない。

オットによる中途半端な演奏のあとで、素晴らしい演奏に出会った。ロシアの土の匂いのする演奏ではないにもかかわらず、まるで無国籍のただ綺麗なだけの演奏でもない。94年のリリース時にはこのヤブロンスキーの演奏が、そのような今風の演奏のように思われていたかもしれないが、オットの演奏に比べると、その傾向はまだかなり控えめである。オットはその傾向を和らげようと、時に少し意味有りげな強弱をつけたりする。だが、それがかえって不完全な印象を私に与えたのだった。

師走に入って一段と寒い空気が東京の空を覆っている。乾いて透き通ってはいるが、風が強くて雲が厚く、灰色になる。いつのまにか散り積もった落葉を踏みしめながら、会社へと向かう。耳元で鳴っているチャイコフスキーのメロディーは、そのような私の日常に、今はピッタリと似合っているように思う。

2012年12月4日火曜日

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23(P:アリス=紗良・オット、トマス・ヘルゲンブロック指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)

テレビで「N響アワー」の後続番組を何気なく見ていたら、盲目のピアニスト辻井伸行が弾くチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の演奏が放映されていた(外山雄三指揮NHK交響楽団)。聞き慣れた曲だったが大変素晴らしい演奏で、新鮮さの中にもロシア的なロマンチシズムを感じた。そう言えばこの曲はかつて良く聞いたなあ、などと思っているうちに、久しぶりに全曲を聴いてみたくなった(放送は第2楽章以降のみだったので)。

どうせ聞くなら最新の演奏で、と思いHMVのホームページなどを検索していると、日系の女性ピアノスト、アリス=紗良・オットの演奏がメジャー・レーベルでは最新版ではないかと思われた。さっそく手に入れて聞いて見ることにした。伴奏はトーマス・ヘンゲルブロック指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(2009年、Deutsche Grammophon)。

だがこの演奏は、大変きれいな音色で伴奏を含め十分なものだったにも関わらず、何かが欠けているような、つまりは感銘をさほど受けない演奏と感じられたので、ここに書こうかどうしようか、少し迷っていた。この聞き古された名曲には、限りない種類の録音があって、これまでに多くの演奏に出会っている。そしてそのうちの幾つかは、それこそ何回も聞いては感動し、「決定版」ではないかと一度となく思ったのである。そういう演奏と比較してしまうのだから、後から演奏する人は辛いだろうと思う。

ついでなので、それらを記述しておくと、まず私が中学生の頃から親しんだのは、エミール・ギレリスの演奏で、ズビン・メータ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックのライヴ盤。これは演奏が終わるのを待たず入る拍手を良く覚えているが、ロシア的な叙情性をたたえている点でも素晴らしい。

次にマルタ・アルゲリッチによる最も古い録音。伴奏はシャルル・デュトワ。アルゲリッチの演奏は以後、コンドラシンとの白熱のライヴ、90年台のアバドとのベルリンの演奏などもあるが、私はこのデュトワ盤が一番いいと思っている。

最近のリリースではネルソン・フレイレの演奏。確かルドルフ・ケンペ指揮のいささか古い録音。なかなかいい。一方、友人に借りてまで録音したスヴャトスラフ・リヒテルによる演奏(カラヤン指揮ヴィーン交響楽団)は、気合いの入った演奏だったが期待はずれ。むしろワイセンベルクの演奏の方が完成度は高いと思われた。

この曲の演奏は難しいと思う。とてつもない技巧も要求されるので、いまでは若手のレパートリーだが、それだけでも大変である。終楽章の高揚感とスピード感が心地よく、そのことを強調した熱演も多いが、ライブならまだしも録音となると、本当の素晴らしさは時おり立ち止まって感じる何とも寂しい情感ではないかと思う。晩秋に吹く木枯らしのようなわびしい部分や、凍りついた静かな夜中のこずえ、といった想像力をかきたてる場面が、第2楽章の途中や第3楽章にも顔を出す。特に第2楽章冒頭のフルートや、民謡風のメロディーは印象的に弾いて欲しい。これらがいかに表現されているかが、私にとっては重要である。オットの演奏は、上記の名演がそれとなく上手く表現する箇所を、いとも簡単にすり抜ける。それはそれで今風なのだが、この曲に関してはどうもちぐはぐな感じで残念でならない。もっと上手い表現ができるだろうに・・・。それは伴奏にも当てはまる。

ライヴでは上原彩子による演奏が思い出に残っている(デュトワ指揮NHK交響楽団)。これらの演奏についてはまた機会を改めて書こうと思う。


2012年11月26日月曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第7回目(1984年3月)②


早朝の長岡駅には4時台に到着したのではないかと思う。「トンネルを抜けると雪国であった」というあの上越線を、私たちの列車は通り抜けた。三国峠を越え、2つものループを通るのも夢の中であった。だが長岡駅につくとそこは雪の中だった。3月の新潟は、当時はまだ深い雪に覆われていた。

長岡駅は開通したばかりの上越新幹線のホームも併設されていて、新しく立派な駅だった。東三条で弥彦線に乗り換え、燕三条の駅が真っ白な雪の田んぼの真中に忽然と姿を表した時には、びっくりした。このような田園の真ん中にそぐわない巨大な駅がそびえていたのである。しかし弥彦線は短いローカル線だった。対照的な短い駅を過ぎると、弥彦駅に到着した。弥彦山への参拝客のための駅だった。特徴的な駅舎の前で写真を取ると、今度は越後線で柏崎へと向かう列車の乗り込んだ。

