2017年6月27日火曜日

ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(オラトリオ版)(ウラディーミル・ユロフスキ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団他)

これまでにオリジナルの管弦楽版、そして弦楽四重奏版と聞いてきたハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」は、最終的に作曲者自身にょって編曲されたオラトリオ版になって、いよいよ名作の仲間入りを果たす作品に仕上がったように思った。何よりオーケストラだけの曲だった旋律に歌詞が入ることの面白さが手に取るようにわかる。それは丸で、白黒写真に色を塗るようである。しかもこの作品の場合、最初から歌詞入りを想定していたわけではない。ところが、丸でその歌詞のために作られた音楽であるかのようだ。

序章は歌詞が入らないため、管弦楽版と同じである。しかしユロフスキの指揮で聞く今回の録音では、まずこの演奏が古楽器奏法の影響を受けた最近の演奏であることによって、実にすっきりとしたものになっている。まずそこで最初の感動。

第1のソナタ。だがまず耳に響いてくるのは、何と合唱のみではないか。「父よ!彼らの罪を許しさまえ」と短く入ると、あの最初のメロディーが歌入りで聞こえてくる。身震いすら覚えるような、ハッつする瞬間。心が洗われるような気がした。合唱曲というのはこういう風になっているのか、と思う間もなくソリストが絡む。

ユロフスキの演奏では、リサ・ミルン(ソプラノ)、ルクサンドラ・ドノーゼ(メゾ・ソプラノ)、アンドリュー・ケネディ(テノール)、クリストファー・マルトマン(バリトン)の4名で独唱である。ライブ録音だが、そうと気付くのは演奏が終わって、徐々に盛り上がる拍手が聞こえて来た時である。演奏の完成度は高く、とても感動的。

第2のソナタでも同じようなコラールの響きを最初に置いている。「おまえは今日、私と共に楽園にいる」。でもこの曲では、まず長い管弦楽だけの部分がある。管弦楽版や弦楽四重奏版を聞いてきた者にも、たっぷりとをの旋律を聞かせるのは憎い演出だ。しかもここは独唱から入る。ユロフスキの演奏はビブラートを抑えて速めに進む。そのことによって、かえって心に染み入るように止めどもなく悲しい旋律が続く。

第3のソナタは「女性よ、これがあなたの息子です」  。まるで教会でミサを聞いているような清楚な残響を伴って、最初は管弦楽のみで入るところは第2のソナタと同じ。遅い曲ばかり聞き続けてきたのにも関わらず、交響曲なら第2楽章に入る感じだ。続く第4のソナタは「わが神よ!何故私を見捨てたのですか?」は少し雰囲気が変わって、どこか遠くへでも行く感じ。諦観とも言えるようなメロディーだと感じるのは私だけだろうか。

さて、このあとに管弦楽版ではなかった「序曲」が挿入されている。この作品が大曲としての性格を帯びるとともに、物語性を持つことにも寄与している。ハイドンがオラトリオ版を思い付いたのは、自身の作品が編曲され、カンタータとして演奏されているのに遭遇したからだ、というところが面白い。それはロンドンからウィーンへと帰る途上でのことであり、帰国前のロンドンではヘンデルによる大規模オラトリオに接している。後に「四季」や「天地創造」へと発展する、これは先駆けとも言える作品である。

後半は第5のソナタの特徴的なピチカートから始まる。ここでは合唱による前置きはない。それどころかこのあたりは管弦楽の見せ場が続く。忘れた頃に入って来る歌は、その切々たるメロディーが繰り返される時で、テノールの独唱からである。「渇く!」 と題された音楽は、痛々しくも抒情的でもある。第3楽章と言った感じか。

第6のソナタ「果たされた!」の導入部は再びコラールだが、ここは非常に短い。いよいよ音楽は最終段階に入る。どちらかというと明るい感じがする。それは演奏が荘厳であるにもかかわらず、無駄な部分を削り落としたような性格によるものだからだろうか。そして第7のソナタ「父よ!あなたの手に私の霊を委ねます」 に至って再び教会で聞くような美しい合唱に耳を奪われた。ホルンのメロディーに耳を澄ましているうちに、どことなく心が軽くなり、気分が昇華していく。そしてそれを打ち砕くような大地震!ユロフスキの演奏はきびきびとリズムを刻みながら、一気にコーダを迎える。緩徐楽章のみで1時間にも及ぶ曲が終わると、私は少し淋しい気分になった。

