2015年7月23日木曜日

シューマン:交響曲第4番ニ短調作品120(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューマンは第1番の交響曲「春」の次にこの交響曲を作曲したが、今日よく演奏されるのは10年以上後になって改訂されたものである。今では何種類かの原典版の演奏も存在するようだが、私はまだ聞いたことがない。そういうわけでこの第4番は私にとってシューマン最後の、もっとも円熟した響きを持つ交響曲として聞いているのだと思っている。つまりとてもシューマン的なのであろう。

各楽章が続けて演奏される。楽章間が同じ和音を伴ってつながっていく様子は見事であり、特に第3楽章から第4楽章にかけてのクライマックスはベートーヴェンの第5交響曲を思い出させる。ここの盛り上がりを初めて聞いた時、私は身震いに似た感覚を覚えた。その時の演奏は今でも歴史的とされるウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるもので、亡くなる前年の録音。オーケストラはベルリン・フィルだった。

この演奏はモノラル録音であるが、異様なまでのロマン性と骨格のしっかりしたフォーム、それに情熱的なパッセージなどその魅力は尽きることがない。おそらくフルトヴェングラーの残した録音の中でも極めて完成度が高いものだと思われる。この演奏の魅力について書かれた文章は枚挙に暇がないほどだから、私はもう少し最近の演奏を取り上げたいと思う。デジタル録音された80年以降の演奏の夥しい数の中で、もっともその演奏が似ていると思うのが、レナード・バーンスタインによる演奏だろうと(すべてを聞いたわけではないのだが)思っている。

バーンスタインとシューマンの相性は非常によく、そこにウィーン・フィルのふくよかで豊かな響きがプラスされて名演奏となっている。ライブ録音された演奏はきりりと引き締まっていながら情熱を忘れてもおらず、 指揮台を踏み鳴らすようなバーンスタインの姿が目に浮かんでくるようだ。もしかするとその息遣いも捉えていよう。特に終楽章は燃えている。たしかFM放送でこの演奏に接して以来、私はこの演奏を手に入れたいと思った。「春」とカップリングされ、後に全集となった一連のセッションはブラームスやベートーヴェンと同様、映像にも収録され、このコンビの黄金期を伝えている。

序奏の深く沈んだようなメロディーから第1楽章の主題が聞こえてくるあたりや、それが重厚な中にも大きな推進力を持って進むさまはドイツ音楽の真骨頂だろうと思う。第2楽章のロマンチックな旋律や第3楽章のスケルツォとそれに続く圧倒的なフィナーレ。ここまで書いてきて思うのはこの曲が30分程度と短いながら、無駄な部分のほとんどない完成度を感じさせる点である。ベートーヴェンの交響曲がそうであるようにこの曲もまた、演奏を云々する以上に曲が素晴らしいということに尽きる。どんな演奏で聞いてもそこそこ満足な上、その表現上の違いもまた曲の魅力ゆえなのだろうと思う。ライブで聞いたこの曲としては、パーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィルを率いて来日した際のものが、少人数編成でありながら大いに感銘を受け心に残っている。

2015年7月22日水曜日

メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調作品90「イタリア」(ヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団)

音楽の中心がウィーンに移るまでの間はイタリアこそが音楽の中心で、ヘンデルもモーツァルトもイタリアに学んだ。音楽家にとってイタリアは、一度は訪れたい地であった。このイタリアへの憧憬はロマン派になっても続き、ワーグナーもチャイコフスキーもイタリアを旅行先に選んでいる。そしてドイツ生まれのメンデルスゾーンもまた、そのような一人であった。

メンデルスゾーンは1830年頃ローマを訪れ、交響曲「イタリア」の着想を得たとされている。後に作曲される第3番「スコットランド」と並んで、旅行先を副題に持つ交響曲のカップリングはLPの時代からの定番であった。私が最初に親しんでメンデルスゾーンの交響曲もまた「イタリア」であった。最初に聞いた演奏は確か、ジュゼッペ・シノーポリが指揮した演奏で、クラウディオ・アバドの有名な録音と並びイタリア人によるイタリア風の演奏という触れ込みだった。

もっとも最高の演奏は今もってアルトゥーロ・トスカニーニによるモノラル録音であることに疑いはない。また伝統的にメンデルゾーンはその活躍した国でもあるイギリス人による演奏、たとえばコリン・デイヴィスも得意としているし、ペーター・マーグやオットー・クレンペラーに代表されるドイツ風の演奏もまた、作曲家がドイツ生まれであることを考えると当然悪くはないだろうと思う。