越後線の列車は大変混雑していて、私も睡魔に襲われたので何も覚えてはいない。雪深い線を静かに走っていた。外は寒いがディーゼル車の中は大変暑かった。

3月の新潟へは2回目の鉄道旅行で訪れているが、その時もかなりの雪の中だった。当時はまだ暖冬の冬が続く90年台以降とは違っていた。特に長岡周辺は豪雪地帯で、何メートルもの雪に閉ざされるのが普通だった。列車はよく遅れなかったと思う。直江津で関西から来た列車とすれ違った。特急列車は雪で真白だった。

北陸本線は日本海岸を走って行った。夜行の特急列車が朝になると普通列車となる区間があった。寝台にもなる特急車両に追加料金無しで乗ることができるので、私たちは嬉しかった。雪で覆われた小さな駅の向こうに日本海が見えた。寒々とした光景は今でもよく覚えている。トンネルの中にも駅があった。とにかく黒部までの区間は険しい山の連続だった。親不知という名前の名所も、断崖絶壁を塗って走る区間を超えたところにあった。

富山での乗り換え時間はわずかで、今度は高山本線の乗客となった。高山までの区間、富山県と岐阜県との県境を神通川に沿って登るこの区間ほど、ローカルな区間はない。神岡線といった今では配線となった線もこのあたりである。何メートルもの雪に閉ざされる区間を、ディーゼルはゆっくりと静かに走っていた。





高山を過ぎると勾配を下る線路から雪が消えた。まだ寒いが、冬を越した山間の田畑は、春を静かに待っているように思えた。陽が傾く頃、カタコトと走る列車の音に合わせて私たちはその日何度目かの睡眠に入った。春の太平洋と冬の日本海を行ったり来たりする2日間は、このようにして過ぎていった。ただここから大阪へはまだ、何時間も乗り継がなくてはならなかった。

2012年11月25日日曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第7回目(1984年3月)①

大学受験を1年後に控えた春休み、友人のU君が東京へ行きたいと行った。漫画やアニメの類を好む彼は、私の趣味とは相容れなかったが、同じクラスで楽しく付き合っていた。彼は神田の古本屋をめぐってお目当ての漫画を手に入れたいと言うのである。ただ2人に共通していることはお金がないことである。そこで私はある提案をした。

大阪から一日かけて東京まで鈍行列車で行く。夕方には東京に到着するので、それから夜行列車の出る深夜近くまでを古本屋巡りに費やす。その後上野駅を出発する夜行普通列車長岡行きに乗り、高崎線、上越線を経由して早朝の長岡駅に到着。そのあとは私の鉄道旅行に付き合って弥彦駅を訪れ、そのあと北陸本線で富山へ。最後に高山本線を乗り通して岐阜から大阪へ帰る。わずか2日とは言え結構な行程で、電車にほとんど乗りっぱなしである。

この旅行に、いつものN君を誘い、U君は友人のO君を誘った。計4名のうち、鉄道旅行派は2人である。残りの2人が果たしてこの強行日程に耐えられるかは不明である。けれどもこれから1年間は受験勉強一色の生活になることを思うと、何かのんびりと旅行しておくのも悪くははいと思ったのであろう、全員が早朝の大阪駅中央コンコースに集合した。

いつものように東海道本線を米原まで行き、乗り継いて大垣に行く。ここでわずかな時間を利用して朝ごはんを買い込み、浜松行きの快速列車の中で食べる。この列車は割合快適で、しかも必ず座れるから、それからは昼寝の時間である。それでも豊橋駅を過ぎる辺りで目が冷め、浜名湖を眺めながら静岡県を横断する。浜松からは比較的混雑しているが、沼津または熱海からは東京行きの16両編成の最後尾にゆったりと座り、夕暮れの東海道線を一路上って行く。

私はこの東海道本線の上京ルートが好きであった。変化に富んだ車窓風景と、徐々に東京へ近づいていく気分で、いつも高揚していた。3月の快晴の一日は、肌寒いものの日差しも強く、浜名湖を渡るときは車窓を開けたく成るようなポカポカ陽気であったし、安倍川、大井川、富士川と渡る鉄橋は、いつもちょっとした気分だった。まだ新幹線も特急こだまも走っていなかった頃、同じ程度の長さの時間をかけて数多くの急行列車が走っていたことだろう。その都度、これらの車窓風景が乗客を楽しませたに違いない。

富士山を右手に見える三保の松原付近の景色が私は好きだ。駿河湾の向こうに晴れていれば大変きれいに見ることが出来る。しばらくすると今度は左手に移り、富士川を越え、しばらく富士山が見てている。新幹線だと20分くらいで通り過ぎるこの区間を、1時間程度かけてゆっくりと進んでいく。

沼津で列車を乗り換え、丹那トンネルを抜けると熱海である。それから小田原までの区間は、東海道本線のクライマックスである。湯河原あたりでは眼下に太平洋が見え、青くて大変美しい。谷底に民家が見え、山にはみかん畑が広がる。トンネルを抜け、鉄橋を渡り、小田原に到着する。それから横浜までの湘南の駅に止まるたびに、人が少しずつ乗ってきていよいよ東京が近づいてくるのがわかる。川崎を過ぎると列車もかなりスピードを上げる。平日でも上りなら、せいぜいが満席である。ネオンサインが夕闇に映えてくる頃、列車は品川駅に到着する。

私たちは確か二手に別れて、数時間の東京見物を楽しんだ。私はU君と古本屋街へ出かけるため、神田駅で降りた。ところがそこには古本屋の一軒もない。どうしてかと調べていると、神田というのはこのあたり一体を表すようで、古本屋街は神保町へ行かねばならない。私たちは水道橋まで行き、そこからさらに白山通りを歩いて神保町まで行った。

当時の神田はまだ活気があった。古本屋も数多くが営業中で、今とは比べ物にならないほどの活気だった。専門的な書店が多く、どの店も大阪にはないこだわりの店構えに思えた。私は興奮してその一軒一軒を少しずつ訪ねていった。U君のお目当ての本は、いくつかの専門的な店で聞いてみたが、置かれていなかった。いまなら秋葉原へ直行するところである。

