2023年10月20日金曜日

リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」(サッシャ・ゲッツェル指揮ボルサン・イスタンブール・フィルハーモニー管弦楽団)

趣味の街道歩きのため、新幹線で各地へと向かう車内で音楽を聞き、このブログのための文章を書きたくなることは前にも書いた。前回(8月)私は北陸新幹線で金沢に向かい、リストの「前奏曲」を聞いた。そして今回、一気に秋めいた信濃路を軽井沢から佐久方面へと歩くために、快晴の関東平野を北上する「あさま」の車内で、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」を聞いている。

なぜか。この作品の演奏の中で、とりわけ注目に値する新しい演奏に出会ったからだ。それはオーストリアの若手、サッシャ・ゲッツェルがイスタンブールのオーケストラを指揮して録音したもので、Onxyというレーベルから発売されている。もっとも発売されたのは2014年ということだから、もう10年近く前のことではある。私は時々聞くロンドンの「Classic FM」でたまたまこの演奏を聞いた。その時は確か第3楽章だけだったような気がするが、そのあまりにもエキゾチック(というのはあくまで西欧から見てのことだ)なムードに驚いたからである。

私はSpotifyのPremium会員となっているので、このような場合には即座に検索、自宅のネットオーディオ機器で再生したり、スマホにダウンロードして持ち歩くことができる。今回もちろんそのようにしたのだが、それにしても聞いたことのない指揮者、オーケストラによる珍しいCDも、このようにして新しく出会うことになる。そしてさらにわかったことには、このCDには、同様の傾向を持つ(すなわち東洋的な)作品であるイッポリトフ=イヴァノフの有名な組曲「コーカサスの風景」から、最も有名な「酋長の行列」なども収録されていること、さらには何と、その「シェヘラザード」の楽章の合間に、聞いたこともない楽器による中東風の短いインテルメッツォが挟まれていることだ。

昔わが家にもあったストコフスキーの名盤以来、この曲を様々な形で提供する魅力的な試みが時を隔ててなされてきた。時には原曲を逸脱する演奏が注目を集めることもあるが、私は一介のリスナーに過ぎないのでこのようなものは大歓迎である。このたびの演奏はまさに、イスタンブールという、まさにヨーロッパとアジアの境を本拠地とするオーケストラだからこそうって付けの試みだ言えよう。なお、ゲッツェルはウィーン・フィルの元ヴァイオリン奏者で、指揮者に転じてからは神奈川フィルやN響も指揮しており、我が国ではそれなりに知られた存在であるようだ。

「音の魔術師」という愛称はフランスの作曲家ラヴェルに付けられるが、私はまた「ロシア五人組」のひとりであるリムスキー=コルサコフに対しても相応しいものだと思う(そのラヴェルにも「シェヘラザード」という曲がある)。後年の作曲家に与えた影響は大きく、例えばレスピーギがリムスキー=コルサコフの弟子だった。そのリムスキー=コルサコフはベルリオーズの管弦楽法を学び、自ら「管弦楽法」という著作を残している。

海軍学校の兵士だったリムスキー=コルサコフは、海や航海に関する音楽を残す。交響組曲「シェヘラザード」もその一つである。この作品は有名な「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」を題材としており、次の4つの部分から成っている。

  • 第1楽章「海とシンドバッドの冒険」
  • 第2楽章「カランダール王子の物語」
  • 第3楽章「若い王子と王女」
  • 第4楽章「バグダッドの祭り、海、青銅の騎士のある岩にての難破、終曲」

ヴァイオリンの独奏が冒頭と終結部だけでなく随処でソロを聞かせることから、この作品の録音には担当したソロ・ヴァイオリン奏者の名前が記載されている。この録音では、指揮者のゲッツェルが自ら弾いているのではと想像したが、どうもそうではないらしい。ヴァイオリンのソロは、この話の主人公で毎晩シャリアール王に物語を語っては聞かせるシェヘラザードのテーマである。第1楽章「海とシンドバッドの冒険」では、波打つ海の情景に乗って、この2人の主題が絡み合う。全体の構成から見ると前奏曲といった感じの曲である。

