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2019年1月21日月曜日

NHK交響楽団2019横浜定期演奏会(2019年1月19日、横浜みなとみらいホール)

美味しいご馳走を食べた後は、しばらく食事をしたくないくらいに満ち足りた気分になる。そんなコンサートだった。

NHK交響楽団の定期公演は、それぞれ二日間、同じプログラムの3つのシリーズ(A,B,C)から成っているが、そのうちの一つがサントリーホールである。 サントリーホールは本拠地NHKホールに比べると座席数が少ないから、サントリー定期(B定期)は毎回ほぼ定期会員で満席である。たとえ座席が残っていても、隅っこの席がわずかに売り出されるだけだ。

私が最も注目するロシア生まれの指揮者、トゥガン・ソヒエフはここ数年、毎年定期公演に呼ばれているが、今回の公演プログラムを見て、私は残念な気持ちでならなかった。こんなに素敵なプログラムなのに、B定期はチケットが取れず、定期会員でない自分は行きたくても行けないと確信したからだ。ソヒエフの十八番であるリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」、その曲の前にフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」とブリテンのシンプル・シンフォニー。これほどこの指揮者の魅力を引き出したプログラムはないと思った。

だが良く調べてみると、NHK交響楽団には年1回の横浜公演が冬に開催されており、今回はその同じプログラムがみなとみらいホールで開催される。これは3年前に同じホールで聞いた、やはりソヒエフの「白鳥の湖」と同じパターンである。何と嬉しいことだろうか。私はチケットの売り出し日(確か夏だった)にオンラインで早速購入。もちろんS席、1階席のど真ん中を押さえた。半年も先の公演のチケットを買うのは、私としては極めて稀なことである。でも早々に売り切れることは目に見えている。売り切れなくても、いい席は瞬く間に無くなってしまうと思った。

意外なことに、この危惧は完全に外れた。当日券も大量に残り、1階席の前方でも空席が目立つ。そればかりか、あのサントリー・ホールでさえ直前までチケットが残っていたのだ!何ということか、これほど魅力的なプログラムなのに!ソヒエフはそんなに人気がなかったのか?私は同行した妻と共にあっけにとられ、もし今日のコンサートが期待外れだったらどうしようと心配した。だれしも空席の目立つ会場で演奏したくはないだろう、などと要らぬ不安まで頭をよぎる。

実際には熱心に足を運ぶ聴衆には、手を抜くことなどプロの演奏家にあるわけがない。いや横浜の聴衆は、そのことを気にしたのか、いつもの醒めたNHKホールの聴衆とは違い、楽団員が登場するだけで拍手をするという行為に打って出た。まろさんことコンサートマスターの篠崎氏は、本日重要なソロを演奏することもあってか、丁重に観客に向かって挨拶をした。東京から半時間とかからない横浜でも、観客の雰囲気は随分違うものだ。

そういうわけで公演前のくだらない不安は、まったくの杞憂に終わった。最初の曲、フォーレの冒頭が丁寧に演奏され始めたとき、その少し押さえられた音量の、静かでそれでいて艶のある音色に、一気に引き込まれたからだ。音響の理想的なホール、これ以上望めない位置を差し引いても、聞きなれたN響からこんなにふくよかで、生き生きとした呼吸が聞こえるこてきた経験はない。それは魔法のように、会場を満たす。

ほのかに陰を帯びたフランス音楽は、管楽器が弦楽器に溶け合い、ムード音楽のようである。指揮棒を持たないソヒエフはオーソドックスながら、細部にまで実に念入りに表情をつける。各楽器の弾き始めるタイミングと強さが手の動きに完璧に呼応するのは、もはやN響と指揮者の相性が最高の地点に達しているからだ。うっとりと聞き惚れているうちに有名な「シシリエンヌ」を迎える。ハープの音をバックにフルートが物憂い旋律を奏でる時、そのたっぷりと歌われるメロディーが、時間が止まったように南欧の情景を描き出すことを大いに好ましく思った。今日のコンサートは、これは素晴らしいもにになると確信したのである。

前半の頂点は、弦楽器のみで演奏されるブリテンの「シンプル・シンフォニー」第3楽章にあったのではないだろうか。この曲は「感傷的なサラバンド」という副題がついている。弦楽器は少しビブラートを押さえたように厚みを減らし、そのことが私たちを大陸から隔てられたブリテン島へと誘う。イギリス音楽の特徴を、ソヒエフとN響は伝えてやまない。どこか日本のメロディーとも通じ合うような懐かしい旋律に耳を傾けていると、なぜか心からこみ上げてくるものがあった。それこそ音楽の魔術とでもいうものだった。愛おしく懐かしいようなフレーズが2回聞かれる。この響きは、日本のオーケストラの音楽だ。

ここにブリテンが自ら指揮した演奏のCDがあるが、それでもこんなに表情豊かではない。音楽的にはむしろN響との演奏の方が、より美しいと思う。第2楽章のピチカートでの、団員の楽しそうな表情は、このコンビが人間的な面でも共感しあえる関係にあることを雄弁に示していた。私はブリテンの音楽をひところ良く聞いていたが、その時にブリテンが若干21歳の時に作曲した作品が、これほどにまで表情豊かであることに気付かなかった。大満足のうちに、前半のプログラムが終了した。朝から快晴の横浜の、三日月形をしたホテルなどを眺めながら、コーヒーを飲む。