第1楽章の沸き立つようなリズムは聞く者をこれほどうきうきさせるものはない。そうか、これがイタリアか、などと中学生だった私は思ったものだ。 以来私のイタリア好きはいまだに一度も終わっていない。かの地を3度旅行したことがあるがそのうち2回は猛暑の8月で、1回は1月だったが毎日快晴の日々の連続で、私はイタリアと言えば、澄みきった空と明るい太陽、静かで陰影に富む旧市街の街並み、赤い屋根となだらかな丘、陽気だが機智に富むイタリア人、音楽と絵画と料理、しゃべりだしたくなるイタリア語のリズム。そういったものがミラノの広場、ヴェローナの音楽祭、ヴェニスの運河、フィレンツェの裏通り、シエナの教会、ローマの遺跡、ナポリの喧騒などとともに脳裏に焼き付いている。

メンデルスゾーンもまたイタリアに憧れ、その魅力に取りつかれた。この交響曲は「Italienisch」となっているから「イタリア風」とでも訳すべきだろう。明朗で浮き立つような第1楽章だけでなく、どことなく懐かしい第2楽章、穏やかな第3楽章、それに「サルタレロ」と題された舞曲風のメロディーが横溢する終楽章まで魅力が尽きることがない。

私はこの曲が好きだが、どういうわけか最高の演奏に出会うことは少ないような気がする。トスカニーニの演奏が強烈過ぎるからだろうか。そのような中で私は90年代にヘルベルト・ブロムシュテットがサンフランシスコ交響楽団を指揮した演奏のCDを、わがラックに持っていたことをすっかり忘れていたのは意外だった。久しぶりに聞きなおしてみるとその演奏は、明確な安定性と推進力を程よく持ち合わせ、録音も秀逸でなかなかの演奏なのである。サンフランシスコ交響楽団の木管のパートがこれほど魅力的だとは思わなかった。そしてカップリングされた「スコットランド」と合わせると、この組合わせのベストであると思うに至った。

梅雨が明けて今年も暑い夏がやってきた。雲ひとつない東京の空に強風が吹き抜け、猛暑とはいえそこそこ過ごしやすい夏の午後。木漏れ日がきらめく神宮外苑の並木道を自転車で走りながら、私はまたこの季節が来て良かったと心躍らせている。もちろんメンデルゾーンを聞きながら。

2015年7月14日火曜日

ブラームス:弦楽六重奏曲第2番ト長調作品36(Vn:イザベル・ファウスト、他)

そもそもブラームスがさほど好きではない私にとって、この弦楽六重奏曲との出会いは新鮮だった。めずらしい編成(ヴィオラとチェロがそれぞれ2本)もさることながら、若々しく新鮮でそれまでの私のブラームス像を嬉しく壊してくれたからだ。4つの交響曲やいくつかの協奏曲くらいしか知らない私にとって、この曲の魅力は何と言ってもその躍動的な瑞々しさだろうと思う。最初の交響曲第1番がもう40代にもなっていたブラームスの管弦楽作品しか知らないというのは、この作曲家の一つの側面を理解しているにすぎないように思う。

ブラームスは弦楽六重奏曲を2曲作曲しているが、私が今回聞いているのは第1番変ロ長調作品18を作曲した1860年の5年後で32歳の時に作曲された第2番ト長調作品36である。ブラームスは当時すでにウィーンにいて、歌手のアガーテ・フォン・シーボルトと恋愛関係にあったようだ。だが私はそういういきさつをあまり考えながら聞きたい方ではないので、こういう話は他の人に任せておきたいと思う。このようなパーソナルな状況分析は、ロマン派以降目立つようになるのが音楽史ではあるが。

古典派まではむしろ音楽の形式上の革新性やその意味について触れることに力がそそがれるのだが、その場合には音楽的知識が必須となり私の場合とうてい力の及ばない領域となる。結局、素人の書く音楽の文章は、やおら観念的、主観的にならざるを得ない。これがポピュラー音楽ならそれだけでいいという考えがあるが、クラシックの場合そうはいかない。もっとも個人的な文章だから別に構わないではないか、という至極真っ当なな意見に逆らう気はない。けれどもブログという性質上、誰が読むかもわからないわけで、ある程度の客観性が必要と(勝手に)思っている。

