2020年1月27日月曜日

NHK交響楽団第1932回定期公演(2020年1月23日サントリーホール、指揮:ファビオ・ルイージ)

ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲の冒頭が鳴り響いた時、いつもとは違う一気呵成のN響の響きに驚いた。まるで一筆書きのような引き締まった演奏は、「英雄の生涯」の最後まで続いた。ファビオ・ルイージとN響の相性は大層良好なように思われた。演奏が終わった時の楽団の表情が、それを表していたように思う。ソヒエフとルイージは、現在N響に客演する指揮者の中では、群を抜いていい演奏になる確率が高いような気がした。

ルイージが客演したのは1月の定期公演のうち、サントリーホールで行われるB定期のみである。多忙な指揮者だからだろう。だがその演目は注目に値するものだった。ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲を先頭に、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノはクリスティーネ・オポライス)、そして交響詩「英雄の生涯」である。これらの曲目のいついては、ブックレットに掲載された岡田暁生氏の解説が興味深い。シュトラウスが得意とした「1オクターヴ以上の音域を一気に駆け上がるような電光石火の主題、ウェーバーにも頻繁に見られるものだ」というのである。

ただ実際のプログラムでは、シュトラウスの最後の作品である「4つの最後の歌」が前半に置かれていた。ここでN響との初共演となるオポライスは、プッチーニを得意とするイメージがあるラトビア生まれの美貌のソプラノ歌手である。彼女を生で聞いてみたいと思った客も多かったに違いない。私もまたその一人だったが、彼女が歌ったシュトラウスの晩年の諦観を、果たしてどこまで表現できるのかが今回の一つの聞きどころであった。

オポライスの歌唱はドラマチックな歌で真価を発揮するもので、そういう意味ではドイツ・リートをベースとするシュトラウスの歌とは性質がやや異なる。だが私は事前の懸念とは逆に、そこそこ良かったのではないかと思っている。生で聞くコンサートを、再生装置で聞く録音されたものと比較することはナンセンスだが、それでも私は十分楽しむ事ができた。それは声が非常に美しかったからだと思う。

ただもし、この演奏が私を打ち震える感動に導かなかったとしたら、その原因は二つ考えられる。ひとつは私の曲に対する理解が、まだ十分に及んでいないからだ。歌詞を追いながら聞けるCDと生演奏では違う。たとえそれができたとしても。特に死というものを意識する歌詞を自分がどこまで理解し得るのか、それはまた別問題だ。私は2度余命宣告を受け、死の際まで行った身だが、「夕映えの中で」で歌われる境地には達しなかった。lこれはもしかしたら、「死」をまだ観念的に捉えることができる余裕がある時の心境なのかもしれない。

もう一つの可能性は、オポライスの歌唱が十分美しくはあるものの、総合的にはシュトラウスの晩年の心境を語るにはちょっと明るすぎるのではないかという、主観的とも客観的ともつかない判断である。だが、これはライブという性格のコンサートで、どこまで正確に評価できるのかわからない。私には少なくともその能力がない。事実として言えるのは、上記のいずれか、または両方の理由によって、私は今回の演奏を大変素晴らしいと思いながらも感動することはなかったという事実である。

休憩を挟んだ演目「英雄の生涯」は、「4つの最後の歌」とは異なり、シュトラウスの若い頃の作品である。作曲されたのは飛ぶ鳥を落とす勢いだった1898年は、まだ19世紀ということになる。ここで「英雄」とは伝説上の神でも、ナチスのヒトラーでもなく、彼自身である。この曲で聞ける大規模で迫力ある音楽によって、私はシュトラウスの虜になった。どこまでも続くロマンチックで豊穣な音楽が、他の作品でも体験できることを知るのはそのあとだった。

ルイージはその細身の体を目一杯振り上げながら、N響からとてつもなくダイナミックでドラマチックな音楽を弾きだした。イタリア人ではあるもののドイツ音楽を得意とし、数々のオペラの名演奏でも知られる彼は、ドレスデンやウィーンのオーケストラを指揮することでキャリアを積んできた。N響がこの熱い指揮に導かれ、すべての楽器が躍動的で、大きな広がりを持っていた。サントリーホールで聞く残響の多い音は、時に私を疲れさせさえした。1階席で聞くと、それぞれの楽器が混じり合い、ダイレクトに届く。だからもしかしたら2階席や脇の席の方が適度に分離していいのかも知れない。