ゲッツェル指揮ボルサン・イスタンブール・フィルハーモニー管弦楽団による演奏では、この第1楽章と第2楽章の間に1分足らずの即興演奏が差しはさまれている。ここで演奏されるのはウードという弦楽器で、中東の雰囲気を醸し出している。

やがて演奏は第2楽章に入るが、ここで活躍するのは木管楽器の独奏である。そしてリズムも様々に変化し、聞いていてもっとも面白い楽章だと思う。オーケストラ音楽として聴きどころが満載。もっとも有名な第3楽章は緩徐楽章で、美しいメロディーによって最高のムード音楽となっている。この第2楽章と第3楽章は、全体を聞く時に強い力を聞き手に与える。「シェヘラザード」を聞いたという充実感は、この2つの音楽を聞いていくことで醸成されるような気がする。各楽器の特徴を良くとらえたソロが頻繁に現れては消える。そのすべてがロシア発の中東ムードに嫌味なくブレンドされている。

第4楽章の力強い音楽は、ここまで聞いてきた音楽ですでに酔いしれている聞き手をさらに延長して楽しませるに十分な効果を持つのだが、この演奏ではここに2回目の「間奏曲」が入る。そして再び活躍するシェヘラザードのテーマ。いっそう技巧的になったこのメロディーのあとで、速いテンポに転じ進行するオーケストラによって、それまでに登場した様々なテーマを交互に奏でては次第に緊張度を上げてゆく。船が難破するのだ。そして曲は最後に再びシェヘラザードのテーマを繰り返して静かに終わる。オーケストレーションの極みを堪能する充実感を味わうことができる。全体で約45分。

多くの演奏家がこの曲の魅力を捉え、様々な表現をディスクに残してきた。有名なコンドラシンの演奏(コンセルトヘボウ管)は私にとって相性が悪く、どこがいいのかよくわからないままだった。極めつきとの定評もあるゲルギエフ盤は、あまりに巧妙にこの曲を操って見せるが、私は少し戸惑うほどでちょっとついていけない。結局、平凡で保守的なオリエンタリズム主体の演奏を求めているのかな、などと思ってみたり、要はこの曲に対する自分の立場がこれまで定まっていなかったのである。このたびイスタンブールのオーケストラによる演奏に出会って、ようやくこの曲の記述をする気持ちになった。

なお、このディスクには東洋風の曲がさらに3曲も収録されている。リズム感があってそれぞれ面白い。特にイッポリトフ=イヴァノフの組曲「コーカサスの風景」から「酋長の行列」は有名である。かつて「ロシア名曲集」のようなコンピレーション・アルバムが発売されるときには、たまにお目にかかった懐かしい曲である。私はバーンスタインが指揮するニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で良く聞いたものだった。一方、トルコの作曲家エルキンの「キョチュケ」なる珍しい舞踊曲も収録されている。

そしてさらに!ボーナス・トラックに収録された2つの曲は、民族楽器を取り入れた編曲による「カランダール王子の物語」と「コーカサスの風景」より「村で」の別バージョンである。これらのおまけ特典を含め、聞き所満載のこのディスク、今ではもはやCD媒体を購入することはほぼなくなったが、売られていることは売られている。もちろん数あるダウンロードもしくはストリーミングサイトで聞くことができる。


【収録曲】
1. リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」作品35
2. バラキレフ(リャプノフ編):東洋風幻想曲「イスラメイ」
3. イッポリトフ=イヴァノフ:組曲「コーカサスの風景」より
      第2曲「村にて」
4.   第4曲「酋長の行列」
5. エルキン:舞踏組曲「キョチェケ」

(ボーナス特典)
6. 「カレンダー王子の物語」(民族楽器との競演による別バージョン)
7. 組曲「コーカサスの風景」より第2曲「村にて」(民族楽器との競演による別バージョン)

2023年10月16日月曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第754回定期演奏会(2023年10月13日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