今日のコンサートの特徴を挙げるとすれば、ひとつはフランス、イギリス、ロシアと続くヨーロッパの国々の音楽風景をどう表現し分けるか、と言う点。もうひとつは、単独または複数の楽器が重なって音を出すときに聞こえる、様々な音の表情の変化を楽しむ、という点である。「シェエラザード」ほどこれにうってつけの曲はないだろう。しかも、あの「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」を下地としているこの曲は、同時にオリエントの雰囲気を持ち合わせ、物語の進行に合わせて表現される様々な情景描写を、心ゆくまで味わわせてくれる名曲である。

レスピーギが師事したというリムスキー=コルサコフは、サンクトペテルブルク音楽院の教授であった。そして指揮者のソヒエフは北オセチア生まれながら、ここの音楽院で学んでいる。師弟の関係にあるソヒエフが、リムスキー=コルサコフの曲を得意とするのは、当然と言えば当然だと言える。けれども、いかに前評判が高くとも、実際に聞いてみるまではやはりわからないものである。

ここに2枚の「シェエラザード」のCDがある。ひとつは亡命後にコンセルトヘボウ管弦楽団を振ってセンセーショナルな西側デビューを果たしたキリル・コンドラシンの定評ある名演、もうひとつは現在のロシア音楽の第一人者ワレリー・ゲルギレフが、キーロフ歌劇場のオーケストラを指揮した演奏。両者は大いに異なる演奏だが、ゲルギレフのものは現代的ですこぶる速く、それでいて歌うところは歌っている。恐ろしく技巧的で、野心的でもある。それに比べるとコンドラシンの演奏は、奇を衒わず正攻法で、つまらないくらいにオーソドックスである。実際私は長年、評判よりもつまらない演奏だと思っていた。

だがソヒエフの演奏はコンドラシンに近い。何も細工をしていないように思えるのだが、一音一音に魂が込められ、フレーズの息は長い。これではオーケストラが壊れてしまうのではないかと心配なほど。それはソロ・ヴァイオリンのまろさんにも言える。両者は時折、顔と顔を接近させてコンタクトを取りながら、機知に富みつつロマンチックな旋律を歌いあげてゆく。ソヒエフが右手の指を折ると、奥からハープがヴァイオリンに重なる。

上手いソロはヴァイオリンだけでない。特にクラリネットとファゴット。そしてチェロ。中音域の良さがN響の特徴のひとつだが、それはこの曲で如何なく発揮されたと言って良い。 左右の分離、各楽器の生々しさ、あるときはピチカートで、あるときは打楽器を伴って、音のパノラマは、散りばめられた星々のようにキラキラと輝き、音のキャンバスを埋めてゆく。色彩感に溢れた音のパレットの中から、千変万化する表情を手慣れた技術で描いてゆくその様は、聞いている方がうっとりさせられる。余裕の表現はまた、けれんみたっぷりの緊張感とも、才気溢れる若者の野心とも、無縁である。職人的であると言うべきか。

ため息さえも出ないようなたっぷりとした時間に身を浸し、消えゆくようにヴァイオリンが主題を弾き終えたとき、聴衆の誰一人として拍手をするものはいなかった。目を閉じて味わう静寂さえもが、音楽の延長であるように感じられた。またとない時間の持続。やがて沸き起こる拍手とブラボー。何度も呼び戻される指揮者と楽団の嬉しそうな表情。それらのすべてが、このコンサートのすべてを物語っていた。

翌日大阪で、同じコンサートがあるとわかったとき、私は関西の実家に電話をかけ、両親にこのコンサートのチケットを誕生日プレゼントとして贈った。信じられないことにチケットはまだ有り余っており、両親は私たちと同じように1階の中央でこの演奏を楽しんだようだ。N響のもっとも上手い時の演奏を両親に贈った私たちはまた、大変満ち足りた気持ちであった。そして今後、今日聞いた3つの作品を聞くときは、ずっとこの日の演奏を思い出すであろう。

CDで聞くほうがいいと思う演奏が多い中で、今日ほど実演の音楽が心に迫る演奏に出会うことはない。だからこそ、この特別な体験を持つ事ができたことに、心から喜びたい気持ちを噛みしめながら家路についた。

2016年1月17日日曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第551回定期演奏会(2016年1月16日、すみだトリフォニーホール))

手元の辞書には載っていなかったがcoventrateという英単語があるそうだ。その語源は、第二次世界大戦時バーミンガムにほど近いコヴェントリーの大聖堂が、ドイツ軍の空襲によってことごとく破壊されたことによる。ここから「空襲により破壊される」という動詞が誕生した。そのコヴェントリーの大聖堂は1962年に再建され、破壊された大聖堂の隣にそびえているという。

20世紀最大の作曲家の一人となっていたベンジャミン・ブリテンが、この大聖堂再建時の献堂式に際して歌唱曲の作曲を委託されたのは1960年だった、というから戦後15年以上が経過していたことになる。ブリテンは当時、「チェロ交響曲」などで親交のあったロストロポーヴィチの夫人でソプラノ歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤにこの構想を示し、彼女を含めた戦勝国と敗戦国、すなわちイギリス、ソ連、ドイツの3か国の歌手たちを独奏とするレクイエムの作曲を進めた・・・。

私はこのブログで数多くのブリテンの作品を取り上げた。過去に多くの作曲家がいるが、有名作品について最初に書き終えるのは、何とブリテンになりそうである。最初ほとんど聞くことのなかったブリテンに興味を覚えたのは、新国立劇場で見た「ピーター・グライムズ」に感銘を受けたからにほかならない。ブリテンの音楽は20世紀の音楽の中でも親しみやすい方だと思うが、その作品群の中でまだ取り上げていない大作が、この「戦争レクイエム」だったのだ。