「英雄の生涯」(そして「4つの最後の歌」でも)大活躍するヴァイオリン・ソロはコンサートマスターが受け持つが、今回のコンサートマスターはライナー・キュッヘルだった。彼がオーケストラに加わるだけで、ヴァイオリンの音が大層良く聞える。コンサートマスターによるオーケストラの音の違いを実感する。

切れ味の鋭い、ダイナミックな演奏は、一糸乱れることなく最後まで一気に聞かせたといってよい。N響の実力を弾きだしたルイージには、静かに音楽が終わると(そう、今回の「英雄の生涯」は初稿版が採用されていた)、しばしの静寂が訪れた。丸でそうしなければならないかのように、客席は拍手をこらえていた。そして大喝采に混じり、普段は大人しい敬老会のようなN響の客席も大いに沸いた。花束が贈呈され、わずか1度だけのプログラム(ただし公演は定期を含め何公演か行われる)が終了した。この曲は彼の十八番だったのかも知れない。得意なプログラムで客演をこなしたルイージには、次回是非ゆっくりと客演し、他の曲も指揮してもらいたいと願いながら家路についた。

2020年1月18日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第717回定期演奏会(2020年1月17日サントリーホール、指揮:小林研一郎)

ここ数年は、冬に東北旅行を楽しんでいる。今年もいま、仙台へ向かう列車の中で昨日のコンサートのことを書こうとしている。朝7時過ぎに東京駅を出発した新幹線はやぶさは、東海道新幹線のぞみなどと違い、乗客も少ない。今日は3人席を一人で占有することになった。大宮を出ると仙台までは止まらないから、この状態はずっと続く。持参したパソコンの電源を入れ、みぞれ交じりの冷たい雨が降る車窓風景を眺めながら北を目指す。

小林研一郎は福島県いわきの出身で、温厚な人柄が音楽にも表れる、好感度の高い指揮者である。その真面目な音楽作りは厳しいことでも有名で、パンフレットには「炎の〇〇」などと印刷され、有名曲をひたすら情熱的に指揮をする写真が掲載されてはいるが、その中身は堅実で破たんすることはない。熱い指揮は人気もあるらしく、桂冠名誉指揮者をつとめる日フィルは「コバケン・ワールド」と銘打ったシリーズの演奏会を開いているくらいだ。だがこのたびの1月17日のコンサートは、それとは異なり定期演奏会だった。演目はコバケンの十八番、スメタナの「わが祖国」で、彼はあの「プラハの春」オープニングコンサートを指揮した初めての非チェコ人として歴史に残る成果をあげたことはよく知られている。

コバケンが「わが祖国」を指揮することを知って聞きたくなった。過去3度目となるコバケンの演奏会のチケットを買うため、かなり前から予約して席を押さえたが、いざサントリーホールに出かけてみると拍子抜けがするくらいに空席が目立つ。今回はひとりでもあり、指揮者の見える右手後方のB席からオーケストラを見下ろす。前から2列目なので、まるでテレビ中継を見ているような視線の位置である。

「わが祖国」は「高い城(ヴィシェフラド)」「モルダウ(ヴルタヴァ)」「シャルカ」「ボヘミアの森と草原から」「タボール」「ブラーニク」の6つの交響詩から成る作品で、コンサートでは3曲目が終わった時点で休憩が入る。「モルダウ」が飛びぬけて有名だが、実際には後半になるほど音楽は充実し、演奏は熱を帯びてくる。私は特に「ボヘミアの森と草原から」が好きである。「高い城」や「モルダウ」あたりはまあ序奏といった感じがする演奏も多い。だがこの日の演奏は、さすがというか最初から熱のこもったものだった。