終演後の拍手が20分近くも続く演奏会など、そう滅多にあるものではない。来日した世界的オーケストラの演奏会ではない。日フィルの新しい首席指揮者に就任したシンガポール生まれの若手、カーチュン・ウォンの就任披露を兼ねた定期演奏会である。プログラムは、マーラーの交響曲第3番。音楽史における最も長い交響曲の部類に入る休憩なしの1時間40分。ホルン8人、シンバル7台を含むフル・オーケストラに加え、一人の独唱(アルト)、女声合唱団、少年合唱団が加わる。

採算に合わないのだろう。何かの記念となる名目でもない限り本番の演奏に出会うことはない。私は昨年3月京都で、広上淳一の京都市交響楽団の常任指揮者の最後の演奏会にて、この曲を聞くはずだった。そのために藤村美穂子をドイツから招聘し、万全の体制でこの公演が行われるものと思っていた。ところがコロナの影響で合唱団の練習ができなくなり、あえなく別のプログラムに入れ替わってしまったのだった。過去に私がこの曲を実演で聞いたのは、シャルル・デュトワがNHK交響楽団を指揮した2015年の定期公演ただ1回のみ。この時に演奏はもちろん素晴らしかったが、NHKホールというところは広すぎるせいか、集中力が続かないことが多い。前の方で聞いていないと、なかなか印象的なものにならないのだ。

自然の描写を主体とした比較的静かな部分が多く、マーラーの交響曲の中ではもっとも明るい音楽だと思う。多数の楽器が様々に絡み合い、バンダを含む各楽器の音色の微妙な変化を聞き分ける必要がある。なかなかオーケストラ泣かせの曲なのだろうと想像がつく。それが100分も続くわけだから、間違うととてつもなく退屈なものになってしまうだろう。指揮者もよほど自信がないと、この大曲を指揮しきれないのではないか。これが第2番「復活」だと、「終わりよければすべてよし」となるのだが。

日フィルの定期は同じプログラムが2回あって、今回は金曜夜と翌土曜のマチネであった。土曜の演奏会は完売していた。私の聞いた金曜の演奏会もほぼ満席だったから、前評判は極めて良かったのだろう。それも彼が、これまでに積み上げてきたこのオーケストラとの実績によるものだ。

2016年にマーラー国際指揮者コンクールで優勝した若きアジアの俊英は、破竹の勢いで世界中のオーケストラの演奏会に出場しているが、その彼が我が国のオーケストラ演奏を数多くこなしてくれることに喜びを感じている。何でもそのコンクールの前から日本にも住んでいるようであるから、日本での活動に支障はないものと思われる(我が国に住居を持つ有名な外国人は結構多い)。私はコロナ禍に見舞われる少し前、兵庫県の芸術文化センターのオーケストラを彼が指揮する演奏会のチケットを両親にプレゼントしたことがある。だが私は、この指揮者にこれまで縁がなかった。それが今回かなったというわけである。

実際いつにも増して期待が高まった。前もってマーラの第3交響曲の演奏をいくつか聞いてみた。ドゥダメル指揮ベルリン・フィル、アバド指揮ウィーン・フィルなどである(本ブログで過去に取り上げたのは、ブーレーズ指揮ウィーン・フィル、初めて聞いたのはショルティ指揮ロンドン交響楽団だった)。そして今は、バーンスタインの演奏に耳を傾けながら、この文章を書いている(ニューヨーク・フィルハーモニック)。

さてその演奏だが、これは圧倒的な大成功だったと言えるだろう。日フィルがこれほど巧く演奏した例を私は知らない。特に弦楽器のアンサンブルは精緻を極めた。第6楽章は特に、極上のビロードのように深みのある色艶と光沢感が絶妙だった。終始集中力を欠かさず、いつまでも永遠に続くように思われた。何度も訪れるホルンの重奏も、時に不安定な時もあったが致命的な物ではなく、トランペットも舞台裏から聞こえるポストホルンも、さらには2台のハープや木管楽器と良く溶け合った。