オペラであれば物語の具体性のおかげで文章も比較的簡単に書けるし、標題音楽もまたしかりである。でなければ誰もが評論している有名な曲・・・ベートーヴェンのシンフォニーなどが比較的予備知識が豊富で書きやすい。あるいは感性だけで聞ける美しい曲・・・モーツァルトやショパンの類。ところがブラームスの室内楽曲となると、これはもう想像力を極限にまで試されるようなところがある。従って私はこの曲の感想文のようなものをうまく書く自信がまったくない。

仕方がないから、この曲を初めて聞いた時の文章を転記しておこうと思う。もっぱらこのブログは私の個人的な鑑賞ノートに過ぎないのから。

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ダニエル・ハーディングの演奏を聞いた記念に、何か一枚CDでも買おうと思ってショップを覗いてみたら、最新の録音としてハルモニア・ムンディからブラームスのヴァイオリン協奏曲がリリースされていた。私はなんとなくせっかちで、少し小規模な感じのするハーディングの演奏をあまり好んでこなかったが、これはむしろ独奏を務めるドイツの女流ヴァイオリニスト、イザベル・ファウストを聞くべきCDである。だから、まあこれがいいかと思って買ってきた。

そのCDの余白(といっても結構長い時間だが)には、同じブラームスの弦楽六重奏曲第2番がカップリングされている。滅多に聞かない曲だし我がコレクションにもない。これは丁度いいと思って聞き始めた。ところが実にこれがいいのである。ブラームスの弦楽六重奏曲が、こんな明るい曲だとは知らなかった。晩秋に相応しいと勝手に思っていたブラームスも、演奏次第なのか曲のせいなのかはわからないが、とにかく美しくで、切れがあって、何とも素敵なのである。32歳の時の作品と知って、なるほどと思った。

言ってみれば夏のブラームスなのである。今日もiPodに入れたMP3を再生しながら、仕事を終えた夕暮れの公園のベンチに座って聞いていた。連日の猛暑も夕方となればピークを過ぎて、強い風がビルの谷間を駆け抜けてゆく。時折イヤホンの隙間から、子どもたちの歓声がこだまする。

夏至の日が傾くと、ひとり、またひとりと公園を去って行った。私は音量を大きめに設定して家路を急ぐ。憂愁を帯びた厚ぼったいブラームスも悪くはないが、ここは流行りのスキッとした演奏で聞きたいものだ。ヴァイオリン協奏曲も、マーラー室内管弦楽団の力を借りて、ゆるぎない力をみなぎらせながら、さっそうと奏でられるブラームスに、目立たないが大人の雰囲気を感じる。

それにしても弦楽六重奏曲は素敵だった。どの楽章も素晴らしく、飽きることがない。一気に40分近くがたってしまう。こんな曲なのだから、他にもいい演奏があるのではと検索してみたが、古いものがヒットするだけで、なかなか曲の真価を知らしめる新録音は少ないようだ。だからこのCD(SACDハイブリッドならもっといいのだが!)は、そういう意味でも掘り出し物ではないかと思った次第である。
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【演奏】
Vn:イザベル・ファウスト、ユリア=マリア・クレッツ
Va:ステファン・フェーラント、ポーリーヌ・ザクセ
Vc:クリストフ・リヒター、シェニア・ヤンコヴィチ

2015年7月8日水曜日

メンデルスゾーン:劇音楽「夏の夜の夢」作品61(S:キャスリン・バトル他、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

梅雨のないヨーロッパの夏は、例えようもなく輝かしい季節である。6月ともなるとバカンスのシーズンが到来したということで、各地の観光地や別荘地は賑わう。今年債務不履行となったギリシャなどは間違いなく快晴の日々が続くから、それこそドイツをはじめヨーロッパ各地からの観光客でごった返す。私も東京で湿度の低い快晴の一日があると、これはヨーロッパの夏のようだ、といつも思う。

そのような夏の中でももっとも日が長い夏至が近付くと、奇妙な事件が起こると言い伝えられている。シャークスピアの戯曲「夏の夜の夢」も妖精たちの登場するファンタジックなお話である(だがそのストーリーはあまりに複雑なので省略)。メンデルスゾーンはこの物語に音楽をつけ、そのことでもしかしたらシェークスピアのこの作品が広く知られることになった、というのは言い過ぎだろうか。