それからどのようにして上野駅に行ったかは覚えていない。夕食もどこかの蕎麦屋のようなところで食べたはずである。4人は各駅停車の長岡行き夜行に乗るため、深夜の上野駅に集合した。酔っぱらいだらけの高崎線ホームで、私たちはボックス席を専有して座った。だがこの列車は間もなく満員になった。そればかりか最終列車にはかなりの酔っ払い客が乗っていた。かれらはささいんばことでわめき、そして車内で喧嘩が起こった。男気のある人がかれらをなだめて次の駅に下ろすまでは、車内に緊張が走った。だがこのような光景は1度や2度ではなかった。東京の郊外へ行く列車は、何と毎晩過酷なものかと、その時思った。列車はそのような週末のサラリーマンの悲哀を乗せながら、深夜の高崎線を走っていた。

2012年11月24日土曜日

プッチーニ:歌劇「トスカ」(2012年11月23日、新国立劇場)

ワーグナーを含む数多くのオペラ作品に接するにつれて、私はプッチーニの音楽にも親しみを抱くようになっていた。丁度その時、新国立劇場で歌劇「トスカ」の上演があることを知った。パンフレットには第1幕の聖アンドレア・デッラ・ヴァッレ教会と思われる舞台が掲載されていて、目を見張った。この装置が舞台一面に広がったらどれほど素晴らしいかと思った。それで私は17回目となる結婚記念日に妻をさそってチケットを買い求めた。その席の値段は、他の演目よりも高く、さらに私のこれまでのコンサートでも1,2位を争うほどに高額だった。

歌劇「トスカ」などは、年中いつもどこかで上演されているようだし、いまさら何をという気持ちがしないでもない。私が最初に実演で見たオペラも「トスカ」だったし、そのことは前にも述べた。それでも私はこのオペラのすべてを味わい尽くしているかといえば、それには程遠い。所有する唯一のCDであるモンセラット・カバリエの歌うコリン・デイヴィスの録音だって、何回か聞いた程度にすぎない。

でもやはりオペラは実演に接するに越したことはない、と今回改めて思うのに数分とかからなかった。指揮者の沼尻竜典が棒を振り下ろすと、ピットの東京フィルハーモニー交響楽団は、ほぼ完璧といえるような音楽を奏ではじめた。脇の2階席の最前列で見ていると、オーケストラも良く見えるし、舞台にも近い。幕があいた瞬間、その豪華な教会の内部に見とれたが、光の加減によって様々な場面を形成する。新国立劇場の照明はいつも大変印象的だ。

ライト・モティーフというような音楽用語も、「トスカ」を参考にするとわかりやすい。スカルピアのテーマで幕が開き、トスカのテーマが流れると、これから始まる物語の予感がして感極まる。「歌に生き、恋に生き」のさわりのメロディーが、カヴァラドッシとの愛情のシーンに重なって、うっとりさせる。トスカはここで青い衣装で登場し、一頭映えていた。

少年たちが出てきてテ・デウムの練習をし始めた時に、いよいよスカルピアの登場である。その印象的な部分で照明が一気に明るくなる。そしてしばらくすると舞台が動き、何と教会の内部が広がって大変豪華なシーンとなった。そのすばらしさを見るだけで、この上演を見る価値があるだろう。わずか数分の最終シーンは、音楽がクライマックスになることもあって、前半最大の見所であった。オーケストラも大変上手い。

興奮気味に第1幕がおわり、25分の休憩の後、第2幕となった。この第2幕はスカルピアのオフィスが舞台で、舞台としてはさほどでもないが、奥と左右に扉があって、拷問のシーンは向って左、人が出入りするのは奥、そして窓をあけて外の音楽が聞こえてくるのは右手となっている。一挙手一投足に音楽が付けられての丁々発止のやりとりは、このオペラ最大の見所だろう。CDで聞いていただけではわからないドラマとしての音楽が、ここで十全に示される。ドラマにあわせるように舞台奥からトスカの歌声が重なって聞こえてくるあたりは、プッチーニの音楽の最高のものではないだろうか。

スカルピアは窓から舞台外へ消えて、舞台にトスカだけが残るのは、アリアを歌うための演出である。ノルマ・ファンティーニの素晴らしい歌声は、ここで最高潮に達し、その力強くも宿命的な哀れさを持った声は、マリア・カラスを思い出させる。満場の拍手は一度収まりかけて再び盛り返し、天井桟敷からは多くのブラーバの声が鳴り響いた(前回の上演でのこのシーンの模様が、YouTubeにアップされている)。

トスカが引き立つのはスカルピアが素晴らしいからでもある。韓国のバリトン歌手センヒョン・コーは、小柄ながらも憎い警視総監の役をこなし、同行した妻によれば「これほど憎いものはない」という演技であった。もしかすると小ささゆえのコンプレックスが、スカルピアを悪者にしたのではと思わせるようなところがあった。

再び25分の休憩をはさみ、最終幕は夜空に城壁内部と銅像がそびえ、そうかここがあのサンタンジェロ城の内部かと思いを新たにすると、何と舞台が動いて牢屋が全面に出現し、カヴァラドッシ役のサイモン・オニールは「星も光りぬ」を心をこめて歌った。そのメロディーへと流れていく第3幕の冒頭の音楽は、何と美しいのだろうと思った。そしてそこへトスカがやってくるシーンは、ワーグナー顔負けのドラマチックな抱擁シーンである。プッチーニはおそらく意識して真似たのではないか。