シュタインバッハにある別荘でわずか2年のうちに書きあげられた交響曲第3番は、明るい雰囲気に満ち溢れた、ハンブルク時代の最後を飾る、マーラーの作品の中では自由で希望に満ちた作品である。それは彼の自然賛歌であり、美しい情景描写と心理描写に彩られている。冒頭こそファンファーレの大音量が鳴り響くがそれも最初だけで、あとは全6楽章、耳を澄まして聞く微弱音や弱音機を伴った金管ソロなどが続き、大音量の爆発を期待すると裏切られ続く。終楽章のコーダでクライマックスが築かれるものの、マーラーにしてはむしろ控えめで、その感動も長い道のりを経た後に底から湧き上がる精神的高揚感が勝っている。その意味でブルックナーやワーグナーのような作品に接する時のような気持ちになる。他のマーラー作品では、「大地の歌」が音楽的にこの部類に入ろうか。

カーチュン・ウォンの演奏は冒頭から気合の入ったものだった。オーケストラを含め少し緊張していたのだろう、雄弁に両手を駆使し、時には大きなゼスチャーで体を揺らして細かく指示する割には、オーケストラが大人しく思われた。だが、実際の演奏会ではいつもこのようなものである。それがどこかで化学変化を起こし、奇跡のような時間に突入することが稀にある。今回それがやってきたのは、第1楽章のコーダに向かう手前、チェロの重奏からだった。私の見立てでは、この数小節を境にオーケストラの音色が変わった。自信をつけた各楽団員が、それまでに見せたことがないようなレベルのアンサンブルを奏で始めたのである。

実演を聞く楽しみは、まさにこのような一期一会の時間に立ち会えることである。紛れもなくそれが起こった。長い第1楽章が終わって一旦指揮台を降りた時、オーケストラは再度チューニングを行った。合唱団とソリストは最初から舞台に登場し、微動だにせず出番を待っている。まるで赤ん坊を抱くような慈しみを持って、静かな音楽は進む。

カーチュン・ウォンの指揮はあらゆる指示を細かく出す。それが好みの分かれるところだろう。陶酔しすぎず、あくまで理性的な側面を残すことに、この指揮姿が貢献しているのかも知れない、と思った。だがかといってロマンチックな側面が犠牲になっておらず、若々しくて情熱的でもある。交通整理のような指揮姿で有名なロリン・マゼールの指揮を思い出させたが、決して無味乾燥で醒めた演奏にはなっていない。むしろオーケストラとの関係が今後深まったら、よく反応する個性的な演奏が生まれるのではないかと期待している。

1時間程が経過して3度目のチューニングを終えると、山下牧子(メゾ・ソプラノ)の歌唱が、舞台右側の壇上から聞こえてきた。第5楽章ではそこに、女声のハーモニア・アンサンブルと東京少年少女合唱隊が加わる。特に東京少年少女合唱隊の透き通った一糸乱れぬ歌声は、「ビムバム」という印象的な歌詞が何度も登場して独特の印象を残す。この歌唱が入る2つの楽章と最終楽章は、通して演奏される。

第6楽章は第1楽章と対照をなすものだが、自然描写が心理描写に置き換わってより高く、昇華されてゆく感を味わう。大野和士は解説で、この部分を天井に開かれた扉が開き、そこに入ってゆくような感じだと話しているが、そのような高まりは30分近くをかけて徐々に、確実に進んでいく。弦楽器のアンサンブルが例えようもなく美しいが、それを見事にやってのけた今回の日フィルは、圧巻の出来栄えであった。会場の誰もがその演奏に心を打たれた。この曲の最上の演奏のひとつが、今、示されているという感覚。消えては去っていく実際の音楽を、その時にだけ居合わせた人たちとだけ共有している感覚。演奏者と聴衆が一体となって、マーラーの音楽に酔いしれた。

指揮者が長いポーズをとって指揮棒を下ろさない。その間中、雷に打たれたように静まり返った。おそらく最も行儀のいい聴衆が、何も乱すことなく、この長い時間を静寂の中に留めた。やがて沸き起こる拍手と歓声が会場を覆ったとき、指揮者はまず歌手に走り寄り、続いて金管セクションに赴いた。これから長い拍手の時間だった。2つの合唱団と指揮者、さらにバンダで活躍したプレイヤーが何度も舞台に呼び出される。続いてセクションごとに立たせ、それを会場の各方向を向いてお辞儀を繰り返す。指揮者が去っても楽団員は残り、起立を拒む。そして楽団員と合唱団が全員引き上げるまでの長い時間、拍手が絶えることはなく、むしろそれは大きくさえなった。しばらくして指揮者がひとり舞台に登場すると、さらに大きな歓声が沸き起こった。