2017年6月22日木曜日

チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32(レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

大名演だったフェドセエーエフ指揮NHK交響楽団の演奏会で、チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」を聞いた時、一緒に行った弟にこの曲をちゃんと聞いたことがないと告白すると、バーンスタインの大名演があると教えてくれた。それも若い頃の演奏ではなく、晩年のドイツ・グラモフォン盤である。オーケストラはニューヨーク・フィルハーモニック。

このコンビによる録音は、私の手元に交響曲第5番がある。このCDに一緒に収められているのがもしかするとそうだっかだろうか、と見返してみたが、それは「ロメオとジュリエット」であって、残念ながら「フランチェスカ・ダ・リミニ」ではなかった。「ロメオとジュリエット」に比べると「フランチェスカ・ダ・リミニ」の録音は少ない。

バーンスタインとしては新しい方の録音とは言え、もうかれこれ20年近くも前のものなので、今では都内にもわずかとなったCD屋に出向いたところで、入手ができるかわからない。Amazonでも買えるだろうが、一緒に収録された交響曲第4番にそんなに興味は沸かない。中古屋に行こうかと迷った時、私にはもう一つの選択肢が頭に浮かんだ。地元の図書館である(YouTubeでも聞けるではないか、という意見もあるが、それはさておき)。

さっそく地元の図書館のウェブ・サイトに行ってみると、本館だけでなくいくつもある分館の蔵書目録を一発で検索できる。誰かが借りていたとしても予約ができ、自分が借りられる状態になった際には登録しておいたメールアドレスにお知らせが来て、しかも最寄りの分館で受け取れるのである。かつてのように出向いて、カードを検索する必要などない。それで「チャイコフスキー」「フランチェスカ」などとキーワードを入力すると、一発で複数がヒットし、その中にちゃんとバーンスタインの録音があるではないか!

さっそく予約し、翌日には受け取ることが出来た。それを携帯音楽プレーヤー(私はSONYのWalkmanである)に入れて通勤途中に聞いてみた。録音は1989年10月で、亡くなる丁度一年前であり、ほとんど追悼盤に近い形でリリースされたものである。最晩年のバーンスタインは、さらに入念で思い入れが深い演奏を繰り広げ、2度目のマーラー全集に代表されるように、次々と超ド級の録音を重ねて行った頃である。我が国の年号で言えば、昭和から平成に変わる、まさにその頃。

幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、チャイコフスキーが弟とともに南フランスを旅行中に、ダンテの「神曲」の「地獄篇」に触発されて作曲したと言われている。私は恥ずかしいことにチャイコフスキーがフランスを旅行していたことを知らなかったが、この「フランチェスカ・ダ・リミニ」というタイトルは、サンドナーイの歌劇に出てくることを知っているくらいで、そのストーリーも知らなかった。あらためて調べてみると、それはまさに歌劇に相応しいストーリーである。
「13世紀、ラヴェンナにあるポレンタ家の美しい姫フランチェスカは、父の命令で宿敵マラテスタ家との和解のため、同家の長男ジョヴァンニのもとへ嫁ぐことになる。フランチェスカを迎えに来たのは、ジョヴァンニの弟である美青年パオロだった。2人は恋に落ち、醜いジョヴァンニとフランチェスカが結婚してからも密会を続ける。ところがある夜、フランチェスカとパオロが密会しているところをジョヴァンニに見つかり、嫉妬に狂ったジョヴァンニによって2人は殺されてしまう。2人は色欲の罪を犯した者として、地獄の嵐に吹き流される。」 (Wikipediaより)

音楽は暗く、何か悪いことが起きそうな感じで始まる。「トリル」というのは「ある音と,それより二度上または下の音とをかわるがわる速く奏すること」と手元の音楽辞典には書かれているが、「タララ、タララ」と、丸でつむじ風が建てつけの悪い家屋を吹きとばさんとするかのように、渦を巻きながら駆け抜けてゆく。私はこの音楽を聴きながら、嵐を創造するのだが、何か戦闘が行われているようにも感じられる。「減七の和音」というのはこういう時に使われるもので、不安定である。