夜が明けようとしている城壁で、射殺刑のシーンになると再び舞台が動いて牢屋が消え、城壁の内部(屋上)へと戻った。トスカは迫り来る兵士の前で後方に飛び降り、舞台は幕となった。

全体にほぼ完璧なオーケストラと指揮、3拍子揃った歌手と豪華で見応えのある舞台装置、照明と衣装の演出(イタリア人のアントネッロ・マダウ=ディアツ)も大変素晴らしく、満席の客からは惜しみない拍手が送られた。カーテンコールは4度、5度と繰り返され、鳴り止まぬ拍手をあとに紅潮した聴衆が雨上がりの寒い街へと消えていった。新国立劇場の「トスカ」は単なる客寄せの芝居ではなく、大変充実した世界的レベルの上演であったと言うべきだろう。だから何度も繰り返され、そして高額のチケットも売れるのだろう。

5回の公演の最終回を見た。マチネが終わるともうすでに真っ暗で、私たちはタクシーで渋谷へと出向いた。新婚旅行で出掛けたポルトガルの料理で舌鼓を打ち、 ワインで程よく酔いかけた頭に、あの甘美なメロディーがしばらく鳴り響いていた。

2012年11月17日土曜日

アダン:バレエ音楽「ジゼル」

毎年クリスマスが近づくシーズンになると、ゆったりとバレエ音楽が聞きたくなる。「くるみ割り人形」がその定番で、世界中のバレエ劇場では年末の数週間は、着飾った親子が赤いカーペットの劇場へ家族と鑑賞に出かける姿が思い浮かぶ。クラシック音楽が好きな私でも、ほとんどバレエを見ることはないが、「くるみ割り人形」だけは実演で接した唯一のバレエである。

「くるみ割り人形」のような、いわゆる古典的なバレエには他にも数多くの作品があるが、そのようななかでも最も古い代表的なものがアダンの「ジゼル」である。「ジゼル」はバレエ音楽としては有名な曲であるにもかかわらず、録音はそう多くない。あったとしてもバレエ音楽をもっぱらとするような指揮者やオーケストラによる演奏が中心で、管弦楽曲としてしっかり楽しむにはやや力不足という感じがしていた。ところがあのカラヤンが、何とウィーン・フィルを指揮してこの曲の録音を残しているではないか。1961年というから相当古いが、この年代に専属契約していたウィーン・フィルの一連の録音を担当したプロデューサーは、あのカルショウ(デッカ)である。

私は初めてこの曲の演奏をカラヤンで聞き、そしてにくいほどにツボを押さえた音楽に聞き惚れてしまった。音楽を活かすも殺すも指揮者次第であることをこの演奏ほど思い起こさせるものはない、とさえ思ったのだ。ところがその後、私はこの演奏をどこかになくしてしまい、長年、ジゼルの演奏からは遠ざかっていた。できればもっと新しい録音で、いい演奏はないものか、と思ってもいたのでカラヤンのCDを買う気も起こらず、そのままとなっていた。

あるとき新宿のレコード屋を覗いてみたら、アダンの棚にネヴィル・マリナーの指揮するアカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズの演奏する録音があることに気づいた。90年台のデジタル録音であるにもかかわらず、そのCDはたったの680円だった。最初リリースされたCaproiccioレーベルではなく、そこから版権を買い取ったBrilliant Classicsからのリリースで、それがこの安さの理由だが、マリナーの演奏なので悪かろうはずはなく、私はとうとうそれを買い求め、日夜iPodに転送して聞くことになった。

マリナーで聞く「ジゼル」は、十分な演奏であった。イギリス系の指揮者らしくストレートな表現は、音楽を味わうには今ひとつスパイスが足りないような気がするのだが、その不足感がなぜか良くて最後まで聴き通し、もう少しこうだったらいいのになあ、などと思いながらもう一度聞く、ということがよくある。地味というには演奏が立派だし、かと言って過剰な装飾は一切ない。そうか、この曲はこんな曲だったか、などと思いながら聞いていたら、逆にカラヤンの演奏を再び聞いてみたくなった。

久しぶりに聞くカラヤンの演奏は、ほとんどマリナー盤と抜粋された音楽は同じなのだが、よくよく聞いてみると少し楽譜が異なるような気がする。カラヤン盤はトライアングルなどが入ってきて、とてもきらびやかなのである。これに彼一流のシンフォニックな表現と、アナログ録音の感触が加わり、なぜか大変チャーミングな演奏になる。ギャロップやワルツが始まると、何かウィンナ・ワルツを聞いているような感じである。それはそれで大変ステキなのだが、ではこれが「ジゼル」かどうかはわからない。

私はバレエというものに疎いので、実際踊るとすればどちらがいいのかも検討がつかない。そして決定的に素晴らしいと思っていたカラヤン盤が、何度目かのリスニングでどこかしらけたような気分になってしまったのである。わざとらしい、というほどでもないが、何か曲の深みの限界が露呈するというか、そのような演奏なのである。これに対してマリナーの演奏は、曲本来の姿で表現している。そのことが好ましいと思える時が、あるのだ。これがリヒャルト・シュトラウスの音楽なら、カラヤンの圧勝だろう。すべてにおいて飾りが施され、それをそうとわかってアーティスティックに演奏する技術に依存する割合がとても大きいからだ。だが19世紀はじめのパリの作曲家は、まだそのような時代に生きていたわけではなかった。ここで表現される音楽は、もう少し素朴な魅力を湛えている。

結婚前に死亡した花嫁の亡霊が、妖精となって新郎の前に現れ、彼が死ぬまで踊り狂うという、何とも恐ろしいストーリーも、何度も出てくるパ・ド・ドゥの親しみやすいメロディーとワルツで楽しい。マリナーを聞いて時々カラヤンにも手を伸ばす。カラヤンは捨ててしまうにはあまりに勿体無いが、それだけで十分かと言われると、今となってはもう一枚欲しい、ということに結果的にはなってしまった。