新日本フィルによる「戦争レクイエム」の演奏会が開かれることを知ったのは、当日の朝だった。指揮者はイギリス人のダニエル・ハーディング。私は過去に彼の指揮するコンサートを聞いているが、あまり感動したことがない。けれどもソリストの一人に目が留まった。テノールのイアン・ボストリッジである。いまや世界を代表するリート歌手の一人であり、私もシューベルトの歌曲集を持っていたりする。コンサートの当日券はたくさんあるようだったので、私はひとりトリフォニー・ホールへと向かった。

プログラムによれば独唱者はほかに、ロシア人のアルビナ・シャギムラトヴァ(ソプラノ)、ノルウェー人のアウドゥン・イヴェルセン。合唱はサイトウ・キネン・フェスティヴァルで小澤征爾指揮のCDにも登場する栗友会合唱団。それに舞台裏からは東京少年少女合唱隊の天使のような声がこだまする。新日本フィルのいつものコンサートマスターは、今回は小編成のオーケストラの方に回る(指揮者の右側に配置されていた)。打楽器の数々にハープ、ピアノ、さらにはオルガンまで登場する。これだけ多くの出演者がいるわけだから、演奏はさぞ大規模なものかと思われるが、実際にはこの曲は静かな部分が多い。

レクイエムに限らずミサ曲では通常、ラテン語の典礼文が歌詞となる。それらは「キリエ」「ディエス・イレ(怒りの日)」「サンクトゥス(聖なるかな)」「アニュス・デイ」などである。「戦争レクイエム」も一般的な典礼文から始まり、「永遠の安息」「怒りの日」「奉献文」「サンクトゥス」「アニュス・デイ(神の子羊)」「リベラ・メ(われを解き放ちたまえ)」と続く。だがこの作品は通常の死者のためのミサ曲ではない。これは戦争に対する強烈な批判を込めた反戦の歌なのである。

その理由はこれらの典礼文(混成合唱団、少年合唱団、ソプラノによって歌われる)に混じって、 ウィルフレッド・オーウェンの詩が挿入されているからだ。詩(英語)は時に死せる兵士、あるいは死者に話しかける声となって会場に響く(室内オーケストラとテノール、それにバリトンによって歌われる)。二つの歌詞が呼応しあうように進行していく様子は、度数の開いた音程差を行き来しながら、時に鋭角的な響きを伴うブリテンの音楽に合わさり、また時には二つのオーケストラが異なるメロディーを弾くというような独自性も加わって、独特の音響的空間を作り出す。

オーウェンは25歳で戦死する。彼が戦ったのは凄惨を極めた第一次世界大戦であった。ブリテンが生まれたのはその戦争の前夜であり、オーウェンが死亡したのは終戦の1週間前だったとプログラムには書いてある。だが人類はこの過ちを再び犯す。第2次世界大戦が始まる時、ブリテンは渡米して戦禍を免れようとした。だが太平洋戦争が始まると彼は平和主義者として帰国し、音楽界を上り詰めていく。「ピーター・グライムズ」か初演された年に、第二次世界大戦は終わった。

平和な時代に生まれた戦後の大多数の日本人にとって、戦争とは間接的にしか知りえないものとなってしまった。私たち日本人が通常「戦争反対」などと言うとき、その頭にあるのは広島・長崎への原爆被害などに代表される第二次世界大戦の惨禍である。私が祖父母から何度も聞かされた戦争の悲惨な実体験もまた、太平洋戦争のそれであった。だが国が変われば戦争の記憶も異なる。大戦後に戦争はいくつもあったし、今でも内戦や地域紛争は世界各地で収まる気配がない。先日もジャカルタやイスタンブールでテロがあったばかりである。

どうすれば戦争を繰り返すことをなくせるのだろうか。オーウェンは言う。「詩人が今日できることは警告することだけだ。だから真の詩人は本当のことをいわなくてはならない」と。

死に直面した壮絶な詩を、私はコンサートで音楽に合わせきっちり読みたかったと思う。英語の詩に字幕を付けてほしかった。暗い会場ではリブレットを読むこともできないし、できたとしても音楽に集中できない。ほとんど完璧な歌い手によって静かに音楽は終わった。「われらを平和な中に眠らせたまえ。アーメン」。それからどれくらい時間がたっただろうか。ハーディングは手を下ろしたままこちらを向かない。静まり返る客席からは、物音ひとつしない。その時間が1分は続いたと思う。客席と出演者が一斉にささげる深い祈りは、永遠に続くかのように思われた。

ハーディングが静かに手を動かしたとき、会場からは次第に大きな拍手が沸き起こった。感動というよりは何とも言えない悲しみと疲れ。現代に生きる日本人にとっても戦争は身近なものになりつつある。だからだろう。深い音楽に刻まれた戦争の記憶は、たとえそれを思い起すことが求められるにしても、ずっと過去のものであってほしいと思う。この曲は「音楽」を聞こうと思っていた人を裏切る。でもそれが現代というものの置かれた、あまりに脆弱な世界の真実なのだろう。

2012年12月24日月曜日

ブリテン:「シンプル・シンフォニー」作品4(ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団)

シンプル・シンフォニー、すなわち「単純な交響曲」というタイトルのこの作品は作品番号が4番ということからもわかるように、ブリテンの初期の作品である。しかも1934年の初演の時からさらに10年以上も遡る習作ピアノ曲からの改編ということである。ブリテンは1913年生まれだから、十代の頃の作品ということになる。そのために、ブリテンの作風からすれば随分と違っている。

まずこの曲は弦楽合奏で演奏されることから、交響曲とはいうものの弦楽セレナーデのような趣きで、しかも第1楽章はメロディーがバロックを感じさせることから、この当時はやりの新古典派主義の傾向を示しているように思われる。とても素敵で私は自作自演で聞くこの演奏が好きである。