これほど満足した演奏会は、なかなかないものだ。そして今後、カーチュン・ウォンの演奏会が多く組まれているのも嬉しい。彼はアジアの作曲家の作品を多く取り上げたいと話しており、それと有名曲を組み合わせたプログラムが予告されている。チャイコフスキーのような聞きなれた作品でも、彼の演奏で聞いてみたいと思う。だから、やはり健康を維持して時間と経済力をつけないと、と前向きに誓った一日だった。

2023年10月9日月曜日

finalのBruetoothイヤホンZE3000

新しいオーディオ機器を購入するたびに、音楽の新しい発見を楽しむことができる。アンプやスピーカーだけでなく、それは数千円のイヤホンにも言える。聞き古した音楽も新しい機器で再生すると、丸で別の演奏であるかのように感じることが多い。気に入った機器で久しぶりに聞く音楽は、とても新鮮である。そういう嬉しさがあるものだから、私はたまにオーディオ機器の記事を書いてきた。もっとも私はあまりお金をかけない主義だから、高級なものとは無縁である。飽きたり、失くしたり(ポータブル機器の場合)、気に入らないものを間違って買ってしまうリスクを低減するために、できるだけ安価な機種でそこそこの効果が期待できるという場合にのみ、オーディオ機器を買い替えている。

このようにして数年に一度は記事を書いてきたが、コロナ禍に見舞われたここ数年は、イヤホンを始めとするポータブル機器の視聴にも支障があった。加えて最近は機器を店頭で試す場合、いろいろとややこしい設定を行う必要があり、なかなか簡単に行えない。こういうことから、それまでのように手軽に、様々な音源で視聴を繰り返すことが難しくなってしまったのである。

イヤホンは従来の有線タイプに加え、ワイヤレス型のものが出回って久しい。私も発売当初からBruetooth型のイヤホンを試したきた。ところがまだ技術が未熟だったせいだろうか、これがちっとも良くなかったのである。同期(ペアリングという)に手間取ることがしばしば。当初のものは、耳にのみ装着するタイプはなく、途切れた有線タイプか首に巻くタイプのものであった。しかも全くもって音質の点で満足が行くことはなかった。

ところが私のスマートフォンを買い替える時期が到来し、とうとうステレオ・ミニジャック付きのものでなくなってしまったのである。それまでは音がいいという触れ込みで買わされたSONYのスマートフォン(Xperia)を使おうとしたが、イヤホンはおろかスピーカーで聞く音もあまりに酷かった。それでも中クラスの機種で、それなりの値段がしたにもかかわらずだ。結局、前に買って持っていた中国製(本命はHuaweiだったがこれが買えなくなり、仕方なくOPPOというメーカーのものだった)にSIMカードを差し戻した。満足するには程遠いものではあっが、それでもXperiaよりはましだった。端末の分割支払い契約は最低でも2年あり、私はその間我慢を強いられた。

スマートフォンで聞く音楽には限界があると思った。そもそもイヤホン用のアンプにさほどこだわって作られていないのではないか。そこでBruitooth型のイヤホンの登場となるのだが、これは実のところ有線でのイヤホンに勝るということはない、というのが今もって通説だ。スマホの音質設計の悪さは、DA変換とアンプを耳元に移すことで解決すると思われたのだが、満足の行く音質を辛うじて確保するには、3万円以上の費用が必要と判明した。

もっともSONYは同様の音質重視ユーザーの意見を取り上げるだけの器量は、いまでも健在であるかのように思う。Walkmanの新型モデルはネット対応で、私のようなSpotify会員なら専用機で高音質のストリーミングが楽しめるという謳い文句である。旧機種に比べると電池の持ちがいいとも評判で、これを買おうかと悩んだ。しかしXperiaの経験があるせいで私はSONYにいささか懐疑的であり、スマホとは別に専用機を持つ面倒と、ネット対応とは言え音源はいったんダウンロードする必要があること、それだけのためにAndroidを搭載するというのもいかにも大袈裟であることなどから購入に躊躇したのである。