2012年11月10日土曜日

ドニゼッティ:歌劇「愛の妙薬」(The MET Live in HD 2012-2013)


ロッシーニの出来損ないで、ヴェルディほどのドラマ性もなく中途半端、「愛の妙薬」では「人知れぬ涙」だけが突出して聞きどころのオペラ。これが私がかつて抱いていたドニゼッティに対する見方であった。しかしこれまでに聞いた「ランメルモールのルチア」で悲劇的なオペラ作曲家としての側面に接し、オペラ・ブッファでは「連隊の娘」の何とも庶民的でほのぼのとした喜劇に腹を抱え、そして野心作「アンナ・ボレーナ」に至っては主演のネトレプコの大名唱もあって、まるでヴェルディ初期の趣(というよりもヴェルディが参考にしたであろうイタリア・オペラのドラマ性への傾向)に触れると、私のドニゼッティ感は修正を余儀なくされた。というよりこれは大きなショックでさえあった、というべきだろう。

そのドニゼッティの代表的なオペラ「愛の妙薬」がとうとうThe MET in HDシリーズに登場することとなった。しかも2012-2013シーズンの幕開けを飾り、初演出というから力が入っている。私も一度、この美しい歌に満ち満ちた作品をきっちりと見てみたいと思っていたので、今シーズンの始まりに次第に浮き足立ち、その日は朝から緊張状態であった。前日からこじらせた風邪で少し体調も悪く、咳が出るとあってははたして万全のコンディションで挑めるだろうか、などと過剰な心配もしながら、開演1時間半も前に東劇に到着しチケットを買い求めた。今作品は1日2回の上演であるにもかかわらず結構な客の入りで、年々この企画の人気が広まっているように感じる。

演出のバートレット・シャーは、デヴォラ・ボイトによる刺激的なインタビューでも答えているように、この作品を喜劇的な側面よりは恋愛ドラマとしての側面をむしろ強調することにより、作品が持つ現実性を浮き彫りにしようとした。勇気がなくて愛の告白をすることができない純情青年と、それを知りつつも男を挑発してしまう強がりの女性。どこにでもあるような青春ドラマは、19世紀のイタリアの小さな村を舞台に展開する(原作ではバスク地方)。

ここに登場する人物はみな愛すべき性格を持っている。素朴な村の住民は純情で他愛ない。一見してそうとわかるいかさま行商人のドゥルカマーラが、何にでも効く薬があると言って売りつけようとしても、その効果を信じて疑わないところに、それは現われている。しっかりもので知的なアディーナでさえ、「トリスタン」の物語に出てくる媚薬を存在を信じたくて仕方がないのである。主人公モネリーネは、そのようなアディーナが気になって仕方がない。どんな出来事も惚れた女性の仕草に照らして悩む恋の病の表情は、確かに喜劇の題材にはぴったりだが、誰にも経験のある現実の滑稽さでもあるのだ。

そういうわけでこの歌劇は、バレエもなければコロラトゥーラを多用する歌のための劇でないにもかかわらず人気があり、ほのぼのとした味わいを持っている。喜劇として笑い飛ばしてだけ楽しむには勿体無いということだろう。主演のアンナ・ネトレプコは、しっかりものの女性としての貫禄と、素朴な村の娘としての側面(それは彼女のロシア人としての性格にも依るのかも知れないが)を併せ持ち、しかも美しいのでこの役にはぴったりである。だが彼女はもっと難しい役をもこなす歌手なので、ここではまず難なく歌っているということだろうか。

一方のテノール、マシュー・ポレンザーニは表情が固く、この役にはやや知的過ぎる。喜劇性を重んじるなら、もっと脳天気な歌い方のハイCテノール(というえばかつてのパヴァロッティ、いまではフローレスか)を思い浮かべるのだが、喜劇性を抑えた演出では彼の演じ方もまたありなのだ。そればかりか歌はたしかに良く、「人知れぬ涙」では満場のブラボーをさらっていたし、その後から幕切れまでの間は、ベストの出来栄えであったというべきだろう。

兵士ペルコーレを演じたマリウシュ・クヴィエチェンは可もなく不可もなくということだが、最後に特筆すべきは行商人ドゥカマーレを歌ったアンブロージョ・マエストリの、堂々として役柄にピタリとはまったその演技と歌であった。彼の登場がなかったら、このオペラはもっとつまらないものになっていただろう。第1幕第2場の登場のシーンや、第2幕の全体にわたって要所要所で登場するいかさま行商人こそが、この作品の成功を良い方向にも悪い方向にも増幅する役割を果たす。そして今回の彼の登場は、もっとも良い方向へと物語を色づけることに成功した。

指揮はベニーニで、確かな手応え。見応え充分なこのMetの新演出が、かつてバトルやパバロッティを配して上演された80年台の記録的名演に迫るものとなったか、どうか・・・。

2012年11月1日木曜日

グラス:ヴァイオリン協奏曲(Vn:ギドン・クレーメル、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

1937年生まれのアメリカの作曲家フィリップ・グラスは、その作風が非常に印象的だ。一般にミニマル・ミュージックと呼ばれる分野の草分けで(ただし本人はこれを好んでいない、とありきたりの注釈を入れなければならない)、短い旋律を何度も繰り返しながら、それが少しずつ変化していく。何か透明な感じ、そして東洋的な神秘的な感じである。歌劇「サティアグラハ」は、ガンジーの南アフリカでの人生を描いた作品で、昨シーズンのMet Live in HDシリーズでも上演されたが、そのさわりの音楽もまた、このように透明、そして東洋的であった。