先に作曲された長い序曲(作品21)に続いて、2人のソプラノと合唱団も登場する魅力的な音楽が始まる。ストーリーよりもその音楽が大変に美しいので、この作品は音楽のみを純粋に楽しむことができる(というよりも語りはかえって音楽の流れをそぎ、無駄であるとさえ思う)。特に我が国でも有名な「結婚行進曲」は知らない人などいないほどだ。満員電車の中でイヤホンでこの曲が流れてくると、音が漏れていないかと心配になり気恥ずかしくなる。

この結婚行進曲以外にも魅力的な音楽があって飽きないのが「夏の夜の夢」である。特に「まだら模様のお蛇さん」を含む全曲盤の録音がいい。私のコレクションにはジェフリー・テイトの指揮するロッテルダム・フィルの録音が唯一だった時代が長く続いたが、少し大人しいこの演奏よりもっといいのがあると思っていた。昔のクレンペラー盤がベストだと言う評論家もいるが、マリナーやプレヴィンの演奏も悪くはない。けれど小澤征爾の演奏がリリースされた時は、「買い」だと思った。

聞いてみてその予感は間違っていなかったと確信した。全ての音が生き生きとよみがえり、メンデルスゾーンの曖昧な音色が奇麗に磨かれている。テンポも新鮮でこの曲ほど小澤の指揮にマッチしているものはないとさえ思った。だがこの演奏の欠点は、「売り」であるはずの吉永小百合のナレーションにある。私は吉永小百合が悪いというのではない。この曲に日本語のナレーションが本当に必要だったのか、と思うのだ。

要は音楽の自然な流れが阻害され、折角の曲が楽しめないのである。キャスリン・バトルのソプラノが大変素晴らしいだけにそのことが残念である。もしかするとその朗読に魅力を感じている人もいるだろうし、後半部で声と音楽がうまく絡み合っている部分は悪くもないが、そうであるならいっそ2枚組にでもして、片方は朗読なしのバージョンを収録して欲しかったと思う。もう一人の独唱はメゾ・ソプラノのフレデリカ・フォン・シュターデ、タングルウッド音楽祭合唱団が加わる。

だが何度聞きなおしてもこのCDに収録された音楽は一級品である。録音の素晴らしさも貢献して、この録音は小澤征爾のベスト・アルバムの1つではないかとひそかに思っている。なお、輸入盤を購入すれば吉永小百合の代わりに英語のナレーションが流れるようだ。シェークスピアはイギリスの作家だから、オリジナルを志向する向きは輸入盤を買うといいのかも知れない。

2015年7月3日金曜日

マーラー:交響曲第3番ニ短調(S:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター他、ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

前の2つの交響曲によってシンフォニストとしての存在感を不動のものにしたように思えたマーラーが、次は一体どこに向かおうとしているのだろうか、などとこの曲を初めて聞いた時には感じたものだ。ニ短調という調性に加え、深刻なホルンのフレーズで始まる重々しい音楽が、私をこの演奏からしばしの間遠ざけた。続く第4番や歌の入らない第5番の方が親しみやすかったように思ったからかも知れない。

理由はもう一つある。100分にも及ぶその長さである。全部で6楽章もあり、第1楽章だけで30分以上もかかる。CDの時代になっても2枚は必要で、合唱や独唱も入るから演奏される機会は少ない。だがマーラーはこの曲をわずか2年で書きあげている。これは第1番「巨人」や第2番「復活」とは比べ物にならない速さである。すでに人気ある指揮者としての歩みをハンブルクで始めていた。作曲に充てられる時間は、夏の休暇期間中のわずかである。マーラーはザルツブルクに近い湖畔の村シュタインバッハに小屋を建て、そこにこもって作曲を続けたという。このときマーラーはまだ独身である。

この曲に関する逸話の中でもよく知られているのが、まだ二十歳のブルーノ・ワルターがこの小屋を訪ねてきたときのことだ(と言ってもワルターはマーラーの助手だった)。湖畔の向こうに広がるアルプスの雄大な眺め(ということはインターネットの時代すぐにわかる)を見ていると、36歳だったマーラーは、あの独特な風貌、すなわち目の中に悲しみとユーモアを浮かべながらこう言ったというのだ。「君はもうこの光景を眺める必要などない。私がすべて作曲してしまったからだよ」。つまりこの曲はマーラーの自然への賛歌というわけである。