第2楽章はピチカートで、どことなく民謡風である。ブリテンの早熟ぶりを感じさせる。ピチカートの楽章と言えばチャイコフスキーの第4交響曲の第3楽章を思い出す。ここの楽章も軽快で、大変素晴らしい。

これまでと打って変わって第3楽章は随分と長い。けれどもセンチメンタルで哀しい感じがする美しいメロディーはなかなかのものだ。ブリテンも少年の頃はこのような曲も書いていたのだと思う。サラバンドとなっているが、シチリアーノと呼ばれる哀愁のこもった曲がレスピーギなどにあるのを連想するのは私だけだろうか。このあと、プレスティッシモ、すなわち急速な曲の第4楽章が続き、あっという間に終わる。

ブリテンはデッカに自作自演の録音を多数残している。これもそのひとつ。必ずしも自作自演が名演とは限らない中で、ブリテンの一連の演奏は長い間、決定的なものとされてきた。録音も良好でこの曲などは、これで十分であると思う。

2012年12月20日木曜日

ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団)

ブリテンがわずか26歳の頃に作曲した「シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」は、我が国と関係の深い曲である。戦前の大日本帝国政府によって委譲され、ブリテンはその楽譜を東京に送った。彼はそれで報酬をもらい、その音楽は皇紀2600年(1940年)の記念式典で演奏されるはずだった。だがそれはなされなかった。死者のためのミサ曲が、このような式典にふさわしくないというのがその理由だったようだ。ブリテンは落胆したが、彼はアメリカでの生活に困窮していた。

アメリカで友人ピアーズと生活をしていたのは、第二次世界大戦に突入していた本国イギリスにいると兵役を免れることができないためだったようだ。反戦主義者のブリテンは、本国に帰国することもできなくなっていた。だが、この曲に込められた内容は、当時の日本を結果的には皮肉ったことになる。戦後になってブリテンは日本を訪れ、この曲の日本初演をしている(NHK交響楽団)。彼の日本に対する思いはどのようなものだったのだろうか。

歌劇「ピーター・グライムズ」の上演時に購入した新国立劇場のブックレットに、彼の1956年の来日時のエピソードがわずかだが、綴られている。少し引用してみよう。

「日本の文化との出会いは、風習の違いから生じた多少の困惑とともに、作曲家の側にも大きな影響を与えることとなる。特に彼の琴線に触れたのは、『能』だった。(中略)それは『人生においてもっとも素晴らしい演劇体験のひとつ』となった。(中略)この体験は、後に『隅田川』を原作とする教会オペラ『カーリュー・リヴァー』(1964年)へと結実する。」

この文章は、むしろピアーズとの関係、あるいは彼の米国での創作活動に関するものである。しかしブリテンはここで、日本という国から新たな創作のヒントを得ることになったことは興味深い。

来年はブリテンの生誕100周年で、いろいろな催しも開催されると思われるが、その年を控えてブリテンの音楽を聴いてきた。このシンフォニア・ダ・レクイエムは、上記の経緯に触れないわけには行かず、日本人としては避けて通れない曲である。

サイモン・ラトルがバーミンガム市交響楽団と来日して、この曲を演奏したいるようだが(1987年)、この時に自筆譜を見たそうである。ラトルはこの当時から数多くの演奏を録音しているが、私はその2前年の1985年3月にラトルの演奏で「青少年のための管弦楽入門」を聞いている(フィルハーモニア管弦楽団)。 29歳のマエストロの演奏は、あっという間に終わってしまう演奏で、そのことだけが印象に残っている。

今回聞いたラトルのシンフォニア・ダ・レクイエムも1984年の録音で、真面目で迫力のある演奏。茶目っ気は全くないが、まさに正攻法の演奏は、イギリス音楽には効果的だ。

音楽は3つの部分(楽章)から成っているが、続けて演奏され、時間は20分程度である。タイトルの難しさに反して、若いブリテンの早熟ぶりが伺えると同時に、すでに作風は確立されていることに驚く。冒頭からティンパニが不吉な予感のする連打を始め、厳かに演奏が始まる。どこかドラマのシーンのようである。レクイエムである以上、ミサの一節からテーマが採用されている。ここはLacrimosa(涙の日)ということになっている。

音楽は続いて演奏されるが、楽章の切れ目は明確である。第2楽章は一転して馬が駆けるがごとくのリズムで、ブリテンらしい面白さに溢れている。「怒りの日」である。続く第3楽章は、透明な感じで始まり、ヴァイオリンが凍てつくような 雰囲気を出しているが、それもパッと明るくなって春のようなメロディーに変わり、静かに終わる。「久遠なる平和よ」

なお、このCDには続いてBBC第3放送テーマ用に作曲された楽しい曲「Occasional Overture」(何と訳せばいいのだろう)と、10分程度の親しみやすい「アメリカ序曲」、それにイギリス民謡による組曲「過ぎ去りし時」といった初期の管弦楽作品が収録されている。「過ぎ去りし時」はハープやタンブラン?のような小太鼓、それにバグパイプなどが出てきて実に面白い。ブリテンの作風はここではむしろ脇役となっているが、かと言ってこれは民謡そのものではむろんない。そのあたりの交わり具合が、とても興味深かった。

2012年10月13日土曜日

ブリテン:「ピアノ(左手)と管弦楽のためのディヴァージョンズ」作品21(P:レオン・フライシャー、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