詳しいことは音楽の専門家に任せることにして、このグラスの作品を初めて本格的に聞いた。それが1987年に作曲されたヴァイオリン協奏曲である。全部で3楽章から成る構成は、急-緩-急の形式で馴染み深い。いわゆる現代音楽に属するが、その音楽は非常に聴きやすい。映画の音楽やテレビドラマの主題音楽などに使ってもよさそうな感じ、といえば陳腐に聞こえるが、ここで聞く音楽は「クラシック」としては新鮮でありながら、現代人にとってはむしろ親和的ではないかと思う。

短いメロディーが連続的に、リズミックに繰り返されて、徐々に高まり、徐々に収まる。この曲には急に音楽が強くなったり(バロック音楽やベートーヴェンの得意としたやつだ)することはなく、かと言ってだらだらと静かなフレーズが続いたり、ロマンチックでありすぎたり、不協和音が不快すぎることはない。20世紀に入って様々な音楽的方向性が試行されたが、このような音楽は、なかなかいける。インドの音楽の影響を受けているとされるが、民族的ではなく、ロックやジャズとも違う。純音楽的に、これはひとつの作風であると思う。

第1楽章の冒頭から聞き手を情熱的に惹きつけると、第2楽章の静かな部分でも緊張感を失わない。そして第3楽章ではパーカッションの刻むリズムが耳に心地よい。オーケストラの小刻みな伴奏に乗って、クレーメルのヴァイオリンはいつものように夜の静寂の如く繊細だ。最低限の力で持続するように緊張の糸を細くしたり、伸ばしたり、あるいは太くしたり、といったあたりが作風と良く似合っている。だからこの曲の決定的な演奏として録音になったのだろうと想像しながら、何度も聞いてしまった。

伴奏は何とウィーン・フィルで、そのことがまた面白い。クレーメルとウィーン・フィルは、バーンスタインとのブラームスやムーティとのパガニーニなど、時おり気まぐれに素敵な演奏が存在するが、これもその一つだろう。だが、恥ずかしながらこのような演奏が存在していたことは最近まで知らなかった。

カップリングはシュニトケの合奏協奏曲第5番だが、これについてはまた別の機会に記そうと思う。

2012年10月20日土曜日

NHK交響楽団第1737回定期演奏会(2012年10月20日 NHKホール)

ワーグナーの4部作の楽劇「ニーベルングの指環」を管弦楽曲にアレンジした「言葉のない指環」(マゼール編)は、ベルリン・フィルによって委譲され、1987年に初演されたようだ。マゼールの指揮するCDがTerarcから出ていて、私も一度聞いたことがあったのだが、それほどいい作品だとも思わず、中古屋に売ったしまったようで手元にない。そもそも上演すれば15時間にも
及ぶ曲を短くすること自体がナンセンスで、そうであればこれは別の作品としてとらえなければならないのではないか、などと思った記憶がある。

「指環」の音楽はセルやショルティ、それにベームやカラヤンの演奏で抜粋を何度か聞いているし、全曲を通してビデオで見た経験も過去に2度はある。そして滔々と流れるワーグナーの音楽に身を浸していると、ストーリーが何世代にも亘る劇であることも加わって、時間感覚というのがわからなくなる。この世の始まりを思わせる「ラインの黄金」の出だしから、この世の終わりを意味する「ワルハラ城の炎上」までを、たった4日で上演することにも無理があるのに、さらにそれを縮めようとするとストーリーなどあまり意味をなさなくなってしまうのではないかと思っていた。

マゼールはこの編曲を行うにあたって、作曲家としては十分すぎるほどに謙虚だったようだ。ワーグナーの音楽をそのままつなぎ、ごく僅かな例外を除けば一切の音符を加えていないのだ。ではマゼールのオリジナリティは何なのだろうか。そういうことを考えながら聞いていた。

音楽は70分間切れ目なく演奏される。途中の休憩時間も休止もない。にもかかわらずNHKホールに詰めかけたほぼ満員の聴衆は、ほとんど物音も立てずに聞き入った。N響の定期でこのような満員状態は稀である。しかも演奏が終わるやいなや大きなブラボーが飛び交った。私としては音楽が消えて今しばらくは余韻に浸っていたかったのだが・・・。今日聞いていたファンは、みなワーグナーの音楽を熟知しているはずであり、熱狂的な歓声を送るような聞き手は、分別を理解しているとすれば、そのような堰を切った拍手はこの音楽には不向きであるとわかっているはずだ。だがそうではなかったところを見ると、もしかすると意図された演出なのではないか、などと疑ってみたくなる。

それはさておき、音楽は「ラインの黄金」の出だしで始まり、「神々の黄昏」の最後で終わる。ここが全曲盤の抜粋とは異なるところだ。このために一度でも実演を見た人は、その光景を思い出しながら聞くことができる。そのことがなかなかいい。「ワルキューレの騎行」や「森のささやき」、「ジークフリートのラインへの旅」「葬送行進曲」などはそのまま演奏されるから、知っているメロディーが次々と出てくる。その間の「つなぎ」が不自然ではないのは、マゼールの編曲が素晴らしいからだろう。

だが、全曲を見たり聴いたりして少しは知っていると、音楽がもうこんなところまで来たのかと少し戸惑うのも事実である。例えは悪いが、プロ野球ニュースで試合経過を見ているような感じだ。

後半はN響のまれに見る名演で、ワーグナーの音楽が3回席の奥まで轟き、フォルティッシッシモになっても美しさを維持するオーケストラと、ツボを抑えてアーティスティックに魅せる指揮のお陰で、充実した演奏だった。そしてマゼールがこの曲を、一切の休止を挟むことなくつなげた意図がわかるような気がした。通常、各劇の各幕で経験する長大なモノローグに付き合わされた観客は、睡魔や退屈感、それに座り続けることの苦痛に耐え偲びながら、さして変化のない舞台を見続けなければならない。だがその「儀式」のあとにやってくるのは、それがなければ到底得られないほどの、心の奥底からの感動である。これがワーグナーの「毒薬」だとすれば、マゼールはその「毒薬」の何%かを70分の管弦楽曲の中にも投与すべきと考えたのではないか。あれがなければワーグナーでない、と。