結局Xperiaの2年契約が終わる今月になって、ようやく私のスマホ生活に変化が訪れた。新しい機種をSONYとOPPO以外のメーカーから選択する必要があった。そして私の契約する通信会社において比較的有利な条件で手に入る機種は、SAMSUNG製(Galaxy)の古いモデルに限られた。Galaxyは初めてである。しかも店員に聞くと今もって音はSONYがいいと言ってくる。ついでにいえばカメラもXperiaがいいと言う人が多いが、これにも私はまったく同意しない。そういう経緯により、私の新しいスマホは韓国製となった。そこにはもはやステレオ・ミニジャックは付いていない。Type-Cのインターフェースから有線接続のイヤホンを使うには、2つの方法がある。ひとつはType-Cのプラグを持つ有線イヤホンを購入すること。しかしこれは選択肢が非常に狭い。今一つの方法は、Type-Cをステレオ・ミニプラグに変換するコードを介して接続する方法である。しかしこのようにつなぐと充電しながら聞くことができない。iPhoneと同じ悩みである。

いよいよ世の中は、携帯音楽プレイヤー(それはすなわちスマホのことだ)で聞くイヤホンがBruetooth型に集約されつつある。この間に技術が向上し、少しは音質が良くなったと信じて何かを購入することに決め、いつもの量販店へ赴いたのはスマホ購入の翌日であった。まずはType-Cからステレオ・ミニジャックに変換する短いコード(1700円もする)を購入し、同じ売り場でいくつかの機種を試すことにした。予め選択肢に入れた機種を小さい紙に書き写して持参し、外見や装着感などをみてから気に入ったものを買うつもりだった。予算は1万5千円以下。どれを選んで良いかわからない時には、Galaxy Buds2というものが丁度予算いっぱいの値段で売られているから、これにすることとした。言うまでもなくスマホとの相性を想定した結果である。

Bruitoothのバージョンは5.0以上であることが重要だが、これは今発売のものは満たしているだろう。問題はコーデックで、Androidの場合aptX対応であることが望ましい。こうなると機種が限られてくる。私がリストアップしたのは、以下のイヤホンである。

  • Galaxy Buds2
  • YAMAHA TW-E3C
  • final ag COTSUBU
  • Technics EAH-AZ40

客がいっぱいいても話しかけてこない暇そうにしている店員は、概ね知識に乏しく愛想が悪い。しかし休日の午後の売り場は客でごった返しているから、店員を捕まえることができればラッキーである。仕方がないから私は、同じ年代と思われる暇そうな店員にGalaxyのBuds2を見せてほしいと頼んだ。Buds2はショーケースの中にあって、出してもらえないと触ることもできない。その前に在庫はあるのはと聞いたら全色ありとのことだった。「試してみますか?」というので喜んでそのようにしたいと伝え、買ったばかりのGalaxyを取り出した。店員がショーケースの中から取り出して蓋を開けたとたん、私のスマホにペアリングのポップアップが表示されたのには驚いた。今ではとても簡単にペアリングできるらしい。

実際に聞いてみたGalaxy Buds2は悪い印象はなかったが、比較するものがない。ただ少し音量が小さいと感じた。Xperiaでもう懲りているから、音量の大きさは必須である。店員は比較のためにSONYの中級クラスとTechnicsの最新モデルEAH-AZ40M2を出してきた。私はSpotifyで今年のニューイヤーコンサートとモーツァルトのハイドン・セットなどを再生しながら、これらの機種を比較試聴した。そしてSONYのイヤホンは、いわゆるドンシャリで聞くに堪えないこと、さらにTechnicsはそこそこいい機種であることを発見した。ただ私の視聴したTechnicsのものはaptXに対応していなかった。