しかし音楽はやがて、オーボエのソロを伴って静かな部分に入る。このあたりのメロディーの美しさがわかるようになったのは、歌劇「エフゲニー・オネーギン」を聞いてからのように思う。チャイコフスキーのもっとも美しい調べは、抒情的でほの暗い。 オペラ的であり、幻想的でもあるここのメロディーは、フランチェスカとパオロの恋を描いていることは明白である。

終盤になって再び激情に見舞われ、音楽は速くなり、高揚して終わる。バーンスタインとニューヨーク・フィルによる圧巻の名演奏は、巨匠が亡くなる直前とは言えないほどエネルギッシュである。バーンスタインが晩年になってチャイコフスキーを取り上げたのは、彼がロシア系の移民であることと関係があるのかも知れない。ソ連が崩壊するのは、その死から丁度1年が経った1991年のことであった。


2017年6月14日水曜日

R・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」(The MET Livein HD 2016-2017)

午後4時半に会社を早退し、東劇への道を急いだ。MET live in HDシリーズ今シーズン最後の演目、シュトラウスの「ばらの騎士」を見るためである。豊穣な音楽が始まると、さっそくマルシャリンとオクタヴィアンが登場し、後朝(きぬぎぬ)の歌を歌う。前奏曲に小鳥の鳴き声が混じる頃、前部の幕が開き、奥に広がる寝室に拍手が漏れる。絵画が所狭しと掲げられた広間に赤いベッド。部屋の扉が幾重にも開くと、その奥から登場する何人もの従者たち。舞台は18世紀後半のウィーンを19世紀に移し、豪華絢爛な世紀末の貴族社会はややモダンな感じ。ロバート・カーセンによる新しい演出に期待が高まる。

この公演の注目は、しかしながらこの舞台を最後に引退を表明した二人のソプラノ歌手、ルネ・フレミング(元帥婦人)とエレーナ・ガランチャ(オクタヴィアン)による歴史に残る贅沢な競演である。もちろんこの二人は、それぞれの役を引退するだけで、歌手生活を辞めるわけではない。だがフレミングの長年この役を歌ってきた貫禄と、ガランチャの理想的とも言えるズボン役が見事に折り重なるシーンは、美しく官能的である。

一方、オックス男爵も負けてはいない。というか、この隠れた主役は道化役としての最高ランクを必要とする難役だろう。バスのギュンター・グロイスベックは、スケベ心満載の田舎貴族を、丸で地で行くような印象すら醸し出す当たり役で、歌と言い役回りと言い、申し分のない出来栄え。シュトラウスは当初、このオペラを「オックス男爵」としようと考えていたようだが、もしそうなっていたら間違いなくこの歌手は、その標題役をこなす第一人者として歴史に名を残すだろう、とさえ思われた。だがバスの歌手が、いくら低音を響かせても、「ばらの騎士」は女性主体のオペラである。何せ3人もの実力派ソプラノを必要とするのだから。

3人目のソプラノ、すなわち成金貴族のファーニナル家の娘で、オックス男爵(は元帥婦人の叔父でもある)の許嫁ゾフィーは、数か月前に出産したばかりのエリン・モーリーによって歌われた。16歳からこの役の当たり役だったと言う彼女は、清楚で真面目な父親思いの女性である。ファーニナル家の行く末を案じ、経済的な困窮を何とかしたいと思っている一途な側面も隠そうとはしない。そのファーニナルはバリトンのマーカス・ブリュックで、2度も心臓発作に見舞われる滑稽な演技が実に面白い。

ロバート・カーセンの演出はいつも見どころが多く、時に天才的である。私はかつて「ホフマン物語」で心底そう思ったが、そのためにも本公演をぜひとも見ておきたかった。彼は舞台設定を1世紀進め、この作品が作られた頃に移した。第1次世界大戦が忍び寄る世紀末の影は、出演者がみな軍隊と関係があるという設定をも読み解き、第2幕では大砲が登場するという大胆さ。それは第3幕にも引き継がれ、娼館、あるいは売春宿の雰囲気をあからさまに表現する。出演者に細かな演技を求め、一挙手一投足にまでつけられた絢爛豪華な音楽と相まって、舞台は大変に賑やかである。