ピアニストのレオン・フライシャーは私がクラシック音楽を聴き始めた頃にはすでに、右手が不自由だったようで、伝説的な存在だったと記憶している。1960年代の録音にはとてもいいものがあり、オーマンディの指揮するレコードなどで有名だった。ピアニストの右手が使えないということは、左手で弾くしかないということだが、左手のためのレパートリーがいくつかあり、そのひとつがブリテンの「ピアノ(左手)と管弦楽のためのディヴァージョンズ」である。

1992年にSONY Classicalによって録音されたレオン・フライシャーによる左手のための協奏曲集は、今聞いてもとても録音もよく、私にとってのお気に入りのCDである。けれども有名なラヴェルの「左手のための協奏曲」をたまに聞くだけで、このブリテンの曲はほとんど聞いたことがなかった。それから20年が経過し、今になってやっとブリテンの一連の曲を聞いてみる時が来た。伴奏は小澤征爾指揮のボストン交響楽団で、SONYへの録音は珍しいが、これはフライシャーの昔の録音がCBSより出ていたことを考えると何とも嬉しいものだ。

曲はまず、オーケストラが遠くの方から近づくようにクレッシェンドしていくさまから始まる。小澤のリズムが迫力を得てせまってくると、わずか1分でこの曲に取り込まれてしまう。何とも見事な開始である。この「主題」につづいて全部で11曲の変奏が順に演奏される。どれも特徴があって聞き応えがあり、飽きさせない。


  第1変奏 レチタティーヴォ
  第2変奏 ロマンス
  第3変奏 行進曲
  第4変奏 アラベスク
  第5変奏 聖歌
  第6変奏 夜想曲
  第7変奏 バディネリ
  第8変奏 ブルレスク
  第9変奏 トッカータ
  第10変奏 アダージョ
  第11変奏 タランテラ

第1変奏ではピアノとしての開始音楽といった感じで、タララララと見事なソロの部分でオーケストラは休止。ピアノとオーケストラが交わるのは第2変奏「ロマンス」からだが、オーケストラの静かな伴奏に乗って、何か海を行く船のように心地良い。

第3変奏「マーチ」になると一気に盛り上がる。第4変奏の「アラベスク」あたりで内省的な感じの曲に変わっていく。アラベスクとはイスラムの模様のことだ。だがブリテンの音楽は何か知性が上回っていて、感情に溺れるようなところがないのがイギリス風。静かな第5変奏「聖歌」は、それでもロマンチックではある。

第6変奏「ノクチュルヌ(夜想曲)」では、バイオリンやフルートのソロがピアノにからみ合って、夜の雰囲気を出している。なかなかいい曲。第7変奏は「バディネリ」。軽快で速い2拍子の舞曲。ピチカートが効いている。第8変奏「ブルレスケ」。音楽辞典で索くと「ユーモアと辛辣さを兼ね備えた、剽軽でおどけた性格の楽曲」となっている。

第9変奏「トッカータ」の前半20世紀のリズムが満開。カデンツァになだれ込み、第10変奏「アダージョ」へと続く。この第10変奏「アダージョ」は比較的長い。幻想的。それは最終章であるフィナーレを盛り上げるためのようにも感じられる。

第11変奏「タランテラ」は凄い。テンポの速い円舞曲で3拍子だが、ここでの小澤の指揮は恐ろしいくらいに集中力がある。興奮の中をクライマックスを築き、一気に曲が終わる。小澤とボストン交響楽団の良さが現れた名演だが、もちろんフライシャーのピアノが見事に合っている。

フライシャーは2000年代に入って見事に右手が復活し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との競演も予定されているようだ。


2012年10月10日水曜日

ブリテン:「青少年のための管弦楽入門」作品34(アンタル・ドラティ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)

私にとって最初のブリテン作品は、中学生のときに音楽室で聞いた「青少年のための管弦楽入門」であった。これは当時教科書にも載っていたと思う。音楽の先生がオーケストラの楽器の役割について学ぶための教材として、LPレコードをかけてくれた。そのレコードには日本語によるナレーション解説が付けられていた。

教科書には副題としての「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」についても言及されていて、イギリスを代表するバロックの大家のある部分の音楽を変奏することの面白さがここにはある、というようなことを学んだと思う。それを初めて聞いた時に、「あれ、これはどこかで聞いた曲だな」と思ったのだが、何故そう思ったかはわからない。その作品とはヘンリー・パーセル(1659-1695)の劇音楽「アブデラザール」から組曲第2番「ロンド」の主題だそうである。このような曲をそれ以前に聞いていたとは、思えないのである。

パーセルの主題はもともとバロック音楽だが、それが新古典風の趣で結構華やかにアレンジされていくのが面白い。当時の中学生としては、何やら不思議な感覚だったと思う。特に打楽器で主題をパチャパチャと鳴ると、何かユーモラスで笑いたくなるような感じだった。しかし今聞くと、この音楽が単に初心者のみを意識した子供騙しの音楽ではなく、各楽器の個性を生かす変奏と編曲で大変に面白い。

音楽の進行をここに書き留めたりはしないが、最後の部分でそれまでに誕生したすべての楽器がフーガで奏でられながら、パーセルの冒頭の主題が徐々に浮かび上がって両方のメロディーが重なりあい、見事に昇華しながらクレッシェンドしていく様は初めて聞いた時にもすごいなと思った。

この作品は英国政府の委託によって教育用の映画のために作曲された。1945年当時、英国では新進気鋭の作曲家によって新しく作曲されたこのような作品が、その題材として使われていたのは何とも贅沢な話だと思う。そしていまでも純粋な管弦楽作品として聞いても、とてもチャーミングである。