「高い城」の冒頭で2台のハープが妖精のメロディーを奏でると、その響きがサントリーホールにこだました。いつも聞くNHKホールではこういう響きにはならない。やはりいいホールで聞くのがいいな、などと感動していたが「モルダウ」になると流れるような豊穣なメロディーと、沸き立つようなリズム、静謐で神秘的な森の妖精に聞き惚れていくうち、あっという間に「シャルカ」になった。ここからボヘミアへの旅行に出かけるような気分になってくる。そういえば列車はいつのまにか那須塩原を通過した。この「シャルカ」ではクラリネットのソロが聞きものだが、今日の日フィルのクラリネットは、空を飛ぶひばりのように歌い、静まり返った聴衆の中に、丸でそこにだけスポットライトが当たっているかのようだった。

小林研一郎は、休憩前の拍手でもオーケストラをパートごとに立たせるなど、観客に応えていたが、休憩を挟んで登場する際にはオーケストラに混じって登場するなど、長年このオーケストラと一体であることを主張しているようなシーンもあった。チューニングの間も指揮台の手前で音色に耳を澄ませ、やがて「ボヘミアの森」が始めると、その音楽は厚みを持って会場に響き渡った。オーケストラを聞くことの楽しみが、満喫できる演奏会だった。スメタナのフルートとオーボエ、そしてホルンといった楽器が溶け合う様は、中欧の風景をいつも思い出させてくれる。今年はベートーヴェンの生誕250周年だが、スメタナもまた耳の不自由な作曲家だったことを思い出す。彼の聞いた心の音は、実際の音となって我々に100年以上を経て届いている!

「タボール」でのおどろおどろしいメロディーは緊張に満ち、迫力を維持したまま続けて「ブラーニク」に移る。弦楽器はそれ自体がひとつの楽器となったように波を打ち、そうかと思うと沸き立つような民族調の調べが顔を覗かせる。そういう音楽に身を浸すうちコーダを迎えた。全体に安心して聞いていられるコンサートだったが、その音楽にはいつも指揮者の暖かい心情が素直に表現されていたようだ。客席もおそらく同じような暖かさを感じたことだろう。タクトを降ろして一瞬の静寂が訪れ、その後に大きなブラボーが飛んだ。ほぼすべての楽団員を紹介しつつ立たせていくコバケンは、パートを声を出して指し示していた。今年最初の定期演奏会は、コバケンの年頭の挨拶も出て盛況のうちに幕を閉じた。炎の指揮者も、情熱が表に出るというよりは円熟して手慣れた風貌だった。オーケストラとの長年の信頼関係があってこそ、このような演奏ができるのだろうと思った。それから若いプレイヤーが増えて来た日フィルも、過去に比べると上手くなったと思った。個々のプレイヤーが歌心をさらに持ち、楽器が安っぽくなければ、第一級の演奏が可能なオーケストラという気がする。

2020年1月15日水曜日

モーツァルト:交響曲第29番イ長調K201(186a)(ヨス・ファン・インマゼール指揮アニマ・エテルナ)

関連する書物によれば、交響曲第29番の楽器編成はとても簡潔で、わずかにオーボエとホルンが2本ずつ。トランペットやティンパニどころかフルートもない。にもかかわらずこの今日に使われた表現は多彩である。数々の仕掛けによって聞くものを飽きさせないその作風は、丸でハイドンの交響曲を聞くようで楽しい。

まず第1楽章アレグロ・モデラートは2拍子。ほとばしる旋律は、室内楽的精緻さを持って高速に演奏されて欲しい。屈託のない明るさにも、ほんのりとした成熟が感じられる。イタリア様式とウィーン古典派がここで見事に融合し、後年の作品へと続くモーツァルトの作風が早くも完成の域に到達しているのを目の当たりにする。

ブルーノ・ワルターはこの曲を、決して遅くは演奏していない。その流儀に従えば、現在望み得る最も完成度の高い演奏のひとつが、ヨス・ファン・インマゼールによるものと思われる。けれども第2楽章では、どの演奏も同じような速度となる。エレガントで静かな音楽は、丸で宮殿で催される舞踏会の如きである。

物静かなにステップを踏む何組かのカップルの姿を想像する。いつ終わるともわからないほど、のんびりと長く続くが、時にオーボエが長く音を引き延ばして印象的である。そのオーボエはこの楽章の最後で、思い切り大きく吹くのが丸で舞踏会の終わりを告げる合図のように聞こえる。間髪を入れず、舞踏会は終わる。