だが、そのことがこの作品の持つ保守的な美しさを減じてしまったのは否めない。饒舌でしかも複雑な解釈は、そもそもこの物語が18世紀を舞台としているにもかかわらずウィンナ・ワルツが横溢することや、婚約者に「銀の薔薇」を届ける風習といった完全な作り話というような、矛盾を設けてまで表現される、ひたすら華やかで滑稽な、つまりは娯楽性の極致ともいえる退廃性、白痴なまでの美しさを覆い隠す。真面目で考えすぎた結果、見どころは多いが主義主張も大きいという、一見中途半端な結果に陥ったのではないか。

私はこの上演がつまらないと言いたいわけではない。歌手は全員素晴らしいし、指揮者のセバスティアン・ヴァイグレと合唱団、それにイタリア人歌手として客演出場したメトの実力派、マシュー・ポレンザーニは言うことがない。だが、私ははまた、時間とともに老いていく人間のペーソスは、何もこれだけのお金をかけなくても表現できたのではないかと思う。このオペラの舞台は、いつも捕らわれたように貴族社会の贅沢を表現するものが多いが、テーマにしていることの普遍性とわかりやすさを考えれば、むしろ極限にまで表現を絞り込んだ演出(それはデッカーの「椿姫」やワーグナーの楽劇でみられるような簡素な舞台表現)があってもいいのではと思う。特に今回のような実力派の歌手が揃えば、それで十分ではないかと思うのだが、いかがだろう。

「ばらの騎士」は不思議な作品である。ちょっとシュトラウスのマジックに、そして下心に乗せられているような気がしないでもないのだが、それにしても音楽の魔法というのは恐ろしい。第3幕で舞台にゾフィーとオクタヴィアンだけが残り、最後の二重唱を歌う時、私は久しぶりに泣きそうになった。こんな美しい音楽があるかといつも思うのだが、それは3時間余りに亘ったどんでん返しと喜劇の果ての急展開になぜか馴染む。それも自然に。この感覚はやはりモーツァルト的である。今回の上演では、このオペラの持つ前衛的な響きが十分に表現され、演技にも個人の近代性が表現されていた。もはや古めかしいだけの「ばらの騎士」ではない舞台に接した印象ではなぜか、「時の移ろい」あるいは「老いの哀しみ」というよりも「若さへの憧憬」「過ぎ去ったものへの懐かしさ」が前面に出た舞台だったと思う。

2017年6月4日日曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団第574回定期演奏会(2017年6月2日、すみだトリフォニーホール)

ハイドンの最高峰「天地創造」を実演で聞くことができただけで、神に感謝しなければならないだろう。我が国で最も有名な古楽奏者である鈴木秀美が、新日本フィルの定期に出演し、しっとりとしかもたっぷりとハイドンの音を響かせた。すみだトリフォニーホールは空席も目立ったが、熱心なファイは静かに聞き入り、惜しみない拍手が送られた。

旧約聖書の冒頭部分、神が7日間でこの世界を作り出したという「創世記」は、以下のように始まる。

「はじめに、神は天と地をつくられた。地は形もなく、空虚だった。そして闇が深淵の上を覆っていた、そして神の霊が、水の上で漂っていた。神は言われた、『光あれ!』と。」

最初の和音のあとは、しばらく静かな、まさに混沌とした、それでいて音楽的な響きが続くと、やがて深く息を吸い込むようにオーケストラが、そして独唱と合唱が上記のことばを歌う。まったくもって感動的な瞬間である。

ラファエルはバス・バリトンによって上記の前半部分が歌われ、合唱がそれに続く。今回の公演では、ラファエルを多田羅迪夫が歌った。声量もあり、その経歴から不足はないのだが、やや音程がずれることがあったのは残念である。一方、合唱はこの公演のために結成されたコーロ・リベロ・クラシコ・アウメンタート。鈴木が主宰するオーケストラ・リベラ・クラシカと同様、古楽の専門集団である。総勢60名程度の合唱は、プロとアマの混合だそうだが、迫力は十分であった。

「天地創造」は、世界の始まり7日間の出来事を3つのパートに分けて順に進む。

<第1部>
第1日・・・天と地
第2日・・・空と水
第3日・・・海と陸、草木
第4日・・・昼と夜、季節、太陽と星

<第2部>
第5日・・・生き物
第6日・・・人間

今回の公演はここで20分の休憩が入った。つまり第7日にあたる安息日ということだろうか。ここまででも十分に聞きごたえのある音楽が次から次へと現れ、耳と体がすっかりハイドンの音に浸ってゆく。よくこんなにも綺麗な音楽を、多く作曲したものだとつくずく思う。