私はこの曲の録音を数種類手元に持っているが、今回はアンタル・ドラティ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団による演奏で聞いた。これは私が持っている唯一の解説付きの録音で、そのナレーションを007の俳優ショーン・コネリーが受け持っているところが凄い。ハンガリー人らしいメリハリのある演奏は、分離の良いデッカのクリヤーでバランス良い録音によって、各楽器の音色とともにとても生き生きとしている。

2012年10月9日火曜日

ブリテン:歌曲「イリュミナシオン」作品18(S:バーバラ・ヘンドリックス、コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団)

ニューヨークのカーネギーホールでバーバラ・ヘンドリックスが歌うベルリオーズの歌曲「夏の夜」(Les nuits d'été)を聞いて感動し、直後にリリースされた時に購入した一枚。そのカップリングにブリテンの歌曲「イリュミナシオン」(Les illuminination)というのが入っていたが、私はこの曲をこれまでまともに聞いて来なかった。ここへ来てブリテンの音楽を聞こうと思い、手元にあったものから聴き始めている。それでこの初期の歌曲を初めてちゃんと聞いてみたというわけである。

ブリテンが第2次世界大戦中のヨーロッパを離れてアメリカに渡る頃に作曲されたこの曲は、色彩感に溢れてみずみずしく、若い感性の素晴らしさを湛えている。いわゆるブリテンらしい雰囲気もここではすでに十分に確立しており、そういう意味でこれは大変素晴らしい作品だと思う。

伴奏がコリン・デイヴィス指揮のイギリス室内管弦楽曲で、きっちりとした伴奏。大変好ましい。もともとソプラノのために書かれた曲なので、これをテノールで歌うものと比較してみたい気がするが、私はまず女声で聞くことになった。テノールのものでは、作曲者自身が指揮したピアーズ盤が有名で、最近になってボストリッジのもの(伴奏はラトル指揮のベルリン・フィル)が名高い。

フランスの詩人ランボーの詩に音楽が付けられている。つまりこれはフランス語である。

第1曲の「ファンファーレ」は弦楽器の象徴的なメロディーによって始まる。一度聞いたら忘れられないような感じ。で、ここで歌われる歌詞は"J'ai seul la clef de cette parade sauvage."英訳されたものは"I alone hold the key to this savage parade."となっている。浅学非才な自分が訳すと「ただ私だけが、この野蛮な行進の鍵を持っている」となってしまう。???。そもそもパレードとは、商店街の行進を思い浮かべるが、「見せびらかす」という意味が含まれている。もっとも語源は古いフランス語なのでフランス語の辞書をひくと、「客寄せの道化」という意味があることがわかる。それでこのランボーの詩は「客寄せ道化」と訳されている部分の最後のフレーズだ。ではその客寄せ道化とはどういう意味なのか。何を喩えているのか。やはりわかりにくい。

第2曲は「都市」。都市と言えばパリだろうか(いやロンドンだろうか)。近代的なもののイメージが音楽によって表現されている。躍動感があり印象的。Ce sont des villes!(これが街というやつだ!)という歌詞が何度も登場し、これはわかりやすいのですぐに覚える。私ははじめてニューヨークのマンハッタンで暮らし始めた頃を思い出した。

第3曲「フレーズ(断章)」と「アンティーク」。いずれも短くとらえどころがない。ここらあたりからはあまり深く詮索しないで進もう。第4曲「王権」。このあたりからは快活な音楽に戻り、第5曲「マリーン」。音が細切れになって、ピチカートがとても印象的。第6曲は「間奏曲」で再び冒頭の歌現され、いよいよ第7曲「美しくあること」。そして第8曲「パレード」。再び「野蛮な客寄せ道化の鍵」が出てくるこのあたりがこの歌曲のクライマックスで本質的なところのようだ。だが詳細は省略。

最終曲の「出発」は静かな曲で、何か悟りきった感じ。この曲を締めくくるに相応しいと感じたのだろうか。「夏の夜」同様、狂おしいばかりの若者の苦悩がこのCDの共通のテーマである。

2012年10月8日月曜日

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲作品15(Vn:ジャニーヌ・ヤンセン、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロンドン交響楽団)


このCDの魅力は、独奏がジャニーヌ・ヤンセンであることに加え、珍しいブリテンのヴァイオリン協奏曲がカップリングされていることである。特にブリテンのヴァイオリン協奏曲は、これまでの私のコレクションにない曲であった。だからこそこのCDに耳を傾けることとなった。

20世紀を代表するイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-1876)は、オペラ「ピーター・グライムズ」やパーセルの主題による「青少年のための管弦楽入門」などで知られる。特に「青少年」は確か、私が中学生の頃の音楽の教科書にも載っていたようで馴染みが深い。けれども1940年、第2次世界大戦の真っただ中にニューヨークで初演されたヴァイオリン協奏曲は、どちらかといえば珍しい曲だろう。同時代に作曲されたバルトークやショスタコーヴィッチに比べても、知名度は低いと言わざるを得ない。

だが、この曲はなかなか魅力的である。私は持ち歩くiPodで、早朝の山手線内でも聞いているので、近くの人が漏れ聞こえる不協和音に不審な顔をしているときがある。それでも外の喧騒に比べるとはるかに心地よいので、電車内の騒音をかき消すべく大音量で鳴らしているのだ。