私が逐一所感を述べると、店員は次にCOTSUBUという機種を試すよう促し私もそれに従った。COTSUBUというのはその名の示す通り小さな筐体だった。おそらく耳の小さな女性向けといった印象で、丸みを帯びたやさしい音は6000円にしては悪くないのだが、高くてもいいからクラシック音楽に向いたもう少しいい音のするものが欲しい。YAMAHAも試してはみたがどこか決め手に欠ける。結局、再度Galaxy Busd2を聞いてそれに妥協しようとしたとき、店員はfinalというメーカーのZE3000という機種はどうですか、と聞いてきた。finelなどというメーカーは初めてである。聞くところによれば、日本のメーカーとのことである。なかなか親切な店員だったから、信じてそれを視聴させてもらうことになった。そして音楽が聞こえた瞬間、文字通り耳を疑ったのである。

finelのZE3000で聞く音楽は、それまでのどのイヤホンよりも安定感があってしかも適度な広がりがある洗練された音だった。中音域の伸びも非常に良く、ボーカルやバイオリンの音が惚れ惚れするし、音を大きくしても歪まないところが素晴らしい。私は驚嘆の意見を述べ、値段を聞いたら予算内の税込み1万5千円強とのことである(実際には10%のポイントもつく)。見るとその隣にはZE2000という同じラインナップの低位機種も並んでいてこちらは1万円。形状など見た目は同じでいったい何が違うのかと尋ねたら、聞いてみますか、ということになった。ZE2000もいい音がしたが、こちらはよりナチュラルな感じで、言い換えれば特徴がない。1万円もかけて買うイヤホンとしては、ZE3000の方がより立体感があって鳴りっぷりがいいと感じた。

さらに素晴らしいのは装着感が見事なことと、ボリュームが小さくても大きな音がすること。音の遮蔽性を確保して、その分ノイズキャンセリング機能が付いていないのは一種の見識だろうと思う(この機能は、使うと確実に音がおかしくなる)。イコライザーも専用アプリもないから、まさしく「この音を聞け」ということである。だが、その音たるや従来のBruitooth型イヤホンの限界を見事に突破していると言わざるを得ない。結局、私は1時間かけて何種類かを試した結果として、迷うことなくZE3000を選択した。帰宅していろいろ検索してみると、これは賞を受賞した優れもので多くの高評価を得ていることがわかった。

いま私はGalaxy A54 5Gにfinal ZE3000を接続してSpotifyを聞いている。これまでSpotifyのストリーミングの音質に限界を感じ妥協していたが、それはまだイヤホンとスマホの高度化によって改善の余地があったことが判明した。これまで聞いていた音楽が、旧い歌謡曲であっても素晴らしい再生音で蘇ってきた。アナログのレコードを聞いているかのようである。

そしてわかったことは、何と有線接続した従来の安物のイヤホンでも、なかなかいい音がすることである。これはスマホに搭載されたアンプが悪くないことを意味している。結局、4年前に不本意ながら買ったOPPOも、2年前に買うことを余儀なくされたSONYも、まったくもって酷い音質だったことは明らかだ。少なくともこのたび買ったSAMSUNGは、私を裏切らないばかりか、スマホ登場以前のごく普通の音のレベルを保証してくれた。そこにfinalのイヤホンを接続することで、これまで有線接続で聞いていた音楽プレイヤーの音に到達した。この4年間、私はスマホによる低レベルの音質を我慢する生活を余儀なくされていた。だが、ようやくそのトンネルから抜け出すことができたのだ。

2023年10月1日日曜日

R・シュトラウス:楽劇「サロメ」(The MET Line in HD Series 2008-2009)

こういうことは軽々に書くべきではないと思いつつも、このたび札幌で起きた親子3人による殺人事件は「サロメ」に酷似していると言わざるを得ない。「サロメ」はオスカー・ワイルドによる戯曲だが、その原作は新約聖書「マタイ伝」である。リヒャルト・シュトラウスはまだ野心に燃えていたころにこの作品に出合い、出世作となる「サロメ」を書きあげた。わずか1幕の作品だが、凝縮された音楽が息をつかせぬほど緊張感に満ち、ただでさえ異様なストーリーをさらに際立たせ、見るものを圧倒する。