「天地創造」は「世界と自然の誕生をめぐる壮大な物語を音楽によって描写する野心的な試みである。ここでのハイドンの音楽はそれ自体が力を内包し、混沌の中にあって自ら生成していく自然の力と同一視されているかのようだ。」(公演のブックレットより)

この音楽を最初に聞いたのは、武蔵野音楽大学のオーケストラだった。確かハイドン・イヤーの頃だったと思う。ここで私は、音楽の持つ不思議な力に感動し、ただ独唱と合唱が繰り返すだけのスタイルに、壮大な物語が語られているにもかかわらず、そしてハイドンの「古典派」としての音楽的形式を遵守しながらも、決して物足りないものにはなっていないことに、単純に驚いた。大オーケストラにコンピュータを用いた壮大なSF映画音楽が、内容のない陳腐なメロディーを延々とかき鳴らす現代文明に染まった身からすれば、それは奇跡のような瞬間だった。

ハイドンのオラトリオ「四季」は、「天地創造」と双璧をなす金字塔のひとつだが、共通するのは音楽による自然描写のユーモラスな側面を持つことである。歌詞を追っていけば、その内容が露わになる。だがしかし・・・今回の公演では字幕がないばかりか、会場が暗く対訳が読めない。これは音楽に集中することができる反面、やや物足りないと感じた。

私の大好きなウリエルのアリア「気品と尊厳を身に付け」は第2部の終盤、第6日目のシーンで歌われる。ここの音楽を聞くと、シューベルトの音楽はハイドンの模倣ではないかとさえ思えてくる。今回、ウリエルはテノール櫻田亮が歌った。やや小柄ながらその歌声は3階席の後方にまでこだまし、オーケストラと合唱が混じっても決して消えるようなことがないくらいに澄んでいた。

後半の第3部はアダムとエヴァの神への賛歌である。アダムを歌ったのは多田羅迪夫、エヴァを歌ったのはソプラノの中江早希である。私が最も好むシーン、アダムをエヴァの二重唱に合唱が加わる「おお主よ、神よ」は、この音楽最高の音楽だと思う。第3部が始まってすぐにここのメロディーが流れてくると、何か鳥肌が立つような感動に見舞われる。今回の演奏では・・・残念ながらそこまではいかなかったが・・・その理由はもしかしたら、昼間の仕事でのストレスが尾を引いて、私を演奏への集中から遠ざける要因になったからではないか、と思うことにした。

全体に音楽が大変美しく、オーケストラもほとんど全くミスをすることもなく、独奏の部分では特に、程よく調和された歌と楽器が、最後まで丁寧に、そして時に熱く鳴り響いた。3階席の私のそばで、重い総譜をめくりながら聞いていた人がいた。もしかするとこの人は、どこかの団体で指揮をするのだろうと思う。

9月には都響の定期で再び「天地創造」を聞く機会が訪れる。パンフレットによるとこの公演は、合唱にスウェーデン放送合唱団を迎える本格的なもので、しかも嬉しいことに日本語の字幕が付くようだ。だから私は今から、次の公演に心を寄せている。

演奏が終わり、いそいそと錦糸町駅の改札へと流れて行く人並からそれ、居酒屋などが立ち並ぶ下町の界隈を散歩した。乾いた初夏の風が頬を撫で、見上げると東京スカイツリーが正面にそびえていた。仕事で疲れた週末の夜は、美しい音楽と演奏のおかげでさわやかな気分を残しながら過ぎて行った。

2017年6月1日木曜日

メンデルスゾーン:ピアノ協奏曲集(P:ジャン=イヴ・ティボーデ、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団)

5月に入って毎日晴天が続いている。新緑の若葉が、青空と陽光に映えて眩いばかりだ。例年になく心地よい初夏の日に、メンデルスゾーンが聞きたくなった。毎年この季節、梅雨入り前のひと時、さわやかな風が開け放たれた窓から吹き込むと、私の耳に聞こえるのはロマン派、それも初期の作曲家の作品が多い。