全体の程よいアクセントとなっている第3楽章の比較的短いメヌエットを経て、いよいよ第4楽章。アレグロ・コン・スピリートは速い6/8拍子。ここで聞き手は再びモーツァルトの類稀な才能に唖然とするだろう。メロディーはいよいよ緊張を伴ったまま休止。すぐにほとばしるアンサンブル。その合間をホルンとオーボエが駆けめぐる。簡単なメロディーに聞こえるが、実に多彩な表現で飽きることが内。

古楽器風の演奏で聞くとさらに新鮮でスポーティ。心地よい時間に身を委ねていると、そのフレーズが何度か繰り返されていくうちコーダとなる。モーツァルトにしては凝った終わり方をするのも興味深い。

このような凝った作品は、やや癖のある演奏で聞くと面白い。実際、ニクラウス・アーノンクールとコンセルトヘボウ管弦楽団による演奏が気にいっていたが、これをさらに進化させたようなインマゼールの演奏は、2つのヴァイオリン協奏曲とともに録音され、あまり目立たない存在だが掘り出し物の一枚となっている。

2020年1月14日火曜日

第1930回NHK交響楽団定期公演(2020年1月12日NHKホール、指揮:クリストフ・エッシェンバッハ)

今年最初のコンサートは、クリストフ・エッシェンバッハの指揮するN響定期である。曲目はマーラーの「復活」。「復活」とはキリストの復活のことだが、マーラーの「復活」は、かつてのベートーヴェンの「第九」がそうであったように、宗教の枠を超えた意味を持っている。終楽章に至って到達する「生きるために死ぬ」という死生観は、悲観的というよりは肯定的で、高らかに生への賛歌が歌われる合唱入りの90分にも及ぶ野心作である。ハンブルクでハンス・フォン・ビューローの葬儀に参列した際に、丸で雷に打たれたかのような啓示を得て作曲が進められたという逸話はつとに有名である。

一体自分は、どこからきてどこへ向かうのか。先行きが見えない現代社会において、この曲が与える感銘は、今もって新鮮かつ圧倒的である。何人もの人が、この曲を聞いて音楽家になろうと思ったと話している。

私も初めてこの曲を実演で聞いて心を揺さぶられた一人だ。1996年2月のニューヨークでウィーン・フィルの公演があった時、カーネギーホールの2階右脇からオーケストラを見下ろすバルコニー席でこの曲を聞いた。指揮は小澤征爾だった。直前に作曲家、武満徹が亡くなったこともあり、バッハの「G線上のアリア」を拍手なしで演奏した直後だった。第1楽章冒頭の弦の轟きと、その後に続くトゥッティに圧倒された。その後は舞台に釘付けとなったが、この主題が再現されると、ふたたび心を打ちぬかれた。

第2楽章の丸で天国にいるようなアンダンテは深い愛情に満ちたもので、小澤のなみなみならぬ集中力が、オーケストラを丸でひとつの楽器のように操り、珍しく静まり返ったニューヨークの聴衆の中で、ウィーン・フィルの弦楽器を陶酔させるほどに美しく響かせる雄弁なものだった。

ところがこの時の演奏の記憶は、そのあとの3つの楽章についてはほとんど残っていない。圧倒的な規模に私の心がついて行かれなかったからなのだろう。最後まで続く感銘をもう一度経験したくて、小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮してこの曲を演奏した時、私は東京文化会館の3階席を買って出かけた。この時の演奏はライブ収録されてCDでも売り出され、ディスク大賞にも輝いたから、非常な名演だったのだろうと思う。私はここでやっと第3楽章の静かに流れて行くスケルツォ(それは「子供の不思議な角笛」の一節でもある)の特徴あるリズムに触れ、それに続くアルトの歌「原光」(この時のソロはナタリー・シュトゥッツマン)が、会場を金縛りにするほど見事で身の毛が立つほどの硬直した感動を覚えたのを記憶している。

これで第4楽章までのこの曲を、何とか知り得た感じがしたのだが、「復活」は第5楽章に全体の半分近くの時間を要する曲で、ここに最大のエネルギーが注がれている。合唱団は第1楽章から舞台奥にスタンバイしているが、最後の何度も押し寄せる爆発的なエネルギーと、繊細で心の奥を覗くような部分とが交互に現れるマーラーの世界が存分に味わえる。バンダとの掛け合い、二人の独唱、オルガンも加わったその規模は、会場を超えて鳴り響くかの如くである。バーンスタインがエジンバラで振ったロンドン響との記念碑的映像では、教会の天井などが何度も映し出されるのが印象的だった。