第1楽章の冒頭がティンパニの連打で始まるのがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と共通しているが、それだけでこの2つの曲を並べたとしたらお笑いである。ブリテンがベートーヴェンを参考にそういう冒頭を考えたのかどうかはわからない。続くジャジーなメロディに続いてヴァイオリンがすーっと入ってくる。ハープや弦のピチカートがさりげなく挿入され、やはり20世紀の曲だと思う。独奏ヴァイオリンが縦横自在に高低差を行ったり来たりするのに対し、オーケストラが伴奏的リズムを刻むのは、ヴァイオリン協奏曲の一般的な感じである。だから割に聞きやすい。ヴァイオリン協奏曲の常として、聞き始めたらいつのまにか最後まで聞いてしまうという感じである。音楽が途切れない上に、主題がわかりやすいからかもしれない。

第2楽章のスケルツォはやや早い音楽で、ヤルヴィの伴奏がリズミカルなので素晴らしい。ヤンセンの音楽はベートーヴェンでもそうなのだが、新鮮で現代的な音色であるにもかかわらず、さりげない知的さが好感をもたらす。

第3楽章へは続いて演奏される。パッサカリアと名が付いているが、トロンボーンや鞭が効果的に使われ、全体にゆっくり目の静かな楽章だが、中間部ではそれなりに技巧的な部分が続き、聞いている方も熱を帯びる。仰々しく終わらないのがまたいい。

各楽章10分程度、全体で約30分の演奏時間は、骨格がしっかりしているので聞いていて飽きないだろう。この時期に作曲されたヴァイオリン協奏曲としては、聞きやすい曲と言えるかも知れない。伴奏のロンドン交響楽団が、実に見事。

なお、カップリングのベートーヴェンについては何も言うことがない。パーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルハーモニーの弾むようなリズムに合わせて、明瞭で新鮮な音色が最高のヴァイオリン協奏曲に新しい光を当てている。このようなすっきりした演奏が増えてきた。聞き古した曲でもまだまだ新しさが感じられるのだから、やはり音楽というのは楽しい、そう改めて感じた。

2012年10月7日日曜日

ブリテン:「4つの海の間奏曲」作品33a、「パッサカリア」作品33b(アンドリュー.デイヴィス指揮BBC交響楽団)

歌劇「ピーター・グライムズ」を見たら幕間に流れる間奏曲が実に効果的であることに感動し、そう言えばうちにもその間奏曲を集めた管弦楽曲「4つの海の間奏曲」のCDがあったことを思い出した。さっそく聞いてみると、さすが本場の演奏だけあって実際に見たオペラでの演奏よりもまた1枚も2枚も上手の演奏ではないか、と思った。何をおいてもオーケストラが実に見事に曲を弾きこなしている様子が伝わって来るので、この曲をこれまでちゃんと聞いていなかったことが残念に思えてくる。

実は数年前にもこの曲を実演で聴いている。その演奏は極めつけのコリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団で、来日時の公演の最初のプログラムだったのだが、私はその時がこの曲を聞いた最初の経験で、あまりおもしろい曲に聞こえなかったのか、記憶がほとんどない。今回手元のCDで聞いたのはBBC交響楽団によるもので指揮はアンドリュー・デイヴィスである。だがこのコンビによる演奏もなかなか素晴らしいと言える。録音がまた実に良くて1990年。

「4つの海の間奏曲」はその名の通り、歌劇「ピーター・グライムズ」の間奏曲を4つ集めたものだ。そしてさらに「パッサカリア」もしばしば併録されるが、その対応関係は以下の通り。

  第1曲 夜明け      プロローグと第1幕の間
  第2曲 日曜日の朝   第1幕と第2幕の間
  第3番 月光       第3幕第1場と第2場の間
  第4番 嵐         第1幕第1場と第2場の間
  パッサカリア       第2幕第1場と第2場の間

すなわちオペラの順に聞こうとすると、第1曲→第4曲→第2曲→パッサカリア→第3曲となる。

パッサカリアというのはもともと荘重な舞踊音楽のことだが、様々な作曲家によって作曲され、ブリテンの場合もなかなか聞いていて興奮する曲である。どの曲のどの部分をとっても、いわゆる「ブリテン節」のような確固とした作風が支配的であることはオペラを見たあとでは大変良くわかる。

北海の寒々とした海の情景を、これほどにまで見事に描写した音楽はないだろう。ブリテンゆかりのオールドバラがどこにあるのか、私は地図で確かめた。ここはかつて私が初めて英国を旅行した時、オランダから船でついたハリッジに近いことが判明した。だが、ここで描かれた北海の海は、1830年頃となっているし、ブリテンが作曲をしたのも第2次世界大戦の頃である。

文章で書くのははなはだ難しいが、「夜明け」の冒頭でバイオリンが静かに音程を上がったり下がったりするかと思えば、木管がピロピロと鳴り様子は寒い風がふく感じ。本当にそこにいるような気がしてくるが、静かで乾燥した透明な印象も独特である。

「日曜日の朝」はオペラでは教会に集う村人が描写されていたように思う。朝日が輝いているが、南国のような華やかさは感じられない。形容が難しい。だがここの音楽は不思議な魅力がある。「月光」も同じで、時おりパキッと響く木琴の音色が、丸で月の明かりに照らされて光る波を思わせる。「嵐」でのこの演奏の迫力と実力はなかなかのもので聞いていて興奮する。オペラでも幕が降りたままでピットから聞こえてくる音楽は、想像力を掻き立てて否応なしに私たちを北海の海へ連れていくのだ。

ブリテンの作風を短時間で知るには、この曲を聞くのが一番だろうと思う。そしてオペラを思い出しながら、その時の気分に浸るにも最適な音楽、そして演奏である。



2012年10月6日土曜日

ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」(2012年10月5日、新国立劇場)


歌劇「ピーター・グライムズ」は20世紀を代表し、かつまたイギリス史上に残る名作オペラだが、最初から乗り気がしなかった。そして第1幕を見終ったところでの私の感想は、率直に言って何ともやりきれない話だな、ということだった。