メンデルスゾーンは私の好きな作曲家のひとりで、物憂い青春の日々に心を苦しめた記憶と重なると、しばし当時の自分に戻り、何かとても淋しい気分になる。無言歌集など私はもう、通常な心では聞けないほどになってしまい、何年か前に購入したバレンボイムのCDなどは、そのまま開封されていない。

快晴の湘南を歩いたのは、そんなある晴れた日のことである。私は東海道の旧道を歩くことに決めた。それもひょんんことから、所属する患者会のホームページに手記を書かないか、と言われたのがきっかけである。最初は体力の維持と暇つぶし、それに若干の好奇心を満たすつもりで、仕事と家庭生活の空いた時間に、日本橋から品川まで歩いただけである。別に目標を決めてもいない。だが何か月かに一度、思い立ったように電車に乗り、前回歩いたところからまた続きを、疲れたらそこで中断、という具合にやっていたところ、とうとう小田原まで来てしまった。こうなったら京都まで、などとは欲張らず、とりあえず箱根の関までは行ってみようと思っている。

ウォーキングには履きなれた靴と、そして音楽が欠かせない。今日はメンデルスゾーン、それもピアノ協奏曲を持ってきた。メンデルスゾーンの協奏曲と言えば、ヴァイオリン協奏曲ホ短調くらいしか有名ではない。けれども2つあるピアノ協奏曲はいずれも瑞々しい感性に溢れた素敵な曲である。第1番ト短調は技巧的でもあり、伴奏のオーケストラが少し安易に聞こえる部分もないわけではない。でもそういう部分を含め、楽しく聞いている。演奏はフランス人のティボーデである。

珍しいこの曲を私は実演で聞いている。ニューヨーク・フィルハーモニックが来日した際、当時住んでいた埼玉県の大宮で演奏会が開かれた。指揮はメンデルスゾーンの第1人者、クルト・マズアであった。独奏は日本生まれの中国人、ヘレン・ホアンであった。1998年6月のことであるから16歳だったことになる。当時に日記には、以下のように書いている。

 「出だしから、これはいかにもニューヨーク!各人が、パワーと実力を全開にしてぐいぐいと演奏するさまは、アンサンブルがどうの、ハーモニーがどうの、などというみみっちい議論を寄せ付けない。演奏家個々人の技術が合わさったからといって、必ずしも名演にならないことも多いニューヨーク・フィルを大いに乗せることができるのは,マズアだからだろうか?」

このCDの曲順は少し変わっていて第1番と第2番の間に独奏曲が挟まれている。それは2曲あって、最初が「厳格な変奏曲」、次が「ロンド・カプリチオーゾ」。聞き進めていくうちにメンデルスゾーンの多才さに心を打たれる。例えば「厳格な変奏曲」はその名の通り、最初は何かバッハの曲を聞くようであり、それが徐々にロマン派に代わってゆく。「ロンド・カプリチオーゾ」はもっと若い頃の作品だが、無言歌集を思わせる自由な曲想が清々しく、しばし静止した空間の一点を眺めている自分に気づく。

ピアノ協奏曲第2番ニ短調の第2楽章の、成熟した深い味わいは何と言えばいいのだろうか。ブロムシュテットのストイックな指揮も、ここでは熱く、そしてティボーデの安定した美しいピアノに風格を与えてさえいる。

これらの2曲を聞いていると、つくづくこの作曲家は活動的で、音が常に鳴り響いていることがわかる。楽章の間に切れ目がないことも多い。ヴァイオリン協奏曲ホ短調でも、あるいは「イタリア」交響曲を思い出してみてもそうなのだが、モーツァルトのように溢れるメロディーの、まぶしいまでの充実ぶりである。もしかするとそのエネルギーが、私をこの季節に例えたくなるよう仕向けるのかも知れない。だがメンデルスゾーンは、あまりの忙しさに若い寿命を終える。ピアノ協奏曲はそんな花火のように激しく燃焼した天才作曲家の、20代の若々しさに溢れた曲である。


【収録曲】
1.ピアノ協奏曲第1番ト短調作品25
2.「厳格な変奏曲」二短調作品54
3.「ロンド・カプリチオーゾ」ホ長調作品14
4.ピアノ協奏曲第2番ニ短調作品40

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...