部分的にはどうしてあの音楽が出てこないのだろう、やっと出てきたと思ったらもう終わってしまうのか、と思うところが(特に前半部分)に多かった。少し端折ってでも、全体をつないでしまうこと、そしてオーケストラや聴衆が連続演奏に耐えうる興行的しきい値としての70分に全曲を詰め込んだ上で、音楽の自然な連続性を失うことなく、かつそれなりに感動的な構成・・・という離れ業は、やはりこのような天才系音楽家にしかできなかった、と思うことにした。

演奏が終わって秋晴れの中を渋谷まで下ると、改装したばかりのタワーレコードに行き当たった。演奏会を終えた人も大挙して押し寄せたのであろう、レジには長蛇の列であった。マゼールの指揮するベルリン・フィルの、この曲のライブ・ビデオが格安で売られていて、記念に買おうかとも思ったが、今日の演奏がテレビで放映されるだろうと思うと、それを録画すれば良いかと思って踏みとどまることにした。

2012年10月19日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第6回目(1983年8月)

気違いじみた中国地方と越美線の旅から帰宅した翌々日、私は飛騨高山までの鈍行旅行に出掛けた。8月8日のことである。新大阪から大垣を経由して岐阜で乗り換えるまでは(もっと正確に言えば美濃太田までは)、3日前の行程と同じである。だがこの時は家族旅行で、しかも私と弟だけが各駅停車で高山まで行くという、ちょっと変わった行程だった。

高山本線は何度か乗っていたし、この時も高山までの乗車で、私にとって初めて乗る区間というわけではなかった。しかも高山で一泊したあとは、父の運転する乗用車で乗鞍岳を越え、信州松本まで行くというドライブ旅行であった。

ドライブ旅行は私を鉄道の旅から開放し、鉄道では行けないような地域、すなわち乗鞍岳の山頂方面や上高地の近く、さらには信州の霧ヶ峰高原などが存在することを新めて認識させた。だが当時高校生の私にとって、鉄道旅行がもっとも身近であった。安くしかも長距離に旅行ができるのである。車は勿論運転できないし、出来る資格があっても車がない。あったとしても運転は労力を要するし危険も伴う。かといって安くもない。

当時、車の旅行はちょっとした贅沢だった。それにくらべれば、特別急行列車に乗らなければ、鉄道なら安く旅行することができた。今では死語となったワイドやミニの周遊券も豊富にあった。一方バスに乗らなければ行けないところは、バス代が高く付くために敬遠することとなる。思うに今でも我が国で鉄道ファンが多いのは、当時から鉄道の旅行が比較的安全で安価なためと思われる。鉄道は、いわばマーケティングに成功していた。それにくらべると、自動車の旅は想像を超えていた。そのようなお金があれば、私はむしろ海外旅行に行きたいと思っていた。

高山本線が下呂を過ぎる頃から、列車は川沿いの渓谷を進んでいく。ディーゼル車が上りの区間をゆっくりと走っていた。夏の日がその日もきつく、時おり渡る鉄橋から川面を見下ろすと、深い緑色の滝壺が見えた。

2012年10月18日木曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第5回目(1983年8月)②

翌日の朝は松江の旧市街を散策し、そのあと出雲大社を詣でた。出雲大社へ参詣するための支線が大社線という短い路線であった。終点の大社駅は駅舎が木造の大変立派なもので、そのものずばり出雲大社を模したものとされていた。私たちはその見事な駅舎の前で写真をとったりしたのを良く覚えている。

ところがその大社線は1990年に廃線となっているではないか。実はそのことを私は本日この文章を書くまで知らなかった。1990年というと20年以上も前のことで、大変恥ずかしいことでもある。このことは国鉄がJRになって数多くのローカル線が廃止されるに伴い、急速に私の興味を鉄道から奪っていったことを物語っている。この旅行も、私が友人にそそのかされて興味を持ち、全国を鉄道でめぐったわずか数年間の出来事の中のひとつである。

縁結びの神様で知られる出雲大社をあとにして私たちは出雲市駅へ戻り、ここから夜行の鈍行列車で京都へ帰ることにしていた。山陰本線を夜通し走る客車列車の夜行は、もちろん硬くて狭いシートで、空調もない。夏の暑い夜だったので、走ると風が入ってくるが、同時に虫も去来する。トンネルでは排気がこもって車内は曇ったようになる。そこでブラインドだけは閉めて、真っ暗な中を走っていった。餘部の鉄橋を渡ったあたりまでは記憶していたが、そのあとは全く記憶が無い。目が覚めると梅小路の機関区が見え、京都駅山陰線ホーム(たしか0番線だったか)に到着した。

夜の闇の中を、カタコトと走る客車列車の走行音は、今でも懐かしい。当時、流行り始めた携帯式の音楽プレーヤーでこの音を録音したことがある。客車列車の車内アナウンスに使われるチャイムは、ディーゼル列車や電車のそれとは違い、いい響きだった。扇風機が曇った車内の空気をむなしそうにかき混ぜ、薄暗い蛍光灯が木製の座席を照らしていた。山陰本線はこのような郷愁を誘う列車の宝庫だった。だが今ではどうなっているのだろうか。テレビドラマ「夢千代日記」に出てくるような裏日本の、行き場のないような哀しみも、坦々と走る列車の走行音によってさらに増幅された。そう言えば餘部鉄橋から列車が転落し、多くの死者を出した事故もこのあと何年か後に起こった。