村に溶け込めない漁師がつまはじきにされ、再起を目指して再生を試みるが、家庭内の暴力沙汰に殺人容疑まで加わり、やがて自殺をしてしまう・・・あまりにリアリティがありすぎてオペラの楽しみを感じないばかりか、不協和でリズム感もない音楽と、荒涼とした漁村に荒れ狂う海という舞台・・・これはまるで台無しではないか・・・と思った。

神は弱き者を助けないばかりか、見放す。ピーターには理解を示す女性教師や船長もいたが、かれらはやがて限界を知る。それ以上に可哀想なのは、ピーターによって虐待される2人の少年だ。これでは孤児院にいるよりも過酷な日々ではないか。この2人の少年は、歌うことなく舞台に登場するが、何とも痛々しい存在である。もしかするとピーター以上に悲痛な日々・・・それを好まない形で強いられる。不幸という他はない。このオペラには救いというものがないのだろうか。

帰りの地下鉄で、買ったばかりのブックレットを読む(これは新国立劇場でいつも売られているが、少し高価ではあるもののなかなか読み応えがある)。そこに演出を担当したウィーリー・デッカーが作品について書いているのを読んで、私は見方を変えることになった。この文章は素晴らしいいので、部分的に転記しておこうと思う。

デッカーは、ブリテンのすべての作品に通じる共通的な主題を2つ挙げている。それは「アウトサイダー」と「罪の問いかけ」であると。ピーター・グライムズのような「深い孤独や疎外感を抱えた人間」は、「疎外された人」であり「同性愛者のブリテンが当時の社会で置かれていた立場に通じるものだ」というのである。まずこの物語を読み解くには、ここからスタートしなければならない。一方の罪の問いかけについては、ブリテンが生涯にわたって問い続けたテーマであり、「20世紀を代表するモラリスト」とまで言っている。

そのような前提に立って、ピーターとエレンの関係についてデッカーは、「どちらも社会の外側にいる人間」であり「魂の部分で非常に近いものを持って」いて「村の狭く閉塞的な在り方よりもはるかに大きく広い魂や心を持っている」にもかかわらず、エレンが状況を改善しようとするのに対し、ピーターは完全に村人と敵対関係あるという点が決定的な違いであると述べている。この違いこそが、この物語の悲劇の中心であるということだ。

それはピーターがエレンととうとう結婚できないということに現われている。なぜなら「結婚とは限界を知って受け入れること」に等しいからである。ピーターは限界を知らず、結婚のようなものに安住できないため、その居場所は家庭ではありえない、それは「船」や「海」であり、そしてその矛盾を解決できるのはピーターの「死」だけであると。

そう考えていくと、2人もの少年をなぜ死なせてしまったかが自然と理解できるようになり、そしてなぜ彼が最後には海の中に沈む道を取るがが理解できる。そしてデッカーはそのようなピーターをスケープゴートにして成り立つイングランドの当時の村社会というものに切り込んでいる。大英帝国の陰の部分に、そのような恥部があることを暴いているのだ。であればあるほど、第2幕以降に会話に寄り添って離れない教会と祈りのシーンが偽善的であると思えてくる。もしかしたらピーターを少しは庇いたくなってくるというものだ。地下鉄を降りて家路を急ぐ間に、私のこのオペラの見方が急速に深まり、そして一面的には捉えられない複雑さを意識した。

新国立劇場の今シーズンの幕開けとなるこのプロダクションは、指揮者、主要な歌手のすべてが初登場という触れ込みだった。それだけ力が入っていたのだろうと思う。それに違わず大成功だったのではないか。4階席の端まで超満員の二日目には、「チケット求む」の人もいて主演のテノール、スチュアート・スケルトンにはとりわけ大きな拍手とブラボーが飛んだ。

さらに印象的だったのは、各幕間に響くオーケストラの演奏で、それは有名な「4つの海の間奏曲」の原曲でもある。海の様々な表情が、暗い舞台の間中鳴り響いた。東フィルも良く鳴っていたが、管弦楽のみを取り出して考えると実力不足は否めない。何か余裕が無い感じで、一言で言えば板についていない。それでも指揮のリチャード・アームストロングはつぼを得た音楽作りで素晴らしかった。

演出のデッカーは、数年前のザルツブルクや昨シーズンのMetでも見た「椿姫」の斬新な演出・・・大時計とソファーだけの・・・で一斉を風靡した彼にしては普通の、やや大人しい演出に思えた。だが私はこのオペラの演出を評価できるほどにはこのオペラに詳しくはない。

イギリスのオペラというものが・・・ヘンデルを除けば・・・私の初体験であった。最初は平凡なだけの、とらえどころのない音楽が続くことが予想され、そしてまさしてもその通りだなと思った。しかし第2幕の少年が崖から落ちるシーンなどは、これがイギリス風の抑制の効いた作品であることに胸を撫で下ろした。音楽が物語を必要以上に誇張し、荒唐無稽であることも厭わないイタリア・オペラとは異なる世界がある。ここでは音楽が、感情を増幅することはあっても誇張されすぎることがない。だからリアリティの強い作品でも、理性を失わずに見ていられるかもしれないと思った。

チャイコフスキー:3大バレエ組曲(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

チャイコフスキーの3大バレエ音楽について、個人的なベスト盤とともに感想を書き終えた。3作品のうち最初に作曲された「白鳥の湖」は、1877年の初演時には必ずしも成功を収めることができず、チャイコフスキーにとっても不本意な結果となった。しかし、1890年に初演された「眠れる森の美女」...