「サロメ」の主な登場人物は4人である。表題役サロメは、預言者ヨカナーンに一方的な性愛の情を抱いている。執拗とも言えるその欲情は、異様と言っていい。囚われて井戸に閉じ込められているヨカナーンに口づけを迫るが、拒絶されて実現しない。わずか16歳ほどの少女は、自分にこれもまた執拗な好意を抱くヘロデ王から、「踊りを踊ってくれたらなんでもやる」を言って少女に迫る。有名な「7つのヴェールの踊り」は、オペラの舞台で繰り広げられる、極上の音楽付きストリップ・ショーだが、このシーンが物議を醸したことは想像に難くない。だがそれも今では昔の話である。

サロメは約束した通り、ヘロデ王に褒美を迫る。斬首したヨカナーンの生首を銀の皿に載せて欲しい、と。ヘロデ王は役人を井戸に遣わせ、首をはねる。その生首が舞台に登場するシーンはショッキングである。実はサロメに殺人を持ちかけたのは、母親のヘロディアスだった。生首に接吻することを夢見ていたサロメは、最後のシーンで圧倒的な歌とともにヨカナーンの首を愛撫。猟奇的な最後のシーンは、演出と歌唱の見せ所である。不吉なことが起こると恐れたヘロデ王は、ついにサロメを殺すよう命じるところで幕となる。

始まって15年以上が経過したMET Line in HDシリーズ(日本では「METライブ・ビューイング」と言われる)では、たった一度だけ「サロメ」が取り上げられている。それは3年目だった2008年のことで、この年はメトロポリタン歌劇場創立125周年。その記念の年のトリに「サロメ」が取り上げられたのだ。私はすでに80作品以上鑑賞してきたが、この「サロメ」はまだ見ていない。もう見る機会はないと諦めていたが、今年のアンコール上映の演目に登場し、ついに私は接することができた次第である。9月末の平日というのに、結構な人数が映画館に来ていた。私も仕事を終えてから駆け付けた。1幕しなかいので特典映像は少なく、たった2時間で終わる。

サロメを歌ったのはカティア・マッティラ(ソプラノ)である。この作品は1にも2にもサロメなので、その緊張感は例えようもない。終始声を張り上げるサロメを野球の投手に例えると、1回から飛ばすと9回まで持たない。一方、そのほかの役、例えばヘロディアスを歌ったイルディコ・コムロージ(メゾソプラノ)は、一見、サロメより安定した素晴らしい歌唱に思えるのだが、これは登場する時間がそもそも違うのである。言ってみれば、数回投げればいい中継ぎ投手のようなものだ。ヨカナーン役はユーハ・ウーシタロ(バス・バリトン)で、この役は囚人として井戸に閉じ込められているという悲惨な状況から、醜悪でみすぼらしい容姿と決まっている。そのことが強調されればされるほど、サロメの異常な性欲が強調される。

サロメに次いで歌の多いのが、ヘロデ王である。この役はテノールでありながら、美男でもなければ軽薄でもない、という珍しい役。キム・べグリー(テノール)は、透き通るような声であるが、なかなか良く似合っていると思った。サロメは、やはり後半、特に「7つのヴェールの踊り」の後に重心を置いて歌ったのだろう。この踊りだけでも、相当な見せ場であることに違いはない。歌手はまず声だが、踊りのシーンで失敗を許されるわけではないのだから、このシーンの後では歌に全力投球ができる。出来栄え云々というよりも、全力投球の演技に見ている方も鳥肌が立ってくる。

生首は吊り下げられて井戸から登場する。それを銀の皿に乗せて弄ぶ常軌を逸した少女の異常性愛に、狂気と戦慄を覚える。サロメの陶酔を強調する音楽は、長大なモノローグの間中、鳴り止むことはない。

物語は2000年前のパレスチナでる。通常は暗い居間で繰り広げられるが、このたびのユルゲン・フリムによる演出では、何か現代風のサロンである。中央に螺旋階段があって、全体的に明るく、おどろおどろしい感じがしない。またパトリック・サマーズによる指揮も、なぜか控えめで音楽が前面に出てくる感じではない。そういうことから、残念ながらこの舞台は、私の中ではあまり感心した方ではないのが正直なところである。なかなかサロメを歌うことのできる歌手はいないのかも知れないが、そろそろ新しい演出、歌手での舞台が待ち望まれるところではないだろうか?

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...