この曲を気楽に聞こうと思ったのは、この時からである。そしてこの曲にはマーラー自身が付けた具体的な副題が付けられているのだ。それは「夏の朝の夢」。後にこの副題は削除される、といういつもの経緯をたどっているが、よく参照されるのでここにもコピーしておこう。

第一部
  • 序奏 「牧神(バーン)が目覚める」
  • 第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 
第二部
  • 第2楽章 「野原の花々が私に語ること」
  • 第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」
  • 第4楽章 「夜が私に語ること」
  • 第5楽章 「天使たちが私に語ること」
  • 第6楽章 「愛が私に語ること」
作曲当初は第7楽章「子供が私に語ること」というのまであったが、さすがに長すぎるとおもったのか、これは交響曲第4番に回された。なお、中間の楽章には「少年の不思議な角笛」からの引用が見られ、第2番から第4番まで続く「角笛交響曲」としての特徴を持っている。第4楽章と第5楽章は続けて演奏され、アルトの独唱、女声合唱、それに少年合唱が加わる。

初めて聞いた時の印象は、何かとりとめのないものだった。深刻な冒頭が行進曲に変わったりしながらも、どちらかと言えば静かに進む音楽は、長いこともあってなかなか特徴がつかめない。木管楽器の鳥の鳴き声のようなフレーズや、静かに想いに沈むような神秘的なメロディー。少年合唱が入ると、とてもさわやかなな気持ちがしたが、それも終楽章のこの上なく美しいいアダージョとなると長いフレーズが続く。それは次第に大きくなり、いよいよ来たなという感じである。この終楽章の演奏の良しあしが決定的に聞き手の印象を左右する。滔々と流れる音楽は静かにうねりながらクライマックスを迎える様子は、ワーグナーやブルックナーの長大な音楽を思い出させるが、ここには紛れもなくマーラーの心が投影され、ナイーブで物悲しい心が潜んでいる。

アルトの歌う第4楽章の歌詞が、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節であることも触れておかなくてはならないことになっている。そして同名の交響詩を作曲したリヒャルト・シュトラウスは同じ時代を生きた作曲家だが、この二人の対比というのもよくなされる分析である。片や映画音楽にもなった絢爛たるオーケストラの魔術師であり、マーラーはそれとは対極的に、常に精神的側面が音楽に投影する。だからこの音楽は自然を題材にしていながら、その意味するところは常に思索的なのである。

そういう曲だから(というかマーラーはいつもそうなのだが)、演奏を選ぶときは「マーラー的」なるものが全面的に支配する演奏か否か、が分かれ目であるように思う。 どちらがいいという言い方はしたくないが、私自身はあまりその側面が強調されすぎるのを好まないほうだ。その理由はやはり共感する部分が、どう頑張ってもとてもマーラーの領域には及ばないと参ってしまうからだ。中には作曲家の心と同体となるような人もいるようで、例えばバーンスタインの演奏はその最右翼である。一方、ここで取り上げるピエール・ブーレーズによる演奏は前者、すなわち客観的で分析的であると言える。ブーレーズの演奏はしばしば速くて素っ気なく、時に冷淡でさえある。けれどもそのような中にオッターの歌う滔々とした歌声が聞こえてくると、別の世界にいるような気持がする。ウィーン少年合唱団の響きはまるで教会の中にいるようだ。

前衛的な現代作曲家が指揮台にカムバックしてストラヴィンスキーやバルトークを再録音し始めたのはとても興味深かったが、そのブーレーズが10年以上にわたって取り組んだのがマーラーの交響曲である。オーケストラを変えながら着実に評価を高め、それまでになかったマーラー像を打ち立てた。この第3番もそのような中の一枚だが、録音されたのが2001年だからもう15年も前のことになる。ウィーン・フィルのふくよかな音色が優秀な録音によって捉えられており、それまでのウィーンの代表的演奏であるアバドの録音でさえ古く感じさせる(とはいえこの演奏はいまもってこの曲のベストのひとつである)。

私のもっているこのディスクは、SACD層を持つハイブリッドのものだ。2003年頃、一瞬だけユニバーサル系の音源がSACDフォーマットで売り出された。大いに期待したが、すぐに廃盤となってしまった。SACD2枚組、というわけでそれなりの出費を強いられたディスクである。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...