京都で一部の友人とは別れ、私たちは「青春18きっぷ」のその日の有効分を使い果たすべく、さらに東海道本線を上った。ほとんど朦朧とした眠気の中を、大垣、岐阜と乗り継いで美濃太田駅に到着した。ここから越美南線の終点、北濃駅までの数時間は長良川沿いに走る。結構車窓風景のいい路線のはずだったが、混雑もあり、私は再び睡魔に襲われ、気がつくと美濃白鳥という駅に到着。終点まではわずかだった。

越美南線は越美北線とつながっていない。終点の北濃駅からは国鉄バスに乗って峠を越え、越美北線の九頭竜湖駅まで行く事になる。出発を待つ間、田舎の終着駅のまわりを散策したが、この日も大変暑かったことを覚えている。やがてバスが出発したが、このバスは猛烈な速さで坂を上り、ヘアピンの連続を振り落とされそうになりながら、見晴らしのいいダムの展望台に着いた。バスの運転手はここで少し休憩するという。この休憩時間をかせぐべく、猛スピードで運行したらしかった。もっとも途中に停留所はなく、乗客も私たちだけだったから、私はいきなはからいに感謝した。


九頭竜湖駅はまた、かなりローカルな駅だった。夏の強い日差しが照りつける中を、やがて一台の列車が到着してわずかな客を降ろし、そして私たちは再びローカル線の乗客となった。最初の少しの区間を除けば、平凡な福井の田園地帯を北上する。再び睡魔に襲われ、やがて福井駅に到着した。


福井から米原経由で向かった京都は今朝通った区間である。その区間を走る快速列車は、何とも都会的な感じで私を田舎のモードから都市のモードへと切り替えさせた。もっとも米原までの北陸本線の区間は、乗客も少なく私は冷房の聞いた車内で、心地よく睡眠をとった。福井駅で買ったアイスクリームが、とても美味しかった。

2012年10月17日水曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第5回目(1983年8月)①


紀勢本線を中心とした紀伊半島一周日帰り阿呆列車の旅は、その数日後に始まる山陽・山陰本線と越美線をめぐる夏の鉄道旅行の、いわば前哨戦であった。友人のN君はさらに私を、数字の8の字のように回るおかしな旅行に誘ったのだ。私はもちろん同行した。

朝大阪駅を出て姫路、岡山、福山を通り広島で1泊。大阪から今度は西へと向かうのである。山陽本線の旅は、東海道を上京する旅とはまた味わいが違う。頑張れば九州まで行く事も可能だが、それはまた次回とし、広島からは松江を目指して中国山地を横断する。芸備線と木次線を乗り換えなしで走る急行「ちどり」を使い、私たちは松江に行く。そこで2泊目。

ここまでの旅行はグループ旅行だった。私たちは各駅で途中下車をして後楽園、福山城、広島原爆ドームなどを見学することも旅の目的だった。出発したのが記録によれば8月2日となっているので、広島原爆の日の数日前にあたる。そしてその日もまた大変に暑かった。私は大阪生まれだったから、夏の暑いのには馴れていると思っていた。しかし瀬戸内特有の無風状態の暑さは筆舌に尽くしがたい。まだ朝だというのに岡山の後楽園で私はそれまで経験したことのないむし暑さに、卒倒しそうなほどだったことを覚えている。

山陽本線の普通列車はもちろんオレンジと深緑の電車で、複線電化区間らしく都会的に走るが、それが面白く無い。しかも都市が連続するので乗客は減らず、さらに車窓風景も単調だった。尾道のあたりで海(といっても運河のように狭い、川のような海だ)を見た記憶はある。だが対岸に見える造船所は私を憂鬱な気分にさせた。

急行「ちどり」などという列車がいつまで運行されていたのかは知らないし、私は記録を読み返すまで、その列車の名前などはとっくに忘れていた。三次に近づく時、盆地の中に静かに佇む街並みの光景を少し覚えている程度だし、木次線の有名なスイッチバックの時の興奮も、いまでは思い出せない。急行の車内は普通列車のような作りではあるものの若干ゆとりがあって乗り心地は少し上だったことと、わずか3両編成だったにもかかわらず車内販売があったことを記憶している程度だ。

木次線に入ってけわしい分水嶺を超えると、山陽から山陰に切り替わったことがよくわかる。風景が違うのだ。田畑の広さや家の作り、今では裏日本などという言い方がすたれてしまったが、なるほど日本海側に入るとどことなく暗い感じがした。私は大阪生まれだが、実家の故郷は島根県である。それでこの地域に関心が強かった。神話にも登場する出雲の山奥が、何かスピリチュアルな感じを宿しているように感じられた。

急行列車は下り勾配の続く単線をゆっくりと、しかし快調に飛ばした。松本清張の小説「砂の器」に登場する亀嵩駅も通過したはずである。この小説に出てくるこの地方は、冬には雪の降るような寒村で、しかも東北弁の訛りに似た方言を話すらしい。そう言えば私の祖父母もかつて、何やらぼそぼそと話しをする傾向があった。少なくとも饒舌で陽気な人柄ではない。そのような独特の風土の中を私は進んでいたし、私の性格の一部のルーツをその中に見出そうとしていた。いまでもよくこのときの風景を思い出す。それ以来島根県には足を踏み入れていないので、これが今もって唯一の記憶だからであろう。


松江駅に到着してしばらくするともう夕暮れだった、夕日に染まる宍道湖を眺めることができる宿に入り、夕食までの間をしばしたたずんだ。夏の夕暮れはそこでも暑かったが、夕凪の広島のように西日のどうしようもなく強烈な夕方とは違い、風が吹き、何かとても爽快だった。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...