エッシェンバッハという指揮者は、このバーンスタイン系に属する指揮者だと思う。ヤルヴィやルイージのように、きっちりとメリハリをつけて職人的に演奏する指揮者ではなく、むしろ情念が音楽を語ることへ重心が置かれている。彼のピアノでもそうなのだが、それは外面的な美しさなどは期待できない。オーケストラにあっては、個々のプレイヤーが持つ音楽への理解が、総合的な力によって自発的に統合され表現されるのを助けるといった感じだ。だから、演奏するのはなかなか大変だろうと思うし、今回のような1回限りの客演では、なかなかその真価が表れにくいのではないか。

前置きが長くなったが、私は今回のN響の演奏で、再びこの曲に新たな発見を数多くしたと言って良い。一階席前方に着席した私はオーケストラの音をおそらくは理想的な形で把握することができた。後半、とりわけ第4楽章の冒頭で藤村美穂子が「赤い小さな薔薇よ」と歌い始めると会場の空気が一変した。その瞬間から私は、時にこみ上げてくるものをこらえきれなった。第5楽章で繰り広げられる新国立劇場合唱団の深い祈りは言うに及ばず、代役だったソプラノのマリソル・モルタルヴォも悪くはなかったと思う。前方の席で聞くと時折舞台裏から響くバンダと、舞台上の楽器が重なる微妙なバランスも手に取るようにわかった。

いつのまにか80歳にもなるエッシェンバッハは、決して派手な指揮でもなければオーケストラを煽るようなこともしない。けれども時にテンポをぐっと落とし、オーケストラの自発的な曲への理解が、総体として奏でるハーモニーに寄り添う。楽団員に芸術家としての素養を問う真剣な作業でもあるかのようだ。前半の楽章を聞く限り、これはやはり短期間に成し遂げるにはいささか不十分な結果だったと思わないこともない。弦楽器、とりわけヴァイオリンの音が、いつになく貧弱に聞こえたのは気のせいだったのだろうか。上手く弾いているのだが、共感が伝わってこない。

エッシェンバッハが求めるのは、深いところでの音楽の理解と、それを個々人が表現することによって成し遂げられる総体的な情念の昇華。それがたとえ失敗し、暗く、陰鬱なものであっても、それはそれでかまわない、と言う冷徹な諦観があるようにも思えてくる。ただ、かつてラン・ランを迎えたパリ管とのベートーヴェンでは、そういう意味で高度な音楽的結実が見て取れた。第1協奏曲の第2楽章が、これほど美しいと思ったことは、先にも後にもないのだ。

久しぶりにゆったりとした「復活」を聞いた気がした。エッシェンバッハとマーラーが、どこかで融合する奇跡を期待したが、残念ながらそういうことはなく安全運転に終始したと言って良い。第5楽章において、満員にも関わらず静寂を保つ中で、オーボエが、フルートが、そしてメゾ・ソプラノが、丸でそこだけに光を浴びている風景のように心の内面を照らした。大きなブラボーが繰り返される中、私はまた「復活」の演奏を聞き終えて、さらにまたマーラーの音楽が聞きたくなる思いだった。

帰宅してメールを読むと、早くも来シーズンの演目が速報されてきた。マーラーはヤルヴィとの第3番がある。その前に、今シーズンの最後にはケント・ナガノによる第9番が控えている。今年も楽しみなコンサートが目白押しである。

2020年1月9日木曜日

モーツァルト:交響曲第28番ハ長調K200(189k)(チャールズ・マッケラス指揮プラハ室内管弦楽団)

モーツァルトの交響曲は、番号付きのものだけで41曲、その後発見されたり、断片のみのものも含めると50曲を超える作品が残っているようだ。初期の作品については、必ずしも番号順に作曲されたわけではないなど、どの作品がどれなのかよくわからなくなる。ニクラウス・アーノンクールは、見逃されがちなフレーズにも命を吹き込み、さぞ意味ありげな作品のように演奏する天才指揮者だったが、彼の残した初期交響曲集(CDにして全5枚、その中にはモーツァルトの手紙の朗読も含まれる)として過去に取り上げた。
この初期交響曲集には小ト短調として知られる交響曲第25番K183も含まれており(この作品も単独で取り上げた)、概ねケッヘル番号で言えば200番あたりまで、作曲年代で言えば1773年、モーツァルト17歳あたりが一区切りと言えるのだろうか。翌1774年には、現在第28番ハ長調K200、第29番イ長調K201、第30番ニ長調K202として知られる交響曲が作曲されている。これらの3曲は、同じような形式できっちりと作曲された作品で、ザルツブルク時代の交響曲作品群の中でも最後を飾るものである。

このブログでは、ハイドンの交響曲ほぼ全曲の鑑賞記録としてスタートしたが、いまでは多くの作曲家の主要作品とオペラ、それにコンサートの鑑賞記録へと幅を広げている。モーツァルトの交響曲は第25番までの初期作品を取り上げたあと、第31番「パリ」まで飛ばそうかと思ったが、これらの3曲には録音もそれなりにあって、わがコレクションを見返してみると、各曲誰かの指揮で演奏で収録されたものを所持していることが判明した。この機会に久しぶりに聞いてみると、それぞれなかなかいい曲だとも思ったりした。これらの作品をスキップするのはもったいない。そこでまず、この3曲についていろいろ調べたことを含め、ここに記載することとした。

第28番の交響曲は、目立たない作品だがなかなかチャーミングである。まず第1楽章冒頭は、下降する2つの連続音が2回鳴る。この出だしがまず印象的。メロディーがほとばしり出るモーツァルトの音楽が鳴り響くとき、得も言われぬ幸福感に満たされるのだが、この曲もまさにそういった感じで始まる。この第1楽章は3拍子で書かれているのが特徴だと思う。またティンパニが入ることによって、音楽の重心がはっきりとする。そこに弦楽器が流れ、木管が歌う。

第2楽章のアンダンテ、第3楽章のメヌエットがそれぞれ優雅でおちついた舞曲風でることがとてもいい感じ。これは続く交響曲第29番、第30番にも共通した傾向である。この3曲は同じ時期に作曲され、構成は良くにているが、それぞれに個別の特徴を備えてもいる。このあたりを聞いていると、かつてハイドンの交響曲を連日順に聞いていた日々を思い出す。第3楽章の流れるようで幸福感に満ちたメロディーも心に残る。

チャールズ・マッケラスがプラハ室内管弦楽団を指揮した一枚を持っている。この演奏の特徴は、隠し味程度に鳴っている通奏低音である。イヤホンで聞くとそのことがよくわかる。Telarcの優秀な録音がこの音を捉えている。マッケラスの指揮は溌剌としており、モーツァルトの音楽に不可欠な沸き立つような愉悦感をストレートに伝えている。これは特に若い頃(幼年期ではない)の作品に合うと思う。

2020年1月1日水曜日

謹賀新年

年頭にあたり、新年のご挨拶を申し上げます。

2020年の今年は、何といってもルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生誕250周年ということで、早くもベートーヴェンのプログラムが数多く組まれているようです。アンドリス・ネルソンズが初めて指揮したウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでも、初めてベートーヴェンの作品から「12のコントルダンス」の数曲が、バレエ付きで演奏されたことが印象的でした。ネルソンズの指揮は、聞かせどころをたっぷりとテンポを落として集中力を保ちつつも、メリハリを利かせるところでは大きな身振りで大胆に指揮棒を振る個性的なもので、シンフォニックな表現により久しぶりにウィンナ・ワルツの醍醐味を味わわせてくれました。

今年はまた、スッペの没後125年ということからか、喜歌劇「軽騎兵」序曲が久しぶりに登場し、さらにはヨーゼフ・シュトラウスの没後150年とうことから、このワルツ一家の夭逝した次男の曲が多かった印象があります。大晦日に中経されたN響の「第九」(指揮はシモーネ・ヤング)の名演奏やその後のクラシック・ハイライト番組などを自宅でゆっくりと視聴し、音楽三昧の年越しでした。

令和2年元旦

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...